第11話

《第三章》

 月曜日になった。今朝の冷え込みで所々歩道が凍っているものの、空は気持ちがいいほど晴れていた。いつものように会社に向かって五分ほど歩いていると、イェンスが少し先を歩いているのが見えた。そこで彼を捉まえるべく、足元に気をつけながら急ぎ足で彼に近付いた。

 彼は僕の気配に気が付いたのか、振り返るなり僕を見つけて立ち止まった。

「おはよう、イェンス」

「おはよう、クラウス」

 早速一緒に歩き始めたのだが、時折吹き付けてくる風の冷たさにこらえきれず、顔をマフラーにうずめる。それでも僕たちは弾む声でドーナッツやマフィン、そして紅茶の感想を話しあった。イェンスは紅茶の味が非常に気に入ったらしく、ドーオニツにも出店していないかをわざわざ調べたほどであった。もともと彼は紅茶を好んでいたのだが、さらに愛飲することをさわやかな笑顔で宣言するものだから、相変わらず気品あふれる彼を愉快な気分で受け止める。

 ムラトの事務所前で一旦イェンスと別れた。まだ完全に統合していないため、朝は必ずムラトのところに立ち寄って予定や連絡事項を話すことになっていたからなのだが、事務所内を見回したもののムラトが見当たらず、代わりにオランカが目に飛び込んできた。

 彼女を見るなりつい警戒をしたものの、彼女は他の人と話していて僕には気が付いていないようであった。その時、フェイと目が合い、彼女にムラトの居場所を尋ねる。するとムラトはすでにギオルギの事務所へと赴いていったらしく、僕は彼女にお礼を伝えるなり早速戸口へと引き返そうとした。

「クラウス、ちょっと待って。持って行ってもらいたい書類があるのよ」

 フェイはそうと言うとすぐさま自席に戻り、何やら書類をクリアファイルに入れて戻ってきた。

「悪いけど、これをジャンに渡してくれる?」

 彼女は統合を機に経理部門へと異動が決まっていた。そこで彼女の後任として、輸出入業務のみならずB/L揚げやD/O交換の担当者となったジャンに必要書類を渡してほしいと頼んできたのであった。

「かしこまりました。経理担当になったんでしたね。そしたら、今後港に出向く機会は無くなりますね」

 僕がクリアファイルを受け取りながら彼女に言葉を返すと、彼女は朗らかな笑顔を浮かべて言った。

「私は元々経理の仕事をしていたから気にしていないわ。実を言うと、D/O交換やB/L揚げの仕事は、ずっと社内にいるのが退屈だったからムラトにお願いしてやらせてもらっていたの。最初は港のあちこちを駆け回るからすごく楽しかったのだけど、ある時書店で簿記の本をふと手に取ったら、もう駄目ね。経理の仕事もやりがいがあったことを思い出して、つい勢いで買ってこっそり勉強し直しちゃった。そうこうしているうちに統合の話が出て、ムラトがそれを機に異動希望があるか確認していたでしょ? 私、チャンスとばかりに経理に戻りたいとムラトに伝えたら、彼にとっても好都合だったらしくてあっさりと決まったのよ。貸借対照表やら損益計算書やら、眺めていると懐かしくてやる気が湧いてくるわ」

 僕は彼女の仕事熱心さに感心すると、確かに書類をジャンに届けると伝えて事務所を出ようとした。しかし、彼女がさらに僕を小声で呼び止め、力強い表情で言った。

「何度も呼び止めてごめんね、ローネから話を聞いたわ。彼女があなたとイェンスに変なちょっかいを出さないよう、私も注意して見張るわね」

 フェイは先ほどからずっと男性社員と話し込んでいるオランカに視線を向けた。そのオランカはなおもこちらを気にすることなく楽しげに話していたため、僕はつい相手の男性を慮ってしまった。

「いえ、助かります。逆に気を遣わせてすみません。それでは」

 僕はそのままオランカに気付かれることなく事務所を後にした。ギオルギの事務所に着くなり、ジャンを探して彼に書類を渡す。すでにフェイから彼宛に連絡があったようで、彼は受け取るとすぐに出掛ける準備を始めた。

 イェンスがローネと通路で談笑している。それとは反対方向の奥の部屋からムラトがギオルギと話し合いながら出てきたので、ムラトに声をかけた。

「おはようございます」

「おはよう、クラウス。木曜日はイェンスとアウリンコへ行くんだったな。家具と雑貨の輸入も、今週はコンテナが多く入って来ているそうだ。それ以外の輸入も件数が多い。引越しや統合やらで慌ただしいと思うが、今週もよろしく頼むよ。それとギオルギと話したんだが、ローネとお前は明日からあっちの事務所に朝寄らなくてもいい。ここに直行してくれ」

 ムラトはそう言うと「またな」と足早に事務所を去って行った。続いてギオルギに挨拶をすると、彼はイェンスの隣の席を指し示しながら言った。

「あの席は正式に君の席になったから、どんどん荷物を持ってきて構わないよ。資料がたくさんあるんだったらあそこの棚が空いているし、君のやりやすいように使ってくれ」

「ありがとうございます」

 僕は早速、新しい自分の席へと向かった。いつの間にか着席していたイェンスに、今日の仕事が終わり次第、ムラトの事務所にまだいくつか残っている僕の荷物を持ってくると伝える。すると彼は「僕も手伝おう。近いけど車を使うといい」と朗らかに返したので、彼の助言を受けて車を借りることにした。

 始業時間になって早速仕事に取り掛かる。イェンスの仕事ぶりは正確かつ迅速であるため、僕は一緒に働くようになってから常に良い刺激を受けていた。

 以前ギオルギが、『この小さい事務所にイェンスのような優秀な人材が来たのは奇跡だ』と喜んでいるという話をムラトから聞いたことがあった。単純に考えても、国立中央アウリンコ校を特別コースの、しかも本来であれば首席で卒業できた超天才が在籍しているのだから、ギオルギがイェンスをいかほどか気に入っていることは想像に難くないであろう。

 イェンスは物腰穏やかでありながらたくましく、また知識も豊富で、本当の優しさをも持ちあわせていると僕は評価していた。彼のあの美貌がさらに憧れの対象になることも、彼の本意はともかく、非常に納得できるものであった。僕からしてみれば彼は気さくで飾らず、嫌味なところが全く見受けられないのである。

 エルフの特徴が彼の人格にも芳しい影響を与えているのであろうか。いずれにせよ、彼と一緒に仕事をすることは実に楽しく、僕の生活をより充実させて潤いさえも与えていた。

 午後になって税関へ赴く用事ができた。よく見かけるベアトリスも今日はいないようである。用件もすんなりと終了したため、すぐさま帰路へと着いた。

 事務所に入る直前、僕はふと空を見上げた。すると、一羽の鳥が澄み切った青空を背景に飛んでいるのが見えた。その自由に大空を舞っている鳥の美しさに祝福を贈ると、穏やかな気持ちで事務所内へと入った。

