第18話

 カーテンから複数の光の筋が薄明るい室内にもれている。僕が目を覚まして最初に視界に飛び込んできたのが、その光景であった。時刻を確認すると、朝の七時をとっくに過ぎていた。青ざめながら飛び起き、急いでイェンスといつも待ち合わせる場所へと向かうも、彼の姿はとっくに無かった。不安から、いつもより早い速度で走って彼の姿を探す。すると、もう少しで折り返しというところで、通りの向こうから彼が走って来るのが見えた。

「おはよう、クラウス」

「ごめん、寝坊してしまった」

 僕が申し訳なさそうに返すと、彼はやわらかい眼差しで僕を見つめながら言った。

「気にするな。実を言えば僕も寝坊して、慌ててアパートを飛び出したんだ。どこかで君に追いつくかと思ったけど、その差はたいしたこと無かったみたいだな」

「そうだったのか。じゃあ、僕もいつものコースを走って帰るから、またあとで会おう」

「それなら、僕も付き合おう。今帰っても中途半端に時間が残る」

 彼はそう言うと、再び僕と一緒に走り出した。彼の何気ない優しさは、またもや僕の心にあたたかくしみていった。

 アパートに戻ると八時近かった。シャワーを軽く浴びて着替え、昨日の帰りに買った朝食を食べる。後片付けも済ませて窓から外の様子を伺っていると、イェンスから少し早いが公園に行ってみないかと電話が入った。すっかり身支度を整えて手持ち無沙汰気味であった僕は、快諾するやいなや戸外へと向かった。

 アパートの入り口で寒風に吹かれながら少しだけ待っていると、すぐにイェンスがやって来た。

「行こう」

 微笑んだイェンスにうなずいて返す。僕たちは逸る気持ちを踏み出す足に乗せて公園へと向かった。

 その公園に到着した。時間が早かったため、シモとホレーショはまだ来ていなかった。そこで他愛も無い話をしながら彼らを待っていると、ほどなく僕たちのスマートフォンにシモからメールが届いた。

「あと五分ほどで到着する、だってさ。年末に会って以来だ。楽しみだね」

「本当だな。しかも、今回は彼らと一緒に出掛ける機会もある。ユリウスには感謝の言葉しか思い浮かばないな」

 イェンスの緑色の瞳がきらめく。風がいったんおさまり、太陽がやわらかく僕たちを照らし出した。ふと無言になり、道路の奥をじっと見つめる。そこには、こちらに向かって来る黒い車があった。僕は逸る気持ちのまま、その車が近付いてくるのをじっと見守った。やがて目視でも車内の人物の表情が伺えるまでになった時、運転席と助手席にいた男性らがサングラスを外して僕たちのほうを見た。

「シモ、ホレーショ!」

 僕たちは思わず大声で呼びかけた。彼らは車を停めるなり笑顔を見せ、仕草で車に乗れと合図をよこす。そこで早速僕たちが車に乗り込むと、シモもホレーショも笑顔で振り返りながら「久しぶりだな」と話しかけてきた。

「そうだね、年末以来だ」

 イェンスと僕とでめいめいに挨拶を返し終えた時、シモが少し笑いをこらえながら言った。

「よし、口頭照会用のパスワードを言え」

 しかし、彼は何も差し出しておらず、目に見える範囲でもそれらしい機器は見当たらなかった。

「でも、専用の端末が無いんだけど。それとも心が清らかな人にしか見えないやつ?」

 困惑から出た僕の言葉に、シモは笑いながら「冗談だ」と返した。それを聞いていたイェンスとホレーショも吹き出すように笑った。

「あんまり笑わすなよ。事故ってもお前らは助けねえぞ」

 ホレーショが前を見ながら吠えたのだが、動き出した車の動きはなめらかそのもので、非常に安心できるものであった。

 さすが、幾重もの過酷な訓練と試練を超えてきた警護のプロは冷静さをすぐに取り戻すのだと唸っていると、赤信号で停車したホレーショがもう一度振り返って話しかけてきた。

「おい、お前ら。たっぷり金は持って来たんだろうな? お前らにたくさん奢らせるつもりだから、覚悟しとけ」

 「今日の晩は、アウリンコの中でもかなり高級なレストランを、お前たちの名前で予約してある」

 「あいにくですが、ユリウス将軍がなるべく手ぶらで来いとおっしゃったので、財布も残高も充分軽くして来たのです」

 イェンスがシモに当意即妙に返したのだが、それでもシモは余裕ある表情を崩さなかった。

 「そうか、それは残念だ。お前らの給料がまるごと差し押さえられるだけだからな」

 「俺たちはその気になりゃ、執念深く取り立てるぞ」

 ホレーショの口調もまた、どこまでも朗らかであった。

 信号が青になり車が進み始める。話題は彼らの近況報告へと移った。それがきっかけとなってシモがとある話を始めた。その内容は彼らが任務中に知り得たことなのだが、守秘義務違反というほどのことでも無い、非常に些細な出来事であった。それでも、普段は全く触れることが無い別世界の視点が新鮮であったため、僕たちは非常に興味深く聞き入った。

 「それで、お前らはどうなんだ? その様子じゃあ、変わったことは無さそうだな」

 そこで僕たちはまず、先月観賞したクラシックコンサートのことを話した。それを受けてシモが以前観劇した時の感想を話し出す。そこから運転中のホレーショが、前方を気に掛けながらも地方国の名門オーケストラの演奏会にユリウスが招待された時、警護に対する労いとして両隣に彼らを同席させたことを語り出した。

 その演奏会は毎年新年に行われ、世界中に中継されて放送される有名なものであり、僕が今年初めてテレビで観たあのコンサートであった。

 「あの時は感動した。伝統あるオーケストラの素晴らしい演奏を間近で鑑賞できたのだからな。あれがきっかけでクラシックに興味を持ち始めたんだ」

 ホレーショがしみじみと言ったことに、シモがうなずきながら言葉を続けた。

 「将軍が並んで座るようおっしゃった時、そのお心遣いだけですでに身に余る光栄だったのだが、俺たちはそもそも客じゃないうえ、将軍は演奏会に招待した方々とご一緒だった。その点を抜きにしても、俺たちが将軍のお言葉に甘えて警護という責務を放棄しては、将軍の警備が緩いという印象を他に与えかねない。しかし、将軍は全責任を取るからとおっしゃると優しい笑顔を向けられ、続けてこうおっしゃったのだ。『以前からそうしようと考えていた。これは私からの感謝の気持ちだ。先方の了承も得ている。だから、ぜひ気にせずに受け取ってほしい』。あの時、将軍は連日連夜の会合やら何やらで、少しお疲れのように見えた。それなのにもかかわらず、俺たちを気遣ってくださったことに俺もこいつも心から感激したんだ。そこで、わざわざ特別な席を設けてくださった将軍のご意向を汲み、万一の時は喜んで体を差し出すつもりで、将軍を挟む形で並んで鑑賞した。あれは本当に貴重な体験だった」

