第16話

《第四章》

 仕事始めの朝は濡れ雪が降っていた。僕が撥水加工されたジャージを着て彼のアパートへと向かうと、彼も同じような服装で僕を待っていた。微笑みながら挨拶をかわし、早速いつものコースを一緒に走る。せっかくだから事務所まで足を伸ばそうという話になり、事務所近くまで走ると、早朝にもかかわらずギオルギとムラトが事務所に入って行くのが見えた。イェンスを見ると彼が目配せしたため、走るのを一旦中断して新年の挨拶をギオルギとムラトに伝えることにした。

 ギオルギとムラトは僕たちを見て相当驚いたらしく、いったいどうしたのかと怪訝な表情で尋ねてきた。早朝で、しかもジャージ姿で事務所にやってくるとなれば、理由が見当つかないのも当然のことであろう。そこで僕たちは最近二人で早朝の街を走るようになり、今日事務所まで来たのはたまたまであること、アパートに戻って着替えたら改めて出社することを説明した。

「そうだったか。一緒に走るとは、君たちは本当に仲が良いのだな。では、また後で会おう。そうだ、今年もよろしく頼むよ。君たちには相当期待している」

 ギオルギもムラトも朗らかな笑顔を見せた。軽率な行動を取ってはいたが、悪い結果には至らなかったため、イェンスも僕もひとまず胸を撫で下ろした。

「ありがとうございます。今年一年、良い仕事をお見せできますよう、心を込めて取り組んでまいります。それでは失礼いたします」

 僕たちはゆっくりと事務所を出ると、急いでそれぞれの部屋へと戻った。軽くシャワーを浴びて身支度を整え、朝食を取る。本日二回目の外出は傘を手に持ってからアパートを出た。出勤途中でイェンスと合流することは無く、事務所に着くとイェンスはすでに着席していた。

「早かったね」

 僕が声をかけると、彼は「さっき着いたばかりさ」とのんびりした口調で返した。ほどなくローネが出社し、明るい笑顔で僕たちに話しかけてきた。

「おはよう、クラウス、イェンス。二人とも早いわね。休暇はどうだった?」

 その言葉を皮切りに他愛もない会話を三人で交わしていると、他の人たちもぞくぞくと出社してきた。営業時間前にギオルギから挨拶があることは昨年のうちに社内連絡があったため、やがて皆が一か所に集まり始める。そこにギオルギが登場したのだが、彼は今朝見た時よりも、ずいぶんと熱意にあふれているようであった。

「おはようございます。皆さんとともに、この日を迎えられることを非常に喜ばしく思っております。今日は新たな歴史を踏み出した記念すべき日です。これまで会社を支え、素晴らしい能力を発揮してきてくれた皆さん一人ひとりに感謝を申し上げるとともに、ますます素晴らしい手腕を発揮されるよう期待しています。そして私たち経営陣は単に期待をするだけでなく、きちんと皆さんの仕事を相対的に評価し、それに見合う対価を公正な見地から支払い、また、安心かつ安全に働いてもらえるよう、さらなる努力を重ねていく所存です。皆さんと皆さんの家族のご健康とご繁栄を祈りつつ、私たちの事務所のさらなる発展と成功を祈ってお互い最善を尽くしましょう」

 ギオルギの言葉にどこからともなく拍手が上がったので、イェンスも僕も彼に拍手を送る。続けて、ムラトがゆっくりと話し出した。

「仕事始めで忙しくなると思いますが、力を合わせて幸先のいいスタートを切りましょう。皆さんの活躍を期待しています。では、解散して持ち場に戻ってください」

 その言葉を皮切りに早速仕事が始まる。午前中はある程度予想はしていたものの、実に慌ただしく過ぎ去っていった。休暇中に溜まりに溜まった未通関の貨物を捌くため、ひたすらたくさんの商品を分類し、計算をしていく。それでも書類の山に辟易することはなく、どこか気持ちに余裕を感じながら仕事に取り組み続けた。

 ノルドゥルフ社の輸入もまた、間近に迫っていた。ヴィルヘルムとハンスとフランツに、メールにて新年の挨拶をしながら入港予定日に変更が無い旨を伝える。昼前になって彼らから挨拶とお礼のメールが届き、そのまま昼休みに入った。ローネとティモがイェンスと僕に昼食を食べようと誘ってきたので、四人で傘を差しながらカフェへと向かい、休暇中の様子を話し合いながら昼食を取る。ローネもティモもいろいろとあったものの、日常生活の延長線上から離れることはなかったらしく、それぞれ休暇を満喫していた。

 午後になり、ティモが用事を取りまとめて税関へと赴いていった。僕の隣ではイェンスが相変わらず効率的かつ正確な仕事ぶりを黙々と発揮しており、ひそかに彼に対して対抗意識をにじませる。その意欲が途切れなかったためか、動かぬ山のようにあった書類の束も夕方にはきれいに無くなり、思いのほか残業も少なかった。

 その日の仕事が終わろうとした時、イェンスと僕のスマートフォンにオールからメールが入った。今朝、イェンスと相談してオールを夕食に誘っており、その返事が来たのである。歓楽街でもいいと伝えていたものの、彼の提案した店は歓楽街からは離れた、僕たちも何度か食べたことのある馴染みの店であった。

「彼らしい気遣いだ」

 イェンスが微笑みながら言った。

「本当にそうだね」

 友だちの多いオールが、僕たちとの食事の約束を仕事始めのこの日に選んでくれたことは嬉しかった。そのせいか、冷たい風が容赦なく吹き付けても、僕たちはかき分けるかのように進んでいった。

 その店に到着した。オールはすでに僕たちを待っており、先に少し飲んでいたようである。早速新年の挨拶を陽気に交し、彼に勧められるがままにワインを飲む。オールはもともとの顔立ちもあってか、ずっと柔和な笑顔を見せていた。しかし、僕たちがソフィアのことを尋ねると彼は一変して凛々しい顔付きへと変わった。

「俺たちの結婚式のことなんだけどさ」

 オールは結婚式の準備をソフィアと二人で少しずつ始めており、年末・年始も一緒に過ごしたことを幸せに満ちた笑顔で報告したのであった。『彼らの間には深い愛と信頼とが確実に育まれている』。そのことを確認するだけでも心が喜びで満たされていく。ふとイェンスを見ると、彼もまた同じように感じていたのか優しい顔付きでオールを見ていた。

 その時、オールが意味ありげな視線でイェンスと僕とを交互に見た。その真意を測っていると、彼は少しおどけた表情で話し始めた。

「お前たちはどうなんだ? まあ、彼女がいないことぐらい察しはつく。お前たちは奥手なのか理想が高いのか、けっこうな美人やかわいい女の子に色目使われても反応が薄いからな。実を言えば、お前たちを紹介しろという女の子が何人かいるんだ。けど、俺はお前たちの了承も得ないで勝手に話を進めるのは嫌だし、話を聞いてやると面倒になりそうだから、そもそもお前たちとは顔見知り程度の仲だって言って突っぱねている。どうだ、これがお前たちにとって正解なんだろう?」

