第13話

 金曜日になり出社する。イェンスとともにムラトとギオルギに昨日の訪問の様子を報告し、今後につなげるべく物流部門を強化する案や、連帯する業者とのより迅速かつ安心なサービスの継続について話し合った。その後は年末の休暇前に駆け込むように輸入されてくる貨物を捌くため、本当に目まぐるしいほど慌ただしい中で黙々と仕事をこなしていった。

 土日も僕たちは相変わらず双方の部屋に入り浸った。能力の変化を把握し、心地良く体を動かす目的でスポーツジムに通う案も検討したのだが、不用意に力を発揮して怪しまれる可能性が否めず、あっさりと断念する。その代わり、早朝一緒に走って有り余る体力を上手に刺激し、アパートに戻ってシャワーを浴びてから出社するという手間を楽しむようになった。

 ある日、税関に行くとベアトリスを見かけた。しかし、彼女は僕に気が付いていなかった。多少の後ろめたさを感じたものの、彼女に挨拶することも無くそっと税関を後にする。それでも彼女に実りの無い期待を持たせ、気のない返事して逃げるように離れるよりははるかに心が楽であった。

 それから幾ばくか寒い日を重ね、いよいよ今年最後の営業日を迎えた。その日は夕方からムラトとギオルギがレストランを借り切って一年の労をねぎらい、そして統合にむけて交流を図るべく、合同の立食パーティーが開催される予定であった。無事仕事を終わらせ、皆でぞろぞろと会場へと向かう。普段お世話になっている他業者も招かれていよいよにぎやかになり、そこにムラトとギオルギが士気を高めるような挨拶をしたので、盛大な拍手と歓声とでパーティーが始まった。

 ローネが普段飲まない酒を飲み、あっという間に顔が赤くなる。イェンスと僕がそのことを軽くからかうと、彼女はわざと「来年たくさんの仕事を与えて、からかった分のし返しをするわ」とおどけた口調で返した。

「ねえ、助けて。ギオルギがいやらしい目でじろじろ見てくるのよ、セクハラじじいがきもいわ」

 すでに酔っぱらったオランカが僕たちのところにやって来て、ローネとの間に割り込むように話しかけてきたのであった。

「その点、あなたたちは清潔感が全然違うわね。ねえ、休暇どうする? 私は今年珍しくドーオニツにいる予定なんだけど、二人とも何か予定はあるの?」

 にこやかなオランカにひとまず会釈して返すものの、ローネを無視してにじり寄ってくる彼女をつい警戒して体がのけぞる。

「あなたたち、新しい料理が運ばれてきたみたいよ。見てきたら?」

 そのローネが目配せしながら僕たちに言った。鈍感な僕でも彼女の意図に気が付くと、「そうみたいだ。ありがとうございます」と伝え、オランカの質問には答えずにイェンスとともにその場を離れる。背後からローネが「オランカ、あんまりだわ。ギオルギが優しいから会社にいられるだけなのに」とたしなめる声が聞こえると、イェンスがいつにもまして神妙な面持ちで「全くだ」とつぶやいた。

 気を取り直してサンドイッチをつまみつつ、今年一年の仕事での出来事をイェンスと振り返っていると、彼が遅れてやって来たオールを会場の入り口付近で見つけた。オールは僕たちを見つけるなり駆け寄り、笑顔を浮かべて話しかけてきた。

「よお、クソガキども。相変わらず俺を見下ろすように立ちやがって……。俺が神様に高身長を断って、体重をくれって望んだからお前たちが立派な体形でいられるんだぜ?」

 彼はそう言うと僕たちを小突いてきたので、あえて「痛いよ」と笑いながら伝える。以前、オールがさほど高くない身長のおかげで、ソフィアの顔を間近で見られると笑顔で話したことがあった。僕は彼のそういった前向きで明るい思考に心から尊敬を抱いており、だからこそソフィアが彼に惹かれたのだということも理解していた。

 そのオールが言うには、ソフィアを誘う男性は他にも数名いたそうなのだが、全て断って彼と付き合うことにしたらしかった。ソフィアは真に美しい男性が誰であるかを、その聡明な洞察力であっさりと見抜いたのである。僕はつくづくオールとソフィアがお似合いのカップルであることが嬉しく、心から彼らを祝福していた。

 僕たちはそこから脱線してくだらない会話で盛り上がったのだが、それも一通り落ち着くとオールが急に真面目な顔付きへと変わった。

「以前話した、ソフィアとの結婚の話なんだが、来年の七月に式を挙げる予定でいるんだ。少しずつ準備を始めて、一緒に住む家も探している」

「本当かい? いよいよ具体的になってきたんだね。美人で心も美しい女性と結婚できるだなんて、君は本当に幸せ者だ」

 イェンスが心からの笑顔を添えてオールに伝えると、たちまちのうちに彼は鼻の下を伸ばして惚気始めた。

「当然だ、俺は今すっごく幸せなんだからな。ソフィアの良い点は他にもある。俺より料理が上手で、俺の好物のフリカデッレが特に美味しいんだ。それに共通の趣味があって、一緒にいるとマジで楽しいんだよ。他にも……」

 僕はオールがあまりにも嬉しそうにソフィアとのことを話すものだから、つられて笑顔になった。ふとイェンスを見ると、彼もオールの笑顔を優しい眼差しで見つめている。イェンスにしてみれば、最愛の女性と結婚するオールが自分とは違う次元にいるように感じているのかもしれない。いや、僕もオールがいる立ち位置とは無縁の場所にいた。オールが味わっている幸せを、僕たちはずっと得ることがないまま生きていくはずなのである。

『永遠に与えられない種類の幸せ』

 そのことを思うと、寂寞の思いが込み上がった。僕たちはとっくに普通の人間ではないのだ――。今さらながらそのことを認識しただけで、幸せなオールが目の前にいる情景が、まるで異世界の映像であるかのような感覚に囚われかける。しかし、すぐさま後ろ向きな思考に気が付き、慌てて自分自身を叱咤する。僕は前を向かねばならないのだ。

 オールに祝杯を捧げるべく、会場の給仕係にスパークリングワインを三杯頼む。それぞれが給仕係からグラスを受け取ると、オールが結婚式の具体的な日時と場所を伝えてきた。それを聞き、イェンスと僕は笑顔でグラスを掲げた。

「改めておめでとう、オール」

「後で正式な案内状を送る。お前たち、本当にありがとうな」

 彼はそう言い終えると、スパークリングワインを一気に飲み干した。そしてあたたかい笑顔を見せ、「ムラトとギオルギにも挨拶してくる」と言い残して去っていった。

「オールが幸せでいることは本当に素晴らしいことだ」

 イェンスが僕の耳元でささやいた。そのあたたかい言葉に、僕もまたあたたかい気分になる。そこにジャンとティモがワインを片手にやってきた。

「ここの料理、マジで美味いな」

「ワインは先日通関を切ったとこのらしいぜ」

 彼らの会話もまた心地良く、それでいて陽気さがあった。その屈託のない笑顔につられてイェンスも僕も笑顔で会話をする。ジャンもティモも僕より三歳年上なのだが、ほぼ似たような世代ということもあって会話は弾み、時折それ以外の人と話しても結局は四人で行動を共にしていた。そうこうしているうちにパーティーが終わりを迎え、ムラトが前に出て挨拶を始めた。

「皆さん、本日は楽しんでもらえたかな? いよいよ新年最初の営業日から新しい体制が始まる。一人ひとりがいろんな思いで新しい年を迎えるだろうが、来る新しい会社にも皆さんの前向きな思いを乗せてほしい。全員の素晴らしい能力が必要なのだ。皆で新たな歴史を作っていこう。いつもお世話になっている取引先の皆様も、今後ますますのお力添えをお願い申し上げます。どうぞ皆様、お体に気を付けて良いお年をお迎えください」

 ムラトがそう言うと拍手が起こった。彼はそれに対して笑顔で応え、続けてギオルギにマイクを譲った。

「本日は皆さん、お集りいただき本当にありがとう。今日はお互いの会社にとって最後の営業日となるのだが、今まで培ってきた経験や得てきた楽しい思い出をぜひとも新しい会社にも継承し、発展させていってほしい。そのためにも休暇をしっかり楽しみ、また明るい笑顔で来年会えることを楽しみにしている。取引先の皆様にも心から感謝しております。皆様のお力添えが無ければ、ここまで弊社が成長することはできなかったでしょう。改めまして本当に皆さんありがとう、本当にありがとう。どうぞお体に気を付けて新しい年を健やかにお迎えください」

 ギオルギの言葉にも盛大な拍手が送られた。全ての人の表情を伺ったわけではないのだが周囲はあたたかい笑顔で満ちあふれており、この会場内において二つであった会社がすでに一つのまとまりを見せているように思われた。それからギオルギが二言三言挨拶してパーティーはお開きとなった。

 酔っ払って足元がおぼつかなくなったオランカを、ファイが小言を言いながらも送って行くのを何とも言えない気持ちで見送る。ローネやオールが去り、ジャンとティモともその場で別れ、他の者も散り散りに帰って行く中、イェンスと僕も会場近くのバス停に向かって歩き出した。

 バスは雪のためか、遅れてやって来た。衣類や頭についた雪を払ってバスに乗り込み、イェンスが住むアパートにほど近い場所で降りる。イェンスに年始をどうするのかを再度尋ねると、彼は鼻先についた雪を払いながら答えた。

「来月の三日に親戚一同が顔を合わせる、年始恒例の集まりがあるんだ。それに顔だけ出してすぐ帰って来るつもりだ。君は?」

 彼の口から白い息がもれては消えていく。

「僕も実家に帰ろうと思っている。先日、母から連絡があってね。祖母が歩いている時に躓いて足首を痛めたらしいんだ。大事には至ってないけど、心配だから様子見てくるよ。遠いし、一晩だけ泊ろうかと思う。そうだな、二日の昼過ぎに向かって三日の午後にはアパートに戻るようにしよう」

 雪がだんだん強くなってきたので、僕は思わず顔をしかめながら歩いた。そうこうしているうちにイェンスが住むアパート前まで辿り着いた。

「僕の部屋で休んでいく?」

 イェンスが雪まみれになりながら提案してきた。すっかり体が冷えてしまった僕は有難く彼の厚意を受け取り、部屋に上がらせてもらうことにした。

 彼が事前に暖房器具のスイッチをスマートフォンによる遠隔操作で入れていたため、安心してコートを脱ぐ。そこに彼が差し出してくれたあたたかい飲み物でさらに一息つけたので、一気にくつろいだ気持ちになった。

 イェンスも僕と同じようにくつろいでいたのが、突然姿勢を正したかと思うと、ぼんやりとした様子で話し出した。

「ユリウスはどうしているだろう? 政府機関も閉庁して休みに入った。軍は関係ないのかもしれないが、休暇中に一度会えないだろうか」

「そうだな、僕も彼がどうしているか気になっていた。いろいろと聞きたいこともある。ねえ、イェンス、思い切って年末・年始の予定を今ここでユリウスに確認してみない?」

 僕の提案に彼は快諾し、早速ユリウスにメールを打ち始めた。

「君にも本文を送っておいたよ」

 その言葉と同時に僕のスマートフォンがメールを受信する。

「シモとホレーショも休みに入ったんだろうか、それとも仕事なんだろうか」

 僕がイスから滑り落ちそうなほどだらけた姿勢でつぶやいたその時、イェンスのスマートフォンが着信を知らせた。咄嗟に座り直して彼の表情を注意深く見守る。彼はあっという間にあふれんばかりの笑顔を見せた。

「ユリウスからだ」

 僕は急いで彼の元に駆け寄った。すると、あの渋くてやわらかみのある声が僕たちに話しかけてきた。

「イェンス、連絡をありがとう。クラウスもすぐそばにいるんだね? ちょうど君たちと連絡を取ろうと思っていたところだ。実は来週後半から地方国へ一週間ほど出掛ける用事があって、年越しは地方国で迎えることになる。明日も明後日もいろいろと各政府関係者や知り合いと会う予定があって、なかなか君たちとゆっくり会う時間が取れないでいるが、月曜日が比較的日程に余裕があるので調整中なのだ。だが、今回は午前中ぐらいしか時間を取れそうにない。それで構わなければ、すぐそばにいるシモとホレーショに君たちをまた送迎してくれないか、頼んでみるつもりだ」

 それを聞いてイェンスが僕を見た。僕が大きくうなずいて返すと、彼は弾む声でユリウスに返答した。

「クラウスも僕も喜んで会いに伺います。それと、シモとホレーショに会えるのも本当に楽しみです」

「そういうことだそうだ。いつも君たちを私の身勝手で休日でも振り回していることは重々承知しているのだが、それでも君たちの大事な時間をまた私にくれないだろうか?」

 ユリウスは電話の向こうでシモとホレーショに話しかけているようであった。「ありがとう」というユリウスの声が聞こえる。その途端に僕たちは笑顔で顔を見合わせた。

「彼らも君たちに会えるのを非常に楽しみにしているそうだ。時間はこの間と同じ時間で、例の公園前で待っていて欲しい。必ず時間は作る」

 多忙にもかかわらず、なんとか時間を捻出しようとするユリウスの厚意と、それを支えるべく休日を返上しようとするシモとホレーショの優しさに、心から感謝の言葉を交互に伝える。それを聞いたユリウスが「気にするな、彼らも同じだそうだ。では、楽しみに待っている」と朗らかに言うと電話は終わった。

