第12話

 火曜日を迎えた。雪が降っても積もることは無く、歩きやすい足元に感謝しながら出社する。僕たちの仕事はすこぶる順調に進み、事務所全体の引越しの作業も仕事の合間を縫ってどんどん進められた。水曜日も順調のうちに仕事が終わり、いよいよノルドゥルフ社と一緒にアウリンコを訪問する木曜日を明日に迎える。イェンスはとっくに吹っ切れたらしく、彼の姉であるゲアトルーヅと会うことも落ち着いて受け入れているようであった。打ち合わせに必要な重要書類を丁寧に鞄に入れ、ギオルギとムラトに声をかけてから事務所の車を借りて退社する。外は風が強かったため、今日だけでも車で帰れるのは幸いであった。

 イェンスの運転で、彼が住むアパートからほど近い路地裏の駐車場に車を停める。ここの駐車場の管理人がムラトの知り合いで、格安の料金で利用できることになっていた。その管理人にお礼を伝え、駐車場を後にする。僕たちは近くのスーパーで夕飯を買い、イェンスの部屋で一緒に夕食を取った。明日は僕が住むアパートの入り口前まで、彼が車で迎えに来る予定である。食事を終えて少し雑談を交わすと、僕たちは明日に備えて早々に別れた。

 その朝を迎えた。暖房をつけるより先に、カーテンを開けて天候を確認する。外は穏やかに晴れており、道路も一見すると凍結していないように見えた。今日はノルドゥルフ社に立ち寄ってからハンスたちと一緒にアウリンコへ行って産業総括省に赴き、さらに軍の水処理施設へと向かう予定であった。全てを終えてドーオニツの事務所へと戻って来るのは、夕方の五時頃となるはずである。身支度を整え、朝食も済ませて待機していると、イェンスからアパートを出たと連絡が入った。僕はコートを羽織ってマフラーをしっかり首元に巻き付けると、アパートの前でイェンスが来るのを待った。

 晴れたことで冷え込みは厳しかったのだが、雪も風も無く、凛とした空気だけが冬の寒さを物語っていた。すぐにイェンスが運転する車が到着したので、早速車内へと乗り込む。すると政府機関を訪問するからなのか、彼の服装がかなり整っており、上質の生地でできたスーツを身にまとっている彼は非常に立派で魅力的に見えた。

「イェンス、見違えたよ。いや、君はもともと非常に整った顔立ちで魅力があったけど、そのスーツは君の良さをさらに引き立てている」

 僕は車を走らせたイェンスに感嘆した口調で言った。彼は少し照れた様子でお礼の言葉を返したのだが、珍しくため息をつき、それから控えめな口調で付け加えた。

「姉に会うからね。この間ノルドゥルフ社を訪れた時のスーツは、値段のわりに品質もデザインも良くて気に入っていたのだけど、姉は中途半端を毛嫌いしているから、政府機関を訪れる服装に向かないとおそらく指摘をするだろう。だから、面倒の種が増えないように自衛しているんだ」

「それは君のお姉さんが、君の家柄であるグルンドヴィ家の長男として恥じぬ格好をしろという意味なんだね」

 僕は彼の言葉の裏を推測して言った。イェンスは前方を見ながら苦笑いを交えて答えた。

「そのとおりだ。本当かどうかは知らないが、僕の家柄はアウリンコでも名が知れ渡っているらしい。そこの長男がだらしない格好でいるのは、普段から僕が自由気ままに暮らしていることを快く思っていない姉からすれば、やはり一家の名誉と誇りのために必ず指摘したいだろうからね」

 彼の口調は明るかったのだが、僕は彼が感じている重い雰囲気を感じ取っていた。

 イェンスが家督相続を拒み、自由気ままに暮らしていることを彼の姉ゲアトルーヅがことさら不快に思っている話は、以前も彼から聞いていた。それでもゲアトルーヅはイェンスと彼らの両親とが家督の件でもめた際、彼の弟に家督相続をさせることでひとまず彼らの両親をなだめたようである。しかし、そのことでイェンスが最後まで主張を曲げず、少しも折れなかったことが余計に彼女の反感を買ったらしかった。

 僕はそのことでふと疑問が湧き上がったので、気分を害さなければ良いのだけど、と前置きしてから彼に尋ねた。

「君が家督相続を放棄したのは、ひょっとしてエルフの特徴が現れているから? いや、この聞き方はわかりづらいかもしれない」

 僕がもう少し平易で丁寧な表現が無いかと模索していると、イェンスが落ち着いた口調で答えた。

「君が言わんとしていることはわかる。君も同じことを不安として捉えているのか、それとも全く気にしていないのかは、置かれている状況次第だということも僕たちは共有しているだろう。僕の家族は僕が持つエルフの特徴を、外見と少しだけ秀でた記憶力だけだと考えているし、僕も詳しく教えるつもりは無い」

 僕には彼の言葉が率直に尋ねて構わないと言っているように聞こえたので、踏み込んで尋ねてみることにした。しかし、次の瞬間、僕の中に今までにない思考が落とされた。その生々しい内容に僕は愕然とし、吐き出すように叫んだ。

「君が持つ不安は僕が持つ不安だ。今ようやくわかったんだ! 君が以前、女性との恋愛で繊細だと話していた意味が……! 僕たちは異種族の能力を有している。異種族と人間との間に産まれた男子は異種族の能力を受け継ぐが、子孫を残すことは繁殖能力が無いからできない。ひょっとして僕たちもそうかもしれない、という意味か?」

「クラウス。そのとおりなんだ」

 彼の口調は静かでどこか物悲しく、それでも穏やかさが残っていた。

「だが、実のところはわからない。僕たちは直接の血縁関係では無いからね。ひょっとしたら普通の人間の男性と、細胞と組織が異なっているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。僕は経験から『行為』ができることはわかっているけど、いずれにせよ今や僕たちは普通の人間とかなり異なってしまった。僕たちが子孫を残せるかどうかは、遺伝子検査や身体を精密検査すれば判然とするのか、それとも実際に試してみないとわからないことなのか……。だけど僕はどれもしたくないんだ。両親は僕に家を継がせたがっていたが、そうなればこの問題に必ず直面する。仮に子供ができたとして、僕の子供に僕のこの特徴が万一受け継がれることがあったら、僕はその子の人生を考えて胸が張り裂けそうになる。受け継がれないにしても、僕たちがすでに変化を起こしていることで寿命も見た目の若さも普通の人間と異なっている可能性があるから、子供が成長するにつれて親子の見た目に矛盾が生じ、僕たちの秘密がばれてしまう懸念も拭えないんだ。それが世間に露呈したら、さらなる悲劇と禍根を家族間にもたらしかねない」

「イェンス、君の心情は非常にわかる。君がそういった観点からも、実に孤独な闘いを長年してきたということもわかった。僕が同じ立場なら、君と同じようにしたさ。いや、そんな簡単に言い切れる問題でもない。今になって急に思考が雪崩のように押し寄せてくる……。子孫を残すことなんて僕たちが頑なに選ばなければ、最終的には向き合わなくて済む問題だ。問題は僕たちの存在価値だ。ただ存在するだけで、こうも問題を生み続けるとは! 君もユリウスも、この『種』としての絶望的な否定感と自己嫌悪感を味わっていたと言うのか?」

 僕はとうとう混乱し、衝撃から立ち直れなくなってしまっていた。無遠慮に放った自分自身の痛烈な言葉と脆弱な思考の中で窒息していく。僕たちという生命は全くもって中途半端であり、孤立しているのだ!

 変化に対してようやく感じるようになった情熱や、自己と向き合うという目標を完遂させる意志までもがあっという間に崩れていく。中途半端な僕のことだ、きっと土台と骨組みが枯草と枯れ枝を組み合わせただけのものであったに違いない。そう考えると、人間という固有種でさえも僕からははるか高い位置に存在しており、完全になることの無い自己の卑小さにますます失意を覚えて落胆せざるを得なかった。

 僕はただ存在するだけで、全くの不完全なのだ!

 仮にこの能力を利用して僕が社会や周囲の人たちに貢献しようとするのであれば、普通の人間との間にどうしても生じてしまうズレを上手に調整し、常に相手の目線に立って行動しなくてはならなかった。僕にしか理解できない世界の価値観をそれ以外の人に押し付けてしまえば、誰にとっても不幸な結果しか生まないことであろう。さらに僕が具体的な貢献を果たすためには、五感をこの日常生活の中である程度解放する必要もあった。そこに言いようもない不安と抵抗を感じてまたしても躓く。それは僕がまだ変化の途中にあり、感覚を掴み切れていないというのが理由なのだが、心の奥底にはこの能力が他人から気味悪がられる可能性に対する恐怖心もあった。

 イェンスが指摘したジレンマが、僕を圧し潰すかのように覆いかぶさる。僕がかなり綿密に考えて対処していようといまいと、やはり問題をばら撒き続けながら存在するだけにしか過ぎないではないか。

 僕を絶望と孤独という名の魔物が捉え、今まさに襲いかかっていた。しかし、僕は抗えなかった。嘲笑う魔物に翻弄されるがまま、自己否定と虚無感と悲壮感の泥沼へと転がり落ちていく。

 なぜ自滅するような事態を、この状況下で自ら招いてしまったのか。そもそもどうして、もっと早くにそのことに気が付けなかったのか。不器用にもほどがあるし、鈍重すぎて滑稽という言葉すら僕には全く軽すぎるではないか!

「クラウス、僕の目を見るんだ。君は今も僕の目に光を感じてくれているだろうか?」

 不意に耳に届いたイェンスの言葉で我に返る。僕はおもむろに顔を上げて彼の瞳を見つめた。車はいつの間にか路肩に停まっていた。

 その彼の美しい瞳には清廉な光が放たれており、どこか慈愛に満ちているようにも見えた。そのあたたかい眼差しに感激して目頭が熱くなり、こらえきれずに涙があふれ出す。長念たった一人で辛酸を嘗めてきた彼が、魔物の圧倒的な攻撃に手も足も出ない僕を救い出そうとしているのである。そうなると、僕はとことん弱い自分が情けなくなり、恥じるしかなかった。

「そうだ、クラウス。僕の目を見てくれてありがとう。君も僕も中途半端な存在だ。しかし、僕は君の美しさと強さと優しさとを知っている。君が愛にあふれた存在であることもね。かつて君は同じようなことを僕に言ってくれて、僕を絶望から自己肯定と自己愛の世界へと導いてくれた。僕たちがこの宇宙の大切な構成要素だと言ったのは君だ。僕は決して君を一人きりにはさせない。君が僕にそうしてくれているようにね」

 イェンスはそう言うと優しく微笑み、僕の頭を引きよせておでこに優しくキスをした。

 他の人となら鬱陶しく感じたり、気恥かしいことでも、イェンスにおいては全くもって別格であった。彼の優しさと心強さとが全身を駆け巡る。僕は目を閉じると、彼の言葉を繰り返し頭の中でつぶやいた。

 僕は決して一人では無い。

 それにあわせて深呼吸を何度か繰り返す。すると僕の心が激しい動揺からひとまず解放されていくのを感じた。その間もイェンスは僕の手を優しく取ったままであった。彼のあたたかさを肌からも感じ取るうちに、さらに呼吸が整えられていく。

 心から信頼し、親愛を抱いている友人が今まさしく、僕に寄り添ってくれている。

 否定的な思考を振り払ってそのことだけに思考を向けていくうちに、僕の心は少しの憂いを残すまでに落ち着きを取り戻していった。それは今までの僕の不器用さにしてみれば、信じられないぐらいの奇跡であった。

 僕はイェンスの瞳にある、あの光を真っ直ぐに見つめながら言った。

「イェンス、ありがとう。これから客先に向かうというのに、動揺してしまった僕にわざわざ時間まで割いてくれて、本当に感謝している。わかっている、僕はもっと心を強く持たないといけない。もっと複雑な事情を抱えている君のほうがずっと冷静でいたんだ。僕は自分の弱さを認識するだけでなく、具体的に変えていかなくては。さあ、行こう。君への感謝はまだまだし足りないけど、これ以上足を引っ張ることはしたくない。訪問が遅れたら一大事どころの話じゃ済まされない」

「気にするな。時間なら大丈夫だ。もともと余裕をもたせていたし、路面が凍結していないからノルドゥルフ社に予想より早く着くのは確実だ。きっとあの会話をするのに丁度いい頃合いだったのだろう。クラウス、僕は君に話しておきたいことがある。それは僕の根底に関わるもので、この話題にも関係することなのだが、おそらく今日姉に会うことではっきりすると思う。そのことは今晩、アパートに戻ってから話そう。それと君は充分強いさ。君は何も心配しなくていいんだ」

 最後の台詞に僕がどれほど救われたか計り知れなかった。僕は感激から言葉に詰まったものの、それでも彼の言葉を何度も全身に行き渡るように噛みしめた。それから再度深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。僕の隣でイェンスが僕を丸ごと受け止めてくれていることは、何より言いようもない安心感を僕に与えていた。

「イェンス、本当にありがとう。今晩、君の話を必ず聞く」

 僕が力強く伝えた言葉に彼は優しく微笑み、「わかった」とだけ言って再び車を走らせた。

 僕は彼が今晩話そうとしている内容にうすうす勘付いていた。おそらくは彼が以前告白した、女性との経験のことであろう。彼はそのことでずいぶん前から、繊細かつ重大な問題点にも気が付いていた。『普通の人間には理解されない孤独』が生涯僕たちに絡みつくことを理解した今、彼の告白が何であれ、僕は彼の全てを受け止める心づもりであった。彼に対して今この瞬間も感じている感謝と親愛の気持ちを、僕が考えうる最高かつ最良の方法で表現したいと考えていたのである。

 見たことのある風景が颯爽と後ろへ流れていく中、僕は先ほどのやり取りでイェンスがいかに美しくて力強く、聡明であったかを感慨深く捉え直していた。彼は僕の苦悩と不安をあっという間に解きほぐすと、僕の心をやわらかく照らしてあたたかい光で包み込んだ。そればかりではなく、僕に偽りのない友情を優しさを添えて贈ってくれた。

 そのことは何度思い返してもやはり嬉しかったので、僕は運転しているイェンスをそっと見つめた。

「君の美しい瞳がずっと僕を見ているのかと思うと、慣れていたはずなのに緊張する」

 彼は前を向いていたのだが、僕の視線に気が付いたらしく、笑うように言った。

「ごめん、運転の邪魔をしたようだ」

 今さらながら気恥ずかしさを感じ、視線を車窓の奥へと移す。ひょっとしたら、彼に不要な緊張感をもたらしてしまったのではないか。

「すまない。見ていて構わない、と言ったら変に聞こえるだろうが、気にしなくていいんだ。クラウス、僕は君が持つ美しい何かにずっと前から心を動かされている。特にさっきのようなやり取りの後だと、君の輝きは直接瞳を見なくても感じられる。それに君が僕に言ってくれた数々の美しい珠玉の言葉が、今になって実感として湧いているんだ。きっと今の僕と同じような気持ちで言ってくれたのだろうから、本当に嬉しくて仕方がないよ」

 その言葉にこらえきれなくなって再び彼を見ると、彼ははにかんだ様子で運転していた。彼のそのはつらつとした表情に癒され、さらに心が落ち着いていく。先ほどまで猛威を振るっていた魔物は、それこそ彼の棲み処である絶望の沼の底へと沈んでいた。いや、あの魔物もその絶望の沼も、僕がもっと上手に変化を受け止めて成長することができたなら、完全に消えて無くなるのかもしれないのだ。その方法も思考も、今の僕が経験不足で知識が浅いから思い浮かばないだけで、変化を通じてさらに成長できれば導き出せる可能性も高まっていくに違いない。

 僕は淡い期待を強い意思とともに大事に胸にしまいこむと、興味深く窓の外を眺めた。道行く人々が気忙しく歩いているのは年の瀬だからであろうか。イェンスの言うとおり車は順調に進んでおり、約束の時間には余裕をもって到着できそうである。

 赤信号で停車した。その時、なぜか隣に停まった車が妙に気になった。そこでゆっくりと視線を運転席に向けると、驚いたことにオールが運転していた。僕は嬉しさから窓を下げて彼に手を振った。するとオールも僕たちに気が付き、すぐさま窓を下げて笑顔を見せた。

「二人揃って客先にでも行くのか?」

 オールが前方の信号を気に掛けながら話しかけてきた。

「そうなんだ。この先で荷主と合流した後、荷主の車でアウリンコまで行くんだ」

 僕は手短に答えた。

「そうか、しっかりいい仕事してきな。俺は今日、新人を対象としたトレーラーの運転技術と環境配慮に関する講習を、複数の物流会社から頼まれているんだ。そこを左折したらすぐだ」

 彼の口調はどこか誇らしげであった。

「オール、君なら適任者だと思う。それに講師だなんてかっこいいじゃないか」

 イェンスが奥から声をかける。信号はもう少しで青に変わろうとしていた。

「ありがとう。じゃあ、お前らも気をつけろよ。また後で飯に誘うから覚悟しとけ」

 オールはそう言うと車を走らせ始めた。僕たちの車が彼の車を追い越して遠ざかる中、彼の車が左折していくのをかすかに見届ける。彼がソフィアと順調であることは、彼の自信にあふれた態度と余裕のある表情から読み取っていた。彼は着実に輝かしい未来に向かって歩んでいるのであろう。