 僕はいかに彼らがユリウスに気に入られているのかを知って、あたたかい気持ちになっていた。いろんな人たちの協力があったからこそ、ユリウスの優しさと感謝の気持ちがシモとホレーショに届けられたのであろう。そのことが深く理解できた今、僕はまるで自分のことのように喜んだ。

「ねえ、イェンス」

 僕は思ったことを率直に彼に伝えた。それを聞いて彼は軽く微笑み、「実は、僕も同じことを思っていたんだ」と返した。しかし、いつもの彼と違って様子がどこか固く、そのまま押し黙ってしまった。

 僕はそのまま流そうかとも思ったのだが、ふと思い付きで、イェンスにその有名なコンサートを鑑賞したことがあるのかと尋ねた。その途端、彼の長いまつげが緑色の美しい瞳を半分ほどまで覆ってしまった。

 「二度ほど家族と鑑賞したことがある。感動するほど本当に素晴らしい演奏だったよ」

 そう言うとイェンスは遠慮がちにまぶたを上げ、僕を真っ直ぐに見た。

 彼は以前、子供の頃からすでに周囲と自分との違いに苦しみ、彼の家族も彼の秘密を秘匿することに苦労を重ねてきたことを打ち明けていた。それでも以前は、家族と一緒に地方国での音楽鑑賞を楽しんでいたのである。いや、単純にそう言い切れる状況ではなかったであろう。彼は家族の中でも浮いた存在であった。それでも目の前で繰り広げられるオーケストラの美しい音楽と優れた演奏の調和とが、心労の絶えなかった彼の心に一時でも安らぎと喜びとを与えていたのではなかったか。

 イェンスの言葉の背後に当時抱えていた悲しい彩りを感じた僕は、複雑な気持ちで彼を見つめ返した。

 「だから、今度は君と一緒にそのオーケストラの演奏を鑑賞してみたいと考えているんだ」

 思いがけない誘いの言葉に喜びつつ、彼が見せた気遣いを僕は即座に理解した。彼の言葉は本心であり、おそらくは僕の質問を気にしていないという意図も含んでいるのだと考えた。

 「ありがとう。その日がそう遠くないといいのだけど」

 僕は彼の眼差しが再度曇らないよう願いながら微笑み返した。もし、そのような体験をイェンスと一緒にできたなら、実に素晴らしいことではないか。

 ふと、シモとホレーショが僕たちの会話に加わっていないことに気が付いた。彼らの耳にもイェンスがそのコンサートを鑑賞したことがあるという話は届いているはずなのだが、同じ経験を共有しているにもかかわらず、彼らは前方で違う話をし始めた。僕は彼らが初めて僕たちに会った時、すでに彼らの権限を用いて僕たちの表層的な身辺調査を済ませているだろうことは確信していた。そのことによって、イェンスがグルンドヴィ家の出身であることも簡単に照合できたはずなのだが、思えば彼らがイェンスにそのことを尋ねてきたことは一度も無かった。いったいそれはなぜなのか。

 次の瞬間、僕の中に直感が湧き上がった。おそらくその理由は――。

 「どうしたんだい、クラウス」

 イェンスが不思議そうな表情で尋ねてきた。それを聞きつけたシモまでもが話を途中で止め、わざわざ振り返って僕を見る。やはり、彼らに先ほどの会話が聞こえていないわけではなかった。僕は咄嗟に「何でもない」とイェンスに返すとシモを見た。

「まさか車酔いしているわけじゃないだろうな」

 シモはややおどけた口調で僕をからかった。僕が言葉を返すより先に、ホレーショがわざともったいぶった口調で言葉を挟んだ。

 「俺の極上の運転技術を何度も体験しておいて、今さらそれは無いだろう」

 「さっきの停車の時、ブレーキの踏み方が雑だったぞ。それだな」

「ばれていたか、全く油断も隙もありゃしねえ」

 ホレーショが素の口調でつぶやく。どうやらシモの言葉はホレーショをからかったものではなく、事実のようであった。シモのその鋭い洞察力に脱帽しながらも、僕はホレーショの言葉がおかしくて、つぶやくように本音を漏らした。

 「シモもホレーショも本当に優しいんだね」

 次の瞬間、シモが勢いよく振り返って驚いた表情で僕を見つめ、ホレーショに至っては急に咳き込み始めた。それを受けて慌ててシモがハンドルに手を貸したのだが、ホレーショはなおもむせており、イェンスにいたっては僕の隣で笑い転げていた。

「はあ?!」

 ホレーショの吠える声が車内に野太く響く。それがツボにはまったのか、シモまでもが腹を抱えて笑い出す。そうなるといよいよ僕はなぜこのような展開になってしまったのかがわからず、押し黙るしかなかった。

 「クラウス、君は最高だな」

 「まったく同感だ」

 イェンスの言葉にシモがうなずいて返す。その彼らの瞳があまりにも優しかったので、僕はやや当惑した表情で彼らを見つめた。

 「おい、クラウス。運転中に変なことを言うな。事故ったらどうするんだ」

 ホレーショは車を路肩に停めてから振り向きざまに言った。

 「お前がいったいなぜそう思ったのかはわからないが、それでもありがたく受け取っておこう。だが、次にそれを言いたくなったら運転中以外の時だ。危うく平常心を失うところだったぞ」

 彼はわざと片眉を上げたのだが口の端はゆるんでいた。

「平常心ならとっくにドブに捨てただろう?」

 シモが茶化す。

「全くだ、どうもこいつらと一緒だと調子が狂うな。絶対こいつら、俺たちのことを単なる運転手だと思ってやがる」

 「まさか。僕たちは一度もそういう風に思ったことなんかない。君たちが普段は冷静で、優秀な警護をしていることぐらい簡単に想像がつくよ。だって、あのユリウス将軍立っての希望で君たちを側に置いているんだもの」

 僕はやや控えめな口調で反論した。すると、シモとホレーショが今までにない美しい眼差しで僕を見つめたのだが、彼らはすぐにもったいぶった表情を浮かべて「当然だ」と言って前方を向いた。その後ろ姿からは彼らの誇り高さと優しさとがにじみ出ており、それ以上は何も言わずに車を動かしたホレーショの雰囲気一つをとっても、僕は彼らのあたたかさを感じていた。