 席に戻るなり、イェンスがやや暗い表情を浮かべているのが飛び込んできた。彼は僕に気が付くと微笑んだのだが、僕は彼に差しこんだ陰が気になったので小声で尋ねた。

「イェンス、どうかしたのか?」

「クラウス、さすがに君は気付くのが早いな。さっきハンスからメールが来てね。君にも来ているんだが、そのメールの内容なんだ」

 彼はそう言うとパソコンをじっと見つめた。何やら気掛かりな事態に、ハンスから十五分程前に届いていたメールをすぐさま開封する。するとそこには、僕たちの分のアウリンコへの交通許可証を入手したので当日渡す予定である旨と、今週木曜日に会う産業総括省側の担当者二名の名前が記されていた。

「ゲアトルーヅ・G・ブリューゲル……水道統括管理局水質管理部部長、それにもう一人も女性なんだろうか? 飲用水品質管理課主任キヨ・スズキ……」

 彼の暗い表情と照らし合わせてもメールの内容に不審な点は無く、首をひねっていると不意に思い出したことがあった。

 イェンスには姉がいた。確か勤め先が産業総括省であった。そのことを思い出すと僕は驚いて勢いよく彼を見た。イェンスは僕の驚きを弱々しい微笑みで受け止め、ため息混じりに言葉をもらした。

「僕の姉がそのゲアトルーヅだ。姉は勘が鋭く頭も切れるから、もしかしたら僕がノルドゥルフ社の輸入通関手続きに関わっていることを察知し、わざわざ会うように設定したのかもしれない」

 彼の表情が途端に険しくなった。僕は彼が姉弟と確執があると話していたことを覚えていた。しかし、彼にそこまで憂いの表情を浮かべさせるほどの間柄がどのようなものなのか、全く想像がつかないでいた。

「君がつらいのであれば、ギオルギかムラトに頼んで代わりに行ってもらえるように僕からお願いをしてみようか?」

 僕はおずおずと彼に提案した。彼は諦めがついたのか、一呼吸置くとややさっぱりした表情を見せて言った。

「ありがとう、でも大丈夫だ。僕が気後れしているだけで、向き合えばうまくやり過ごせるはず。それに僕たちの名前はすでに姉たちに知らされている。木曜日に会わなかったら、僕のスマートフォンの電話履歴がすごいことになるだろう。それにしてもブローカーがわざわざ同行するなんて不思議だと思っていたのだが、なるほど今なら納得できる」

「君のお姉さんはどういう人なの?」

 僕は仕事中であることを理解していたのだが、思い切って彼に尋ねた。すると彼はやや神妙な面持ちでささやくように答え始めた。

「姉とは年齢が八つ離れていて、僕が幼い頃の姉はずっと勉強をしていた。その他に姉はお稽古に通ったりしていたから、一緒に遊んだ記憶がほとんど無いんだ。それでも昔は姉の優しさを受けたこともあったのだけど、僕だけが生まれながらこの特徴と少し目立つ能力を持っていたことは姉の自尊心を傷つけたらしい。姉は国立北アウリンコ校を高等コースで卒業している。僕が中央校を特別コースで卒業したことは、姉にとって気に障ることだったのかもしれない。僕が試験などでわざと間違えるようにしてからはあまり言われなくなったのだけど、僕が姉ほど勉強をしていなくても特別コースに進んだことを、快く思っていなかった節があったからね」

 彼は漫然とパソコンを眺めると、口元に手を当てて考え込むように話し続けた。

「僕に二歳年下の弟もいると君に話したね。弟も姉と同じ国立北校を高等コースで卒業している。弟は同性ということもあって、どうやら幼い頃から僕と比較されてきたらしく、そのことがずっと不快だったらしい。そういった共通点から姉と弟は自然と結束するようになり、僕をあからさまに疎ましい目付きで見るようになっていった」

 彼はどことなくさみしそうであった。事実、彼は長年さみしい思いをしてきていた。それでも彼の瞳にあの光が宿っていたので、僕はそのかすかな光が彼を力強く支えるように願わすにはいられなかった。

 そのイェンスが自嘲気味に笑ったかと思うと、非常に小さな声でつぶやいた。

「それにしても不思議なものだ。僕は普通の人間の子供とさほど変わらない発育期間を経てきたというのに、僕の能力は普通の人間と異なる。今まで受けてきた血液検査の結果でも、普通の人間に無い成分があると言われたことなど一度も無いんだ。なのに、この結果だ。いったいどんな奇跡だというのか」

 僕はその言葉に驚愕して彼を見つめた。しかし、彼はパソコンの画面を注視しており、僕の視線に気が付いていなかった。

 普通の人間と異なる能力を持ちながら、イェンスの言うとおり普通の人間と同じような経路をたどって成長してきたのであれば、なぜ普通の人間とここまで能力に差が出たのであろう。だが、今の僕たちにその答えが見つけられるはずも無かった。いや、そのことはすでに人智を超えた疑問ではないか。

 僕は彼に何か気の利いた言葉をかけたくて、必死になって思案を巡らせた。僕が踏み込んで尋ねたから、彼は余計に陰鬱な気分に陥ったに違いないのだ。罪悪感と責任感から何とか思い付いた言葉はやはり洗練されていなかったのだが、それでも僕の本意を伝えるべく彼にささやいた。

「君は確かに奇跡の塊だ。そのことでお姉さんと弟さんとの間に確執がもたらされたことは、気の毒に感じている。ずいぶんつらかったことだろう。それに君のご家族との問題に、当事者でない僕が不用意に口を挟むのは適切じゃないこともわかっている。それでも僕は君に寄り添いたい。僕の知っている君はとても素晴らしい人だ。たとえ君の家族でも誰でも、誰かが君を否定しようものなら、僕がすかさず君を全力で肯定する」

 僕の言葉に彼は驚いたようであった。しかし、その眼差しに歓喜の色を現した途端、弾けるような笑顔を僕に見せて小声で言った。

「クラウス、ありがとう。その言葉で充分だ。君には本当に感謝している。どうもありがとう」

 彼の瞳にはあの美しい光が力強く放たれていた。僕が「気にするな」と返しても彼の表情は感慨深げで、淡い喜びで彩られていた。

「君と一緒だと本当に心強い。さて、周りに怪しまれる前に仕事に戻ろう。まだまだ捌いていない書類が多い。急ぎの輸入はずいぶん少なくなったけど、君はあと何件輸入申告を抱えているんだい?」