 イェンスと僕はユリウスとの再会の約束に喜び合い、心地良い眠気を感じるまでまったりとして過ごした。さらに夜が更け、イェンスにおやすみの挨拶をして彼の部屋を出る。外はいよいよ雪が激しく降っており、僕はしかめ面をマフラーに埋めながら、人通りのない歩道をひたすら速足で歩いて帰った。

 次の朝、起きて窓から外の様子を伺うと一面雪だらけであり、走ることがためらわれるほどであった。それでも変化を起こした自分の能力を試そうと、着替えてバナナを一本頬張ってからイェンスの住むアパートへと向かう。すると彼もまた、少し寒そうにしつつもアパート前で僕を待っていた。

「大雪の中を走るのは危なっかしいだろうな」

 お互いにそうは言いつつも、五感を鍛えるいい特訓になるのではないかという根拠の無い淡い期待から、結局はいつもどおりに雪が舞う中を走る。普段より遅めの速度でも、ずっと走っていることで徐々に体があたたまり、心地良い爽快感が僕たちを取り巻いていく。三十分ほどでアパートに戻り、改めてきちんとした朝食を取った後は溜まっていた掃除や洗濯に取り掛かった。今までならどこか面倒に思いながら片付けていたのだが、不思議と今日は熱意にあふれていた。

 昼近くになった頃、イェンスから電話が入った。

「エトネからさっき連絡があったんだ。来週の水曜日、都合が良ければ昼食を振る舞うから、君と一緒に訪ねて来てほしいって」

 エトネとイリーナに会うのは実に久しぶりであった。イリーナはきっと僕のことを覚えていないであろうが、あの澄んだ眼差しをまた見られるのは感慨深く、即座に快諾した。

 夕方近くになると再びイェンスから電話が入った。その水曜日に、今度は最初から彼女の家に訪問する約束を取り付けたので、昼食のお礼もかねて彼女たちに何かプレゼントを持参して行こうという内容であった。彼の細やかな気遣いに感嘆して賛同すると、お互い明日の朝までに何を贈るか考えておくことで話がまとまり、電話が終了する。僕は早速、母や祖母を思い出しながらプレゼントの候補をあれこれインターネットで調べ始めた。いろんな情報があふれる中で、エトネとイリーナに喜ばれるようなものを探す。僕なりに候補をいくつか決めると、再びのんびりと過ごして一日を終えた。

 次の日の早朝は降雪がやや落ち着いていたものの、歩道が雪に埋もれており、いよいよ足元が危ないだろうと考えた。しかし、歩くだけでも良い気分転換となっていたため、準備してイェンスのアパートへと向かう。すると案の定、彼は僕を待っており、足元に気をつけながらゆっくり走ろうということになった。

 ゆったりとした速度で全身に凛とした空気を浴びる。エトネとイリーナに何を贈るかでイェンスに尋ねると、彼は少し息を弾ませて「あたたかい大判のストールを贈るのはどうだろう」と答えた。同じ結論に至っていた僕がまたしても即座に同意すると、早速今日の午後にストールを買いに行くことで話がまとまった。

「せっかくだから昼食をどこかで取りながら向かわないか」

「それならDY‐14地区に大型のショッピングモールがあるから、そこで全てを済ませるのはどうだろう」

 イェンスがそう答えたのは意外であった。人が多いところを彼は避けるようにしていた。そこにためらいを感じたものの、他にいい案も思い浮かばなかったこともあり、待ち合わせの時間を取り決めていったんイェンスと別れる。アパートに戻って朝食を取り、身なりを整えているうちに約束の時間になったので、再度イェンスと合流して地下鉄を使ってショッピングモールへと向かった。

 ショッピングモールは開店して間もないにも関わらず、すでに大勢の客足で賑わっていた。僕たちは地下鉄で移動している間、エトネとイリーナに似合う色と柄をネットショッピングからヒントを得てイメージを決めていた。だが、実際に店先を覗いて探すとなると、ショッピングモールのあちこちに点在する店の隅々まで調査せねばならず、僕たちは膨大な種類の中から二点だけを選ぶことに早くも辟易しかけた。

「宝探しだと思おう」

 イェンスが珍しく心許ない口調でつぶやいたので、僕はあえて力を込めて返した。

「人も多いけど何とかなるだろう。きっといい宝物に巡り合えるさ」

 その時、背後から若い女性たちの会話が聞こえてきた。

「今日はたくさん歩くから、スニーカーで来ちゃった。だって、欲しいものがいっぱいあるんだもの。ネットだと売り切れてたネックレスとピアス、お店にあるといいな。あ、あとコートも」

「きっとあるわ。ねえ、知ってた? アウリンコだと売り切れているアイテムも、ドーオニツだと場所によっては残ってたりするんだって。だから、アウリンコの人たちがわざわざ橋を渡って買いに来るらしいのよ。そうでなくとも年末年始は旅行客で混むから、気になるお店はどんどん攻めていかないとね」

 彼女たちは朗らかな笑い声を上げて遠ざかっていったようであった。僕は広大な狩猟の場で、希望に沿ったものだけを迅速かつ的確に購入することだけですでに重大な任務を背負っていると考えていた。しかしながら、こういう場においては女性たちのほうが広範囲にわたって狩りを続け、しかも疲れさえ楽しめるのだということを幼い頃に体験した母と祖母の買い物から思い出したので、先ほどの姿かたちもわからない女性たちに妙に感心してしまった。

「僕たちも今の女性たちの言葉を見習おうか」

 苦笑いを添えて言った僕の言葉にイェンスが大きくうなずいて返すと、歩きながら言葉を続けた。

「こういう時の女性の機動力は本当に尊敬に値するよ。僕はあらかじめ下調べしたうえで目的のものを購入するようにしているから、現物を見て比較検討をすることにそこまで熱心じゃない。その点、女性は細部までこだわりがあるからか、実に厳しい審査をかけて買い物をすると思う」

「それは君のご家族の経験から?」

「そうだ、母と姉さ。こういったショッピングモールじゃなかったけどね。父と弟と僕はいつも待ちぼうけをくらっていた」

 彼もまた苦笑いを浮かべていた。しかし、彼が穏やかに彼の家族の話をしてくれたため、僕はどことなく安堵した気持ちで狩り場へと向かった。

 何店か回ってストールを探してみたものの、僕たちが話し合って決めたイメージに合うものはなかなか見つからなかった。店先に並べてあれば探しやすいのだが、奥まで踏み入れて探すとなると女性客をかきわけて進まなければならず、その時点ですでに骨の折れることである。場違いな男二人に向けられる好奇の眼差しをかわしながら目標物を探し、失意を覚えて去っていく。それが続けざまに起こったものだから、イェンスも僕も無言になっていた。

 その時、高級ブランド店でイメージに近いものが陳列されているのが目に入った。イェンスにそのことをすぐさま教え、嬉々として商品に近付いていく。しかし、歓喜したのも束の間、値段を確認するなり一気に落胆し、そっとその場を離れるしかなかった。

「いざ探すとなると、なかなか見つからないものだな」

 イェンスが困ったふうにつぶやいた。

「きっと見つかるよ」

 僕はそれでもあてもなく返した。実を言うと全く根拠はなかったのだが、イェンスが先ほどから弱気であるため、その代わりに僕が努力しようと意気込んでいたのである。

「そうだね。宝探しは始まったばっかりだ」

 イェンスが気を取り直したのか、力強く返した。しかし、すでに疲れを感じていた僕達は、ショッピングモールが本格的に混雑してくる前に腹ごしらえをすることにした。近くにたまたまあったカフェに入り、案内された席に座る。すると近くで昼食を取っていた若い女性二人が僕たちを見てささやき合ったので、気まずさからテーブルの上に視線を落とした。そこに若い女性店員がにこやかな笑顔で料理を運びつつ話しかけてきたため、さらに表情が強張る。

 僕はそれでもイェンスが気持ちよく食事を取れるよう、なおかつ店員が気分を害することのないよう、愛想笑いを添えて取り繕った言葉を返した。するとそれが功を奏したらしく、若い女性店員は「では、ごゆっくりどうぞ」と会釈するだけで足早に去っていった。

「ありがとう」

 イェンスが小声でささやいたことに「気にするな」と返したその時、彼の奥に座っていた女性と目が合った。その女性がなぜか僕に微笑みかけたあげく軽く手を振ったため、対応に苦慮して視線を下に向ける。目の前には美味しそうな料理があった。それなのに、どうしてありつくまでにこうも難儀しなければならないのか。

「おそらくだけど、君も今視線に困っているんだね」

「そうなんだ。イェンス、君が以前言っていたことを思い出すよ。確かに僕はあえて女性と距離を保っているし、あの眼差しを喜んで受け取らないのも事実だ。どうしてだろう、僕は結局女性と親しくなりたくないんだ」

 僕が考え込むように言うと彼は優しく僕を見つめ、それでいてにぎやかな店内の雰囲気に埋もれないよう、はっきりとした口調で答えた。

「君だって僕と同じさ。好みのタイプでないだけの話だと思う」

「そうだろうか? 僕が独特なだけなのかもしれない」

「それも同じことだ。僕たちはすでに普通の人間と異なっているから、独特さは持っているはずさ。それでも、前も話したとおり、君さえ望めば彼女たちとすぐに親しくなれるよ」

 彼は落ち着いた様子で料理を口へと運んだ。

「本当にそんな簡単に事が運ぶのかな? ああ、君が言うのだからそうなんだろう。信じられないけど。でも、やはり僕には試してみる気概は無いな。このまま君を参考にしながら、上手な対応方法を学んでいくとするよ」

 お腹が空いていたこともあり、気を取り直して食べ始めた。他の席の女性からの視線も感じてはいたのだが、イェンスは全く気にすることなく食事を楽しんでいるようである。その落ち着いた彼の優雅な振る舞いを参考にしながら、僕は言葉少なめのまま食事を終えた。

 再び『狩り』を再開させるべく、混雑している通路を突き進んでいく。その時、同じカフェで最初に僕たちを見てささやき合っていた若い女性二人が、どこからともなく現れて僕たちに話しかけてきた。

「ねえ、ドーオニツの人? この後予定ある? 私たちとどこか落ち着ける場所でお話しない? そこのカフェにいた時から気になってたの。だって、あなたたちすごくかっこいいんだもん」

 赤のニットワンピースを来た若い女性が回りくどい言い方をせず、率直に誘ってきた。僕が戸惑いからイェンスを見ると彼は目配せして返し、彼女たちに対して普段より控えめな口調で言葉を返した。

「すみませんがお断りさせてください。この後も予定が詰まっているため、時間に余裕が無いのです。それでは」

 すると傍らにいた短い白のスカートをはいた女性が、上目づかいで僕たちを見るなり甘えた口調で言った。

「ねえ、気楽に考えて。それに予定があるんなら、それが終わってからでも構わないし、なんならその予定に一緒に同行しても私たちは一向に構わないわ。私たちは旅行者で、ドーオニツにいられるのもあと少しだけなの。それにしてもあなたたちって本当にかっこいいのね。連絡先交換しようよ」

 僕は華奢な彼女たちの見た目と裏腹に、貪欲さと強気な態度が前面に押し出された言葉に絶句してしまった。それを察したのか、イェンスが穏やかな口調ながらも頼もしい言葉で彼女たちに応酬した。

「せっかく褒めてもらったのだけど、あいにく僕たちはあなたたちに全く興味が無い。それにあなたたちが旅行者であれば、身分証明証携帯違反を犯している。一か月にも満たない滞在なのにドーオニツ独特の規定を遵守できないようじゃ、会話したところで僕たちと話がかみ合うはずがない」

「はあ? 何様か知らないけど、上から目線で失礼じゃない?」

「感じ悪くない? 女だからってバカにしているわけ?」

 しかし、イェンスはそれでも冷静であった。

「違反を犯していることを通報されて困るのは、あなたたちのほうだ。それに僕たちは最初からずっとお断りしている」

 すると女性二人は明らかに憮然とした表情で僕たちをきつく睨みつけ、吐き捨てるように言った。

「……最低っ」

「きもっ」

 僕がその言葉に茫然として立ち尽くしていると、イェンスが僕の肩を抱いて微笑み、「行こう」と声をかけてきた。この一連のやり取りにおいても全く動じなかった彼を、僕はただただ頼もしく思うしかなかった。

 気を取り直し、人の流れの中を縫うように最後の候補地へ足早に向かったものの、結局僕たちが思い描いていたようなストールは見つけられなかった。そもそも遠慮なんかせず、店員に積極的に尋ねれば良かったのであろう。しかし、そこには非常に重い決断が必要であった。矛盾を承知で、僕たちはできれば店員と最小限の会話で買い物を済ませたかったのである。

