第14話

 ゲートを出るまではお互いに無言であったのだが、ゲートを出るなりすぐさまホレーショが話しかけてきた。

 「お前たち、いい時間過ごせたか?」

 彼の口調があたたかかったので、僕は思わず弾むように答えた。

 「もちろん。非常に有意義だったさ」

 「そりゃ良かった」

 ホレーショの口調もまた明るかった。

 冬の短い日差しを受けた街並みは、年末・年始の準備で慌ただしく行き交う人々に彩られていた。その街行く人々の表情は軒並み明るく、来る新しい年に期待と喜びを抱いているように見えた。

 「ユリウス将軍から、お前たちが俺たちの心配をしている、と聞いたぞ」

 シモがややのんびりとした口調で話しかけてきた。

 「せっかくユリウス将軍と会っているのだから、俺たちの心配をせずに単純に楽しめばいいだろう?」

 彼はそう言うと曖昧にこちらを見て笑った。微かに捉えたその瞳には、澄んだ輝きがあるように見えた。

 「全くこいつらときたらしょうがねえな」

 ホレーショがやれやれといった口調で追従して言ったのだが、彼の優しさが後ろ姿からでもにじみ出ていたので、言葉とは裏腹のその様子に僕は思わず笑ってしまった。

 「何がおかしいんだ、お前は全く変な奴だ!」

 ホレーショは嫌味っぽく言ったつもりなのであろう。しかし、ほとんど笑いながらであったため、イェンスも僕も軽快な笑い声が止まらなかった。シモが軽口をたたいたことでさらに笑い声が上がり、いよいよ車内が盛り上がっていく。幹線道路に合流した時にホレーショが運転に専念すると宣言したため、ひとまず車内に落ち着きがもたらされたのだが、他愛もない会話はその後も続き、車内の雰囲気はずっと心地良いあたたかさで満ちていた。

 ドーオニツに戻ってきた。あの公園近くまで来ると、普段ならありがたい冬の日差しが、別れをさびしく感じている僕に冷たく突き刺さってきた。それまであたたかさを保っていた車内にも同様に冷たい光線を浴びせているのか、寂寥感のある沈黙が漂う。信号で車が止まった時、ホレーショがぶっきらぼうに話し出した。

 「今日はユリウス将軍の明日からの警護に備えるためにどこにも立ち寄らなかったが、次会う時はおそらくユリウス将軍のご予定に余裕がある時のはずだ。今度は帰りにどこか寄ったらいいとおっしゃっていたから、次はアウリンコでお前たちに飯をおごってもらうぞ」

 それを受け、シモがいたずらっぽい口調で付け加えた。

 「それなら要人が会談するような、個室付きのレストランでフルコースだな」

 「でも、そういうところではデザートにドーナッツやマフィンは出ないんじゃ?」

 イェンスがすかさずホレーショを茶化すと、ホレーショは大声で吠え返した。

 「お前ら、何言ってんだ。食事とは別に、お土産でもたせるよう仕向けるんじゃねえか!」

 彼のドーナッツとマフィンに対する深い愛情が微笑ましくて、ついイェンスと僕から笑顔がこぼれる。シモが「あの店の全種類をこいつらに買わせてやれ」と付け加えて笑うと、僕たちはいっせいに笑いあった。

 公園に到着したため、一斉に車から降りる。冷たい風が吹き付ける中、シモとホレーショは僕たちを力強く抱擁し、年末・年始の挨拶を伝えてきた。僕もまた彼らに心から感謝の言葉を返し、加減を調整して抱擁を返す。彼らは「いい力だ」と僕たちを褒めて笑顔を見せると、颯爽と車内に戻っていった。

 動き出した車が見えなくなるまで見送る。ふと、心地良い風が僕の中でさわやかに吹いていることに気が付いた。その風は種を運んでおり、友情・尊敬・信頼そして感謝とを届けていた。僕の全身にその種が蒔かれ、萌え芽が真っ直ぐ天に向かって伸び、健やかに成長していくのを思い描く。それは大胆でありながらも、自然な喜びとして僕を包み込んでいた。

 「イェンス、腹ペコだろう?」

 僕は隣で静かに佇んでいた彼にやんわりと声をかけた。彼は美しい瞳を僕に向けると弾む声で言った。

 「そのとおりなんだ。ご飯を食べに行こう。クラウス」

 彼は踵を返すと歩き始めた。行き先は言わずともわかっていた。あのレストランだ。

 ゲーゼのレストランは昼時で混んではいたのだが、少し待つと中へと案内された。窓際の席で食欲を満たしながら、イェンスと今日あった出来事を小声で話し合う。店内奥に掲げられているゲーゼの肖像画に視線を向け、そこからさらにとりとめもない思考をぼんやりと受け止める。そのことで気付きともいうほどでもない雑多な観念に気が付くと、僕は店を出た後もイェンスと話し合った。

 イェンスが歩きながら、ユリウスの体験から貪欲に学び、自分自身に活かしたいと熱っぽく語った。その時、緑色の瞳がよりいっそう鮮やかさを増したように見えたので、そのことを彼に伝える。すると彼は嬉しそうに「ありがとう」と返し、続けざまに「クラウス、君の瞳が発する光もますます強さを増している。君の目まぐるしい変化に僕は目が離せないほどだ」と言ったので、僕は照れながらもその美しい眼差しに親しみを込めて感謝の言葉を返した。

 少しずつでも前へと進んでいこう。もう何度も立てた誓いを再度イェンスと確認し、雪道の中を歩んでいく。凍てつく風を払いのけるかのような、軽やかな足取りで帰路へと就くと僕たちはそこで別れた。

 火曜日は特に何もなく、母に帰省する日を連絡入れたぐらいで過ぎ去っていった。水曜日の朝を迎えた。窓から外の様子を伺うと、雪がちらちらと舞い降りているのが見えた。外に出てみると凍るような寒さが肌に突き刺さり、ドーオニツの冬の厳しさを改めて思い知る。それでもイェンスと一緒に走って体をあたためると、冷たさが心地良く流れていった。

 アパートに戻ってちゃんとした朝食を取り、ややかしこまった服装へと着替える。そして頃合いを見てイェンスと待ち合わせしている場所へと向かうと、イェンスが歓待を受けるに相応しい、質の良い衣類をまといながら僕を待っていた。僕がそのことを指摘すると、彼は「素敵な女性たちに会いに行くからね」と言って微笑んだ。

