第17話

 月曜日になった。通勤途中、後から来たイェンスに声をかけられ、一緒に会社へと到着する。すでに出社していたローネが、僕たちを見るなりすぐさま話しかけてきた。

「おはよう。ねえ、あなたたち、知っていた? ジャークがこの近くに戻って来たらしいの。今朝、この事務所の近くで彼を見たのよ」

 彼女の眉間には珍しく、不機嫌そうなしわが寄っていた。

 「おはようございます。あなたも彼を見かけたのですね。実を言うと、土曜日に彼と街でばったり会って話しかけられました。彼は今、スヴェンと一緒に働いているそうです」

 イェンスが落ち着いた表情で彼女に答えたのに対し、ローネが珍しく素っ頓狂な声をあげたので、近くで談笑していたジャンとティモが何事かと近寄って来た。

 「イェンス、あなた、もうジャークと会っちゃったの?」

 ローネはあんぐりと口を開けたままイェンスを見ていた。

 「ええ、全くの偶然でしたけどね。しかも彼はクラウスのことも情報を仕入れており、名前まで知っていました」

 イェンスがなおも落ち着いた表情で答える。すると、僕と同じムラト側の事務所出身で、事情の知らないジャンだけがローネに不思議そうに尋ねた。

 「そのジャークって誰なんですか?」

 「すっごく嫌な奴よ!」

 僕は苦々しい表情で答えたローネの様子につい笑ってしまったのだが、彼女は気にせずしかめ面のままで話を続けた。

 「イェンス、あなたが事務所に入社してすぐ、ちょっかいを出す様になったのよね。以前、ギオルギから聞いたことがあったのだけど、仕事中でもずっと彼はあなたに話しかけ、さも親しい知り合いのように振る舞っていたんでしょ。それなのに、仕事で失敗した時に体調不良を装い、あなたに押し付けて逃げた。私は前から彼は鼻もちならない感じがしていたのよ。表面上はすごく気さくで面倒見がいいように見えるから、彼に対して肯定的な評価をする人も多いのだけど、小賢しいと言えばいいのかしら。面倒見の良さをアピールしてあなたに取り入れられようとしていたのが見え見えで、当時は対応に困っていたあなたを気の毒に思っていたのよ。知っているでしょうけど」

 ローネは一気に話すと、憮然とした表情のままイスに座り直した。すると、途中からうんざりした表情で話を聞いていたティモが、一つため息をついてから話し出した。

 「ああ、確かに先日スヴェンとベアトリスと一緒にいるのを税関で見かけたな。何で一緒だったのか、これでわかったぞ。あの時は慌ただしかったからつい流したけど、ベアトリスが彼からのけぞるように立っていたから不思議に思っていたんだ」

 「ベアトリスって美人で有名な女性だろ?」

 ジャンが興味津々な様子でティモに尋ねる。しかし、僕はその言葉に敏感に反応し、思わず動きが止まってしまった。

 「そうなんだよ、可愛いというか、きれいというか。同業者の中にも彼女とデートをしてみたくて話しかけた人もけっこういるらしいんだけど、忙しいのか、ほとんどすぐに会話を切り上げられると言っていたな」

 「ジャークはそのベアトリスという女性を狙っているのかしら?」

 ローネが怪訝な表情で言ったので、ジャンの表情までもが険しくなった。

 「話を聞いたイメージだと、手当たり次第って感じがするな。ジャークか、何か情報を仕入れたら伝えるよ」

 その時、彼らの会話をじっと聞いていたイェンスが丁寧な口調で切り出した。

 「その、ティモとジャンにお願いがあるのだけど、ジャークからもしクラウスや僕のことを尋ねられても、あまり詳しく話さないでもらっていいだろうか? 君たちが彼と親しくしたい分には僕は構わないのだけど、僕は彼に興味が無い。そのことが乗り気でなければ、僕が改めて彼に直接申し伝えるから、もちろん断っても構わない」

 「その点は大丈夫だ。ジャークが自分の失敗を体調不良を理由にして新人である君に尻拭いさせ、ほとぼりが冷めた頃に愛想を振りまいて出社した時は、他部署の俺でも見ていて違和感がありまくった。当時は俺も彼と仲は良かったけど、あのギオルギが相当怒っていたし、今さらまた仲良くやる気はないね」

 ティモがはっきりと断言したからか、ジャンが凛々しい表情で僕たちを見た。

 「もちろん、そんな事情なら俺だって協力するさ。胡散臭そうなやつだしな」

 彼はそう言うとちらりと時計に目をやった。その瞬間、彼は表情を一変させて慌てふためいた。

 「おっと、もうこんな時間だ。今日は書類が多いんだよ。じゃあ、また後でな」

 彼は急いで自席へと戻り、始業時間前であったものの仕事を始めた。それを受けてティモも自席へと戻っていく。

 僕はジャークがイェンスに関わった話の中で、一つ思い当たる節があった。それは彼が自らの失敗をイェンスに尻拭いさせたという内容であった。

「ローネ、確認したいことがあるのですが、ずっと前に天然バニラの輸入の件で他のブローカーの顛末話を僕に教えてくれた話は、ひょっとしてそのジャークとイェンスのことでしょうか?」

「そのとおりよ。ジャークがいかに重大な過失を犯したか、この仕事をしている人なら誰だって理解できるわ」

 ローネはそう言うとイェンスを見た。イェンスは苦笑いともとれる、あいまいな表情で彼女を見つめ返した。

「あのことは当時税関内でも問題になっていて大変だった。だけどこの間も話したとおり、本当にいい経験だったと思っている。そういった意味では感謝している」

 僕は彼の言葉を受け、僕の入社当時のことを改めて思い返した。

 ローネからその話を聞いた当時、僕は疑うことなく大事な時に体調を崩してしまったその人こそが、過ちに対する責任を果たせ無かったことを不本意に思ったであろうと考えていた。しかし、ジャークが現実から逃れるために嘘をつき、新人であったイェンスに全ての後始末を全て押し付けたのだということがようやく理解できた今、ジャークの狡猾さと自分自身の無知さに怒りと恥ずかしさとを覚えるしかなかった。

 中には仕事での失敗がストレスとなり、体調不良に陥る人もいることであろう。それでも事態の収拾を図るべく、何らかの形でできうる限りのことはするのではないのか。そう考えるのは僕が短絡的だからか、それともほとんどの人が考えることなのか。そのことを自問しながら、僕はためらいがちにイェンスに話しかけた。

