第10話

 シモとホレーショの後頭部を眺める。彼らの耳には赤みが残っていた。長時間待たせたつもりはなかったのだが、ずいぶんと寒い思いをさせてしまったに違いない。

 「帰りもよろしくお願いします」

 僕が発した言葉にイェンスがさらに付け加えた。

 「ずっと寒い思いをさせて申し訳なく思っています。あなた方が体調を崩されなければ良いのですが」

 彼が前方を覗き込むように姿勢を傾けたので、僕も前のめりになりながらシモとホレーショに話しかけた。

 「ユリウス将軍の家を出てあなた方がじっと待っているのが見えた時、その……偉そうなんですけど感銘を受けました」

 するとシモが「気にするな」と冷静な口調で返し、ホレーショはかじかんだのか、手をさすりながら振り返って「けっ、生意気なガキどもだ」と言ったのだが、その表情はどことなく朗らかであった。

 車がゲートに向かって動き出す。春や夏は美しい花々や、緑豊かな樹木で彩られるに違いない庭園を静かに通り抜け、入る前には検問を受けたゲートをあっさりと通過していく。ホレーショが周囲を警戒しながら道路へ出ると、シモがどこかに短く報告を入れた。そして数ブロック分は来た時と同じ経路を通ったのだが、途中から違う道路へと入っていった。

 僕がそのことをホレーショに遠慮がちに伝えると、彼は真っ直ぐに前を見ながら淡々とした口調で答えた。

 「そりゃ、行きは政府の最重要人物の家に向かっているからな。事前に提出しておいた運転経路表に基づいて運転していた。どの道路を何時に通り過ぎるか、とかな。それをしなくてもお前たちをユリウス将軍のところへ連れて行くことはできたが、運転経路表を上部に提出しておくと、道路のあちこちに設置されている監視カメラでその車の走行中の様子などを確認することができる。待ち受ける人も運転する人も、安全面と運行面で情報を共有できるということだ。帰りはお前たちを送り届けるだけだから、そこまではしない」

 彼はさらに付け加えて言った。

「悪く思うなよ、俺たちはユリウス将軍を護る立場にいる。万一のことがあれば、政府にすぐ知らせるようにしておくのが、俺たちの仕事なんだ」

 しかし、僕は彼らが僕たちを疑ってかかり、万一不穏な行動が認められた際にはすぐさま政府やユリウスに知らせることができるよう、予防線を張っていたことにむしろ感激さえしていた。それまでなら知ることさえできなかった、警護をする人たちの仕事に対する情熱と誇りとに直接触れたようなものではないか。

 イェンスも同じように感じていたのか、ホレーショに丁寧な口調で話しかけた。

 「いえ、あなた方の仕事手順は素晴らしいと思います。疑うことに遠慮をしていては、ユリウス将軍のそばで長きにわたって信頼を得ることは難しかったことでしょう。別れ際に、ユリウス将軍はあなた方に優しい表情を見せていました。僕はそのことで、ユリウス将軍がいかにあなた方を信頼し、好ましく思っているのかを感じ取ったのです」

「僕も同じことを感じていました。ユリウス将軍の態度を見れば、一目瞭然です。あなた方を非常に信頼し、頼もしく思っているのに気付けないわけがありません。だから、僕たちもあなた方の誠実な仕事ぶりに敬意を表したいのです」