 車内がさらにさわやかな雰囲気に満たされたため、僕たちはずいぶんとくつろいでいた。イェンスも余裕ある表情で運転を楽しんでいる。やがて以前も利用した駐車場に到着すると、待ち合わせ時間を調整すべく、ゆったり歩いて向かうことにした。

 ノルドゥルフ社が入っている建物まであと少しのところで、突然男性から声を掛けられた。僕たちがその声に反応して振り返ると、ノルドゥルフ社のスーリャンが屈託のない笑顔を浮かべながら立っていた。

「おはようございます。確か今日でしたね、ハンスもフランツも行く準備を整えているのは社内で見かけました。私は別の用事で客先に向かっている最中です」

 彼は眼鏡を指で掛け直しながら、はきはきとした口調で話しかけてきた。そこでイェンスも僕も彼に負けないぐらいはきはきとした口調で挨拶を返す。しかし、彼は突如として真剣な表情を見せ、声を潜めた。

「そういえば、あなたたちが先週お帰りになった後、事務所の女性があなたたちの見た目のことでやや騒然としていました。ハンスがそのことで女性たちを注意していたようですが、もし今日も事務所内が少し騒がしく感じられたとしても、どうぞお気になさらないでください」

 彼の思いがけない言葉に僕たちは面食らった。女性の反応は間違いなく、イェンス宛であろう。あの短い訪問に僕たちが目立つ要素など無かったと思っていたのだが、いずれにせよ彼の言葉には思いやりがあふれていた。事前に状況を把握できるのであれば、それに越したことはないのである。

「ありがとうございます。おそらく何かの勘違いではないかと思うのですが、あたたかいお気遣いを頂いて嬉しく思います」

 イェンスはあの気品ある微笑みを漂わせていた。僕もまた、スーリャンの気遣いに感謝して言葉を返す。するとスーリャンが驚いたような笑顔を浮かべながら言った。

「なるほど、ドーオニツ人として振る舞いが落ち着いているからだけではなく、あなたたちが実に控えめで、洗練された人物だから社内で人を惹きつけたのだということがよくわかりました。今日の訪問はきっといいほうに向かうことでしょう。では、またお会いできることを願いつつ、そろそろ失礼します」

 スーリャンは颯爽と去っていった。僕は彼がさわやかで礼儀正しく、あたたかい人柄であることに感激しながら彼の後ろ姿を見送った。ふとイェンスを見ると、彼もどこか清々しい表情でスーリャンを見送っている。スーリャンの言うとおり、今日はいい方向へと流れていくのかもしれない。待ち構えている未来が何であれ、明るい展望に期待を寄せて僕たちは再び歩き始めた。

 時間に合わせてノルドゥルフ社の無人受付を訪ねると、その近くにたまたま居合わせた女性社員がわざわざ僕たちに声をかけてきた。

「いらっしゃいませ。お取次ぎいたしますので、御社名とお名前と、弊社の担当者名とをお知らせください」

 僕が彼女の申し出に感謝の言葉を添えながら控えめな口調で答えると、彼女は思わしげな目つきで僕たちを見つめ、「ただ今呼んで参りますので、この場でお待ちください」と言い残して事務所の中へと消えて行った。

 扉の向こうから女性たちの甲高い声が聞こえる。僕がイェンスを見ると彼は肩をすぼめ、「歓迎されることはありがたい」とつぶやいた。僕は「そうだね」と苦笑いして返したのだが、内心は気後れを感じていた。

 ほどなくフランツが事務所から出てきた。彼が「ヴィルヘルムを紹介するため、ひとまず応接室へとご案内します」と言ったので、彼の後について事務所の中へと入る。するとあまたの視線が僕たちを出迎えたため、僕はなるべく伏し目がちに視線の元に対して一礼し、極力フランツの後頭部だけを見て歩くことにした。その間にもひそひそと女性の話し声が耳に飛び込んでくる。おそらく視線も話し声もイェンスにだけ向けられているのであろうが、それを確かめる勇気も気概も僕には無かった。

 応接室に案内されて少しすると、ハンスがヴィルヘルムらしき男性を連れて入室してきた。ヴィルヘルムはややどっしりとした体格で、厳格そうな風貌であったのだが、僕たちを見るなり柔和な笑顔で手を差し伸べてきた。

「ようこそおいでくださいました。電話やメールでは何度かやり取りしていますが、お目にかかるのは初めてでしたな。本日はよろしくお願いいたします」

 ヴィルヘルムの物腰やわらかな態度に失礼のないよう、丁重に挨拶を返す。続けてイェンスが彼に挨拶を返した時、ヴィルヘルムが親しげな様子でイェンスに話しかけた。

「失礼を承知で立ち入ったことお尋ねしたいのですが、あなたはアウリンコでも名高い、あの名門グルンドヴィ家の方ですかな?」

 ヴィルヘルムはしげしげとイェンスを見つめていた。その言葉に驚いた様子でハンスとフランツがイェンスを見つめる。僕は思いがけない展開に一瞬不安を覚えたのだが、当のイェンスは落ち着いており、彼らに微笑みながら答えた。

「ええ、苗字だけに限って言えば、おっしゃるとおりです。しかし、名門と高く評価されるほどの特別な家柄だと思ったことはございません。そのような過分なる評価は、そもそもいろいろな方々のお力添えがあったからこそ、運良く与えられたのだと考えております。世界には到底足元にも及ばない、格式高い名門の一族や、長年にわたって社会に貢献してきた一族が数多く存在します。よって、今より評価が控えめであるほうが、むしろ適切だと思っているほどです。それでもわざわざお褒めの言葉をおかけくださったことに、一族を代表して心より感謝の言葉を申し上げます。もし、本日の訪問で不手際や無礼な点が目に付きましたら、せっかくの光栄なお言葉に恥じぬように改めますので、ささいな点でもぜひご指摘下さればと思います」

 彼はそう言うと、真摯かつ誠意ある表情でヴィルヘルムらを見た。僕は彼が実に名門の出身らしい立派な青年であることを、この立ち振る舞いが端的に表しているように思えてならなかった。

「なるほど、やはりさすがですな。あなたはご謙遜されているようだが、あなたのご実家が名門であることは周知の事実だ。いやはや、実に心強い。今日はいつも以上に堂々と産業総括省に伺えそうだ」

 ヴィルヘルムは感嘆した様子でそう言うと、戸口に向かって手を差し出した。

「早速ですが、アウリンコに向かいましょう。ああ、そうだ。フランツ、彼らの交通許可証をお渡しするように」

 フランツが交通許可証を手渡す。僕たちはしっかりと鞄の中にしまい込むと、ヴィルヘルムとハンスが退出したのに続いて応接室を後にした。

 事務所の中を再び通り抜ける。その時、近くにいた女性たちが僕たちの名前を口にして何かを話しているのが耳に飛び込んできた。ハンスが咳払いをして注意を促すと会話はぴたりと止んだのだが、イェンスと僕の間に気まずさと気恥ずかしさとが漂う。それでも僕たちは何事も気にかけていないように取り繕い、ただじっと前方を見据えながら事務所を出た。

 エレベーターホールに来るなり、それまで無言でいたハンスが僕たちに突然謝ってきた。

「嫌な気分にさせて申し訳ない。どうやら君たちの立派な容姿を、一部の女性たちが偉く気に入ったらしいのだ。注意をしておいたのだが、本当にお恥ずかしい」

「お気になさらないでください。僕たちの容姿をお褒め頂いたのは恐縮ですが、単なるブローカー業者が輸入者である御社とともに政府機関へ伺うことを珍しく思ったからこそ、お話をされていたのではないでしょうか。僕たちも光栄に感じるほど、確かにこういう機会は滅多にありません」

 僕はハンスがこれ以上気に病むことのないよう、イェンスを参考にしながら彼に話しかけた。それを聞いたハンスが胸を撫で下ろしたような表情で、「そうおっしゃって頂けるのであれば、こちらとしても有難い」と控えめな口調で言葉を返す。どうやら僕の作戦は成果を上げたらしく、その後は他愛もない会話をしながら五人でエレベーターに乗り込み、一階のエントランスにあるソファのところへと到着した。フランツが車を取りに行っている間、この建物の近くでスーリャンに会ったことを彼らに伝える。それを聞いたヴィルヘルムが朗らかな表情を見せた。

「彼は赴任してまだ一か月も経っていないのだが実に優秀で、ドーオニツの雰囲気にのまれることなくいい仕事をするのだ」

 その言葉を聞いてなぜか僕までもが嬉しくなり、こらえきれず笑顔になる。たとえ僕のことでなくとも、褒め言葉を耳にすることは実に心地の良いことであった。

 ほどなく、フランツが運転するミニバンが建物の玄関から少し離れた場所に横付けされる。ヴィルヘルムらに続いてイェンスも僕も車に向かったのだが、相変わらず吹き付けてくる冷たい風もさほど気にならなかった。

「橋での検問があるので、申し訳ないのだが一番後ろでも構いませんかね?」

「全然構いません」

 ハンスの言葉に快く了承し、イェンスと僕とで三列目に座る。ハンスが助手席に座り、ヴィルヘルムが二列目に一人で座ると、車は早速動き始めた。

「一時間近くかかるだろう。私たちのことは気にせず、ゆっくりくつろいでください」

 ヴィルヘルムが僕たちを見ながらやわらかい口調で言った。

「ありがとうございます。せっかくの貴重な体験ですから、この移動も有意義なものとしたく考えております」

 イェンスがそう答えると、フランツが前を向いたまま僕たちに話しかけた。

「暖房はそっちまで届いていますか?」

「はい、ちょうどよい暖かさです。ありがとうございます」

 僕の返答にハンスが「ドーオニツは本当に風が冷たいからな」とつぶやき、それを拾ったヴィルヘルムとの間で和やかに談笑が始まった。

 ハンスはノルドゥルフ社の本社がある地方国ツェイド出身で単身赴任らしく、この年末年始の十日間の休みを利用して家族の元に帰る予定らしかった。

「上の息子が乗馬を始めてね。この間、妻のSNSにその写真がアップされていたんだ」

 ハンスは時折僕と目を合わせながら、嬉しそうに語った。その優しい眼差しを追っていると、今度はフランツが語り出した。彼も同じようにツェイド出身なのだが、彼の恋人がドーオニツ人らしく、そのことで実家に帰るかどうかを思案しているようである。それを聞いたヴィルヘルムがやや呆れた口調でフランツに話しかけた。

「休みは間近なのにまだ悩んでいるのか。早くしないと飛行機のチケットが取れなくなるぞ」

「そうなんですけど……。実は彼女を両親に紹介したいんです。だけど、彼女がドーオニツ出身だから、この赴任を終えてツェイドに戻る日が来た時に僕と一緒に来てくれるよう、今は側にいるべきなのかどうか悩んでいるところなんだ」

 フランツの明るい口調と裏腹に、どこか重い事情が見え隠れする。

「それは難しい問題だな」

 ハンスが唸るようにフランツに言葉を返す。それを受けてフランツが運転しながら話し始めた。

「そうなんです。彼女はドーオニツが一番居心地がいいと言っている。暮らすには一番だってね。だけど、ツェイドにもツェイドの良さがある。ビールは美味しいし、何百年も前の歴史的価値のある建造物や街並みも残されている。傑出した音楽家たちが多いのも国の誇りだ。僕の故郷の町からは離れているけど、壮大な山々が連なる美しい風景もあるしね。ドーオニツに比べたら土臭いところもあるかもしれないけど、素晴らしいところなんだ。彼女も一目見たら、絶対気に入ると思うんだけどなあ」

 彼は恋人と故郷を天秤にかけたくないと考えているようであった。それはひょっとしたら相手の女性も同じなのかもしれない。

「なるようになるさ」

 ヴィルヘルムが落ち着いた口調でフランツに話しかけた。

「いい方向になってくれると嬉しいんですけどね」

 ため息交じりにフランツがつぶやく。イェンスも僕もどう反応したらいいのかわからず、車内が少し押し黙る。

「そういえば、本社のAIシステム開発課のエーミールとアニクが今度出張で来るらしいな」

 ヴィルヘルムがハンスに話しかけた。

「年が明けてから、ステファノとスーリャンと一緒にアウリンコにあるセキュリティ会社に行く予定らしい。巧妙化するコンピューターウイルスに、最近ようやく完成した新AIシステムが……」

 イェンスも僕もそっと視線を窓の外に向け、意図的に会話から注意を逸らした。少しの間、ノルドゥルフ社のあたりさわりのない業務について会話が続く。信号で止まった時に、フランツがハンスに話しかけた。

「エーミールが言ってましたよ。以前は名前のことで初対面の、特に年配の人から指摘を受けたそうなんですが、今はさすがに少なくなったから安堵しているって」

「今の若い連中はあまり興味ないだろうからな。『エーミール・シンクレール』って名前を聞いても無反応だ。まあ、お前もそうだったがな」

 イェンスと僕はその言葉聞くなり、驚いた顔で見つめ合った。僕たちにはツェイド出身で、存命ではないのだが好きな作家がいた。その作家の作品の一つに、その名前の男性が登場するのである。イェンスと僕はそのことを踏まえてハンスに話しかけた。するとハンスが非常に嬉しそうな表情で「さすがだな、君たちは読んでいたのか」と返したかと思うと、その本に対する感想を話し始めた。どうやら彼にとってもお気に入りの作家であったらしい。その作家の小説のことで、ハンスとヴィルヘルムとで話が盛り上がる。そこから車内の雰囲気がますますやわらかくなり、その作家が人間の内面を描いていたこともあって、話題は人生観へと移っていった。

 ハンスが「おこがましいのだが」と前置きすると、僕たちを見て力強く言った。

「ドーオニツ出身だとアウリンコ出身と同じように、全世界の交通機関がずいぶん安い料金で利用できると聞いている。居住権の無い私たちでさえ、地方国においてドーオニツ就労許可証を提示すれば割引を受ける例もあるのだから、居住権の威力はまさに絶大だろう。ドーオニツは思っていた以上に住みやすい。規則やら何やらあってツェイドのようにはいかないが、それでも快適さと安全さがある。君たちがこのままずっとドーオニツにいることはなんら問題もないが、まだ若いのだからその特権を利用してツェイドに限らずいろんな国に行って様々な文化に触れ、広い世界を体験したらいい。君たちはことさら可能性を秘めているように思えるのだ」

 それを聞いたヴィルヘルムが「そのとおりだ」とつぶやくと僕たちを見た。

 僕はハンスがイェンスと僕の中に可能性を見出していたことに驚いていた。それは少なからず、変化のおかげであろう。以前の僕なら、このような展開さえ迎えなかったはずなのだ。

「またしてもあたたかいお言葉で僕たちを励まして下さり、本当にありがとうございます」

 相変わらずイェンスの反応は素早く的確であった。彼は続けざまに「そうですね。子供の頃に地方国でぼんやりと体験したことと今とでは、感じる内容が大きく異なることでしょう。機会を見つけてぜひそのようにしたいと思います」と付け加えてハンスを見た。僕もハンスに感謝の言葉を伝えると、父がタキアの出身であったことから、タキアには幼少時から何度か訪れていることを続けて説明した。すると意外なことにハンスのみならず、ヴィルヘルムにフランツまでもがたいそう驚いた様子を見せた。

「タキアとはずいぶん遠いですな! しかもあのコウラッリネンに合格したとは、道理でご子息である君も優秀なはずだ」

 ハンスの言葉にヴィルヘルムが追従して続けた。

「タキアはドーオニツからだと海を越え、大陸もずっと超えた北東の端に浮かぶ島国でしたな。あそこ辺りまで行くと、ここともツェイドとも文化がずいぶん異なる。私は祖父母がツェイドから移住してきたのが始まりなのだが、それでもかなり苦労してきたらしい。ドーオニツは当時ですでに、生活の基盤から様々な宗教色がほとんど取り除かれ、ドーオニツ独特の統一ルールが形成されていたらしいからね。しかも君のお父さんは一人で来られたのだろう? さぞ、ご苦労されたに違いない」

「お気遣いいただき恐縮に存じます。元々僕の父方の祖父がマルクデンの出身で、父方の祖母もタキア生まれですが、もともとはマルクデンにルーツを持ちます。祖母はマルクデンにも住んでおりましたから、生活様式的にはここドーオニツと多少なりとも似通っていた要素もあったはずです。ご存知のとおり、ドーオニツの街並みや生活様式は、移民の多数派だったマルクデンを含む北パロウエとツェイドを含む中央パロウエ、そして西パロウエを基盤としています。しかしながら、ドーオニツで求められる考え方や行動はやはり他の地方国と多少異なりますから、父が移住した当初はなかなかなじめずに大変だったと話しておりました」

 僕は彼らの思いがけない反応にやや緊張してしまったのだが、彼らは一様に感心した表情でうなずき、笑顔を見せた。その反応を受けて、僕にあった移住当初の父に対する反発心が弱々しく横たわり、その代わりにどことなく誇らしい気持ちが不意に渦巻く。かつての僕であれば、不甲斐ない父が褒められるのを苦々しく受け止めていたはずなのだが、今は全くもって落ち着いていた。それは客先というのもあったからなのだが、僕はこの変化を好意的に捉えることにした。

 会話はさらに移ろい、イェンスの家柄の話になった。ヴィルヘルムとハンスとで、世間一般的に知られているグルンドヴィ家のことについてイェンスに尋ねていく。イェンスは言葉を慎重に選びながら彼らの質問に答えていたのだが、途中でさりげなく話題を変えてそのまま続けたため、彼の実家のことで深入りされることはなかった。