 僕は彼があっという間に落ち着きを取り戻したことに感心しつつ、僕が持っている仕事の内容を改めて彼に伝えた。税関へ行く前に僕が持っていた仕事のいくつかを彼にお願いしておいたのだが、彼はとっくに終わらせていた。そこでさらに手分けして仕事を再開させることにした。

 僕たちはそれぞれにおいて作成した申告書を、自分以外の人から二回審査を受けた後に申告を入れる体制を取っていた。その申告書の作成方法において、イェンスのやり方が最も見やすく、またミスを防ぐ構造になっていたため、統合を機に彼のやり方で全員が作業を進めるようにした。すると効率が良くなったのか以前に比べて処理速度が上がり、また全体的にミスも減ったため、新しい体制がすでに軌道に乗っているのをギオルギもムラトも高く評価するほどであった。

 体制が安定すると慣れが生じやすいのだが、僕はつとに慣れ合うことのないよう、割り切って仕事したいと考えていた。そのためイェンスと一緒に仕事することが決まった時、勤務中は仕事上の利益追求と法律・規律の遵守を両立させることを目的とするため、いたらない点は厳しく指摘してほしいと彼に頼んであった。彼は僕の言葉に「それは僕からのお願いでもある。お互い努めてそうしよう」と微笑みながら返したのだが、僕にとって同じ考えを共有していることもまた何よりの喜びであった。

 残業を三十分ほどこなし、仕事が無事終了する。僕は荷物を取りに行くべく、イェンスと一緒にギオルギの事務所の車でムラトの事務所へ向かった。あっという間に到着し、あらかじめまとめておいた荷物を車に乗せる。ローネの分も頼まれていたため、彼女がすでにまとめておいた荷物をも次々と車に乗せると、後部座席はあっという間に荷物であふれかえった。

 それを見て閃いた僕は、イェンスに周囲の見張りをお願いしつつ、車を後ろから持ち上げてみることにした。きっと難儀するのではないかと考えながら、リヤバンパーの下に手を入れる。それは単なる遊びのつもりであった。

「一気に力を入れないほうがいい。目立つ結果を生むことになる」

 イェンスの鋭いささやき声にまさかと思いながらも、そっと車を持ち上げる。すると驚いたことに、僕が思っていたより簡単に車が持ち上がってしまった。よもやこれほどまでの力が自分の中にあったというのか。僕は静かに車を下ろしながらも、自分の力におののくようにおそるおそるイェンスを見た。すると彼は冷静な表情で僕を見つめていた。

「繰り返しになるが、握力や跳躍力なんかも上がっているから、急激に力を加えないよう気をつけろ」

 イェンスが僕の耳元でささやいたその時、事務所から誰かが出てくるのが見えた。見られてないとはいえ、イェンスも僕も慌てて車の中へと乗り込む。すぐに車を出すと安心感からか、僕はつい笑い声を上げた。それを受けてイェンスも「危なかったな」と笑い出す。あっという間にギオルギの事務所前に到着したのだが、イェンスも僕もしばらく車内で腹を抱えて笑い合った。

 ようやく落ち着きを取り戻し、荷物を降ろしていく。それらを書庫や棚に収めていくのだが、心ゆくまで笑い転げたからか、さほどの疲れも無く作業は順調に捗っていった。

 引っ越し作業を終えてようやく帰路に就く。日中は風が穏やかで幾分寒さが和らいでいたものの、日が暮れるとやはり冷え冷えとした冬の空気が辺りに覆いかぶさっていた。僕たちは途中で夜ご飯を買い求め、風に急かされるように速足で歩き続けた。

 イェンスの住むアパート近くまで来た時、イェンスが突如空を見上げ、感嘆のため息をもらして立ち止まった。そこで僕も頭上を見上げると、霞んではいるものの星空が広がっており、微妙に色合いの異なる淡い光が美しさを競うように輝いていた。

「クラウス、知っていたかい? 普通の人間には感じ取れない光と色までをも僕たちの目は拾い、感じることができるようなんだ。だから、この明るさの中でも星空がある程度見えるらしい。とは言っても大自然の中で見るような美しいものほどでは無いのだけどね」

 イェンスの興味深い言葉に、僕は思い当たる節があった。昔からここドーオニツやタキアで星空を見上げた時などに僕にしか見えていない星があり、また暗闇でも日中でも、僕は往々にして様々な色の光の粒を見ることがあった。そのことを当然のことだと思っていた僕は、七歳の時に家族とその美しさを共有しようと家族にそのことを伝えた。しかし、両親も祖母も見えていないらしく、目の錯覚か気のせいだと言葉を返された。ひょっとしたら年齢的な問題なのではないかと考えた僕は、そのことを数年後に複数の級友に話すことにした。しかし、その結果もまた、惨めなものであった。最初は興味深そうに話を聞いていた彼らも、僕が意識を向けた先に光の粒が見えると話した途端に怪訝な表情を浮かべたのである。挙句には僕が変わり者だから変なものが見えるのだと嘲笑された時は、なぜ自分の秘密として押しとどめなかったのか後悔したほどであった。

 誰も僕の話を信じてくれず、母や祖母ですら「感性が豊かなのね」と笑って取り合わなかったことは、僕にとって思い出したくない過去となっていた。そこからさみしさと悔しさというものが、変わり者で不器用な僕にしか訪れないと考えるようになったのは自然の成り行きであろう。僕はずっとそう考えてきた。

 だが、驚くべき変化が僕に起こっていた。その嫌な思い出を記憶の闇へと葬り去ろうと何度も何度も苦慮してきたのにも関わらず、今や思い返しても過去ほどつらさを感じていないのである。そればかりか、美しい星空や光を見ることができるというのは、自己が持つ特殊性の中でも肯定的に受け止められる点であるように思われた。

 長年嫌悪を抱き、見ないように努めてきた光の粒も、僕がよくよく意識を向けた途端に幼い頃と同じ鮮やかさで僕の視界へと飛び込んでくるのは今も変わりなかった。僕がイェンスやユリウスなどの瞳に光を見出す理由も、ひょっとしたらここからきているのではないのか。

 僕は頭上の美しい世界を見上げたまま、イェンスに尋ねた。

「君はいつそのことに気がついたの? 君も見たことがあるかはわからないけど、僕は意識を向けると光の粒を見ることができるんだ。でも、それを他の人に言ったら馬鹿にされた。だから、僕は君に言われるまで暗い過去として封印しておくつもりだった」

「やはり君もか。ずいぶん前さ。それがどうやら僕にだけ見えていると理解したのは三歳を過ぎた頃で、最初にルトサオツィに会った五歳の時にようやくそのことを確信したのだ」