 僕も思っていたことを彼らに伝えると、シモが振り返って僕たちを交互に見つめた。彼の表情は、驚きの中にかすかな喜びが隠されているようにも見えた。

 車が信号で止まるなり、ずっと無言でいたホレーショがシモに耳打ちする。シモはぶっきらぼうに「好きにしろ」とだけ言ったのだが、よくよく見ると表情はやわらかかった。

 「お前たち、この後時間に余裕あるのか?」

 ホレーショがわざわざ振り返りながら話しかけてきた。

「特に予定はありません」

 僕たちは声を揃えて答えた。それを受けて前方に注意を払いつつ、ホレーショが話しかけてきた。

「少しは腹が減ってるんだろ? うまいもの食わせてやる。付き合え」

 乱雑な言葉遣いとは裏腹に、彼の表情にはどことなく親しみやすさがあった。

「ありがとうございます。ぜひご一緒させてください。ですが、いったい何を……」

 僕の言葉を待たずして、ホレーショが吠えるように遮った。

「着けばわかるんだよ! 全く、あの味を教えずにして、ドーオニツに帰せるかっていうんだ」

 彼はそう言うとわざとらしく片眉を上げたのだが、シモに小突かれてすぐに前を向き、何事もなかったかのように運転を再開させた。僕はホレーショの言葉だけで、彼が僕たちに何を食べさせようとしているのかを容易に推測する。しかし、答え合わせはその場所に着くまでの楽しみにとっておこうと考え、感謝の言葉を丁寧に返すとそっと窓の外に目をやった。

 空にはさらに晴れ間が広がっており、ちらついていた雪はいつの間にか姿を消していた。中心部を抜けて商業地区へ入ると交通量が増え、歩道には土曜の夕方を楽しもうとする家族連れや恋人同士、友人同士などで人が多く行き交う姿が目に飛び込んでくる。

 日はずいぶんと傾いており、運転席側の窓からオレンジ色の長い光を差しこませていた。その光がホレーショの淡色の髪を鮮やかに照らしているのを、何となしに眺めながら前方を向いた。

「お前たち、女はいるんだろう?」

 突然ホレーショが尋ねてきた。

「いえ、いません」

 イェンスが即答したのに続けて僕も否定する。

「僕もおりません」

「ウソだろ。お前たち、女にもてそうな雰囲気だぞ?」

 ホレーショが信じられないといった口調で返し、シモも驚いた表情で僕たちを見る。その彼らの反応に戸惑っていると、またしてもイェンスが落ち着いた様子で彼らに言葉を返した。

「今の僕にはクラウスのような友人と会うことや、仕事に打ち込むことのほうが楽しいのです」

 それを聞いてシモが納得したような表情でイェンスを見たかと思うと、今度は僕を見た。

 イェンスの言葉は充分すぎるほど、僕にも当てはまっていた。しかし、僕は不慣れな会話と思いがけない彼らの評価に戸惑い、不意に口ごもってしまった。それを知ってか、ホレーショが前方を見ながら僕に話しかけてきた。

「クラウス、お前もイェンスと同じなんだろう? だが、その様子だとそいつより奥手のようだな」

「ホレーショ、あなたの言うとおりです。僕はこういう話が得意ではありません。ですから、もし良かったらあなた方のことを聞かせてほしいのです」

 僕は話題を変えたくて、半ば哀願するように言った。するとホレーショがややもったいぶった口調で話し始めた。

「俺は五年前に結婚した。俺の妻は美人で優しく、頭もいい。一緒にいるとすごく落ち着くんだ。子供は二人いて、息子は四歳で娘は一歳になったばかりだ。二人ともすごく可愛いし、賢いほうだと思う」

 彼の口調がだんだんと喜びと穏やかさとにあふれていく。表情こそ見えなかったものの、幸せな笑顔を浮かべているに違いない。その様子を後姿からでも感じ取り、僕もつい口元がほころぶ。やはり彼は優しい人なのだ。

「ついでに言うと、俺はおしめだって素早く取り替えられるし、あやすのも得意だ」

 ホレーショが付け加えて言った言葉を聞いて、シモが急に笑いだした。何事かと思っているとシモは僕たちのほうを振り返り、おどけた表情で言った。

「こいつは奥さんに頭が上がらないんだ」

 僕はシモがそういった表情を見せたことに驚いたのだが、すかさずホレーショが吠えるように言い放った。

「違うだろ! 『夫婦を含めて、男女に上下関係はない。今じゃ、家事や育児を分担するのは当たり前だし、警護の仕事にも役立つ』って、お前が先にそう言ったんじゃねえか! なんだよ、あの時『結婚は忍耐じゃない、思いやりだ』とか言ってたくせに」