「イェンス、ごめん。土曜日に君が話してくれた時点でそのことに気付けなかったことが、なんだかとても申し訳なく思えてきた」

「まさか、クラウス。気にしないでほしい。僕はそもそも、彼の失敗が天然バニラの輸入だということを君に伝えなかったじゃないか。君が謝ることなんて何一つない」

 イェンスはあのさわやかな笑顔で僕を見つめ返していた。

「ありがとう、イェンス」

「さあ、もうすぐ始業時間だ。気持ちを切り替えないとね」

 彼の一言で僕はようやく気持ちを切り替えることにした。書類に目を通す前に、パソコンに届いたメールを確認していく。すると、ヴィルヘルムからメールが届いていた。イェンスにも送られていたその内容は、無事貨物が搬入されたことを報告し、お礼を伝える内容であった。

 配送以降はオールが勤める運送会社の仕事であったため、僕たちが感謝の言葉を受け取るのは過分とも言えるのだが、イェンスも僕もヴィルヘルムたちにお礼を返信し、それからオールにも感謝のメールを送った。

 午後になった。税関へ赴いていたティモが戻って来るなり、「ジャークは見なかったよ」と僕たちに報告した。それから少ししてジャンが事務所に戻って来ると、ジャークが方々に愛想を振りまいている話はそれとなく聞き出してきたものの、彼らしき人は見かけなかったと伝えて自席に戻っていった。

「何事も無ければいいわね」

 ローネの期待を込めた口調に、イェンスも僕も神妙な表情で「そうですね」と返す。ジャークを過度に恐れる必要は無いのだが、彼の勝手な揉め事に巻き込まれることはやはり避けたかった。このまま接触しないで済むのであれば、それに越したことはないのだ。

 その週は何事も無く終わった。雪がちらつくことはあっても積もることは無く、街全体が歩きやすい。イェンスと僕は相変わらず一緒に走り、土日はお互いのアパートを行き来して過ごした。

 月曜日は朝から仕事が立て続けに入り、かなり慌ただしい幕開けであった。時間に追われて申告書を作成し、予備申告で書類審査扱いとなった一時間後、税関から申告書の誤りの指摘を受ける。内容としては、輸出者の住所が一文字抜けており、譲許税率を適用しているため訂正を入れるようにとのことであった。見慣れない地方国の、読みづらくて長い住所というのが未熟な僕の言い訳なのだが、ミスはミスであるため、悔しさと申し訳なさとを添えながらローネとイェンスに報告をする。彼らもまた、見逃してしまったことを謝ってきたのだが、そもそも僕の不注意さが招いたものであった。

 搬入が上がってすぐに、住所の訂正を済ませてから本申告を入れる。輸入者からの信頼を失うような重大な失敗ではなかったため、広範囲にわたって迷惑をかけることこそ無かったのだが、軽微なミスを放置していればいつか重大な事故を招くかもしれなかった。この程度と思わず、改めて気を引き締め直して再び仕事と向き合う。その日はいつもにもまして慎重に仕事を進めた。

 その週の木曜日、ティモが忙しくて手が離せなかったため、僕が久しぶりに税関へ行くこととなった。イェンスが「気をつけて」と声をかけたので微笑んで応え、事務所を颯爽と後にする。久しぶりの外出は、いい気分転換になりそうな気がした。

 南の低い空から降り注ぐ日の光に照らされた税関庁舎は、久しく来ていなかったこともあり、どこかよそよそしく出迎えてくれた。以前と変わらぬ景色のはずなのだが、このようなつまらない感想が出てくるあたりも僕が変わり者たる所以なのかもしれない。

 知らない男性が庁舎内へと入っていく。知り合いの同業者に会うだろうかと思いながら入り口のところまでやって来た時、ベアトリスとばったり会った。ぼんやりと考えていたことが、こうも強烈にやってくるのだ。僕は何の気なしに考えたことを痛烈に後悔した。

 それでも僕はややぎこちない挨拶を彼女にした。すると、彼女は自然な笑顔で挨拶を返し、さらに言葉を続けようとしたのだが、僕が怖気づいたのと実際に急ぎの税関検査立ち合いが控えていたため、彼女に「すみません、急いでいるので失礼します」とだけ言い残してその場を立ち去った。

 僕の心臓は高鳴っていた。ベアトリスに非が無いからこそ、後ろめたさと解放感とに揺れ動く自分の弱さが惨めでたまらなくなる。必死に思考を練れば、もっと良い対応方法があるはずなのだ。だが、その狭間に漂っていられるほどの余裕は残されていなかった。

 検査場に赴き、貨物が到着しているのを確認してから審査担当官を呼びにラインへと赴く。年配の審査担当官は僕を見るなり「久しぶりだな」と気さくに話しかけ、そのまま僕と他愛もない話をしながら一緒に検査場へと向かった。担当官が貨物を入念に手に取って原産国や素材などを確認し、それからおもむろに携帯用端末を操作し始める。僕がじっとその様子を見守っていると、「特に問題は無いから許可を出しておくよ」と審査担当官が検査終了を知らせてきた。その言葉に安堵を覚えて丁重にお礼の言葉を伝えた時、その審査担当官はややしゃがれた声でさらに言葉を続けた。

 「そういえば、君のところはG・Gロジスティクスと統合したんだったな。あの有名な男性、グルンドヴィ君は元気なのかい?」

 「はい、彼は元気にしております」

 僕はなぜ審査担当官がイェンスについて尋ねてきたのかがわからず、返答しつつも困惑していた。それを察したのか、担当官は朗らかに笑いながらゆっくりと口を開けた。

 「彼も女性のファンが多いからねえ。だけど最近、彼が全然税関に来ないもんだから、いろんな女性たちが残念がっているって噂を聞いたんだよ。税関は出会いの場じゃないからくだらん、って憤る者もいるけど、目的と使命がはっきりしているここ税関庁舎内でも、様々な人間模様を見るのはなかなかおもしろいもんだよ。人間性が思わぬ形で露呈するからねえ。それでは失礼するよ」

 担当官はそう言うと、かくしゃくとした足取りで帰っていった。その後ろ姿に税関職員としての威厳と、一個の人間としての個性が漂っているのをぼんやりと眺めながら、検査業者にお礼を伝えてその場を離れる。歩きながら、僕は漠然と審査担当官の言葉を思い返していた。