 相変わらず幼い頃から頭脳明晰で冷静な分析力を持つ彼に、僕はまたしても驚いた。やはり彼は傑出した存在なのだ。

 僕が五歳の頃はそこまで思考が働いていなかった。その頃の僕は幼稚園にあった絵本や本を全て読み切って退屈しており、かといって大人が読む本には興味が湧かず、周囲の子供たちがする遊びに時々は交じるものの、おおよそは一人で絵を描いて過ごしていた。光の粒に関して言えば、他の人にも見えるかどうかは気にせず、その光をただ感嘆しながら眺めていただけなのである。

「僕にも君のように、客観的に自分を理解する能力が備わっていたらと思うよ」

 僕のつぶやきに彼は白い息を小さくもらしながら静かに言葉を返した。

「君は君自身の異質さに、ずっと気が付かなかったんだね」

 彼の瞳にはあの光があった。

「僕は自分がどことなくずれていることには気が付いていたのだけど、単に僕がおかしいんだと思っていた。つまり、他人と違うのは僕が真に劣っているからであり、捻くれているからなのだと考えていたんだ。それに僕が努力しないで何かをこなすごとに、周囲から否定されてきた。僕が怠け者だから楽をしよう、手抜きをしようとしているに過ぎないってね。だから僕は自分自身がずる賢く、そのせいで周囲から低く見られても仕方のない人間だと思っていたんだよ」

「君のような優秀な頭脳でも、客観的に君自身の素晴らしさに気付けなかったというわけか」

 イェンスは考え込むように言った。

「特別コースだったから世間的には優秀だったのかもしれないけど、真の優秀な頭脳とはイェンス、君のことを指すんだ。僕のように途中でだらけて勉強も投げ出し、まぐれが当たったような成績では肩を並べるのが申し訳ない」

 僕は彼のほうを見ずにぼそぼそと言った。確かに客観性に欠けるのかもしれないが、イェンスのほうが僕よりはるかに勝っていることだけは把握していた。するとイェンスが僕の部屋で一緒にご飯を食べながら話をしたいと伝えてきたので、彼の思惑に戸惑いながらも応じて僕の住むアパートに向かうことにした。

 イェンスは僕の部屋に入るなり、「窓を開けて、少しだけ外を眺めていてもいいかい?」と尋ねてきた。僕はいつものように「好きなだけどうぞ」と返すと、やかんを火にかけた。

 冬でも窓を開けて外を眺めることは僕のありふれた日常であったのだが、イェンスにも似たようなところがあった。彼は窓から少しだけ身を乗り出して夜空を見上げていた。その横で暖房器具のスイッチを入れ、コートを洋服掛けに掛け、それから彼が星空を見やすいように室内の明るさをかなり控えめに調節する。

 この一連の流れは、今までもう何度も僕の部屋で行われてきたものであった。しかし、いつもと同じように見えて、今までと全く同じであるとも思えなかった。全てのものは移ろい、少しずつ変化しているらしい。そうであるなら、僕は今まさにその変わりゆく世界を目の当たりにしているのである。

 イェンスは薄明るい部屋に背を向けたままであった。その時、僕の繊細な視感度が、ほのかな明かりに照らされているだけのイェンスの髪の輝きを捉えた。その黄銅色にも緋色にも輝く美しさに、僕はまたしても心を奪われて見入った。

『この光景を目にしなくなる日がいつか来るのかもしれない』

 ふと心許ない考えが脳裏をよぎる。今のこの瞬間が遠い未来において過去の良き思い出となり、懐かしみながら思い返す日がいずれ来るのだ。それを思うと、目の前の状況がかけがえのない瞬間を凝縮した空間であり、尊い価値で満たされているように思えてならなかった。

 僕の友人はなおも美しくそこに佇んでいた。窓は二人並んで見上げるほどの横幅が無かったので、僕は彼の側に立って声をかけた。

「イェンス」

 彼に覆いかぶさるように星空を見上げたその時、ちょうど東の空から流れ星が現れて儚く消えていくのが見えた。

「クラウス! 今の流れ星を見たかい?」

「見たさ! ちょうど空を見上げた瞬間に見えたんだ。ああ、なんて幸運なんだろう」

 流れ星自体は珍しい現象ではないのだが、ここドーオニツでは星空が街灯りに邪魔されるため、ことさら縁起の良いものとされていた。

「夜空を眺めるのは実にいい。癒される」

 イェンスがしみじみと頭上を見上げながら言った。僕は彼の言葉を身に痛く感じながら、遠くの星々を眺めた。夜でも街中が明るいのはアウリンコだけでなく、ドーオニツでも同じであった。それでも僕の住むアパート周辺はいくつかの要因が重なり、比較的星が見えるほうであった。

 広い空の向こうには、果てしない宇宙が広がっている。優秀な頭脳とほとばしる情熱を持ち合わせている学者たちの研究と理論によると、宇宙は今この瞬間も加速膨張しているのだという。

 ふと大胆な思考が脳裏をよぎる。僕の変化も宇宙の膨張のように際限なく広がっていくのであろうか。そう考えただけで不安と謙虚さが押しのけられ、貪欲な願望が全身から広がっていく。しかもその願望は期待と好奇心にも満ちていた。

 イェンスはどうであろう。彼の変化は僕にとって目覚ましいもので、人間よりのエルフなのではないかと思うほどであった。ひょっとしたら、イェンスはすでに限界に近い窮屈さを感じ始めているのではなかろうか。そうであれば、そう遠くない未来に彼が人間社会から離れ決意をするのかもしれなかった。そのことを考えるだけであっという間に複雑な心境へと陥る。しかし、彼が自由と喜びを享受し、自然な状態でのびのびと人生を謳歌するために僕の力を喜んで差し出す決意は、ずっと前から固めていた。そのうえで、彼が進む道先に僕が寄り添えないのであれば、彼の人生から身を引く覚悟も固まりつつあった。もちろん、簡単に言い切れないほどの感傷と寂寥感に苛まされるのだが、僕は自分の都合だけでイェンスを束縛してはならないと考えていた。一方、彼といつまでも一緒に星空を眺めるような関係が続いたらと、心密かに末長い友情を願っているのもまた事実であった。

 僕の中にはイェンスに対する二つの相反する思いが、背中合わせに存在していた。そのうえで僕が何より恐れているのは、僕が彼の人生の重荷になることであった。僕はどちらの思いもそっと心の中に留めると、夜の世界をぼんやりと眺めた。

 道路を車が行き交い、人々の声が小さく昇って来る音以外は穏やかであり、辺り一帯が冬の空気が持つ透明感に包まれている。そのような中で、不意にイェンスが僕を振り返って見つめた。彼は星のような神秘的な輝きをその瞳に放ちながら、静かに言った。