 するとシモが照れ笑いを一瞬浮かべたのだが、すぐさま冷静な表情へと切り替わってホレーショを軽く小突いた。それを受けてホレーショが「痛え! 傷害罪だな」とおどけた口調で返す。その一連のやり取りが面白くて、イェンスも僕も結局は声を出して笑ってしまった。

 シモもホレーショも家族を非常に愛しており、大切にしている。そのことを考えているうちに、僕はオールとローネのことを思い出していた。シモもホレーショもオールもローネも、僕から見ると家族という絆と愛の中に生涯身を置く美しき人たちのように思われた。そのような彼らに喜びと希望と穏やかな日々が常に訪れ、幸福が彼らを包み込むことをそっと祈りながら外に視線を向ける。

「クラウス。君はさっき、非常に美しい眼差しで彼らを見ていたね。君が何を考えていたのか、なんとなく想像がつく」

 イェンスが耳元でささやいたので彼のほうを見ると、彼の緑色の瞳には内側から放たれている、あの輝く光があった。

「君もだろう、イェンス。君の瞳の中の光が僕にそう教えてくれている」

 僕の言葉にイェンスは静かな微笑みで答えた。そのまま彼が外に視線を向けたので僕も視線を車窓へと移す。歩道では凍えるような寒さの中を人々が思い思いの衣類で身を包み、様々な歩調で通り過ぎてゆく。

 僕が見かけた人たちは、きっと僕のことを永遠に知ることのないまま生きていくのであろう。彼らの人生と僕の人生が直接的に交わることはおそらく無く、彼らにとって僕はただの群衆――赤の他人の一人にしか過ぎなかった。むろん、その反対も存在した。その僕の知らない人が、それぞれ語りつくせないほどの深い人生を歩み、様々な味を経験していくのだ。彼らの瞳には彼らだけにしか見えない風景が映し出されており、僕が聞くことの無い音を聞き、僕が触れる機会も無いものに触れ、彼らだけに吹く風の中を進んでいくのである。それを思うと僕という存在がどこか儚くもあり、尊くもあるようにも思われた。

 僕は思いがけない思考の展開を冷静に受け止めていた。今日ユリウスとルトサオツィに会って四人で話したことで、僕なりに見識が深まったのであろう。そうなると、『自己と向き合う』ということは今後ますます重要な指針となるに違いない。

 再びイェンスを見た。彼は窓の外をぼんやりと眺めていた。どうやら彼も思索にふけっているようである。きっとこの話も彼と近いうちに話し合う日が来るであろう。漠然とそのようなことを考えながら再び前方に視線を向ける。

 僕たちは内洋まであと三キロメートル未満の所まで来ていた。シモとホレーショが信号で停車した時に何かをささやき合う。僕はなんともなしにその様子を眺めていたのだが、シモが不意にこちらを振り返ったので微笑んで応じた。しかし、彼は面食らったのか、困惑した表情を浮かべた。

「……お前たちはユリウス将軍とどことなく似通っているな」

 僕はためらいがちに言ったシモの言葉に当惑して固まった。そこにホレーショがさらに言葉を続けた。

「ユリウス将軍は独身だ。特定の女性もいない。それは把握している。知っているかと思うが、ユリウス将軍は体格も良く、精悍な顔付きで若さがある。そしてかなりの知識と教養を蓄え、パイロットとしての腕前も相当なレベルだ。それで女性からよく声がかかり、誘われたりもしているようなのだが、受けているのを見たことが無いのだ。仮に女性から俺たちに仲介を頼むようなことがあったら、全て断るようにお願いをされている。お前たちに女がいないと聞いて、すぐさまこのことを思い出した。ユリウス将軍は時々物憂げな表情をお見せになるが、大臣に大元帥を兼務されているともなれば、想像以上の苦悩もお有りだろう。だが、実に気さくな方で、俺たちのことをよく気にかけて世話までして下さる。お前たちと一緒にいる時間は実質数時間しかないが、お前たちの持つ雰囲気を俺たちは以前から見知っている気がしているんだ。お前たちが実のところ何者であれ、ユリウス将軍とどことなく似ていることは確かだ。だが、そのことを追及する気はさらさらない」