 職務とは全く関係のない話題が税関職員の間でも席巻するほど、イェンスの知名度は相当なものなのだ。その原因が、グルンドヴィという家柄がそうさせているのか、それとも彼個人の魅力に依るものなのか。いずれにせよ、彼も僕も、知らないところで名前が独り歩きすることに不安と抵抗を感じていた。特にイェンスは長年そのことで悩んできたため、個性の主張をぎりぎりまで抑えてまで、目立たぬように振る舞っていた。

 この狭い業界でも知名度があるのだとすれば、イェンスにとって相当のストレスであるに違いない。僕の中で答えのない不穏な思考が渦巻くのだが、税関でこなすべき用事は他にもいくつかあった。気を取り直し、ひとまず頼まれた用件をこなしていく。そうこうしているうちに、先ほどまで渦巻いていた不穏な思考がだんだんと遠のいていく。

 頼まれていた全ての用件を終えた。安堵感からつい気が緩み、のんびりとした足取りで出口へと向かうも、聞き覚えのある声がした途端に緊張感が走る。気になって確認すると、通路の奥でベアトリスとジャークが何やら話し合っているのが見えた。

 ベアトリスはややのけぞりながら、困惑した表情でジャークを見ていた。イェンスやローネからジャークのことを聞いていなかったら、僕は彼を気にもかけなかったことであろう。さすがに困惑しているベアトリスが気の毒に思えたものの、助け舟を出せば僕にも火の粉が降りかかりかねなかった。そう考えると、非情と思いながらもこれ以上の長居は無用と考え、急いで駐車場へと向かう。しかしその時、どこからともなく現れた同業者のリーに話しかけられた。

「久しぶりね、元気にしていた?」

 彼女は屈託のない笑顔を浮かべていたのだが、僕は邪推からつい身構えてしまった。

「ええ、おかげさまで。あなたもお元気そうですね」

 僕のやや失礼な態度にリーが気を遣ったのか、彼女はためらいがちに尋ねてきた。

「ねえ、イェンスはどうしてる? 今は同じ会社なのよね? 彼を全然見ないのだけど、ひょっとして会社を辞めてご実家に戻り、違う仕事をされているのかしら」

 彼女もまた、イェンスにそれなりの好意があるのだと咄嗟に理解できた僕は、手短に言葉を返した。

「いえ、彼は今も一緒に働いていますよ」

 その時、背後から誰かがやって来る気配を感じた。それと同時にどことなく嫌な予感がしたのでリーに素早く挨拶し、その場から急いで離れようとする。

 「クラウス、待って」

 「あら、ベアトリスじゃない」

 リーが僕の背後に向かって話しかけた。時すでに遅し、と気分が滅入ったものの、僕の嫌な予感はベアトリスに対してでは無かった。

 止むに止まれず振り返る。すると、そこにはジャークがベアトリスの横に立って僕をじろじろと眺めていた。

 「やあ、君がクラウスか。噂どおりのイケメンだな。俺はジャークだ。イェンスをもちろん知っているだろう? 以前、同じ職場にいたんだ。あいつに仕事を教えたのが、この俺というわけさ」

 彼はそう言いながら手を差し伸べてきた。僕はさっと握手を交わすと、「そうですか、彼によろしく伝えておきます。では、急いでいるので失礼します」と一気にまくしたて、急いで車へ戻ろうとした。しかし、彼は馴れ馴れしい口調でなおも話しかけてきた。

 「まあまあ、待てよ。なあ、クラウス。知り合ったのも何かの縁だ、今度みんなで一緒に飲みに行こうじゃないか。同業者同士で情報を交換できるし、イェンスも俺が誘ったら乗り気で来る」

 僕は彼の見当違いの発言に腹正しさを覚えたのだが、先ほどまで困惑していたはずのベアトリスが表情を明るくし、そこにリーが非常に乗り気な様子で彼女に話しかけたため、あっという間に窮地に追い込まれてしまった。

 「すみません、せっかくお誘い頂いて恐縮なのですが、イェンスも僕もそういうお誘いはお断りしているのです。税関などでお見かけした時に会話をする分にはいいのですが、どうしてもそういう席になると守秘義務が軽んじられがちです。それでは改めて失礼します」

 「なら、酒を飲まなくても一緒に昼飯でも食べないか? そうだ、今日はどうだろう。久しぶりにイェンスと昔話に花を咲かせたいんだ。君、今彼に電話して聞いてみてくれ。君は以前の俺たちのことをよく知らないかもしれないが、俺とイェンスは本当に仲が良かったんだ」

 ジャークは自信にあふれた様子でなおも粘った。その隣でリーが目を輝かせ、ベアトリスまでもが祈るように僕を見つめる。三者三様の反応に、僕は懸命に冷静さを保って断ろうと努めていたのだが、ジャークが見下すかのような表情で僕に決断を促したものだから、ついに耐え切れなくなって表情が険しくなった。

 「いえ、イェンスからあなたに関する前向きな話題は一つも聞いておりません。彼ははっきりと、あなたに興味が無いことを僕に伝えてくれました。彼を誘っても無駄です。そして僕もあなたに興味はありません。それでは」

 僕は言い終えると彼を一瞥することなく、急いで車へと戻った。背後から「なんて失礼な奴だ!」とジャークが叫んだのが聞こえる。その一声で一気に嫌な気分に陥ったものの、車を慎重に動かして税関を出ようしたその時、駐車場内にまだ残っていたベアトリスと目が合った。

 僕は彼女が咎める目付きで睨み返すのを覚悟していた。しかし、意外にも彼女は微笑んだのであった。その反応に驚いていると彼女のほうから視線を外し、そのまま空を見上げるかのように顔を背けた。

 僕は彼女の淡い期待を、容赦ないジャークへの言葉で打ち砕いた。それなのに、なぜ彼女は僕に対して微笑んだのか?

