第15話

 アパートに戻って簡単に荷物をまとめていると、母から電話が来た。新年の挨拶もそこそこに、せっかくだから早めに来てゆっくりしていきなさい、という。僕はイェンスの家族のことを思い出し、少し素っ気なく「そうするつもりだったよ」と答えたのだが、母は電話の向こうで嬉しそうに「あらそう? じゃあ、気をつけて来るのよ」と言ってすぐに電話を切った。その反応がうっとおしくもあり、嬉しくもあったのだが、以前よりは気にならなくなっていた。

 窓からの風景を一瞥してからアパートを出る。タキアの祖母からもらったマフラーに顔をうずめるも、吹き付ける冷たい風に肩をすぼめさせながら地下鉄の駅へと辿り着いた。

 電車内はさほど混んでいなかったのだが、僕はやはり以前と異なる変化に気付かざるを得なかった。それは僕を見る人の視線が増えたことであった。しかもそのことでさらに気が付いたことがあった。おそらく恋人同士であろう男女のうち、女性が僕に視線を向けたことに気が付いた男性が、僕を睨みつけているようなのである。たとえそれが少数の反応であったとしても、ますます僕が目立たぬよう、興味を持たれることのないよう静かに振る舞うべきなのであろう。イェンスもユリウスもずっとこのように配慮を重ねてきたに違いない。そのことを改めて実感すると、彼らの努力にただただ敬服した。

 ひょっとしたら僕の変化に両親も気が付き、あれこれ質問をしてくるのではないか。その思考が現れた途端に不安を感じたのだが、不意に名案を思い付いた。よくよく考えれば、ほぼ一日を普通の人間としてやり過ごせばいいだけなのである。僕は妙に開き直ると、ぼんやりとしたまま電車に揺られ続けた。

 実家の最寄り駅に到着した。駅を出るなり早速実家に向かって歩いていると、知り合いのおばさんに呼び止められた。おばさんは「あのクラウスなの?」と僕の様子が変わったことをしきりに驚きつつ、「ご両親によろしく伝えてね」と言い残して駅のほうへと去っていった。この短いやり取りで、余裕のあった心があっという間にかき乱されていく。ざわめき立つ思考から離れ、なんとか落ち着こうとしながら足早に角を曲がったその時、通りの向こうから父が歩いて来るのが見えた。

 心臓が高鳴るほど動揺を覚えた僕とは裏腹に、父は僕の姿を見つけるなり笑顔を浮かべ、片手を小さく挙げた。それに応えるべく、緊張しつつも小走りで近付いて行く。すると父は実家の前で立ち止まり、笑顔で「クラウス、今来たのが」とだけ言って僕と一緒に家の中へと入ろうとした。朗らかな父の様子に驚きと戸惑いを感じたのだが、疑問を抱かれなかったことに一安心し、そのまま父の背中を静かに追った。

「おい、クラウスが来たぞ」

 父の言葉を聞いて、母が早速僕を出迎えた。

「おかえりなさい、クラウス。寒かったでしょう、ほら早く中に入って」

 母もまた朗らかな口調で話しかけてきた。そこでリビングルームへと向かうと、祖母が新年の挨拶とともに僕をあたたかく出迎えてくれた。気になっていたこともあり、すぐさま足の調子を尋ねる。すると、祖母が笑いながら「クラウスに会ったから、もう治ったようなものだわ」と答えたので、元気な様子にひとまず胸を撫で下ろした。

 母が昼食を食べたかと尋ねてきたので、まだ食べていないと答える。それを聞いて母は「簡単に作るから待ってて」と返したのだが、不意に僕をじっと見つめたか思うと、やや驚いた表情を見せた。

「クラウス、あなた何か変わった感じがするわね」

 どこか怪訝そうな母の口調でたちまちのうちに背中が凍りついたのだが、平静さを保とうと一呼吸置くとゆっくり答えた。

「気のせいだよ。ああ、思い出した。最近、イェンスと一緒に運動を始めたんだ。そのせいかもしれない」

 それを聞いた母はあっさりと納得したらしく、「あの素敵なお友だちね。あの子と一緒ならあなたもいい影響受けるわね」と言い残してキッチンへと去っていった。

 僕はイェンスを『あの子』と言える母ののんきさに感謝していた。続けざまに祖母が近況を尋ねてきたので簡潔に答える。その話が一通り済むと、ソファに座ってテレビを観ていた父が突然話しかけてきた。

「アクスルから昨日、新年の挨拶で電話が来ていだんだ。タキアの実家でお袋と家族と新年を祝っていると言っていだな。それと、お前がどうしているが気にかけていたぞ。兄弟なんだから、もっと連絡取りあったらどうだとあいつにも伝えたんだが、お前もその様子じゃ、最近ずっと連絡を取っていないようだな」

 父はそれだけ言うとテレビのほうを向いた。そして放映されていた地方国のスポーツの試合にそのまま関心が移っていったようで、「その調子だ」と激を飛ばし始める。その様子を見ていた祖母が、「足の調子もいいから、運動がてら手伝ってくるわ」と言い残してキッチンへと去っていった。しかし、僕だけは取り残されたかのように、父が兄と僕との仲を気にかける発言をしたことに驚いていた。先ほど外で会った時の態度も、かつての父ならあり得なかったのではないか。その父の背中をまじまじと眺める。気のせいか、記憶にあった広い背中が小さくなったようである。かつては酒におぼれ、母を始めとする僕たち家族全員に罵詈雑言を吐き、物にまで八つ当たりしていた父。その姿が今の背中からかすれていく。

 僕はそれでも、丁寧に当時の記憶を掘り起こした。すると暗い思い出から結局は嫌な気分に陥ったのだが、なぜか脳裏に『孤独』という言葉が浮かんだ。その言葉が妙に引っかかったため、今この場でそのことについて掘り下げていくことにした。

 憎しみに満ちた目で世界を見ていた当時の父の瞳は、何を捉えていたのか。おそらくはそこかしこで孤独という名の魔物が父を睨んでいたのであろう。そのことは前回の訪問時に母も指摘していた。ではなぜ、父は孤独を感じていたのか。父がかつて取った行動を受け入れるつもりは毛頭無いのだが、父を『個』の存在として捉えようとした時、僕は薄明るい出口を遠くに見つけたような気になった。

 僕の、家族に対する思いにも変化が起こり始めている。

 その時、母が料理を持ってリビングルームへとやってきた。

「はい、どうぞ」

 そう言って母が僕の目の前に差し出した料理は、僕の大好物であった。僕は素直に「どうもありがとう」と伝えたのだが、母は気が付かなかったのか、再びキッチンに戻っていった。お腹が空いていたこともあって、すぐさま食事にありつく。一口食べると優しい味がして、僕はテレビ観戦している父の背中を横目に一人味わった。そこに祖母がやって来て、僕が好きな果物の皮をむいて切ったものを差し出してきた。

「クラウスが来ると思って、買っておいたんだよ。ちょうど食べ頃だろうから、お食べ。そうだ、お茶を飲むかい?」

 祖母は優しい眼差しで僕を見つめ、それから紅茶の入っている缶に目をやった。するとテレビを観ていた父が急に、「クラウス、知り合いがらもらったいいワインがある。俺は飲まないが、お前飲むが?」と会話に加わってきた。僕は父の言葉にまたしても意外性を感じて驚いたのだが、飲みたいのは紅茶であった。

「あ……ありがとう。だけど、僕は紅茶が飲みたいから、ワインはいらない」

 僕はつい素っ気なく言葉を返したのだが、父は「そうか」と少し残念そうな顔をしただけで、再びテレビ観戦へと戻っていった。祖母はそれならと、笑顔で紅茶を淹れる準備をし始めた。

 僕は秋に訪れた時よりもさらに実家の雰囲気が変わったことに、ますます戸惑っていた。しかも僕以外の家族の誰もが、以前よりも穏やかな関係をあっさりと受け止めているのである。おそらくは普段から顔を合わせているため、とっくに順応したのであろう。そうであれば、戸惑いを感じているのは僕だけであり、僕だけが過去の歴史にこだわっているのかもしれなかった。そのことに気が付くと、全ては僕の中に解決策があるように思われた。

 祖母が紅茶を淹れてくれたので「おばあちゃん、ありがとう」と伝え、少し冷めるのを待ってから口に含む。優しい風味が舌の上を通り過ぎ、一息ついた気分になる。そこに母がリビングルームに戻り、祖母が淹れた紅茶をくつろいだ様子で一緒に飲み始めた。お互いに会話は無く、テレビの音声だけがぼそぼそと耳に飛び込んでくる。CMになって何かを調理をしている画面になった瞬間、母が「そうだわ」とつぶやき、僕のほうを向いた。

「ルバーブ。忘れてたわ。ねえ、クラウス。少ししたら、おつかい頼まれてくれない? 年末に市場に行ったら売り切れていたのよ。ああ、あと牛乳もお願いね」

 僕は果物を食べ終えてから、少しぶっきらぼうに「わかったよ、お金はいらないからな」と答えた。しかし、母は意に介することなく「あら、頼もしいわね」と笑顔で返し、再び紅茶を口にした。僕はその言葉が素直に嬉しかったのだが、穏やかな雰囲気はここまでであった。母はようやく一息付けたからなのか、カップをゆっくりとテーブルに置いたかと思うと怒涛の質問攻めを始めた。

「クラウス。仕事はどうなの、ちゃんとした食事を取っている? アパートの部屋の掃除もきちんとやっているの?」

 問い詰めるように母が尋ねてきたので、僕はむっとして「ちゃんとやっている」とだけ答えた。母は疑いの眼差しをなおも向けて「本当なの?」と訝しんでいたのだが、いちいち丁寧に事例を上げて『ちゃんとやっている』証拠を母に提出するのも億劫に感じたため、「うるさいな、ちゃんとやっているから大丈夫だよ」と押し通す。すると母は諦めたのか、今度は兄の近況を話し出し、そこから兄の子供、つまり母にとっては孫にあたるのだが、その成長ぶりを報告するようになった。先ほどとは打って変わって母の目尻が下がり、兄からスマートフォンに送られてきた孫の写真を僕に見せ、この間電話で孫とも話したことを嬉しそうに語り出す。兄はSNSで家族の写真を公開しているのだが、スマートフォンで撮影したドーオニツの風景を時々公開する母以外は、父も僕もそもそも頻繁にSNSを利用するほうではなかったため、久しぶりに兄の近況を聞いて急に懐かしさを覚えた。母の話だと姪が今年から幼稚園に通うらしく、甥も歩き始めていよいよ目が離せないそうである。

 僕が最後に兄と会ったのは兄の結婚式の時であり、姪とも甥とも直接顔を会わせたことは無かった。遠いタキアで、絵に描いたような幸せな生活を送っている兄と兄の家族、そして祖母を脳裏に思い描く。兄も祖母も、ドーオニツ以上に厳しい冬を、あれこれ工夫して楽しく過ごしているのであろうか。

 食事を終え、後片付けをしようと食器を持ち上げたその時、母が「片付けはいいから、明るいうちに買い物をお願いするわ」と言った。たしかに暗くなってから市場に行くのは億劫であったため、僕は先におつかいを済ませることにした。