 ホレーショの口調はずっと穏やかであった。その時、信号が青に変わったため、彼が何事もなかったかのように運転を再開させる。

「ホレーショ」

 僕は彼に何か言葉を返したかったのだが、適切な言葉がまたしても思い浮かばないでいた。イェンスも押し黙っており、何か思案しているようである。気まずい沈黙が流れる中、ホレーショが運転しながら苦々しい口調で言った。

「けっ。追及しないって言っただろう。俺たちはただ思ったことを言ったまでだ。お前たちのことを根掘り葉掘り追及して、正体を知ろうなんざ思っちゃいねえよ」

 ホレーショが車を左折させる。遠くに今朝渡ってきた橋が見えてきた。角を曲がりきると、シモが落ち着いた口調でホレーショに話しかけた。

「ホレーショ、俺たちはすでにこいつらの持つ、独特の雰囲気に飲み込まれてしまったんだ。多分、最初に会った時からな」

「はん! 俺たちは政府要人の警護を担当するプロだぞ。知り合って間もない奴らに、そう簡単に心を開いてたまるかっていうんだ。おい、お前ら!」

 ホレーショが語気を強めたので、僕は思わず「はい!」と大きな声で返事をした。それを聞いたイェンスが、僕の隣で笑いをこらえながら「はい」と返事をする。すると突然、シモが助手席で吹き出すように笑い出した。僕が状況を全く読めずに戸惑っていると、シモが笑いをこらえながらホレーショに言った。

「もう負けを認めろ」

 彼は笑顔のまま、振り返って僕たちを見た。しかし、僕にはシモの言葉の意味が全くわからないでいた。意味も意図も理解できず、困惑から彼らを見つめる。それが癪にさわったのか、とうとうホレーショが振り返って「おい、お前たち!」と再度声を張り上げた。

「いいか、これから今朝話したアウリンコで一番ドーナッツの美味しい店に行って、お前たちにそのドーナッツを買ってきてやる! あんな美味しいのを食わせずにドーオニツに帰してたまるかっていうんだ! だが、お前たちは店に来るな。あの店は大勢の女性客であふれかえっているから、お前たちみたいな奴らが来ると女の視線を集めておちおちドーナッツを買える気がしない。だから、この道路のすぐ先にある駐車場に車を停めるから、お前たちは待機していろ!」

 ホレーショは言い終えると、左手を頭の近くまで上げながら吠えるように続けた。

「くそ、なんて俺は馬鹿なんだ。どのドーナッツにするか、悩んじまっている!」

 僕は彼の言葉に一切の刺々しさを感じていなかった。そして僕の予感は的中していた。やはりホレーショはドーナッツの店へ行こうとしていたのである。するとシモの言っていた、負けを認めるとはいったいどういう意味なのであろうか。

 道路の右手には大きな公園が見えてきた。シモが駐車場へと向かっているホレーショに話しかけた。

「もちろん、紅茶をストレートでつけるんだろ?」

「当たり前だ! 紅茶のストレートが一番だ」

 ホレーショはそう言うと道路脇の駐車場に車を停めた。そしてエンジンを切るなり、僕たちを振り返って見た。彼の瞳は澄んでおり、僕には優しく見えた。

「これから俺たちが買いに行こうとしている店はさっきも言ったとおり、かなり混んでいる。いつも二、三十分は並ぶ人気の店だ。車の中で待っていてもいいが、ずっと乗っていればお前たちも退屈だろう。そこに公園があるからぶらぶらしてもいいし、この辺りをうろついていてもいい。車に戻って来てお前たちの姿が見えなければ、どちらかに電話をかける」