 車がアウリンコへと続く橋の袂まで進んできたため、交通許可証を手に持ちながら待ち構える。前方にはいくつもの検問所が広がっており、たくさんの車が並んでいる。政府関係者専用レーンは空いていて、車がどんどん検問を抜けて行くのだが、民間人が一般車両で外殻政府機関を訪問する場合は、先に管轄する政府機関に必要事項を記した通行届を提出し、受理された届出番号をゲートで受信機器に暗号化して送信する必要があった。その際に代表者が身分照合を受ける場合もあるのだが、そうでなくとも車のナンバーを認証機能のあるカメラで読み取り、監視員がその情報をコンピューター上で確認していた。それ以外の目的――例えば仕事や買い物など――でアウリンコへ行く場合は公共のバスまたはフェリーで行くか、事前に申請をして取得した包括通行許可証のカードを車両に取り付けた機器に挿入してゲートを通過するのが一般的であり、僕たちのようなケースはほとんど稀であった。

 いよいよ僕たちが乗っている車が検問所の所までやって来た。ハンスがスマートフォンを操作して届け出番号を送信したのだが、訪問先が官庁ということもあってか、監視員から全員の身分証明証の提示を求められる。しかし、監視員が僕たちの身分証を一瞥したのみで、わざわざスキャンして追跡監視登録をしなかったのは幸いであったに違いない。車のナンバーが登録され、ようやく検問所を抜ける。橋を通過するのはあっという間で、僕たちはようやくアウリンコ内へと入った。

 先週土曜日にアウリンコに上陸した時と違う経路で来ていたため、風景に真新しさがあった。ふとホレーショが注意深く運転していたのを思い出したのだが、フランツは気に掛けていないようである。多少道路が混んではいたものの、予定到着時刻に充分間に合うとわかると、フランツは運転の合間にハンスと再度雑談を始めた。

 イェンスの様子が気になって彼を見ると、彼は思いのほか涼しい顔をしていた。僕の視線に気が付いた彼は、いつものように微笑んで応えた。その様子からわざわざ確認するまでもないと思ったのだが、あえて僕は小声で「緊張している?」と彼に尋ねた。すると案の定、彼が落ち着いた表情で「いいや、ちっとも」と答えたので、僕は安心して再び外の風景に目をやった。

 中心部に近付くにつれ、警ら中の警察が頻繁に目に付く。その鋭い眼差しにシモとホレーショを思い出していた。やがて車が事前に申請しておいた駐車場へと到着したので、僕たちはいよいよ産業総括省へと向かった。

 高層ビルが立ち並ぶ真下を様々な人たちが行き交う中、ヴィルヘルムが慣れた足取りで僕たちを案内する。少しして彼はセキュリティゲートの脇に警察官が配備された、高い建物の前で立ち止まった。門塀に掲げられている、磨かれた金属製の板に『産業総括省』と銘打ってあるのを見て、途端に緊張を覚える。それでも努めて平静さを装い、ヴィルヘルムらに続いて建物近くにある受付室へと進んだ。入館手続きを取るために面会先の部署名と担当者名を告げ、身分証を提示する。係員の年配の男性が端末で確認を取ると彼は端末の画面を注視し、それから無愛想な様子で人数分の一時入館証を手渡した。

 その係員の指示どおりに入館証を首からぶら下げ、警備員に見送られながら建物内部へと進入する。事前に産業総括省の担当者から指定があった会議室へと向かおうとした時、ヴィルヘルムに話しかける女性の声がした。

「こんにちは」

 思いがけない展開にまたしても緊張し、その声の主におそるおそる視線を向ける。すると僕より年上に見える切れ長の目をした女性が、「ようこそ、本日はおいでくださいました」と言いながら僕たちに微笑みかけていた。

「今回の御社の輸入の件を担当しております、キヨ・スズキと申します」

 彼女からフランツとイェンスと僕とに名刺が手渡されたので、フランツを筆頭にめいめい自己紹介を済ませる。彼女は全てに笑顔で対応すると、「それでは早速御案内いたします」と言ってエレベーターホールに先導し始めた。

 僕は彼女がイェンスの姉で無かったことに、かえって緊張を覚えていた。戸惑いと不安の中でヴィルヘルムらの後を強張った足取りで歩いていると、イェンスが心許ない僕の様子に気が付いてささやくように話しかけてきた。

「クラウス、ひょっとして緊張している? 僕たちは今回の訪問ではただの同行者にしか過ぎない。君はただゆったり構えていればいいんだ」

 彼はそう言うと微笑んだ。その彼の瞳の中に美しい光を見つけると、僕は緊張の糸がほぐれていくのを感じた。

「ありがとう、イェンス。おかげで何とか落ち着けそうだ」

「君の役に立てたのなら光栄だ。ねえ、クラウス。姉は多分、僕と話す機会を設けるだろう。すまないが適当に時間をつぶして、ヴィルヘルムたちのことをよろしく頼む」

 今度は彼の口調が心細げであった。僕はその展開になることを予想していたため、彼の心労が少しでもやわらぐようにと力強くうなずいて返す。確執のある姉と会うイェンスのほうが、僕よりはるかに緊張していて当然なのだ。

 エレベーターを降り、さらに通路を歩く。キヨは僕たちを簡易なつい立てに仕切られた打ち合わせブースには通さず、個室の会議室へと案内した。僕は彼女がわざわざ個室へと案内したことにたいそう驚いていた。

 輸入者であるノルドゥルフ社が今回の輸入に関して必要な手続きを事前に全て済ませており、軍の施設に向かう前に簡単な確認をするためだけに、輸入通関手続きのみを担当するブローカーまでもが産業総括省に招かれている。たったそれだけのことなのである。ヴィルヘルムが今回のプロジェクトのことで産業総括省の担当者から――おそらくはゲアトルーヅの指示なのであろうが――輸入通関手続きを進めるブローカー業者を知らせるよう告げられたと、ハンスが以前僕たちにメールで伝えてきたことがあった。当事者ではないブローカーを話し合いの場にそれとなく引っ張り出してきたことに別の意図が隠されていることは、イェンスが言及するまでもなく僕にもわかっていたのだが、そうお膳立てをしてまで弟に会おうとするゲアトルーヅの意図を僕は図りかねていた。

 部屋に入るとキヨは僕たちに着席して待つように指示した。それからキヨの上司にあたるゲアトルーヅに内線をかけ、連絡を取り始める。しかし、イェンスの姉はすでにここに向かっているらしく、キヨはさっさと電話を切って戸口に目をやった。

 その時、カツカツとヒールを床に打ちつけながら足早に近付いてくる音が聞こえてきた。僕はいよいよやって来たのだと、少しの緊張と興味を持って部屋の入り口にそっと視線を向ける。するとそこに一人の女性がやや険しい顔付きで入室してきた。続けざまに中年の男性も入室する。僕たちが立ち上がると彼女は短く挨拶をしたのだが、すぐさま僕の隣にいるイェンスを見据えたのを僕は見逃さなかった。

 キヨから簡単に紹介を受けると、彼女は「お待たせいたしました。ゲアトルーヅと申します」と言って名刺を渡してきた。一緒に入室してきた男性はウィリアムと名乗り、ゲアトルーヅを補佐しているようである。挨拶が終わって着席する中、僕はうっすらと漂う緊迫した雰囲気を感じながらも、その当事者でないことを改めて思い返していた。僕は今日一日、礼儀正しく控えめにしているだけでいいのである。そこで一呼吸して心を落ち着かせると、大胆にもイェンスの姉をこっそりと観察することにした。

 ゲアトルーヅはイェンスと同様に整った顔立ちなのだが、髪色も瞳の色も彼と似ている要素はほとんど見当たらなかった。彼女の隣でキヨがノルドゥルフ社の水処理装置の資料を見ながら、装置が政府の設けた基準を満たすかどうか、具体的な水質の予測値と地方国での実測値を見比べていく。するとヴィルヘルムが基準を満たすだけではなく、全てにおいて高い満足感と安全性をもたらし、そして高品質を維持しながら費用を抑えることができることを再度アピールした。

 僕はその説明を聞きながら、ゲアトルーヅとキヨに時折視線を投げては観察していた。しかし、僕の盗み見が彼女たちに気付かれることはなかった。ハンスが水処理装置の設置に関して細かい説明を始めると、彼女たちの視線は確かに彼に向けられるのだが、それでも時折その視線が流れ、僕の隣に座っているイェンスに辿り着いていることは明らかであった。そもそもこの話し合いが、おそらく今までヴィルヘルムが何度か説明してきたであろう内容をなぞらえるように再確認しているだけに過ぎないのだ。

 キヨが軍の担当者にすでに連絡を入れており、これから同行して挨拶に向かうと話すと、ゲアトルーヅが愛想を見せることなく淡々と言い放った。

「私は急遽、他の予定が入ったため同行いたしません。その代わり、飲用水品質管理課課長であるウィリアムを一緒に向かわせます。ここから軍の処理施設までさらに車で四十分ほどかかりますが、軍が関与する施設のため、弊省が手配した車で向かいます。そこで軍の担当者と昼食を取り、さらに具体的な確認について話し合われることでしょう。ほとんどは事前に打ち合わせ済みで、現場を確認して微調整するという内容になると思いますが、もし不明な点や気になる点がございましたら、軍の担当者、そしてウィリアムとキヨに何なりとお申し付けください」

 彼女は広げていた資料を整えるとウィリアムに何か耳打ちし、僕の隣にいるイェンスに冷淡な視線を向けた。順調に打ち合わせが終了したヴィルヘルムたちが安堵の表情を浮かべる中、張り詰めた空気を感じ取る。これからがゲアトルーヅの本番であり、イェンスの正念場でもあるのだ。

 ウィリアムが送迎車の準備が整うまでの間、建物一階の待合室で待つよう指示したのを受け、ヴィルヘルムらがぞろぞろと席を立つ。

「イェンス」

 イェンスは案の定ゲアトルーヅに小声で呼び止められた。しかし、彼は返事をせず、ただ彼の姉を見つめ返しただけであった。その様子にヴィルヘルムらも気が付いて訝しがったのだが、イェンスが僕に意味ありげに微笑んだこともあり、不安を胸に抱きつつもゲアトルーヅとイェンスを残して退出することにした。

 僕は歩きながら、ヴィルヘルムらにゲアトルーヅがイェンスの実の姉であり、久しぶりに再会したことから私的な時間をあえて設けたのであろうことを小声で伝えた。すると彼らは一様に驚いた顔を見せ、なぜ隠していたのかと明るい口調で尋ねてきた。

「彼が身内と会うことで仕事の場に私情を挟むことがあれば、当事者であるあなた方にご迷惑をお掛けし、また、あなた方に余計な気遣いをさせることにつながりかねないため、特に配慮をしたのだと思います」

 僕が言葉を選びながら控えめな口調で答えると、皆一様に納得した様子を見せたのでひとまず胸を撫で下ろす。そこでこれ以上この話が広がることのないよう、意図的に話題を変え、皆の関心がそこに戻らないよう画策し続けることにした。

 キヨの案内で一階の待合室へと到着する。彼女は車が到着する予定時刻を知らせてから、外出する準備を整えるべく一旦職場へと戻っていった。

 僕はハンスがおごってくれたコーヒーを飲みながらヴィルヘルムと雑談を交わし、あるいはトイレに行ったりするなど、表面上は時間が来るのを穏やかに待っていた。しかし、内心はイェンスのことが気掛かりであった。彼が彼なりに姉に対して感謝と想いを寄せていることは理解していたのだが、果たして彼の瞳に再び悲哀の影が差すのではないかと思うと、どうにもやりきれなさが募っていく。

「官庁訪問って気が張りますね。しかもこれから産業総括省の担当者と一緒に軍の施設まで行くのかと思うと、前もって知らされていてもすごく緊張するし、無事終わるまで気が抜けませんよ」

 フランツがやや困った表情であったものの、明るい口調で話しかけてきた。

「お気持ちはわかります。僕も慣れていませんから、最初は緊張していました。ですが、ノルドゥルフ社の皆様が入念に下準備と打ち合わせをして下さったおかげで、先ほどの打ち合わせも無事に終了いたしました。あなたも相当な時間をかけて用意周到に準備をされてきたはずです。そのことは先ほどの打ち合わせの時に、本案件について説明するためにびっしりと書かれたメモが見えたことから、すぐにわかりました。ですから、何事もなく無事本日の行程が終了されるのではないかと楽観的に考えています」

 僕はそう返すと、彼の鞄を一瞥してから微笑んだ。するとフランツは彼らしいはにかんだ笑顔を浮かべながら言った。

「そんなところまで見ていたとは感銘しました。おっしゃるとおり、すでにヴィルヘルムとハンスが丹念に打ち合わせを進めてきてくれたおかげで何事もなく物事が進んでおりますが、以前もお伝えしたとおり、我が社の製品や設備が外殻政府関連施設に設置されるのは今回が初めてなのです。それなのに僕が勉強不足では、せっかく順調に進んでいる今回のプロジェクトに水を差しかねません。我が社は世界的規模で展開している同業他社に比べてまだまだ知名度は低いですが、品質・安全に関しては誇りを持って説明できるほど、仕様も基準も高い水準であると思っております。ですから、本来であれば緊張は不要なのでしょうが」

 彼はそこまで言うと肩をすぼめてささやくように言った。

「アウリンコ内に漂う、エリート中のエリートの集まりという雰囲気にのまれているのかもしれません」

 それを傍らで聞いていたヴィルヘルムとハンスが大きくうなずいて同意を示した。

「地方国出身の庶民からすると、ここは夢見てもなかなか訪れることができない、憧れの場所なんだがな」

 ハンスが朗らかに言った。その表情は先ほどゲアトルーヅと相対していた時より、やはり落ち着いているように見えた。僕はそのような彼らの様子を受け、地方国から見たアウリンコというものがどれほど特殊かつ憧れの対象であり、また遠い世界に位置付けられているのかと推し量った。そのおひざ元であるドーオニツも、やはり似たような印象を抱かれているのであろうか。

 時間を持て余していることもあり、ハンスに断って待合室の中に張り出されている掲示板をざっと眺める。その時、すぐ近くの玄関ホールのほうから女性たちの話声が聞こえてきた。

「あそこのエレベーターホールの前にいるあの彼、端正な顔立ちでスタイルもいいじゃない? どこの人かしら、素敵だわ」

 その言葉にすぐさまイェンスだと気が付くと、僕はフランツに彼を迎えに行くと一声かけてから急いでエレベーターホールに向かった。

 壁際で誰かに電話をかけているイェンスの姿をあっさりと捉える。それと同時に、ジャケットの内ポケットに入っている僕のスマートフォンが着信を知らせた。イェンスは僕を見つけるなり笑顔を見せ、電話を切って歩き出した。その様子は普段どおりに落ち着いており、澄んだ瞳が彼の心情を表しているようであった。おそらくは陰鬱な気分を短時間で整えて戻って来たのであろうが、僕たちに心配をかけまいとする彼を、僕はあたたかい気持ちで出迎えた。

「イェンス、大丈夫だろうと思っていたけど、君の瞳を見る限り僕は安心して良さそうだ」

 「ありがとう、クラウス。いささか骨が折れたけど、なんとか――」

 「イェンス!」

 怒りに満ちた女性の声が、鋭く僕たちの会話を遮った。その途端、イェンスの表情がたちまちのうちに強ばり、視線が曇る。彼はその表情のまま、他人の通行の妨げにならないよう、角の植木鉢の陰にさっと身を移した。場に張り詰めた緊張感に恐れおののきながら、その声の主をそっと確認する。案の定、ゲアトルーヅであった。

 彼女はつかつかとイェンスに歩み寄ったかと思うと、僕の会釈を全く無視して彼に詰め寄った。

 「話し合いは終わっていないのよ。あなたはそれでいいでしょう。でも、私たちはそういうわけにはいかない。両親だけじゃない、おじい様もおばあ様も、そして親戚中があなたに期待していたとさっきも話したでしょう? 父も母も、どれほど手塩にかけてあなたを育ててきたことか。あなたの行為は全くの裏切りだわ」

 小声であったものの、彼女の口調には怒りと悔しさとが綯い交ぜになっており、それでいて冷酷な響きがあった。おそらく先ほどの二人きりの会話も、姉からこのような口調で詰め寄られていたに違いあるまい。

 僕は慮るようにイェンスの様子をそっと伺ったのだが、驚いたことに彼はただ静かに彼の姉を見つめ返していただけであった。彼の緑色の瞳や口元には怒りや悲しみ、侮蔑や戸惑いは見当たらず、また彼が姉に対して不安と恐怖を感じているようにも見えなかった。そのあまりに落ち着いた態度から、彼が目指している世界に対する力強い意志をひしひしと感じ取る。イェンスは彼の夢と目標とを力強く握りしめていた。

 「そのことは本当に申し訳なく思っています。ですが、さっきも話したとおり、僕に家督相続はできない。やれないのではない、できないのです。理由は述べたとおり、僕は姉さんやアウグストと違って完全ではない。能力でも人格でも、兄より弟のほうが優秀だ。僕は相応しい人間が家督を継ぐべきだと何度も伝えてきました。幸いアウグストは家を継ぐことに熱心だし、その心得もある。それに彼が環境厚生庁に入庁してから、いっそう勉強会や研究会に出席してますます見識を深めているようだと、姉さんもおっしゃっていたではありませんか。彼なら社交的だし、人懐っこさもあるから誰からでも親しまれる。全てにおいて次の当主に相応しい人間だと僕は心から思っているのです。それと姉さんが僕に今までしてくれてきたこと、特にアウグストが家督相続を引き受けると言ってくれた時にその案を受け入れて両親をなだめてくれたこと、そして今でもこうして気にかけていることにも感謝しています。両親にもアウグストにもずっと感謝してきたのです」