「君はやはり最高だな」

 イェンスはそう言うと僕に寄りかかった。

「そうかな?」

 僕がつぶやくように返したからか、彼はそれ以上何も言わなかった。僕もまた何か言おうとは思わなかった。この素晴らしい雰囲気に受け入れられただけで、僕は満足していた。

 車内にしばし沈黙が流れる。走行音や街の喧騒だけが静かさを打ち破っていく。車はアウリンコに上陸しており、ユリウスの家も間もなくであった。僕はイェンスに肩を貸したまま、車窓の風景に目をやっていた。

「お前たちの仲の良さはどこか清々しいな」

 不意に、バックミラー越しにホレーショと目が合った。そこにシモが優しい眼差しで振り返りながら、さらに付け加えて言った。

 「説教くさいかもしれないが、友情は大切にしろよ。議論も口論も何度でもして、ぶつかってもいいんだ。お互い遠慮していたら得るものは少ない。だが、礼儀だけは決して忘れるな。こっちとしてはふざけているつもりでも、相手の調子が整っていないだけで悪意と受け止められることはざらにある。お前たちならそんな心配は無用だろうがな」

 「ありがとう、シモ。君の言うことを大切に受け取った」

 「ありがとう、シモ。君の言うことはもっとも大切なことだ」

 僕とイェンスの声が重なる。

 「説教くさいことを言い始めたら、中年に片足を突っ込み始めたも同然だな」

 ホレーショがシモをからかった。しかし、シモは応じることなく落ち着いた口調で返した。

 「俺はこいつらからしたら、とっくに両足を突っ込んでいると思われているさ」

 それを聞いた僕は思い切って彼の年齢を尋ねた。すると、シモは少しはにかんだ様子で「三十四歳だ」と答えた。僕はもう少し若いと考えていたので、彼の年齢を聞いて非常に驚いた。

「四十までは警護の仕事を現役で務めたいと考えているが、ユリウス将軍の身の安全を考えれば、もっと早くに退かねばならないだろう。若くて体力のある優秀な奴らに譲れば、さらに将軍の安全が確保されるからな。だが、この仕事には俺の誇りと生き様そのものがつまっている。天職と言えるほど身の程知らずじゃねえが、それでも俺はかじりついていたいんだ」

 思ってもみなかったシモの言葉に、かける言葉が見当たらなかった。しかも、彼の口調はやや自嘲気味であった。なぜ、シモは突如としてそのようなことを言ったのか。

「そんなことはない」

 その時、ホレーショが控えめながらも力強い口調でシモの言葉を否定した。車はユリウスの家の前のゲートに着いていた。

「あんたが現役で警護を続けていくことは、俺にとっても希望だ。あんたなら四十でも最前線での活躍を見せることができる。だから、俺に追いかける背中を見せてくれ」

 ホレーショはそう言うとじっとシモを見つめた。

 思いがけなかったのであろう。シモが心から感激し、あふれ出す喜びを必死にこらえているのがわかった。シモがなぜあのようなことを言ったのかは依然として不明であったものの、僕には全ての流れが大切な意味を持っているように思えてならなかった。

 事情を知るはずもない警備担当の男性が、口頭での身分照会をシモに要求する。それを受けてシモがあっという間に感情を切り替え、冷静な口調で対応していく。その切り替えの早さに感嘆しているうちに、ホレーショが警備担当者らに僕たち二人がユリウスの家に泊まることを説明し始めた。すると彼らの動きが一様に止まり、やや驚きの表情を浮かべながらスモークガラス越しに僕たちを凝視しているのがわかった。

 彼らもまた、かつてのシモとホレーショのように困惑を感じているのだ。ふとそう考えた瞬間、急に彼らに対して申し訳なさが募り、僕は思わず反対側に視線をずらした。

「かしこまりました」

 若い男性の声が静かに飛び込んでくる。その落ち着いた口調から警備担当者の様子を伺うと、彼らはとっくにいつもの精悍な顔付きへと戻っており、何事も無かったかのように元の構えを取っていた。

 やはり彼らもプロなのだ。

 咄嗟に視線をずらした自分の幼稚さを恥じる。そもそも濃いスモークガラス越しでは僕たちの様子など不明確であったのかもしれないのだが、相手の力量を低く見誤る自分の軽薄さを痛烈に批判せずにはいられなかった。

「あの警備担当者は冷静で、素晴らしい仕事ぶりを発揮していたね。彼らもまた、厳しい訓練に耐え、高い競争倍率をくぐり抜けてきたからこそ、あのように使命感を誇り高く掲げて凛々しくいられるのだろうね。クラウス、君もそう思っていたんだろう?」

 イェンスが話しかけてきた。彼は僕とは真逆に、警備担当者の表面からはうかがい知ることのできないドラマを感じ取っていた。そうなると自己の卑小な思考の掘り下げがますます悔やまれたのだが、ユリウスとの再会を目の前にして場面をいたずらに乱すわけにもいかず、ひとまず彼の言葉に合わせて大きくうなずいて返した。

「君ほどそこまで深くは考えていなかったけど、たしかにそうだね。君のおかげで僕はまた気付かされたよ。彼ら一人一人の人生にも壮大なドラマがあるのだから、本当に感慨深いよ」

「お前たちは本当にそこらへんの同じ年齢のやつらと違うな」

 突如としてシモが会話に参加してきた。

「表面だけを見るのではなく、どこか奥深さを感じさせる視点を持っている。相手を一個人として受け入れることを当然のように処理している。だからこそ、ユリウス将軍と短期間で親しくなれたのだろうが、お前たちはやはり……」

 だが、彼はそこまで言うと言葉を濁して黙ってしまった。

「いや、なんでもない。今のはただの感想だ。気にするな」

 前方から流れてきたシモの声はか細かった。ホレーショは一言も発さずに運転を続けていた。

 彼らは僕たちに何か思うところがあるにもかかわらず、何も言えないのではないのか。ふとそんな直感に支配されると、途端に『溝』のことが気になってしまった。

「……夕方、また君たちと再会して一緒に食事を取ることを心から楽しみにしているんだ」

 僕は彼らを見ながら言った。その時、ユリウスの家の玄関前にちょうど車が到着した。

「俺たちも楽しみにしているさ。おい、お前ら、絶対俺たちのこと気にするなよ。シモも俺も詮索したいんじゃない。お前と同じく、ただ感じたことを言っただけだ。それに、お前たちが俺たちに心を開いているぐらいのことは理解している」