 イェンスがずっとエトネとイリーナへのプレゼントを預かっていたことから、僕から申し出てプレゼントを大切に手に持つ。時折紙袋についた雪をやさしく払うと、これ以上雪で濡れることのないよう注意しながらバス停へと向かった。

 バスは空いており、僕たちに視線を投げるような人は乗っていなかった。イェンスと並んで座るとお互いに着膨れしているからか、多少の窮屈さもあったものの、あえてそのまま座り続ける。プレゼントを膝の上に抱えながら車窓の風景がどんどん移ろいでゆくのを眺めているうちに、初めてエトネの家を訪れた時のことが鮮明に思い返されていく。

 イェンスに苛立ちを感じていたこと、バスの中で彼が肩を震わせて僕に寄りかかったこと。あの時見た美しい青空も、イェンスの憂いを帯びた眼差しも、確かに僕の記憶の中に存在していた。そして今、純白に染まった風景を穏やかな表情で眺めているイェンスの横顔がそこにあった。あの過去は、当時は想像さえできなかったこの未来へとつながっていた。そのことに妙な感動を覚えると、彼との間に流れているこの沈黙にも、僕は気心の知れた心地良さを感じていた。

 目的地へと到着した。バス停の反対側にある公園で、青々と生命力にあふれていた木々がすっかり雪化粧をまとい寒々と佇んでいたので、改めて過ぎ去った季節と時間がいかほどであったのかと感慨にふける。しかし、粒の小さい雪が吹き付け、いっそう寒さが身にしみたので、僕たちは吹き付ける雪に時折視界を奪われながらも足早にエトネの家へと向かった。

 玄関前に到着し、髪や衣類についた雪を払い落としてからイェンスがドアのチャイムを押す。すると、ほどなくドアが開き、懐かしく優しい笑顔があたたかく僕たちを出迎えた。

 「イェンス! クラウス! この雪の中を良く来てくれて本当に嬉しいわ。さあ、中に入って。イリーナも待っているのよ」

 エトネは僕たちのほほにキスをして歓待してくれた。彼女たちに直接的な手助けを何一つしていない僕としては、イェンスと同等の扱いに少し気恥ずかしさを感じたのだが、招かれていない雪と寒さまでもが中に入り込もうとしたため、簡潔な感謝の言葉とともに素早く室内へと入る。中に入るなり、僕は感嘆からくる声を上げた。室内は明るい装飾品で淡く彩られており、テーブルの上には作り立てであろう美味しそうな料理が湯気を出しながら並べられていた。それでいて、その料理と僕たちとを交互に見つめる、仕立ての良いワンピースを着たイリーナの元気そうな姿が穏やかに調和していたものだから、思わず笑顔がこぼれた。

 「イリーナはあなたたちの名前を多分忘れてしまっていると思うけど、それでも雰囲気は覚えているみたいね。とってもいい表情しているもの」

 エトネの言葉は素直に嬉しかった。歓迎されるというのはやはり光栄なことなのだ。僕は手間暇をかけてもてなそうとするエトネの気持ちに応えるべく、気恥ずかしさをいったん脇に置いてこの饗宴を楽しむことにした。

 「寒かったでしょうし、お腹も空いているでしょうから遠慮なく召し上がってね」

 エトネが朗らかな笑顔でグラスにワインを注いでいく。そこに僕たちが感謝の言葉を返すやいなや、すかさずイリーナがワイングラスを手に取って、「乾杯!」と笑顔で音頭を取った。その無邪気な笑顔に、エトネも僕たちも顔をほころばせながらグラスを掲げて「乾杯」と続ける。陽気な掛け声で豪華な昼食会が始まったことは、まさしくこの場に相応しいものであった。

 料理は丁寧に作られたのが一目瞭然であり、実際にどの料理も味に深みとまろやかさがあって美味しかった。久しぶりに再会した僕たちは、年齢差も感じないほど会話を弾ませた。あたたかい笑い声がエトネからもれると、イリーナがつられて少女のようなあどけない笑顔を見せる。そのたびに彼女が今まで見てきた景色に僕が追加されたのが不思議に思え、その美しい表情をつい見入った。

 よくよくエトネを見ると、彼女も仕立ての良い服で盛装していることがわかった。首元には可憐に輝く一連の真珠のネックレスが飾られ、彼女が生来持っている気品と見事に調和している。僕はなぜ彼女たちがここまで心を込めて僕たちをもてなしてくれるのか、はっきりと理由はわからないでいたのだが、彼女たちの素晴らしい人柄にただただ感嘆していた。

 食事が終わって少し休んでいると、エトネが得意料理だというチョコレートを使ったケーキを紅茶とともに振る舞ってくれた。イェンスも僕も遠慮なく歓声を上げ、喜んで飛びつく。甘さが控えめでも濃厚なチョコレートの味が本当に美味しく、僕は何度も美味しいと感想をもらしては噛みしめるように味わった。するとそれを眺めていたイリーナが、無邪気な笑顔で「良かったわねえ」と声をかけてくれたので、僕はその優しい言葉にもお礼の言葉を返した。

「雪が降ると何かとご不便でしょう。何かお手伝いできることはございませんか」

 イェンスが親しみを込めた口調でエトネに申し出た。

「相変わらず優しくて嬉しいわ、ありがとう。でも、慣れているから平気よ。実を言うと、いろいろあって別れた元夫が、最近よく訪ねるようになってきたの。上の息子はアウリンコで、下の息子は地方国カリメアにいるのだけど連絡はそれなりにあるし、ご近所さんともお茶ついでに助け合ったりと、それなりに楽しく過ごしているのよ」

 はつらつとした笑顔を見せるエトネは、やはり人としての魅力にあふれていた。

 窓の外では相変わらず雪がしんしんと降り積もっており、時折吹雪いてはぱらぱらと窓に当たっていた。それでも僕たちを取り巻く雰囲気はあたたかく、静かな平和に満ちていた。

 少しして会話が一通り落ち着く。その時、イェンスが目で合図を寄こしたため、僕たちはいよいよプレゼントを彼女たちに手渡すことにした。プレゼントを見るや否や、エトネが歓喜し、イリーナと一緒に包み紙を開けて中からストールを取り出す。エトネは最初、ストールをはしゃいだ様子で彼女自身に当ててみたり、イリーナに当ててみたりしたのだが、少しするとどれが誰に対する贈り物かを見抜いたようで、水色のストールを羽織るともう一つのピンクのストールをイリーナの肩に優しく掛けた。