「クラウス。君はお腹が空いているだろうが、夕飯を食べる前に言わせて欲しい。少し間が空いてしまったけど、帰り道での君の言葉に対してだ。君は例えるならあの星のように、力強く美しく輝いている状態だ。でも当の君は、いかに君自身が光り輝いているかを見ることができないでいる。だからその光の色も、強さも大きさも、君自身は何一つ本当のことを知らないでいるんだ」

 彼は優しい眼差しで僕を見つめ続けた。

「君は充分、優秀だ。それに君はこの世界のありとあらゆる美しいもの、喜びをもたらすもの、永遠に途切れることのない安らぎを受け取る権利を、生まれながらに有している。もちろん、それは全ての存在についても同じことが言えるのだけどね。クラウス、僕は以前も言ったと思うが、君は僕を過大評価しているし、君自身を過小評価していると思う。君は僕の中で最も親愛を捧げたいと思い、僕ができる最良のことを喜んで与えたいと願う人物だ。だからいくら君とはいえ、僕にとって心から大切である友人のことを軽々しく侮蔑しないでほしいのだ」

 イェンスの言葉は真っ直ぐに僕の心を捉えると清らかでやわらかい感動を吹き込み、全身をあたたかい喜びで覆っていった。もはや彼の言葉のみならず、彼の全てが美しかった。

 僕は言葉を失ったまま、じっと彼を見つめていた。彼の手が僕のほほにふれ、いつの間にか流れていた涙を優しく拭う。指先から彼のぬくもりが伝うと僕はいっそう感極まった。

「君は感性が豊かで、些細な機微にも気が付く。そんな君が今まで体験した出来事には、君にとって受け入れがたい、つらいものも少なからずあったはずだ。だが僕が見たところ、君は実に誇り高く、それでいて真に深いところで受けた悲しい出来事を自分の力量不足と捉えて自分を恥じ、責めている節がある。そのことから君は君自身を客観的に見ることができず、君が持つ強さや美しさ、素晴らしいものなどを見誤っているように見えるのだ。全ては僕の推測にしか過ぎないし、君の内面に土足で踏み込んだ無礼を詫びなければならないだろう。クラウス、君を見ていると孤高という言葉を思い出す。それなのに君は他人への思いやりにあふれている。僕は君が持つ美しい光に心を奪われている。君の言動や振る舞いに感化されることもしばしばある。僕が君に与えている影響は少ないだろうが、少なくとも僕は君という存在の恩恵にずっと預かっている。今、この瞬間もだ。このような会話ができる友がいることこそ、僕には至高の喜びであり、心から感謝を捧げていることなんだよ」

 イェンスの言葉は最後まで美しい旋律で僕に響き、僕の中の喜びと彼への深い親愛の情とに優しく共鳴していった。それは僕の細胞一つ一つを感動であふれさせるほどの、強い揺さぶりをももたらしていた。僕は湧き上がる想いを握りしめると涙をふき、彼をしっかりと見つめながら伝えた。

「イェンス。君の言葉の一つ一つが僕に向けられたのかと思うと、本当に嬉しい。君が言うほど僕はそうではないとつい否定をしたくなるのだけど、そのことはもうよそう。僕が君との友情にどれほどまでに感謝をしているか、君が知ってくれると嬉しいんだ。僕は君から本当にたくさんの影響を受け、君が僕にもたらした恩恵のほうが計り知れない。今もまさにそうだ。ああ、このままだと君の言葉を後追いしているだけにしか過ぎないのだけど、僕は……」

 不意に言葉が詰まる。感極まっていたのもあったのだが、僕は彼にどうしても伝えたい言葉を我慢しようとしていた。その僕をイェンスが無言で捉える。その表情は優しく諭しているように思われた。僕は彼の緑色の瞳に希望の光を見出すと、その光に導かれるかのように言葉を紡ぎ出した。

「……僕は君とずっと友だちでいたい。この先、君が遠くに離れてしまうことがあったとしても、それは君の自由だ。それでも僕の身勝手な願望として、僕は君の友人として君と一緒に星空を見上げ、そして君が持つ光を見ていたいんだ」

 堰を切って出た言葉はまたしても磨かれておらず、幼稚で彼への思いやりに欠けている気がした。それでも僕は覚悟とともに彼の表情を見守った。すると彼は瞬く間にあふれんばかりの笑顔を浮かべ、親愛の眼差しで僕を見つめ返しながら言った。

「クラウス、僕も同じなんだ。君を束縛するわけにはいかないと思って言えないでいたのだけど、君のほうから言ってくれるだなんて、僕はなんて幸せなんだろう!」

 彼はそう言うと僕を強く抱きしめた。僕の肩越しに彼が泣いているのが伝わり、僕もこらえ切れずに涙を流す。

「ありがとう……ありがとう……」

 イェンスが嗚咽混じりにつぶやく。僕もまた彼の言葉に感極まり、感謝の言葉があふれ出た。

「ありがとう、イェンス。ありがとう」

 僕が彼を強く抱きしめ返すと、彼はまるで小さな子供のように僕にしがみついた。その時、僕の脳裏に今日会社で見たイェンスの表情が思い浮かんだ。それは憂いと孤独とに満ちたあの表情であった。

 彼は以前、滅多なことで家族に会うことは無いと話していた。彼がそれでも彼の家族を大切に思っているのは言動から感じていたのだが、彼はすでに家族と距離を置くことを決心したのであろう。それを決意させるほどのことが幾度となく今まで彼に押し寄せてきたに違いない。普通の人間より才能にあふれ、見た目も美しく、体格にも恵まれている彼であったが、彼は家族という枠組みの中でも全くの孤独であった。しかもその孤独は、同じ境遇の者にしか分かち合えない絶望感を伴っていた。その孤独の闇の中で、彼は懸命に耐えながら僕と友情を築いてきたのである。

 ふと顔を上げると、窓の外で星が瞬いているのが視界に入った。澄んだ濃紺色の夜空はどこまでも厳かに僕たちを見つめ、祝福を与えているかのようである。僕は寄りかかるようにじっと抱きついているイェンスの頭を優しく撫でた。彼は先ほどまで力強く僕に語りかけていたにもかかわらず、僕の言葉をきっかけとして彼の中の繊細な面をさらけ出していた。僕の先を進んでいる彼も、結局は脆い弱さを持っている存在なのである。

 もし、彼にエルフの特徴が全く無かったなら、彼は普通の人間、いや成功者としての人生を歩んだことであろう。僕と出会うことは無く、家族や周囲と軋轢や確執も無く過ごし、おそらくは外殻政府や有名な研究機関で彼の本来の才能と強さとを如何なく発揮していたはずである。

 否、それはあり得なかった。

 イェンスはエルフの特徴を持って生まれる運命であり、その運命こそが今の僕たちの友情につながっていた。その彼こそが誇り高く自分を律し、逆境の中でも彼自身を強く保ちながら美しい光を放っていた。