 オールの当然といった面持ちにまたもや彼の優しさを感じ、笑顔がこぼれる。彼はどこまでも美しい人であった。

「ありがとう、オール。正直なところ、僕たちは出会いの時点から自然の成り行きに任せているんだ。君に迷惑を掛けてすまないけど、ぜひともそのまま頼むよ」

 イェンスが感慨深げにオールに言うと、彼は「どうってことないさ」と明るく答えた。

「その、念の為聞きたいのだけど、その女性たちは僕たちが知っている人なんだろうね?」

 僕が何となしに小声でオールに尋ねたからか、彼もまた小声で返した。

「そうでもない。中には一方的にお前たちを知っている女の子もいるだろう。どのみち物流関係者で揃っている。港頭地域でお前たちを見たんだろうな。俺が知り合いだとよく気付いたもんだよ」

「そういう女性は、いったい僕やイェンスに何の期待を抱いているんだろう?」

 僕には彼女たちが不思議でならなかった。以前イェンスが話していた、ごく一部の女性が僕と親しくなりたいという願いには、何らかのメリットが彼女たちにあるからこそ抱くのであろう。しかし、普通の人間の枠をはみ出しかけている存在が彼女たちの求める期待に沿える何かを提示することなど、本当に可能なのであろうか。

 僕の言葉にイェンスは微笑み、オールが笑いながら答えた。

「そりゃ、女の子の王子様さ! お前たちは見た目が整っていて、振る舞いも落ち着いている。そのうえ、優しいとなれば、女の子はお姫様として王子役のお前たちがかしずく期待を淡く持っているのさ」

「王子様にお姫様か。どちらも定義があいまいだな」

 イェンスが苦笑いを浮かべながら言ったので、僕はつい捻くれたことを言った。

「オール、君の話だと、絵本に出てくるような王子様を待つしおらしいお姫様ではなく、大胆で冒険心のあふれるお姫様に聞こえるんだけど」

 それを聞いたオールはにやりとした表情を浮かべて言った。

「お前たちを紹介しろというくらいだ。そりゃ、確かにしおらしいお姫様には程遠いな! まあ、俺はそういうのはよくわからないんだが、お前たちを紹介してほしいと言われた日の夜にソフィアに相談したら、彼女が呆れた顔で言ったんだよ。『あの見た目と振る舞いだもの、あの子たちが自分のことを大事に扱う『身も心も捧げる王子様』になると勝手に期待を寄せるのは個人の自由だけど、知り合いさえすればチャンスが巡ってくるって発想は楽観的すぎるわ。それだったら、同じ事務所の若い女性たちがとっくに成功しているはずだもの』。俺は実を言うと、ソフィアが説明してくれるまでそんな風に考えたことも無かった。だから、そのことに感心していたら、彼女に笑われたんだ。『あの子たちが仮に紹介をねだる女性たちと交際したとしても、彼女たちからは大切にされないと思う。彼女たちはあの子たちのことを装飾品程度にしか思ってなさそうだもの』てね。それを聞いて、俺は彼女の頭の良さに感心したんだ。なるほど、言うとおりだなってね」

 オールがさらりと惚気ながらも言った言葉が――実際はソフィアが言った言葉なのだが――実に的を射ているように思われた。この僕にも、何らかの価値を見出したからこそ、熱い眼差しを送ってくれたのであろう。だが、僕に王子様役を期待するのは見当違いなのだ。

 僕は庶民の家庭で育ってきた。イェンスのように名門の跡取りとして美しい作法やマナーなどを幼少時から厳しくしつけられたおかげで、優雅な振る舞いや身のこなしができているとは言い難かった。もちろん、僕なりに礼儀正しさや振る舞いには気をつけているのだが、『王子様』という抽象的な概念とは相当の隔たりがあると考えていた。いや、無知な僕が現代における『王子様』という単語が持つ意味合いを、しっかりと把握できていないのかもしれない。

「イェンスは間違いなく王子様タイプだな。クラウスは純朴で真っ直ぐ、つまり一途さがある感じだろ?」

 オールの僕に対する評価は意外であった。腹黒さも怠惰さもある僕が、果たして一途さがあるといえるのか。

「まあ、そのことは俺の意見だが、ソフィアにそのことを言ったら彼女も同意してたぞ」

 オールがビールを片手にひょうひょうと言った。

「僕が王子様か。僕の実態を知ったら、ずいぶんとがっかりするだろうな。だけどクラウス、君のことなら納得する。オールが言うとおりだ。君は誠実だし、優しさと礼儀正しさがある。何より顔立ちが美しい」

 イェンスがしみじみと僕を見ながら言ったので、僕は思わずむきになって返した。

「まさか、イェンス。君こそがその人じゃないか! 君がどんなにか優しさにあふれ、知的で一緒にいて心から安らげることを知ったら、がっかりするどころかますます君と親しくなりたいという女性が増えるだろうさ。君は見た目だけでなく、心にも美しさがある。気品も感じられるし、僕は君が世界中のどこに行っても、誰と会っても全く申し分のない立派な青年だと思っている」

 僕は言い終えた途端にきざっぽい自分の言葉が急に恥ずかしくなった。

「ありがとう、クラウス」

「お前たち、会話アブねえぞ」とオールがあきれた口調で言ったのだが、表情はやわらかかった。

「まあ、お前たちがお互い尊敬しあっていることは、見ていればわかる。他の奴らが言ったら危うく聞こえる言葉でも、お前たちだとなぜかさわやかに感じるから不思議だ。何はともあれ、お前たちが何の接点もないのに、一方的に好意を寄せてくる女性に興味が無いことはわかっている。けど、万一その気になったら遠慮せずに俺に言えよ。お前たちと親しくなりたい女性たちの中から、気が合いそうな女性をソフィアの審査を受けてから紹介してやるからさ」

 その言葉が彼らしい優しさに満ちていたので、イェンスも僕も素直に感謝の言葉を述べた。しかし、オールが「そん時は手数料たっぷりもらうからな」とおどけたので、結局は笑ってしまった。

 オールがそろそろ『楽園』に帰ると言うので、会計を済ませて店を出る。外に出るなり相変わらず冷たい風が吹き付けてきたのだが、それでも僕たちは陽気であった。イェンスと僕とで「ソフィアによろしく」とオールに伝えた。すると、少し酔っ払っていた彼は満面の笑顔を見せ、「いい女だろう、俺の恋人だ。またな」と叫んで去って行った。

 僕たちも帰路に就く。風が少しでも止むと幾分寒さが和らいだようで歩きやすかった。オールは本当にいい奴だと話しながら、雲に覆われた頭上を見上げる。オレンジ色の光を反射した灰色の雲が、かすれた紺色の夜空を意気揚々と流れていく。会話が王子様の話に戻った。仮に僕たちに好意を抱く女性と交際した場合、いったい彼女たちはどの段階で僕たちに幻滅を抱くのか。その点を検証していくうちに話が盛り上がり、僕たちはそのことを面白おかしく話し合った。そもそも彼女たちが王子様役を僕たちに期待している確証も無かったのだが、過度な期待を気に病むことなく笑い飛ばせる余裕があったのは、やはりイェンスのおかげであった。彼が僕以上に苦悩を抱えているとはいえ、その彼が親友として僕の中に組み込まれていることは何よりも心強く、また心地良かったのである。

 友情の素晴らしさというのは、大昔からほとんどの人が体験してきたことであろう。反面、その友情から裏切られたり傷付けられたりする可能性もあった。かつての僕が他で経験したことも、彼との間で起こる可能性が全く無いとは言い切れまい。だが、今の僕には友を想う心構え一つで回避できるように思えていた。