「あら、素敵ね」

 イリーナが顔中くしゃくしゃにして喜んだのを受け、エトネがうっすらと目に涙を浮かべながら言った。

「本当にありがとう、素晴らしい贈り物だわ」

 彼女が僕たちの手を取って何度もお礼を伝えてきたのは照れくさかったのだが、誰かから感謝される喜びというものは実に誇りを抱かせるものなのであろう。僕のほうがたくさんの贈り物を彼女から与えられているにもかかわらず、僕は謙虚な人柄であるエトネから人としての美しさを学び取っていた。

 ふとイリーナが気になったので彼女の様子を伺うと、はしゃいで疲れたのか、うとうとと居眠りを始めていた。その穏やかな寝顔に刻みこまれた深いしわに、今もなお人生の軌跡がゆっくりと注がれていくのを受け、僕が普通の人間と異なってしまったことを思い返す。この先も、僕は普通の人間を遠くから見つめるしかできないのだ。

 ――そろそろ帰る頃合いであろう。僕はそっとイェンスのほうを見た。すると彼と目が合い、「そろそろ帰ろうか」と耳打ちされた。その言葉にうなずいて返すと、イェンスがゆっくりとした口調でエトネに暇を告げた。

 エトネの優しい笑顔に見送られながら、玄関ドアの前に立つ。そこで僕たちが改めて感謝の言葉と別れの挨拶をエトネに伝えた時、彼女がややためらいがちに切り出した。

「……その、久しぶりにあなたたち二人に会って驚いたの。以前と雰囲気が何か違うのよ。今までこんなことを感じたことが無かったから、うまく言えなくてもどかしいのだけど、何か不思議な魅力があるように感じたわ」

 そう言うと彼女は微笑んだのだが、僕は彼女の思いがけない指摘に面食らってしまった。適切な返答がまたしても思い浮かばず、イェンスも僕も言葉を失ったまま立ち尽くす。僕たちの動揺を知ってか、彼女は明るい笑顔を浮かべて続けた。

「あら、私ったらワインを飲み過ぎたようね。つい変なことを言ってしまったわ。気にしないでちょうだい。気をつけて帰るのよ」

 エトネは僕たちを再度優しく抱きしめると、美しい表情で僕たちに「良いお年を」と伝えた。そこでイェンスも僕も改めて彼女に挨拶を返し、寒さが中に入り込まないように玄関のドアを慎重に閉めて家を出る。エトネの言葉を気にかけながらも、どかどかと降りつける雪に顔をしかめながら足早にバス停へと向かった。

「この雪じゃ、バスが遅れてくるかもしれないな」

 イェンスが顔についた雪を払いながら、バス停の時刻表と時計とを見てつぶやいた。辺りを見回すと、少し離れたところに雪宿りができる公共施設の建物があったため、その軒下へと移動してバスを待つ。ふと空を見上げると、灰色の空間からどこからともなく純白の雪が舞い降りてきていた。その雪が僕の鼻やおでこに冷たく居座る。雪宿りしているとはいえ、やはり屋外は身を切る寒さであった。

「エトネは僕たちの変化に気付いていたな」

 イェンスがささやくように言った。彼もまた雪からの淡い挨拶を受けており、白い息をとめどなくもらしていた。

「気付く人は気付くのかもしれないね。シモとホレーショも勘付いている、とユリウスは言っていた。ひょっとしたら見た目の変化より、内面の変化から生じる影響のほうが大きいのかもしれない。だから、僕たちから受ける雰囲気に独特さを感じたんだろう。その点では僕のエトネたちと会った回数は君よりはるかに少ないから、観察眼が鋭いとしか言いようがないのだけどね」

「そうだね、彼女は本当に見識が深いんだろう。内面が変化すると、醸し出す雰囲気が以前と異なるのは当然だ。普通の人間と違う振る舞いをしていることも当然あるだろう。すると、今後ますます目立つということになるのか」

 彼の口調はややため息交じりであった。

「イェンス、君もユリウスと同様、いずれ異種族の地で暮らすことを考えているの?」

 雪が降る以外は物音も人影もなく、静けさだけが辺りを覆う。

「実を言うと、それについては考えたことがある。まだエルフの村に行ったことがないから、憧れ半分に考えているだけだけど、仮に魔力が僕にも芽生えれば、そのことはかなり魅力的な選択肢に入るのは確かだ。だけど、人間社会にまだ厭世観を抱いているほどでもない。僕がどこまで変化を遂げるかによるけど、中途半端な能力で生を全うするなら、エルフの村で孤独感と虚無感に浸るのか、人間社会で孤独感と束縛感に陥るのか……。どのみち最後は自分の内面ととことん向き合うことになるのだろうな。ああ、バスがようやく来たぞ、走ろう」

 彼の視線の先に、ライトを点灯してやって来るバスの姿が見えた。それに合わせて走り出したイェンスの後を追い、僕も慌ててバス停へと向かう。

 バスはやや混んでいたため、僕たちは吊革に掴まっておとなしく立つことにした。しかし、近くにいた若い女性たちから視線が向けられていることに気が付いた途端、居心地の悪さを覚える。その視線から逃れるように顔を別の方向へ向けると、今度は少し離れた席に母親と座っていた幼い子供の熱心な視線に気が付いた。母親は熱心にスマートフォンを覗き込んでおり、周囲を気にかけている様子は無かった。そこで僕がその幼児にそっと微笑むと、あどけない表情からみずみずしい笑顔がこぼれ、かわいらしい笑い声までもが上がった。

 その様子を見ていたイェンスが、「かわいいな」と目を細める。その母子がバスから降りる時でも幼児はずっと僕たちを見ており、最後まで視線を外すことはなかった。

 漫然と外の景色を眺める。見慣れた雪景色を眺めているうちに居心地の悪さがずいぶん解消され、穏やかな表情を見せているイェンスと雑談が飛び交うようになった。そうこうしているうちに最寄りのバス停に到着したので、せっかくあたたまった体を再び寒気の世界にさらすことにした。