 ホレーショが僕たちを振り返りながら静かに言った。その彼の瞳には、あの美しい光が微かに放たれていた。

 彼らがいったいどんな思いでそれらことを言ったのか。僕が彼らの言葉を少しの感傷を持って受け止めたその時、玄関のドアが静かに開いてユリウスが現れた。

「いいか、絶対俺たちのことを気にせず楽しめ。夕方になれば、嫌でも会うんだからな」

 ホレーショが急に声色を低くし、脅すかのように言った。

「そうだ、貴重な時間を大切に使え。努めていい時間を過ごすんだ」

 シモまでもが凄むように言ったので、イェンスも僕もなるべく明るい口調で感謝の言葉を伝え、笑顔を見せながら車を降りる。おそらくイェンスも車内に不穏な空気を残したくはなかったのであろう。

「よく来たね。クラウス、イェンス。シモ、ホレーショ、ありがとう。夕方連絡を入れるから、その時また頼む」

 ユリウスが微笑む。シモとホレーショは後ろに下がっており、目が合うなり僕たちに目配せをして真っ直ぐに前を向いた。僕たちは彼らの意志を感じ取り、「ありがとう」と改めて力強く彼らに伝えてからユリウスと一緒に家の中へと入った。

「君たちはまた、ずいぶんと親しい時間を彼らと過ごしたようだな。彼らもすっかり君たちを気に入っている」

 ユリウスが笑顔を浮かべながら話しかけてきた。

「そのことでクラウスがいい仕事をしてくれました。彼らに『本当に優しい人たちだ』と僕の気持ちをも代弁してくれたのです」

 イェンスが微笑んでユリウスに返したので、ユリウスは興味深そうな顔付きで僕たちを見た。

「昼食の準備をしながら聞こうじゃないか」

 彼はダイニングキッチンに僕たちを案内するとイスに腰かけるよう勧め、彼自身は調理を始めた。

「では、僕の近況を簡潔にお伝えすることから始めましょう」

 イェンスが実家に帰省した時に体験したことを話し出す。ユリウスは作業の手を時々休めながら、真剣な表情でイェンスの話に聞き入っているようであった。

「それは大変な思いをしたね。つらかっただろう」

 ユリウスのイェンスに対する眼差しは憐れんでいるようには見えず、ただ同じ境遇を共有してきた者同士としての深い気持ちが込められているように思われた。それゆえ、イェンスが感涙した表情で感謝の言葉をユリウスに伝えたのであろう。僕はそのやり取り全てを静かに見守ることで、彼らに対して敬意を示していた。

「それで君は? 何か特別なことがあったから、シモとホレーショに彼らが優しいと伝えたのだろう?」

 不意にユリウスが優しい眼差しで僕を見た。

 なぜシモとホレーショが優しいのか。どうしてそう感じたのか。

「僕は――僕はすごく特別な経験をしたから、彼らに対してそう感じたのではありません」

 ユリウスの問いかけに応えようとしたその時、あの悪癖が出てしまった。僕は彼らが優しいことを感覚で得ていることに気が付き、言葉に詰まってしまったのである。筋立てて説明するには、もう少し思考を練る必要があった。

 眉間にしわを寄せて思考を手繰りながら言葉を探している僕の様子を見かねたのか、イェンスが僕の肩に手を置いてきた。彼は僕の耳元で「代わりに言ってもいいかい?」と尋ねてきたので、僕は微笑みを浮かべている彼に潔く代弁を頼むことにした。

「クラウスが優しいと言ったのはおそらくこういう意味でしょう。彼らは僕たちに初めて会う前に、最低限の身辺調査は済ませているはずです。その際、僕の実家についても当然情報を入手している。しかし、彼らはそのことについて一度も尋ねてこなかった。成人したグルンドヴィ家の者がドーオニツで一人暮らしをしているだけで、何か事情があると推測できたはずです。それでも僕の家族の話をした時も、彼らはあえて聞こえない振りをして、探りを入れるようなことは何も言いませんでした。クラウスはそのことに気付いて感嘆したのだと思っておりました」

 彼の言葉があまりに的確に僕の考えを捉えていたので、「代弁してくれてありがとう」と伝えてからユリウスを見た。

「さすがだな、イェンス。彼らが君たちに対して身辺調査入れたのは確かだ。あの時は準備期間が短かったため、彼らだけの権限で調べられる範囲の情報を得てから君たちと初めて会ったはずだ。その後、改めて上長の許可を得て君たちを調べ直したかは定かではないがね。いずれにせよ、そこからそのような思いを抱けるとは素晴らしい。実は、私も同じように思っていたのだよ」

 ユリウスはしきりに感心しているようであった。しかし、多忙を極めるユリウスが一人でずっと調理しているのをただ眺めているものだから、だんだんと心苦しくなってきていた。なるほど、僕たちは客人なのかもしれないが、彼の好意を本当に手ぶらで受け取って良いものなのか。同じように感じていたのか、イェンスがそのことで僕に耳打ちする。そうなると僕たちはいてもたってもいられず、ユリウスにはっきりとした口調で手伝いたい旨を申し出た。彼は一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐにあたたかい笑顔を浮かべ、首をゆっくりと横に振ってから言った。

「せっかくだが、腕によりをかけるべくこの作業を楽しんでいるのだ。だから、気持ちだけ受け取っておこう。ありがとう」

 彼の眼差しには純粋な喜びが表れていた。そこで僕たちはすんなり諦め、彼が調理している様子を改めて興味深く見守ることにした。

 まるで魔法のように次々と料理が出来上がり、あっという間にテーブルに敷き詰められていく。イェンスもそうなのだが、どうして天は惜しみなく彼らにいくつもの才能を与えたのか。才能に乏しい僕としては、ただただ感嘆するしかなかった。

 ユリウスの勧めで早速豪華な昼食会が始まる。飢えていたこともあり、彼の料理は僕の味覚に至高の喜びと幸福とを軽やかに与えていった。イェンスが調理方法を尋ね、ユリウスが嬉しそうに説明する。僕は二人の熱心な会話を聞きながらも目の前の芸術に心と胃を奪われ続け、食事が終わった後も僕の体内へと消えていった芸術に想いを馳せるほどであった。

 食後にユリウスが紅茶を勧めたので、今度は美しいカップに注がれた香り高い紅茶を味わう。その味もまた、甘美な世界にひたれるほどの美味しさがあった。どうやら僕は最初から最後まで美食の世界に身を置いていたらしかった。

「後で君たちが泊まる部屋を案内しよう」

 紅茶を飲み終えたユリウスが穏やかな笑顔を浮かべながら言った。

「本当に感謝しております」

 イェンスと僕とで何度も心を込めて感謝の言葉を伝える。それは今の僕たちにできる精一杯の誠意であった。それでもユリウスは微笑みを絶やさず、「気を遣うな、自分の部屋のようにくつろいでほしい」と言うものだから、ユリウスの全てが僕には到底敵うことのできない、尊いものであることを改めて感じていた。