 イェンスの口調は終始穏やかであった。しかし、ゲアトルーヅの表情はますます険しくなり、彼女は腕を組んだまま苛立たし気に首を横に振ったかと思うと、吐き捨てるように言った。

 「いいえ、本当に感謝しているのであれば、家督相続を進んで受けていたはずよ。お父様はあなたにずっと期待していて、与えられる最高のものは全て与えてきた。アウグストはあなたが言うまでもなく優秀だわ。だけどお父様は、今だってあなたが家督を継ぐことを望んでいる。なぜなら、あなたにだけあの『特徴』があるもの。それを上手に活かして実家の地位向上を果たすことが、長年虐げられてきた一族の願いであることを理解しているくせにあえてそうしないのは、やっぱり私たちに対する当てつけなのね。わざわざドーオニツのZ地区に居を構えて、才能を全く活かさない職に就くところあたりがまさしくそうだわ。……ねえ、聞いているの、イェンス! ……あの件がやはり引っ掛かっているのね。あなたはアマリアとのことで私たちを一方的に責め、許せないから家督相続をも放棄したんだわ。あれ以来、あなたは私たちから完全に離れていったもの。そのことについて私たちは申し訳ないと思っているし、まさかあんな風になるとは思いもしなかったのよ。いずれにせよ、恒例の新年顔合わせには来年こそ顔を出しなさい。おじい様、おばあ様も高齢だわ。それに親戚に会えば、必ずあなたの消息が話題になる。勝手もいい加減にして。あなたをかばうために、私たち家族が今までずっと気苦労と嫌な役目を負わされてきたのよ」

 僕はイェンスの表情が一瞬曇ったのを見逃さなかった。しかし、彼はすぐに持ち直して静かに微笑むと小声で答えた。

 「姉さんは誤解している。僕が家族に対して許していないことなど何一つありません。僕は家族の繁栄と健康を、いつだって願っていました。それ以外のことに関して言えば、ただ謝ることしかできない。おっしゃるとおり、僕は自分勝手です。ですから僕に期待しても無益なだけです。この無能な僕をどうか放っておいてください。では失礼します」

 彼は言い終えると僕と一瞬目を合わせ、ゆっくりと歩き出した。そこで僕がためらいがちに彼の姉の様子を伺うと、彼女が激しい感情を内包したまま、弟の後ろ姿を睨みつけているのがわかった。その姿に軽く一礼してから逃れるように背を向け、僕の親友の後を追う。しかし、幸か不幸か、彼女がそれ以上話しかけてくることは無かった。

 かける言葉が見つからずに無言でイェンスと並んで歩いていると、彼がぽつりぽつりと謝ってきた。

「見苦しいところを見せてすまない。それと姉が言ったことについても謝ろう。ドーオニツのZ地区を見下したふうに言っていたが、この二つの島のライフラインである港湾施設が整備されている時点で、非常に重要な役割を担っているのは事実だ。姉自身も本当は穿った見方だとわかっているはずなんだ」

「僕は気にしてない。だから君も気にするな」

 僕はなるべく明るい口調で答えたのだが、ゲアトルーヅが挙げた『アマリア』という女性の名に加え、いかに彼が実家で窮屈な思いをしてきたのか、先ほどのやり取りで垣間見たことに動揺を覚えていた。しかし、今の僕にこれ以上あれこれと思案する時間は無かった。

 待合室に入るなり、ヴィルヘルムらが僕たちを見つけて笑顔を見せる。僕は気持ちを切り替え、イェンスと一緒にヴィルヘルムらのところへ駆け寄った。当然のごとく事情を全く知らないハンスが、何の気なしにイェンスに話しかけてきた。

 「イェンス、驚いたよ。さっきお会いした部長のゲアトルーヅはあなたのお姉さんだと言うじゃないか。それでゆっくり話せたのかい?」

 ハンスは親しみを込めた表情でイェンスを見ていた。それを受けてイェンスは穏やかな笑顔を浮かべ、なめらかな口調で答えた。

 「ええ、おかげさまで姉とゆっくり話すことができました。あらかじめお伝えせずに申し訳ございません。姉が今回の輸入を所轄する部署の責任者だとお伝えすることにより、皆様が気を遣って打ち合わせに支障を来すことのないよう、あえてそのことを伏せておいたのです。姉も私情を挟むことを好まないため、その意向を汲んでいるのも一因ではありますが、ご厚情頂ければと思います」

 彼はその瞳に美しい光を放っていた。僕は彼の落ち着いた、優雅な物腰に感嘆していたのだが、ふと彼を注視している人がいないかと周囲に視線を向ける。それは彼の心労が重なることを危惧したからなのだが、彼を気に掛ける人が珍しく誰一人としていなかったためほっと胸を撫で下ろす。ヴィルヘルムたちはイェンスの言葉に理解を示し、そこから二言、三言と言葉を返したのだがそれ以上はなく、僕は彼らが見せた気遣いに感謝するしかなかった。

 ハンスがイェンスにコーヒーをおごろうと声をかける。イェンスは感謝しながらその申し出を受け取り、ハンスの後ろ姿を少しばかり見送ってからイスに座った。それから彼はヴィルヘルムとフランツの他愛もない話に微笑みを添えながら静かに耳を傾け、コーヒーがハンスから手渡されると、今度は奥ゆかしさの中に喜びを見せながら感謝の言葉を返した。

 その光景は穏やかそのもので、先ほどまでの重々しい空気とは打って変わっていた。窓の外では高層ビルの隙間から澄んだ青空が覗いている。そこから冬の透き通った清涼な空気が窓越しに伝わってきたので、僕は遠くを見ながらも清々しい気分になった。僕の表情の機微に気が付いたのか、イェンスも窓の外に視線を向ける。今の彼にとって、たとえ小さな面積でも目に入る青空がどんなにか癒しと清涼となり、心にさわやかな風を吹き込ませていることであろう。

 「お二人はどこか雰囲気が似ていますね」

 不意にフランツが僕たちに話しかけてきた。

 「仕事以外でも仲が良さそうに見えます」

 彼のやわらかい笑顔に、イェンスも僕も自然と笑顔で答えた。

 「はい。お互い気が合うのです。だから仕事以外でもよく会っているんだ」

 僕が控えめながらも弾んだ声で返すと、フランツは羨望した様子で僕たちを見つめた。

 「いいなあ、僕にも気心の知れた友人はいますが、彼はツェイドにいます。会えば一緒に飲んだりスポーツを観戦したり、馬鹿をしたりもする昔からの悪友で非常にいい奴なんですよ。ああ、懐かしいな。やっぱり帰省しようかなあ」

 フランツはさびしそうに微笑んだ。どうやら彼は再び、恋人と郷土への想いの間で揺れ動いているようであった。

 「フランツ。帰省するにしてもここドーオニツで過ごすことにしても、あなたが非常に有意義で心地良い時間を過ごせることを願っています」

 「ありがとう、イェンス。あなたたちにも素晴らしい休暇が訪れますように。僕は決めました。やはり帰省します。恋人には話し合ってみます」

 彼はそう言うと今度は力強く微笑んだので、イェンスと僕とで「うまく行くよう願っています」と返した。

 その時、ちょうどウィリアムとキヨが僕たちを迎えに待合室へとやって来た。

 「お待たせいたしました。車が到着しましたので向かいましょう」

 キヨの言葉で外に出ると、政府機関のナンバープレートを付けたミニバンが駐車場で待機していた。どうやら二名ずつ四列で座るようである。僕は何の気なしにイェンスと並んで座るものと考えていたのだが、ウィリアムが助手席に座るのを見て非常に当惑した。キヨはイェンスに特別な視線を投げかけていた。そこにヴィルヘルムとハンスが並んで先に乗り込み、フランツが一人で座る。まさかとは思いながらも、イェンスにこれ以上負担が掛かることのないよう、彼をフランツの隣に座らせるべく彼の肩に手をかける。その時、キヨが非常に明るい笑顔を僕に向けて朗らかに言った。

 「クラウス、さあ中に入ってフランツの隣にお座りください」

 それを聞くなり僕は一気に陰鬱な気分へと打ちのめされたのだが、イェンスが僕に目配せして非常に小さな声で「大丈夫だ」とだけ言ったので、ひとまずフランツの隣に座った。フランツの前の座席にイェンスが座り、キヨが最後にドアを閉めながら僕の目の前の座席に座る。彼女は持っていた鞄から書類を取り出すと、僕のほうを振り返って後ろに座っているヴィルヘルムとハンスにも渡すように指示した。書類は誓約書であった。

 「事前にお渡しすれば良かったのでしょうが、事情が重なって今お渡しすることとなりました。これから向かう軍の施設は、一般人なら通常立ち入りが許されない区域にあります。あなた方がそこで知り得た情報を口外せず、また法律と法令に基づいて行動すること、そして軍の担当者の指示に必ず従い、違反が見られた場合には罰則の適用を受けることを了承したうえで、弊省用と軍用に対して二枚、それぞれ署名をフルネームで記入し、ID番号を隣に併記してください」

 僕は細かい規定にざっと目を通してからキヨの指示どおりに記入した。後部座席にいるヴィルヘルムとハンスから誓約書が戻ってきたので、フランツと僕の分を添えてキヨに返却する。彼女はイェンスからの分も受け取ると、鍵付きの書類ケースに誓約書をしまい込み、「取扱いには充分注意を払いますのでご安心ください」と僕たちに言った。

「車内ではどうぞ楽にしてください。じっと座っているのは退屈でしょうから」

 出発するなりウィリアムが屈託のない笑顔を添えて言った。その言葉は本来であれば嬉しい気配りのはずなのだが、僕は斜め前に座っているイェンスを気に掛けていた。彼が大丈夫と答えたからには、おそらくは大丈夫なのであろう。しかし、僕の目の前で今まさにキヨが積極的にイェンスに話しかけるのを見た途端、どうにもいたたまれない気分へと陥った。

 「彼は本当に女性にもてますね」

 不意にフランツが非常に小さな声で僕に耳打ちした。彼もまた、イェンスとキヨとのやり取りを目の当たりにしており、その言葉に悪気があるわけではなかった。

 「そうなんだけど、彼は親しくない女性から積極的に話しかけられるのが苦手なんだ」

 僕もまた非常に小さな声でフランツに耳打ちする。思えばすぐ目の前に当事者がいるにもかかわらず、ずいぶんと大胆な会話内容である。その時、フランツが何か思い付いたのか、勢いよく僕に顔を向けた。

 「ああ、そういうことか。あなたも彼も女性に非常にもてるのに、興味が無さそうな感じだ。きっとあなたたちには、かなり素敵な恋人がいるのでしょう」

 彼は小声でそう言うと微笑んだ。僕は思いがけない彼の言葉に困惑しながらも、話を簡潔にしようと嘘をつくことにした。

 「ええ、そうなんです。だから余計に困るのです」

 僕は一呼吸置くとフランツの関心を逸らすべく、畳みかけるように続けた。

 「もっとも彼と馬鹿をやったり、他愛もないことをするというのも楽しいから、僕たちは実際よく一緒に出掛けます。おそらく、あなたがツェイドの友人と過ごすような感じでしょう。職場では隣の席同士である分、ますます一緒にいる時間が長いのですが、飽きることも無く実にいい刺激を彼から得ています。そうだ、フランツ。あなたはスポーツ観戦がお好きのようですが、いったいどんなスポーツを観戦するのが好きなのですか?」

 それを聞いたフランツは満面の笑顔を浮かべて僕の質問に答えていった。僕はあまりそのスポーツに詳しくなかったのだが、フランツが朗らかな笑顔を絶やさなかったのでさらに掘り下げて尋ねていく。すると、彼は嬉しそうにお気に入りのプロチームについて解説を始めた。そのはつらつとした表情に純粋な美しさを見出す。熱くなれるほど好きなものがあるということは、間違いなく幸福なことであった。

 「フランツ、そのことを聞くたびに君に対して申し訳なく思うよ。私が応援しているチームが、君が応援するチームを打ち負かして今季の王者となったのだからね」

 突然、ハンスが会話に加わってきた。ハンスは身を乗り出してフランツと僕との間に顔を近付けると、彼が応援しているチームがいかに優秀な人材を集め、技術や連携や作戦が優れているかで蘊蓄を傾け始めた。それに対してフランツが「あの優勝はたまたまですよ」と悔しそうに反論を始めたのだが、最終的にはそのスポーツ自体について熱っぽく語り出した。

 この話題はウィリアムの関心をも非常に引いたらしかった。彼もまた助手席から身を乗り出すように振り返ると、同じくそのスポーツを観戦するのが好きなのだと告白した。

「私はテンリブ出身なのだが、応援している地元チームが非常に強くてね。世界大会でも優勝経験があるのだ」

 彼の口調は決して強いものではなく、表情も控えめであった。しかし、フランツが目を輝かせてそのチームの優秀な面を説明し出したので、ウィリアムの表情は自然とほころんでいった。

「俺も黙っちゃいられない」

 急に前方から声が上がった。その声の主は、運転に専念しているとばかり思っていた運転手であった。彼は信号で止まったのをこれ幸いとばかりに、そのスポーツのことで会話に加わって話し出した。聞くと彼はその昔、プロ選手を目指していたのだという。彼の父親がルジラブの出身で、そのルジラブにスポーツ留学までしたのだが、練習中に負った怪我と天性の才能に恵まれたライバルとの間に広がる、超えられない技術の壁を乗り越えることができず、結局夢を諦めてアウリンコに戻ってきたらしかった。

 イェンスも僕も興味深く周囲の話題に耳を傾けていた。今日初めて出会った人からその人の人生の軌跡を聴けることは、実に不思議なめぐり合わせであった。キヨは突如として湧いた熱気に加わることはせず、ただ笑顔を浮かべて傍観していたのだが、徐々にそのスポーツのことでイェンスに尋ねるようになった。しかし、イェンスが僕同様にあまりそのスポーツに詳しくなかったため、代わりにウィリアムやフランツが彼女に回答する。それがきっかけとなって彼らの持つ知識と情報とで軽やかな応戦が始まり、車内はさらに盛り上がりを見せた。僕は思いがけずもたらされた芳しい雰囲気に緊張の糸を緩め、流れに身を委ねて笑い合った。

 どうやらフランツとウィリアムはすっかり意気投合したらしく、彼らは国家公務員法の規定に許容される行動を確認すると、改めて注意を払いながら情報交換をしようという取り決めさえ交わすまでになっていた。キヨがそんな彼らを見て、親しさのあまり倫理規定違反を起こすことのないようきつく二人に念押しをしたものの、隣に座るイェンスに仕事に関する話を持ち掛けたのも束の間、あっという間に彼女の個人的な話題へと範囲を広げていく。

 イェンスが窮屈そうな笑顔を一瞬浮かべる。それを偶然目撃してしまった僕は、あっという間に苛立ちを覚えた。彼女がつい先ほどまでウィリアムとフランツに説いた言葉は何であったのか。

 僕は釈然としないまま、彼女の後頭部と横顔をどことなく咎める目で見据えた。しかし、彼女が僕の醜い視線に気が付くことはなかった。そもそもこの行為自体がこの場にそぐわないのである。僕はどこか悔しさを感じつつも、冷静になろうと視線を窓の外へと向けて一つ深呼吸した。

「……そうなんですね。私、学生の頃はお金に余裕が無くて、食費を浮かせようと毎日自炊していたんです。おかげで料理の腕は上がったのですけど、そのせいか未だにおしゃれなレストランやカフェに疎くて。ずっと中央校に在籍されていたんですよね。私、あの辺の雰囲気が好きなんですけど、おすすめのカフェなどご存知ではないですか?」

 いくら顔を背けても否応なしにキヨの声が耳に飛び込んでくるため、腹正しさを押し殺し続けるのは吹き付けてくる風を避けるほどの至難の業である。そこに普段どおりでありながら、どことなく素っ気無さが残るイェンスの声がやるせなく耳に響く。

 僕が彼に話しかけて会話を中断させようかとも考えたのだが、この状況ならその会話にキヨが加わるだけであろう。一方で、僕には彼女に皮肉と嫌味を冷酷に伝えられるほどの、度胸も向こう見ずさもなかった。先ほどのイェンスと彼の姉とのやり取りを再び思い出してイェンスを慮る。僕は一刻でも早く目的地に到着し、この状況に終止符が打たれることを願わずにはいられなかった。

 ようやく目的地近くまでやって来た。最初のゲートで検問を受けて少し進み、次に軍の関係者が警備をしているゲートまで車が進んでいく。そこでも検問を済ませて中へと進入していくと、大きな建物がまず視界に入り、それから軍用車やら関係者やらがひっきりなしに構内を行き交っているのが見えてきた。僕は軍の施設ということでユリウスを思い出していたのだが、大元帥にお目にかかる機会がそうやすやすと与えられるはずもないため、今はこれ以上考えないことにした。