 相変わらず冷たい風が吹き付ける。しかし、雪はいつの間にか小降りになっていた。

「そういえば、バスの中でずっと僕達を見ていた幼児は女の子だったね。あの子が大きくなったら、近くにいた女性のように僕たちを熱心に見るのかもしれない」

 僕が軽口をたたくと、イェンスは苦笑いを浮かべた。

「そうだな、そのとおりだ。そう考えると、年齢的な区別はますます失礼にあたるね。今後は多少の視線なら軽く受け流そう」

 彼はそう言うと肩をすぼめ、足元に気をつけながら歩き始めた。イェンスの住むアパートの前に辿り着くと、明日の大晦日の話になった。これといって彼と予定を立てていなかったのだが、僕は本年最後の晩にささやかでもパーティーを開き、彼とともに新年を祝ってみたい気持ちがあったので、思い切って彼を誘うことにした。

「イェンス、あの……」

 イェンスは僕の提案に白い息を弾ませながら喜んだ表情を見せ、明るい口調で快諾した。

「ありがとう、クラウス。君といると本当に楽しいよ。去年はゲームに飽きて、本を読んだまま静かに新年を迎えたのだけど、君と親しくなってからは楽しいことだらけで、本当に幸せなんだ」

 僕も昨年は本を読んでいるうちに新年を迎えていた。だが、その本に熱中していたわけではなかった。そのため、あえてそのことには触れなかったのだが、この至近距離で似たような年の瀬を過ごしていた彼と絆を深め、今年はともに新年を祝いたいと思うほど親しくなれたことに感激していた。彼は僕を優しく抱きしめると、また連絡すると言い残してアパートの中へと消えていった。

 僕はいつの間にかイェンスと四六時中一緒に居るようになっていた。しかも彼といると心強さと楽しさ、そして深い気付きとがいっぺんに得られるものだから、彼のことをますます大切に、好ましく思うようにもなっていた。全く会わず、連絡も取らない休日も稀にあったのだが、彼との友情の深さとしなやかな結び付きは一人でいても安心感を抱かせるほどであった。

 年末で人気が無く、すっかり冷え切ったアパートの階段を軽やかに駆け上がる。部屋に入るなり窓を開けると、さゆる風が歓喜に満ちたかのように僕を包みこんだ。次の瞬間、言いようも無い幸福感が僕の中で湧き上がった。窓枠に積もっていた雪が風で舞い上がり、無防備なほほを撫でてもなお、僕は喜びの中にいた。

 イェンスが帰りのバスに乗る直前、最終的には自分の内面ととことん向き合うことになる、と話したことは以前も彼が言及していたことであった。その必要性が今ならさらに理解できた。僕は、僕自身の気持ちにもっと耳を傾けていこう。

 夜景と小さな銀世界が共存するその頭上に、雲の切れ目から美しい星たちが瞬く。少しして雲が流れて月明かりが静かに差し込むと、風に吹かれて舞い上がった幻想的な輝きを放つ屋根の雪が、息をひそめながら清らかな光を微かに放っていた濃紺色の雪に優しく触れていった。僕はしばらく雪と風が光をまといながら戯れるのを見届け、それからようやく窓を閉めて夕飯の準備に取りかかった。

 次の早朝、カーテンの隙間から外の様子を覗くと、早朝にどかどかと降ったのであろう、降り積もった雪がまだ除雪されていないことに気付いた。そのことをイェンスにメールで知らせると、少ししてから返事が戻ってきた。

『除雪されていない上、凍結もしている。今朝は特に冷え込みが厳しいから、身体にもかなり負担がかかるだろう。いくら能力を身に付けたとはいえ、過信は禁物だから今日は走るのをやめよう』

 イェンスのことだ。断言してあるということは、おそらく実際の路面を確認したのであろう。彼に同意して返信すると、少しだけ暖まってきた室内で大きく背伸びをし、体をほぐした。

 年末・年始は作業する人もそもそも休暇で、除雪の回数が少なくなるのは例年のことであったため、アパート周辺まで除雪されるのは昼近くになる可能性があった。そこであてもなくテレビをつける。すると、アウリンコで開催される恒例の新年をカウントダウンで迎える行事の案内がちょうど放送されていた。それは毎年新しい年を迎えた瞬間、何千発もの花火が内洋から打ち上げられる華々しい行事なのだが、アウリンコもその対岸にあるドーオニツも非常に多くの人で賑わい、またドーオニツからわざわざアウリンコに出向いて新年を祝う人が多くいるほどの、一年の中で最も活気のあるものであった。

 ドーオニツとアウリンコには確かに見えない壁が存在するのだが、こういったイベントや建国記念の行事の時は協力し合うことも多かった。そうでなくとも、それぞれの地区では毎年年越しパーティーや交流パーティーがにぎやかな雰囲気とともに開催されていた。新年を迎えた瞬間に歓声を上げ、近くにいる人と抱き合ってお祝いし合うのである。

 その雰囲気を僕は去年まで苦手に感じていた。そういった心境ではなかったというのもあったうえ、もともと僻みっぽく、気後れする性格であることも要因にあった。しかし、今はその新年をお祝いする様子を、窓から眺めるのも楽しいであろうと考え始めていた。その理由も僕はきちんと把握していた。独りで新年を迎えた去年の僕が今の僕を見たら、裏切り者と思うであろうか、それともうらやましく感じるであろうか。いずれにせよ、この思いがけない心境の変化を僕は心地良く受け止めていた。簡単な朝食を作って食べ、支度を整える。僕は夜のパーティーの準備をすべく、足元に気を付けながら買い物に出掛けることにした。

 年末で店が早く閉まることもあり、普段より多めに食材を買い求める。イェンスと僕の好物であるラム肉も手に入れ、両手に食材を抱えていると電話が鳴った。電話はイェンスからであり、スパークリングワインを一緒に飲まないかと誘ってきたのであった。僕がぜひ頼みたいと返し、その他に彼が持ち込む食材を確認すると、夕方から一緒に調理を始めてささやかでも新年を祝おう、という彼の言葉で電話は切れた。