 ほどなくイェンスの住むアパートに辿り着き、彼と別れて一人になる。その途端に手に持っていた傘が持て余し気味になり、少しぶらぶらと揺らしながらアパートへと帰った。

 水曜日が過ぎ、木曜日になる。今日はノルドゥルフ社の輸入貨物を乗せた本船が入港する日であった。水処理施設に関わる設備の輸入申告書はイェンスがとうに作成を済ませており、ローネと僕とで申告書の内容に不備やもれがないかというチェックも昨日のうちに済ませていた。就業時間が始まるや否や、早速イェンスが税関に予備申告を入れる。結果は書類審査扱いであった。彼はすぐに専用の回線で申告書類の電子送信を済ませ、それからハンスらにメールにて通関状況を伝えた。

 その日の午後になり、通関専用の端末で審査状況を確認してみると、税関がノルドゥルフ社の輸入申告を『審査終了』として処理したことが確認できた。僕たちはほっと胸を撫で下ろし、早速その旨をフランクに報告すべくイェンスが電話をかける。最初のうちは会話がスムーズに流れていたのだが、途中から彼はフランツに輸入通関の流れを再度説明するようになった。どうやらフランツはイェンスに熱心に尋ねているらしかった。

「予備申告というのは、外国貨物が保税地域に搬入される前に税関に対して輸入申告ができ、なおかつ審査を受けられるというものです。しかし、あくまでも予備ですので、保税地域に搬入がされてからでないと本申告に移ることができません。搬入は明朝、搬入場所であるコンテナ・ヤードのほうで、他の貨物と一括して搬入が上がる予定と確認を取っております。御社の貨物はすでに税関の書類審査を受けており、搬入されれば自動的に本申告が入るようにも手配しております。つまり、搬入が上がり次第すぐに輸入許可となり、打ち合わせどおりに進んでいくことをお知らせしたかったのです」

 それを聞いたフランクが、「そうなんですか!」と非常に明るい声で返したのが電話口からかすかにもれ聞こえる。彼は続けてイェンスに何かを伝えたようで、イェンスが朗らかな笑顔を浮かべた。

「そうなのです。十五年ほど前から関係省庁に対するほぼすべての申告と申請が、専用の回線を使用することで簡単に提出できるようになりました。簡単に行われる分、慎重さをより求められるようになったと伺っております。……ええ、そうですね。ヴィルヘルムとハンスにもよろしくお伝えください。それでは明日また輸入許可になり次第、ご連絡申し上げます」

 彼は丁寧に受話器を置いてから僕のほうを見た。

「今日・明日の天候は荷役にそこまで支障をきたすような天候じゃないし、審査も無事終了となったから、後は明日の搬入待ちだな。その後はオールがしっかりと配送してくれるし、ひとまず安心して良さそうだ」

「そうだね。今のところ非常に順調だ。このまま上手く行けば、ノルドゥルフ社との次につながるかもしれない」

 それを聞いていたローネが朗らかな笑顔を浮かべて言った。

「あなたたちはよくやっているわ。その調子でこの急ぎの書類もお願いね」

 彼女は新規の書類を数件、僕たちに手渡した。そこでインボイスをよく見てみると、珍しく輸出の案件が混じっていた。

「たまに輸出される、例のアウリンコ製の高級菓子とドーオニツ製菓子よ。カット日は明日だから頼んだわよ」

 彼女はそう言うと冷凍の魚と野菜の輸入食品届と植物防疫の手配をすべく、続けざまにティモに指示を出した。

 カット日とは、輸出する際にブッキングを入れた船積みに間に合わせるための、搬入受付の締切日を指す。つまり、明日までには必ず輸出許可となるように手配しなくてはならないのである。

 アウリンコ製の菓子はその希少性と高級さから、地方国の富裕層の間で特に人気を博していることは知っていた。しかしながら、僕は甘いものに興味が無かったうえ、そもそもアウリンコ製のもの自体が気安く買えるような値段でも無かったため、身近にあっても自ら進んで買うことはなかった。はるか遠くにある地方国民のほうがそれなりに食す機会が多いということが、金銭的な余裕の問題が根本にあるとはいえ、僕はくだらなくもそのことを感慨深げに捉えていた。

 そのようなことを考えつつ申告書の作成を終える。書類のチェックを先にイェンスが担当することになった。彼は相変わらず素早く、そして機械のように審査を正確に済ませてから最終責任者であるローネに書類を手渡した。ローネの審査も無事にすり抜けたその申告は、あっという間に輸出許可書として配信されて僕の手元から離れていった。

 昼休みの時間を迎えた。イェンスと外へ出かけようとしたその時、ジャンが事務所から少し離れた場所にある、地方国の料理を提供するレストランが穴場だから行かないかと僕たちを誘ってきた。特にこだわりのなかった僕たちは彼の提案に快諾し、そこにティモも一緒に加わって四人でそのレストランへと向かうことにした。

 異国情緒あふれる内装を興味深く眺めながら、ジャンに勧められるがままに香辛料の効いた珍しい料理を注文する。どうやら彼は休暇中にこの地方国を友人と訪れていたらしかった。以前から憧れであったその国の名物料理を体験したところ、そのあまりの美味しさに感激し、事務所の近辺でも食べられるところをインターネットで熱心に調べたのだという。僕にはジャンが感じたほどの感激は訪れなかったのだが、それでも料理は美味しく、お礼を言いながら感想を伝えた。

 その時、ジャンの瞳からあの光が一筋放たれたのが見えた。彼が見せた微笑みが純然たる喜びから来ていることを理解して、僕もまた軽やかな喜びに包まれる。誰かの自然な美しい眼差しを見られることは幸運なことであった。

 僕がこのように考えていられるうちは、きっとこの世界からも受け入れてもらえるのかもしれない。中途半端でも僕なりに受け止める日常の光景は、決して窮屈なものだけではなかった。それとも、いつかはこの光景でさえ重荷に感じられる日が来るのであろうか。

 木曜日も足早に過ぎ去り、金曜日になった。ノルドゥルフ社の貨物は無事搬入の確認が取れ、本申告が行われた。予想どおり何事も無く輸入許可となり、イェンスがすぐさまヴィルヘルムとハンスとフランツにメールにて許可連絡を入れる。お昼近くになってからヴィルヘルムから届いたメールは感謝の言葉と今後につながる挨拶で締めくくられていたため、イェンスも僕も胸を撫で下ろし、一時その喜びに浸った。

 二時間の残業をしてようやく金曜日の分も無事仕事が終了すると、安堵からつい大きく背中を伸ばした。それを見てイェンスも真似して体をほぐす。今日はいつもより充実感があったためか、お腹もずいぶん減っていた。

 イェンスと一緒に帰る途中、レストランで夕食を取ることにした。注文を済ませ、他愛も無い話をしながら料理を待っていると、近くの席に座っていた男女の会話がたまたま耳に入ってきた。僕が反応したのは実に単純で、『オーケストラ』という単語が聞こえたからであった。

「ねえ、やっぱり興味無い? コンサートホールで行われる明日の演奏会、私は観たいなあ」

 不行儀だと思いながらも少しだけ視線を向けると、相手の男性がむっとした表情で答えたのが見えた。

「あんな音楽に興味ねえよ。退屈で眠くなってしまう。それより映画観に行こうぜ」

 僕は視線をイェンスに戻した。イェンスも彼らのやり取りに気が付いていたのか、澄ました表情で僕を見る。女性が拗ねた口調で反論を始めたのが聞こえたのだが、ちょうど僕たちの料理が運ばれてきたので、関心は目の前の消費される芸術品へと移っていった。