 それを思うと、僕は彼の変化がより強く表れることを願わずにはいられなかった。彼がエルフという存在により近付くことができれば、彼が望むエルフの女性との恋愛も充分あり得ることである。そしてもしエルフの村に住む機会が彼に訪れれば、最初こそ苦労や戸惑いの連続であったとしても、いずれ喜びや自由を得ていくのではないのか。エルフの生活がどのようなものであれ、そのことはおそらくイェンスにとって幸せなことであろう。

 僕は以前もそうしたように、ひたすら彼の幸せを心から願い続けた。それは今の僕にできる精一杯の恩返しでもあった。

 少しするとイェンスが僕から離れ、微笑みながら言った。

「クラウス、本当にありがとう。少し外を眺めていたい」

 彼は言い終えるや否や、夜空を見上げた。僕は彼が落ち着きを取り戻した今、涙の痕跡を空に置こうとしているのだと考え、「好きなだけそうしたらいいよ」と返した。

 再度、やかんを火にかけなおす。時刻を確認すると、アパートに戻ってから一時間以上も経っていた。時間を確認したことで一気に空腹を覚える。テーブルの上には安くて美味しいと評判の惣菜が、無造作に置かれたままになっていた。きっと今晩の僕たちの夕食は特別なものとなることであろう。美しい世界を味わった今、質素な食事さえ僕には豪華な饗宴となりえた。

 ほどなくいつもの表情に戻ったイェンスが窓を閉め、控えめにしていた明かりを強めた。僕は先ほどまで漂っていた美しい友情の世界がすでにお互いの心の中でしっかりと根を張り、青々とした葉を茂らせた枝を瑞々しく空へ向かって広げているのを強く感じていた。

 どちらからともなく夕飯の準備を始め、すっかり冷めた料理をあたため直してテーブルに並べる。そして剥き出した食欲にあっさりと服従し、嬉々として食事にありつく。そうなると僕たちは普段どおりの関係に戻り、軽口をたたきながらゆったりと食べた。

 食事が終わって満たされるといよいよ活気づき、僕たちの五感がどこまで拡大しているのかを試すことにした。そこでイェンスがまず、日常生活で目安としている五感の上限を僕に説明していった。それを聞くなり、僕が普段感じている感覚と差があるのかを確認したくなったため、今度は彼が普段受け取っている情報を僕の五感に対応させて把握することにした。

 イェンスが見ているもの、嗅いでいるもの、触れているものなどをなるべく平坦な言葉で表現する。それを僕がどう感じているかを注意深く、客観的に観察していく。

 何度かその感覚の実験を行っているうちに気が付いたことがあった。それは僕が五感の変化を無意識のうちに、かなり否定的に抑えつけていることであった。また、彼が普段感じている情報のいくつかは今まで受け流しており、中には彼に指摘されて初めて把握するものもあった。僕は今までぼんやりと過ごしてきたことを改めて痛感し、今後は能力を高めるためにもよりいっそう五感に注意を払うことを決意した。

 イェンスが五感を最大限開放すべく、無言になって目を閉じる。僕が固唾を飲んでその様子を見守っていると、彼は突然目を開き、活き活きとした様子で驚くほど些細な情報や僕が感じ取っていない情報までをも拾って鋭く分析を始めた。しかし、情報が過多になるのはやはり疲れるらしく、彼は数分もしないうちにルトサオツィから教えてもらった方法で五感を抑えたようであった。その様子を受けて不安が残ったものの、僕自身も実際に体験しないことには新しい知見に辿り着けないことを理解していたため、意を決してイェンスの助言に従って五感を最大限開放することにした。

 思考を静めるべく、呼吸に意識を向ける。ルトサオツィに教えてもらった方法で五感を開放した次の瞬間、僕は今まで全く体感したことも無い世界の入り口へと舞い降りた。そこは体と脳と心がいたずらに刺激され、情報が錯綜としており、自己をはっきりと保ち続けるには訓練が必要なほどの支離滅裂な世界であった。

 僕は慣れない世界に怯えてイェンスにすぐさま助けを求めた。すると彼は待ち構えていたかのようにルトサオツィから教わった感覚を抑える方法を静かに言い放った。それを早速試すと、今度は以前よりもすっきりとした感覚だけが残り、あれほどまで僕に迫っていた支離滅裂な世界があっという間に消えていった。

「一気に五感を開放した世界を最初に体験できたのは重要だと思う。自分の限界がどこにあるのかが把握できるからね。そこから感覚を一つずつ調節していけば、情報に押しつぶされることなく、敏感に感覚を把握できるようになる。僕の経験からだ」

 イェンスの言葉を受け、次にルトサオツィが教えてくれた五感に伝わる情報を取捨選択するやり方を試した。するとそれはすぐさま効果を発揮し、僕は不快にならない程度に今までなら感じることの無かった情報を体感することができた。

 それにしても五感が調節できることは、どう考えても不思議なことであった。脳のどの部位がそのことを可能にしているのか。脳の構造自体に変化が起こったとは思えず、人間の理解を超えた変化にただただ驚く。五感が普通の人間より鋭いのであれば、おそらく些細な音でも耳をつんざかれ、単調な模様や嗅ぎ慣れた匂いでさえ気分が悪くなり、やわらかいものに触れただけで指先が痛みを感じることもあるのであろう。

 異種族の能力を身に付けたにもかかわらず、僕の体が五感から得られる情報に過剰な反応を示さないでいるのは幸いであった。その理屈が何であれ、あの支離滅裂な世界から解放されていることに本能的な安心感と感謝を抱いたのである。

 僕はその気持ちを胸に、まずは聴覚を少しだけ解放し、周囲の世界に耳を研ぎ澄ませることにした。すると家中の機械やら街中から複雑な音が聞こえるようになったうえ、鈍い振動音と甲高い耳鳴りのような音がかすかに辺りに広がっていることに気が付いた。それらが空気中から放たれているように聞こえたためイェンスに音の正体を尋ねたのだが、彼は落ち着いた表情で首を横に振り、肩をすぼめて答えた。

「わからないんだ。僕が物心ついた時から聞こえているんだけど正体は不明だ。以前は気になっていたのだが、もともとかすかにしか聞こえないから気にしなくなったんだ。ひょっとしたら、ユリウスやルトサオツィはその正体を知っているかもしれない」

 彼はそう言うと神妙な面持ちになって僕を見つめた。

「僕の推測だが、おそらく何かの振動音を拾っているんだと思う。だけど、それを知るにはいろいろ知識や情報が足りない。人間世界の文献や資料をしらみつぶしに探して、その原因を特定できたらいいのだけど」