 来た通路の反対側を戻りながら彼と対策を練り直していると、不意に彼があるお店の前で立ち止まった。そこは女性の衣類を扱っており、やや高級そうな店構えであったのだが、ショーウィンドウに飾られていた数枚のストールはエトネとイリーナに贈るのに相応しい色と柄であり、僕たちでも手が届く値段のものであった。

 すぐに店内に入って年配の店員に問い合わせると、彼女は奥から真新しいものと他の柄のストールとを広げて見せてくれた。その中から僕たちはエトネに似合う水色に花柄の刺繍が施されたストールと、イリーナに似合う淡いピンク色のストールとを選んだ。贈り物用に包んでもらっている間、エトネとイリーナのあたたかい笑顔を脳裏に描いてつい笑顔になる。会計を済ませ、店員にお礼を伝えて店を出ると、僕たちはとうとう良い宝物に巡り合えたと喜びを分かちあった。

 無事任務を完了させたため、後は帰路に就くだけである。しかし、イェンスがせっかくだから寄りたいところがあると珍しいことを言うのでついて行くと、以前シモが贈ってくれた紅茶を取り扱っているお店にやって来た。彼がそこで紅茶の缶を買い求めたので、僕もその気になって高級な紅茶を購入する。それはユリウスに憧れていたからなのだが、そうでなくとも香り高い紅茶の味に僕もすっかり魅了されていた。

 ショッピングモールをようやく出る。ふと空を見上げると、灰色にぼやけて凍っている雲の隙間から乳白色の光がかすかにもれているのが見えた。その空模様からなぜかあたたかい気持ちになった僕は、揚々とした足取りでイェンスと一緒に家路へと就いた。

 イェンスが住むアパート前までやって来た。彼がエトネたちに渡すプレゼントを預かると言うので、その言葉に甘えてその場で彼と別れる。明日はユリウスとシモ、ホレーショとの約二週間ぶりの再会が待ち受けていた。しんしんと舞い落ちる雪の中、僕は心を弾ませながらアパートへと戻った。


 次の朝は早起きをしてしまうほど浮かれていた。早速窓を開け、外の様子を確認する。すると昨晩の強い海風のおかげか、さほど積もっていなかった。着替えを済ませてイェンスのアパートに向かうと彼は外で僕を待っており、路面に目をやりながら「今日はまあまあ走れそうだな」と言ったので、僕たちはすぐさまいつものコースを走ることにした。

 身を切るような冷たい空気の中をかき分けていく。鳴き声がしたので視線を向けると、数羽の雀が軒先で寒さに耐えるかのようにじっと丸まっているのが目に入った。その愛らしい姿をすぐさまイェンスに知らせると、彼はわざわざ立ち止まって優しい眼差しで見つめた。こういったささやかな出来事を分かち合えるということも、僕にとっては相変わらずの大きな喜びであった。

 アパートに戻って朝食を取り、きちんとした身なりに整える。準備が整うとじっと待っていることは難しく、急くように戸外へと向かった。

 立っているだけではさすがに寒さが身に堪えたため、小さな雪だるまを作って体を動かし、時間をつぶす。人通りが少ないことをいいことに熱中していると、イェンスから電話が入った。少し早いのだが、僕を迎えに行きたいのだという。僕がすでにアパートの前で雪遊びをしていることを伝えると、彼は笑い声を上げて「実を言うと、もう向かっているんだ」と言って電話を切った。

 雪を軽く蹴って戯れる。その時、通りの向こうからイェンスがやって来るのが見えた。彼は僕がつくった小さな雪だるまを見るなり、冗談ぽく「一緒に連れて行くのかい?」と尋ねてきた。僕はわざと仰々しく「いいや、ここで門番をしてもらう」と返すと、アパートの脇に雪だるまを丁寧に置いてから早速公園に向かった。

 お互い浮足立っていることもあり、雪道でも足取りが早い。早く公園に着いたところで、寒風に吹き付けられながら待つだけなのだが、僕たちはそれすらも楽しみに待ち構えていた。

 銀白色の雲の隙間から青空が覗く。待ち合わせの公園の近くまでやって来た時、どこか見慣れた黒いオフロード車が遠くに停まっているのが見えた。

「イェンス!」

「きっと彼らだ!」

 そうなると僕たちはまるで競い合っているかのように走った。車に近付くにつれ、イェンスと僕から愉快な笑い声がもれる。

「時間が早過ぎる!」

 彼らから早めに到着するとは一言も聞いていなかったため、興奮から思わず声が大きくなる。

「ああ、ホレーショだ。シモも僕たちに気付いたぞ」

 イェンスの言葉とほぼ同時に彼らも僕たちに気が付いたらしく、車から降りて軽く手を挙げた。そうなると僕たちは雪を蹴散らしながら彼らの元に駆けつけるしかなかった。

「ホレーショ! シモ! ずいぶん早いじゃないですか」

「元気がいいな、クラウス。そういうお前たちだって相当早いぞ。待ち合わせの時間までゆうに三十分もある」

 シモが笑いながら答えた。

「僕たちは待ち切れなかったのです」

 イェンスは少年のような、あどけない笑顔を彼らに向けていた。

「俺たちも同じだ。くそ、たった一回ですっかりお前たちと馴染んじまったな。俺たちもさっき着いたばかりだ。ほら、寒いからとっとと乗れよ」

 ホレーショはぶっきらぼうに言ったのだが、その表情は優しかった。僕はお礼を伝えながらも、ふと前回のことを思い出したのでそっと背後を警戒する。するとホレーショがその様子に気が付いたらしく、苦笑いを浮かべた。

「もう試さねえよ! 返り討ちに遭うのはごめんだ」

 それを聞いたシモとイェンスが笑い声を上げる。そこからあっという間に全員が車内に乗り込み、車はすぐに出発した。

 僕たちは彼らに近況を簡単に報告した。そして実は先日もアウリンコに行ったのだとだけ告げると、シモが鋭い眼差しを向けて尋ねてきた。

「お前たち、軍の水処理施設に産業統括省の奴らと先々週行かなかったか?」

 シモの思いがけない言葉に、イェンスと僕は一瞬で固まってしまった。イェンスが驚愕した表情で、なぜ知っているのかと尋ねる。それを受けてホレーショが前を向いたまま答えた。

「話がもれ聞こえて来たんだ。ドーオニツの単なるブローカーの若い男性二名に、ただならぬ雰囲気を感じたとね。その特徴がお前たちと酷似していたから、ユリウス将軍も『仕事で来ていたのか』とおっしゃっていたぞ」

 僕は咄嗟に警備を担当していた男性を思い出したのだが、果たして彼なのかイゴールなのか、はたまた別の誰なのか到底わかるはずもなかった。それでも思いがけず注視されていたことに困惑していると、シモが続けた。

「彼らももちろん厳しい訓練を日々受けている。その彼らが一様に『全く隙が無く、目に強い力を感じた』と言っていたらしい。女性たちの関心も惹いたらしいがな。いずれにせよ、部外者であるお前たちの話題がユリウス将軍のところまで上ったのだから、たいしたものだ」

 僕はどう反応したらいいのか悩み、黙り込んでしまった。うかつなことは言えまい。適切な言葉を必死に探していたその時、イェンスが落ち着いた口調でシモに言葉を返した。

「あちこち見回すことが制限されていたため、自由に見学できる範囲内の中では物珍しさもあって、つい力強く見入っていました。そのことが誤解を与えたのかもしれません」

「まあ、お前たちが目立って何か異質さを放っていることは確かだ。人混みの中でも存在感がある。そうかと思えば全く気配を消して佇んでいたり、そういうところでもユリウス将軍に似ているな」

 シモはそう言うと微笑んだのだが、すぐに一言付け加えた。

「気にするな、追及はしないさ」

 それから彼はラジオのスイッチを入れてのんびりと背伸びをし、くつろぐように座席にもたれた。車内にゆったりとしたピアノの音が流れ、さらにヴァイオリンの繊細な旋律が静かに絡み合うように優雅な音色を響かせる。前回に聞いたメタル音楽とは趣が全く異なるため、話題を変えたいこともあり、僕は彼らにこういった曲も聴くのかと努めて落ち着いた口調で尋ねた。するとホレーショが「癒されるからな」とだけ答えて運転を続けた。

 美しい調べに耳を傾けつつ、風に踊らされながら舞い落ちる雪を眺める。シモもホレーショも、様々な疑問を僕たちに抱いているようであった。それでも、僕たちが放つ異質さに気付きながらも、あえて探ろうとしない姿勢に彼らなりの優しさを感じていた。しかし、そうであるならば、僕たちの間にある深い溝がそうさせているのではないのか。ユリウスもひょっとしたら、信頼している彼らにも彼の秘密を話せないことで、心苦しさを抱えているのではなかろうか。何ともなしにそのことを考えているうちに、僕の心にもうらさびしく雪が舞い落ちていく。

 しかしながら、彼らと再会した喜びのほうが徐々に勝り始めたため、僕は心に舞い落ちた雪を振り払い、シモからもらった紅茶とホレーショがおごってくれたマフィンとドーナッツの味とを報告することにした。

「シモ、あなたからもらった紅茶がとっても美味しくて、イェンスと僕とでよく飲んでいます。ホレーショ、あなたがおごってくれたマフィンもドーナッツも、次の日あっという間に平らげました。出来立てじゃなくても本当に美味しくいただきました」

 弾んで出た僕の声に、シモが嬉しそうに「そうだろう。あの紅茶の販売店は確かドーオニツにもあったはずだ」と答えたので、イェンスが昨日僕とショッピングモールに出掛けた時にその店で買い求めたことを言い添える。それを聞いたホレーショが妙に納得した口調で、「お前たちって本当に仲がいいな」とつぶやいたので、イェンスと僕とで「そうですね」と微笑んで返した。

 しかし、そこからシモの鋭い追及が始まった。僕たちの雰囲気や言動からして、ショッピングモールへ好んで行くようには思えないのに、なぜ人が多く集まるところに行ったのかということらしかった。

 彼の鋭い観察眼に驚きつつ、明後日に会う知人のためにプレゼントを買いに行ったのだと僕が答えると、今度はホレーショが食らいついた。

「なんだよ、恋人でもできたのか」

 彼が問いただす様に尋ねてきたので、僕たちはおかしさから顔を見合わせて笑い出した。その様子を受けてシモが、「気になるぞ、本当のことを言え」と凄みを利かせて畳みかける。そうなるといよいよ愉快な気分になり、イェンスがわざともったいぶった様子で答え始めた。

「そこまでばれてしまっては仕方ありませんね。そのとおりです。親しくしている女性たちへのプレゼントです。僕たちは昼食の招待を受け、明後日に彼女たちの家を伺う予定なのです」

「お前たち、それ本当か!?」

 ちょうど赤信号で車を停止させたホレーショが振り返って叫んだ。眉間にはあの複雑なしわが紋様となって描き出されている。シモも相当驚いたのか、顎を触りながら戸惑った様子で僕たちを見ていた。彼らのその困惑した様子を受けて途端に申し訳なく感じていると、イェンスが「僕から話すよ」と耳打ちしたため、そもそもの発端が彼であることもあって彼に任せることにした。

「驚かせてしまってすみません。僕のほうから経緯を説明いたします。今年の夏の終わり頃、僕が仕事で……」

 僕が初秋に聞いたあのエピソードを、イェンスが淀みない口調で彼らに伝えていく。彼が困っている女性二人を助けたという件を話すと、シモは女性二人が高齢であることに気が付いたようで、だんだんと興味深そうな面持ちへと変わっていった。ホレーショも腑に落ちたのか、安堵のような表情を浮かべている。しかし、その表情を見せたのは一瞬で、彼はすぐに前方に姿勢を向けると車を動かし始めた。

 イェンスの説明を聞き終えたシモの表情はずいぶんとやわらかく、どこか微笑んでいるようであった。

「なるほど、お前たちらしいな。いい友情じゃないか。ストールだってきっと喜ばれることだろう。楽しんでこい」

 シモはそう言うとホレーショを一瞥し、今度はしたり顔でささやくように続けた。

「こいつはこういう話に弱い。今は気丈に運転しているが、こいつの涙腺はもろいんだ。事故に遭ったらたまったもんじゃないから、そっとしてやってくれ」

 僕たちが意外性を感じながらもうなずいて返すと、ホレーショが前方を向いたまま、吠えるように言った。

「俺はこの手の話で動揺するような、やわな男じゃない! ただ、少し感銘を受けただけだ!」

 僕はその言葉にホレーショらしい実直さを感じ取っていた。

「くそっ。何なんだ、こいつらは」

 ホレーショのつぶやきにかぶさることなく車内に流れた抒情的なピアノのメロディーは、車内にますます優しい雰囲気を届けていた。地方国で作曲されたその古い曲が、この遠く離れたドーナッツ状の島にラジオ越しとはいえ、現在も繊細かつ優美な音色を響かせていることは奇跡なのかもしれない。