 料理に舌鼓を打ち、イェンスとの会話を楽しむ。そうこうしているうちに男女はいなくなっていた。結局、彼らはコンサートに行くことにしたのであろうか。僕は水を一口飲むと話題を変え、そのことについてイェンスに話しかけた。

「ねえ、あの女性が言っていたコンサートって、ひょっとしてあそこに貼られているポスターのことかな」

「ああ、きっとそうだろう。クラシックの名曲とオペラの有名なアリアを歌うコンサートだったと思ったのだけど、まだチケットはあるんだろうか? あの女性の話を聞いていたら、少し興味が湧いてきた」

 イェンスはそう言うとスマートフォンを取り出し、コンサートのチケット情報を調べ始めた。少しすると彼は感激した表情を浮かべ、小声で話しかけてきた。

「驚いた、ちょうど二席が並んで残っている。舞台からずいぶん遠いけど、それにしても不思議なめぐり合わせだな」

「もしかしたら、さっきのカップルがキャンセルしたのかも。イェンス、良かったら明日一緒に行ってみない? 僕はホレーショに勧められてから、ずっと興味があったんだ」

 僕の提案を聞いた彼は明るい笑顔で力強くうなずいた。

「もちろんだ、クラウス。一緒に行こう。それなら今チケットを取る。少し待っていて……よし、取れた。明日この発給番号を窓口で見せると、紙のチケットを受け取れるみたいだ」

「ありがとう、楽しみだな。ああ、でもいったい何を着て行けばいいんだろう?」

「少しだけいい格好をするだけさ。普段どおりの君なら大丈夫だ」

 僕たちは明日の午後一時頃に僕が彼を迎えに行き、そこから一緒に向かうことで約束を取り付けた。

 レストランを出て彼の部屋に寄り、少しだらだらと過ごしてから自分の部屋へと帰る。音楽鑑賞という言葉に胸を躍らせるも、一週間の疲れからかあっさりと就寝した。

 次の日の朝、雲の隙間から太陽が顔を覗かせている中を僕たちは相変わらず走った。アパートに戻って軽くシャワーを浴び、のんびりと朝食を取る。たまっていた洗濯ものを洗い、今日演奏される曲を調べたりしながら、ゆったりとした気持ちで過ごしているうちに午前中が過ぎ去っていく。僕はかなり優雅な気分に浸っていた。

 昼食を買いに出掛けようとした時、イェンスから電話が入った。彼はためらいがちに僕の名を呼び、それから待ち合わせの時間を早めたいうえに今から会いたいと切り出してきた。その申し出自体にはあっさりと快諾したのだが、どこか陰りのある彼の口調が気になり、何かあったのかと訊き返す。しかし、彼は「すぐに到着するから、その時話す」とだけ言って電話をあっさりと切ってしまった。

 何か嫌な予感がし、急いでイェンスの住むアパートのほうへと向かう。イェンスは言葉どおり近くまでやってきており、すぐさま彼と合流した。

「ごめん、クラウス」

 彼は僕を見るなり、急きょ予定を変更したことを謝ってきた。その表情はどこか暗く、ひょっとしたら彼が家族とさらに険悪な状況になったのではないかと不安になる。イェンスはため息をつくと、うんざりした様子で口をゆっくりと開いた。

「君に以前話した、僕をよく歓楽街に誘っていた元同僚の男性に、さっきばったりと会ったんだ。日用品を買うついで昼食を取ろうと駅のほうへと歩いていたら、声をかけられてね。彼は僕の肩に手を置いて、『久しぶりだな、元気にしているか? そうだ、これから一緒に昼食でも行かないか?』と非常にしつこく誘ってきたんだ。僕が断ってその場を立ち去ろうとしたその時、彼は先々週からスヴェンの勤めている会社で働き出したと伝えてきた」

 僕はまだ話の全容を聞いていないにもかかわらず、すでにしかめ面でイェンスの話に耳を傾けていた。

「彼はジャークというんだが、彼は僕を引き止めてこう言った。『俺が以前イェンスと同じ事務所で働いていて、あいつとは友だちなんだって事務所の女の子たちに言ったら、すごいもててさ。お前って相変わらずもてるんだな。噂だとお前、いつもつるんでいる奴がいるそうじゃないか。そいつも女の子たちの間では有名らしいな。実は税関に行った時、同業者の女の子に挨拶がてらに話しかけたら、話の成り行きで俺がお前と友だちだってことがばれてさ。そしたら、その女の子がぜひお前を紹介してって頼むんだよ。そうでなくとも久しぶりに会ったんだから、また以前のように飲みに行こうぜ。なんならお前がいつもつるんでいる奴、クラウスって名前なんだろう? そいつも連れて来てやっていい』。僕は興味が無いし、僕の親友に不用意に関わることはするなと、厳しく伝えてから急いでその場を立ち去った。彼は僕に下心があるから強引なことはしてこないけど、僕のいないところでさも彼と僕が親しくしていると吹聴しているのが気に食わない」

 イェンスが憮然とした表情を見せながら語気を強めた。普段の落ち着いた彼からは想像もつかないその様子に、よっぽど彼にとって不快な再会であったのであろう。そのうえ、彼の話だとジャークは僕を間接的に知っており、あまつさえ接触までをも試みていた。僕の知らないところで、ジャークという男の交友関係に僕自身が巻き込まれていたのである。そこに不愉快さを感じると同時に、僕の評判と名前が独り歩きしているとことに不安を覚える。思えば、ずいぶんと不気味な状況ではないか。

「ひとまず歩こうか、君もお腹空いているだろうし」

「そうだけど……ジャークって君を利用していたんだろう? オールがそれに似たことを言っていたのを思い出したよ。今度も君と親しいということを女性たちにアピールすることで、自分を高く見せようとしているんだね。仮に君と一緒にいたとしても、彼の本質が変わるわけではないのに」

「そのとおりなんだ。ジャークにとって、僕は彼を権威づけるためだけの道具だ。彼は僕の実家のことを以前から知っていたようで、一緒に働いていた時はうんざりするほど大きな声で頻繁に話しかけてきていた。『国立中央アウリンコ校の特別コースってすごいな、頭がいいんだな』『グルンドヴィ家ってでかいんだろ? 使用人がいる生活ってどうなんだ? 女の使用人とは遊べるのか?』。彼はその他にも、非常に薄っぺらい話で僕を捉まえようとした。そこにオランカも加わった時は全く辟易してしまったよ。彼らにも礼儀正しくあるべきなのだろうけど、仕事をしないでおしゃべりばかりしていると、僕までもが他の人から冷たい目で見られるからね。だから、僕はだんだんと彼らとのおしゃべりを断るようになり、昼食は毎日場所を変え、ぎりぎりまで外で過ごすようになった。その状態が三か月ほど続いた時、ジャークが仕事で重大なミスをしてしまった。……あの時の彼の青ざめた表情は今でも鮮明に覚えている。僕はそれが悔悟や責任から来たものとばかり考えていた。だが、違ったんだ。彼は『実を言うと、今日は朝から非常に調子が悪いんだ。もう限界だ。頭も痛いし、吐き気と悪寒がする』と周囲に訴えたかと思うと、僕を見て『後を頼む』と言い残して早退していった。僕には彼を疑う余裕などなかった。すぐに税関と輸入者に対して説明をしないと、ますます不誠実になってしまうと考えたからね。だから、ギオルギを捉まえてすぐさま状況を説明した」