 アパート前まで戻ると、遠くで除雪車が稼働しているのが見えた。僕は大量に抱えた食材を部屋まで運び、それから部屋を掃除してパーティーの準備を進めていった。昼過ぎになり、母から帰省日を再確認する電話が入る。変更がない旨を伝えると母は忙しそうに電話を切り上げようとしたのだが、「そういえば」と大声を上げ、「あなたの幼馴染のロヒールと道端でばったり会ったわ。あなたがどうしているか尋ねてきたから、元気に働いていて、年明けに帰省すると伝えておいたわよ」と急いで言った。僕が「そうなんだ」とだけ返すと、母は「忙しいから切るわね。良いお年を」とあっさりと電話を切った。それから一通りの家事を済ませると、ソファに座って空をぼんやり見上げながらイェンスが来るのを待った。

 そのイェンスは、午後三時過ぎに両手いっぱいの食材を抱えながらやってきた。地方国の有名なスパークリングワインをテーブルに置くなり彼は仕事を思い出したらしく、「これはスヴェンのところで輸入している貨物だったな」と話したので、僕もつい手に取って原産国を確認する。彼は電話で話していたとおり、その他にパンとフルーツと野菜とエビを持参していた。

 この部屋のキッチンは簡易な作りではあったのだが、小さくとも調理するには充分であった。ざっくばらんに料理の内容を決め、早速イェンスが学生時代に寄宿舎の管理人から手ほどきを受けたという料理の腕前を颯爽と披露していく。手際の良い彼を見て、どうしてこうも彼は完璧なのだろうかと唸りつつも、僕も不格好なりにラム肉にハーブソルトをまぶしていく。室内に美味しそうな匂いが漂ったため、何か所かの窓を少しだけ開けると雪が入り込んできた。少し肌寒くなった室内で料理を完成させ、それからテーブルにクロスを敷いて皿を並べ、レストランのようにカトラリーを整列させてグラスを置く。すると非常に良い雰囲気が醸し出されたので、思わずイェンスと歓声を上げて喜び合った。

 少しだけ開けた窓から人々の歓声が小さく上ってくる。去年は窓を閉め切っていたことをイェンスに伝えると、彼は微笑んで「とことん僕たちは似ているんだな」と言葉を返した。

 テーブルの上にところ狭しと並べられた料理は、すでに僕の今年最後の食欲を存分に駆り立てていた。その傍らで、イェンスがスパークリングワインをグラスに注いでいく。小さな気泡を上げているグラスを片手に、お互いがテーブルの横に立ったところでイェンスが微笑みながら静かに言った。

「僕たちの友情と、来る新しい年を祝って」

 彼は少しグラスを高く持ち上げると、僕に煌めいた光を送った。僕はその光を受け止めながら、彼の後に続けて言った。

「変化に対する喜びと、さらなる高みを目指して」

 少しの静寂の後に、僕たちは高らかに言った。

「乾杯!」

 僕はグラスを一気に飲み干してから彼と握手を交わしたのだが、はしゃいだ気分もあって思わず彼を抱きしめた。すると強い力で彼が抱きしめ返してきたので、僕もふざけて強く抱き返す。お互いから含み笑いがもれると合図をしたかのように離れ、ようやく着席して料理と向き合った。

 サラダも肉料理も付け合わせも、全てにおいて豪華ではなかったのだが、どれも実に美味しかった。その立役者であるイェンスと料理の感想や普段から共有している話題で会話を弾ませながら、あっという間に料理を平らげていく。皿の上にあったものがすっかりそれぞれの胃袋へと収まると、今度はカットフルーツを肴に僕たちは語り合った。

 ゲーゼのレストランで二度も重大な経験をしたことや、すでに起こった変化のこと。ヘルマンと出会ってから今日まで、立て続けて起こったいろんな出来事に思いを馳せていくうちに、僕たちが経験している日常がもはや普通ではないことを改めて実感する。僕たちはいつだったか、非常に美しい夕焼けを、まるで生まれて初めて見たかのように感動して見たことがあった。平凡な日常の光景やありきたりの自然現象でさえ、飽きずに感慨深く捉えてしまうのである。そのことを思い返してイェンスと話し合うこともまた、心地良い刺激となっていた。

 夜が更けるにつれ、いよいよ外がにぎやかになってきた。寒さもあり、いったんは窓を閉め切ったものの、それでも外から人々の声が流れ込んでくる。そのにぎやかさが気になり、とうとう窓を開けてイェンスと一緒に通りを見下ろすことにした。すると反対側の歩道で、酔っ払いたちが陽気にドーオニツ歌を歌いながら肩を並べて歩いているのが見えた。彼らが左手へと通り過ぎたその時、手前側の男性が足を滑らせたのにつられての奥側の男性も転倒する。それを見ていた背後の男性二人から、笑い声と同時に手が差し伸べられた。どうやら四人とも知り合いのようであった。寒くとも、こういった時に気心の知れた仲間と一緒にいられるのは、どんなにか心があたたまることであろう。

 ふと時刻を確認すると、新年まであと数分のところであった。僕たちは狭い窓からお互い重なりつつ身を乗り出し、寒さをものともせず新年を待ち構える街の人々を眺め、今か今かとその瞬間を待った。

 イェンスの実家では、内洋から打ち上げられる花火がよく見えるのだという。彼は幼い頃、花火を見上げては日頃の複雑な感情を忘れ、ただ無心に見入っていたらしい。僕はその花火を見たことが無かった。両親がまだ若い頃に一度だけ観に行ったことがあるようなのだが、あまりの人の多さに辟易したらしく、僕の物心ついた頃から家族で年越しの花火を観賞することは一度も話題に上らなかったのである。

 思えば、僕は年齢が上がるにつれ、新しい年を迎えるということに区切りも意味も見出さなくなっていた。平凡な僕にとって節目が重要な意味を持つことは無く、いつもと変わらない夜明けであり、一日の終わりでもあった。しかし、今の僕は違っていた。大切な、大切な友人とともに、かつてない高揚感の中で新年を迎えようとしていた。このことは生まれて初めての経験でもあった。

 僕が内面にも変化を起こしたからこそ、この経験を得たのか。それとも偶然が重なったからこうなったのか。

 かつての僕のどこか斜に構えた考え方にも、もちろんそうなるだけの理由と経緯があった。過去の自分は今よりひねくれていて、頭でっかちで生意気であったのだが、全く悪い人間でもなかった。変化を起こした今でも変わらないところはそれなりにあり、僕自身が180度の劇的な変化を遂げたとも思えなかった。

 交わらないがつながっている過去と現在。そして姿かたちさえ見えない未来。僕はいったいどこへと向かっているのか。

 やがて、どこからともなく人々が大きな声でカウントダウンを始めるのが聞こえた。イェンスも僕もその声に合わせ、ともに弾んだ声でカウントダウンを告げる。

「……7、6、5、4、3、2、1……新年明けましておめでとう!」

 人々の歓声があちこちから上がり、遠くで音楽が流れたのと同時に僕たちも室内で新年を祝って歓喜の声を上げ、抱擁し合う。陽気に新年を祝うことが、こうも楽しいとは!