 シモが僕たちにこういった演奏会を聴きに行ったことがあるかと尋ねたのだが、彼は僕たちの返答を待たずに続けて言った。

「生のオーケストラの演奏は圧巻だぞ。ドーオニツより、当然アウリンコのほうに最高のものが揃っている。機会があったら聴きに来たらいい。ユリウス将軍も時折時間を見繕っては、目立たぬようにご鑑賞されている」

 シモの言葉は僕の関心を引いた。今まで音楽鑑賞にさほど興味を持っていなかったのだが、あのユリウスも好んでいるということで単純に感化されたのである。イェンスは国立中央アウリンコ校在籍時に演奏会をよく鑑賞していたらしく、一番安いチケットを購入しては美しい音楽に浸っていたのだという。僕にとって初めて聞く話であったのだが、いかにも彼らしいと率直に受け止め、引き続き会話に耳を傾ける。その時、ホレーショが僕について尋ねてきたので、控えめな口調で答えた。

「学校の授業の一環でアウリンコのコンサートホールで鑑賞して以来、個人的に音楽鑑賞に行ったことはありませんでした。でも、楽しかったです。懐かしいな、僕たちは国立美術館も訪れました。あの時は美しい風景画や人々の日常を描いた風俗画に心を奪われてずっと魅入り、素晴らしい体験に非常に興奮しました。でも、やはりアウリンコは気軽に行ける場所じゃないから、それっきりになってしまったんです」

「それはもったいない。感性を豊かにし、心を癒す対象に美術や音楽といった芸術を加えても損はないぞ」

 ホレーショの口調には穏やかさがあった。

「確かにお前たちが住んでいるところからだと、アウリンコの美術館も歌劇場も一番遠い場所にある。一般的な交通経路だと二時間半くらいかかるしな。それでも機会があったら、逃さず行ったほうがいい。今日は時間が取れないが、俺たちとお前たちの休みが合えば、案内ぐらいはできる」

「ありがとうございます。ホレーショ、あなたはやっぱり優しい人なのですね」

 僕がしみじみと感謝の言葉を伝えると、彼は急にいつもの口調に戻って言葉を返した。

「けっ、ただで案内しねえよ。飯ぐらいおごってもらうぞ」

「どうせならいいレストランにしよう」

 シモがさらにいたずらっぽい口調で付け加えたので、イェンスも僕も思わず吹き出すように笑った。

「ホレーショ、あなたはこの間のへヴィメタルのような音楽からこのようなクラシックまで、幅広く聴くんですね」

 イェンスが朗らかな口調で彼に尋ねた。

「クラシックの好みはユリウス将軍譲りだ。将軍が好まれてよくお聴きになるから、俺も聴くようになったんだ。メタルのメロディアスな旋律の元でもあるしな。――それと、お前ら、今度『あなた』と呼んだらただじゃおかねえぞ!」

 彼は続けざまに低い声で凄みを利かせた。

「もっと気安く呼べ」

 それを聞いた途端にシモが笑いだし、「俺にも気を遣うな」と言った。

 僕は彼らが親しみを感じてくれていることが嬉しくてたまらなかった。彼らが持っている美しい心とあたたかい眼差しとが、今まさに彼らから与えられているのである。僕は感謝の言葉を伝えると、彼らの凛とした後頭部を感慨深げに見つめた。

 車はあっという間に橋を渡り、アウリンコ内へと来ていた。前回より早く目的地に着くように思われたのは、年末で道路が空いているという理由だけでは無いであろう。おそらく彼らは前回あえて遠回りをし、道順を複雑にすることで、ユリウスの家がある場所を僕たちが簡単に覚えないように警戒していたのではないのか。

 しかし、今となってそのことはどうでもよくなっていた。雪が優しく舞う中、僕たちはさらに打ち解け、ホレーショの命令どおり「君」と呼んで雑談を交わしていた。やがて車が見覚えのあるところまでやって来たので、僕は俄然、ユリウスに想いを馳せた。

 もう少しで彼と再会できるのだ!

「二週間ちょっとしか経っていないから、覚えているだろう。間もなく着くぞ」

 ホレーショが僕たちに話しかける傍らで、シモがインターカムでゲートに連絡を取り始める。左手には見覚えのある高い塀が続いている。ゲート前に到着すると、シモがすぐさま口頭式身分照会用パスワードを警護担当者に伝えた。そして少しの静寂の後に警備員の男性の話し声が聞こえ、重々しくゲートが開かれていった。

 僕はルトサオツィと会ったあの日から、まだ二週間ちょっとしか経過していないことを冷静に受け止めていた。あの奇跡のような体験から今日まで、大小の濃厚な出来事が立て続けに起こった。それでいて次の夏を迎える頃、おそらく僕たちは導かれるようにルトサオツィが住むエルフの村を訪ねるはずなのだ!

 その時、ユリウスが玄関から出て来るのが遠くに見えた。この寒さの中、わざわざユリウスが僕たちを出迎えようとしている。そのことはやはり嬉しく、つい笑顔がこぼれた。

「やはりお前たちは特別なんだな」

 不意に、シモがぼそっとつぶやいたのが聞こえた。その途端、僕は浮かれ気分から一転して冷静になった。

 シモとホレーショは長年、敬愛の念を抱きながらユリウスを警護してきた中で、歴史の浅い僕たちがあっという間にユリウスと親しくなっていくのを目の当たりにしていた。しかしながら、いくら任務であるとはいえ、どうしても生じてしまう疑問や複雑な心境を押し殺しながら僕たちを受け入れているに違いなかった。そうであれば、僕はシモに何か適切な言葉をかけるべきではないのか。

「着いたぞ、降りろ」

 ホレーショに促され、思考を絡めさせたまま車を降りる。どうして僕はこうも不器用なのか。

 雪が舞う中でユリウスが僕たちをあたたかく出迎え、それからシモとホレーショにもあたたかい笑顔で労いと感謝の言葉をかけていく。それに対してシモとホレーショが、誇り高さと精悍さとを見事に調和させたたくましい表情を一瞬浮かべたのだが、すぐさま落ち着いた様子で「とんでもございません。また、何なりとお申し付けください」と力強く言葉を答え、颯爽とした様子で車へと戻っていった。

 僕は彼らの様子をずっと目で追っていた。するとシモが僕の視線に気が付き、口元で軽く微笑んで見せた。ホレーショもまた目元に優しさを浮かべ、僕たちを一瞥してから車をゲートのほうへと走らせる。潔く去っていく黒い車を、僕は何とも言えない気持ちで見送っていた。

「君もシモの言葉が気になったんだな」

 イェンスが僕の耳元でささやいた。

「何か気になることがあったようだな。さあ、中で話を聞こう」

 僕がイェンスに言葉を返そうとする前に、ユリウスが僕たちの様子に気が付き、玄関のドアを開けながら話しかけてきた。やはり彼は鋭かった。

 前回と同じようにゲーゼの肖像画に見送られながら進んでいく。室内は暖房が効いてあたたかく、そのことだけでも僕はほっとした。ユリウスは軽食と紅茶を用意してくれていた。

「遠慮なく食べてくれ。姿勢も崩していい。昼食を一緒に取る時間が無いのは実に残念だが、簡単に食べられるものでも、君たちの食欲を満たせるよう工夫したつもりだ」

 ユリウスの笑顔が何よりあたたかかった。そこでイェンスと交互に心から感謝の言葉を伝えると、彼は意味ありげな眼差しで僕たちを見つめて言った。

「実を言うと、君たちが何を気にしていたのかは想像がついている。シモとホレーショのことだろう?」

「そうなのです。シモが別れ間際に、『お前たちは特別なんだな』と言いました。それがどういう感情と考えを内包しているのか、なんとなく想像がついたのです。僕は彼らがあなたを心から敬愛していることを彼らの言動の端々から感じ取っていました。そのことを踏まえて、どのような言葉を彼に掛けたらよいのか思案していたのですが、まごついているうちにその機会を失ってしまったのです」

 僕は彼の瞳をじっと見つめながら静かに答えた。

「そうか、ありがとう。イェンス、君も同じように感じていたのだろうか?」

「はい。クラウスが戸惑っているのを見て、彼が僕と同じようなことを感じているのだと察しました。僕たちが短期間のうちに、あなたと親しくなっていることは理解しています。それがどれほど特殊で、前例の無いことであるかは、これまでの彼らの言動から容易に推測できます。ですから、彼らが抱く疑問も理解できますし、彼らが当惑を感じることも至極当然の流れであると考えています。もちろん、彼らが訓練を受けた警護のプロで、本来であれば、彼らが仕事中に感じたことを容易に態度や口に出さぬよう、自ら制御できることも承知しています。それを踏まえたうえで彼らがあえて仕事の形式を崩し、僕たちに気さくに接して彼らの内面を見せてくれていることを嬉しく思っていますし、もう一歩踏み出して彼らとさらに親しくありたいと思い始めているのも事実です」

 イェンスはそう言うとためらいがちに言葉を続けた。

「……しかし、僕たちの全てを無防備に彼らに晒すわけにはいきません。僕たちは自分自身の特殊な情報を、慎重に扱う必要があります。それを知らされない彼らの複雑な心境を思うと、一転して心苦しさを感じるのです。もちろん、あなたとこうして親交を深めていくことに強い喜びを感じています。光栄という言葉で自分の虚栄を満たしているのではありません。ただの個人としてあなたと親しくなり、お互い気付きを深めていくことに大きな喜びと感謝を感じているのです」

「僕も彼と同じ喜びをもちろん持っています。そして彼の言ったとおり、僕たちはあなたと知り合ってまだ日が浅い。それなのにもかかわらず、あなたがあたたかく丁重に僕たちを出迎え、もてなして下さることに、ずっと昔からあなたに献身的な忠誠を見せているシモとホレーショとがさびしさを感じているのではないかと思うと心苦しいんです」

 ユリウスはずっと静かに耳を傾けていたのだが、その紫色の瞳が少し光を放ったかと思うとゆっくりと話し始めた。

「君たちがそう思うのはもっともかもしれないが、彼らの心配をする必要はないだろう。もし、君たちが任務中の彼らを見ることがあれば、君たちに見せている態度と全く異なることに愕然とするはずだ。彼らは任務中であれば、たとえ相手が君たちでも親愛の情を遮断し、冷徹かつ忠実に激務に取り組み、なおかつ秘めた誇りを胸の中に掲げながらも、顔色一つ変えることなく己を厳しく統制している。想像がつくかと思うが、彼らは家族や交友関係までもが洗いざらいに調査され、特定の団体や思想に傾倒していないか厳重に監視下に置かれている。また、職務を全うするため、精神的にも肉体的にも一般人の限界を超えた訓練を幾度となく受けている。そのシモが紅茶を、ホレーショがドーナッツとマフィンを前回訪れた帰りに君たちに奢ったそうだな。彼らがそういった行動に出たのは君たちが指摘しているとおりで、彼らの性格が甘いからではない。君たちが持つ、はつらつとした魅力がそうさせたからだ。だが、やはりにわかには信じがたいかもしれないな。君たちだからこそ私も納得できているのであって、彼らが初対面だった君たちに、最初から感情をむき出しにしたこと自体が異例中の異例だということを知ってほしいのだ。そして彼らは言葉や態度に表したことは無いのだが、私が普通の人間と異なること、そして君たちが同じ秘密を共有していることが私たちを強く結び付けていることをうすうす勘付いているようなのだ。だからこそ、君たちにも深く尋ねてはいないはずだ。私は彼らを実に気に入っていて、かなりの信頼も置いているし、何より感謝している。私はそのことが正確に彼らに伝わるよう、表現や態度には注意を払っているつもりだ。彼らが実に誇り高く、素晴らしい仕事をすることは、警護対象である私が一番良く知っている。だから、君たちと比べて私との親愛度の差を憂い、妬むほど彼らは干からびてはいないと私は信じている」

 ユリウスはそう言うと優しく微笑んだ。

 僕はシモとホレーショが訓練を積んでいる警護のプロであることは、わかっていたつもりであった。しかし、彼らの心配をすることで、かえって彼らの力量を低く捉えている意味につながるとは全く思ってもいなかった。僕はなんと軽率で、未熟であったのであろう!