 僕はイェンスの言葉に驚いていた。入社して三か月目の新人に失敗の後処理を託して早退するなど、ローネなら絶対に取らない行動であろう。いや、僕がジャークの立場になったとしても、自分よりかなり年下でほとんど経験の無い新人に後処理を任せること自体があり得ないことであった。

「ギオルギはその時急ぎの要件があったため、ひとまず僕のほうから輸入者に事情を説明することになった。報告を受けるなり、電話の向こうで輸入者が激怒した。当然のことだ。僕たちが輸入者からの指示を見落として法令違反を犯したのだからね。しかも僕は当事者じゃない。そして税関もまた、あまりにも単純な不手際に不審がっていたから、結局はジャークの回復を待たずしてギオルギと僕とでその過失の対応に当たることになった。ジャークはギオルギが電話しても応答せず、メールで『体調不良のため、電話に出ることができない』と連絡をよこしたきりだったから、ギオルギが見限ったんだ。なんとか謝罪を済ませ、本来の手続きを経て輸入許可が下りた数日後、ジャークは体調が良くなったとかでひょっこり出社して来た。かれこれ十日間ぐらい休んでいたと思う。だけど、ギオルギがすでに彼の素行に疑問を抱いてしまっていた。それでギオルギはジャークに、医師の診断書を提出するよう厳しく求めたんだ。それを聞いたジャークは、『本当につらくてベッドからも起き上がれないような状況だった。以前も同じような症状が出て、その時医者に言われたんだ。一週間絶対安静に努めろ、ってな。俺はその教訓からずっと家で療養していたんだ。なのに、まるで人を疑うかのような口ぶりだ。ようやく回復できた人間に対して、思いやりある言葉さえかけられないのか!』と怒鳴るように返した。それを聞いて彼をかばう人もいたし、彼を責める人もいたのだけど、ギオルギは釈然としない表情であったものの、『わかった。それがお前の真実なのだな?』とだけ言って去っていった。僕にはギオルギの心情がなんとなく理解できていた。ジャークは僕に向かって、『経営者だからって何だ? あの態度は』と憤慨していたのだが、僕はもう彼と関わりたくなかった。そこで僕は冷静に『ギオルギはずっとその件で新人の僕と一緒に、真摯に対応してくれました。彼はさらに、あなたが教えてくれなかった仕事手順や倫理感さえをも僕に教えてくれたのです。僕は今後、ギオルギから学んだことを教本として、自分一人で仕事手順を考えてチームに貢献できるよう自立を図ってまいります』と伝え、彼とは最低限のやり取りを除いて遮断した。非情だということはわかっている。彼がそれをどう感じていたかは知らないのだが、その一か月後に彼は会社を辞めて去っていった」

 イェンスの瞳は澄んでおり、それでいて繊細な美しさを放っていた。おそらく彼は僕に話したことで、また一つ心が軽くなったのであろう。彼にとってその体験がどれほどまでの心労であったのか、僕には痛いほど伝わっていた。

「それは……本当に大変だったね」

「当時はね。今となってはいい経験を積んだと思っている」

 その時、ちょうどカフェに到着した。いくぶん気持ちが晴れたのか、窓際の席に案内されて注文を済ませたイェンスはさっぱりとした表情を見せた。しかしそれも束の間、通りの奥に目を向けた途端に彼はさっと顔を隠し、珍しく眉間にしわを寄せた。

「彼だ、噂をすればなんとやら。気付かれないとは思うが、まだ近くにいたのだな」

 そこで注意深く窓の外に目をやると、中肉中背の中年男性が行き交う人の波に見え隠れしながら歩いて来るのが見えた。身なりも顔立ちも決して悪くないその男性が店の横を通り過ぎた時、僕は小声でイェンスに確認を求めた。

「彼だね?」

「そうだ。実を言うと僕は初めて彼に会った時、どことなく嫌な雰囲気を感じた。だから、連絡先を聞かれてものらりくらりとかわして、教えていなかったんだ。彼はしつこく『教えろ』と粘っていたのだけどね。そういったこともあって、ギオルギに僕の連絡先を誰かに聞かれても断ってもらえないかと手を打つことにした。ギオルギは『君の個人情報だから、それは守るがどうしたのか?』と尋ねてきたのだけど、僕はジャークのことは話さず、働き始めて間もないから仕事を覚えることに専心したいのだとだけ返した。でも、ギオルギは気付いていたのだと思う。彼は最初の頃こそ、ジャークがわざわざ僕の席に頻繁にやって来て話しかけてきても何も言わなかったのだけど、一か月後には『ジャーク、おしゃべりはそろそろ切り上げろ。今は仕事の時間だ。そうでなくともイェンスに根掘り葉掘り聞くな。彼はプライベートをさらしにここへ来たんじゃない』と注意していたからね」

「イェンス、君は本当に大変な思いをしてきたんだね。僕は君が体験してきた話を聞くたびに、君の心情を思っていたたまれない気持ちになる」

「ありがとう、クラウス。君がそう言ってくれるだけで僕にとっては心強い。でも君、彼はきっと君にも近付く。最近は税関などへ行く用事をティモが請け負ってくれているから接触の機会はないかもしれないけど、こんなところで彼を見かけるくらいだ。今後ひょっとしたら会うかもしれない」

 料理がテーブルの上に並べられていく。それにつられて僕の鼻が即座に反応を示す。そうなると僕の空っぽの胃が一気に好戦的になった。

「オールも彼のことを知っているんだよね? オールとジャークなら気が合いそうにないから、心配は無用だろうけど」

 僕は香草で味付けされたチキンを口に入れる前に彼に尋ねた。イェンスはすでに一口味わっていたらしく、水を飲んでから言葉を返した。

「オールは顔だけ知っていると思う。でも、オールなら決して僕たちのことをジャークに知らせないさ。以前、ジャークが辞めてからオールに聞かれたことがあったんだ。『ジャークという奴と最近、一緒に出歩いていないな』ってさ。僕は彼が事務所を辞めていったことだけ伝えたのだけど、オールは知ってのとおり、勘が鋭くて優しいんだ。『そうか、でもお前良かったな。歓楽街で何度か見かけたことはあったけど、お前の表情が暗かったように見えてさ。事情は知らないが、正直なところ気が楽になっただろう?』ってね。オールは当時からいち早く僕が苦手としていることを見抜き、他にも僕を誘う人たちから僕をやんわりとかばってくれていた。しかも冗談を交えて、彼らの気分を害さないように伝えてくれていたんだ。彼には本当に感謝しているよ」

「僕もオールには感謝している。ソフィアという素敵な女性と彼がずっと幸せに暮らせるよう、何よりも願っているくらいだ」

 オールが今の僕たちの会話を聞いたら、『そんな気持ち悪いことを言うな、歓楽街に連れまわすぞ』と笑い飛ばすであろう。そういったところも彼の美徳なのだ。そんなことをイェンスと話しながら、その後ものんびりと昼食を楽しむ。

 カフェを出た。イェンスが日用品をまだ買ってないので、買い物をしてから帰るという。ジャークの件が気になったこともあり、僕が一緒について行くことを提案すると彼はあの微笑みを添えて快諾したので、早速店へと向かった。

 彼が買い物をしている間、店内をぶらぶらとうろつく。目新しいものや気になるものを見つけると、手に取って原産国や成分を確認し、HSコードで分類する仕事病ともいえる悪癖が僕にはあった。確認したところで何の意味もなさないのだが、目に付いたものを手にとっては何となしに眺める。そこにイェンスがやって来た。