 イェンスの瞳にはあの光があり、いっそう煌めいて魅力的に輝いていた。新年早々にその光を見られたことが嬉しく、残っていたスパークリングワインをグラスに注いで飲み干す。全く酔ってはいなかったのだが、何もかもが心地良かった。

 少しして落ち着くと、僕たちはユリウスたちに新年の挨拶をスマートフォンから送った。ほどなく、ユリウスから今居る地方国ではまだ日付が変わっていないのだが、と前置きされた新年を祝うメッセージが届いた。彼が多忙の合間を縫って返信をくれたこともまた嬉しかった。シモとホレーショからは返事が来なかったのだが、事情を理解していた僕たちはただ彼らを慮った。

 窓を閉めて室内履きを脱ぎ、足をはみ出させながらベッドに仰向けになる。イェンスがすぐ隣で同じように寝転がると、今度はまだ見ぬ異種族の世界に対する憧れを止めども無く語り合った。

 外の喧騒が収まるにつれ、僕のまぶたが心地良い疲れに優しく揺らされ、徐々に重みを増していく。それを見ていたイェンスが「風邪を引くぞ」と言ったので、肌着になってベッドの中にもぐりこんだ。すると同じく眠そうな顔をしたイェンスが、やはり同じように肌着になり、僕の反対側にもぐりこんできた。

 彼は去年の秋にテーブルに突っ伏して眠ってしまった以外、たとえどんなに遅くとも必ず彼の部屋に帰っていた。それは僕も同じであった。しかし今、彼はあえて何も言わずに一緒に休もうとしていた。それが僕に対する親愛の情から来ていることが理解できたため、僕は心からそのことを喜んだ。

「蹴落とされても文句は言いっこなしだ」

 僕は仰向けのまま、あえてぶっきらぼうに言った。すると彼が「僕は寝相がいいから君は問題が無い。もっとも君がどうだか知らないが」と返したので、僕も実は寝相はいいほうなのだと彼に告げた。

「そりゃ良かった」

 イェンスがこっちを向いたので、僕も横になって彼のほうを向く。お互いの手がぶつかると、彼の緑色の瞳が至近距離で僕を捉えた。

「小さい頃、兄と一緒に寝た時のことを思い出すよ」

 僕の言葉にイェンスは微笑んで返し、「それじゃあ、クラウス。よく眠るんだ、お休み」とわざと年長者風の口調で言ったので、僕はつい笑ってしまった。

「おやすみ、イェンス」

 明かりを消すと、背を向けた彼と同じように背を向けて横になった。目を閉じると懐かしいタキアの風景が脳裏に浮かんだのは、この状況がもたらした夢なのであろう。そのまま安心感にも包まれると、あっという間に眠りの世界へと落ちていった。

 カーテンから薄日が差し、僕の顔に当たったことで目が覚める。イェンスは僕の隣ですやすやと静かに寝息を立てて眠っていた。時計に目をやると午前九時近かったこともあり、彼を起こさぬようそっとベッドから出ると身支度を整えることにした。

 新年最初の朝は、なんと清々しい空気に満ちているのであろう。忍び足で窓際に寄り、覗くようにカーテンをめくる。差し込む光の先には、積もった雪が朝日を受けて可憐な輝きを放っていた。

 僕はなぜ、見慣れた景色をこうも初々しく受け止めているのか。

 そっとカーテンを閉じ、背後のイェンスを見る。至福そうに眠っている彼を何となしに眺めていると、整った美しさの中にあどけなさが残っているのを見つけてつい微笑んでしまった。以前なら、何もかもが完璧に備わっている彼に対して引け目も感じたこともあったのだが、今やその完璧さこそが彼の個性なのだと気楽に考えるようになっていた。

 朝食の準備をするため、やかんに水を入れて火にかける。その時、背後でかすかに物音がした。イェンスだと思いながら音がした方向をそっと振り返ると、やはり目覚めたばかりのイェンスが茫然とした様子でこちらを見ていた。

「クラウス、ごめん。すっかり眠りこけていた。驚いた、九時半を過ぎているじゃないか」

 彼はそう言うなり慌ててベッドから降りたので、僕は笑いながら彼に言葉をかけた。

「イェンス、気にするな。君はもっとゆっくりしていていい」

 それを聞いた彼はありったけの笑顔を浮かべ、「ありがとう、クラウス。君は本当にいい奴だ」と弾むように返した。そうなると僕はますます愉快でたまらなくなった。

 イェンスは窓に寄ってカーテンを開け、新しい陽の光を力強く室内へと招き入れた。続けざまに彼が昨晩脱いだセーターを見に付けたので、清潔なタオルを彼に手渡し、新品の歯ブラシがある場所を伝える。すると彼は後で新品を買って返すと言い残し、バスルームへと消えていった。

 簡単な朝食を用意していると、身支度を整えたイェンスが手伝いにやってきた。皿やカトラリーを並べ、紅茶を淹れる。静かさの残る街の雰囲気に包まれながら、僕たちは遅い朝食を取った。

 食後もこれといった予定が無かった僕たちは、のんびりと過ごすことにした。今日は営業しているお店が少なく、営業しているお店は新年を自宅で過ごすことに飽きた人たちで混雑しているため、僕たち――とりわけイェンスにとってあてもなく人混みの中に出掛けることは、新年早々無謀な自分試しをするようなものであった。