 コートを羽織り、実家から少し離れた場所にあるバス停へと向かう。市場の近くを通るバスに乗り込むと、見覚えのある顔が何人かいるのに気が付いたのだが、彼らはずっとスマートフォンを見せ合いながら話し込んでおり、僕には気が付いていないようであった。彼らが途中の停留所で降りようとしても、僕のほうから彼らに声をかける気にはなれず、にぎやかにバスから降りていく彼らを車窓からそっと見送る。すでに僕の心には過去の苦い感情がさざ波を立てていた。

 すでに夕方近かったにもかかわらず、市場は思いのほか人がおり、活気があった。母に頼まれた食材を探していると、幸いなことにちょうど頼まれていた量が残っていたのですぐに買い求め、市場を後にする。そしてまたバスに乗り、実家最寄りのバス停から五つ手前にあるスーパーマーケットに寄るとこちらはかなり混雑していたのだが、母がいつも買っている牛乳だけの購入であったため、すんなりと用事が済んだ。

 やや距離はあるものの、運動がてら実家まで歩いて帰ろうと雪道を慎重に歩く。バス停を一つ通り過ぎたところで、脇の路地から僕を呼びとめる懐かしい声がした。記憶を辿りながらその声のほうを振り向くと、幼馴染のロヒールがそこに立っていた。

 彼と最後に会ったのは、二年以上も前のことであった。まだ少年の面影が残っていた当時と雰囲気が打って変わり、彼はおしゃれで明るい印象の青年になっていた。

「久しぶりだな、クラウス! やっぱり戻って来てたんだな。なんだかお前、雰囲気が変わったな。数年ぶりだからなんだろけど、見違えたぜ」

 彼はコートのポケットに両手を入れたまま、おどけた口調で言った。

「本当に久しぶりだね、元気そうで何よりだ」

 僕は努めて明るく答えた。それを聞いた彼がにやついた表情を見せた。

「お前に会ったらずっと言おうと思っていたんだ。お前、せっかく特別コースにいたのに、ドーオニツのブローカーに就職しちまったんだろ? 全くもったいない事してるぜ。俺なんか必死に勉強して、ようやく国立東アウリンコ校の大学部に入学できたというのに」

 彼の口調がどことなく皮肉めいて聞こえたのは、思うに僕が卑屈さを持っているからであろう。僕が何も言えずにいると彼はさらに近寄り、得意気な眼差しで僕を見上げながら続けた。

「俺は今、法学部に在籍しているんだが、卒業後はもちろん、法制省に入省するつもりだ。そのために大学の授業のほかにも、今から校外の専門講習をいくつか受けているんだ」

「君は努力家のうえ、結果も残せるタイプだから、きっと目指すところに行けるよ」

 僕が微笑みを添えながらようやく言葉を返すと、彼は高らかな笑い声を上げた。

「ありがとう、俺もそう思っている。まあ、お前みたいな特別コースの奴に比べたら遅いんだろうけど、俺は確実に上を目指しているからな」

 ロヒールは屈託のない笑顔を浮かべていたのだが、僕には彼の言葉が響かず、また彼の眼差しから何かしらの好ましいものを感じ取ることができないでいた。そこに居心地の悪さまでもが加わったので、僕はいよいよ押し黙りながら歩いた。

「そうだ、クラウス。今晩は実家に泊るんだろう? 今日の夜九時からこの辺の遊び仲間と、その買い物袋のスーパーマーケットの近くにあるバーで飲む約束をしているんだ。お前も来いよ、みんな懐かしがるぜ」

 彼は明るい表情のままであった。僕は「そうだな」と返し、少し考える振りをした。懐かしい顔を見たい気持ちはあったものの、行き慣れたことの無いバーという場所で、大勢の人と酒を飲みながら近況を語り合うことにかなりの抵抗があった。

 その時、ロヒールのスマートフォンが鳴った。

「よう、お前か。今な、クラウスとばったり会って一緒なんだ。そのとおり、今晩一緒に飲みに行こうって誘った」

 彼はそう言うと僕を見て、「もちろん、来るだろ?」と鋭く尋ねてきた。そうなると僕は曖昧な表情でうなずくしかなかった。

「こいつも来るってさ。じゃあ、あのバーでな」

 彼は電話を切ると立ち止まり、明るい声で言った。

「じゃあ、俺はあそこの店に用事があるから、また後でな。時間になったら家まで迎えに行くから、一緒にバスに乗って行こうぜ」

 彼はそう言うと左右を確認しながら道路を横断し、あっという間に去って行った。

 僕はいよいよ重苦しい気分になっていた。以前の僕であれば、旧友との再会を多少の興味を持って受け入れる可能性もあった。普通の人間のままであれば、彼らに引け目を感じることはあっても、彼らの興味を引くことは無かったからである。しかし、やはり今は変化を指摘され、好奇の眼差しで見られることはどうしても避けたかった。

 ロヒールが指摘した僕の雰囲気の変化とは、どこを指していたのであろう?

 お互いに数年前とは異なる様相を見せることは、年齢的なことでなくてもよくあることであろう。それでも僕が把握しきれていない以前との違いを、この先も彼や他の知人から指摘される可能性は決して歓迎できるものではなかった。皆が僕を見た時、雰囲気の変化を少年から青年へと成長したのだとだけ思ってくれるのか。あれこれと詮索され、ひょんなことで僕が普通の人間以上の能力を保有していることが露呈されれば、僕の目立たない人生があっという間に崩れ落ちていくのではないのか。

 そのことに不安を感じるとますます陰鬱な気分が強まり、足取りもさらに重くなっていく。そこに凍えるような風が吹きつけて身にしみたので、僕はいよいよ虚ろな表情をさらけ出しながら無気力に歩き続けた。

 実家の近くまで差し掛かって来た時、中年の男性が小さな子供と庭で何かをしているのが目に飛び込んできた。その中年の男性が近所の知り合いで、小さな子供が彼の子供だということに気が付くと、僕は何の気なしにその光景を眺めながら歩いた。男の子は無邪気な表情で庭に残っていた雪を投げては遊んでいたのだが、父親のほうは男の子をただじっと優しい眼差しで見つめていた。

 僕はその眼差しに感ずるところがあったため、思わず注視した。それはエトネやイリーナが見せた、あの美しい眼差しと同じものであった。彼らの近くまで来ると、男の子が投げた雪が風に乗って僕のほうへと流れてきた。その瞬間、父親と目が合ったので会釈をすると、その男性は驚いた表情を一瞬浮かべ、それから笑顔で話しかけてきた。

「クラウスか、久しぶりだな。なんだ、見ない間にずいぶんとイケメンに磨きがかかったじゃないか」

 男性が言い終えるやいなや、男の子が彼の足に抱きつき、「パパ」と嬉しそうに彼を見上げながら叫んだ。

「よーし」

 男性はそう声を上げると軽々とその男の子を高く掲げた。それと同時に、男の子が満面の笑顔で歓喜の声を上げる。その光景は幸せを凝縮した世界そのものであった。

「ありがとうございます。その……本当にかわいいお子さんですね」

「この年齢で授かった息子だからな、可愛くて仕方が無いんだ。こいつが大きくなるころにはじじいだけどな」

 彼はそう言うと男の子のほほに優しくキスをした。その瞬間、彼の瞳とその男の子の瞳から美しい光が優しく放たれる。僕はその清らかな光を思いがけず見られたことに感激していた。

「そうでしょうか、僕にはあなたがかっこいい父親に思えます。お子さんもお父さんのことが大好きのようですし、きっと好青年になることでしょう。それでは、そろそろ失礼します」

 僕が彼らに手を振ると男の子は笑顔を浮かべ、小さな手を不器用に振りながら言った。

「ばいばーい」

「嬉しいな、ありがとう。じゃあな、良い休暇を」

 知り合いの男性はそう言うと、男の子の手を引いて家の中へと戻ろうとした。僕も背を向けて再び歩き出す。すると背後から冴ゆる風に乗って、「ママがきっとあたたかい飲み物を用意しているぞ」という男性の声がかすかに聞こえてきた。

 その優しい言葉に心があたためられ、一人、笑顔をマフラーにうずめる。気が付けば、わずか数分の間に僕の心がほぐされていた。その前まで感じていた重苦しさもなんとか対処できそうに思えるほど、心があたたまったのである。

 あの父親の美しさと、男の子の無垢な愛らしさがもたらした優しい余韻に浸るべく、まだ誰にも踏まれていない雪の上をわざと選びながら家へと戻る。家の中に入って買い物したものを母に渡し、それからロヒールと道端でばったり会い、旧友たちと急遽飲むことになったことを伝えると、母は嬉しそうに言葉を返した。

「あら、良かったじゃない。昔一緒に遊んでいた子たちもずいぶん大きくなっただろうから、会うのが楽しみね」

 その時、ソファに座っていた父が振り返り、僕をやや当惑した表情で見つめてきた。その様子に母も気付くや否や、慌てた様子で付け加えた。

「でも、そうなると晩御飯は食べないのね。どうしましょ。せっかくだから、久しぶりにタキアの郷土料理でも作ろうかと思っていたのよ。お父さんも昨日のうちに料理作っていたのに」

 傍らでやり取りを聞いていた祖母も残念そうな顔付きで僕を見ていたので、僕は努めて明るい口調で返した。

「いや、晩御飯は食べるよ。夜九時から集まるらしいんだ。ロヒールが迎えに来るけど、それだって八時半以降だろう」

 それを聞いた父の表情が和らいだのを僕は見逃さなかった。母も祖母も安堵した表情を見せ、「それなら腕によりをかけて作るからいっぱい食べるのよ」と言い残してキッチンへと消えていく。父はそのやり取りの後も相変わらずテレビを観ていた。買い物に行く時に放映されていたスポーツの試合はすでに終わっていたらしく、地方国で製作された映画を観ている。キッチンの奥から香ばしい匂いが流れ、早くも食欲を刺激される中で映画に注目すると、子供の頃に大ヒットし、かつて兄と一緒にテレビで観たものであることがわかった。そのあまりの懐かしさに興味が湧いたため、思い切って父の座るソファの近くにイスを置いて一緒に観ることにした。

 子供の頃は意味がわからないでいたのだが、経験から得た知識ですんなりと主人公が置かれている状況が把握でき、主人公の心が敏感に揺れ動くのを見て妙な感動を覚える。不意に父が「この主人公は憎めないんだよな」とつぶやいたので、僕は「そうだな」とだけ相槌を打って画面に見入った。少ししてラブロマンスが始まり、父との間に気まずい雰囲気が流れるも、すぐに場面が切り替わったため引き続き映画を鑑賞する。

 思えば奇妙な空間に僕はいた。すぐ近くに母と祖母がいるとはいえ、父と二人きりである。幼い頃はそういったこともあったのだが、僕が大きくなるにつれ、父と二人きりでいることはできるだけ避けるようにしてきたではないか。

 映画を観終わると、父は感想も言わずにトイレへと向かった。暇を持て余していた僕はテレビをそのまま観続けようかとも考えたのだが、かつての自分の部屋をまだ訪れていないことを思い出し、イスを元の位置に戻して自分の部屋へ向かうことにした。

 暖房が入っていなかったため、当然のごとく部屋は冷えきっていて寒かった。それでも懐かしい写真や本を手に取っては、幼少時の思い出や感情に想いを馳せていく。

 前回訪れた時はイェンスもこの部屋にいた。二年前の僕なら、親友ができてこの部屋に招き入れる未来など、想像だにできなかったことであろう。

 そのイェンスから特段の連絡は入っていなかったのだが、彼が僕に配慮をしていることは理解していた。僕も、今頃おそらくは実家に帰ることで様々な思いと折り合いを付けているであろう彼を慮り、明日の晩に彼から連絡が来るまで待つつもりであった。この奇妙な遠慮も、僕はわりと気に入っていた。