「イェンス、僕たちは随分、シモとホレーショの気高い誇りを足蹴にするような発言をしたのだろうね」

 僕はうなだれるように彼に話しかけた。

「そのようだ。実際に彼らの任務中の姿を目の当たりにせずとも、想像がついたはずなんだ。僕のほうが彼らのあたたかい人柄に甘え、あまつさえ彼らを勝手に弱く見積もり、自分の分を弁えずに発言していたのかと思うと恥ずかしいな」

 イェンスも申し訳なさそうに言葉を返すと、そのまま押し黙ってしまった。すると僕たちをずっと見守っていたユリウスが、優しい表情で話しかけてきた。

「イェンス、クラウス。君たちが自分自身を責める必要も全く無いのだ。それは彼らも望んでいまい。君たちは知り合って間もない彼らから、本音をあっさりと引き出した。しかも、そこからお互いに親しくなるきっかけをも生み出した。私はそのことがどれほどまでに素晴らしいことか理解しているし、何より君たちには感服している。君たちはもっと堂々と、自信を持って構わないんだ。そのうえ、君たちの変化は目まぐるしく、高みへと順調に歩んでいるのが目に見えてわかる。私が辿り着いた心境にも君たちならあっという間に到達するだろうし、さらにその先へも想像以上の速さで進んでいくだろう」

 ユリウスの口調はやわらかく、それでいて頼もしかった。しかし、僕には到底受け入れ難い言葉が含まれていた。僕は自分自身の変化を見届けると何度も誓ってはいたのだが、歩みが遅いことは身にしみて感じていた。そうであるのにもかかわらず、この二人と並んで立っていると勘違いするほど、僕は楽観的でも鈍感でも無かった。

 僕は不甲斐ない自分をどうしてもユリウスに認めさせようと、彼の言葉にすぐさま反論した。

「まさか、とんでもありません! イェンスならともかく、僕にはあなたの足元に追いつける可能性があるとは思えません。少し洞察すれば気付けたかもしれないことにも気付けないし、あなたやイェンスの言葉で、初めて自分の中にかかっていた靄が晴れていくこともしょっちゅうなのです。それでもイェンスは僕をよく励ましてくれますが、僕が自分自身を卑屈に感じているから、このように言っているわけではありません。客観的にそうだと判断できる要素と事実が多いからです。僕の変化は実に鈍重で、僕が変化に適合し、受け入れられるようゆっくりと行われている。だから、僕が自信を抱けるとすれば、それはあなたやイェンスがすでにその道を歩んでいて、道しるべを置いてくれているからなのです。でも、僕が頑張っても歩みを早めることはできない。そのことで僕がいつかあなたたちの足を引っ張るのではないかという恐れも……恐れもあることは確かです」

 僕の発言は稚拙で後ろ向きであることは理解していた。しかし、よくよく考えると、先日のイェンスのつらい過去の告白から何も学んでいないばかりでなく、彼の勇気をないがしろにしたようにも取れることに気が付いた。

「ごめん、また情けないことを言ってしまった」

 僕は慌てて消え入るように謝った。だが、もはや手遅れであろう。どうして僕は自己変革に対して努力を惜しもうとしないのであろう。あっさりと自己を見限ることは、ただの逃亡ではないのか。皮肉にも、自責の念が自分自身をなじるのだけは相変わらず早かった。なぜ、僕はこうも不器用なのか。

 しかし、そのイェンスが僕の肩を抱くと、優しく言葉をかけてきた。

「僕はそう思わない、クラウス」

 彼ならきっとそう言うだろうと、僕は心のどこかで考えていた。そうなると先ほどの言動に狡猾さがより色濃く乗せられていくように思え、ますます自責の念に駆られていく。卑怯な僕はうつむいたまま、じっと唇を噛みしめた。

「君に僕の過去の話をしただろう? 女性と経験した話だ。僕は愛が伴っていない経験を自らしたことで自分自身を責めていたし、ずっと女性に対しても一方的に寛容な気分になれないでいた。だけど君に出会ってから、僕は君が持つ素直さやあたたかさ、優しさに触れて少しずついろんな経験を受け止める気概になってきたんだ。それからというもの、僕はだんだんと穏やかな気分でいられることが多くなった。たとえ見ず知らずの女性からいきなり声をかけられてもね。君は僕にかなり大きな影響を与えてくれた。君と僕が出会うのは必然だったのだろうけど、もし君に出会わなかったら、僕はとっくに擦れて嫌味で孤独な皮肉屋になっていたさ。君はもともと素晴らしい性質を持っていたんだ。逆に僕が足を引っ張らないか心配になるほどだ」

 彼の言葉は今の僕にとって身に余るものであった。

「ありがとう、でも本当にそうだろうか。イェンス、君が前向きになれたのは君自身が持つ叡智や愛によるものだ。君が嫌味で孤独な皮肉屋になる要素があったのなら、とっくにそうなっていたはずさ。君自身がもともと愛と強さに満ちているからこそ、つらい経験の中でも自分を見失うことなく、目指す道に向かって来られたんだ。君が自分の足でしっかりと立ち上がって来たことぐらい、僕だって理解している」

 僕は顔を上げて反論した。しかし、イェンスと目が合った瞬間、彼があの光を瞳に浮かべながら微笑んだので、それ以上は何も言えなくなってしまった。

「ありがとう、クラウス。君は本当に優しいのだな。そして僕がどこかで望んでいた言い訳を、君らしい思いやりにあふれた言葉で僕を癒しながら、いつもあたたかく届けてくれた。僕はもう何度も君に助けられてきた。僕の心の奥底に頑として居座っていた、醜く臭気を放っていた憎悪や孤独の感情が、今では跡形も無くなったほどさ。それが僕にどれほど喜びと感謝と深い親愛の気持とを君に抱かせていることか! だからこそ言わせて欲しい。君はずっと驚くべき速さで変化を起こしてきたよ。僕を今まで以上に強く惹きつけるほどにね。ユリウス、あなたも同じことを感じているのでしょう。あなたもクラウスに強く惹かれているように見える」

「そのとおりだ。クラウス、君が持つあたたかさに私も感銘を受けている。君を見ていると純粋さと深い慈愛とを感じる。君はもっと優しく愛にあふれた人はいくらでもいる、と主張するかもしれないが、私たちからすれば君は充分、その人だ。君が持つその輝きが私たちに好ましい変化をもたらし、そしてその変化が君へと還元されていくのだと思うと実に楽しみだ」

 イェンスとユリウスの表情が澄み切った青空のように晴れ晴れとしていたので、いよいよ僕は反論するのをためらった。彼らの言葉は素直に嬉しかったのだが、そのようなあたたかい言葉をかけられる彼らこそが純粋であり、優しく慈愛に満ちているのではないのか。

 僕は控えめに彼らに「ありがとう」と伝えたのだが、それ以上適切な言葉が思い浮かばずにいた。こういう時にすんなりと思考がまとまり、洗練された言葉がすらすらと出る器用さが僕にあれば、きっと想像をはるかに超えた変化をとっくの昔に起こし、彼らが目を見張るような能力をも開花させていたに違いない。

「クラウス、君に訪れている変化は決して微小なものではないはずだ。君が迎えている変化は、確実に君を新たな世界へと導いている。その変化の中で起こっている全ての出来事に対し、何らかの意味を感じ取る深い洞察力をも君はすでに持ちあわせている。私にはわかる。そしてその経験を糧として自分自身に反映させる前向きさも、ひたむきさもすでに君の中に現れているのだ。イェンス、君も同じだ」

 僕の軟弱な思考を見透かしていたかのように、ユリウスの重みある言葉はまたしても僕の心を力強く揺さぶった。そのあたたかく、優しい彼の眼差しを受け止めるのに僕は精一杯であった。

「君たちは無理に言葉を返さなくてもいい。今はまだ考えがまとまらなくとも、何度か自分の内面と向き合っているうちに、いずれ思考が明確になっていく。先ほどの君たちのやり取やこの対話さえも、君たちならきっと素晴らしい経験へと置き換えていってくれることだろう。なぜなら君たちは学ぼうとしているからだ。そして、そのことでこの私も気付きや学びを得、さらなる高みを目指すことが可能となる。そのことを理解してから、実を言うと興奮しているのだ。先日、君たちと別れて以来、再会を心待ちにしてきたのだからね」

 ユリウスの言葉に、感激からいよいよ言葉に詰まる。彼のように偉大で、数々の名誉ある功績を積み上げてきた存在からこの僕が褒められ、認められたのである。自分より下の存在を認めることができる彼の懐の深さとその器の大きさが、何よりまばゆい輝きを放っているのだと思えてならなかった。

 僕はユリウスを敬意の眼差しで見つめた。

「ありがとうございます。あなたにそのようなことを言われて非常に光栄です。それでもあなたが経験してきた変化の半分も、僕はまだ経験していないのでしょう? 僕は卑屈になって尋ねているのではありません。ただ、客観的に自己を把握したいのです」

 僕は内側に芽生えた前向きな意思を感じていた。

「君もイェンスも想像以上の速さで変化を進めている。差があったとしても、大きく開いているとは思えない。今、君たちと再会して気が付いたのだが、私たちはお互いに触れあうことで変化を触発しているようだ。私が独りでいた時より、気付きや変化がより多く訪れているのだ。――君たちに以前、私に魔力が無いと話したのを覚えているだろうか?」

 ユリウスはそう言うと力強く僕たちを見つめた。僕は突如として話の流れが変わったことを不思議に思いながらも、彼の生命力にあふれる瞳を見つめながら、彼の言葉の先を推測した。なぜ、ユリウスはここで魔力に言及したのか。

 そこから導き出された予想に驚くと、期待と興奮とで思わず目を見開いてユリウスを見た。

「もしかして、魔力が身についたのですか?」

 イェンスがたいそう驚いた様子でユリウスに尋ねる。彼の言葉はまさしく、僕の予想を的確に表していた。

「確信はある。君たちと先日会ってルトサオツィと別れた後、私は強い予感から寝室で心を静め、思考を絶って感覚に身を任せていた。すると私は自分の中に光を感じたのだ。その光に懐かしさと安心感、そして心地良さを感じていると、父が私に魔力を用いて魔法をかけた時に感じた感覚に似ていることに気が付いた。父に会えば、私の中に芽生えたこの感覚が何であるのかがはっきりするだろう」

 ユリウスは落ち着きを払っていたのだが、言葉の節々に力強さと喜びとがあふれていた。

「すると明日から地方国へ行くという予定の中に、父親であるドラゴンに会いに行く予定も入っているのですか?」

 僕の素っ頓狂な口調にユリウスは朗らかな笑い声を上げ、首を軽く横に振ってから答えた。

「いや、仕事だけだ。地方国の軍の幹部や政府関係者との面会、それに有力者たちと会談するのが目的で、ゆっくりできる日は新年を迎えた日の午前中ぐらいしか無いのだ。まとまった休みを取って父の所に行く機会があるとすれば、早くても来年の夏以降だが、その前に君たちがルトサオツィに会うことになるだろう」

 僕はその過密なスケジュールに、ユリウスが体調を崩しやしないかと内心慮った。やはり大元帥に大臣を兼職するともなれば、多忙を極めるのだ。しかし、ユリウスは落ち着いたままであり、静かに紅茶を口にすると一呼吸置いてから再び話し始めた。

「実を言うと、私も自分に訪れた変化に興奮しているのだ。もし、魔力が芽生えたのであれば、私が計画している第二の人生が非常に有意義なものとなる」

「もしや、長い人生の半分以上を異種族の地域で過ごすお考えなのでしょうか?」

 イェンスがさらに興奮した様子でユリウスに尋ねた。ユリウスは一瞬驚いた表情を見せたのだが、またしても朗らかな笑い声を上げてイェンスを見つめ返した。

「さすがだな! そのとおりだ。全く君たちには恐れ入る。実は、これから話すことは魔力が芽生えたことを前提に話すのだが、君たちは五感を全て解放した時、自分自身の姿をしっかりと鏡で見たことがあるかい?」

 彼は意味ありげな眼差しで僕たちを見た。イェンスが「いいえ」と答え、僕も「ありません」と言い添えると、彼は興奮を抑えずに情熱的な口調で言葉を続けた。

「そうだろう。私も今まで自分の容姿など気にかけていなかった。見慣れていたからね。しかし、魔力らしきものを何度か捉えているうちに、閃きで一緒に五感を開放してみようと思い立った。すると内側から何か物凄い力があふれ出すのを感じたのだ。私は直感的に自身の姿を確認しようと鏡の前に立った。すると驚いたことに、私はずいぶん若返っており、君たちと年齢がさほども変わらないように見えた。私は元々若く見られがちなため、威厳を出すためにも顎鬚を蓄えているのだが、それでも変化は一目瞭然で信じられないほどだった」

 彼はそう言うと目を閉じた。どうやら精神を集中させ、五感を開放させようとしているようである。次の瞬間、僕たちは驚愕のあまり言葉を失った。ユリウスは彼の言葉どおり、僕たちの目の前でみずみずしい若さをあっという間にあふれさせていった。