 本を読んだり、ゲームをしたりとめいめいにくつろぐ。水を飲もうかとソファから立ち上がった時、僕のスマートフォンが着信を知らせた。ユリウスからであった。

 僕はイェンスにはしゃいだ声で「ユリウスからだ」と伝えると、勢い良く「明けましておめでとうございます」と言いながら電話に出た。

「明けましておめでとう、クラウス。私が今居る場所が先ほど新年を迎えたのだ。ひょっとしたらイェンスもそこに居るのか?」

 騒々しい場所にいるのか、大きめの声で彼が話しかけてきたので、イェンスはスマートフォンに口を近付けてやはり大きめの声で返した。

「明けましておめでとうございます、ユリウス。そうです、僕も一緒です。ずいぶんにぎやかな場所にいるのですね」

「ははは、お前たちは本当に仲がいいな。招待された年越しパーティーの会場から少し離れたつもりなのだが、それでも騒々しかったな。もう少しだけ移動しよう。……よし、ここなら比較的に落ち着いて話せそうだ。せっかくだ、彼らからの新年の挨拶も受け取ってほしい」

 彼はそう言うと誰かに話しかけたようであった。しかし、僕は相手が誰であるのかに勘付き、嬉々としてその人たちを待つ。イェンスがさらに耳を近付けてそばだてる中、遠くで話声と物音がしてから男性の声が聞こえた。

「明けましておめでとう、クラウスにイェンス。シモだ。お前たちの新しい一年が素晴らしいものとなるよう祈っている」

 彼の口調は砕けておらず、実に冷静で落ち着いていたのだが、彼らが任務中であることを理解していたので心を込めて彼に言葉を返した。

「あけましておめでとう。シモ、ありがとう。君もね」

「ありがとう。新しい年が君と君の家族にも健康と幸せをもたらすことを祈っている」

 イェンスが続けると、彼は少しだけ緊張を解いた口調で返した。

「ありがとう、お前たちもな」

 続けて物音がすると、かつて無いほど冷静な口調のホレーショが電話越しに現れた。

「明けましておめでとう、イェンス、クラウス。こちらはホレーショだ。お前たちと今年も会えるのを楽しみにしている。体に気をつけろ」

 僕たちはやはり心を込めて彼に挨拶を返した。

「あけましておめでとう、ホレーショ。わざわざありがとう」

「あけましておめでとう。君と君の家族の健康と幸せを祈っている」

「ありがとう。俺たちは任務中で気を抜くわけにはいかないのだ。後でゆっくり会おう」

 ホレーショの声はずいぶんと控えめであったのだが、口調はやわらかかった。

「君のその言葉で充分だよ。シモも任務に対する緊張感を保ちながらも、やわらかく応えようとしていたことは感じ取っていた。二人とも本当にありがとう」

 イェンスと僕が代わる代わるお礼を伝えると、電話はユリウスに戻った。

「彼らも理解しているさ。それに彼らの仕事の邪魔をさせたのは私だ」

 ユリウスの口調は優しく、彼が微笑んで瞳に光を発している様が思い浮かべられるほどであった。そのユリウスにもお礼を伝えると、彼は「また連絡する」と言って電話を切った。

 わずか数分でも、時間を見繕ってわざわざ電話をくれたユリウスの優しさに、僕たちはまたしてもあたたかな気持ちになっていた。ユリウス将軍に新年の挨拶を直々に伝えたい人はごまんといた。そのような世の中で何よりも贅沢で貴い彼からの贈り物を、僕たちはしばらく味わうように喜んだ。

 僕たちはその後もだらだらと過ごした。新年を祝うイベントが各地で催されていることも知っているのだが、お互い乗り気でないからこそ気が合うのであろう。イェンスがテレビで放映予定の番組を確認すると、とある映画が観たいというので僕も一緒に鑑賞する。家族の間に起こった出来事を飾ることなく、しかしながら丁寧に掘り下げて描いたその作品は、イェンスも僕も初めて観たのだが実に興味深く、淡い感動といくばくかの感傷をもたらした。

 映画を観終わると、イェンスがいったんアパートへと戻って行った。それでも僕のだらけた気分は抜けず、読みかけの本を読んだり、ゲームをしたり、いつものように窓の外を眺めたりするなど、生産的なことは一切せずに夕方まで過ごした。夜になって何の気なしにテレビをつけると、地方国で行われているクラシック音楽のコンサートが生中継で放映されていた。イェンスを思い出し、その演奏を聴いたまま澄んだ冬の夜空を眺める。豊かな音色を聴いているうちに穏やかな気分に包まれ、その幸福感に浸ったまま新しい一年の初日は終わった。

 次の日は歩道の雪がやや融けていたため、イェンスも僕も走ることにした。冷たくともさわやかな風を全身で浴びる。定番のコースの帰り道、イェンスが「昨日のお礼をしたい」と言ったので、朝食をご馳走になるべく彼の部屋へと向かった。

 部屋に入ってすぐ、彼は新しい歯ブラシを僕に手渡そうとした。しかし、名案を思い付き、彼に「このまま君の部屋に置いて、僕が使う時にそれを渡してほしい」と伝えた。それを聞いた彼がにっこりと微笑み、「もちろんだ。君はいつだって自由にここを訪れていいのだから」と返したので、僕は彼との友情を改めて笑顔で受け取った。

 それから彼は手際よく朝食の支度を始めていった。あっという間に食欲そそる料理がテーブルに並べられていき、お互いに勢いよく朝食を取る。食後に彼が紅茶を淹れたので、喜んで一息をつけたその時、イェンスが意味ありげに僕を見つめた。

「実は昨日、父から電話があった」

 イェンスがティーカップを手に、おもむろに話し始めた。僕が身を乗り出すと、彼は穏やかな表情を見せて話を続けた。

「三日に、きちんとした身なりで必ず顔を出すようにと釘を刺された。そして、家督相続放棄について、気が変わっていないか尋ねられたんだ」

「君のお父さんは、やはり君に期待しているんだね。エルフの高い能力を持つ君が家督を継げば、確かにご実家の繁栄はかなり保証される」

 僕の言葉に彼は苦笑いを浮かべた。

「父に取って僕は格好の手駒なだけさ。僕にエルフの特徴があると知ってから、父は事あるごとに『お前は稀に見る幸運と才能を伴った、選ばれし者なのだ。その特徴を家のさらなる繁栄のために捧げなさい』と言ってきたからね」

「君のお父さんは何をしているの? 確か、外殻政府に関係していたと話してくれていたのは覚えている」

 僕はおそるおそる彼に尋ねた。

「司法省にずっと勤めていたのだが、早期退職して去年からドーオニツA地区区議会議員をしている。その傍らで祖父が所有する複数のビルの経営を手伝い、さらにマルクデンの遠い親族が経営している地方国の不動産会社の役員も兼務している」