 それからほどなく、ユリウスは僕たちを二階へと案内してくれた。彼は贅沢な客間を二部屋見せたかと思うと、「好きな方を使ってくれ。着替えも身だしなみを整えるものも全てクローゼットに入っている」と朗らかに伝えた。

 あのユリウスが、いったいどのようにして客間の整え、またその後片付けをするのか。そのことを考えただけでも感激に打ちひしがれる。今度こそ何か具体的なお礼をしようと、僕はユリウスを真剣な表情でみつめた。

「本当にありがとうございます。あの、この部屋の準備をするのも大変だったと思うので、やはり僕に……僕たちに何か手伝わせてください。掃除とか、僕にできることなら」

「僕のほうからもお願いします」

 イェンスも追従して言った。しかし、ユリウスは相変わらず穏やかな表情で僕たちを見つめていた。

「ありがとう。だが、掃除や洗濯などは信頼のおける業者に頼んである。君たちが気に掛けることは何一つないのだ。さて、私の要望どおり、君たちには再び客人になってもらおう」

 ユリウスはそう言うと、彼が自身の能力を確かめるために使用している部屋があるらしく、僕たちをそこに案内し始めた。そこは運動器具が並んでおり、人工岩でできた壁でボルダリングができるようになっていた。

「ここは頑丈に作ってもらったから、君たちが自分自身の能力を確かめたいのであれば、自由に使ってもらって構わない」

 ユリウスはそう言うと、太く大きいスプリングが取りつけられたハンドグリップを手に取って軽々と握り締めた。

「鍛錬を重ねて将来に備えているのですね」

 イェンスがまじまじと室内を眺めながら言った。

「そうだ。本当の私に戻った時に少しでも能力を伸ばしておきたいものだから、往生際悪くもがいているのだよ」

 ユリウスは朗らかに笑いながら言葉を返した。しかし、すぐ真剣な眼差しに戻ったかと思うと突如として後方転回を二度続け、それから壁を蹴って駆け上がってから鮮やかな宙返りを披露した。

 イェンスと僕がそのあまりの軽業に驚いて言葉を失っていると、息をはずませることなくユリウスが戻って来て、笑いながら言った。

「この程度で驚かれては困る。普通の人間でも素質さえあれば、これぐらいなら軽々とこなせるぞ。地方国が発祥のスポーツに、トリッキングというものがある。君たちの身体能力ならすぐに楽しめるだろうし、いい運動にもなるだろう。あまりやると目立つが、もし有り余る体力を感じているなら、それをやるのもお勧めしよう」

「それなら、以前たまたま動画サイトで見かけましたが、本当に僕にもできるのでしょうか?」

 僕はにわかに信じ難く、またしても疑ってかかったのだが、ユリウスは微笑みを絶やすことなく答えた。

「ためらいがあると恐怖を生むが、自信があれば成功を導きやすい。君は自分の能力にまだ気付いていないだけだ。それを伝えるためにこの部屋に連れてきた。イェンス、君は自分の能力をある程度把握しているが、単純に能力の使用方法がわからず、ためらっているように見える。この動作が楽に行えると、エルフの村に行った時に君たちの助けとなるはずだ。エルフの村がある辺りの地形は起伏に富み、人間の視点からすると非常に高い身体能力が求められる。魔力以前に立ちはだかる問題となるのだ」

 ユリウスはそう言うと、以前訪れたルトサオツィが住むエルフの村や妖精たちが住まう場所の地形の険しさについて語り始めた。彼の高い身体能力を持ってしても、いかに困難が待ち受けていたのかを彼が淡々と話しているのを聞きながら、自然の脅威が織り成す造形美を想像し、異種族が住む世界に思いを馳せていく。

「異種族が暮らす地域全帯を軍が監視し、不審者の接触および侵入を排除しているのだが、それには険しい自然に人間が迷い込む事故を未然に防ぐという観点もある。あの辺りは普通の人間には本当に厳しい環境だからな。ちなみに空から入ろうとすれば、その領空のはるか手前で軍の偵察機から警告を受けるし、万一突破できたとしても着陸はできない。エルフや他の異種族の返り討ちに遭うからね。彼らはルールを破る不審者には容赦しないから、怪我こそ負わないがひどい目に遭わされるだけだ」

 「その手の事件は毎年起こっているのですか?」

 僕は興味深く感じたので、会話の本筋からさらに脱線することを理解しながらも、あえてユリウスに尋ねた。すると、彼は一呼吸を置いてから真剣な表情で答えた。

 「残念だが、全く無いわけではない。地方国で組織された特定の目的を持った勢力が接触を求めて近付くこともあるが、多くは個人の冒険家や少数の金持ちが興味本位や自分を権威づけるために近付くのだ。ドラゴンの住む島も同じだ。その度に軍が出動している。突破されたことはないが、突破したところで彼らを満足させるものは何一つ無い。異種族はそう思わせるために、ためらうことなく魔法を使用するだろう。だが、目的は怪我を負わせることではなく、自分たちへの興味をそぐためだ。つまり命がけで侵入しても記憶を消されるか、つまらない場所だと暗示をかけられて戻されるだけなのだ」

 「異種族のほうが、はるかに高い見地からその人間にとって一番被害の少ない対応をしているのですね」

 イェンスの真面目な口調に、ユリウスは表情を崩して微笑んだ。

 「そのようだ。不要な争いを避けたいのはお互いに当然だろう。しかもその争いに人間は永遠に勝つことができない。共生するには以前も話したとおり、何もかもが違いすぎて不可能に近い。仮に再び同じ地域で暮らしたとしても、魔力が無いために見えない世界を把握できず、また理解もできない人間を相手にして異種族が精神的に疲れ、自然と距離を取るようになるだろう。しかし、彼らならそれだけで済むだろうが、人間はそうはいかない。魔力によって身体が蝕まれるかもしれないからだ。そのことを伝えれば、必ず異種族に脅威を感じて排除しようとする輩も出てくるのだが、彼らは自分がいかに低い視点から争いの種をばら撒いているかには全く気付けない。そういうことも避けるためにも意図的に異種族を遠ざけ、彼らのことを秘密にするのも仕方のないことだと私は考えている。住み分けさえできていれば、お互いに関心も薄れ、日々の生活を穏やかに送ることができる」

 僕はユリウスの言葉に大きな共感を覚えた。間近でお互いを否定し合うのではなく、それぞれの生活圏の中で満足し、干渉し合わないだけで全てが丸く収まるのだ。そのことをユリウスに伝えると、イェンスも追従して同意を示した。

 「君たちなら理解できるだろうと思っていたが、実際君たちがそういった反応を見せてくれると実に嬉しいものだな。――よし、早速だが始めよう。この部屋のものも自由に使ってほしい。自分の能力を把握することは、必ず君たちの役に立つはずだ」