「クラウス、また分類していたんだろう」

 彼が朗らかな笑い声を上げたので、僕はわざと得意気に返した。

「あそこにあるトイレットペーパーは48.03項でこの石鹸は34.01項だ。店の照明が94.05項で、この商品を陳列している棚が94.03項」

「さすがだね。では、僕も分類してみよう」

 イェンスもまたシャンプーと歯ブラシのHSコードを当てていったのだが、彼の口調があまりにも気取っていたのがおかしく、つい笑ってしまった。

 イェンスが会計を済ませて僕のところに来ると、僕はあえて彼に手当たり次第に商品を指差して分類を促した。すると彼は明るい口調で的確にHSコードを言い当てていった。店を出るなり、今度は彼のほうから質問が出される。そうなると僕はますます愉快な気分になり、彼が指し示したものについて講釈を垂れながら分類していった。

「僕たちは異常だな」

 イェンスが笑いながら自虐気味に言ったのだが、その言葉は今の僕たちを的確に表しているように思われた。

「周りの人からはおかしい奴らだと思われただろうね」

 彼におどけた口調で返したその時、冷たい風が強く吹きつけてきた。イェンスも僕も思わず肩をすぼめて顔をしかめたのだが、それでも愉快な気分が流されることはなく、お互いに忍ぶように笑い合った。

 時刻を確認すると午後一時になろうとしていた。イェンスの住むアパートの前で一旦別れ、急いで自分の部屋に戻る。それなりの服に着替え、窓の景色を一瞥してから再度イェンスのところへと赴くと、同じように着替えたイェンスとすんなり合流した。「ほぼ予定どおりだ」というイェンスの言葉を受け、早速バスに乗ってコンサート会場へと向かう。会場に到着すると人がたくさんおり、僕はあまりのにぎやかさにただただ驚いてしまった。チケット販売窓口に向かい、イェンスが昨日購入したチケットの発給番号画面を見せ、紙のチケットと交換する。開演まで少し時間があったものの、近くのカフェもコンサートホールの入り口前もどこもかしこも混雑していたため、早々に座って待つことにした。

 入り口で無料のパンフレットをもらい、音を合わせている演奏者が壇上に何名かいるのを見ながら座席に座る。小さい会場でも僕は期待に胸を躍らせていた。隣ではイェンスが洗練された振る舞いでくつろいでいる。その様子を見て、見識深い彼がどこまでこれから演奏される曲目について知識を有しているのか、浅薄な知識しかない僕が理解できるとは思えなかったものの、あえて尋ねてみることにした。

「イェンス、あの……」

 彼は僕の唐突な質問に戸惑うことなく、「知っている範囲でしか答えられないけど」と前置きしてから丁寧に答えていった。中には彼にもわからない曲もあったのだが、それでも今日演奏される曲目のほとんどが有名であったらしく、彼が旋律を口ずさむと確かに聞き覚えがあった。

 僕は図に乗ってオペラの歌についても同様に尋ねた。すると、彼は「あまり詳しくはないんだけど」と同じように断りを入れつつも、そのオペラ全体の簡単なストーリーと、そのアリアと呼ばれる歌が歌われる場面の状況を簡潔に紹介していった。僕は彼の幅広い知識と教養の深さに心から感銘を受けながら説明に聞き入り、改めて彼に尊敬の念と感謝の言葉を心を込めて伝えた。

 開演時間が間近に迫って照明が落とされ、オーケストラのいる舞台だけが別世界のように輝く。やがて舞台の裾から指揮者が登場し、会場内から拍手が湧き上がった。指揮者が一礼して挨拶を終えるといよいよ会場内が静まり返り、僕は息を凝らして舞台を注視した。

 少し間を置いてから指揮者がタクトを振り上げた瞬間、華々しい演奏が会場内に響きわたった。美しく繊細な楽器の旋律に耳を傾けながら力強いリズムを感じるうちに、僕の心までもが舞い踊るようである。僕は久しく体験してこなかった、音楽の生演奏が持つ豊かな音色と力強さにすっかり圧倒されていた。

 第一部が終わって休憩に入ると、イェンスが嬉しそうに感想を話し出した。幾つかは僕が気付けなかったところであったのだが、僕が感激した箇所を彼も同じように言及したことは本当に嬉しかった。その後、第二部が始まると、どこかで聞いたことのあるオペラの歌をアルトを担当する女性が歌い、さらに同じオペラで歌われるアリアをテノールの若い男性が張りのある声で熱情的に歌い上げた。彼らの歌が終わるやいなや会場から割れんばかりの拍手が湧き上がり、僕たちも同じく遠く離れた舞台で深々とお辞儀をする彼らに称賛の拍手を贈った。

 彼らが退場すると今度は華やかな衣装を身にまとった女性たちと男性たちとが、手にグラスを持って登場した。そして、あまりオペラに詳しくない僕でも知っているほどの、有名な曲の演奏が始まる。彼らが感情豊かに歌い、楽器のような男女の声が会場全体に美しく響き渡るものだから、僕は身震いするほどの感動を覚えた。その歌が終わるとやはり会場から盛大な拍手が起こり、彼らを称賛する声があちこちから上がった。

 全てのプログラムが終了して会場を出てもなお、僕は感激の虜となったままであった。イェンスも久しぶりに生の演奏を耳にした喜びが収まらないらしく、二人でコンサートの感想を話しながら盛り上がる。この盛り上がった気分に最適な場所で、早めの夕食を取ろうという話の流れになったことから、特に打ち合わせていなかったにもかかわらず、ゲーゼのレストランに向かうことにした。

 バスを乗り継ぐ。時折向けられる好奇の眼差しも、興奮冷めやらぬ僕たちには全く影響を及ぼさなかった。レストランでは窓際の席を案内された。店内は相変わらず落ち着いた雰囲気であり、ゆったりとした音楽が流れる。そうなるとまだコンサートの続きを体験しているような気がしたので、僕たちはゲーゼの肖像画に時折視線を投げかけながら話題を芸術全体にまで掘り下げていった。

 美術の授業では絵画が得意であったことを控えめにイェンスに告白する。すると彼は非常に興味を持ったらしく、驚いた様子で僕にあれこれと尋ねてきた。そこで僕が幼い頃、絵画でアウリンコ・ドーオニツ全体のコンクールに入選したことがあること、そしてアウリンコで行われる表彰会に出席するはずであったのだが、熱が出てしまって出席できなかったことを彼に伝えることにした。

「たいしたことじゃないと思うんだけど……」

 イェンスは僕のささやかな思い出話を瞳に美しい煌めきをずっと放ったまま聞き入り、一通りの話を聞き終えてもなお、さわやかな笑顔と好奇心あふれる眼差しとを絶やさなかった。

「君が絵画を好きだと聞いて、僕は合点がいったよ。君はまるで絵を描いているかのように表現するからさ。それにしても君は本当に才能豊かなんだね。うらやましいよ。僕は幼い頃にヴァイオリンを習っていたけど、特筆すべきことは何もないんだ」

 僕は彼の思いがけない過去の習い事に驚いて彼を見つめたのだが、彼の生い立ちを思い出すなり納得がいった。

「ありがとう。君こそが才能にあふれているから、なんだか照れくさいな。ヴァイオリンは実に君らしいね。でも確か、君の部屋にヴァイオリンは無かったと思ったんだけど、今はどうなの?」

 今度は僕が食らいつくと、彼はややはにかんだ様子で答えた。

「ずっと前、十二歳の時にやめたんだ。僕には才能が無かったらしい。そつなく弾けるかもしれないが、心がこもっていないと先生に当時何度も言われたからね。絵も同じようなことを言われたよ。全体的なレベルは高いが、心に訴えるものが無いとはっきりと言われた。僕には芸術の要素がほとんどないらしい」