 部屋を出ると、今度は思い付きでかつて兄が使っていた部屋へと入った。幼い頃、兄は良く僕を部屋に招き入れては僕の成長を壁に印していた。兄と喧嘩をしたことももちろんあったのだが、年の離れた兄を僕は慕っていたのである。兄が家を出てからはいつしかお互いに連絡を取り合わなくなったのだが、それでも壁に残されている僕の八歳までの成長の印を眺めながら、追憶の世界に踏み込んでいくことにした。

 兄は高等コースであった。十八歳でドーオニツにある大学を卒業すると、すぐに家を離れてアウリンコにある教育省に入省し、以降ドーオニツに戻ることは無かった。

 僕には今でも忘れられない記憶があった。それは酒の勢いで暴言を吐く父を諌める兄の姿であった。兄は怒りで震えており、父を軽蔑した表情で見ると「お前がだらしないから、俺はアウリンコの大学を諦めたんだ」と吐き捨てるように言った。父は激昂して兄に詰め寄ったのだが、兄は冷静に父を避けた。僕はずっと張り裂けそうな気持ちで、そのやり取りの一部始終をただ見つめていた。

 当時の兄がどんな気持ちでこの部屋で過ごしたのかと思うと、僕は複雑な心境に陥った。だが、今の父は老齢に達してきているからなのか、それとも何か特別な治療を受けているのか、とにもかくも昔の荒ぶっていた時と様子が異なり、僕たち兄弟の仲を心配するまでに変わっていた。

 何かが父に起こったのであろうか?

 その時、僕はふと思い出したことがあった。兄が家を出て行った後、僕がさみしがってこの部屋に入った時に古いアルバムを見つけたのだ。そこには若い頃の父の笑顔と幼い頃の兄の無邪気な笑顔とが、タキアの自然やこの家を背景に幾つも写真として収まっていた。

 記憶にうっすらと残っている写真は、今日見たあの父子の姿に重なるものであったはずである。あのアルバムが今どこにあるのかはわからないのだが、兄が出て行った後も、父が母に兄の近況を尋ねていたのは知っていた。その母は、暴言を吐く父に感情をぶつけることもあったのだが、一通りわめき散らすと文句をがなり立てながら部屋を出て行くのを知っていたため、ただじっと嵐が過ぎ去るのを耐え忍んで待つこともあった。そして普段の父にはいつもの母らしく接していた。

 母が父の孤独を知って母なりに懸命に対処しようとしていたのだと思うと、父の孤独がどこに発端していて、なぜ家族の仲に禍根を残すほどまでになったのかということに疑問が湧いた。タキアで過ごした子供時代のことであれば、タキアの祖母が影響を与えたのか、それとも別の要因なのか。もし、タキアの祖母が影響を与えたとしたら、タキアの祖母にその影響を与えたのはいったい何であるのか。それを考えると、延々と堂々巡りをしているようでも、過去へと遡ることで複雑に絡まっていたボロボロの思考の紐がだんだんとほどけていくようである。

 元は真っ直ぐ整っていたその紐が、何か一つの強い意志によって揺さぶられ続けてきたから、もつれたのではないのか。そうであれば、その意志とはいったい何であるのか。

 僕が一呼吸おいてさらに思考を張り巡らせようとした時、階下から僕を呼ぶ母の声が聞こえてきた。

「クラウス、聞こえてるの? 晩御飯よ」

 僕はいつの間にかずいぶんと時間をかけていたらしかった。慌てて階下に向かって「今行く!」と叫び、一通りの思考を心の奥に丁寧にしまってからリビングルームへと向かう。思えばずいぶんとお腹も空いていたし、体も冷えていた。

 テーブルの上にはタキアの祖母の家で何度か食べたことのある、タキアの郷土料理が並べられていた。その他に母の得意料理も添えられており、そこに祖母が母を手伝いながら僕に声をかけてきた。

「クラウス、さあ、いっぱい食べなさい」

 優しい祖母の表情に僕は素直にうなずき、全員が揃ったところで食事が始まった。父がぽつりと「うまいな」とつぶやいたのを母が拾い、母が顔をほころばせて「良かったわ」と返す。

 僕たちは最初ほとんど無言で食べていたのだが、父が母に話しかけたことがきっかけとなって会話が始まった。父のかつての同僚らしき人が入院した話や、母の知り合いが亡くなった話。イェンスとは話したことの無い、存在する人物の消えゆく輝きについて淡々と会話が続く中、祖母が僕に気を遣ったのか、最近流行しているという飲み物について尋ねてきた。そのことで祖母と話していると両親までもが会話に加わり、話題が日常生活のささやかな出来事へと移っていく。気が付けば、かつて何度か体験したことのある、家庭が落ち着いていた頃の夕食時の光景が展開されていた。

 料理は全て美味しかった。酒を飲まずとも上機嫌な様子の父を見ても、以前より明らかに嫌悪感が薄まっている。蔑みの対象であった父の笑顔を受け入れつつあるのだ。この心境の変化に驚きと少しの抵抗は残っていたものの、僕はあえて軽やかな風が舞い込んでくるのを拒まないことにした。

 食事が終わり、再度母に後片付けを申し出る。しかし、今度は「せっかくだからゆっくりしなさい」と取り合ってもらえなかった。時刻は夜七時を過ぎたばかりで、約束の時間までまだまだ余裕がある。そこで持て余し気味の時間を、ひとまずシャワーを浴びてしのぐことにした。その時、食事を終えて休んでいた祖母が、近所にある祖母の住むアパートへ帰ると言い出したので僕は咄嗟に提案した。

「それなら車で送るよ」

「ありがとう。でもそれなら、一緒に歩いて支えてくれないかしら。ずっと車に頼っていたら、足腰が弱ってしまうわ」

 その言葉にすぐさま快諾し、祖母の手をしっかりと握りながら外へと出る。外は雪が止んでいたものの、冷たい風であっという間に耳と鼻とが赤くなってしまった。歩き慣れた道を慎重に歩いていると、祖母がふと立ち止まって頭上を見上げ、「夜空がきれいねえ」と感慨深げに言った。その言葉につられて僕も空を見上げる。すると街灯の明かりでにじみながらも、いくつかの星が薄明るい紺色の舞台で凛とした輝きを放っていた。

「あなたに風邪をひかせちゃ悪いわ。さあ、行きましょう」

 祖母の言葉で再び歩き出す。祖母の住むアパートは、実家から五分と離れていない場所にあった。祖母の部屋の前に到着して室内まで付き添うと、祖母は「ありがとう、クラウス。次にまた会えるのを楽しみにしているわね」と茶目っけたっぷりの笑顔を浮かべながら言った。その笑顔が本当に嬉しかった僕は、「おばあちゃん、体に気をつけて」と言ってから祖母を軽く抱擁した。

「あらあら、クラウス。本当に立派な青年になったものねえ。ねえ、こっそり聞くのだけど、あなた素敵な女性とお付き合いしていないの?」

 祖母が優しい表情で尋ねてきたので、僕も微笑みながら優しく答えた。

「残念ながらいないんだ、おばあちゃん。それじゃあ、おやすみ」

「あらそう、残念ねえ。今度また遊びにおいで。おやすみ、クラウス」

 祖母はしわの増えた手をゆっくりと振って僕を見送った。僕も笑顔で手を振り返すと、静かにドアを閉めて再び実家へと戻った。

 戻るなり早速シャワーを浴びる。雑に髪を乾かしてからバスルームを出ると、父がキッチンで無言のまま皿を片づけているのが見えた。母は少し疲れたのか、イスに座りながら転寝をしているようである。僕に気が付くと父は急に不機嫌な表情を見せ、「全ぐ、こいつときたら、俺の特製の包丁を使いっぱなしだ」と言ってキッチンタオルで表面を拭き、丁寧に箱に入れてから食器棚の引き出しに入れた。

 よくよく母の様子を伺うと、背中に大判のショールが掛けられていた。状況的にどう考えても父の仕業である。思いがけない状況に驚いていると、父がキッチンから顔を覗かせ、「少し寝せておげ」とぶっきらぼうに言い放ち、続けざまに声をひそめて言った。

「クラウス、お前出掛げるんだろう。支度したらどうだ?」

 その言葉にまたしても面食らう。どうやら僕が知らないうちに、やはり何かが好ましいほうへと変わってきているのだ。そう思ったその時、玄関の呼び鈴が鳴った。もしやと思って慌てて向かうと、ロヒールがそこに立っていた。

「おう、少し早いんだが、皆が集まり始めているらしいから行こうぜ」

 彼はそう言うと寒さで肩をすぼめた。

「わかった。すぐ行く」

 僕は急いでコートを羽織ってスマートフォンを手に持つと、呼び鈴で目が覚めた母と何食わぬ顔で母のショールをイスに掛けて戻した父に、「時間が早まったみたいだから出掛けて来る。鍵は持っているから、先に鍵を掛けて休んでいていいよ」と早口で伝えた。

 母が少し欠伸をしながら「クラウス、ゆっくり楽しんできなさいね」と言い、それを横目で見ていた父が、「気をつけて戻ってこい」とだけ言ってソファに座り、テレビを見始める。その穏やかな光景に一瞬名残惜しさを感じたのだが、急いでロヒールの元へ駆けつけると、少し緊張とともに閑散とした夜の街へと繰り出した。

 他愛もない話をしながら歩いているうちにバス停に到着した。少ししてバスがやって来て、ロヒールが先に乗り込んでいく。そこに懐かしい顔が並んでいたため、僕の中に少年の頃の感情が舞い戻ってきた。

「クラウス、久しぶりだな」

「アーネスト、リョウ。久しぶりだね。元気そうだ。三年ぶりだろうか?」

 僕の問いかけに彼らは笑顔で答えた。

「そのぐらいだな。お前が特別コースだったから、七年くらい前からほとんど見かけることがなくなっていたもんな」

 リョウの陽気な返事とともに、ドーオニツでは最近推奨されなくなってきた煙草の匂いが微かに飛んでくる。僕は簡単に近況を伝え、今度は彼らの近況を尋ねると、リョウが先に朗らかな口調で答えた。

「俺は高校を卒業するとすぐ就職した。今は電気主任技術者の資格を取る勉強をしながら、電気工事士の仕事をしている」

「俺は念願だった地下鉄の運転士になるため、今は乗務員として経験を積んでいるんだ」

 アーネストはどこか誇らしげであった。

「おい、女の子も何人か呼んだんだ。シュエンにリズ、エリー、ドウツェンにウーラ。それに来るかどうかわからないが、タムにレイカも呼んだ」

 ロヒールがにやついた表情で会話を変えると、リョウもまた、あっという間ににやけた笑顔を浮かべて答えた。

「本当かよ、シュエンはすごく可愛かったから楽しみだなあ」

「噂だと今フリーらしいぜ。お前、チャンスだって」

「タムってアウリンコの銀行で働いているんだろ、来るんだろうか?」

 アーネストが訝しげに言うと、ロヒールは浮ついた表情のまま「わからないって言っただろ」とだけ答え、リョウと再び女性のことで話し出した。

 僕はその女性たちの名前のほとんどに聞き覚えが無かった。おそらく通常コース出身なのであろう。特別コースとはいえ、体育や芸術など一部の科目では通常コースの同年代の生徒と一緒に学ぶようになっていた。ロヒールとも何度かそういった授業で一緒になったのである。