 僕には彼女の意図が全くわからなかった。僕が浅はかな考えしかできないから理解できないのか、それとも彼女が特殊なのか。困惑が抜けきれないまま事務所に戻るなり、僕はイェンスに目配せをした。彼はその行為だけで勘付いたらしかった。

「何かあったんだね」

 そこで僕がベアトリスの件を除いて手短に経緯を説明すると、傍らで聞いていたローネがあからさまに嫌そうな顔をし、ティモまでもが怪訝な表情を見せた。

 「何が『俺とイェンスは仲がいい』よ。いったい、どの口がそんなことを言えるのかしら」

 ローネが苦々しく言ったことに、イェンスが苦笑いを交えて返した。

 「彼は気さくなところがあるから、根はいい人なんだろう」

「いや、君の家柄を知って近付いただけさ。実は、君がこの事務所に来た時、あのグルンドヴィ家の人がやって来ると話題になったんだ。でも、ギオルギは俺たちに君の前でそういう話題をすることは避け、他の人と同じように接するよう厳しく注意していた。噂だけど、ギオルギはグルンドヴィ家と関わることで、事業拡大のチャンスを狙っていたらしいからね。そんな中で君に探りを入れていたのが、ジャークとオランカだった。ギオルギが何度か彼らに注意していたけど、どちらもほんと下心が丸見えだよな」

 ティモはそう言った途端、青ざめた様子で僕たちの背後を見た。

 「私の話をしていたかね、ティモ」

 その声に敏感に反応しておそるおそる振り返る。すると、ギオルギが明るい表情で僕たちを見ていた。

 「長々とおしゃべりしてすみません」

 ティモが謝ったのに続いて僕たちも謝罪してから仕事に戻ろうとしたのだが、ギオルギは軽く受け止めて話を続けた。

 「いや、今はよしとしよう。ジャークのことだな? 彼の話をよそからも聞いていたんだ。全く彼には困ったもんだ。だが、私がここに来たのはそれだけを言いたかったわけではない。ティモ、君の話で訂正しておきたいことがあるのだ」

 彼はイェンスに視線を向けた。

 「イェンス、君がこの事務所を面接のために訪れた時、私は確かに興奮した。なんと幸運なことだろうとね。しかし、すぐに君の人柄に気付かされた。君は優秀なだけではなく、礼儀正しさと優しさをも兼ね揃えていた。私もただ年齢を重ねてきたわけではない。口先だけの奴かどうかを見抜くぐらいのことはできているつもりだ。私はあえて、君が名門の出だからと君を優遇したり、特別扱いしないことを決めた。君の実家の話題もなるべく避けるようにした。おそらくだが、君がそういうのを嫌がると判断したからだ。その代わり、君の仕事ぶりや、同僚に対する態度で君を評価してきたつもりだ。つまり私が言いたいのは、君が名門の出だからということで、ジャークやオランカに注意をしてきたのではない、ということだ。そして君を使って野心を抱いたことも無い。おそらくだが、君のご実家とこの会社とでは関わる世界が異なるはずだ。実力以上に無理矢理接点を求めたところで、つなぎとめるものが無ければ無意味だからな。それでは仕事の邪魔をして悪かったな。ジャークの件は……彼の上司はスヴェンにあたるのか? それなら彼に、ジャークが君たちに不用意に近付かないよう、お願いをしておく」

 その言葉を受けてイェンスが颯爽と立ち上がり、ギオルギのほうを向いた。

 「あなたのお心遣いに本当に感謝しております。僕を特別扱いしなかったことも含めて、本当に嬉しく思っているのです」

 「気にするな、イェンス。君は仕事で充分貢献してくれている。君が我が社に様々な可能性と道筋をもたらしてくれたことは確かだ。だが、それはひとえに君の仕事ぶりが素晴らしいからだ。もちろん、クラウス、君の仕事ぶりも素晴らしいし、同じような力量を持っていることはわかっている。イェンス、クラウスとともに今後もしっかり頼んだぞ。ローネ、ティモ、君たちにもむろん期待していることは言うまでもない。君たちの仕事ぶりも非常に評判が良いし、充分賞賛に値するものだ。それはこの会話に加わっていないケンとトニオ、そしてここにいる他の人も同じだ。全員が優秀で伸びる力を持っているからな。では、引き続きよろしく頼むよ」

 ギオルギは力強い笑顔を残して事務所の奥へと去って行った。僕はギオルギの言葉に感激していた。そこには表面的な情報から誠実さをもって深層を推し量ろうとする、ギオルギの成熟した人生哲学が凝縮されていたからであった。

 僕たちは静かに仕事に戻ると、その後はひたすら目の前の取り組むべきことに集中した。そしてそれからというもの、ティモがますます積極的に税関などへ行ってくれるようになったのは非常に頼もしかった。その代わり、イェンスと僕とで彼の仕事を手伝うように心掛け、仕事量のバランスを図る。ジャークがDZ‐15地区に住んでいるとジャンが情報を仕入れると、イェンスも僕もひとまず安心したものの、注意喚起だけは怠らないように気を付け合うことにした。

 ある日の昼休み、イェンスとティモとジャンと僕との四人で昼食を取ることとなった。カフェで食事を取りながら談笑しているうちに、話題がジャークのことへと移る。ジャンが他の人から聞いた話を始めた。それによるとベアトリスがジャークに対し、急に事務所でも税関でも冷たく対応するようになったのだという。僕はその原因に思い当たる節があったのだが、詮索されるのも億劫であったため、ジャンに深く内容を尋ねることなくやり過ごした。

 二月に入った。仕事量が先月と比べて落ち着くのは例年のことであった。それでもノルドゥルフ社の小規模な輸入案件を請け負うことが増え、家具の輸入もそれなりにあり、同時期にそれぞれの貨物が入港すると一転して慌ただしくなったりもした。

 ユリウスからは一月末に、来月まとまった休みが取れそうだと連絡が入ったきりで、それ以来音沙汰は無かった。しかし、イェンスも僕も彼の立場を理解していたため、再会できることだけをただ心待ちにして過ごしていた。

 二月も中旬を迎えた水曜日の朝、ティモがつらそうな顔で出社してきた。無理をするなという僕たちの言葉に、彼は具合が悪そうながらも力なく微笑んで答えた。

 「ありがとう。でも、どうしてもこの書類だけ処理を済ませておきたかったんだ。確認事項があって、間もなく輸入者から返事と書類が来る。それを待って、ずっとやり取りをしていた検疫所の担当官に連絡を入れてから帰るよ。この引き継ぎだけはややこしいからね」

 かつてのジャークと真逆の対応を見せるティモを気遣っていると、ローネがちょうど出社してきた。具合の悪いティモの代わりに、彼の置かれている状況をイェンスから彼女に伝える。それを聞いたローネが心配そうにティモの顔を覗き込んで言った。