 駐車場に到着し、車から降りる。すぐに建物内部へと案内され、先ほど署名した誓約書と公的機関で発給された顔写真入りの身分証明書とが、キヨから通行手続き担当者へと手渡される。僕たちが部外者特別立入許可証を受け取って身に付けていると、一人の男性が現れた。その男性は今回のプロジェクトの軍側の担当者らしく、イゴールと名乗ってから手短に歓迎の挨拶をした。そのイゴールの案内で早速施設内のカフェへと移動する。僕たちがそこで昼食を取って少しの休憩を挟んだのち、さらに会議室へと移動して設置に関する打ち合わせが始まった。

 ヴィルヘルムとハンスがすでにイゴールとも何度か会って事前に下見し、一緒に打ち合わせながら作業計画を進めていたこともあり、打ち合わせは順調に進んでいった。ハンスとフランツが機械の設置場所を確認しながらも、見逃している問題点が無いかを念の為に検討する。そしてキヨが主体となって実際に運転を稼働させた後の予想を話し出したので、単なるブローカーである僕たちの出る幕が無いのは当然のことであった。一通りの確認が終わり、イゴールが実際に機械が搬入される場所に僕たちを案内するというので、ヘルメットを受け取って軍の車でその場所へと向かう。その建物の内部に入ると、フランツは事前に建物内部を平面図と写真とで確認していたようなのだが、実際に目の当たりにして距離や位置をより具体的に把握できたのか、施工図を取り出して何やら計算を確かめているようであった。

 今回の設備は大型であるものの試験的な導入であり、比較的に設置が容易であるため僕たちでも見学が可能なのであろう。そのことをイェンスと小声で話しながら様子をじっと見守っていると、キヨが話しかけてきた。

 「ブローカーの方がここまで立ち入ることは、きっと珍しいことでしょうね」

 彼女はイェンスに視線を向けていたので僕が黙っていると、イェンスが丁寧な口調で言葉を返した。

 「そうですね、実に興味深いと思います。このプロジェクトの最終到達地点が弊社の預かり知らないところにあるため、今まで綿密な打ち合わせと確認を何度も関係者が行ってきた中で、単に輸入通関手続きだけを行う弊社がここまで参加できることは異例とも言えますし、光栄であるとも言えます。僕たちは邪魔にならないようここに立っているだけですが、このプロジェクトが無事成功することを願っています」

 彼は向こう側で話し込んでいるイゴールとヴィルヘルムたちに時折視線を向けながら言った。キヨはその言葉を聞いて感心したのか、意味ありげな眼差しを彼に向けながら言った。

 「あなたはやはり、あのゲアトルーヅの弟さんですね。彼女からあなたが優秀であることは聞いていましたし、実際あなたの言葉の節々に高い知性と教養を感じます。さすが中央校を特別コースで卒業なさっているだけのことはありますわ。でも、才能がもったいないです。あなたのような優秀な方が外殻政府機関で働けば、世界はより良くなっていくでしょうに」

 僕には彼女の言葉が胸に響かなかった。当のイェンスは遠くで一生懸命イゴールと話しているフランツを一瞥すると、キヨをしっかりと見ながら言った。

 「僕より優秀な人材はどこにでもいますし、優秀な人材全てが政府機関で働くとは限らない。どの業種や分野でも、安心と安定を提供しながら持続的な発展を担う人材をできるだけ多く揃えることは、必要不可欠でしょう。それはこの施設でも、僕が勤めるブローカー事務所でも同じことが言えます。政府機関に勤めていないからといって、その人の才能や能力を無駄に浪費しているとは限りません。世界をより良くする可能性が一番高いのは、平凡な日常生活において相手の立場を思いやりながら行動し、なおかつ自分自身をも喜びで満たし、いろんなつながりに対してより良い結果がもたらされるような自己実現を果たすことではないかと僕は考えています。……ああ、ウィリアムがあなたをお呼びのようですよ」

 イェンスはそう言うと、キヨをプロジェクトの打ち合わせの輪に戻るよう仕向けた。事実、ウィリアムがキヨを呼んでいたため、彼女は急いで彼らのところに戻ってそのままイゴールと何かを話し始めた。

 僕はそっとイェンスの様子を伺った。すると彼は非常に落ち着いた表情であり、僕の視線に気づくと「僕は大丈夫だ。帰りも何とかやっていける」と耳打ちして微笑んだ。

「ブローカーの方だそうですね」

 突然、男性の声がした。話しかけられたことに少しの戸惑いを感じながら声の主を探す。僕たちの近くで今回のプロジェクトには直接関わりの無い軍の関係者数名が警備にあたっていたのだが、その中の一人が僕たちに視線を向けていた。

「はい、そうです」

 イェンスが落ち着いた口調で返した。

「先ほどあなたが彼女に対して話していたことに、個人的に感銘を受けました」

 その男性はそう言うと僕たちに微笑んだ。その思いがけない展開に驚きつつも彼に会釈を返すと、そっとイェンスの反応を伺った。

 「僕の浅い経験なりに思ったことを拙い言葉で表現したまでですが、そのようなお褒めの言葉を頂いて光栄です。ですが、ほぼ部外者である僕たちが不要な会話を続ければ、警備を担当されているあなた方にますます余計な負担を強いかねませんので、なるべく控えるようにいたします」

「いえ、私たちもここで警備がてら見学しているようなものです。彼らの打ち合わせはもう少し続くでしょうから、雑談する分には何ら問題ありませんよ。あなたたちも退屈でしょう」

 その男性の気遣いは部外者である僕たちにとって、かなりのあたたかさを感じさせるものであった。彼らに対して丁寧に感謝の言葉を伝え、いくぶん緊張感を緩めてフランツらを見守る。それだけでも僕たちにとっては充分居心地が良いものであった。

 時計に目をやると予定していた退出時間をとうに超えていた。このままでいくと、帰社予定時刻は大幅に遅くなることであろう。今日は一日中外出するため、ローネや他の同僚に僕たちの仕事を引き継いできたのだが、今のところイェンスにも僕にも事務所から連絡はなかった。ローネがうまく取りまとめているのであろうとイェンスと話していると、フランツが僕たちのところにやって来た。

 「やあ、ずいぶん放置していてすみません。この建物と内洋との距離を確認しているうちに気になる点が出て、そのことでイゴールと話していたらすっかり遅くなってしまいました」

 彼は申し訳なさそうに言ったのだが、僕はあえて朗らかな口調で彼に尋ねた。

 「それでその気になる点は解決できたのですか?」

 「ええ、全く問題が無いことで確認を取りました。あとは高濃度の塩分を含んだ排水から資源を再利用する事業の強化を進めていくだけです。といってもそれが一番困難なんですけどね。それにしても、内洋が外洋とつながっていることを改めて実感しましたよ。アウリンコの周囲を土砂やコンクリートなどで完全に遮ってしまわず、常に内洋が一定の水量を保つよう、ドーオニツのノッラ付近に海水を取り込む地下水路と洪水調節機構を設けているのは、ドーオニツ建設当時から先見の明があったということですよね。当時の技術者や工事に従事した人たちも本当に素晴らしいと思います」

「ええ、全くそのとおりだと思います」

 イェンスも僕も彼の言葉に感銘を受けていた。そこでフランツにその工事の歴史がアウリンコでもドーオニツでも、非常に重要な出来事として扱われていることを簡潔に伝えた。

 「そうでしょう。水路の建設も維持も、高い技術力と安全性が求められる。建築工法も当時では画期的で、かなり先進的な方法だったと聞いています。このプロジェクトはまだ始まったばかりですが、僕もアウリンコ建設の歴史に触れたのだと思うだけで非常にわくわくします。成功させて次につなげて見せますよ」

 彼は屈託のない笑顔の中に熱意を見せながら言った。僕が情熱を素直に表現した彼に感嘆していると、ハンスがやって来た。

 「フランツ、頼もしい発言だな。次につなげるために、皆で力を合わせようじゃないか。その時は、また君たちに我が社の製品の輸入手続きを頼もう。ぜひともよろしくお願いしますぞ」

 ハンスはそう言うと朗らかに笑ったので、僕たちは信頼されていることに対して感謝の言葉を心を込めて返した。そこにイゴールたちもやって来た。

「一通りの確認が終了したので、後は実際の納入を待つばかりですね。そのためにも輸入手続きをよろしくお願いします」

 このプロジェクトにおいて、輸入手続きは単なる通過点上の背景にしか過ぎなかった。その一瞬を担当する僕たちにわざわざ声をかけてくれたところに、イゴールという人物の優しさと聡明さとを感じ取る。

「無事お届けできますよう、万全を期して準備を整えておりますのでご安心ください。お心遣いに感謝いたします」

 イェンスと僕の言葉にイゴールは笑顔で応えた。それから間もなくしてその建物を離れ、最初に受付を済ませた場所まで戻る。帰りの車内も行きと同じ席順ではあったのだが、イェンスが大丈夫だと言っていたことを思い返すと、僕はなるべくキヨのことを気にかけないようにした。

 車が軍の施設から出るなりヴィルヘルムとハンスが安心したのか、後部座席で朗らかな笑い声を上げた。ウィリアムもキヨに訪問がつつがなく終了したことを笑顔で話す。僕も安堵して車窓の風景に目をやった。空はずっと晴れていたようで、建物の隙間から薄く雲がたなびいている。ふとフランツが気になったので彼の様子を伺うと、ようやく緊張感から解放されたのか、ぼんやりと反対側の外の景色を眺めていた。

 帰りの車内がにぎやかであったのは最初のうちだけで、ヴィルヘルムとハンスが本社に今後の方向性を報告するために小声で話し合った以外はずいぶんおとなしく、会話も少なかった。しかし、産業総括省に近付くにつれてキヨがやたら快活になり、イェンスに仕事上のことを絡めて積極的に話しかけていく。それに対してイェンスが嫌な顔一つせずに丁寧に答えながらも上手に距離を保っているのがわかると、僕は彼の振る舞いを見習おうと彼の言動をそっと観察した。

「この通りの名前がツェイドの都市と一緒だ。なんだか嬉しいなあ」

 フランツがアウリンコの街並みを見て僕に話しかけてきた。するとウィリアムがこの近くに数少ないスポーツバーがあるとフランツに伝え、そのことがきっかけとなって今度は彼らの故郷にあるスポーツバーの話が始まった。そこにハンスと運転手がまたしても会話に加わったので、僕は単純な興味から彼らの会話に耳を傾けて打ち解けた雰囲気を楽しんだ。

 車が産業総括省の敷地内へと到着し、運転手にお礼を言って車を降りる。ウィリアムとキヨにも感謝の言葉を伝え、僕たちはこの場で解散することとなった。

 まずはウィリアムが建物内へと消え、ヴィルヘルムらも車を停めてある駐車場へと向かって歩き出す。イェンスも僕も彼らの後を追うべく歩き始めたのだが、一人佇んでいたキヨが小声でイェンスを呼び止めた。それを受けてイェンスが嫌な顔一つせずに彼女の元へと引き返していく。僕は不安を覚えたので彼らの様子をそっと伺うと、キヨがイェンスに何かを手渡そうとしているのがわかった。イェンスは首を横に振って受け取りを拒んだのだが、彼女が彼の手を握って半ば強引に渡したようである。彼女はさらにイェンスにぐっと近付いたかと思うと、ささやくように彼に話しかけた。

 僕はヴィルヘルムらの後を追うべきか、イェンスを待つべきかで悩んでいた。なぜ、キヨはこのタイミングでイェンスを呼び止めたのか。遠ざかっていくヴィルヘルムらの後ろ姿を焦りながら見ていたその時、イェンスがはっきりとした口調で彼女に断っているのが聞こえてきた。

「いいえ、受け取れません。はっきり申し上げますと、僕はあなたと連絡を取り合う気が無いのです。今回のプロジェクトでここまで弊社が関わることができたのは、おそらく姉の思惑があったからでしょう。そうでなければ、僕たちがアウリンコまで訪れる必要性は全くありませんでした。あなたがおっしゃるように全ての出会いに意味があるのだとしても、そこから有益な経験のみを得るとは限りません。それに大変申し上げにくいのですが、あなたが僕を良く思って下さったことに対し、僕は何の感慨も感じておりません。僕は昔から風変りでした。ですから、あなたが一般的に魅力的ではないという意味ではありません。どうぞ、僕のことでいたずらに時間を無駄にしないでください。それでは、人を待たせておりますので失礼いたします」

 僕が再び振り返るとイェンスはすでに彼女に対して背を向けており、僕と目が合うなり駆け寄ってきた。

「待たせてすまない」

 どことなく神妙な面持ちでささやいたイェンスに、僕は「気にするな。さあ急ごう」とだけ返すと、キヨの様子を気にかけることなくヴィルヘルムらの後を急いで追った。

 僕たちがやや遅れてやってきた理由を気にすることなくヴィルヘルムらが待ってくれていたのは幸いであった。朗らかな笑顔を見せた彼らに詫びながら合流する。帰り道は僕たちが真ん中の列に座ることになった。

「ようやく一安心できる」

 フランツが喜んだ様子でエンジンを掛けたのに対し、ハンスが「浮かれて事故を起こすなよ」と彼に注意を促す。フランツは「わかっています。安全運転で帰りますから、なんなら少し眠っていても大丈夫ですよ」と答えたのだが、ハンスが「眠いもんか、戻ってからもやることがいっぱいある」と返したので、フランツは「残業かあ」とつぶやいて大きく肩を落とした。

 フランツのぼやきは、僕の心境を代弁しているかのようであった。当初は今日の訪問について、帰社後にある程度内容をまとめる予定でいた。しかし、帰社予定時間を大幅に上回ってしまった今となっては、事務所に戻ってパソコンを立ち上げることさえ億劫に感じていた。

「報告書をまとめ、本社に提出するのは明日で構わない」

 ハンスの言葉にフランツが歓喜した様子で答えた。

「忘れないうちに要点だけは今日中にまとめておきます」

 彼らのやり取りに感化され、イェンスも僕も要点を箇条書きにして会社のアドレスへとメールを送信する。なるべく楽をしたいというところは僕たちも同じであった。

 順調に車が進んでいく。行き交うアウリンコの人々は、やはり年の瀬のにぎやかで気忙しい雰囲気を楽しんでいるように見えた。

 あっという間に内洋まで辿り着き、車が橋を渡り始める。僕は橋を通過している間中、美しい夕焼け空が広々と頭上に広がるのをため息とともに眺めていた。高い建物に遮られることなく空を見上げることができるのは、外洋を除くとアウリンコでもドーオニツでもこの橋の上だけであった。

「どこの夕焼けも等しく美しいものだな」

 ハンスがつぶやいたのが聞こえる。イェンスもまた窓の外を眺めていた。僕は炎のようにきらめく彼の髪色を美しく感じながら、彼の横顔をそっと見守った。彼は今日一日中、誰よりも気苦労が絶えなかったに違いないのだ。

 ドーオニツに入るなり、フランツが嬉しそうに「戻って来たなあ」とつぶやいた。そのドーオニツにおいても、行き交う人々が年の瀬のにぎやかさと気忙しさを楽しみながら流れていく。

 そうだ、新年がすぐそこまでやって来ているのだ。

 年末年始のことを考えた時、僕はイェンスの話を思い出した。彼は長い間、実家に帰省していないようであった。そのことでゲアトルーヅが彼に対し、新年に行われる実家での集まりに顔を出すよう窘めていた。しかし、彼は実の家族といえども一緒にいると心が休まらず、むしろ窮屈な思いしかしないのではないのか。

 僕は自分の経験と比べてみた。僕にも、父とも母とも祖母とも衝突した経験はあった。幾度なく悔し涙を流し、悲しみと孤独とに押し潰され、不器用な僕自身を否定したことも何度かあった。しかし、それらは能力や性格に関する問題だけではなかったのだ。

 ドーオニツは決して物価が安いとはいえず、実家も祖母の家も決して裕福ではなかったため、欲しいものが簡単に手に入ることはなかった。その分、運賃が破格の料金であったのだが、タキアへの帰省にそれなりのお金がかかっていたことは今なら容易に想像がついた。そういうこともあって僕は高級なものとほぼ無縁であったのだが、生活が困窮しているほどでもなかった。だが、当時は最新のゲーム機や自転車などをすぐに買ってもらえる同級生や友人がうらやましかった。つまり、何かにつけて欲しいものを我慢することが多く、そのことをどこか恨めしく思っていたのである。

 それでも不満だらけというわけでもなかった。今思えば、学校から家に帰って来てお腹が空いていると、母や祖母が作ってくれるおやつでそれなりに満たされていた。食事も外食こそ少なかったものの、ほぼ母と祖母のあたたかみのある手料理であった。働くようになった今となっては、母が忙しさの合間を縫って食事の用意をしてくれたことは贅沢なことであり、決してお金で買うことのできない体験であったこともそれなりに理解できていた。しかも、その手料理は素材の味が活きており、僕の好きな味であることは前回の帰省の時に再認識していた。

 生まれ育った文化が母と異なる父は、母の料理に全く不満が無いわけではなかった。同じ食材一つをとっても、タキアとマルクデンとではどう調理するのかが全く異なっていたため、慣れ親しんだ食材が不慣れな味付けで提供された時の喪失感は仕方のないことであろう。おそらくはそういったこともあって、父は自分で郷土料理を作るようになったに違いない。そのような時は食卓に二か国の料理が並べられたりもしたのだが、父は僕がタキアの料理を食べても叱ることはなく、また僕の反応を気にかけているようにも見えなかった。