 その授業では、僕と同じように特別コース出身と高等コース出身の同年代の子供も少数ながらいたのと、先生の指示もあって全く一人ということはなかったのだが、それでも僕は通常コースとの間に見えない溝を常に感じていた。それはロヒールが通常コースの友だちと一緒に居る時に出くわすと、特に顕著であった。名も知らない少年たちから、「あいつ、頭いいんだろ」と揶揄され、嘲笑を受けることが多かったのである。そういうことが続いたため、僕は他の親しかったアーネストやリョウといった友だちとも会いづらくなっていった。幸い、彼らは僕が特別コースにいるから会えないのだと思っていたらしく、そのことで邪推されたことは無かった。いずれにせよ、通常コースの世界において数少ない特別コースの生徒がかなりの異端児であったのは事実であった。

 バスを降り、歩きながらバーへと向かう。僕を除いた三人は経験どおり、通常コースでしか体験できない思い出話に花を咲かせていた。僕にできることといったら、彼らの背中をぼんやりと眺めながら後をついて行くことだけである。会話に加われない居心地の悪さをある程度予想していたとはいえ、友人といながら孤独を感じることで寒さがいよいよ身に応え、耐えるように背中を丸めて歩く。

 その時、すれ違いざまに見知らぬ若い女性が、僕を見るなりあからさまに表情を明るくした。その女性の視線までもが突き刺さると、ますます居心地の悪さと薄っぺらな孤独感とに覆われ、わずか数分の移動でさえもが暗く長い道のりのように感じられる。

 なぜ、僕はここを歩いているのであろう?

 ネオンの看板がけばけばしく光っている店に到着するやいなや、中から若い女性と男性が酔っ払った勢いでドアを開けた。女性は、真冬だというのに肩を露にした派手な恰好をしており、ロヒールに向かって大きな声で話しかけた。

「ロヒール! 遅いよ、とっくに宴会は始まっているんだからね」

 その女性がロヒールに抱きつくように挨拶をすると、彼は慣れた手つきで彼女の腰に手を回しながら言った。

「リズ、すでに酔っ払っているな。リョウとアーネスト、それにクラウスも連れてきた」

 僕は店のドアの脇に「本日貸し切り」と張り紙がされているのを横目に、ロヒールらに続いて薄明るい店内におずおずと入って行った。すると懐かしい顔が何名もいたので思わず嬉しくなったのだが、喜びも束の間、すぐに全く知らない男女のほうが多いことに気が付いたので途端に心細くなった。

 ロヒールが薄暗い店内にいる全ての客並びに店員と挨拶を軽やかに交わし、軽口で店内を和ませていく。それで気が付いたのだが、ロヒールはどうやらこの中でも中心的な存在であるらしかった。

 彼は昔からそういったところがあった。以前、アーネストから聞いた話なのだが、彼は学校で人気者らしく、クラスをまとめる役割を担ってきたようである。また、スポーツも得意なことから、彼が複数の女性にもててきたことは僕自身も何度か目の当たりにしてきたことであった。

 僕はそのロヒールの隣で、小さく座って愛想笑いを浮かべて挨拶をし、それから初対面の人たちに向けて簡単に自己紹介を済ませた。その時、何人かの女性の視線が鋭く突き刺さったので、心もとなさから途端に視線が泳ぐ。それでもなるべく楽しもうと考え直すと、アーネストが手渡してきたビールジョッキを取り繕った笑顔で受け取った。

「タム、来てたのか」

 ロヒールが奥に座っていた女性に声をかけると、タムと呼ばれた眼鏡をかけた女性は「たまにはこういうのもいいかなと思ってさ」と明るく答えた。しかし、彼女はすぐさま僕を見るやいなや、微笑みかけたまま視線を外さなかった。その意味ありげな視線にまたしても当惑し、彼女に会釈を返してすぐに視線の落ち付け所を探す。

「では乾杯!」

 ロヒールが声高に叫んだのに続いて、他の皆も口々に「乾杯!」と叫んだ。それから見知らぬ男女が歓喜の声を上げてから威勢よくビールを飲んでいく。その雰囲気に圧倒され、落ち着かない気分のままジョッキに口を付けたのだが、ビールの苦さと炭酸とが気になって少ししか飲めず、遠慮がちにジョッキをテーブルの上に置くしかなかった。

 あちこちから笑い声が湧き上がり、にぎやかな話し声が騒々しい音楽にかき消されることなく耳に飛び込んでくる。ロヒールは少ししてビールジョッキを片手に他の席へと移動していったのだが、そこにリョウが座って話しかけてきてくれたため、ひとまず僕だけが独りで取り残されることは無くなった。彼からたばこの煙が流れてきても話し相手がいる喜びのほうが勝り、そこにアーネストが加わったことでさらに会話が弾んでいく。僕はようやく参加して良かったと安堵しながら彼らとの会話を楽しんでいた。

 リョウが他の男性に呼ばれて席を立つ。そこから少しすると、店内の様相が変わってきていることに気が付いた。最初こそ全体的にまとまっていたものが、いつの間にか何グループかに別れ、さらには酔っ払って陽気になった男女の間で色めくやり取りが見え隠れする。リョウもその一人であり、いつの間にか女性と顔を近付けて親密に語り合っていた。あの女性がシュエンなのであろうか。

 僕がいるこの薄暗い空間は、香水の匂いと酒とたばこに不思議な熱気とが色濃く混ざり合って満ちており、そこに激しい音楽と妖しい雰囲気が加わったことによって何か膨大なエネルギーを放出しているようであった。おそらくは若さ特有の生命力あふれた、それでいてどこか危なっかしいエネルギーなのであろう。しかし、そうなるといよいよ僕が場違いな存在であるように思え、例の気後れと居心地の悪さとに支配されるようになった

 それでも僕は独りではなく、アーネストと他愛も無い会話をしていた。彼には面倒見の良いところがあったので、彼のおかげであることは確かなのだが、こういった場所で独りにならずに誰かと会話を続けられること自体が、僕にとって成長ともいえる出来事であった。

「そういえば仕事ってどんな内容なの? 税関職員と違うんだっけ?」

 アーネストが屈託のない笑顔で僕に質問をしてきたその時、リズと呼ばれた女性がもう一人の女性を連れ、僕の隣にやや強引に座りこんできた。

「クラウス。どう、楽しんでいる? 私、リズ。ねえ、あなた特別コースだったんでしょ? 頭いいのね。以前、一度だけ見たことがある気もするのだけど、通常コースの私とはほとんど初見のようなものね」

 彼女はそう言うと酔っ払った勢いなのか、大胆にも僕に抱き付いてきた。

 この状況は普通の男性であれば、非常に好ましいはずである。しかし、雰囲気にのまれて弱腰になっていた僕はそのまま硬直してしまい、彼女の顔も見ずに曖昧な返事をすることで精一杯であった。もう一人の女性はアーネストの隣に座っており、明るい口調で僕たちに話しかけてきた。

「私はウーラ。あら、アーネスト、久しぶりね。と言っても半年ぶりぐらいかしら」

 ウーラはアーネストとそのまま雑談を始めた。僕に抱きついたままのリズと二人きりで取り残されたことを理解し、ますます緊張から心許なさが席巻していく。どうすればいい、どうしたらいいのか。僕が大学院で学んだのは、不器用と無骨さを伸ばす方法ではなかったはずだ。しかしながら、このような状況下では特別コース出身など何の意味もなさなかった。

 対応に苦慮して両手をきつく太ももの上で握りしめていると、リズがさらに甘えるような声でささやき始めた。

「ねえ、あなたとってもかっこいいのね。女の子にすごくもてるでしょ? 彼女いる?」

 その瞬間、彼女の息遣いが生々しく僕に触れていった。かつてない状況にますます動悸と動揺とが交錯する。この状況からいったん離れて心を静めるためには、どうしたらいいのか。

 ふと名案を思い付いた。彼女を傷付けることなく、僕から離す方法はこれしかないのだ――。僕は慎重に視線を店内の奥に向けると、なるべく落ち着いた声で彼女に話しかけた。

「素敵というほどでもないけど、ありがとう。その、トイレに行きたいので席を立ちたいのですが」

 やんわりとお願いすると彼女はあっさりと僕から離れた。ほっとするのも束の間、そそくさとトイレへと向かう。移動中も僕はなるべく視線を床に落とし、他の人たちのやり取りを見ないようにした。

 用を済ませて手を洗っていると、僕の目的がほぼ達成されたことに気が付いた。懐かしい顔も見たし、会話もそれなりにできた。これ以上ここにいても気疲れするだけである。『普通』の男性がもっとも興味を抱くであろう、未知の世界に足を踏み入れるつもりもなかった僕は、ロヒールに断って先に帰ることにした。

 ドアを開けて店内を見渡す。数歩進んだところでエキゾチックな香水の匂いがかすかに鼻に付き、誰かからいきなり腕を掴まれた。突然の出来事に驚いて相手を確認すると、タムという女性であった。彼女は僕の手を強引に引っぱり、近くにあったソファに僕を座らせながら言った。

「初めまして、クラウス。私はタムよ。あなたより二歳年上になるのかしら。ロヒールから聞いたんだけど、あなた特別コースだったんですってね。すごいわ。私は高等コースだったの。ねえ、修士の学位を持っていながら、誰にでもできるブローカーの仕事に就いているって本当?」

 彼女は隣に座ったかと思うと、リキュールを勧めながら僕に絡むように右腕を回し、左手を僕の太ももの上に置いた。僕は慣れない状況に再び動揺しており、彼女の顔も見ずに率直に答えた。

「ブローカーの仕事も楽しいですし、やりがいもありますよ。それに法律や商品に対する専門的な知識も求められますから、誰にでもできる仕事とは思っていません」

 すると彼女は酔っ払っているのか、大胆にも僕の腕を彼女の肩に回すように持ち上げ、僕の懐へと入って体をさらに密着させてきた。その勢いに押されて思わず顔がのけぞったのだが、彼女は構うことなく僕の首筋近くにまで顔を近付けてささやいた。

「あなた、本当にきれいな顔ね。背も高いし、モデルみたい。ねえ、抜け出して二人で一緒に飲みに行かない?」

 彼女の香水の匂いが店内の様々な匂いと混じって漂ってきたので、僕は嗅覚がこれ以上閉じられないことを心から残念に思っていた。それと同時に、得も言われぬ居心地の悪さに苛まされる。ふと視線を奥に向けると、リョウがシュエンにかなりきわどいところまで顔を寄せているのが見えた。それは、おそらく今の僕の状況とたいして変わらないようであった。

 宙ぶらりんに浮いた僕の左手が彼女の肩に触れないように注意を払いつつも、僕の太ももの際どいところに置かれた彼女の手を右手でなんとか取り除く。僕はすっかり怖気づいており、小声で彼女に言葉を返した。