「驚くのも無理は無い。魔力が無かった時にこういった変化は無かったと記憶しているし、この私だって信じられないほどだ。さて、五感を閉じよう。五感を閉じた今の姿は君たちも私も見慣れたいつもの姿だが、これは私が思うに、人間としての姿だろう。だが、私にはドラゴンの血がわずかでも混じっている。だから五感を開放したありのままの姿、先ほどの若い姿が本当の私の姿になるだろうね。おそらくは自分を抑えつけるものが何も無い状態が自然であるのに加え、魔力が何らかの影響を及ぼしているのだと推測している。私は以前、兄のゲーゼに人間の社会から離れた後、長らくどこに居たのかと尋ねたことがあった。兄は『ドワーフの村で暮らしていた』と答えた。ドワーフの村なら、魔力の無い人間でもなんとか暮らしていけるだろう。しかも中途半端に異種族の力を持つ者には人間の好奇の的から逃れられ、普通の人間と異なる老いの変化と長い寿命が目立つこともない。私は兄がそうしたように、人間として社会に貢献した後はドワーフの村に移住するつもりでいた。ルトサオツィはエルフの村に招こうとしていたのだが、魔力が無いとエルフ以上の異種族の生活地域で人間が暮らすことは、非常に厳しいものがある。君たちは訪れたことが無いから想像がつかないかもしれないが、魔力無しで異種族の生活地域で暮らすということは、今まで以上に身体能力を高め、精神を鍛錬し、ありとあらゆる見識を積んだとしても、それだけでは自分自身の立場を孤独に把握するだけで、絶望的なほどまでに困難なことなのだ。魔力があることを前提に全てが存在しているからね。魔力が無いと、常に強大な魔力を持つ存在から庇護を受けて暮らすことになるのだが、それではお互いに不自由であり、絶えず気苦労をするばかりで不利益しか生み出さない。父は最初に会った時にそのことを説明すると、私をドラゴンの住む世界に連れ帰り、一緒に住むようなことはしないとはっきり私に言った。私も感覚的にその事情が理解できたため、父に連れていくようせがんだことも無い。だが、魔力が芽生えたとするなら、私にはさらなる可能性が広がったことになる。ドラゴンの住む世界は、単体で飛行能力を持たない私にはもともと厳しいが、エルフや妖精たちの住まう世界でさらに自己鍛錬を重ね、変化をより早く進めることができたなら、魔力が必要とされる世界でも生きていくことが可能となる。私は新たな世界へと続く道を、自分の意志で歩めるかもしれないのだ」

 彼は恍惚とした表情で言い終わったかと思うと、おもむろにイェンスを見た。そのイェンスはぼんやりと遠くを眺めていた。

 彼の視線が向いているであろう窓の向こうには、青空が見えた。きっとイェンスは彼の今後の人生に関わる重大な話を得たのであろう。いや、それは僕においても同じことがいえるのかもしれない。

 僕が思っている以上に、彼らは僕の中にある『何か特別な力』を認めていた。僕は単なる人間であったはずなのだが、もはや普通の人間が歩んでいく道からずいぶんと逸れた場所にまで来ていた。そして、僕の目の前には誰にも踏みならされていない新雪の平野を進み続けている、ユリウスとイェンスがいた。そう考えただけで、この奇妙な巡り合わせに感動を覚えずにはいられなかった。

「ユリウス、あなたは僕たちの中に魔力を感じますか?」

 僕は実感が全く無いのにも関わらず、思い切って彼に尋ねてみた。

「残念ながら今の私には見受けられないが、私もまだ自身の魔力を完全に捉えきれていないため、ただ単に見抜けていないだけかもしれない。しかし、君たちにも充分その資質があるのは確かだ。異種族の力を持つ者同士が直接触れ合うことで内側にある何かが刺激を受け、さらに変化を加速させているようだから、この瞬間に芽生える可能性もあり得るだろう。断言はできないがな。――いや、何か感ずる。君たちがルトサオツィと次に会うその時、非常に重要な出来事と相対する気がする」

 ユリウスが強い口調で言い切ったので、僕の中に得も言われぬ期待と不安とが同時に湧き起こった。

 彼が感じている『非常に重要な出来事』とは何であるのか。当然のごとく、見識の無い僕にはさっぱり見当がつかないでいた。それでも何かしらの糸口を見つけようと、複雑な感情と果てしない疑問を抱えたまま、じっと紫色の瞳を見つめ返す。その時、不意に僕にとって重要な事実を思い出した。そのことで悲観と孤独を感じた途端、不安と恐怖とが再び僕に襲い掛かる。僕は悲痛な気持ちを押し殺し、あえて自虐気味に言い放った。

「魔力が芽生えれば、僕たちが今まで以上により安定した立場になれることは理解できました。しかし、僕だけ直接の血縁関係がありません。血が全く流れていないにもかかわらず、本当に僕にも魔力が芽生える土壌が備わっているのでしょうか?」

 するとそれまで遠くを見ていたイェンスが僕に向かって微笑み、静かに答えた。

「クラウス、君はその心配をする必要も無い。君は血縁関係が無いはずなのに変化を起こし、力を伸ばしてきた。君もきっと、今の君が想像する以上の世界へと移行していくことになる。そうでなければ僕たちと今、一緒にこの場にいることの説明がつかない。きっと君は特異な存在なんだよ」

 彼の瞳にはあの美しい光が煌めき、凛とした強さを放っていた。

 血縁関係のない僕にも確かに変化は訪れていた。そして変化を好意的に受け止めようと僕なりに何度か向き合ってきた。そうであれば、後は僕の意思次第なのではないのか。僕にも可能性があるのだ。

 イェンスはなおもあたたかい眼差しを僕に向けており、その穏やかな表情は僕を信じ、僕が全くの孤独ではないことを教えているようであった。いったい彼はどこまで広く優しい心を持っているというのか。

「彼の言うとおりだ。クラウス、君は奇跡の存在だ。この先も君ならきっと私たちに奇跡を見せてくれると思っている」

 ユリウスもまた、瞳に美しい光を宿したまま僕を見つめていた。

「二人とも本当にありがとう。確かに僕はなぜか変化を起こしてきました。だけどあなたたちとは経緯が異なるから、先が読めない不安が拭いきれないのは確かなんです。一方で、自分の可能性を信じて前に進みたい気持ちも確かにあります。気持ちというよりは願望だけど……」

 僕はいったん深呼吸すると、僕の奥底にある気持ちを包み隠さずに伝えることにした。

「やはり一緒に見たい。まだ見ぬ素晴らしい世界を、想像を超えた不思議な世界を。あなたたちとともにこの目で見て、人間としてではなく、一個の存在として味わい、さらにその先の高みにも昇っていきたいんです」

「その調子だ。強い意志が何より重要だ。意志があれば道はおのずと開くと私は信じている。クラウス、君が今言った『高み』に私たちが辿り着けることは決して夢想ではない」

 ユリウスはそう言うと手を差し出してきたので、僕はその手を力強く握って返した。そこにイェンスが彼の手をさらに覆いかぶせたので、僕は感謝と信頼の気持ちをもって彼らと力強く視線を交わした。三人の表情に強い決意が表れているのがわかると、ユリウスが力強く微笑み、高らかに声を上げた。

「私たちは固い友情と絆で結ばれている。萌した新しい力が私たちにより良い結果をもたらすと信じて、ともに昇り上がろう!」

 イェンスと僕は彼の力強い宣誓に歓声を上げて応えた。世界中でたった三人にしか通用しない誓いを立てることさえ、僕には心強かった。

 その後も僕たちはとめどなく話し続けた。イェンスは彼の生い立ちやあの過去の話題にも言及し、僕に話した内容をそのままユリウスにも説明していった。ユリウスは一通りの話を聞き終えるとイェンスを優しく見つめ、立ち上がって彼を抱き寄せてからおでこにキスを贈った。その行為に感涙したのか、イェンスがじっとユリウスを見つめる。緑色の瞳と紫色の瞳が交差して少しすると、ユリウスが思いがけないことを語り始めた。

「君の経験に私も心を寄り添おう。私も似たような経験をしてきた。私の外見だけで私に言い寄る女性に対してうんざりもしたし、自分への奢りを捨てて感謝の気持ちを持って対応しようとしたこともあった。しかし、結局は全て断ってきた。私たちはきっと人間の女性と恋に落ちることは難しいだろう。根拠は君たちが勘付いているとおり、見ている視点が異なるのと、私たちが何もかも先に理解してしまうことで、喜びと安らぎを見出せないことに気付いてしまったからだ。だが、異種族の女性を対象にするとなると、今度は中途半端な存在であるがゆえ、魅力も能力も決定的に欠けている存在となってしまう。そのことがなおいっそう孤独と悲哀と絶望を感じさせるのだが、それでも君が願うのであれば、異種族に憧れ、恋焦がれる経験をしてみるのもいいだろう」

 僕はその言葉に感ずるものがあった。それはイェンスも同様であったらしく、先に彼が口を開いてユリウスに尋ねた。

「立ち入ったことをお聞きしますが、もしかしてあなたは異種族の女性に恋した経験があるのですか?」

 イェンスがやや興奮していたのは明らかであった。それに対してユリウスが思いがけず目を丸くしてはにかんだので、驚きとともに彼を見つめる。ユリウスは一呼吸置くと、ややためらいがちに答えた。

「こういった話を他人としたことが無いので照れるのだが、正直に話そう。私は妖精の中でも人間の背格好に似た種族の女性に、今でも心を寄せている」

 その言葉を聞いた僕たちが思わず身を乗り出したので、さらにユリウスが照れ笑いを浮かべて僕たちを見た。彼は咳払いをしてから深呼吸をすると懐かしそうに遠くを見つめ、優しい口調で話し始めた。

「彼女はウィスカという名前で、初めて会ったのは父と初めて会ったその日だった。彼女は魔力を高める方法を探るため、比較的に接触しやすいドラゴンである父を、つてを頼って訪れていたらしかった。彼女は圧倒的な美しさと叡智を持って私を快く迎え、人間の要素が強い私に対しても敬意を払って接してくれた。そのことが非常に嬉しかった私は、すぐに心を奪われた。まだ青臭い年頃だったにもかかわらず、ませていたのだ。彼女と話せた時間は短かったのだが、私はどうしても彼女が忘れられず、十七歳の時に父を訪ねるついで、彼女に再度会いに行くことにした。父とは無事再会を果たしたのだが、彼女はとうにいなかった。父は私の中に浅ましい欲望が渦巻いているのを見抜き、忠告をくれた。『ウィスカは彼女の住む妖精の村へと帰って行った。会うには会えるだろうが、お前が苦しむだけだ。私の息子なら、私の言葉の意味がわかるはずだ。彼女の幸せを願うことだ』。……私は父が改めて『息子』と言ってくれたことが嬉しかった。『私』という中途半端な存在を認めてもらった、という気持ちが強くなったのだ。しかし、一方で父の言葉も充分理解していた。ウィスカと私とでは何もかもが異なりすぎていた。人間に思いを寄せるネズミといったところだろうか。それでも若かった私は、もう一度彼女に会ってみたかった。すると私の心の中をあらゆる見地から察知したのか、父はとうとう彼女の居場所を知らせ、先んじて彼女に私が訪ねることを伝えておくと言ってくれた。父は幾つかの忠告と助言を私に残すと姿を消したので、私はすぐさま彼女が住む場所を目指して動き始めた」

 ユリウスのほほがはつらつとした桃色を差すと、五感を解放せずとも青年の美しさを輝かせていった。しかし、僕は彼の話に気になるところがあったので、彼が紅茶を口にした時、話の流れを遮らないよう願いつつもおずおずと尋ねた。

「ユリウス、お話を再開する前にお尋ねしたいのですが、ドラゴンである父親といったいどこでお会いしていたのですか? ドラゴンの生息地であるウユリノミカはかなり北にあり、人が入ることは難しいと聞いています」

 それを聞いたユリウスは微笑みを浮かべ、優しい口調で答えた。

「君が尋ねるのはもっともだ、クラウス。父は最初に会った時から、特別管理区域に比較的近く、軍の監視からぎりぎり外れていて目立たない場所を指定してきていた。人間社会からそこに行くには、当時も今も数時間歩いて目指すしかない。今となっては私の経験もあり、そこからの侵入は禁止にしてあるがね。当時はその場所に辿り着くと、父が察知してウユリノミカから魔法を用いて移動し、会うことができていたのだ。父と待ち合わせた場所とウィスカが住む場所は、そこから五十キロメートルほど離れたルトサオツィが暮らすエルフの村の、さらに奥にある高い山にあった。彼女に会いに行く途中、私が初めてルトサオツィに会ったのもこの時だ。彼は私を見るなり、すぐに私の父親がドラゴンであることを見抜き、しかもそのドラゴンが以前、彼が魔力を高めるにあたって教えを請うたドラゴンであったことにも気が付いた。彼は驚きながらも息子である私に恩返しを兼ねて近道を教え、さらには大きくて賢い馬をも用意してくれた。私が彼に何度もお礼を言ってから山を目指すと、妖精の村の外れに人影が見えた。ウィスカだった。父からの言伝を受け、私を出迎えてくれたのだ。私は久しぶりの再会に対する感激と、そのあまりの美しさに舞い上がり、彼女に恭しく挨拶をしながらも高鳴る鼓動を感じずにはいられなかった。彼女は私の下賤な感情を優しく受け止め、妖精の村の内部へと招き入れてくれた」