 「あなた、確かに熱っぽい顔をしているわ。事情はわかったから早く病院に行くなり休むなり、とにかく体調が良くなるまでしっかり家で養生していなさい」

 「ありがとう、ローネ。ああ、ちょうど今輸入者からメールが来た。待っていた書類も添付されている。これを検疫所に送って連絡事項を伝えたら、すぐに帰るよ」

 彼はそう言うとパソコンに向き合った。それから検疫所に電話を入れた後、ギオルギのところへと赴き、僕たちに「後は頼んだ」と弱々しく言い残して去っていった。

 ティモの仕事分を皆で分担して仕事を進める。昼前にローネのスマートフォンにティモからメールが入った。病院で風邪と診断されたため、処方された薬を飲み、自宅で安静にしているようである。ローネはティモに仕事のことを気にせずにゆっくり養生するよう返信すると、落ち着いた様子で仕事に戻った。

 午後になった。回避を試みていたのだが、どうしても税関に出掛けなくてはならない用事ができてしまった。するとイェンスが「僕が行こう」と自ら名乗りを上げ、他の人にも用事が無いか確認して回った。僕はジャークのことが気になり、彼が席に戻るなり「本当にいいの? 僕が行こうか」と申し出たのだが、彼は微笑んで「君だけに押し付けるわけにはいかない。それに、輸入通関手続きで確認したいことがあるから、ちょうどいいんだ」と答え、颯爽と事務所を出て行った。

 イェンスの仕事をさらにローネ、ケン、トニオと僕の四人で分担しているうちに、時間が穏やかに過ぎていく。夕方近くになってイェンスがようやく税関から戻って来た。彼は落ち着いた様子であったものの、僕と目が合うなり目配せした。そこに意図を感じ取った僕は、小声で彼に尋ねた。

「何かあったの?」

「さすがだな。いろんなことがあった。後で話す」

 僕はイェンスの神妙な表情と言葉とが気にはなったものの、彼がそれ以上何も言わなかったことから、ひとまず仕事を早く終わらせようと目の前の仕事に集中することにした。

 ようやく仕事が終わり、イェンスと一緒に事務所を出る。事務所から相当離れたところでいよいよ話を聞き出すべく、彼のほうを意味ありげに見つめる。それに気が付いた彼が、僕が口を開く前に微笑みながら言葉を発した。

 「すまない、午後に話した件だね? 今から話すよ。まず税関に着くと、駐車場でジャークといきなり鉢合わせたんだ。彼は僕を見るなり、『イェンス、元気か? また会えて嬉しいよ』と抱擁してきた。僕はすぐに彼から離れたのだけど、彼は僕の肩に手を置きながらこう言った。『わかった、昔のことを気にしているんだろう。けど、昔のことは昔のことだろ? お互いにいい大人だ、水に流そうじゃないか』とね。彼はそのまま僕と一緒に税関の中に入り、聞いてもいない彼の近況や雑談をし始めた。その時、ちょうど五部門の上席審査官のマリッカに呼ばれたので、カウンターへと向かった。彼女と家具の通関の件で話をしている間もジャークからの視線を感じていたのだが、気に掛けないように努めた。マリッカが一旦カウンターから離れ、僕がその場で待っていると、後方からジャークが誰かに『イェンスと俺は友だちなんだ。以前はよく遊んでいたもんさ』と話しているのが耳に入った。それでも彼のほうには目もくれず、マリッカがカウンターに戻って来るのを待ち、それから幾つか彼女に確認を済ませてからその場を離れた。そして今度は二部門の審査官に声をかけ、バイオ燃料の輸入に関することで書類を見せながら相談した。その用件も済んだ時、その審査官からこう話しかけられた。『あの彼とあなたは友だちだと聞いています。彼が言うには、あなたに仕事を教えたのは彼だそうですね。数年間この業界を去っていたそうですが、久しぶりに戻って来た時にあなたが立派に成長した姿を見て感動したと、この間ここで話していましたよ』。彼の表情に悪意はもちろん無かった。僕は表情に気をつけながら審査官にお礼の言葉を伝え、入り口にだけ視線を向けて歩き出した。案の定、ジャークが僕を後ろから追いかけてきて肩を掴み、顔を近付けて話しかけてきた。『おい、イェンス。声ぐらい掛けろよ』。それでも僕は簡単な挨拶を返したのみで、無関心を装い続けた。その時、いらだった口調で女性が彼の名前を呼んだのが聞こえた。僕がその声のほうを見る前に、彼は『ベアトリス』と反応し、一生懸命弁解を始めた。どうやらギオルギからとうにスヴェンに連絡がいっていたらしい。彼はスヴェンの名前を出しながら、『俺は早く帰ろうとしたんだが、こいつに引き止められてさ』と僕を一瞥した。彼の思いがけない言葉に面食らっていると、ベアトリスがうんざりした顔でこう言った。『はあ? 見え透いた嘘をよくもつけるわね。事務所でも油を売って、ここでも油を売っている自覚があるから、そうやって嘘をついて逃げるんでしょ。仕事もたいしてできないくせに、さぼることばかりで全く問題外だわ。このこともスヴェンに報告します!』」

 僕はベアトリスがジャークの嘘を見抜き、それどころか痛烈に批判していることに驚いていた。いや、スヴェンも彼女の頭の良さに息巻いていたから、彼女がそういう言動を取ったのも当然の結果であったのかもしれない。

 「彼女の声は甲高く、室内に響いた。実を言うとまだ税関のラインの中にいたので、奥のほうに座っていた税関職員までもが何事かと一斉に振り返ったんだ。ジャークは大勢の前で恥をかかされたと思ったのか、怒った口調で『その口の聞き方はなんだ、全く失礼な女だ!』と彼女に詰め寄ったのだが、彼女は気が強いのだろう。ひるむことなく僕や税関職員に対して『お騒がせしてすみません』とだけ言うと、ジャークを睨みつけてから部屋を出、少し離れた場所で電話をかけ始めた。ジャークは僕に『なんて失礼な女だ』と同意を求めてきたのだが、僕はとうに関わりたくなかった。僕が彼に目礼だけして無言で歩き出したその時、背後から誰かが『あの女性、よくぞ言ってくれたな』と言ったのが耳に入った。おそらく、彼はずっと税関の中でも雑談ばかりしていたのだろうね。ベアトリスがスヴェンと話しているのがわかると、ジャークは僕に『またな、親友』と言い残して慌てて去っていった。僕が駐車場に着いて車に乗ろうとした時、背後から僕を呼び止める女性の声がした。振り返るとベアトリスだった。彼女は僕を知っていたんだ。『ベアトリス・ヒメネスと申します。突然呼び止めてすみません。グルンドヴィさんのお噂は方々で伺っておりました。ジャークはあなたと親友だといつも事務所で豪語していますが、あなたが実際クラウスと仲が良いことは知っております。クラウスみたいな誠実な性格と全くの正反対であるジャークが、あなたと親しいはずがありませんわ』。彼女はそう言うと微笑んだ。僕が控えめにうなずき、『あなたがそこまで理解して下さるのであれば、僕のほうから申し伝えることは特にありません。それでは』と返してその場を立ち去ろうとしたのだけど、彼女に再び呼び止められた。彼女は真剣な表情で僕を見つめており、こう言った。『あの、クラウスに伝えてください。この間は不快な思いをさせてごめんなさい、と。私もリーも、彼があなたをジャークからかばったことは理解しています。ジャークの性格を考えれば、私があの時あの場で断ればよかったのです』」