「いえ、興味がありません。それに僕はそんな褒められた見た目じゃない。どうやらあなたは飲み過ぎているようです」

「私が飲み過ぎ……か。それなら、私を介抱して。ねえ、クラウス――」

 彼女はそう言うと僕の右手を彼女の胸部へと引っ張り、さらには僕の肩に頭を乗せてさらに密着させようとした。

「すみません、僕はもう帰るので失礼します」

 僕は難なく彼女を制すと、逃れるように彼女から離れた。そして上機嫌な様子で女性の腹部に手を回しながら酒を飲んでいるロヒールに、ためらいがちに話しかけた。

「あの……ロヒール、今日はありがとう。楽しかった。僕は少し疲れたから帰ることにするよ。代金がわからないから多めに送金しておく。引き続き楽しんで」

「何を言ってるんだ、クラウス。まだ始まったばっかりじゃないか。お前は昔からこういうの苦手にしていたけど、もっと気楽に楽しめよ。せっかく誘ってやったんだぜ? どうせ彼女とかいないんだろ?」

 彼は言い終えるとすぐに女性との会話に戻っていったので、僕は全く困り果ててしまった。その時、誰かが背後から僕に抱き付いてきた。タムだと直感し、振り向きもせずにその手をやんわりと僕の体から離す。それを横目で見ていたのであろう、ロヒールが囃し立てるように言った。

「クラウス、良かったな。お前もてもてじゃないか。レディーに失礼のないよう、ちゃんと持ち帰れよ?」

 彼の言葉は僕に冷たく突き刺さった。

「ちょっと、クラウスは私と話していたのよ?」

 リズが怪訝そうな表情で僕の背後を覗き込んできた。そのことで周囲が何事かと僕のほうに視線を向けたので、ますます居心地の悪さと息苦しさとに圧し潰されかける。僕が浮いているから、僕が普通の人間ではないから、このようなことが起こったのではないのか。なんともなしにそう考えると、この中でただ一人、完全な人間でないことを思い出して言いようもない孤独感に囚われた。

「ごめん、ロヒール。僕はやはり帰るよ」

 僕が改めてそう伝えると、彼は僕を憐れむような目付きで見て鼻で笑った。

「…お前ってホント馬鹿だよな。もういいよ、じゃあな」

「ごめん。……それじゃあ」

 ロヒールはすぐさま一緒にいた女性とくすぐり合うかのように顔を近付け、会話を再開させた。

「一緒に行こ」

 タムが再び僕の腰に手を回して体を寄せてきた。もはや僕の心は平穏さを失いかけていた。

「すみません。僕は至らないところが多いので…帰らせてください」

 さっと体を離し、視線も合わすこともなくぼそぼそと彼女に言葉を返した時、リズが僕の名を呼んだ。僕はリズもタムもあいまいに見ると、「すみません」とだけ謝ってから壁に掛けられていたコートを乱暴に取り、視線を床に落としたまま急いでバーを出た。

 そのまま振り返ることなくひたすら足早で歩く。道路の反対側にバスが信号で停車しているのが遠くに見えると、法令違反と知りながらも急いで道路を横断してバス停に並んだ。

 タムとリズが追いかけてくることはなかった。安堵感と罪悪感とを同時に抱えながら、やって来たバスに乗り込む。乗客が少なかったのは幸いであった。その静かな車内に溶け込むかのように、沈んだ気持ちのまま実家へと戻った。

 家の中に入るとまだ両親は起きており、母が「おかえり、案外早かったのね」と驚いた表情で話しかけてきた。その言葉が気になってふと時刻を確認すると、ロヒールがここに迎えに来てから二時間も経っていないことに気がついた。

「……充分楽しんだよ。シャワーをまた浴びていいかな、なんだかいろんな匂いが体について気になってさ。服も洗おう」

 僕は努めて明るく言葉を返すと、先に自室の暖房のスイッチを入れてからバスルームへと向かった。衣類を全て洗濯機に放り込んでから再びシャワーを浴びる。下着を忘れてきたことに気が付き、バスルームからバスタオルを腰に巻いたままこっそり自室へと向かったのだが、背中に残っていた水滴が冷たく流れ落ちるといよいよ背徳的な行為をしているように思え、たまらなく惨めな気分になった。

 少しだけあたたまってきた部屋で、クローゼットに置いてあった清潔な下着を身に付け、部屋着へと着替える。そこでようやく気持ちが落ち着いてきたので、僕はベッドに覆いかぶさるかのように勢いよく横たわった。

 タムの妖しい視線にほてった手の動き、ロヒールの僕に対する冷めた視線やリズの甘えた声に引きつった表情、他人の好奇の眼差しやひそひそ話。それらが思い返される度に、僕は何とも言えない苦しさに襲われて悶えた。僕が器用でさえあれば、変化を上手に活用して楽しい時間が過ごせたのではないのか?

 沈んだ気持ちがぐるぐると思考を刺激するのに抗わず、宙をぼんやりと眺める。僕は言いようもないさびしさの中にいた。

『クラウス』

 不意にイェンスが僕を優しく呼ぶ声が脳内に再生された。彼の美しい瞳、所作、口調、いや、彼の何もかもがはるか彼方に遠のいていた。今、彼と話せたらどんなに心強いことか。

 僕はやおら起き上がってスマートフォンを手に取った。時刻は夜十一時を過ぎた頃であった。普段の彼ならまだ起きている可能性もあったが、彼は明日早朝にアパートを出ると話していた。僕が彼の事情を汲むことなく何の気なしに電話をかけたら、きっと迷惑をかけるに違いない。僕はぐっとさびしさをこらえると、スマートフォンをナイトテーブルの上に置いて再びベッドに突っ伏した。

 しばらくぼんやりとしていると、階下から微かに洗濯が終了したブザー音が聞こえてきた。起き上がるのが面倒なほどだらけていたのだが、気力を振り絞って階段を降りて洗濯物を干そうと手に取る。その時、母がバスルームにやって来て顔を覗かせた。

「後はやるからもう休みなさい。なんだかんだで疲れたでしょう?」

 母の口調は優しく穏やかであった。いや、普段どおりの母であった。しかし、僕はその何気ない母の態度に心から安堵を覚えていた。

「ありがとう、そうする。おやすみ、母さん」

 洗濯物を受け取った母は僕の言葉に小さく微笑み、「おやすみ」と返してリビングルームへと戻っていった。

 再び自室に戻ってベッドに横たわる。すると、なぜか急に夕食前まで考えていたことを思い出した。僕もずいぶんと思考の紐を絡ませたままでいた。それでいくと、誰も彼も好んで絡ませたままでいるわけではないのであろう。

 父の思考の紐がボロボロになるまで複雑にもつれ、絡ませる原因となった意志とは何であったのか。父、タキアの祖母、写真でしか知らない祖父、曾祖父、曾祖母――父方だけでも遡っていけば、複雑な生命の大樹があっという間に頭上に広がっていく。父が孤独を感じていたのだとすれば、どこに原因があり、なぜあたたかい手が差し伸べられなかったのか。なぜ、父も孤独から逃れられなかったのか。

 その時、ある思考が閃いた。誰からも認められないことで孤独を感じた経験は、僕に怒りと悲しみをもたらし、僕がいかに卑しく弱い存在であるかを否応なしに突き付けてきた。その苦痛から逃れるべく、他人や社会のせいにして自分を懸命に守ろうとすることは、孤独を経験した者であれば一度は選択してきたことであり、そもそも人間が本来持っている自己防衛の側面ではないかと考えた。孤独や苦悩から自分を守るにも、その方法がわからずに苦しみもがいた結果が思考の紐をもつれさせてボロボロにした原因であるなら、自分自身を自分なりに守ろうとした意思が根底にあるはずなのだ。

 父はおそらく、自分の思考を孤独から守る方法を知らなかった。いや、それは僕にも同じことが言えた。僕も父も兄も他の誰もが自分の心を守ろうとした時、上手に思考を辿らずにぐちゃぐちゃに絡んだままの紐をただ保護の目的で殻をかぶせ、あるいは複雑に絡んだ紐をほどくのを諦めてきたのだとすれば、自分を怒りや悲しみから的確に守る方法がわからないのも当然なのではないか。

 父が果たしてそうであるという確証は無かったのだが、その人自身の心の風通しが良ければ、少なくとも父がかつて取ってきたような行動は選ばないように思われた。かつての父は母を責め、自分の母親を責め、口答えする兄や僕を責め、ドーオニツもタキアも責め、彼を傷つけるものならたとえ相手が完全に制御されている信号でさえ、責めなじっていた。

 自己の内面を見つめ返し、その時の思考を冷静に受け止めることは、解決を導くうえでもとても大切なことではないのか。周囲を責めなじるより、なぜそう考えてしまうのかを把握しようとするだけでも、ずいぶん現実的な対応なのではないか。それでもまだ善処とは言えないことにも気が付いていたのだが、まずは確実な一歩から始めたいという願いが僕にはあった。

 ふとイェンスのやわらかい笑顔が再び脳裏をよぎる。かつては憂いを帯びた眼差しを見せていた彼も、今となっては屈託のない笑顔をよく見せるようになっていた。彼の過去は僕からすれば耐え難い経験が少なからずあったうえ、彼の家族が取った行為は彼に孤独と悲愴をもたらすのに充分であるように考えていた。しかし、それでも彼の眼差しが淀み無く、美しい輝きをあふれさせていたのはなぜなのか。

 僕はその時ようやくあることに気が付いた。

 おそらくイェンスは長年、独りで苦悩しながらも思考の紐を丹念に整えてきたからこそ、自暴自棄になることなく自分自身を律してこられたのであろう。彼は自分自身を知ろうと常に画策をしていた。それがどのような方法であれ、彼に糸口をもたらさなくとも自己と向き合うことで何かしらの効果を実感していたがため、投げやりになることなく取り組んできたに違いないのだ。

 やはりイェンスは全てにおいて僕の数十歩先にいた。そして僕はそのような彼との友情から感謝と好意だけではなく、希望と道標までをも得ていた。彼と僕との間にもたらされた全てが見えざる何かの力による巡り合わせであろうとなかろうと、以前にもまして大切にしていこう。それは力強い新年の誓いであった。

 ベッドの中にもぐりこみ、イェンスの美しい眼差しを思い出しながらゆっくりと目を瞑る。うす寒さから解放され、力を抜いて横たわっているうちに、僕はいつしか眠ってしまったらしかった。

 次の朝、目が覚めて時刻を確認すると午前九時を過ぎていた。僕の両親は早起きが習慣であるため、慌ててリビングルームへと向かう。すると、とっくに朝食を済ませた父が僕の部屋着姿を見るなり怪訝な表情を浮かべた。

「なんだ、その格好は」

「おはよう、クラウス。ちょうどあなたの服を部屋に持って行こうとしてたのよ」

 父が言い終えるや否や、母が昨日の洗濯物を手に持った状態で僕に話しかけてきた。

「あ……ありがとう」

 母は僕に衣類を手渡すと、「すぐに朝食の準備をするから着替えておいで」と言い残してキッチンへと去っていった。そこで自室で素早く着替えを済ませて荷物をまとめ、再びリビングルームへと戻る。水を飲もうとキッチンに向かったその時、母が「やっぱり切れ味がいいと違うわねえ」と言いながらスライスしたベーコンをフライパンの上に落としていた。すぐ近くの作業台の上には、母が途中まで準備したパンケーキの材料が置かれている。僕はふと昨日の会話を思い出し、今後母から再度詰問されることの無いよう、パンケーキを自分で焼いて母に自炊の証拠を見せることにした。