 朗らかな笑顔を浮かべるユリウスに勧められ、僕は戸惑いながらも試してみることにした。器具に書いてある数値は、いずれも人間の男性なら驚異に値するものなのであろう。イェンスがそれらしいことをユリウスに伝える。僕は以前車を持ち上げたことを思い出し、こわごわとハンドグリップを握った。すると、少しの抵抗はあったものの、難なくそれを閉じることができたのであった。

 緊張と当惑を覚えてユリウスとイェンスを見る。しかし、彼らは終始落ち着いていた。

「他の器具も試してみるといい。君も間違いなく私たち側なのだからね」

 ユリウスの言葉に励まされ、せっかくだから能力の限界をいろいろ試してみようとしたその時、イェンスがダンベルの重量を確認してから持ち上げようとしているのが見えた。僕がその様子を注意深く見守っているうちに、彼がそのダンベルを軽々と頭上に掲げてしまったものだから、あんぐりと口が開いてしまう。イェンスがそんな僕を見て軽快に笑い、さらには「クラウス、君もやってみなよ」とあっさり勧めてきた。

 果たして僕にも可能なのかと咄嗟にためらったものの、意を決し両手に力を入れてダンベルを掴む。その時、ユリウスが「力を抜け、拍子抜けするぞ」と声をかけたので、助言どおりに少し力を抜き、重さを確かめながら持ち上げることにした。一つ息を吐く。少しの緊張を経た次の瞬間、僕はそのダンベルを高々と頭上に掲げた。

 ダンベルを慎重に降ろすなり、驚きのあまり両手をじっと見つめる。いや、僕の両手だけが持ち上げたわけではないのだが、なぜ、これほどまでの変化を、不器用な僕が今まで器用に対応してきたのかが不思議でならなかった。そうこうしているうちに、イェンスがユリウスの手ほどきを受けて軽やかに空中を舞う。僕がまたしても感心してその様子を観ていると、さほど息が上がっていないイェンスが「次は君の番だ」と、やや挑発的な眼差しで僕に言った。

 「まさか! そんなこと僕にできる気がしない。いくら筋力があったとしても、体のバランスとやわらかさが整っていないと無理だ」

 「クラウス、君はすでに重要な点に気付いているじゃないか。それなら話は早い。大丈夫だ、体のほぐし方とコツを教えるから君にもできる」

 ユリウスの言葉でさえ、疑り深い僕は半信半疑であった。しかしながら、彼から手ほどきを受けてイェンスがわかりやすく彼自身の体で要点を示しているうちに、不思議と僕の中にある能力に信頼が芽生えていく。

「今のことをそのまま試してみれば、君なら難なくできる」

 紫色の瞳が信頼の眼差しで僕を見ていた。そこで僕はイェンスが示した動作に自分を重ね、自分の体が軽やかに宙を舞っている様を想像した。

 きっとできる――。

 思い切って両足で地面を蹴って飛び上がる。天井と床があっという間にひっくり返ったのち、僕は少しよろめきながらも無事着地を果たしたのであった。

 「やった!」

 普通の人間でもできるというその動作も、以前の僕なら全くできなかったことであろう。いや、それは能力の問題というより、いかに自分自身を信じられるかということのほうが大きかった。

 僕は踏み出した新たな世界に身を委ねるかのように、続けざまにその世界を探求した。そのおかげからか、十数分後には自分の体のバランスや動きを客観的に把握できるようになり、より能力が加速して向上していくのを感じるほどであった。

 体が僕の思い描く動きに、しなやかに応えてくれる喜びの中で心地良い汗をかく。それだけではなかった。能力を上手に開放しながら体を動かしたことで、清々しい疲れが全身を駆け巡っていた。イェンスと僕はいよいよ床にへたり込んで座ったのだが、それでもみずみずしい充足感の中にいた。

「二人ともシャワーを浴びたほうが良さそうだな。それぞれの部屋には着替えを置いてある。もう二時間もしないうちに、シモとホレーショが君たちを迎えに来るからちょうどいいだろう。着替えたら、下に降りて来て軽く何か食べたらいい」

 ユリウスは二階にあるバスルームの場所を説明した。

 「ありがとうございます」

 僕たちは早速部屋に戻り、着替えを確認した。するとクローゼットには冬用のコートとフォーマルスーツ一式が掛けられており、シャツとネクタイと靴も手入れの行き届いた状態で揃っていた。さらには真新しい肌着と下着までもが棚の上に用意されていたため、僕はいよいよ手ぶらで来るようにと指示したユリウスの言葉を噛みしめるしかなかった。

 「君たちが今着ているものは洗濯に出しておこう。明日の朝にはここに届けられる」

 ユリウスの言葉に甘えてシャワーを交互に浴び、洗濯物を彼が指示した袋に入れてフォーマルな衣装に着替えを済ませる。一見しただけで上質だとわかるジャケットとズボンは驚くほど僕のサイズに合っており、馬子にも衣裳とはこのことかと思わせるほどの雰囲気を醸し出させていた。その嬉しさのあまり、隣室のイェンスのところへと向かう。すると、同じく着替えを済ませたイェンスが、僕を見るなり弾ける笑顔を浮かべて話しかけてきた。

 「驚いた、僕をまるで寸法していたかのようだ。シモとホレーショが僕たちの体格や足のサイズを目測で計算していたのだろうけど、さすがだな。しかも非常にいい品質のものだし、作りもしっかりしている。ということは、いよいよ僕たちが高級レストランで彼らをご馳走することになるのだろうね」

 「そうだろうね。見た目からおおよそのサイズを計測するだなんて、やっぱり彼らはすごいな。それでいくと、いったいどんな高級レストランに行くのだろう? それはそれで、すごく楽しみだ」

 「僕もさ。それにしてもそのスーツ、君によく似合っている。君と並んで歩くと光栄な気分に浸れそうだ」

 彼はそう言うと僕の肩に手を回した。彼の美しい瞳が間近で僕を捉えたうえに褒められたものだから、僕はつい照れてしまった。

 「ありがとう、イェンス。君もよく似合っているよ。雑誌か何かのモデルかと思うぐらいさ。それにしても今さらなのだけど、君のほうが僕より少し背が高くて体格もいいのに、どうしてユリウスは部屋の指定をしなかったのだろう? 僕たちがシャワーを浴びている間にこっそりと着替え一式を入れ替えたとは思えない」