 ユリウスの瞳がことさら色を増し、煌めきを放っていく。

「彼女は魔力が無い私を憐れむこともなく、私が行ける範囲で村のあちこちへ案内してくれた。彼女の優しさが果たして私に対するものなのか、父に対する恩義から来るものなのか、すぐに疑問が湧き上がったのだが、彼女が私に対して美しい微笑みを向けると私はすっかりのぼせあがった。多感な年齢で、今まで感じたこともなかった感情に、すっかり取りつかれてしまっていたのでね。私の心は彼女に対する淡い期待と、濃い不安との狭間で揺れ動いていた。それでも彼女の視線を欲した私は、彼女の知性からすれば底の浅い話をし、風に乗って時折運ばれる甘い花のような香りにキスをせずにはいられなかった。頭の片隅では、私のような存在が彼女を惹きつけるわけがないこと、よしんば彼女が私に興味を抱いたとしても、薄い中身しか持っていない私をすぐに見限るだろうということも理解していた。しかし、それすらもウィスカは見抜いていたのか、私と優しく会話を続け、笑みを絶やさず側にいてくれた。それは私が彼女に対して特別な思いを抱かせるには充分すぎるほどの行為だった。彼女が人間の世界に来ることはもちろん無かったのだが、私が今後も彼女を訪ねたいと申し出ると彼女は快諾してくれた。彼女がいったい、どのような考えでそうしてくれたのか図りかねたのだが、私は必ずまた戻って来ることを約束した。しかし、次に会えるのはずいぶん先だった。そこで私は浅ましくも、せめて彼女に触れてから帰りたいという欲望を渦巻かせた。すると彼女は何かを察したのか私の前に来ると、優しく顔を撫で始めた。私は思わずその手を取ると、愛しさからほおずりをした。この行為で私の心境が彼女に露わになったことだろう。彼女の淡いピンク色の瞳をただ見つめていると、彼女は静かにこう言った。『あなたは私から多くを学ぶことでしょう。あなたの成長の糧となるのであれば、私は喜んであなたに会い、対話を重ねます』。――それでわかったのだ。彼女は私の卑しい欲望をはるか上の高い見地から理解し、私の成長を見込んで会うという心づもりでいたのだとね! 私は彼女に対する感謝と困惑、期待と不安とを抱えたまま別れた。その帰り道、ルトサオツィに会ってお礼を伝えたのだが、彼は私が何をしてきたのかを尋ねたりはしなかった。彼はただ『また会おう』とだけ言うと笑顔で私を見送った。その一年後、私はようやく彼女を訪ねる機会を得た。日時も待ち合わせ場所も指定したわけではなかったのだが、必ず会えると信じて以前父と待ち合わせた場所まで向かうと、人影が見えた。彼女だった。私が来ることを感じ取って、わざわざ出迎えに来てくれたのだ。そしてその場所は、私が自力で彼女に会いに行ける限界点だった。私は自分の無力さと無能さに苛立ちを感じずにはいられなかったのだが、それでも彼女に会えた喜びは大きかった。そこで私は……私は押さえきれないほどの情熱に任せ、たった三回会っただけで彼女に想いを伝えた」

 ふと気が付くと、イェンスがなおいっそう身を乗り出して聞いているのがわかった。彼にとって非常に興味をそそられる内容であることは、この僕にも容易に推測できた。大都会のど真ん中とは思えないほど静かな環境に囲まれた室内で、ユリウスの落ち着いた声だけが低く響きわたる。

「彼女は微笑みを絶やさず、ただ私をじっと見つめていた。私の告白に困惑している様子も無かった。そこで私が大胆にも彼女に近付いて手を伸ばすと、彼女は静かに口を開いてこう言った。『あなたが私にしたいと思っていることを私にしても構いません』。それを聞いた私は悲しみに打ちひしがれた。彼女にとって私は全く害の無い、小さな存在だったのだ。それでもなお、彼女の美しい眼差しは私の心を強く惹きつけていた。私は彼女を憂いを含んだ眼差しで見つめ返すと、思い切って抱き寄せたのだが、彼女は抵抗する素振りすら全く見せなかった。人間の男性など、魔法でいとも簡単に払いのけることができるのに、だ。張り裂けそうな気持ちを抑え、もう一度彼女の顔を覗き込むと、やはり彼女は美しく微笑んで私をただ見つめるだけだった。その瞬間、私は抗えない情動に駆られ、彼女に……彼女にキスをした。生まれて初めて心を込めて贈ったキスだった。彼女はそれすらも優しく受け入れ、私を抱きしめると、そのまま顔を私の胸にうずめた。私は彼女に対して、それまでに感じたことの無かった、強い喜びと淡い切なさとが入り混じった想いを感じたのだが、すぐさま能力と存在の圧倒的な差を理解して苦しみ、どうにもならない自分が悔しくて涙がこぼれた。父の言ったとおりだった。ウィスカはじっと私に身を委ねていたのだが、人間にしか過ぎない私がウィスカを喜ばせることは全くと言っていいほど無かった。私は無力な人間であることを、みじめな気持ちでただただ受け止めていた」

 ユリウスの表情が少し曇ったのを僕は見逃さなかった。

「私は空軍に正式に配属が決まっても、まとまった休みが取れると決まって彼女に会いに行った。当初は年に数回ほど訪ねていたのだが、そうこうしているうちに心境に変化が起こっていった。彼女に対する想いは会うたびにますます強くなっていったのだが、自分に対する不甲斐なさも強くなっていったのだ。私という存在は、全くもって彼女に相応しくない。そのことは最初から自覚していたのだが、とてつもない不安として私にまとわりつくようになっていた。そこで不安から逃れようと、何度か彼女にこう申し出た。『あなたを心から喜ばせたいので、この私があなたにできる最良のことを教えてください』。しかし、彼女はいつも決まって、『もう受け取っています』と答えるだけだった。そのことが意味することも私は無力感とともに理解していた。私が彼女に対してできることなど、たかが知れている。本来であれば、その存在すら知らされないような天上の存在が彼女なのだ。そこで私は三十歳の時に意を決すると、彼女に『もっと逞しく、もっと見識を深め、あなたを幸せにするために成長を遂げたいので、しばらくあなたに会わないことにしようと思う』と提案した。すると彼女は静かに微笑み、『あなたがそう決意したのであれば、私は尊重します。私はあなたが次に訪れるのを心待ちにしています』と返した。その時、私は強く決意したのだ。彼女が静かな微笑みを忘れ、再会の喜びで私を情熱的に出迎えてくれるような立派な男になるまで、彼女に会わないとね。私は高い目標を掲げ、必ず辿り着いて見せると強い意志を抱くと彼女を見つめた。そして力いっぱいに抱き寄せ、心を込めたキスを何度か彼女に贈った。この行為がいったい、どれほどまで彼女に響いているのかと思うと苦しかったのだが、彼女は変わらず静かに受け止めてくれていた。そして彼女の美しい顔を脳裏に焼き付けるように見つめ、匂いも声も肌の感触も五感に染み込ませ、全身に押し込めてから離れると、そのまま彼女を振り返ること無く別れを告げた。それ以来、私はウィスカと全く会っていない」

 ユリウスは悲しげに微笑んだ。

「では、ずいぶん長い間、彼女と会っていないのですね?」

 イェンスがさびしそうな表情で尋ねた。

「そのとおりだ。だが、長い間会っていない、というのは人間の視点だろう。長い寿命を持つ彼女からすれば、さほど時間は経っていないのかもしれない。一方、私はもう五十を超えてしまった。自分だけが老いていく中、若く美しいウィスカが今の私を相手にするとも思えない。そもそも彼女が私の教師役を買って出て、何かを学びを得ると信じて私の相手をしたにしか過ぎず、もともと彼女に恋人がいたかもしれないのだ。そうでなくとも彼女と会わなくなってから彼女に心を揺り動かす出会いがあり、未熟な私が想像する以上の幸せの中に彼女が今現在いる可能性もあるだろう。いわゆる失恋というものだ。いずれにせよ、彼女に恋人がいたり結婚したりしていれば、正直に言うと悲しいし、心に穴が空くようなわびしさを感じる。しかし、彼女が幸せなのであれば、それでもういいのではないのか。彼女が幸せであること自体が私にとっても幸せではないか。ふとそんな思いまでもが頭の中でよぎると、やはり父の言葉と行為に私は感謝と父なりの愛を感じずにはいられなかった。この経験が私にもたらした学びが非常に深かったからね。私は人間として経験を重ねていくうちに、いつの間にか父の言葉にもウィスカの言動にも、非常に共感できるようになっていた。ウィスカの言葉が、思っていた以上に思いやりにあふれていたことに気付けたのだ。おそらくは彼女も教師役を買って出たことで、彼女自身も広い見地から学びを得ることができたのだろう。それを思うとウィスカとの関係をさびしく感じることもあるのだが、私に誰かを想う喜びを充分もたらしている」

 ユリウスは言い終えると今度は朗らかな表情を見せた。僕はじっと彼の話を傾聴していたのだが、彼が魔力を持ち始めたかもしれないと言ったことが頭から離れず、気になって仕方が無かった。魔力が無かった以前は、確かに存在する立ち位置が全く異なっていたのであろう。しかし、彼に魔力が芽生えたとすれば、それまで交わることが無かった世界に接点ができ、希望の光がもたらされたのではないのか。

「ユリウス、僕はあえてあなたに質問したいのですが」

 僕は言葉を探りながら、真摯な眼差しで彼を見つめた。

「クラウス、君が言いたいことはわかっている。続けてくれ」

 彼は微笑むと手を添えて促した。その時、イェンスが僕を見ていることに気が付いたので、彼のほうに視線を向けた。すると彼は美しい緑色の瞳に言葉をはっきりと宿していた。どうやら彼も同じ思考に辿り着いたらしかった。僕はその緑色の瞳に見守られたまま、紫色の瞳をしっかりと捉えながら言った。

「ありがとうございます。あなたは……あなたは先ほど、魔力が芽生えたようだと僕たちにおっしゃいました。そのことは今までの思考と決別せざるを得ないほど非常に重大な意味を持っており、さらには今後、人生における可能性の幅を広げていくことになるはずです。その……、もしかしたら今後あなたが妖精の住む場所で、自己鍛錬を積むような経験ができるようになるのかもしれない。つまり僕がお尋ねしたいのは、魔力が芽生えたことによってウィスカと接点ができたため、そのことに一縷の望みをかけて彼女に会おうというお考えがあるのではないかということです」

 僕の率直な物言いに、彼は穏やかな表情を崩すことなく静かに答えた。

「その考えがあることは認めよう。だが、正直に言うと不安がある。年齢のこともあるが、魔力があるのと無いとでは存在している位置が全く異なるが、さりとて魔力があるとはいえ、ウィスカと私の間に大きな隔たりがあることに変わりはないのだ。ネズミが二足歩行を始めたところで、一人の人間と特別な親密状態になることはまず無いだろう。ウィスカへの想いは、常に私の中の深いところで私に安らぎを与えている。今となっては彼女が幸せであり、喜びの中にいることを願うだけで、私も不思議と満たされるのだ。いずれにせよ、私が魔力をどこまで駆使できるようになるのか、そのことでドラゴンの血がどこまで私に力を与えるのか、全ては始まったばかりだ。彼女への想いはひとまず胸に留め、少しずつ高みへと昇って行くつもりだ」

 ユリウスの表情は清々しさに満ちており、彼の中に希望と信頼とを見出しているようであった。

「魔力が芽生えれば、お互いの存在する世界が近付く……」

 珍しくイェンスが噛みしめるように独り言をつぶやいた。彼にとってユリウスの話は、どれほどまでか影響が大きかったことであろう。僕は彼が以前告白した、心の奥底に秘めている願望を覚えていた。彼にとって異種族の女性は、ユリウス以上に手の届かない世界にいるのかもしれない。それでも彼の心境や境遇を慮ると、彼にも魔力が芽生え、そして彼の願望が実現するよう願わずにはいられなかった。

 ユリウスが紅茶を淹れ直すべく、いったんティーポットとカップを下げていく。その間も太陽の光が冷たい外の空気をやわらかく包み込んでいるのを見ながら、イェンスと対話を続けた。

「僕にも魔力が芽生えたら、少しはエルフに近付くのだろうか」

 イェンスがぼんやりとした表情でつぶやいた。

「僕はそうなると思っている。それに君はルトサオツィが認めたほど、今でもエルフに近いじゃないか。魔力が君に与えられたら、君はますます中途半端な存在から脱し、確固たる個の存在になるだろうさ」

 僕は彼の美しい横顔をじっと見つめながら言った。

「それでもどっちつかずには変わりないのだろうけど、ありがとう。魔力か、いったいどのような感覚なのだろう? それにしても、僕という存在が人間として生まれ育って、最終的にはどの存在に落ち着くのかと思うと興味深いな」

 彼はおもむろに顔を上げて言うと、僕を見つめてやわらかく微笑んだ。

「まるで第三者の観測者みたいだな」

 僕は僕自身の身にも起こるかもしれないことを脇に寄せ、彼にいたずらっぽく笑いかけた。

「君だってそうなるだろう。それにしても不思議だ。僕の人間としての経験や考え方に、未練が全く無いかというとそれも無い。人間として捉える世界は、それはそれで興味深いし、それなりに楽しみもある。そう思うと僕は――僕たちは贅沢な存在なのかもしれないな」

 イェンスはそう言うと両手を頭の後ろに組み、くつろいだ表情で天井を見上げた。

「イェンス、君の意見は素晴らしい。そうだな、私たちは贅沢な存在なのかもしれん」

 ユリウスが優しい笑顔であたためたカップに紅茶を注ぎながら言った。

 確かにイェンスの言うとおり、中途半端な存在でありながら、交わることの無い異種族の世界を垣間見ることができる僕たちは稀有で、『完全な個体』と比べてより複雑で味わい深い感情を得るのかもしれなかった。それが時には涙の味をしんみりと味わうのだとしても、決してそれだけということはないはずなのだ。

 ユリウスが淹れてくれた紅茶を口に含む。芳醇な香りが口の中で広がると、僕もまたくつろいだ気分でソファにもたれかかった。ほんのりとした幸福感が全身に広がり、そのささやかな喜びを心地良く受け止める。

 この喜びも、変化を起こしたからこそ、得られているのであろうか。

 つい半年ほど前まではおとぎ話の世界であったエルフや妖精、そしてドラゴンの存在までもが身近になり、僕の人生の重要な部分に深く関わるようになっていた。しかもそのつながりは薄くなるどころか、ますます濃くなるばかりである。

 僕はふと両親のことを思い出した。父も母も、僕が普通の人間としていつかは結婚して子供に恵まれ、平凡でありながらかけがえのない幸せに満ちた人生を慎ましく送るのだと信じている節があった。だが、どうやらそれはすでに平行して交わらない世界の出来事へと追いやられていた。そのことを両親が知ったら、いったいどれほどにか驚くことであろう。

 いや、嘆き悲しむかもしれない。彼らにとって僕が特別な力を身に付け、どんどん異種族に近付いていくよりも、人間として幸せな人生を送るほうがよっぽど好ましいに違いない。なぜなら兄が結婚して子供に恵まれた時、さんざん衝突してきたあの父でさえも喜んだからである。

 それを思うと、年始に帰省することが途端に億劫に感じられた。僕の年齢的に、僕の将来について両親が口を挟むことはまだ無いと思うのだが、いずれは案じて言う日がきっと来ることであろう。その時がもし来たら、果たして僕は自分自身の身に何が起こったのか、両親に包み隠さずに伝えられるのであろうか?