 彼は顔色一つ変えずに淡々と話したのだが、僕は身近で見聞きすることのなかった世界にイェンスがいたことにかなり驚いていた。

「ごめん、僕はそういうのに興味が無いから全く知らなかった。確かに君のお父さんからしたら、才能あふれる息子が家をさらに繁栄させて上流階級社会へと加わる機会を掴んでいくことに期待したいのは、無理も無いことなのかもしれないね。もちろん、君の本心が全くそこに無いことは理解している。君はその気になれば非常にうまくやれるだろうけど、その分、君が持つ輝きも純粋さも失われるだろう。犠牲になると言えばいいのか、とにかく君が無理して自分に嘘をつき、悲しい眼差しで愛想笑いをし続けなければならないのを見るのは、僕なら気が引けるな」

 僕は起こってもいない事象であるにもかかわらず、いたたまれない気持ちになっていた。するとイェンスが明らかに喜びを露にし、美しい眼差しをやわらかく僕に向けながら言った。

「ああ、君は本当に美しいんだね! 僕が君を好きな理由はごまんとある。その中でも君の優しさや、権力やお金に対しても平等な視点で捉えようとする君の聡明さも、間違いなく僕の心に癒しと感銘を与えているんだ。君は、今まで僕の実家を興味本位から詮索することも無く、事実を知った今でも僕の側に立って僕の悲しみを代弁してくれた。僕はそのことに、そして君という存在にすごく感謝している。そのことだけで、実家へ向かう僕の足取りも心境も軽やかになれるんだ」

 彼の瞳には僕の心を惹きつける、あの光が放たれていた。

「イェンス、君は僕の大切な友人だから思ったことを率直に言ったまでだ。でも、僕が有名である君の実家を全く知らなかったのは、世間知らずすぎたかもしれない。いずれにせよ、僕は君が対面するような重圧を全く受けていないから、君が本当に感じている圧迫感に寄り添えないかもしれないけど、いつだって君の力になるよ」

 僕は照れながらも、彼を真っ直ぐに見つめて言った。そしてこういった内面の深いやり取りを話せるようになったのも、彼がきっかけであることを思い返していた。

「ありがとう、クラウス。僕も同じ気持ちだ。君の力になれるのは僕の喜びだ。もっとも君が苦難に対面することを望んでいないし、君なら万事うまく解決できることも知っている」

 彼の表情が非常に優しく輝いていたので、僕はますます嬉しくなり、喜びを感じながら言葉を返した。

「それなら、僕も同じことを君に考えている。君ならご家族ともきっとうまくやれるよ。今はまだ道半ばだとしてもね」

 室内は暖房が効いていてあたたかく、どこまでも心地良い雰囲気に包まれていた。

 その後は他愛も無い話をしていたのだが、僕が昼過ぎにアパートを出て実家に向かうつもりでいるのを知っていたイェンスが、そろそろ準備をしたらいいと声をかけてくれた。僕は「ありがとう」と返すと、続けて彼が明日の何時頃アパートに戻る予定でいるのかを尋ねた。それを聞いたイェンスがさっぱりとした表情で答えた。

「おそらく、まあまあ遅い時間になるだろう。祖父母と親戚との顔合わせが昼食を介して行われるのだけど、僕をすんなりと帰してくれるとは思えない。実家まで一番早い方法で向かったとしても、乗り継ぎを含めて三時間半近くかかる。明日早朝に出発して午前十一時前には着く予定でいるが、午後七時までにアパートに戻れたら相当幸運なことだと思っている」

「立ち入ったことを尋ねるのだけど、君のおじいさん、おばあさん、それに親戚の人も君に相当期待をしているの?」

 僕の質問を聞くなり彼は苦笑いを浮かべ、ややおどけた口調で答えた。

「そのようだ。僕の実家はドーオニツとアウリンコにおけるグルンドヴィ一族の本家というか、大元にあたるのだけど、特に祖父母や特定の伯父と伯母からの期待がなかなかのものだね。ただ、詳しくは知らないけど、祖父母や伯父伯母が僕に対して持つ期待は、父が持つのと少し方向が異なるらしいんだ。だから、祖父母とは同じ家で一緒に暮らしていたのだけど、父はルトサオツィに会って僕にいくつかのエルフの特徴があることを把握してからは、より父の意向を僕に反映させるため、口実を作って僕をなるべく祖父母から離してきたみたいだ。以前に話したアマリアの件の時も、父は用意周到に祖父母に地方国旅行をプレゼントして実家から遠ざけていたからね。僕が早々と寄宿舎生活を送ることになったことは、父にとっても好都合だったことだろう。実のところ、祖父母も伯父も伯母も、僕に何か特別な事情があることにうすうす勘付いているのだけど、僕の両親と姉と弟は僕のエルフの特徴を祖父母を含めた他の親族にも全く秘密にすることを徹底している。僕はそのことだけで、両親と姉と弟に対して深い感謝を捧げている。それが僕に恩を着せる手段だとしても、僕にはやはり感謝しかない」

「君がそう思えるならそれでいいのだろう。けど、僕がもし同じ立場だったら、君みたいな懐深い考えや心境には至らず、自暴自棄になったり悲観したりするだろうな。君は本当に愛にあふれているんだね。君は僕のおかげだと言ってくれたけど、君の優しい心はそれだけじゃ説明がつかない気がする。エルフの高い知性が君を高みにいざなっているからなのか、それともやはり目に見えない何かが君を優しく見守っているからなのか。何であれ、やはり君を尊敬するよ」

 僕が言い終わる前に、彼はすでに優しい微笑みを浮かべながら僕をじっと見つめていた。

「ありがとう、クラウス。君の存在は本当に心強い。僕が感じている君への感謝の気持ちを、どうしたら的確に伝えられるのかを知るために高みに昇りたいぐらいだ」

 僕は彼の真っ直ぐな言葉に感激し、心を込めて彼に返した。

「ありがとう、イェンス。少し照れるけど、君にそう言われるのは素直に嬉しい」

 彼は僕を穏やかな表情で見ながら言った。

「僕はこの友情だけで強くいられる。さて、君は明日の夕方までにアパートに戻ると言っていたね。明日、僕が実家を出たら、真っ先に君に連絡を入れよう」

 僕はうなずいて返し、それから少しだけ話した後は帰省する支度をすべく、彼と別れた。

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