 それを聞くなり、突然イェンスが笑いだした。

「クラウス、君と僕とで身長にも体格にもほとんど差は無いよ。君はずいぶん、細かいところまで気に掛けていたのだな。身長差があると言うわりには目線が同じじゃないか。オーダーメイドの服なら多少の違和感が残ったかもしれないけど、それでも同じような背格好なら、どちらが着ても同じことさ」

 「同じ目線? 君を見上げていたような気がしていたのだけど」

 「言っただろう、クラウス。君は自分を過小評価していると。そのうえ僕を過大評価していたから、僕を大きく見ていただけさ。試してみよう、僕の隣に並んでほしい」

 その言葉を聞いて僕は繰り返してしまったことを恥じるしかなかった。ひとまず彼の隣に並ぶのだが、答えはとうに出ていた。僕はずっと同じ目線の高さでイェンスと話していたのである。

「ごめん、僕はまた同じことを繰り返してしまった。しかも気付くのが遅すぎた」

「気にするな、たいしたことじゃない。さあ、リビングルームに向かおう。ユリウスがきっと美味しい差し入れを出してくれるに違いない」

 イェンスはどこまでもやわらかい微笑みを絶やさなかった。その優しさに感謝しながら、コートを片手にリビングルームへと向かう。部屋に入るなり、ユリウスが着替えを終えた僕たちを見て目を細めた。

 「やあ、ずいぶん似合っているじゃないか」

 彼は用意してあった一口サイズのサンドイッチとフルーツを勧めながら言った。

 「それにしても君たちは本当に容姿が整っているね。迂闊な場所は歩けないだろう?」

 ユリウスが明るい口調で尋ねてきたのだが、僕はユリウスこそがその人だと思っていたので、僕自身のことを遠慮がちに受け止めながらもそのことを彼に伝えた。すると彼ははにかんだ笑顔を浮かべて僕を見つめた。

 「ありがとう、クラウス。君たちのような美しさが私にある、と言ってくれるのは光栄だ」

 ユリウスはそう言うとイチゴをつまんで食べた。僕はその姿にやはり美しさを感じていた。ドラゴンの血が彼を魅力的にしているのか、彼の人柄がそうさせているのか、とにかく普通の人間にはない美しさが彼にはあった。

 イェンスがユリウスに目立つ容姿をどうやって上手に隠しているのか尋ねる。すると、彼はあっさりとした口調で答え始めた。

 「帽子をかぶるか眼鏡をかけるかぐらいだ。ここアウリンコでは特に暗黙の了解があって、私を見ても皆騒ぎ立てないようにしてくれているのでね。おそらくアウリンコ人としてのプライドからそうしているのだろう。そうでなければ、よく似た他人だと思っている節がある。それに外見で目立つ要素があるとしたら、この瞳の色ぐらいだ。イェンス、君には申し訳ないのだが、人目を惹く鮮やかな髪の色ではないからね。だが、君は自分の特徴に誇りを抱いているようだ。目立つ髪の色も瞳の色も、あえてさらけ出している君を見ていると、私はずいぶん勇気づけられる。どうだね、違うかい?」

 ユリウスの言葉にイェンスは驚いた表情を見せながら答えた。

 「まさしくあなたの言うとおりです。先日、クラウスにもそのことを指摘されました。僕は目立つことを理解しながらも、やはりこの髪色と瞳の色に僕の個としての存在を見出しているのです」

 「君の気持ちはわかる。君と君の特異性を結び付ける大切な印だからね。もし、それらを隠して生きざるを得なくなったら、その時は遠慮なく私を訪ねるがいい。万一の時には君たちを匿うつもりでいるのだ。もっとも君たちがそういう事態を招くようには思えないが、頭の片隅にでも留めておいてほしい」

 「あ……ありがとうございます」

「本当に感謝しております。今の僕の感激と安心感は言葉で言い尽くせないほどです」

 僕よりイェンスのほうがはるかに心のこもった感謝の言葉であったのは当然のことであろう。イェンスは新年早々に家族との縁を切った形になっていた。そのような彼にとって、ユリウスがどんなに心強い存在であるのか。いや、それは僕も同じであった。ユリウスの言葉は僕にも向けられているのだ。

 僕の変化がさらに進み、普通の人間には無い特徴が如実になって隠し切れなくなる――。その可能性がどの程度であれ、僕の変化を両親が受け入れられず、気味悪がることまでは覚悟した。しかし、僕のことが原因で家族間に軋轢が生まれる可能性を考えた途端、心苦しくなってしまった。過去にいろいろあった家族がせっかくまとまりかけてきている。それを僕がぶち壊してしまうかもしれないのだ。どれも非現実的とはいえ、いつかはその日を迎えてしまうのであろうか。

 「五時になったらシモとホレーショが迎えに来る。以前も話したとおり、私は君たちを見送った後に近くの知り合いの家に伺うのだが、他の大臣や地方国の代表も招かれているから、ある程度の時間はかかるだろう。それでも夜九時過ぎには戻って来られるはずだ。だが念の為、彼らには夜十時頃まで君たちを連れ回すよう伝えてある。私が不在にしている間、君たちが先に戻って留守番をしてくれるのは全く構わないのだが、万一外部の人に知られたら余計な詮索を与えかねない。君たちならこの意味がわかるだろう?」

 ユリウスの発言に、それまでの思考をいったん脇に置いてその意味を考える。彼の言葉は実に興味深いものであった。

 「短期間で信頼を得たドーオニツ出身の男性二人が、あのユリウス将軍の家で留守番をしている、か。噂になったら、人々が僕たちを奇異の目で捉えるのか、それとも何かしら勘ぐるのか。さっぱり見当がつかないな」

 僕がつぶやくように言ったことに、イェンスがさらに付け加えた。

 「中には下品な想像をする人もいるでしょうし、全く気にも留めない人もいることでしょう。ですが、あなたは知名度がずば抜けて高いうえ、人々に広く親しまれている。いずれにせよ、誰かの関心を招くことの無いよう、外出している間は会話内容に気をつけるようにします」

 「ありがとう、そのほうが賢明だろう。まあ、私の私生活を気に掛けるのは一部の暇な奴らぐらいだが、君たちが気に掛けているように、それが全く別方向の関心であれ、興味を持たれると私たちの秘密を保持するのが難しくなる可能性がある。むろん、今のところは不安要素が無いから、普段の君たちらしい振る舞いであれば大丈夫だろう」

 僕はユリウスの言葉を噛みしめた。すると面白い連鎖が発生していることに気が付いたので、たまらなくなってそのことを彼らに伝えることにした。

 「僕たちが秘密を保持するため、会話にも自分たちの振る舞いにも気を遣うようになる。当然、制限を課すことで窮屈に感じるから、さらにそのことで僕たちは分かち合うようになるだろう。そうなると僕たちの意向とは裏腹に、親密な関係に気付く者が現れる可能性が高まるんだ。でも、そこで詮索されてしまえばますます人間社会に居づらくなるから、今のうちに三人で協力しあって慎重な対応をしていかなきゃいけない。なるほど、僕たちが人間社会でずっと普通の人間として暮らしていくためには、気遣い・目配り・気配を消すの繰り返しが必要なんだね」