「あら、なかなか手際がいいのね」

 母が感心した様子で僕の手元を覗き込む。その距離の近さに多少の鬱陶しさを感じたのだが、気を取り直してわざと得意気に返した。

「一応、これぐらいはできるよ」

 しかし、母は僕の生意気な口調を気にかけることなく、優しい口調で言った。

「時代は変わったものねえ。料理も掃除もこなすなら、あなたと結婚する女性は幸せね」

 僕は母が一般的な会話をしていることは理解していた。だが、この先において、母のそういった類の期待に僕が応える可能性が無いことも知っていた。僕にとって無縁である世界に関わるのも煩わしく思え、わざと無言のままで作業を続ける。しかし、母は僕の態度の悪さを気にしていなかったようで、聞き覚えの無い鼻歌を歌いながら目玉焼きを作り始めた。

 出来立てのパンケーキを皿に乗せていると、母が「紅茶を淹れてあげるわね」と言って紅茶の缶とティーポットを取りにリビングルームへと消えていった。そのリビングルームから、テレビを観ている父の声が聞こえる。スポーツ観戦をしているのであろう、何かを応援しているようである。母は僕の分と母の分の紅茶をテーブルに置くと、ゆったりとイスに座った。この何もかもが落ち着いた雰囲気の中で、まるで昨晩の出来事が無かったかのように朝食を食べ始めた。

「あなた、お昼頃にここを出るんだっけ?」

 母が紅茶を飲みながら尋ねてきた。

「そうだよ。でも、せっかくだからお昼ご飯は食べて行こうかな」

「午後、あなたを送りながらお父さんと一緒に出掛ける予定なの。隣の地区で、無料の音楽会が午後二時から開かれるんですって。時間的にちょうどいいわね」

 両親がそういった目的で出掛けることは、いわゆるデートだということに気が付いて驚いたのだが、相変わらず母はのんびりと紅茶を飲み、それからスポーツ観戦に夢中になっている父に気ままに話しかけた。しかし、試合がちょうど盛り上がっていたらしく、父が振り向きもせずに「後にしろ」とだけぶっきらぼうに返す。それを受けて母は苦々しい表情で、「まあ、あの態度ときたら、全く腹正しいわ」と聞こえるように愚痴をこぼしたのだが、それでも父はテレビに熱中しており、母も慣れているのかそれ以上は荒ぶること無く、どこからか取り出したクッキーをほおばり出した。僕は父の態度に不満を感じたのだが、母が驚異的な速さで気持ちを切り替えたことにいたく感心したこともあり、ひとまず食事を続けることにした。

 母の話を推察するに、音楽会に誘ったのは父のようである。以前は小ばかにしていた節があったのだが、母の好みに合わせるようになったのか父の好みが変わったのか、それとも僕が知らないだけであったのか。僕は家族間に訪れたさらに奇妙で前例の無い展開を、戸惑いながらも受け入れることにした。

 食べ終わった食器を洗って棚にしまっていると、ふと名案が浮かんだ。それはやはり今までの僕には無いものであったのだが、気恥ずかしさを脇に寄せて母に伝えることにした。

「ねえ、せっかくだから二人でお昼ご飯もどこかで食べていけば? 僕はそんなにお腹空いていないから、お昼に簡単なもの食べた後は戸締りしておくよ」

「あら、あなたを見送らないで私たちが見送られるの?」

 母が少し驚いた笑顔を見せたので、僕はつい嬉しくなった。それでもしらじらしく取り澄ました表情を作ると、素っ気なく言葉を返した。

「お金は出すよ。ゆっくりしてきたらいいさ」

 すると母ははにかんだような笑顔を浮かべ、「ありがとう、お父さんに相談してみるわ」と言ってソファに座っている父の元へと向かった。ちょうど試合が終わって自制を取り戻した父は、母からそのことを伝えられると非常に驚いた表情で僕を見つめた。

「せっかくクラウスが提案してくれたのだから、そうしましょう」

 母が言うと父はうなずき、少し照れた様子で「そうするか」と言った。僕のささやかな提案を喜んで受け取った両親の姿につられ、僕の顔も心も少しずつほころんでいく。僕は新境地の中にいた。

「クラウス!」

 やや舞い上がった口調で母が僕を呼びつけたので探してみると、母は寝室で両手に服を掲げており、どちらの服がいいかと尋ねてきたのであった。どちらも決して派手とはいえず、真新しくもないブラウスで悩む母が急にいじらしく思えたのだが、結局ははしゃいでいる母にわざと呆れた表情を浮かべ、「好きな服を着たらいいじゃないか」とつっけんどんに返した。すると、母が「悩んでいるから相談したんじゃないの、役に立たないわね」と笑顔で悪態をついたので、僕はつい笑ってごまかしてしまった。

 リビングルームに戻るといつの間に着替えたのか、父がお気に入りのジャケットを羽織ってテレビを観ていた。そこに着替えを済ませた母が、慌ただし気にリビングルームに入って来る。僕は万が一のために持ち歩いていた現金を渡すべく、母を呼び止めた。

「お金はこの封筒に入っている。余ったら好きに使っていい。楽しんできて」

 そう言って母に渡そうとすると、母は「お父さんに渡してきて」と言ったので、僕はつい無口のまま父に封筒を渡した。父はやや気難しい表情で受け取り、封筒の中を見ることもせずにただ僕をじっと見つめた。

「ありがとう、クラウス」

 父の声は低く、押し殺しているかのようであった。しかしその時、僕は父の瞳にあの光がかすかに宿っているのを見つけた。父は照れと喜びを露わにすることをひた隠しながらも、瞳に美しい光を放つことで父の心境を鮮やかに表現したのである。僕はそれだけで充分に父の気持ちを感じ取っていた。母だけが不満そうに「もっと喜べばいいじゃない」と言ったのだが、僕はとっくに気にしていなかった。

 両親を玄関まで見送る。その時、母が僕の手を取った。

「クラウス。あなたが頑張って働いたお金で贅沢してくるわね。ありがとう、また来るのよ」

 子供の頃以来の母の行為に照れて無言で突っ立っていると、「戸締りを頼んだわね」と母が続けた。そこに父が少しはにかんだ様子で、「じゃあ、行ってくる。気をつけて帰れ」と伝える。そうなるといよいよ照れくさくて、「いいから早く行けよ、時間がもったいないだろ」とぶっきらぼうに返したのだが、父も母もそのような僕を咎めることなく、やわらかな笑顔を残して去っていった。

 ドアを閉めるなり、家中ががらんと静まりかえる。時計の音と暖房器具の音以外は聞こえず、僕が実家で過ごした日々までもがはるか彼方で美しく霞んでいくようである。早速暇を持て余した僕は、何となしにテレビをつけた。特に観たい番組があったわけではなく、静かな室内から醸し出されるうらさびしさを避けたかったからなのだが、テレビから流れる他人の声でさえ、今の僕にはどこか心強かった。

 それからの僕は非生産的な過ごし方で昼を待った。ソファにだらりと寄りかかり、スマートフォンで中身のないネットの記事を漁っては読みふける。しかし、読みごたえが無いからなのか、はたまた僕が飽きっぽいからなのか、そのぼんやりとした行動も長くは続かなかった。僕は時間をつぶすかのように家の中をぐるぐる歩き、かといって何かを詮索するわけでもなく、ただひたすら彷徨った。父と母が生活している痕跡をそこかしこに残しているのを目の当たりにしているうちに、家の中にいつもの雰囲気が取り戻され、一人で家にいるというさびしさが消えていく。

 お腹はさほど空いていなかったのだが、昼近くになったという理由だけで簡単に昼食を作り、アパートにいる時と同じく一人でぽつんと食べる。後片付けを済ませて戸締りを確認すると、淡い感情とともに実家を出て駅へと向かった。途中で知り合いに声をかけられたり、挨拶をしたりしたのだが、昨日バーに居たメンバーと会うことは無かった。

 当初の予定より一時間も早い電車に乗って腰を落ち着けると、途端にイェンスのことが気にかかった。彼こそが、今まさしく家族と親戚の前で複雑な感情に埋もれているはずなのだ。いや、そう考えるのは早計で、ひょっとしたら和気あいあいとした雰囲気の中にいるかもしれなかった。僕は両極端の落ち着かない思考を無理やり放り出すと、彼が何事もなく心穏やかに過ごしていることだけを願った。

 夕日が街に長い影を落とす頃、アパートの最寄り駅に到着した。マフィンを買って部屋に戻り、すっかり冷えて静まりかえっていた部屋に暖房を入れ、カーテンを閉めることなく夕暮れの景色を室内へと取りこむ。それからお湯を沸かして紅茶を淹れると、静かな部屋でマフィンを食べながらぼんやりと外を眺めた。

 僕は今も一人だ。

 それは状況からして当然のことなのだが、家族を含めた僕の人間関係が果たして存在しているのかが不思議に思われ、全てが僕の幻想が作り出した思い込みなのではないかという陳腐な感傷にとらわれた。この根拠の無いわびしさと孤独は今までも何度か感じていたのだが、今となってはおそらく誰もが持ちうる普遍的なものではないかと考えていた。だからこそ、人は他人とのつながりを無意識のうちに求めるのではないのか。僕が部屋に閉じこもったところで、無数の他人が関わって作られた食料や衣類、生活用品に囲まれたままであることに変わりはなかった。無人島で全く何も持たないところから始めたところで、そこにいたるまでが直接的であれ間接的であれ、他人との関わりなしには成立しないのである。

 気がつくと僕は転寝をしていたらしく、電話が鳴る音で目が覚めた。時刻は午後四時半を回っており、電話はイェンスからであった。僕はつい嬉しくなって、弾む声で電話に出た。

「イェンス! どうしてるか気になっていたんだ」

「クラウス! ああ、君の声を聞くとやっぱり落ち着くな。実家を出て今、地下鉄の駅に着いた。そっちにはどんなに遅くとも八時ぐらいには着くと思う」

 彼の声はややくたびれたようにも聞こえたのだが、それでも彼が笑顔であることは電話越しに伝わってきた。

「僕も君の声を聞いて安心したよ。どうだろう、僕は構わないから一緒に夜ご飯を食べないか? 駅まで迎えに行くから近くのレストランで食べるか、それとも僕の手料理でよければ何か作っておこうか?」

「ありがとう。君の手料理を食べることができるのは非常に光栄だ。なんでも構わないから、お願いしていいだろうか?」

「了解。準備して、駅で待っている」

「それでは待っている間、君が寒いだろうから君のアパートで会おう。また後で」

 電話はあっさりと切れた。それからの僕は非常にそわそわし、落ち着かない気分であった。食材を買いに出掛けている間中、どことなく浮足立っている自分に気が付く。彼の疲れた声からして早めに休ませてあげるべきなのであろうが、僕はたった一日半の間に起こったいろいろ出来事に感嘆し、辟易したこともあり、彼と少し話せたらと考えていた。

 イェンスをじっと待っているのが難しく、室内をうろうろしてからいつものように窓を開け、冬の澄んだ空を見上げる。昨晩祖母と一緒に見上げた空を、今は独りで見ていた。この『独り』という感覚はずっと僕を捉えているのだが、そこに孤独感も不安も無く、目に見えないつながりに力強さを感じていた。それはやはりイェンスのおかげであった。