 彼は言い終えると目を閉じて無言になった。どうやら彼も聴覚を開放し、例の音を聞き入っているようである。僕がその様子を見守っているうちに彼が目を開けたので、聴覚を抑えたであろう頃合いを見計らって話しかけた。

「視力以外でも、普通の人間では捉えることのできないものを感じるということもまた、孤独感を誘発させるのだろうね」

「そうだ。他の人が感知できないものを感知できることで賞賛を得られるのは一瞬だ。相手との関係が近ければ近いほど、親しければ親しいほどすぐに気味悪がられ、疎ましく思われるようになる」

 彼は静かに話したのだが、それが彼の実体験に基づく発言であることは、僕の経験に同情した時点で明らかであった。

「上手に感覚を遮断するまで大変だっただろう?」

 僕はつぶやくようにイェンスに尋ねた。彼は僕に微笑んでから、やや遠い目で窓の奥を見ながら言った。

「その点でもルトサオツィに救われたのだと思っている。彼に会うまで僕は押し寄せる感覚の波にいつも足をすくわれ、困惑していたからね。僕の一番古い記憶は胎内にいた頃だ。もちろん断片的にしか覚えていないのだが、自分がどういう状況にいるのかをぼんやりと把握していたんだ。そこからルトサオツィに出会うまで、やはり全てをきちんと覚えているわけではないけど、自分が幼くて感覚を調節できないでいること、そのことで周囲から奇異の目で見られていることを悲しんでいた。だけど彼と出会ってから、いつの間にか自分の感覚を上手に操れるようになっていた。苦手だったものがだんだんと受け入れられるようになったんだ。彼がかけた魔法は唯の暗示にしか過ぎなかったのだろうけど、僕の深いところで良い影響を及ぼしたのだと思う。もし、あの時彼と出会わなかったら、僕はとうの昔に駄目になっていた」

 彼の言葉には共感するところがあった。そして彼の過去が露わになるにつれ、彼の境遇が実に物悲しく、孤独に満ち、それでいて目に見えない強い何かに心から愛されているように思われた。僕が率直にその感想を伝えると、彼は微笑みとともにあの美しい眼差しを僕に向けた。

「目に見えない強い何かに愛されているとは嬉しい言葉だ。ありがとう。クラウス、君も多少なりとも似たような経験があったと思っているのだが」

 その言葉に僕はすぐさま反応した。

「君ほど繊細で、胎内での記憶があるわけではないけど、例の不思議な光の記憶より前だと思われる記憶がある。僕も歩き始める前に、自分がどういった存在であるかに気が付いたことがあるんだ。僕は赤ん坊だから歩けず、きちんとした言葉を話すことができないでいた。そのことを冷静に自覚していたんだ。それからの僕はずっと周囲の環境を知ろう、得た記憶をつなぎ止めようとしていた。幼児期健忘症に抗おうとしていたんだ。いずれにせよ、君の逸話も本来なら驚愕する内容なのに、君だから素直にうなずける。そこはやはり血縁がある者と無い者の違いなのだろうね」

 僕は感慨深げにイェンスを見つめた。

「やっぱり君もそうだったのか。血縁関係は確かに特殊なのかもしれない。僕にも人間としての考えや感情はもちろんある。だが、エルフの血を感じようと五感を研ぎ澄まして世界を覗くと、さっきまで感じていた人間としての考えや感情が愛おしく感じられるぐらい、全く違う見地に立っていることもあるんだ。どちらも僕であり、否定することはしたくない。だけど、それは君やユリウスもきっと同じだろう。この二つの種の狭間で、中途半端な僕にしか味わえない感情や考えを見つけ、浸ることも悪くはない。僕は今、中途半端な自分をより肯定的に受け止める気持ちになっている。この、どちらにも属しないのが僕らしいのだろう」

 イェンスは変化によってますます聡明かつ美しい輝きを放っていた。そのことを目の当たりにし、僕の中に思いがけず焦燥感が生まれる。彼との間にはどうしても圧倒的な力量の差があった。僕はやはり未熟なのだ。しかし、またしても進歩の無い思考をしていることに気が付き、慌てて否定的な考えを打ち消す。

「イェンス。何か飲むかい?」

 僕は気分転換のつもりで彼に話しかけた。

「ありがとう。水を頼む」

 イェンスは朗らかに答えてから颯爽と立ち上がった。彼はそのまま本棚へ向かって宇宙の写真集を手に取り、ゆっくりと眺め始めた。それからその本を手に持ったままテーブルに戻り、今度は僕が差し出した、水が入ったグラスをまじまじと眺め出す。その彼の表情は、何か神秘的なものを水の中に見出しているようであった。それを受けて僕は思い出したことがあった。それはずっと昔に僕が宇宙に対して導き出した、ささやかな私見であった。

「イェンス、僕たちも水も宇宙の一部なんだ。君も知っているとおり、僕たちも水も宇宙も同じ素粒子を共有している。この悠久の時をはるかに超えた、広大な宇宙に一瞬でも僕たちが存在しているということは、想像もつかない何か偉大な存在が、たとえ僕たちを直接認識していなくとも、僕たちの存在を現宇宙を構成する重要な要素だと認めてくれている気がするんだ」

 イェンスは僕の言葉を聞くなり感嘆の声を上げ、弾けるような笑顔を見せた。

「そうなんだよ! ああ、クラウス。君は最高だな。そのことを思うと、僕は自分という存在を力強く感ずることができる。どんな刹那の瞬間でも、僕という微粒子にも満たない存在を宇宙が必要としているからこそ、僕を存在させてくれているのだと思えるんだ」

 彼の瞳に純粋な輝きが現れる。その輝きは小さくとも夜空のどの星よりも貴いほどの美しさがあった。

「イェンス、君は宇宙関連の研究職には就こうとしなかったんだね」

 僕がその輝きを捉えながら言うと、彼はいたずらっぽく笑って返した。

「それは君もじゃないか、クラウス。君が今も宇宙に対して憧れも興味も抱いているのを知っている。本棚には宇宙の謎を紐解く、幾つかの理論を説いている本が何冊も並んでいたぞ」

 彼が指摘した本は全く隠していたわけでなく、そもそも彼も同じような本を所有しているのだが、彼がわざと問い詰めるかのように尋ねてきたため、僕もあえて弁解するかのように答えた。