 僕はちらちらと雪が舞う中、彼の話を静かに聞いていた。

 ベアトリスがイェンスを助けたことは素直に嬉しかった。それどころか、彼女がジャークのうわべだけの愛想を見抜き、スヴェンに報告したことを聞いた時は晴れ晴れとした気分にさえなった。僕は思いがけない彼女の行動に喜び、感謝さえ覚えたのである。しかし、やはり彼女にそれ以上の好意を感じることはできなかった。

 「そんなことがあったんだね」

 僕はぼそりとつぶやいた。タキアの祖母からもらったマフラーに雪が落ちて融けるのを眺めているうちに、ベアトリスに対して後ろめたい気持ちが起こる。彼女のことを見直したものの、それでも一定の距離を保ちたいと願うのは、やはり僕が非情だからなのであろうか。

 しばらくお互いに無言で歩いていると、イェンスが優しい口調で話しかけてきた。

 「クラウス、さっきの話を聞いてベアトリスを見直したのかい?」

 僕は立ち止まって彼の瞳を見た。彼の瞳には、夜の暗さに埋もれることなくほのかな光が放たれていた。

 ああ、そうだ。この光が見えるのは異種族と異種族の能力を受け継いだ者だけなのだ。そのことを思い出した僕は、途端に気が楽になった。

 「その、彼女の取った行為で胸が晴れたし、君を助けたことは素晴らしいと思ったけど、それ以上の感情は起こらなかった。彼女は多分、いやきっと素敵な女性なんだ。僕がその魅力に気付けないだけだ。その理由も僕は知っている。僕が変化を起こしたからだ。そのことが僕の本質にすでに深く根付いていることを知っているからこそ、彼女のことを客観的に素晴らしいと判断したとしても、知り合い以上の特別な関係になることに抵抗を感じているんだ」

 それを聞いたイェンスが優しい眼差しで僕を見ながら言った。

 「僕は君が自由に感じていいと思っている。さっきまでの君は、どことなく息苦しそうに見えた。おそらくだが、ベアトリスに対して好意を感ずることができず、そのことで自分のことを非情だと判断し、責めていたのではないかと思ったんだ」

 彼の手が僕の肩に回る。そこから彼のぬくもりが、わずかでも肩越しに伝えられていく。

 「君は君自身を責める必要は全く無い。君が心安らぐ考えに君はいていいんだ。逆の立場なら、きっと君もそう言うだろう?」

 「本当にありがとう、イェンス」

 その時、僕たちのスマートフォンにメールが届いた音が微かに聞こえた。僕たちは不思議そうに顔を見合わせ、それから急いでメールの内容を確認する。差出人を見た途端、僕たちは弾けるような歓声を上げた。

 メールはユリウスからであった。

 「『急ですまないが、今度の土日にまとまった休みが取れた。泊りがけで遊びに来ないか? 土曜日の夕方から夜にかけて約束があって出掛けなければならないが、私の家からほど近い場所にある相手の家に招かれているので、その時の警護を他に頼み、シモとホレーショがお前たちと一緒にゆっくりできるよう手配しようかとも考えている』だってさ!」

 僕が少し興奮した声でメールを読み上げたからか、イェンスも弾んだ声で返した。

 「さすが、ユリウス。なんと粋な提案をしてくれるのだろう」

 僕たちはその場で、『喜んで伺います。そして彼らさえ良ければ、ぜひともそうさせてください』とすぐに返信した。

 再び歩き出す。先ほどまで話していたことはすっかり遠のき、僕たちの関心と話題は今度の土日のことで埋め尽くされていた。それは紛れもなく、胸躍る経験が待ち受けていることを予感するものであった。

 夕飯を途中のスーパーで買い、イェンスのアパートで一緒に食べていると、再び僕達のスマートフォンが一斉にメールの着信を知らせた。

『了解。シモとホレーショも喜んでいる。いつもの時間と場所に彼らが迎えに行くから、なるべく手ぶらで来い。泊りの準備は不要だ。 ユリウス』

 僕たちが重ねて感謝のメールを送ると、今度はすぐに返事がきた。

 「こちらこそ楽しみにしている。では、また会おう」

 イェンスが嬉しそうにユリウスからのメッセージを読み上げる。そうなると、僕たちは幼い子供のようにはしゃぎ、あれこれと想像を巡らせた。ユリウスとまた深い話ができるだけでなく、シモとホレーショと気兼ねなくゆっくり話せることもまた、非常に楽しみなことなのだ。

 「ああ、待ち遠しいな! 明日は木曜日で明後日は金曜日だ」

 「そのまんまじゃないか。でも、君の気持ちはよくわかる。冷静さを装って過ごさなきゃならないなんて、一苦労だ」

 「イェンス、その点なら君は大丈夫だ。名演技をよく見せてくれるからね。ああ、浮足立ってこの間みたいにミスをしないよう、やはり気持ちを落ち着けよう」

 僕はゆっくりと深呼吸をした。イェンスがそれを受けて「僕もそうしよう」と真似をする。何度か深呼吸を繰り返しているうちに、はしゃいだ気分はずいぶん落ち着いてきたのだが、その代わり心地良い高揚感がゆったりと体内を駆け巡った。僕たちはその後食事に戻ってもなお、幾度となく笑いあっては土日に思いを馳せた。

 木曜日になった。出社するなり、トニオから「ティモから、大事を取って今日も休むと連絡があった」と伝えられる。イェンスと「それが一番いい」と話していると、ローネも出社してきた。彼女はトニオから同じく報告を受けると、ほっとした表情で「しっかり治してくれるんなら何の問題も無いわ」と言って微笑んだ。