 その時、スマートフォンにメッセージが入った。中を確認するとイェンスからで、七時半過ぎには僕のアパートに着く予定であるという内容であった。僕は短く返信するとようやく夕飯の準備を始めた。

 皿などを準備しているうちに時刻が七時半になろうとしていた。僕は子供じみていると思いながらも、窓を再び開けて下を通る人たちを注意深く見守った。暖房がうなって温度を保とうとする頃には肌寒くなっていたのだが、それでも僕はここで待ち続けたかった。

 遠くで子供が怒っている声がかすかに聞こえる。「嫌だ」という言葉が耳に入ると、僕が情熱を持ってイェンスを出迎えようとしていることに対して彼が僕を鬱陶しく思い、また、重く受け止めるのではないかという不安がふと脳裏をよぎった。電話の様子からして、彼は疲れているようであった。そのような中で僕だけがはしゃいでいたら、彼は興ざめして愛想も尽かすかもしれないではないか。

 あっという間に不安を覚えたその時、僕の視界に美しく歩く人影が登場した。僕が固唾を飲んで見守るとその人は顔を上げ、僕に手を振って笑顔を見せた。

 イェンスであった。

 彼の姿を見た瞬間、不安も小難しい講釈も消え去り、喜びだけが湧き上がる。僕もまた笑顔で手を振って返したのだが、途端に現実の状況を気にかけた。暖房器具がうなり声を上げている。部屋が冷えているのだ。慌てて窓を閉め、設定温度を上げて彼の到着を待つ。微かに聞こえてくる足音がだんだんと大きくなってきたので、僕は戸口に駆け寄り、急いでドアを開けた。すると、ちょうどイェンスが階段を昇りきっていて、僕を見るなり微笑んだ。

「お帰り、イェンス。疲れたし、腹ペコだろう。さあ、中に入って」

 彼を室内に通してドアを閉めたのだが、彼は無言で僕の顔をじっと見つめたままであった。次の瞬間、彼は目を赤くにじませたかと思うといきなり僕に抱きついた。冷え切った彼の上着が、彼の孤独を表しているかのようである。その彼は、声を押し殺しながら鼻をすすり、肩を震わせていた。

 やはり何かあったのだ。僕は沈痛な思いで、小さく丸まっているイェンスの背中を優しくさすり続けた。その間も彼は静かに嗚咽をもらし、僕に寄りかかっていた。

 どうか彼の悲しみが癒えますように。

 室内が暖まってきた頃、彼は落ち着きを取り戻したのか、僕から離れて静かに微笑んだ。

「ありがとう、クラウス。君にはいつも助けられる。君もお腹が空いていただろうに、すまなかったね」

 彼は僕が見たいと思っていた、あの美しい光を瞳に携えながら言った。僕はその光をやわらかく見つめながら答えた。

「気にするな、イェンス。上着を預かろう。さあ、座って」

「美味しそうだな、今日の食事の中で一番食欲がそそられるよ」

 イェンスはテーブルに着くなり、明るい笑顔を見せた。

「たいしたものじゃないけどね」

 彼が素直に喜んでくれたこともまた、嬉しかった。

 イェンスは一口食べるなり、「美味しいな」と感想をもらした。それからはお互いに無言のままで食べた。食事が終わりかけの頃、僕はリンゴを食べるかと彼に尋ねた。彼が喜んで食べると答えたので、食器を下げてリンゴを食べやすい大きさに簡単に切り、彼に差し出す。彼はネクタイを外してシャツのボタンを緩めており、そのすっかりくつろいだ様子でイスの背もたれに寄りかかりながら言った。

「ありがとう、クラウス」

 彼は優しく微笑んでからリンゴを一切れ頬張った。シャリシャリとした音がもれる中、僕はそっと彼に尋ねた。

「イェンス。良かったら、何があったのか聞かせてくれないか?」

 それを聞いたイェンスは、美しい眼差しをさびしげに曇らせてから微笑んだ。

「話すつもりでいた。聞いてくれることに感謝する。端的に言うと、今日実家と決別してきた」

 彼はそう言うとゆっくり深呼吸をした。どうやら気持ちを落ち着けようとしているらしかった。その様子をじっと見守る。イェンスはテーブルに視線をいったん落とすと、静かに語り始めた。

「昼前に実家に着いたのだが、家族も親戚もすでに全員揃っていた。もちろん、姉も夫と一緒にいた。父は僕を見るなり、厳しい表情で迎え入れた」

 イェンスの父親は彼が到着するなり書斎に彼を通し、二人きりの状況でどうしても家督を継ぐ気が無いのかを再確認したようである。彼が表情も変えずにきっぱりと辞退の意志を改めて表明すると、彼の父親は『お前に与えるものは何も無いと思っていいのだな』とさらに畳みかけたらしかった。そこで彼が家督相続を放棄し、実家に伝わる価値のあるものも全て弟に譲ると宣言すると、彼の父親は苦虫を噛み潰したかのような表情を見せて『もういい』とだけ言ったので、一礼をしてから部屋を出たのだという。

「少しして一番広いダイニングルームで昼食会が始まると、僕が久しぶりに顔を出したこともあって親戚中の好奇の目にさらされ、矢継ぎ早に飛ぶ質問をかわしながら食事を取ることになった。ほとんど喉を通らなかったけどね。父は僕と目を合わすことはせず、その代わりに姉が鋭く僕を見据えていた。表面上はゆったりとした食事が終わると、父は一堂に会した面々を前に、『皆にお伝えしなければならないことがある』と言って弟のアウグストを呼び、父の隣に立たせて非常に強い口調で言った。『我が息子、アウグストがこのグルンドヴィ家の家督を相続する』。すると僕の家族以外、祖父母と親戚一同とがどよめき、一斉に父と僕とを交互に見つめた。僕にはその視線が耐え切れず、一番奥の壁をじっと見つめるしかなかった」

 彼の祖父母が『なぜだ』と彼の父に激しく言い寄ると、彼の父は冷静に『アウグストのほうが適任だと判断したからだ』と言い放って退室したようである。混乱し始めた室内で、彼の伯母が彼の母に、『どうしてイェンスに家督を継がせなかったのか』と執拗に尋ねる声が響き、彼の母は伯母のその鬼気迫る態度にたじろぎ、狼狽したらしかった。

「祖父が僕のところに来て、『なぜだ、お前が一番適任なのはわかっている。お前にその気が無いのは知っていたが、お前個人の自由な意志など今さらどうして受け入れられよう? 家督を継ぐ者として立派な教育と教養を身につけさせてきたにもかかわらず、恩を仇で返そうとは、なんたる恥知らずだ』と罵った。僕は祖父の顔を無言で見つめ返した。祖父はしばらく僕をなじっていたのだが、糠に釘だと感じたのか、或いは疲れたのか、僕の足を杖で強く打ち付けていくと怒りの表情のまま部屋を出て行った。僕は親戚から逃れ、弟の側に駆け寄った。そして一言『すまない。改めてお前に全て任せる。僕はいないものとして取り扱っていい』と伝えた。すると弟はこう言った。『兄さんの気持ちは僕には全くわからない。兄さんは全く変わっているよ! 僕は今まで、弟というだけで二番手に甘んじなければならなかった。だから、この機会をずっと望んでいた。僕が兄さんに一点だけ感謝していることがあるとすれば、そのことだけだ。みんな人を見る目がないから、今は不安を感じて取り乱しているけど、僕を低く見ている奴らに泡を吹かせてやる。それと僕に任せるのであれば、今後一切、このグルンドヴィ家に関わらないでほしい。後から気が変わった、家督を継ぐと言われても僕は兄さんに譲らないし、勝手な兄さんが路頭に迷った時も助ける気は無い。僕に任せる、ということは僕がそういった立場をとることを了解するということだ』。僕が微笑みながら『その立場で何ら問題が無い。お前に僕の価値観や考えを押し付ける気も毛頭ない。僕がわがままなのは充分承知しているが、最後のわがままだ。両親を頼んだぞ』と最後に兄として言付けると、弟は僕を一瞥しただけでその場から去って行った」

 そう静かに言ったイェンスの瞳には力強さがあった。彼はさらに落ち着いた様子で淡々と続けた。

「親戚の軽蔑の眼差しや嘲笑は気にならなかったのだが、優しかった祖母までもがすっかり嫌悪の眼差しで僕を見ていたのは心苦しかった。僕が今までの感謝を伝えると、『恩を感じているのなら、こういう恥ずべきことを最初からしなければ良かったのよ』と冷たく言い放った。母のところに向かうと姉が立ちはだかり、『母は憔悴しきっているわ、あなたのせいよ』と言って睨みつけ、そのまま母を別の部屋へと連れて行った。その時、アウグストが早速手腕を発揮した。弟はあっという間に場を取り仕切ると、僕に目配せして部屋を出るよう促した。僕は残っていた親戚に一礼をすると部屋を出て、父を探しに執事や使用人たちに居場所を尋ねた。すると一様に彼らは口をつぐみ、目を合わそうとしなかった。僕は父が言い付けたのだろうと考え、少し五感を開放し、自力で父の居場所を探そうとした。しかし、それは本当に苦しかった。僕に対する罵詈雑言や、軽蔑の感情をまざまざと感ずることとなったからね。ぐっとこらえて神経を研ぎ澄ませていると、父がやはり二階の書斎に居る直感が得られた。そこで僕はすぐに五感を閉じて書斎へと向かった」

 彼はグラスに入っていた水を一口飲むと呼吸を整え、さらに続けた。

「書斎のドアをノックし、父にドア越しに話しかけると、『今さら何の用だ』と中から怒鳴り声がした。僕が直接会ってお伝えしたいことがあるので会ってほしいとお願いをしても、父は『二度とこの家に戻って来るな』とドアを開けてくれることはなかった。だから僕は……僕は、ドア越しでも父に伝えた。『僕に今までして下さった、全ての行為に感謝しております。育ててくれたご恩は決して忘れません。ご期待に沿えなかったことは、ただただ申し訳なく思っております。僕は不甲斐ない息子でした』。……父はもはや、うんともすんとも返さなかった。聴力を開放すれば何か察知できたかもしれないけど、その勇気が無かったんだ。僕はドア越しに一礼をすると、今度は母を探した。姉がちょうど居なかったので、僕が母に同じように伝えると、母は泣き崩れて『どうしてこうなったの、どうして……』と嗚咽をもらした。僕は、僕のせいで狼狽し、悲嘆にくれている母の姿を見て胸が痛かった。そんな母に手を貸そうとしたら……全身で拒絶された。『そういう優しさを見せるのではなく、もっと広い視点から家族を支え、立派になってほしかったわ』ってね。母は虚ろな表情でさらに続けた。『望むものは全て与えてきたのに、いったい何が不満だったのかしら』と。僕は必死に感情をこらえて『僕を産み、育ててくれて本当にありがとうございました』と伝えたのだけど、母は独り言のようにこう言った。『あなたにあの特徴がなければ、あなたがいなければ、私たちはもっと気が楽だった……』。僕はそれを聞いて本当に悲しかった。その時、姉が戻ってきた。姉は僕を見るなり、強い口調で僕を責めなじった。僕は……僕は激高している姉にも伝えた。『姉さん、今までありがとう。僕が弟ということだけで、姉さんが大変な苦労してきたことは理解しているつもりです』。すると姉は目にうっすらと涙を浮かべ、僕をきつく睨みつけながらこう言った。『そのとおりよ。あなたには本当に私たち家族が振り回されてきたんだもの。もうたくさんだわ! 早く家を出て行って!』」