 父が母につらくあたり、罵っていた場面を受け入れる心づもりは未だに無いのだが、思い付きで父を『孤独』という側面から捉えてみることにした。僕の経験上、孤独というものが実に人々の心を簡単に蝕むことは痛切に感じていた。そのことを踏まえて父の過去を考えると、父が味わった世界の一部がほんの少しだけ垣間見えたようである。しかし、やはり受け止めることができず、思考をイェンスのことに移す。僕は彼が今晩話そうとしていることに、彼の孤独感を深めることとなった重大な出来事が隠されていると考えていた。

 おそらく人間にもなりきれない『種』としての孤立と家族からの孤立と、二つの側面から彼の過去が解き明かされるのであろう。僕がイェンスを見ると彼は気が付いたのか、振り向いた。その表情は穏やかさそのもので、そこには憂いも孤独も見つけられなかった。

 車がCX-1地区までやって来ると、それまで無言であったヴィルヘルムが僕たちに話しかけてきた。

「本当に今日は朝早くからお越しいただいてありがとう。おかげで予定していたことが全て無事終了した」

 彼はそう言うとイェンスと僕の肩に力強く手を置いた。

「いえ、とんでもございません。本日は貴重な体験となりました。本当にありがとうございました」

「無事予定が終了したことに、僕たちはなんのお力添えにもなっておりません。全て御社が事前に入念な準備と打ち合わせを重ねてきたからだと思っております」

 僕の言葉に続けてイェンスが微笑みながらヴィルヘルムに言葉を返すと、ハンスも僕たちを労った。その優しげな茶色の瞳を捉える。

「ようやく着いたぞ」

 フランツの安堵した声と同時に、車はノルドゥルフ社の事務所が入っている建物の前に到着した。僕たちは車を降り、ヴィルヘルム、ハンスそしてフランツに心から感謝の言葉を伝えて握手を交わした。彼らの表情は一様に親しみのある笑顔に満ちていた。

「では、来年になりますが、貨物の輸入手続きをよろしく頼みます。良い年末と新年をお迎えください。また、お目にかかれる機会を楽しみにしていますぞ」

 ヴィルヘルムがあたたかい言葉を残して去っていく。ハンスも同じく心あたたまる挨拶を僕たちにして建物内部へと消える中、最後に残ったフランツがことさらさわやかな笑顔を僕たちに向けて言った。

「今日は本当にありがとうございました。通関よろしくお願いします。それでは、お互い恋人と良い時間を過ごしましょう」

 イェンスにとってそのことは初耳であったはずなのだが、彼は笑顔で「ええ、そうですね。もちろん、あなたも。どうもありがとうございます」と調子を合わせてフランツに返した。僕はフランツが年末を故郷で過ごすことにしたのを思い出したので、「あなたの願いが彼女に聞き届けられるよう祈っています」と言葉を添えた。すると彼は「そうでした。彼女と今週末会うので、ツェイドの魅力が伝わるようプレゼンするつもりです」とはにかみ、車を移動させるべく去っていった。

 僕たちも駐車場へと向かって歩き出す。「帰りは僕が運転するよ」とイェンスに言うと、「ではお願いしよう」とややおどけた口調で返ってきた。

「フランツには僕たちに恋人がいる、と言ったんだね?」

 彼の表情は穏やかであった。

「少し違うかな。フランツから、僕たちに恋人がいるから他の女性に興味が無いのだと言われたんだ。事実ではないから否定すれば良かったんだろうけど、今後のことも考えてつい嘘をついてしまった」

「実にいい嘘じゃないか。これで次に行く時は気軽に訪問できるかもしれない」

 イェンスはそう言うと明るい笑顔を見せ、吹き付ける風をものともせずに前を向いた。

 日が傾き、太陽がイェンスを正面から捉える。建物の隙間から漏れさす光に、宝石のような緑色の瞳は眩しさをこらえ切れず目を細めたのだが、表情はやはり穏やかであった。

 駐車場に到着するなり、イェンスが事務所に報告の電話を入れた。ローネが応対しているらしく、イェンスが自然な笑顔を見せる。そのやり取りから、彼女はギオルギから報告は明日以降で構わないと言伝を受けており、車の鍵の返却も明日で構わないと伝えているらしかった。

「わかりました、どうもありがとうございます」

「では明日ね。クラウス、そこにいるんでしょ、あなたも気をつけて帰るのよ」

 イェンスが僕の耳にスマートフォンをあてた瞬間、ローネの朗らかな声が聞こえて挨拶を返す。すぐに電話は終わった。

「さて帰ろうか」

 イェンスが駐車場の料金を清算する間、彼の荷物を預かって先に車へと向かう。車のエンジンをかけて車内で待っていると、イェンスが「やっぱり寒くなってきたな」と言いながら乗り込んできた。

「慣れた寒さのはずなんだけどね」

 明るい口調で返したからか、イェンスが朗らかな笑い声を上げる。つられて愉快な気分になった僕は、ようやく暖まってきた手で冷たいハンドルをしっかりと握って車を出した。

 行き交う車のライトと街灯が、空の美しい色合いと建物に差した濃紺の影とのコントラストの中で幻想的に浮かび上がる。すっかり茜色に染まった遠くの空の端では、金色がかった紫色の空が徐々に広がりを見せていた。やがて薄暮の帳を背景に、宵の明星に続いて青白い光を放った星たちが数個躍り出たかと思うと徐々にその数を増やし、街灯りに霞むことなくその美しさを静かに佇ませた。

 イェンスは座席を倒しており、くつろいだ状態で空を眺めていた。僕はおそらく胸中にいろんな思いを抱いているであろう彼に、そっと言葉をかけた。

「イェンス、君は今日本当にいろいろとあったね」

 僕は運転していたため彼を直接見ることはしなかったのだが、彼からは相変わらず穏やかな雰囲気を感じ取っていた。

「そうだな。思い返すとなかなか興味深い一日だったよ」

 彼はつぶやくように答えた。僕は彼の言葉を噛みしめながら、静かに言葉を返した。

「君がアパートに戻ってから話したいことがあると言っていた話は、僕の今後にも関係するんだろう?」

「そうだと思っている」

 彼はそう言うと無言になった。車は事務所まで間もないところまで来ていた。

「ところで晩御飯はどうする?」

 僕は彼に明るい口調で尋ねた。すると彼はやおら起き上がって座席を直した。

「実は腹ペコなんだ。いつもの惣菜屋で晩御飯を買おうかと思っているのだけど、アパートに着くまでに飢えそうだ」

 彼の口調はややおどけていた。

「僕もさ! カフェやレストランで食べてもいいと思っていたのだけど、それだと君の話まで待てない。非常に悩ましいんだ」

 僕が笑うように言ったからか、彼は朗らかな口調で提案した。

「やはり飢えに耐えて、君のアパートで買った夕飯を食べないか? アパートに着くまではお互い無言で愛想も無く、駆け足かもしれないが」

 僕が彼の案にあっさり同意すると、今度は夕飯を何にするかで話が盛り上がった。

 食べ物の話ばかりしていたので余計お腹が空いたのだが、それでも事務所に到着して駐車場に車を停めると足取りはいっそう軽やかになり、僕たちは競うように帰り道を急いだ。仕立ての良いコートを羽織ったイェンスを、何人もの女性が気にかけて視線を投げてくるのだが、彼も僕も全く気にかけなかった。惣菜屋で夕飯をたらふく買い、向かい風をものともせずにますます歩調を速める。

 あっという間に、イェンスの住むアパート近くまでやって来た。

「もし、君が待てないんなら、君の部屋にしようか?」

 僕のささやかな提案に彼は品よく首を横に振り、「あと数分程度の差だ。階段も苦じゃない。それに君の部屋は居心地がいいからね」と言って微笑んだ。彼の部屋は僕からすると非常に整っており、機能性と快適さにあふれているように思えたのだが、お互い隣の芝がより青く見えるらしかった。

 僕が住んでいるアパートに到着し、一気に階段を駆け上がる。そうなるとますますお腹が空き、僕たちは食欲に促されるがままに動いた。かろうじて残っていた理性で手を洗ってうがいをし、コートとジャケットを洋服掛けにかける。そしてすぐさま夕飯をテーブルに広げ、機嫌が悪くなっていた胃に謝罪しながらお詫びの品をひたすら送り続けた。すると、ふてくされていた胃が徐々に快活に笑うようになり、しばらくすると幸福感を伝えてきたので、僕たちはようやく胃と和解してゆったりとした気分を取り戻したのであった。

 落ち着きを取り戻すとシモからもらった紅茶を思い出し、イェンスに飲まないかと尋ねる。彼が微笑みながら、「ありがとう。ぜひお願いしたい」と返したのを受け、湯を沸かして紅茶を淹れる準備を進めていく。その間に彼が窓を開けて外を眺めていいかと尋ねてきたので、僕はいつものように了承した。

 イェンスが窓を開けるなり冴ゆる風が流れ、暖房器具が唸る。夜空を眺める彼の横顔は、やはり美しさが際立っているように思われた。彼の姉であるゲアトルーヅも確かに美しい女性であったのだが、エルフの特徴がかけらも無いことは今日の面会で判明した。そして、そのことが彼らに禍根をもたらしていることもうっすらと理解できた。一人だけ特別な特徴が与えられるということは、やはり争いの元となりうるのか。そのようなことを考えながらカップに紅茶を注ぐ。イェンスに紅茶が入ったことを告げると彼は窓を閉め、テーブルに着いた。

「ありがとう、クラウス」

 優雅に紅茶を飲み始めた彼を見ながら僕も紅茶を飲む。さわやかな味わいは再び僕の心に安らぎとくつろぎをもたらした。

 突然、イェンスのスマートフォンが鳴り響いた。しかし、彼は苦笑いを浮かべたきりで、そのまま電話が鳴り止むのを待った。僕はその様子に思い当たる節があったので、つい心配から彼を見つめる。目が合うと彼は「実家からだ」とつぶやき、ため息をもらした。電話が鳴り止むと今度は彼にメールが届いたようである。そのメールを読み終えた彼は、いよいよスマートフォンの電源を切ってテーブルの上に置いた。

「君のお姉さんからご実家に連絡が行ったのだね」

 僕はそわそわしていた。

「姉のことだ、僕の身なりまで報告しただろう」

 彼はやや伏し目がちであったのだが、意を決したかのように顔を上げると力強く僕を見つめた。

「さて今朝の件をこれから話そう。だが、その前に断っておきたいことがある」

 彼は穏やかな口調であった。

「僕が伝えようとしている話を聞いて、君が僕を軽蔑したり、嫌悪するかもしれないという不安があるのは事実だ。いや、君は優しいから、ひょっとしたら僕を気の毒に思うかもしれない」

 彼の瞳にはあの光があった。僕はその光を追うように彼を見つめた。

「どう思おうと君の自由だ。だが、僕は君を困らせるために話そうとしているわけじゃない。君が今後より良い選択ができるよう、役に立ちたいと思ったからそう決めたのだ」

 彼の眼差しはずいぶん優しかった。しかし、僕はそうでなくともとっくに心を決めていた。

「イェンス。どんな話だろうと僕は覚悟している。何であれ今日一日、ずっと気になっていた。長くなっても構わない。詳しいところも知りたいけど、もちろん君が話せるところまででいい。僕はきちんと受け止める。僕はそう簡単に君との友情を諦めないさ」

 僕がそう言うと、彼は穏やかに微笑んで返した。しかし、すぐさま神妙な面持ちに変わり、一つ大きく息を吐く。その緑色の瞳は力強く僕を捉えているものの、どことなく緊張した様子であった。

「ありがとう。それなら長くなるが、少し詳しく話そう。僕が十四歳になった頃の話だ。僕は高等部を卒業し大学入学までの間、寄宿舎から一旦実家に帰省していた。姉はすでに実家を離れ、アウリンコに住んでいたのだが、ある日一週間の休暇を取って学校の後輩である女性を連れて実家に戻って来た。その女性がアマリアという名前で、当時十八歳だった。彼女の実家は元々某地方国において代々歴史と伝統を受け継いできた、非常に由緒ある家柄だ。アウリンコ設立時から積極的に財政面や人材面でも関わっており、今でも僕の実家など比べものにならないぐらいの本物の名家として名を馳せている。彼女が僕の姉と出会ったのは、彼女が同じ国立北アウリンコ校初等部に入学して間もない頃、校舎内で一人迷子になっていたのを、たまたま通りがかった姉が見つけて保護したのがきっかけだったそうだ。それからは年齢差とコース違いもあって、頻度こそ多くは無かったものの交友はあったらしく、おそらく姉の中では名家出身である彼女と僕とがいい関係になるよう、ずっと願っていたのだろう。僕の話を、僕の知らないところでよく彼女にしていたようだ」

 イェンスが徐々に視線を遠くにずらしていく。

「僕は幼少時からずっと家督を継ぐ者として、心持ちや礼儀作法その他必要な知識を教え込まれていたものの、当時すでに家督を継ぐことに疑問を感じていた。思い返せば、ルトサオツィに会ったことが契機なんだ。あの時以来、いろいろな気付きがあった。表面上は従順に親の意図を汲んで行動していたから、僕に期待している両親にそのことを伝えたことはそれまで一度も無かったのだけど、僕の心は常に憂鬱だった。僕がアマリアと会った時もそういう時だった。ある日の午後、僕が自室で勉強をしていると、弟のアウグストがわざわざ僕を呼びに来た。弟の後に付いて行くと、広間で姉が彼女を僕に紹介してきた。その時の両親の笑顔が非常に意味ありげだったため、僕は両親の意図をなんとなく察知したのだけど、あえて気にかけないようにした。アマリアが自己紹介を済ませると、姉が彼女の家柄を紹介し、やはり意味ありげな眼差しで僕を見た。アマリアの反応は控えめではあったのだが、僕に対して好意があることは見てとれた」

 彼の口がややきつく結ばれたかと思うと、少し憂いを帯びた表情へと変わった。僕は何か不穏な予感を得ながらも、再び口を開いた彼を見守った。

「両親が年齢も近いし、彼女から勉強を見てもらうことを提案してきた。だが、僕は丁重に断った。すると姉が、いかにアマリアが家庭教師として優秀で、かつ気立てが良いかを説明し、僕にそのとおりにするよう促してきた。その目付きは鋭く、命令しているようにさえ見えた。これ以上断ると彼女に対して失礼だという非難の眼差しを両親までもが僕に向けると、僕は――僕は従うしかなかった。早速、僕の勉強を見るという名目で彼女を僕の部屋へと案内した。僕は初めて会う女性といきなり二人きりになることに戸惑ったのだけど、平静さを装って勉強を再開させようとした。実のところ、彼女に学問の質問をするほど僕は困っていなかった。彼女が通常コースにいたこと、そして彼女が大学で学ぼうとしていた専攻に興味を抱けなかったのでね。結局、彼女を放置して黙々と勉強していると、彼女が知りたいところやわからないところがないかと尋ねてきた。僕が振り返ると彼女はすぐ近くにまで顔を寄せていて、息遣いまでもが聞こえた。慌てて前を向いて何も無いと答えると、彼女は僕の肩を抱き寄せるように背後から手を回し、僕が読んでいた学術書を眺めながら幾つかの質問をしてきた。僕は思いがけない展開にかなり緊張していた。多感な年頃だったしね。彼女の質問には答えたのだが緊張からうつむいていると、彼女ははっきりと僕に『あなたはきれいな顔をしているのね』と言った。そして後ろから僕に抱きついてきた」

 彼の表情が少しずつ険しくなっていく。

「僕はやめてください、と言ったのだけど、彼女は面白がって僕をからかい始めた。そして僕の顎を手で持ち上げるとじっと見つめてきた。僕は気恥かしさと戸惑いから思わず顔を背けた。だが、すでに狩られる側にいたのだ。彼女は僕の口を追ってキスをしてきた。突然の出来事にのけぞったのだけど、彼女はさらに僕に体を押し付け、僕の口の中へと進入してきた。そして一旦離れて僕を誘惑するような目つきで見ると、さらにキスを求めてきた。僕は……僕は初めてということもあって抵抗していた。それで彼女に『いけません』と気を強く持って何度も体を離したのだけど、すぐに彼女が僕を官能的に刺激し、さらには僕の手を取って彼女の体に触らせたりした。僕がそれでも『やめてください』と何度も伝え、彼女からようやく逃れて身を守っていると、彼女は笑いながら『嘘よ、女の子に興味がある年齢だもの。本当は知りたいんでしょう? あなたになら教えてあげてもいいわ』と僕に手をさし伸ばしてきた。当時、全く無かったわけじゃないけど、罪悪感と抵抗感のほうがはるかに勝っていたから、僕は首を強く横に振って断った。何より不思議でならなった。なんで僕なんだろうと。地位もお金もあるハンサムな大人の男性のほうが、彼女の求めるもの全てを与えられるはずなのに、なぜ年下で学生である僕を選んだのか。彼女の実家なら、当然そのような男性と知り合う機会のほうが多いんだ。それでも、僕は力ずくで抵抗することはしなかった。万が一でも彼女に怪我をさせてしまったら、ますます僕が不利になってしまう。それが何より怖かった。彼女はそんな僕を見透かしていたのか、ずっと余裕の表情を浮かべたまま、一言こう言った。『逆らうの?』。――結局、本能を刺激された僕は、彼女にされるがままとなってしまった」

 僕は驚きのあまり、思わず呼吸を忘れた。イェンスの表情はさらに険しくなり、どことなく悔恨と恐怖を感じているように見えた。

「……全てが終わると彼女は満足そうに僕に抱きつき、僕のことを好きだとささやいてきた。会ってまだ二時間も経っていないのに、だ。だが、僕は終わった途端に激しい後悔に陥り、自分がわずかでも持っていたかもしれない清らかな心が、自分の浅薄な意志のせいで永遠に失われたことに絶望していた。彼女は茫然としていた僕に勝手にキスをすると、笑顔で部屋から出て行った」