 言い終えると彼はどことなくさみしげな眼差しで微笑んだ。

「そんなことはない。君は器用だから何をやらせても上手にこなすし、そもそも君もある種の芸術家のようなものじゃないか。僕は君の華美さを抑えた言い回しや相手を思いやった言葉遣いが好きだし、表現に整然とした美しさを感じる。ねえ、知っているかい? 文学も芸術だそうだ。イェンス、きっと君は文学においても才能があるんだよ。君さえその気になれば、君は人々の心にすっと沁みて美しい余韻を残す言葉を紡ぐことができる人なのだと思う」

 次の瞬間、彼の美しい瞳にやわらかくみずみずしい光が満ちあふれていった。彼はその美しい眼差しをしばらく僕に向けてから静かに口を開いた。

「ありがとう、クラウス。君はいつだって僕の心を優しく揺らし、喜びと希望をもたらしてくれた。僕は……僕は僕自身の才能に、そういう一面があったなんて思いもしなかったけど、君に言われたら得意になって有頂天になりそうだ。改めてありがとう。文を書くという行為は確かに魅力的だが、今の僕は、まだ様々な経験の入力を欲しているところなんだ。もし、僕の中でそれまで受け入れてきた経験と感情と美しいものがしなやかで誇り高い、きれいな花を咲かせたと感じられたなら、僕は書くという出力行為をしてみようと思う」

 僕はやはり彼の言葉の節々に美しさを感じ取っていた。僕の表情はきっと美しい自然や芸術を観た後の顔付きに近かったのであろう。イェンスは僕の表情に気付くとはにかみ、それから視線を夕焼け色に染まった空へと向けた。

 傾いた太陽に照らされて、雲の淵が黄色がかった色調へと輝く。イェンスの髪もまた、かすかに黄金色の輝きを見せる。

 それを眺めているうちに、ふと僕の中でイェンスに対して突拍子も無い直感が芽生えた。自分でもその直感の内容に驚いて彼を見つめたのだが、彼は遠い眼差しで空の向こうをぼんやりと眺めたままである。物思いにふけっている今の彼に、その直感の内容を話そうかと思案しているうちに料理が運ばれてきた。僕はひとまず舌の上で繰り広げられる芸術を味わいつつも、その内容を彼に伝える機会を伺うことにした。

 料理はやはり美味しかった。どんどんと胃袋へと放り込まれていき、僕の中の原始的な部分が満足していく。それでも僕は機会を伺っていた。少ししてイェンスが食事を取りながらも、思惑ありげな眼差しで僕を見つめてきた。僕は勘の鋭い彼が、僕の様子から何かしら気が付いたのだと考えた。

 彼は水を一口飲むと、微笑みながら言った。

「クラウス、何か言いたいことがあるんじゃないのか?」

「驚いたな、全く君の鋭さには感嘆するよ。そのとおりなんだ。だけど改めて考えると、今ここで話すのは適切でないかもしれない」

 それを聞いた彼はやや真面目な表情で僕に言葉を返した。

「ここを出たら君の部屋に行っていい?」

「もちろん。君ならいつだって大歓迎だ」

 僕はイェンスを力強く見つめ返した。するとイェンスは口元を優しくゆるめた。そこにルトサオツィの姿が不意に重なる。やはりイェンスはエルフの血を確実に引いているのだ。

 食べ終えて席を立とうとしたその時、懐かしい女性が店内の奥に見えた。僕たちが最初にこのレストランを訪れた際、ここがゲーゼと縁があることを教えてくれた、あの給仕の女性であった。彼女は目が合うと軽い会釈をしてきたのだが、忙しなく他所へと移っていった。

 レストランを出るなり、僕はそのことをイェンスに伝えた。彼も彼女に気が付いていたらしく、懐かしそうな表情で視線を前方へとずらした。

「確かに久しぶりに彼女を見かけたね。彼女を見たら去年の夏の、あの熱っぽい夜の思い出が蘇ったよ」

「ヘルマンは今頃どうしているだろうね」

 僕はしみじみと言った。

 「地方国で悠々自適な生活を送っているのか、それともドラゴンの爪に触れて劇的な変化を一人噛みしめているのか……」

 僕はイェンスがしっとりとした口調で『ドラゴンの爪』に言及したことによって、久しぶりにあの青白く輝くペンダントのことを思い出した。爪は神秘的に光を放ち、熱を帯びていた。僕たちにユリウスと出会うきっかけをももたらしていた。

 「ヘルマンにまた会うとしたら、劇的な再会だろうね」

 僕は空を見上げながら言った。白い息が冬の空へ儚く消えていく。雲の隙間から星が小さくとも力強く瞬いている様子は、遠く離れていてもヘルマンが今でも僕たちを気にかけていることの暗示であるように思われた。

 「そうだな、もし彼と次に会うことがあったとしたら……。きっと運命的な何かを僕たちは体験するのかもしれないね」

 イェンスが冴ゆる風に乗せて伝えた言葉を、僕は寒さでちぎれそうな耳で受け止めた。そしてその言葉だけを留めるかのようにマフラーに耳までをもうずめると、冷たい風がこれ以上僕のほほを撫でることの無いよう、つぶやくように言った。

 「そうだね、いつかまた僕たちは導かれるのかもしれない。すでに不思議な巡り合わせがいくつも起こったのだから」

 急いで歩いたからか、僕の住むアパートに辿り着く頃にはいくぶん体があたたまっていた。階段を駆け上って冷え冷えとした部屋へと入り、真っ先に暖房器具のスイッチを入れる。少しして暖房が室内に効き始めると、先日購入したリンゴのストレートジュースを思い出してイェンスに勧めた。

「これは美味しいな」

 彼は窓際のソファにゆったりと腰掛けながらコップを傾けた。僕もまた、ベッドのふちに腰かけてリンゴジュースを口にする。すっきりとした甘さと酸味とが、喉を潤しながらひんやりと通り過ぎていく。

 「さて、クラウス。君が気付いたことについて尋ねたい。率直に、包み隠さずに話してくれると嬉しいのだが、そうしてくれるかな」

 イェンスが穏やかな口調で切り出した。そこで僕は少し思考を整理し、一呼吸してから口を開いた。

 「ありがとう、そうする。あの時、レストランで君の髪色を見ていたら、ふと直感が湧いたんだ。君の髪色も瞳も、確かに人の目を惹く。僕は今まで全く気にしてこなかったのだけど、あの時、なぜ君が目立つのをあえて隠さず人目にさらしているのかと考えたんだ。君がサングラスをかけるのは、本当にまぶしい時ぐらいだ。君の髪も短く刈ってもいないし、かといってすごく長いわけでもないけど、風に吹かれるとそよぐぐらいのその肩までの長さが実に君に似合っている。エルフの特徴を残しつつ、控えめでいられる絶妙な長さだと思ったんだ」