 仕事量はやはり落ち着いていた。午前十時を過ぎた頃、ノルドゥルフ社から最新の輸入予定計画に関するメールが届く。今後ともぜひよろしく頼みたいという、実に喜ばしい結びの挨拶に、イェンスも僕も顔をほころばせる。ビジネスメールの定型文だとして受け止めればそれまでなのだが、この短い挨拶の中に新たな信頼と価値を大きく成長させる種が蒔かれているのである。その種が芽生え、やがて実がなった時、さらに思いがけない収穫がもたらされたらと心ひそかに願った。

 その日はことさら時間が経つのが遅いように感じられた。気にかけないようにしていても、つい時計にばかり視線が向く。それでいて、イェンスを見るたびに土日のことを思い出してにやけそうになるので、『君を見ると土日を思い出してにやにやするから、なるべく違う方を見る』と書いたメモを彼にそっと渡した。

 少ししてから彼が軽く咳払いした。そこで視線を向けると、小さく折り畳まれたメモが僕の机の端に置かれていた。

 『君のメモを見てなるほどと思った途端、僕も君を見てにやけそうになった。僕もなるべく違う方を見ることにする』

 そこで彼を見ると、彼は僕から背けるように体全体をずらして仕事をしていた。そのあからさまな態度がおかしく、結局僕はにやけてしまった。

「突然にやけてたけど、大丈夫?」

 ローネが不思議そうな表情で尋ねてきた。――見られていたのだ。急に恥ずかしくなり、顔が赤くなるのを感じながら「すみません」とだけ謝って仕事に戻る。イェンスにも聞こえているはずなので、おそらく彼は笑いをこらえるのに必死であるに違いない。そう考えると再び愉快な気持ちになったのだが、これ以上醜態をさらすわけにはいかず、ぐっとこらえる。

 ようやく終業時間を迎える頃になって急ぎの処理が立て続けに入り、少し慌ただしくなった。それでも残業を少ししただけで本日分の仕事は終了した。そこで僕はイェンスとようやく視線を合わせたのだが、その途端に僕たちは笑いだしてしまった。その様子に周囲が何事かと不思議がったので、イェンスも僕も曖昧に理由を述べてお騒がせしたことを謝り、冷静さを取り繕いながら退勤する。明日は気を付けようとお互いに注意しあうも、秘密を共有していることでさえ楽しかったため、結局は軽快に笑い合いながらイェンスと別れた。

 金曜日の朝はさわやかな目覚めとともに迎えた。早朝のドーオニツを、相変わらずイェンスと一緒に走る。イェンスが住むアパートの前まで戻ってくると、会社で僕たちがお互いに視線を外したら、それは明日のことを思い出してにやついてしまうからだという確認をして別れた。それほどまでに僕たちはユリウスとの再会を心待ちにしていた。

 一人で出社する。少ししてイェンスもやって来た。それからさらに少しすると、ティモが元気な様子で出社してきた。彼に容体を尋ねると「おかげですっかり良くなったよ」と明るく答えたので、僕たちは一安心して仕事に向かった。

 始業時間になるやいなや仕事が立て続けに入り、一気に慌ただしくなる。急ぎの書類を作成し、税関からの確認事項に答え、大型X線検査の連絡をも素早く日程調整を図っていく。それから他の新規案件に対応し、イェンスと一緒にHSコードの確認を済ませる頃には昼休みの時間になっていた。

「驚いた、もう昼か」

「時間が経つのが早く感じられて良かったな」

 僕の呆けた表情にイェンスがにやついた表情で言葉を返した。そうなると結局は僕もにやけてしまい、お互いに軽口をたたきながら事務所を出てカフェを目指した。

 たまに利用する遠方のカフェに入ると、珍しくスヴェンが先客でいた。彼は僕たちを見つけるなり相席を勧めてきたので、せっかくだからと彼と一緒に昼食を取ることにした。

 めいめいに注文を済ませる。それを見計らったかのように、スヴェンが少しため息をついてからゆっくりと口を開いた。

「君たちに会ったら伝えようと思っていた。ジャークの件で、君たちに不快な思いをさせてすまなかった。イェンス、いくら君の以前の先輩とはいえ、今は俺の部下だ。ベアトリスからの報告が無ければ、彼が抱えている問題に気付けなかっただろう」

 スヴェンは頭を抱え始めた。

「何かあったのですか?」

 イェンスが控えめな口調で彼に尋ねると、彼は首を少し横に振ってから僕たちを見て言った。

「彼は確かに愛想がよく、それなりに知識もあるのだが、おしゃべりが過ぎる。まだ入社して日が浅いから、他の社員とコミュニケーションを取る必要があるという彼の主張は理解しているが、長時間のおしゃべりの時間も残業時間に含めるのだから手を焼いている。もちろん、そのことで注意はしたのだが、もっともらしい御託を並べて弁解されてしまってね。確かに円満な人間関係は円滑な仕事運びを生むだろうが、明らかに限度を超えている」

 スヴェンは真剣な眼差しでイェンスを見つめた。

「せっかくここで会ったのだから、過去の彼の仕事ぶりがどうであったかを教えてほしい。今後、彼をどう教育していくかの参考になるはずだ」

 スヴェンの要望にイェンスは過去のジャークの素行を、なるべく簡潔かつ客観的な視点から伝えていった。話の途中で料理が運ばれてきたのだが、彼の口調が途切れることはなかった。

 イェンスの説明には、彼自身がジャークのことについてどう思ったか、どう感じたかという視点が一切無かった。僕は彼があくまでも客観性を保ってスヴェンに判断させようとしていることに感銘を受け、じっと彼を注視した。

「なるほど。それで彼が病気で休んでいる時に、誰か彼の様子を見に行った者はいなかったのか?」

 スヴェンは怪訝な表情で尋ね、それからようやく料理を口に運び始めた。

「いえ、当時は忙しくてそこまで余裕がありませんでした。彼が再び出社するようになってからギオルギが真相を問いただそうとしましたが、彼は体調が本当に悪かったのだと主張し続けたのです。確かに街中で彼が元気そうに歩いているのを見かけた者もいたのですが、彼の主張どおり、病院からの帰り道でたまたま調子が良かったのかもしれません。疑い出したらきりがありません」

 イェンスの言葉にスヴェンはじっと考え込んでいるようであった。僕たちはその様子を気にかけながら食事を取っていたのだが、不意にスヴェンの眉間に刻まれていたしわが消え、落ち着きある表情へと変わっていった。