 僕は想像していた以上の出来事にかなり衝撃を受けていた。それでも僕は寄り添うように彼を見つめ、じっと耳を傾け続けた。

「僕は自己嫌悪に苛まされ続けた。やがて使用人が僕を夕食に呼びに来たのだが、僕はドア越しに何も食べたくないと断った。一旦彼は下がって行ったものの、すぐに父からの伝言を預ってきた。『必ず同席するように』という内容だった。僕は言いようも無い悲しみを隠し、赤くなった目を気にしながらおそるおそるダイニングルームへ向かった。そこに着飾ったアマリアが満面の笑みを浮かべて僕を出迎えた。僕はその笑顔に嫌悪感を抱いたのだけど、表面上は取り繕った。そこに父が『どうだい、勉強を見てもらって助かっただろう?』と事もなげに尋ねてきた。僕が無言で突っ立っていると、母が早く着席するよう促し、彼女を歓迎する夕食会が始まった。姉が彼女の隣で時折僕を見ながら笑って話すのが本当に苦痛だった。そこで彼女との間に起こったあの出来事を誰にも知られないまま、まるで何事も無かったかのように、そしてそれ以上物事が進まないよう努めたんだ。でも、夕食が終わった時、母が僕にこう話しかけてきた。『また勉強を教えてもらったらいいわ』。すると姉が即座に同意して、『一週間しかないから、たくさん彼女から学んで今後に活かすべきね』と追従した。僕は独りでいたいし、専攻も異なるから彼女にこれ以上迷惑は掛けられないとはっきり断った。なのに、アマリア自らが『あなたに勉強を教えることは私にとっていい経験となるわ。気にしないでいいのよ』と口を挟んできたんだ。僕が苦痛を隠しながらやんわりと断り続けていると、姉が『イェンス、何を遠慮しているの? こんな機会は滅多にないのよ。あなたたちが勉強している間は邪魔しないわ。だから安心して二人で勉強に打ち込んでいいのよ』と意味ありげな笑顔を浮かべて言った」

 彼はそう言うと僕の目をじっと見つめてきたので、僕はゲアトルーヅが当時言った言葉の意味を即座に理解し、その衝撃から思わず問いただすかのように彼に尋ねた。

「もしかして、君のお姉さんはアマリアとの間に何が起こったのか、知っていたのか?」

 僕の動揺に、彼は視線を逸らすことなく悲しげな表情でうなずいた。

「そうだ。僕はその言葉だけでわかった。そしてその言葉を聞いた両親の表情で全てを悟った。最初からこうなるように仕組まれていたんだ。アマリアは僕の実家程度じゃまるでつり合いの取れない、正真正銘の良家の娘だ。詳しい名は伏せるがね。彼女は兄二人と姉二人の五人兄弟の末っ子で、厳格に育てられた他の兄姉とは異なり、少々甘やかされて育ってきたらしい。そのうえ、異性に対して奔放さがあったらしいんだ。そのことは複数の級友の家族もそう話していたから、事実だと思う。その彼女が外見だけで僕に好意を抱いていることを知った姉が、両親と相談して一家をさらに発展させ、上流階級の一員に取り入れられるように僕を彼女に差し出したんだ。姉にとってはアマリアの奔放な性格も好都合だったんだろう。青かった僕は自分の欲望を制御することもできず、その舞台でまんまと道化を演じたというわけさ。僕はずっと無言で下を見ながら、自分への怒りで体を震わせていた。その時、彼女が席を外したので、僕は哀願するように両親と姉を見てこう言った。『全てを拒絶したい。もし、何もかも投げ捨てて自由に生きたいと僕が言ったら?』。すると父と姉がものすごい形相で僕を睨みつけ、母までもが怪訝な表情で僕を見た。父の冷淡な口調は今でもはっきりと覚えている。『何を言っている? 今まで私がお前にしてやったことを考えてみろ。何より、お前は跡継ぎだ。それを知っておきながら、なぜ拒絶できるという選択肢がお前にあると思ったんだ?』。……僕はそれで全てを悟った。すでに僕の味方はそこに一人もいなかったんだ。僕は悔しさと怒りと激しい孤独を感じながらも、辛うじて平静を保ちながら虚しく言った。『今日は疲れたのでもう休ませてください』。……そしてすぐ自分の部屋へと戻って鍵を掛けると、再び突っ伏して泣いた。もはや勉強どころじゃ無かった。僕が砂一粒ほどでも持ち合わせていたはずの純粋で美しいものが壊され、あるいは醜く朽ちたのだと思うと、青く無知だった自分を激しく責めるしかなかったんだ。……まんじりともせずに次の朝を迎えた。家族と顔を会わせたくなかったし、食欲も無かった。だから、使用人に呼ばれても無視をしていた。その時、『イェンス、いい加減にしなさい』という姉の声がドアの向こうから聞こえてきた。それにも反応しないでいると、姉が部屋の合鍵を持ってくるように使用人に伝えたのが聞こえたので、しぶしぶドアを開けざるを得なかった。ドアを開けた瞬間の、あの時の姉の形相は今でもぞっとするよ。姉は冷たく僕に言い放った。『私たちにこれ以上恥をかかせないで』。僕は抜け殻のように淡々と着替えを済ませてリビングルームへ赴き、操り人形のように座って無理やり朝食を取った。その間のことはほとんど覚えていない。ひどい顔色だった僕は午前中こそ解放されて自室でゆっくり休めたのだけど、午後はそうはいかなかった。遅い昼食を取って少しすると、午前中の分を挽回すべく勉強を見てもらえと父が勧め、アマリアも同意して僕の腕を取り、そのまま僕の部屋へと引っ張るように連れて行った。僕は部屋に入ると、いよいよ言いようもない不安と苦しさから彼女を見ることが全くできなくなっていた。だが、彼女は僕が恥ずかしがっているのだと勘違いしていたんだ。彼女は『あなたがその気なら、両親に私たちの将来のこと話ししてもいいわ』と暗に圧力をかけることを言ってきた。僕が激しい自己嫌悪と家督相続に対する責任との間で苛まされていると、彼女は再び顔を寄せてきた。僕が咄嗟にのけぞって断ると、彼女はたちまちのうちに不機嫌になり、僕を蔑む目付きで見ながらこう言った。『ふうん、断るんだ。ねえ、昨日の夜、あなた私の体を触ったわよね。私の家族とあなたの家族に、『あなたから受けた被害』を知らせないでいるのはどうしてだと思う?』。そう脅されると僕は――僕はまた従うしかなかった。事が終わって彼女が部屋から出て階下に向かうと、僕は走ってバスルームで口をすすぎ、服を着たまま頭からシャワーを浴びた。夕食後も同じように、彼女は僕のところに『勉強を教え』にやって来た。僕はみじめな気分でただ自分を奮い立たせ、こなした。彼女が部屋から出ていくと僕の嗚咽がまた止まらなくなり、その晩も一睡もできなかった」

 彼は長い告白をほとんど表情を変えることがないまま、淡々と話し続けた。しかし、僕は彼の言葉一つ一つに、悲しみと怒りと自己嫌悪と孤独とが彼を執拗に切り刻み、激しく罵っているのを感じていた。

「次の日も僕はわざと遅く起きた。すると僕とアマリア、そして使用人数名を残して両親と姉と弟が外出してしまったことを使用人から知らされたんだ。彼らが見せた気遣いは、僕たちが勉強の代わりに何をしているのか、生々しく把握していることを意味していた。僕は虚ろでとっくに泣き疲れ、自分の存在価値など見出せなくなるほど、全てを諦めて投げやりな心境になっていた。僕は単なる傀儡であり、自由な意志を持ってはいけないのだと感じ始めていたんだ。僕が家督相続を引き受けて役を演じさえすれば、全てが丸く収まる。一家の繁栄が保障される。僕は一生、人知れず道化を演じ切ろうと考えると、一転して歯の浮くお世辞だけを言って彼女の気を引いた。そうして彼女を喜ばせることをやり遂げたものだから、彼女が非常に満足した表情で僕に抱きついてきた。これでいい、僕はこうすることでしか価値が無いのだと自分自身に言い聞かせ、心の奥底で感じていた感情全てを否定して涙をこらえていたその時、不意に彼女の携帯電話が鳴り響いた。彼女がすぐさま電話に出ると、明らかに彼女の声や表情が乱れた。彼女はしっかりと着衣を身に付けていなかったため、僕の部屋で電話せざるを得なかった。その電話の相手は若い男性のようだった。『アマリア、すまなかった。君をとても愛している。君が僕にとっていかに大切な存在か、はっきりわかったんだ。……ドーオニツのA地区にいる? なんでそんなところにいるんだ。今すぐ君に会いたいから、これから僕が迎えに行く』。――僕がその言葉に驚いて見ていると、アマリアは部屋の隅で喜びを抑えながらも、一通り相手を小声で責めなじった。それでも相手の男性が彼女に愛の言葉を贈りつづけたものだから、とうとう彼女は彼と和解したらしかった。実を言うと、僕は電話の相手が男性だとわかった時点で、今思えば素早い判断をしたと思うのだけど、彼女に気付かれないようにずる賢くその様子をカメラに撮り始めたんだ。彼女が電話中に素早く身なりを整え、突然訪れた奇跡をあざとく利用しようと閃いたんだよ。彼女は電話を切ると素知らぬ顔で僕に近付いて甘えてきたのだけど、僕がほぼ一部始終を録画し、今もその状態であることを告げると彼女は激昂して記録を消し、今のことを誰にも話さないよう強く命令して来た。それでも僕はひるまず、カメラを彼女の手が届かない高い場所に置いてから、彼女の両親と相手の男性、そして僕の家族に対して彼女が嘘をついており、何より抵抗する僕を無理矢理火遊びに巻き込んだことを認めさせようとした。あの時ほど僕の頭が鋭く冴えたこともなかったかもしれない。彼女は薄ら笑いを浮かべながら弁解を始めたのだけど、僕は荒ぶる感情を押し殺しながら改めて彼女が僕に性的暴行をし、あまつさえ僕たちをたぶらかしたことをはっきりと彼女の口から認めさせた。そして二度と僕と僕の家族に近付かないよう、約束をも取り付けた。すると、彼女は突如苦々しい顔で怒りをあらわにし、『頼まれなくてもこんな汚いところに二度と来ないわ! しかも庶民のくせに本当に思い上がって。訴えてやる。お父様にあなたの家をつぶすよう、言いつけてやる』と吐き捨てたんだ。僕はそれに対し、『録音と録画はまだ続いている。その動画を世界中に配信することも可能だし、僕が暴行を受けたと警察に届けて、証拠として動画を提出することもできるんだ』と冷静に言い放った。すると彼女は取り乱したように、『何よ、ちょっと冗談を言っただけじゃない!』と僕を睨みつけ、逃げるように部屋から出ていった。そこに車が玄関前に着いた音がした。動画を複数の媒体に保存してから玄関ホールに向かうと、本当は今日の夕方まで戻らないつもりであったのが、アウグストが体調を崩し、急きょ外出を取り止めたのだと父が白々しく僕に向かって言ってきた。そこにアマリアが登場し、僕を一切見ることなく、急用で帰ることになったと家を出て行こうとした。その様子に訝りながらも、父が彼女の荷物を抱えている使用人に急ぐよう指示したその時、家の門の前に超高級車が一台停まったのが見えた。父が憮然として車をすぐどかせようと使用人を呼びつけたその時、車から男性が降りてきた。父はそれを見るなり愕然とした表情を浮かべ、『なぜあの……ンド家のご子息がここに……』と立ち尽くしてしまった。母と姉は困惑した表情で僕に何が起こったのか、説明を求めてきた。僕は『見たとおりです。彼女にはもともと恋人がいたのです』と伝えると部屋へ戻り、荷造りを始めた。そこへ姉がやって来て問いただすように言った。『どうして、どうして彼女を引き止めなかったの?』。僕はアマリアに何の好意も抱いておらず、あまつさえ彼女が出ていったことに心から安堵したと伝えたのだけど、その言葉は姉の神経を逆なでしたらしかった。姉はものすごい形相で冷静にこう言った。『なぜあっさり諦めたのか、あなたの気がしれないわ。私がどんな思いであなたに彼女を紹介したと思っているの? 社交界の花形で、世界的にも有名な貴族の娘であるアマリアと、外殻政府樹立時に幾ばくかの資金を提供した後は政府や大手商社に人材を提供するだけの、日陰で踏みつぶされているグルンドヴィ家の長男であるあなたとが結び付く機会はそうそう無いのよ?』。僕は家族に対する罪悪感と僕自身への嫌悪感、そして束縛からの解放感とで心が苦しくなり、無言で立ち尽くしてしまった。すると姉が独り言のようにつぶやいた。『……とことん自分のことしか考えていないのね。いい思いまでして、まんざらでもなかったくせに』」

 イェンスはなおも感情を一定に保ちながら淡々と話していたのだが、僕は最後の言葉を聞くなり愕然とし、思わず耳を疑った。彼の姉が放ったその一言が、どんなにか彼を深く傷つけたことであろう。

 僕にはそのことが容易に想像ついたので、万感の思いでイェンスを見つめた。この美しい瞳の奥深くに、孤独から来る悲哀の他に、彼自身への嫌悪感と拒絶感をずっと抱え続け苦しんできたのだ。それを思うだけで心が痛み、僕までもが悲しみの淵へと落ちていく。

 彼はその後、引き止めようとする両親に形式ばったお礼と挨拶を伝えて半ば強引に家を飛び出し、休暇のため閉鎖されていた寄宿舎へと舞い戻ったのだという。そして親しくしていた管理人の男性に頼み込んで特別に滞在させてもらうかわりに、お礼として掃除や調理などの家事や庭仕事を手伝わせてもらったのだと語った。

 僕は彼の告白一つ一つを複雑な思いで受け止めていた。彼の言葉全てに壮絶な重さがあった。しかし、未熟な僕には彼にかける適切な言葉がまたしても思い付かないでいた。

「イェンス、その……その……なんて言ったらいいのか。君が……君が当時どんなにつらかったかと思うと僕はいたたまれない」

 たいしたことが言えない僕に、イェンスはさびしそうに微笑んでから言葉を返した。

「いや、僕はずる賢いんだ。あざといとでも言えばいいのか」

 彼は自嘲気味に言うと、さらに言葉を続けた。

「アマリアとは大学が違うのと、そもそものコースが異なることもあって、その後見かけることはなかった。彼女のほうも僕に近寄りたくなかっただろう。僕が彼女にとって都合の悪い事実を全て握っていたからね。いくら彼女の家が世界的に有名な良家とはいえ、外殻政府がおひざ元にあるアウリンコとドーオニツでは相手が貴族であろうともみ消せない。僕が実際に被害を届け出ていたら、彼女は実刑を免れなかっただろう。実を言えば、その後も女性ともう一度だけ経験したのだ。それは大学院卒業を間近に控えた時のことだった。彼女は同じ研究室にいた二つ年上の女性で、デボラといった。真面目で人柄も良く、優しかった。きれいな人だったから、同じ研究室の中で特に男性から人気があった。そんな彼女が僕に好意を抱いていることは感じていたのだが、僕は友人以上の感情を持っていなかった。だから、努めて彼女と二人きりにならないようにしていたんだ。ある日、彼女から卒業を祝う催しを彼女の部屋で行いたいと誘いがあった。僕は丁重に断ったのだけど、彼女がいつになく真剣で何度も誘ってきたので、無下にもできず結局応じることにした。その頃の僕は直感が少しずつ磨かれてきていて、それがどういう展開を生むのかにも勘付いていた。そして卒業式から数日経った日に彼女の部屋を訪れると、いつもより艶やかな装いをした彼女が僕を出迎えてくれた。僕たちはまずワインで卒業を祝い、思い出話をしながら彼女の手料理を食べた。食事が終わると彼女の勧めでソファに並んで座り、話を続けた。僕が雰囲気を壊さないまま、そろそろ帰ることを伝えると彼女は僕に寄りかかり、僕の目を真剣に見つめながらこう言った。『あなたが私に興味が無いのはわかっている。でも、私はあなたのことが好きでたまらない。私は初めての相手はあなたとすると、ずっと前から心に決めていたの。お願い、あなたの恋人になれなくても、せめて私を女性にして。そしたら諦めがつくわ』。彼女は少し涙ぐんでおり、僕の腕に抱きついていた。僕は彼女をそっと離すと、本心から今後出会うはずの大切な男性のために、自分自身を大切にすべきだと伝えた。そしてあなたに問題があるのではなく、僕自身に問題があり、今後も恋人を作って相手と親密な関係を築く気がないことを強調した。それでも彼女は瞳を濡らしながら想いの丈を伝えてきた。僕は非常に困り果てた。でもその時、ふとある考えが浮かんだ。その女性はアマリアと違って純粋さがあり、僕に対して真っ直ぐな愛情を持ってくれていた。そんな女性と経験したら、僕に何か良い気付きがあるかもしれない、とね。実に浅はかで、利己的な考えだということはわかっている。彼女はその間もずっと僕に体を寄せていて、『お願い……』とつぶやいていた。僕は良心の呵責を感じてはいたのだけど、彼女に『わかりました。あなたの勇気を受け止めます。でも、最初で最後だということを約束してください』と伝え、彼女を抱きよせた。……全てが終わると彼女はやはり僕への愛おしさから体を寄せ、僕の愛情を求めるかのような目で僕を見た。だが結局、僕が望んでいたような気付きが得られず、そのうえ彼女に対する罪悪感と僕自身への嫌悪感とが激しく頭の中でわめき散らしていて、到底彼女を受け入れる心境にはなれなかったんだ。……そこで僕は彼女に、『必ず出会う将来の恋人とあなたが幸せになることを心から祈っています』と伝え、彼女の目の前で彼女の連絡先を消した。僕が非道になれば彼女がいち早く幸せになれると考えて、心を鬼にすることにしたんだ。すると彼女はとうとう泣き崩れた。いや、最初から強い意思を持って断っていれば、そもそも彼女を傷つけずに済んだことは理解している。僕が全てにおいて誤った選択をし続けてきたんだ。それが間違っていると知りながらね。……それでも帰ろうとする僕を彼女は引き止めた。そんな彼女に、『僕よりもっと立派で、あなたにふさわしい男性はいくらでもいます』と言い残すと、逃げるように部屋を出た」