 僕の言葉に彼が瞳に細く華やかな光を放ちながらほほを赤らめたので、僕はさらに優しく続けた。

 「君はエルフの特徴に悩まされ、そのことで孤独や苦悩も経験してきたけど、一方でその特徴を自己の存在を証明するものとして誇りに感じ、あえて隠さないようにしてきた」

 イェンスの表情は明らかに感激に満ちていた。その彼が向ける美しい眼差しを、僕は喜びと誇りを持って受け止めた。

 「ああ、全くそのとおりだ。驚いた。君は僕を見透かしていたのだね。君の言うとおり、僕はこの髪色と瞳の色に意義と誇りを感じている。今まで何度も孤独と絶望を僕にもたらしたのも、この特徴だ。この二つの矛盾した思いが、僕の中途半端さを余計目立たせているのだと思うと恥ずかしいのだけど、実を言うともう一つ意味がある」

 彼はそう言うと伏し目がちに僕を見た。

 「エルフに気付いてもらうため……だよね?」

 僕がそっと差し出した言葉に、彼は非常に驚いたようであった。

 「そこまで君に直感がもたらされていたのか! そのとおりだ。君に以前話したと思うけど、僕はやはりエルフに憧れているんだ。僕は他の人間にエルフの特徴を知られたくないのと、居心地の良さを理由にここドーオニツにいる。一方で、外殻政府の中でもごく一部の限られた人間しか接触できないエルフに、ばかげた期待を抱いてきた。僕を再び偶然見つけて孤独から救いだし、エルフの一員として迎え入れてくれないかという、都合の良すぎる妄想をね。普通に考えたら実現不可能なことでも、人間よりはるかに高い知性を持つ彼らなら、髪の毛一本ほどでも希望が見出せるんじゃないかと考えていたんだ。だから、ルトサオツィとの再会は本当に劇的で、僕に非常に大きな意味をもたらした。もちろん、僕はこの奇跡的なチャンスのひもを、一方的に自分のところへ手繰り寄せる気はない。僕をどう扱うかは、エルフたちが判断することだと考えているからね。いずれにせよ、僕がどちらの種族からも拒絶されたとしても、中途半端な自分自身を否定することなく受け入れたいと思っている。そのためには、僕の特徴を隠すことなく周囲に溶け込む工夫をする必要があるだろう。たとえそのことでこの先も失敗したとしても、僕はそこから学んでより良い在り方を模索していくつもりなんだ」

 そう言い放ったイェンスの表情があまりにも凛々しく、澄んだ美しさと弾けるような生命力にあふれていたので、思わず僕は無言で見入ってしまった。イェンスは僕が何も言わないものだから心配げに僕を覗き込んでいたのだが、不意に訪れた沈黙の意味に気が付いたらしく、はにかんだ笑顔に優しい口調を乗せて僕に話しかけてきた。

 「その様子だと、君はこんな僕から何か感銘する要素を見つけ出してくれたんだね」

 「黙ったままでごめん。君のさっきの表情があまりに人智を超えた美しさに満ちていたから、思わず見入ってしまったんだ。……ああ、なんだか、この告白も実に恥ずかしいな。だけど本当にそう思ったんだ。エルフの美しさと生命力が、君が持っている人間の美しさと調和して独特の美しさを放っていたというのが僕の感想だ」

 「ありがとう、クラウス。君にそう言ってもらえるのは本当に嬉しい。エルフの特徴は僕の重大な個性だ。君にその個性を改めて僕の中に見出してもらえたのだと思うと、僕は安心して自分を誇りに思える。それにしても君の言葉も抒情的で芸術のような美しさだ。僕の心を真っ直ぐに捉え、澄んだ感覚で全身を包み込んでくれる」

 僕は彼に喜ばれて嬉しかったのだが、褒められたことが急に気恥ずかしくなり、照れながら言葉を返した。

 「その……僕は君に会うまで、誰かと心から感じる美しさについて語り合ったことが無かった。君も知っているだろうけど、僕が感じる美しさは多種多様で、時にはへんてこなものにまで及ぶ。君はその中でも正統派の美しさを放っているけど、僕は……今さらだけど簡単に面と向かって『君は美しい』と言える性格じゃないんだ。だから……その……」

  「ありがとう、クラウス。君が言いたいことはわかったよ。君が相手に美しさを感じることがままあっても、あっさりと胸の内をその相手に伝えるほど開けっ広げな性格で無いことは、僕もよく知っている。君は『美しい』という言葉を誰に対しても軽く使っているのではない、ということを言いたいのだろう?」

 僕は彼を見つめながら、静かにうなずいた。

 「君のその眼差しと、今まさに発せられている美しい光で僕には充分伝わった。本当にありがとう、クラウス。ああ、いったい、今日は何回この言葉を言ったのだろう! それでも心地良いことには変わりは無い」

 彼はそう言うとにっこり微笑み、それからコップに残っていたリンゴジュースを飲み干した。

 「僕こそありがとう、イェンス。君が汲んでくれて本当に嬉しい。君は僕の大切な、大切な親友だ」

 「ありがとう、クラウス。君も僕の本当に大切な親友なんだ」

 僕の言葉に彼は両手を広げ、そのまま僕を強く抱きしめて返した。その力強さから彼が全身で喜びを表していることを感じ取る。

 自分をありのままで受け入れてもらえる喜びというのは、どんな孤独も絶望をも完璧に叩きのめすほど強く、そしてやわらかみのある肯定感で自己を満たすのであろう。僕はそのことを何度も何度も今まさに実感していた。

 内側からあふれ出す安心感に身を任せるかのように、わざとイェンスを抱えたままベッドに倒れ込む。すると、至近距離で彼と向かい合った。その澄んだ緑色の瞳の美しさに一瞬息をのんだのだが、どちらからともなく忍ぶように笑い始めるとあっという間に横たわったまま豪快に笑い合った。

 僕たちの弾けるような笑い声は、周囲への配慮からすぐさま冬の夜が支配するうらさびしい静寂さの下へと追いやられたのだが、心地良い感情がそのまま消えることはなかった。その心地良さが部屋全体の雰囲気となって僕たちを優しく包み、今この瞬間も喜びとなって内側から外側へとあふれ出していく。僕はもはや孤独ではなく、素晴らしい友人と共に自己肯定感を得た力強い存在へとなっていた。そこで二人の息遣いだけが聞こえる世界の中で、僕は今もなお続いている内なる変化に意識を向けることにした。

 僕は満天の夜空に星が輝き、高原にさわやかな風が通り抜け、太陽が大海原を煌めかせ、雲が銀色の腹をゆっくり揺らしながら空を漂っている様を内側で感じた。さらには、それらに色や匂いや音、そして味や感触が瑞々しく寄り添い、僕の感覚をやわらかく呼び起こしていく様をも感じ取っていく。

 僕は広い世界を想像し、想いを馳せた。だが、それらは過去に経験したもの、映像や本で見たもの、聴いたものが混ぜ合わさったものであり、僕が一から全くの想像だけで創り上げた世界ではなかった。外部から影響を受けているおかげで広い世界を描けるのだとしたら、全ての存在に尊い価値があり、何らかの意味があるのではないのか。そのことに気が付くと、自分の思考ながらもその深い視点に驚き、想像の翼を駆け巡らせ続けた。

 その後、どちらからともなく起き上がると、僕たちは他愛もない会話をしたりして過ごした。やがて夜が更けてイェンスが彼の部屋へと帰っていく。一人になると、改めて今日一日に体験したことを思い返すことにした。

 ジャークとのこともあったが、それなりに素晴らしい一日でなかったか。音楽会で心を洗われ、気に入ったレストランで舌鼓を打ち、最高の友人と最高のひと時を過ごしたのだ。ベッドに横たわって目を瞑る。全身から満足感が流れ、心地良い疲れがまぶたを重くしていく。その幸福感のまま、僕は意識を夢の世界へと落としていった。

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