 彼は話している間中、ずっと落ち着いた表情を保っていた。しかし、その静かな眼差しこそが、彼が感じた深い悲しみと孤独感をよりいっそう際立たせているように思えてならなかった。

「それで君はすぐ実家を出たんだね?」

 僕が控えめに尋ねた質問にも、彼は穏やかさを保ったまま答えた。

「いや、最後だと思ってかつて使っていた部屋に寄り、幼い頃の僕の写真と家族との集合写真を一枚ずつ上着のポケットにしまい、それから『お手数をお掛けますが、この部屋のものを全て処分してください』とメモを残して退室した。そして、昔から雰囲気が好きで僕だけがこっそり入り浸っていた、今は使われていないリカヒが好んで過ごした部屋でリカヒの痕跡を急いで探したのだけど、何もなかったからそのまま部屋を出て玄関ホールへと向かった。ホールに着くと、仲の良かった使用人数名が僕に声をかけてくれたのが嬉しかった。僕は彼らにお礼を伝えると、『あなたたちの立場を優先させて、どうぞ僕に構わないでください。今までありがとうございました。お元気で』と伝えた。正面玄関から外に出ると、一度だけ家の外観を眺め、その後は振り返ることもせずに門を出た。その時見た青空が美しくて、僕の心を洗うようだった。まっすぐ駅に向かっている途中、近所に住んでいる知り合いにずいぶん久しぶりに会った。彼はわざわざ車を脇に寄せると、僕を懐かしがって少し話をしていかないかと誘ってくれたのだけど、彼は全く事情を知らなかった。そこで僕は非常に簡単に、今日僕が家督相続を放棄したことを正式に父が認め、弟が継ぐことになったと伝えた。当然のごとく彼は訝しがり、詳しく知りたいと熱心に誘ってきた。僕は『あなたにまでご迷惑を掛けるわけにはいきません。僕と話していると、今ならあなたにも風評被害が及ぶことでしょう』とやんわりと断り、急いでいると言い残してその場を足早に立ち去った。彼は祖父が所有するビルの一室で会社を経営しているから、彼が事実を知るのもそう遠くはないだろう」

 僕は淡々と話す彼の言葉にじっと耳を傾けていた。だが、徐々に彼の家族に対して腹正しさがこらえきれなくなり、僕のほうがもはや穏やかさを失いかけていた。

「イェンス。君の家族について、僕ははっきり言って怒りを感じている。どうして家督相続を放棄したぐらいで君をそこまで責め、追い詰めるようなことをしなきゃならないんだ? 家族だろう、もっと君に対して思いやりや優しさがあってしかるべきだ」

 思わず口をついて出た僕の言葉もまた、彼の家族をなじる、思いやりのないものであった。僕は途端に青ざめ、慌てて彼に謝罪した。

「ごめん、言いすぎた。それでも君の大切なご家族であることに変わりは無いのに、僕のほうが口汚くなじってしまった」

「気にするな。君のその言葉だけで僕は充分満たされた。本当にありがとう」

 彼は僕に微笑んで返すと立ち上がり、窓に近付いて外を眺め始めた。僕が彼のそばに歩み寄ると、彼は瞳に美しい光を放ちながら僕を見つめた。

「君は不思議に思うかもしれないが、僕はそれでも家族を責める気にはなれない。両親はルトサオツィの助言とグルンドヴィ家の過去の歴史から、僕の特徴が外部に知れ渡ることは不利益にしかならないと判断し、たとえ祖父母であっても僕の秘密が暴露されることの無いよう、非常に労力を払ってきた。そのほとんどが苦しくつらいものであったことは、僕自身も目の当たりにしてきたんだ。仮に、僕の特徴を他人に信じてもらえたとしても、両親の思惑を外れてその人に利用される可能性もある。苦労して守ってきた我が子が他人に奪われるのも、両親にとっては毛嫌いするほどの懸念事項だったらしい。だから、実家を離れて自由を得た喜びがあるのも事実だが、僕は彼らが僕のためにしてくれたことに感謝しているし、彼らのことは今でも大切に思っているんだ」

 彼はそう言うと再び夜空を見上げた。僕が深く背景を知ろうともせずに彼の大切な家族を侮蔑したにもかかわらず、彼はそれすらも責めることはしなかった。その彼の横顔があまりにも美しく尊く輝いていたので、僕は彼の言葉を深く受け止め、じっと魅入るように見つめた。

「それで君はどうだったんだい? 良かったら包み隠さず教えてほしい」

 イェンスが穏やかな表情で尋ねてきた。壮絶な体験をした彼の話の後で、僕自身の体験などちっぽけすぎて話すことにためらいを感じたのだが、やはり話したい気持ちが勝ったため、一通りの出来事を彼に説明することにした。

 父のこと、母のこと、祖母のこと。道端で見た父子、ロヒールにリズ、そしてタムとの間に起こった出来事。さらにはイェンスの声を聞きたくなったのだが、遠慮したことも彼に包み隠さず伝えた。彼はどの話でも非常に興味深そうに聞き入っていた。

「クラウス。君を今抱きしめたいのだが、いいだろうか?」

 イェンスが控えめに尋ねてきたので、僕は「もちろんだ」と答えると力強く彼を抱きしめた。すると彼は僕の頭にキスをしてから僕を優しく撫でたので、どこまでもあたたかい彼の行動に感涙し、無言のまま彼に寄りかかった。

「ありがとう、クラウス。君から美しく尊いものをずいぶん分け与えてもらった気分だ」

 今日一日、悲哀の中にいた彼がなぜそう言ったのかはわからなかったのだが、彼の言葉が率直に嬉しかった僕は、思い切って彼を待ちわびている間の心情をも吐露することにした。

「こちらこそ、ありがとう。イェンス、実を言うと、君に会えるのが待ち遠しかった。子供みたいに落ち着きなくそわそわしていて、君が帰って来るのを今か今かと窓から眺めていたぐらいさ。僕を鬱陶しく思うかもしれないけど、こんな素晴らしい友情を持てたことが本当に嬉しいんだ」

 緑色の瞳を至近距離で捉える。その瞳はいつにもまして生命力にあふれているようであった。

「僕もだ、クラウス。正直に言うと、僕が心を強く保っていられるのは君のおかげだ。君との友情がこんなにも力強く、優しさにあふれているもので無かったら、僕は北北西の風に吹かれっぱなしだった」

 彼が明るい表情で言ったので、僕は少しおどけて返した。

「君は自ら南風を呼ぶほど逞しい男さ。けど、君の力になっているのだとしたら、これほど光栄なことは無い」

「南風を自ら呼ぶ……か。君らしい表現だな。いずれにせよ、君のおかげで僕はありのままの僕でいられる。ずっと押し込めようとしていた、本来の僕らしくいられるんだ。僕は存在しているだけで様々な問題をばらまき続けてきた。でも、今は自分自身を前向きに捉えようとしている。虚栄と野暮ったい修飾を脱ぎ捨て、不安も怒りも身にまとわず、素朴で自然の移ろいを静かに愛でる自分でありたいと願っているんだ。クラウス、きっと君もそうだろうと思って言うのだけど、ドーオニツでも工事前の自然を残した場所が幾つかあるだろう? 僕はそのわずかな面積にさえ、たくましく複雑な生態系をつくり上げている植物や昆虫、鳥類などがいることに感動している。そのほとばしる生命力に尊敬の念を抱いているんだ。僕はそういった気持ちを忘れることなく、静かに暮らしていきたいんだ」

「君の言いたいことはよくわかるよ。特に動植物のたくましい生命力なら、僕もタキアで何度か間近で見たことがあるからね」

「タキアか。君の話を聞く度に、つくづくいいところなんだろうなと思うよ」

 イェンスはしみじみと言った。

「タキアの中でも祖母の実家は本当に田舎のほうさ。都市部はかなり栄えている。君だって他の地方国に行った時に、そういった自然豊かな場所に行ったことはあるんだろう? まあ、祖母のところは自然が豊かなだけで、傑出した何かがあるわけじゃないんだけどね」

「自然が豊かというだけで充分素晴らしいよ。僕は子供の頃、実家の出身地であるマルクデンと古い親戚のいるヒイラータスエには毎年行っていたけど、そこも都市部なんだ。旅行でカリメアやテンリブ、シャルペに行ったこともあるけど、ほとんどが都市部や観光地で、手つかずの自然豊かな場所へは少し立ち寄ったぐらいしか無いんだ。だから君の幼少時の体験を聞いた時、本当にうらやましかったんだ」

 彼の瞳が純粋な輝きを放った。そのあまりの煌めきに報いるべく、僕は思い切って提案した。

「イェンス。今は無理かもしれないけど、いつか一緒にタキアに行こう。祖母は優しいから歓迎するはずさ。君に見せたくなったんだ、小川が陽光に照らされてきらきら輝くさまを、頭上いっぱいに広がる満天の星を、そして高い山々が遠くにかすんでなお、雄大な姿を堂々とさらしているさまを。鳥が美しく歌い、虫が羽音を震わせて静まった山間にささやかな音色を奏で、人知れずひっそり咲いている野花がどれほどまでに可憐で誇り高いか、君ならきっと、僕以上に素晴らしく感じ取るだろうね」

 次の瞬間、イェンスの表情がこれ以上に無いほどまでに明るくなった。

「ありがとう、クラウス。君はなんて優しい提案をしてくれたのだろう! もちろん、喜んで行くよ。君とならどこへ行っても楽しいだろうけど、それが君にとって思い出深いタキアの自然なら、なおさら興味も感慨も尽きないだろうな」

「ねえ、イェンス。希望や願望じゃなくて、必ず行こう。君が社交辞令を嫌うのを知っている。だから僕も具体的な案として君に言った。ルトサオツィに会うより後だろうけど、それでも僕は君をタキアの自然に連れていく」

 僕の本心に正直に従って言った言葉は、淀むことなく彼に伝わったようであった。イェンスは穏やかな表情でうなずき、「必ず行こう」と言いながら手を差し伸べてきた。僕はその手をがっちりと握り返すと、いつか必ず来る未来に想いを馳せた。

 お互いに自分を飾ることなく心を開き、なおかつ相手をそのままで受け入れている状況だからこそ、今のこの素晴らしい時間を共有できているのであろう。そのあたたかい眼差しが相手の心の深いところへ入り込み、自己否定で固く覆われていた自尊心を少しずつ解放させていくのだとしたら、そこにさわやかな風が吹き抜けることがどんなに尊いものであるのか。僕は今まさに身をもってそのことを体感していた。

 少しして、イェンスはさわやかな笑顔を残して帰っていった。次の日は休暇の最終日で、僕たちは早朝に一緒に走った後は別々に過ごした。外出する用事も無く、アパートの部屋でのんびりとくつろぐ。イェンスからも誰からも連絡はなく、僕もまた誰とも連絡を取らなかった。

 だらだら過ごして、あっという間に夜を迎える。明日は仕事初めで、本格的に新会社が運営を開始する日でもあった。今までと業務の内容は変わらないのだが、どことなく気を引き締めたくなり、結局は明日に備えるべく早々に就寝する。目をつむるなり、職場の仲間が思い返されていく。その見慣れた笑顔がぐるぐると回っていくうちに、いつしか僕は眠ってしまった。

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