 「そのとおりだ。気遣い・目配り・気配を消すの繰り返しだ」

 ユリウスは神妙な面持ちで僕の言葉をつぶやいた。おそらくその一連の動作において、僕たちの心労が絶えることは無いのであろう。僕たちが秘密にしたいと考えている時点で、普通の人間に僕たちの秘密を打ち明けて他言しないことを強要するのは難しいのだ。

 しかし、相手がシモとホレーショであったらどうなのか。最初のうちは好意的に受け止めてくれても、いつかは人間とかけ離れた能力を持つ僕たちを気味悪く思うようになるのか。それとも最初のうちは協力的でも、やがて秘密を保持することに疲れ果て、望んで僕たちから離れていくのか。

 ずっと秘密のことをひた隠しにし、彼らが勘付いていることから目を逸らしたままで親しくしていられるのであろうか。それとも秘密を知った後でも親しくしていられる可能性はあるのか。全ての疑問において答えを導き出すことはもちろんなかった。

 「僕が折れることで丸く収まるなら、喜んで自分自身を低く見せるさ」

 イェンスが真剣な眼差しで言った。それを受けてユリウスが興味深げに僕たちを見つめた。

 「そこなんだ。君たちも私も、この能力を活かして他の人の上に威圧的に立とうとは考えない。私は立場上そう見えるかもしれないが、人間と異種族、そのお互いの世界を調和するためにはどうしたらいいのかを求めた結果が今につながっているだけにすぎない。しかも、この地位にいることで、自分自身の秘密を逆に隠すことができているのだ。かくいう私も、持っている特殊な能力が他の人間に知れ渡ることの無いよう、夜にもなれば大げさに疲れた表情を見せたり、重要でないことを物忘れしたふりをしては『寄る年波には勝てないのだな』とうそぶいている。そうでもしないと、今度は『若々しさを、能力を保つ秘訣を教えてほしい』と熱心に尋ねられるからね。いずれにせよ、この授かった身体能力と特殊な能力を使えば、私たちが協力し合うことを前提に、ある程度世界を意図的に動かすことは可能だろうと思う。かつてエルフたちが実際に行動に移し、またルトサオツィが魔法を用いずとも、政府に彼らの『異種族が住む領域を侵犯しない』という要求を守らせることに成功している事例に比べたら、ささやかな範囲だがね。しかし、決して私たちの能力に対する奢りと傲慢な思考から、その可能性を過信して判断しているわけではない。エルフたちに比べたら私たちはかなり劣っているが、人間の平均を超えた能力を有効かつ適切に活用していけば、必ず結果が残せる。それは優れた才能を持つ人間と同じことだろう。さて、君たちは今の話を聞いて、『それなら世界を意図的に動かしてみよう』と思っただろうか?」

 僕は思わず首を力強く横に振った。同じようにイェンスも即座に否定する。しかし、ユリウスが言わんとしていることに気が付くと、驚きのあまり紫色の瞳を見つめ返した。

 「そうだろう、私も同じだ。君たちはすでに気が付いたようだが、私たちは自分の能力を人間社会で目立つように使用したいとは考えないのだ。むしろ、目立たないようにするため、わざと能力を低く見せるか、あるいは私たちの存在自体を枯らそうとすることに注力する。自己をむやみやたらに卑下したり、否定することはしないが、華美に自己を見せびらかすことは好まないし、避けようとする。信じてもらえないかもしれないが、私は今の役職でもそう考えているのだ」

 僕はそれがなぜなのか、ふと直感が湧いた。その時イェンスが僕を見つめ、口を微かに開けた。

 「クラウス、君も気付いたんだろう?」

 「ああ、気付いた。だけど君に譲るよ。わかるんだ。君が言おうとしていることが、僕の言いたいことだってことをさ」

 僕はそう言って彼に微笑んだ。ユリウスがやわらかい眼差しで僕たちを見つめていたので、イェンスは驚きと喜びとが混じった表情のままで話し始めた。

 「僕たちが異種族の力を確実に受け継いでいるからだ! ドラゴンもエルフも他の異種族全てが、その高い能力や知能を用いて人間を直接の支配下に置いたり、意のままに操ろうとしていない。外殻政府や今の社会制度の基盤が異種族の提案に基づいていても、確かに異種族から常に厳しく監視されたり、不公平な干渉を受けているわけでもない。ルトサオツィがいい例だ。彼は人間社会にいる時、エルフとしての特徴や振る舞いを最小限に留め、むやみに力を振りかざしたり、能力を見せ付けることはしなかった。つまり、僕たちの思考はほぼ異種族のそれに基づいている、ということになるんだ」

 イェンスは弾んだ笑顔で続けた。

 「ルトサオツィが以前、僕が内面にもエルフの特徴を受け継いだと言ってくれた時は、にわかに信じがたくてきちんと受け止めなかったのだけど、そういうことだったのか! そうだとわかれば、まだまだ改善の余地はあるけど嬉しいよ。中途半端でもエルフの思考に沿っていれば、他のエルフと出会った時に僕にも気付きが得られ、学ぶ機会がますます増えていくだろうからね。それにこの先、人間社会でますます窮屈さを覚えても、僕たちの居場所に希望の光が灯されたことになる。いや、それどころかエルフの村でどこまで受け入れられるのか、試してみたい気持ちだ」

 しかし、彼は突然はっとした表情を見せ、慌てた様子で言葉をつけ足した。

 「ああ、興奮していたとはいえ、なんて大胆なことを口走ったんだろう! わかっているんだ、大それたことを言っているってことぐらい。それでも、ここで言うぐらいなら許されるだろう? 僕のちっぽけな憧れを笑って聞いてくれる大切な友が、二人もいるのだから」

 僕はイェンスの言葉を聞くなり、思わず彼を抱きしめた。彼もまた無言で僕を力強く抱き返す。彼が僕から離れた時、彼は美しい光を瞳に放ちながら幸福そうに微笑んだ。次にユリウスがイェンスを力強く抱きしめる。二人の体から喜びと安らぎとがあふれ出すようであり、その光景を僕は美しく受け止めていた。

 僕たちは異種族と人間との狭間で不格好に漂っている。そのことからお互いに慰め合っているだけなのだとしても、それでも似たような運命を共有する、世界中でたった三人の仲間がいる喜びと心強さに対して感謝が尽きることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る