 ユリウスは誰にも言えない、と話していた。誰かに話してしまえば、ますます孤独と悲哀に襲われることを彼は確信していたのである。その意味も、僕にはますます強く理解できるようになっていた。特に出生に何の秘密も無い僕がすでに変化を起こし、能力を身に付けていることを僕の家族が知ったら、彼らは途方に暮れるかもしれなかった。いや、僕の能力を世の中に活かすべく、人道的な貢献を強く勧めてくる可能性も無かったか。

 だが、当の僕にその気概は微塵も無かった。ブローカーの仕事に誇りとやりがいを感じているというよりは、能力を他人にひけらかすことに対して非常に強い抵抗感があり、そもそも目立ちたくないという欲求が根本にあった。そのような今の僕にとって、最良と思える今後の在り方とはどういったものなのか。

 僕はそのことで少しばかり思考を練ったのだが、やはり簡単に答えが導き出せるほど単純なものではなかった。ただ、はっきりと感じたのは、家族に打ち明けるかどうかではなく、変化や新しい視点に対してさらに理解を深めていくこと、とりわけイェンスとユリウスとともにそのことで対話する機会を頻繁につくることが最も重要なことのように思われた。それは僕が今まさに体験している、一連の対話のことであった。

「僕たちは確かに贅沢な存在だな。でも、僕の両親のことを考えたら、やはり変化のことは家族にも言えない。取り乱すだろうし、仮に受け入れてくれたとしても、見ている世界が異なるから全てを理解してくれるとは思えない。ユリウス、再び立ち入ったことをお尋ねしたいのですが、あなたはご自身の母親にどう接してきたのですか?」

 僕は思い切って繊細な質問をユリウスに投げた。彼は穏やかな表情のまま僕を見つめ返すと、やはり静かに答えた。

「いい質問だ。母親に対して私を産み育ててくれた恩と感謝を忘れたことは無いのだが、実を言うと母にとって私は疎ましい存在であり、彼女の人生をより豊かにするための手段でしか無かった。もちろん、最初からそうだったわけではない。母は普通の人間と異なる私を最初は受け入れようとしていたし、母なりに努力も工夫もしていた。だが、私は勘が鋭く、そして今思えば控えればよかったのだろうが、そのことで気が付いたことをことあるごとに母に伝えてきた。それが積もりに積もって母の癪に障っていったのだろう、次第に母は私を気味悪がり、遠ざけるようになっていった。そして別の男に心を寄せるようになると、いよいよ私が邪魔な存在になったらしいのだ。それでも私は母に喜んでもらおうと、父から譲り受けた知力と記憶力とを存分に活かし、優秀な成績を維持するようになった。君たちと同じ特別コースだったことは、最初のうちは母に誇りを抱かせたし、褒められることも多かった。しかし、その状況も長くは続かず、母は次第に私を支配したがるようになった。母は私を、母の理想とする完璧な息子にしたがったのだ。しかし、それは私の全く望まない方向だった。私は母に対する感謝と強烈なストレスの狭間で、どうすべきなのか、何が最善なのかで結論が出せず、ずっと独りで悩んでいた。転機が訪れたのは父との出会いだった。父に会い、ゲーゼとも会って自分が何者であるのかを知ったことで、私の中で進むべき道筋が力強く照らし出されたのだ。ウィスカに対する淡い思いも心の拠り所となった。そういった出来事から、どうしても自分の望む世界を自分の意志で進みたかった私は、地方国クィヴャキイレの出身だったのだが、大学進学を機にアウリンコに移住することを決めたのだ。母が私の考えに反対せず、特別コースの生徒のみが許される、未成年者の単身アウリンコ移住に同意して署名してくれたのは、いずれ私が母のところに戻って恩を返すと考えていたからだろう。大学は知っているだろうが、イェンス、君の先輩に当たる国立中央アウリンコ校だ。移住後は実家を意図的に避けてきた。それでも修士課程を修了すると、それまで育ててくれた感謝の気持ちから母を卒業式に招待しようとしたのだが、母はアウリンコまで行くための手続きの煩わしさを理由にあっさりと断った。その後も父やウィスカに会いに行った帰りに母のところへ寄って顔を出すことも時折したのだが、母の期待があまりにも強く、また、継父が私の能力に興味を持ち、秘密を暴こうとしているのも耐えられなかった。そういったこともあり、私がますます実家との接触を避けていたところ、ある日突然母が亡くなったと知らされた。私は茫然として悲しみに包まれたのだが、立ち直りは思いのほか早かった。継父とはそのことをきっかけに、ほとんど連絡を取っていない。実を言えば、私が大元帥と大臣になったことも直接は知らせていないのだ。今でも連絡は入ってくるのだが、あまりいい内容ではないので、忙しさを理由に関りを避けている。そのことで後ろめたさも感じているがね。もちろん、いざという時は援助するつもりではいる」

 ユリウスは話している間中、少し険しい表情でいたのだが、一通り話し終えると美しい紫色の瞳をイェンスと僕に向けた。僕は彼の身の上話に、どことなくイェンスと似通った境遇があることを感じていた。身近な家族から疎まれ、孤独と苦悩を感じてきてなお自分自身を見失わないで自分を律するところなど、まさしく同じ境遇ではなかったか。

 僕がイェンスにそのことを控えめに伝えると彼は小さくうなずき、ユリウスを感慨深げに見ながら言った。

「ユリウス。あなたの話は全く持って僕の心に響き、身にしみました。あなたが経験したことに、僕は心から寄り添いたいと考えております。お母様のことも、亡くなってしまった時はかなりおつらかったことでしょう。身近にいた、たった一人の肉親ですから。それでもあなたが抱いている複雑な感情を、僕はそれなりに推察できているつもりです。家族からも疎ましく思われることは、本当に孤独です。ですから、このような話を共有できただけでも、僕にとっては大いなる励みとなりました。僕は年始に久しぶりに家族に会うつもりでいますが、その再会は先ほどの話のとおり、決して心地良いものではありません。しかしながら、僕が進みたいと願っている未来のためにも、前向きな気持ちで彼らに会うつもりです」

 イェンスは言い終えると、はにかんだ様子で僕を見た。

「イェンス、君の場合はご家族が君の特徴を把握している分、事情がより複雑だと思っている。君がただただ心地良くいられるよう願うばかりだ。クラウス、君もいつかご家族と正面からこの問題に向き合うことになる。その時が来たら力になろう。いずれにせよ、私が取ってきた行為が最善とは限らない。君たちがご家族とより良い関係になれるよう、心から願っている」

 ユリウスは澄んだ声でそう言ったのだが、時計に目をやると声を曇らせて続けた。

「残念だがそろそろ時間だ。シモとホレーショを呼ぼう」

 彼はおもむろに電話で彼らと連絡を取り始めた。そして親しみのある口調で電話を終わらせると、立ち上がって僕たちのそばに歩み寄り、イェンスと僕を交互に力強く抱きしめた。

「今日は来てくれて本当にありがとう。君たちと話せて良かった。私がどれほど君たちに感謝をしているか計り知れない」

 彼はそう言うと美しい瞳をにじませ、優しい笑顔を向けた。

「感謝しても感謝し足りないのは僕たちのほうです」

 僕は彼のあたたかい眼差しに心を込めて言葉を返した。

「ユリウス、またあなたとお会いして話せる機会を心待ちにしています」

 イェンスも敬愛の念を声色に表すと、幾度となく感謝の言葉を彼に贈った。

「私も同じだ。必ず時間は作る。さあ、間もなく彼らが玄関前に到着する。そこまで送ろう」

 ユリウスは紫色の瞳を輝かせながら僕たちに声をかけた。

 彼の後に続いて部屋を出る。通路は暖房が控えめであったため、肌寒く感じられた。しかし、戸外はもっと寒いのだ。

「シモにもホレーショにも、ご自身の秘密を話すつもりは無いのでしたね」

 イェンスが歩きながらユリウスに話しかけた。

「そのことなのだが、時折悩むのだ。彼らが私を形式上ではなく、本心から敬意を払ってくれていると感じることがある。そのことに心から感謝しているし、本当に嬉しくも思っている。だが、不用意に私の秘密を告白することによって、彼らの心情をひっかきまわす可能性が無いとも言い切れまい。私はウィスカに対して圧倒的な存在の差を感じ、自分を卑しく感じた経験をどうしても拭えないでいる。ルトサオツィが話していたとおり、種族が異なるからそもそも比べられないのだが、優秀な彼らが持たなくともよい劣等感や卑小さを感じてしまうかもしれないという懸念があるのだ。私の身の程知らずなうぬぼれで済めばよいが、稀に本当に優秀な人物が、私が些細な情報を拾ったり、長期記憶していることを目の当たりにした時に引け目を感じ、自己評価を低く見誤ってしまうのを幾度となく見てきた。その問題も難しいが、その視点があるおかげでウィスカの心情も慮ることができているのかもしれないね。いずれにせよ、平行している溝が埋まらないのは仕方が無いことだ。視点をいくら変えても溝は存在するのだから。だが、私は彼ら――シモとホレーショに心から感謝と好意を寄せている。彼らが本当に素晴らしいからだ。そのことはきちんと彼らに示していくつもりでいる。たとえ、それが溝をまたいでいるとしてもだ」

 彼はそう言いながら玄関のドアを大きく開けた。すると冴えわたった冬空の下で、やはりシモとホレーショが僕たちを送るためにじっと待機していた。それは間違いなくユリウスの指示に応えるためなのだが、献身的な彼らの姿に僕は胸がいっぱいになり、彼らに対して深い感謝と敬愛の気持ちが湧き上がった。

 彼らと僕たちとでは立ち位置が異なる。それは人間社会で暮らすという観点からすると、確かに重大な要素であった。しかし、僕たちがまたいでいる溝の深さと幅が、いったいどれほどだというのか。

 ユリウスが彼らに声をかけると、彼らは相変わらず真摯な態度で仕えた。そして僕たちを見るなり目礼を寄越したので、僕も丁重に目礼を返してその様子を見守る。その時、イェンスが僕の肩に手を置き、顔を近付けてささやいてきた。

 「彼らと僕たちの間の溝はまたぐことはできても、お互い元の位置にしか戻れないのだろうね」

 彼の息遣いを肌で感じながら僕は小声で同意した。

 「そうだろうな。お互いの位置を入れ替えても、やはり居心地が悪いだけだろうね。だけど、ユリウスの考え方は参考になったよ。ユリウスはおそらく、僕が思っている以上に複雑な心境なんだろうな。シモとホレーショに対する態度と、ウィスカに対する態度が発端は同じところから来ているのだから」

 「クラウス、やはり君も同じことを考えていたのだな。嬉しいよ。ああ、でも彼らを見ていると溝のことは杞憂かもしれない。あの美しい眼差しは誇りと信頼と敬愛とで満ちている。そのことはユリウスが一番理解しているだろう」

 ほどなくユリウスが手招いたので、僕たちは近くに駆け寄った。そして互いに年末の挨拶を交わし、次の再会を心待ちにしながら抱擁し合う。いよいよ僕たちが車に乗り込むと、ユリウスは長居することなく家の中へと戻って行った。

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