「そうか。教えてくれてありがとう。ところで、君たちは先月コンサートホールに来ていなかったか?」

 スヴェンはそう言うとようやく笑顔を見せた。

「はい、クラシックコンサートを鑑賞しに行っておりました。あなたも来ていたのですか?」

 僕の質問にスヴェンは嬉しそうに答えた。

「ああ、家内と一緒に行ったんだ。その時、会場で君たちを見かけた気がしていたのだが、やはりそうだったか。もともと家内がピアノを習っていて、昔からそういうのに出掛けてたんだ。俺には十五歳になる娘と十歳の息子がいるんだが、その娘が小さい頃からピアノを習っててね。といっても特別上手いわけではないんだが、それでも休日に家内と娘が一緒にピアノを弾いている姿を見ると、なんていうか、微笑ましいと思えるんだ。まあ、ほとんどの休日は息子が所属するスポーツチームの練習に付き添うんだけどな」

 スヴェンの瞳にはあの光が微かに放たれていた。その人の内面を映し出すような、繊細な輝きをそっと捉える。彼はその後もジャークのことは話題にせず、彼の家族について嬉しそうに話を続けた。僕は今まで同業者としての一面しか見せてこなかったスヴェンの、思いがけない一人の人間としての素の姿に不思議と感銘を受けていた。いや、普通の人間が放つ『普通である』ことの尊さに魅力を感じていたのかもしれない。

 食事を終えたスヴェンが静かに言い放った。

「君たちから有意義な話が聞けたから、ここは俺が支払おう」

 僕はそれを聞くなり戸惑った。イェンスならともかく、僕に関して言えば全くのおこぼれでしかなかった。僕が遠慮がちに口を開けたその時、スヴェンが何かを察知したのか、朗らかな様子で付け加えて言った。

「おっと、気にするな。ジャークの不要な残業代に比べたら安いもんだ。もし、あいつがまた君たちに迷惑を掛けることがあったら、遠慮なく俺に知らせてくれ。じゃあな」

 スヴェンは颯爽とカフェを出ていった。僕たちもいくぶん神妙な面持ちで事務所へと戻る。自席に戻るなり、雑談をしていたティモとジャンが僕たちのところにやってきた。

「おい、知っていたか? ジャークのやつ、税関でベアトリスと揉めてたんだってな。彼女が彼に、『油ばかり売っている』って叱ったそうなんだ」

 ジャンの言葉にイェンスが苦笑いを浮かべて返した。

「すまない。昨日は終業時間間際に忙しくなったのと、今朝は君が忙しそうにしていたから伝えなかったのだけど、僕もその場に居合わせたんだ」

 するとジャンは合点が行ったらしく、勢いよく笑いだした。

「ああ、だからジャークがずっと税関にいたわけか。なんでも、すぐ済む用事で彼を税関に行かせたのになかなか彼が戻って来ないから、スヴェンが彼に電話を掛けるのではなく、あえてベアトリスに様子を見に行かせたそうなんだ。俺も又聞きだったから、そこら辺がわからなくてさ。そりゃ、面白い現場だったな」

 彼はそう言うと明るい笑顔を残して彼の席へと戻っていった。

 午後は書類がさらに増えたので僕たちは黙々と働き続けた。ティモが税関へ行って戻って来たのだが、変わったことは何も無かったのか彼から特に報告は無く、その後もひたすら目まぐるしい時間が過ぎていく。三時間ほど残業をしてようやく全ての作業が終了すると、ローネが両手を頭上高くに伸ばして「ああ、やっと終わったわ」と疲れた表情を見せた。

「明日はゆっくり休めるといいですね」

 僕の言葉に彼女はにんまりと笑ってみせた。

「実はね、明日は夫と久しぶりに二人きりで外食しに行く予定なの。子供たちも大きくなってきたし、たまにはゆっくりしてきたらって妹夫婦が子守役を買って出てくれたのよ」

「いいですね。俺、風邪引いてたから、念のため明日予定入れずにいたんだけど、なんだか暇を持て余しそうだ」

 ティモがさびしげに反応する。するとそれを拾ったジャンが彼に話しかけた。

「それならちょうど良かった。明日の晩、例のドーオニツの交流パーティーがこの近くで開催されるみたいなんだ。予定がないんなら一緒に行ってみないか? 聞いた話だと同業者の若い女性たちも来るらしい」

「そうだな。しばらく行ってなかったし、面白そうだから行ってみよう。君たちは? もし予定が無かったら一緒にどう?」

 ティモは屈託のない笑顔を僕たちに向けていた。しかし、当然のごとくユリウスと僕たちが知り合いであり、明日彼の家に遊びに行くのだとは到底言えなかった。

「明日は知り合いの家に招待されているんだ」

 イェンスがさわやかな作り笑いを浮かべたので、僕は内容を少し変えて控えめに答えた。

「僕は知り合いと出掛ける用事があるんだ」

「そうか、それなら仕方ないな」

 あっさりと引き下がったティモは、ジャンと明日の交流パーティーについて話し出した。その様子を優しく見守っていたローネが、「じゃあ、私は帰るわ。お先に」と帰って行ったので、イェンスと僕もそれとなく帰り支度を始める。すっかり話し込んでいるジャンとティモに「お先に失礼します」と声をかけると、僕たちは静かに事務所を出た。

 事務所を出てしばらくの間、僕たちは一言も発することなく急くように歩き続けた。そして事務所から充分離れた場所まで来たところで、ようやくお互いに顔を見合わせる。その途端にこらえていたものがあふれ出し、僕たちは吹き出すように笑い合った。

 いよいよ明日が迫ってきたのだ!

 気もそぞろのまま、カフェで手早く食事を済ませる。会話はほとんどなく、それでも僕たちは時々目を合わせてはにやついた。ユリウスの指示どおり、外泊の準備をしないことでイェンスと確認し合い、うずくような高揚感のままでアパートへと戻る。少しだけ夜空を眺めても僕の興奮が収まることはなく、歯を磨いている間でさえ、明日はどのような歯磨きを体験するのかと愉快な気分になった。逸る気持ちをなんとかなだめながらベッドにもぐりこみ、深呼吸を繰り返しているうちに感情がまろやかに融けていく。そこに最後まで残った静かな喜びを大切に心の中にしまい込むと、美しい朝の到来を意識の奥底で待ち受けるべく、力を抜いて睡魔を招き入れることにした。

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