「僕は研究職や開発職には特に向いていないと思ったんだ。興味はあるけど、真剣に宇宙と相対しようとする人たちの前で僕の宇宙に対する情熱なんて、漠然とした憧れにしか過ぎない。それに僕は宇宙の写真や記事を眺めるだけで満足できる。君もそうだろうけど、大学院に居た時、僕が無名のカスタム・ブローカーに就職することを知った全員が非常に驚いた。ホレーショも言っていたね。特別コースで外殻政府関連の職にも、研究職にも、そして世界中で展開している超有名企業にも就職しないのかと僕は散々周囲に言われてきた。修士課程で学んだことや実験で得た知識は、僕の中では大切な宝物だ。だけど僕はブローカーの仕事に就いてよかったと思っている。人や社会のつながりが見えるし、表舞台に立ちたくない僕にとって物流を裏から支えている感じがして、やりがいも誇りも感じている。小さい頃、いろんな積荷を積載した貿易船は宝の船のように見えた。今の仕事を通じてその船一隻にいろんな職種のいろんな人たちが関わっているのがわかると、目に見えないつながりにすごく感動したんだ。僕が特別コースで得たものと、ドラゴンの能力を存分に発揮するには対象が非常に限定されるけど、これが今の僕の性に合っているんだと思う」

「君の気持ちはよくわかる。僕たちはどうしてこうも似通ったのだろう。僕も就職を決めた時、祖父母を含めた家族全員から反対されたし、親戚からも猛反発を受けた。院の研究室の先生や当時の知り合いも、博士課程に進むことや他の職に就くことを強く勧めたしね。僕は最初から最後まで異端児なのだろうな。才能をどぶに捨てて全く無意味な選択をしているとか、ありとあらゆる飛躍の機会を自ら摘んでしまうとは愚かだ、などと冷ややかに言う人もいたよ。他方で惜しまれたりもしたのだけど、僕はこの能力を活かすことをあえて選ばなかった。自分の能力を活かした職に就けば、他の人や社会のために具体的な貢献をすることになるだろう。でも、僕がますます苦しくなることは目に見えていた。僕はエルフの特徴を持っていることを、今でも普通の人間には知られたくない。好奇の目も嫉妬の目も、嫌悪の目も僕にはもう充分なんだ。だが、人より秀でたことをすると注目を浴びてしまう。すると興味はあっても情熱を捧げることに抵抗を感じてしまうんだ。そうなれば情熱を持って生きている人に、僕がいくら能力を持っていても敵うはずが無い。対象が何であれ、情熱を注げる人が大成する可能性があるのは自明の理だ。それでも他人の詮索を避けながらも、僕の望むやり方で社会の役に立てることに意義を感じているのも事実だ。この世に生を受けたからには、些細なことであれ貢献ができたら素晴らしいことだからね」

 イェンスが豊かな表情で淀みなく話す。僕はどこか魅力的な彼のやわらかい口調にじっと耳を澄ませ続けた。

「地方国に行くと、自然が豊かで人目につかない場所もたくさんある。だけど、僕は生まれ育ったドーオニツでの暮らしを気に入っているんだ。ほとんどの人々が規律正しいからね。僕は穏やかで小さな幸せを感じながら生きていられれば充分幸せなんだ。自然の移ろいや花や昆虫の大胆で懸命な生命力を見ることや、吹きつける風が持っている情報を感じ取ること、空を見上げ、星や雲や光の波長を見ることだけで僕は充分癒される。絶景や神秘的な光景を見なくても、僕の身近なところにも美しいものがあふれているんだ。今ではクラウス、君という力強く美しい友人を得たし、ユリウスという素晴らしい人生の先輩も得ることができた。ルトサオツィは僕にとって憧れであり、目標でもある。今後もきっと彼に啓発されていくだろう。ああ、こう考えると僕はなんて幸せなんだろう! 僕の人生が美しく彩られているのを、今頃になってようやく気が付いたんだ。僕はずいぶんと鈍感だったのだな」

 彼はみずみずしい光を瞳から放ち、さらに全身で彼が感じている喜びを静かに露わにしていた。それはまるで彼の整ったおでこや鼻先、そして指の爪先までもが幸福に彩られているようであった。

「君は鈍感じゃない。イェンス、君はずいぶん控えめに告白しているが、悲しい思いや孤独感、そしてやり場のない怒りや虚無感をずっと感じ続けていたはずだ。君が自己を高く保ち、愛にあふれているのを見ると僕は本当に安心する。君にはずっと笑顔でいてほしいと心から願っているんだ。だから君がこの先、ずっと君が望む生活を続けられるために僕は喜んで力を貸すよ」

 僕はそう言うと彼を真っ直ぐに見つめた。すると彼は宝石のように美しく輝く瞳を優しく僕に差し出した。

「それは僕も同じさ、クラウス。君が笑顔でいられるなんて素晴らしいことだ。君は優しくて純粋だ。それが僕に心地良くしみる。さっき言ったこととかぶるけど、僕は君のご家族に会った時、君が確執を感じていることを知った。僕は君が感じてきた悲しみや怒り、嫌悪感を思うといたたまれなくなる。だが、君がご家族に対して愛情を感じ、ご家族も君に愛情を感じているのも目の当たりにした。君の根本を成し、形成しているものを垣間見ることができたことは光栄だと思っている。そして今でも僕は貪欲に君から学ぼうとしているんだ。君は僕から影響を受けている、と言ってくれた。お互い刺激し合って、ずっと好ましい変化が続いたらと心底から思う」

 イェンスはそう言うやいなや、はにかんだ表情で僕を見つめた。彼のその様子を受け、僕に直感が訪れた。今後も彼と内面を探るような深い内容についてとことん語り合い、お互いに見識を深めあっていくに違いないのだ。

 僕の前には長らく閉ざされていた扉があった。僕は扉の向こうにある世界に憧れて想像を巡らせていたのだが、その扉が開かないものだと思いこみ、そうでなくとも僕にはその扉を開く権利が与えられていないものと考えていた。しかし、イェンスが根気強く僕にその扉がいつでも開けられることを伝え続け、さらにはその扉の向こうへ力強く踏み出すための勇気も資質も、僕が望めば備わっていくことまで諭してくれていた。

 今、僕は扉を開いて歩み始めていることを実感していた。未知の世界の道先ではイェンスが僕を手招きしながら、一緒に道の果てへと到達することを信じていた。僕は彼の期待に応えようと思う。そして道の果てからさらに突き進んだ世界を見据え、自分を成長させながら、この先も訪れであろう幾重もの未知の扉を開けてやるのだ。

 僕は感謝の言葉を彼に伝え、それから心を込めて彼を抱きしめた。僕たちの間には親愛の気持ちと心地良い空気が確実に取り巻いており、僕はかけがえのない友人を得た喜びに全身をうずめていた。この幸福感こそが、今後の僕たちの原動力として作用していくことであろう。

 僕たちはその後もとめどなく対話をした。そのほとんどが他愛もない内容であったのだが、それさえ僕には活力となった。その後、さらに夜が更けてイェンスがあたたかい笑顔と余韻を残して彼の部屋へと帰って行く。僕は独りで部屋にいてもなお、言いようもない安心感の中にいた。


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