 イェンスの表情は強ばっていたのだが、口調はやはり淡々としていた。

「その後その女性……デボラとは?」

 僕が尋ねると彼はためらいがちに答えた。

「その後も彼女から連絡は来ていたのだが、僕にはどうしても応える気持ちが出てこなかった。ただひたすら、彼女が真実の愛を見つけることを願っているうちに、彼女から連絡は来なくなった。卒業して二か月も経っていなかったと思う。今の彼女がどうしているかは全く知らない」

 彼はそう言うと窓のほうへと視線を向けた。その緑色の瞳はやはり美しい光に満ちているように思われた。

「君は決してあざとくもずる賢くもない」

 僕が彼にはっきりと伝えると、彼は少しだけ微笑んでから静かに答えた。

「ありがとう。だが、事実はそうだ。デボラとでもアマリアとでも、僕は男性としていい思いをした。だから体も反応した。それに僕が自分の意志でその経験をしたのは事実だ。僕も結局は短絡的な思考から思いやりの全くない快楽を選び、相手の女性を傷つけたことに変わりはないんだ」

 彼は僕をじっと見つめていた。だが、僕にはその言葉が真実を語っているようにはどうしても思えなかった。

 僕は彼を力強く見つめ返しながら言った。

「違う、イェンス。君こそがそのことで傷付いたんだ。それは事実だ。それを否定しちゃいけない」

 それを聞いた彼が瞳を涙でにじませていくのを見ながら、僕はさらに心を込めて彼に伝えた。

「イェンス、君が僕に言いたいことをまだ伝えていないのはわかっている。でも、その前に僕は君を抱きしめたい。君がどんな思いで告白をしたのか、当時いかに君が傷つき、悲しみ、孤独と自己への怒りで絶望感を味わったかと思うと、僕はそうせずにはいられない」

「クラウス」

 彼は必死にこらえながら僕の名を呼んだ。僕は彼をそっと頭から抱きしめ、彼の頭に優しくキスを贈るとささやくように言った。

「イェンス、君は自分を責めなくていい。君は不要な揉め事を招かないためにずっと女性を避け、断ることに対して充分努力をしてきた。アマリアのことでもデボラのことでも、君は抵抗したり断ったりしたじゃないか。君が彼女たちの要求を呑んだのも、イェンス、君が――君が優しいからだ。意思が弱いからなんかじゃない。おそらくだが君の中に、そういった事態に陥るのを食い止めることができなかった自分に非があり、彼女たちの要求を無下に断るのは自分自身の過失を相手になすりつけることになる、そんな考えがどこかにあったんじゃないのか。いや、君のことだ、そもそもそういった関心を相手に持たせないよう、最大限の努力をすべきだったとも考えているかもしれない。君はいつだって目の前の現実に責任を持とうとしてきた。僕の時でもだ。僕はそういう君を心から尊敬している。だから、僕の大切な友人を責めることは、これ以上するな。僕は過去の君に対して何もしてあげられないけど、今の君に寄り添うことなら喜んでするし、そうしたい。僕は君が何より美しく、気高いことを知っている。君がどれほどまでにか愛にあふれ、優しく、この世界の素晴らしいもの全てを受け取るに値する、かけがえのない存在であることも知っている。そして君の瞳がいかに清らかで、一点の曇りも無く澄んだ眼差しで世界をあたたかく見つめているのかも、僕は――僕はずっと知っていたんだ」

 するとイェンスは力なく僕に寄りかかり、鼻をすすって嗚咽をもらすと肩を震わせた。

 僕はじっと彼を抱きしめながら、以前も願ったように彼の幸せを心から願った。彼は僕にそんな過去があった素振りを微塵も見せてこなかった。彼に好意を寄せる女性のことを意図的に遠ざけることはしても、相手に直接蔑むことを言ったり、あからさまに不機嫌な表情を見せることも無かった。オランカにさえ、彼は紳士的な態度に努めていたのである。

 イェンスは全くもって優しく、美しい振る舞いを心掛け続けていた。それにもかかわらず、彼はそういった問題の原因が彼自身にあると考えていたのだから、複雑な感情が僕の中で駆け巡っていくのも仕方のないことであろう。彼こそが絶望感の中で苦しみ、悲しみを抱えながら独りぼっちで投げ出されてきたのだ。それを持ち前の気高さで誰にも悟られまいと気丈に振る舞っていたのだから、なおさら僕はイェンスを優しく包み込まずにはいられなかった。

 そのイェンスは僕の腕の中で小さく、小さく丸まって泣きじゃくったままであった。彼が受けてきた深い悲しみと自己への怒りからできた傷は、そう簡単に癒えないのかもしれない。僕の言葉ぐらいではなぐさめにもならないのかもしれない。なぜ、彼の家族の中に彼を守る人が一人もいなかったのか。なぜ、彼が全ての責任を負わなければならなかったのか。なぜ、美しい容姿を持っているだけで彼の自由が奪われるのか。

 ふと、かつてイェンスが僕に伝えた言葉を思い出した。『僕は僕自身を過小評価している』。イェンスは確かにそう言った。僕に起こった変化がいずれ彼と同じような経験をもたらすのかと不安に思ったその時、脳裏にミアが浮かんだ。僕が彼女との交友関係を発展させたとしても、良好な関係を維持し続けることは難しかったであろう。それは僕たちが普通の人間と異なる能力と考え方を持っているがため、恋愛において相手の人間の女性を幸せにすることは可能でも、僕たち自身が心から幸せを感じることができないという結論に至ったからである。

 僕はイェンスが伝えようとしていることが何であるのかに気が付いた。彼からすれば、今後僕が女性から強引に求められ、あるいは関係を持つことを哀願されることが、この世界においてドラゴンに出会う確率以下だとしても起こり得ると考えたのであろう。だが、僕には全くもって未知の世界であった。今まで縁が無かったことが果たして起こるのか。僕にとって、永遠に踏み入れることのできない世界なのではないのか。

 僕の美しい友人は静かに僕に寄りかかっていた。暖房器具のうなる音だけが室内に鳴り響く中、彼の幸せをまたしても願い、その無防備な姿を優しく受け止め続ける。彼の美しい精神を想ってそっと彼の頭にキスをしたその時、落ち着きを取り戻した彼がやおら僕から離れ、涙の跡が残った瞳を見せて僕に微笑んだ。

「ありがとう、クラウス。君のような美しい友人がいるということに感謝してもし足りない。君は本当に強くて優しいのだな。君の言葉には本当に助けられた。なおかつ、君が僕の話を聞いて軽蔑したり、憐れんだりしないでただ僕を受け止めてくれたことに本当に感謝している」

 その緑色の瞳にはあの光があふれており、彼全体がその光に優しく包まれているかのようであった。僕は咄嗟に、「君にしたいと思ったことをしたまでだ」とやや照れながら彼に返したのだが、彼の美しさに圧倒されていた。それから僕たちは再び無言になったのだが、静かな空間を僕は好意的に受け止めていた。

 すっかり冷めた紅茶を飲む。舌の上で淡く消えていった風味を味わいながら一呼吸すると、思い切って彼に尋ねた。

「君は僕にも起こり得ると思ったから、君の経験を話してくれたんだね?」

 それを聞いて彼は真剣な表情でうなずき、僕を真っ直ぐに見つめながら答えた。

「君はさっきも言ったが、美しく優しい。そして純粋さがある。そんな君の魅力に惹き込まれる女性は確実にいる。ベアトリスがその一例だろう。だから、この先も君が出会う女性で君に恋焦がれ、熱烈に君を求める女性が現れることは当然出てくると思っている。むろん、その際に君がどのように相手に応じるのか、そしてそのことを君がどう捉えるかは君の自由だ。だが、君が思い悩む可能性が無いとも言えない。君は優しいからね。どのみち、君がそのことで自分を責めることがないよう、僕の話から有益な部分を他山の石として参考にしてくれればと思ったのだ」

「ありがとう、イェンス。君の体験は僕からしたら壮絶で、君の苦しい思いや激しい感情も貴重な教訓として受け止めている。僕は今まで女性とそういう経験をしたことが無いし、何もかもが全くもって未知の世界だ。想像がつかない分、そういう状況になった時にきちんと対応できるのか、不安も戸惑いも確かにある。だから、君が僕にも起こり得ると判断しているのであれば、そのことを念頭に置いたほうがいいんだろうね。でも、本当にこの僕がそうなるかもしれないだなんて、やはり実感が湧かないな」

 僕の気弱で心許ない言葉にイェンスは優しく返した。

「クラウス。君が望めば、君に好意を抱く女性と簡単に関係を持つことができる。だが、君はあえてそうしない。それがどういう結果をもたらすのかをわかっているからこそ、あえて未知の世界に容易に飛び込まず、距離を置いてきたのではないのか?」

「確かにそうかもしれない。ただ、その……僕が女性にもてたことがそれまで無かったから、僕を好意的に見る女性がいるとは思えなかったんだ。ベアトリスのことだって本当の僕を知ったら、つまり、変化を起こした僕じゃなくてこの煮え切らなくて弱気な僕を知ったら、途端に興味が冷める気がするんだ。僕は君みたいに完璧じゃない。君の話は受け止めるけど、知っているだろう? ミアだって僕を選ばず、違う男性を選んだのだから」

 僕はやや拗ねた口調で答えた。彼が僕を認めてくれるのは嬉しかったのだが、友人として過大な評価をしているのではないかという懸念はやはりあった。するとイェンスがいつになく真剣な表情を浮かべ、はっきりとした口調で言った。

「言っただろう、クラウス。君は自分を過小評価しすぎていると。君が気付かなかっただけで、君を憧れの眼差しで見てきた女性はずっといたはずさ。ミアとの件も、君に魅力が無いという証拠にはならない。少なくとも彼女は君と親しくなろうとしたのだからね。君が自分を客観的に評価できないのは仕方が無いのかもしれない。だが、そろそろ僕が主張することを君が受け取める頃だと思っているんだ。クラウス、僕は君の幼い頃の写真を君の実家で見せてもらったけど、君は本当に愛らしい顔をカメラに向けていた。それは今も同じさ。君が気付いていないだけで、変化に関係なく元々美しい顔立ちなんだよ。この僕を完璧というなら、そんな君のほうが完璧なんだ」

「ありがとう。君は以前も似たようなことを言ってくれたけど、僕からしたら君こそがまさしく見た目も性格も能力も、振る舞いにおいても完璧で圧倒的な美しさを放っているんだ。だから、君からそんなふうに言われると、やはりこそばゆい感じがする。だけど、そういう視点があることをちゃんと受け止めようと思う」

 僕が照れながら答えると、イェンスは「ぜひともそうしてほしい。僕が今日一番伝えたいことなのだから」と静かに微笑みながら言った。

「それはそうと、君のお姉さんは君をアマリアと無理に付き合わせようとしたことは認めていたんだね。アマリアとの件で君が許さないでいる、と今日話していたから」

 それを聞いたイェンスがため息交じりに答えた。

「実を言うと、僕はそのことで姉にも家族にも直接責めることを言ったことは無いんだ。けど、結果としてそうなるのかもしれないな。それでも僕は大学院の卒業式に両親を招待した。父の都合が悪くて、両親とはほんの少ししか話せなかったのだけど、それまで僕を育ててくれた恩もあったし、僕なりに感謝の言葉を伝えたかったんだ。両親は複雑な表情をしていたよ。正直に言うと苦々しい表情といったほうが適切だと思う。確かにアマリアとの一件以来、ほとんど実家に帰らなくなったし、こっちに住んでからは家督相続の話し合いで一度戻ったきりだ」

 彼はぼんやりと宙を見つめていた。僕は彼のどこか憂いがかった表情を見ているうちに、ゲアトルーヅが彼に年始の顔合わせに必ず出席するよう伝えていたことを思い出した。

「ねえ、年末・年始の休暇は実家に帰るの?」

 僕は彼の思考を遮らないよう、頃合いを見計らってそっと彼に話しかけた。

「さて、どうしようか。新年の挨拶に顔を出すべきか、出さないべきか。それが問題だ」

 イェンスはそう言うとややおどけてみせた。有名な古典を引用した彼の様子に余裕を感じた僕は、わざとにやついた表情で言葉を返した。

「君に北北西の風が吹くように祈ろうか?」

 それを聞いた途端、彼は勢いよく笑い出した。

「よしてくれ、僕は南風の中にいたいんだ! 以前はわざと頭がおかしくなったふりをすれば、自ずと僕への関心が薄まるかもしれないと考えたりもしたこともあった。だけど君も知ってのとおり、仮に実行に移せば、ますます僕にとって不利な結果につながる。ここが規律を重んじるドーオニツだからね。だから、なるべく自然体のままで家督相続を拒むことにしたんだ。僕が経験してきたことやそれに伴う感情が、エルフの特徴を持っているからこそ起こったのだということも理解している。僕が普通の人間だったらここまでこじれなかったし、ああ、君とも出会わなかったかもしれないな。僕は今の僕をただ穏やかに受け止めたい気持ちでいる。それはクラウス、君のおかげだ。君が僕の心に心地良い南風をもたらしてくれた。僕は貪欲だから、この先もずっと心地良い南風に吹かれていられるよう、全力で画策していくつもりなんだ」

 イェンスはそう言い終えると手を差し出してきた。その整った指先が複雑な感情から逃れ、彼の触れたいものに向かって伸ばされている。それを思うと、僕は彼の手をがっしりと握り返した。彼もまた力強く握り返すと、「本当にありがとう」と言って僕を強く抱きしめた。

 僕は深い喜びの中にいた。大金や高い地位を手に入れたわけでもないのに、全てが心地良かった。そう、古いアパートで質素な夕食を最高の友人と一緒に食べ、重大な秘密を打ち明けられた後に感謝されただけである。それなのに僕を取り巻く何もかもが美しかった。

 その後、少し話をしてからイェンスは穏やかな表情で彼の部屋へと戻って行った。深々と夜が更けていく中、僕は改めてイェンスが今晩語った体験を思い返すことにした。

 彼の言葉は僕の心の奥深くにまで沈み込み、様々な感情と思考をもたらしていた。その一方で、僕は改めて彼の幸せを願うようになっていた。それは同情心からではなく、彼の気高さと持っている優しさと普遍的な愛がこの上なく美しく、彼こそが最上の幸せを受け取るに相応しい人物なのだと感じていたからであった。

 ひょっとしたら彼の美しい眼差しが僕に向けられること自体、かなりの奇跡なのではないのか。僕からすれば、彼は自暴自棄になってもおかしくないほどの壮絶な体験をしてきたように思われた。それでも彼が穏やかで優しさを身にまとっていることは、彼が生来持つ性質の他に、目には見えない愛が彼を優しく包み込んでいたからなのかもしれない。

 彼のような、自分の心を打ち砕く出来事が仮にこの僕に訪れた際、僕は彼のように自分を保っていられるであろうか。僕は彼よりずっと意志も信念も弱く、また、物事の本質を捉える事ができないでいた。それを思うと卑小な自分にくじけそうになるのだが、彼が赤裸々に過去の体験を話してくれてまで僕に伝えようとしたことを決して忘れてはいなかった。

 いつまでも自己卑下ばかりしてはいられない。強く意志を持って前に進み、高みに昇っていくと決めたのだ。ぐっと気持ちを切り替えると、僕はようやく自分自身と向き合うことにした。そこで僕自身の能力を把握するのと変化を上手に活かす糸口をつかむべく、まずは心を落ち着かせて五感を開放させていく。しかし、あっという間に情報の渦に揉まれ、混沌の奥へと追いやられた。それでも、何か真実が隠されていないか、必死になって理解できない『何か』の正体を見極めようとする。しかし、結局は情報の洪水の中で溺れ、疲弊と恐怖を引きずるようにその世界から逃れることしかできなかった。

 五感を閉じ込めた瞬間に全てが平凡な世界へと戻る。いや、今の僕にとって全てが秩序だった、慣れ親しんだ世界ではなかったか。そう考えると正解が一つではないことに気が付き、膨大な無数の観念の前に早くも辟易しかける。

 焦っても仕方が無い、少しずつ前に進もう。

 僕は言い聞かせるとベッドに身を沈め、全身を休息の地へと明け渡すことにした。長かった一日が終わろうとしている。疲れを感じながら細く長い息を吐いているうちに、いつしか僕は深い眠りの世界へと転がり落ちていった。


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