 彼はそう言うとさっさと車を降りた。シモも降りたので僕たちも続けて車を降りる。外は再び雪がちらつき始め、冷たい風が冬の夕暮れをなおいっそう凍てつかせながら夜へと追い立てていた。その寒々とした冬の装いをまとった街並みに、ボールの等加速度運動のストロボ写真のように街灯が並んでいる。その景色の中ですっかり葉を落として枝をむき出しにしている街路樹がいっそう心許ない様子で突っ立っていたので、僕は寒さから思わず身震いした。

「じゃあ、また後でな」

 ホレーショがそう言いながらシモと立ち去ろうとしたので、僕たちは慌てて彼らを引き止め、ひとまず感謝の言葉を伝えた。それを聞いたシモがホレーショを一瞥し、にやりと笑いながら言った。

「お礼はドーナッツを食べて、その美味しさを知ってからのほうがこいつは喜ぶ」

 それを受けてホレーショは意外な表情を見せた。彼ははにかんだのである。しかし、彼はすぐに前方へと体を向け、颯爽と通りの奥へと歩き進んで行った。シモも追いかけるように歩道の奥へと消えていく。

 歩道は人の流れが多く、大勢の人が並んでいるような場所は僕たちがいるところからは見えなかった。そのドーナッツのお店が気にはなったものの、ホレーショからの忠告もあり、別な方向へ移動しようとする。僕は道行く女性の視線を敏感に察知していたので、公園に行こうとイェンスを誘った。すると彼はあっさりと同意し、すぐさま看板の示す方向へと歩き出した。

 歩いているうちに思考が澄み渡ったのか、突如としてシモが話した『負けを認める』の意味が僕にも理解できるようになった。そのとおりだとすれば、イェンスも僕も大変光栄な言葉を彼らから直接もらったに違いなかった。

「ねえ、イェンス。シモがさっき『負けを認めろ』とホレーショに言っていたのは、つまりホレーショが僕たちに心を開いていることを認めろ、っていう意味で合っているんだろうか?」

 イェンスは寒さからマフラーに顔をうずめていたのだが、目元で優しい笑顔を表した。

「そうだと思っている。ホレーショは僕たちと慣れ合いたくないと思っていたのだけど、シモも指摘していた、ユリウスに似た雰囲気を持つ僕たちに親しみを感じたようだ。だが、僕はそのことをかなり嬉しく思っている。彼らはいい人たちだ。君もそう思っているのだろう?」

 彼の問いかけに僕は「うん」と微笑んで返した。彼らは僕たちのために、雪がちらつくような寒さの中でドーナッツを買うために並んでいるのだ。ひょっとしたら、ホレーショがドーナッツを食べたかっただけなのかもしれないのだが、それでも僕たちにも買ってきてくれるのは彼なりの優しさであり、親しみを表しているのだと考えた。

 ドーナッツの話をしながら公園の入口へと向かう。入り口はちょっとした階段になっており、降りた先の広場で上質そうなコートを羽織った若い男性が、街灯も兼ねている時計台の下で誰かを待っているのが見えた。その背後には常緑広葉樹が並び、奥には内洋が冷たそうに水面をくねらせている。薄暗い中でも視線を方々に向けると、女性同士が語り合っていたり、恋人同士が歩いていたり、家族連れがくつろいでいる様子も見られた。それはドーオニツでも見受けられる、いわゆる普通の公園の光景であった。

 それでも散策してみようと階段を降りて右側の歩道へと進もうとした時、背後から誰かが階段を急いで駆け降りてくるのがわかった。その人が僕たちを抜いた瞬間、小さな風が舞い、甘い香りとともに僕の嗅覚と懐かしい記憶とを刺激していく。咄嗟に視線を向けると若い女性であり、その後姿にはどことなく見覚えがあった。そこからすぐさまその女性が誰であるかを思い出したその時、時計台の下にいた男性が彼女に話しかけた。

「ミア!」

「遅くなってごめんなさい」

 ミアは男性のところに到着するや否や彼に抱きつき、彼も彼女を抱き寄せた。そして二人は一瞬見つめあったかと思うとキスをかわし、再び抱き合って会話を始めた。僕はその光景に衝撃を受けて思わず顔をそむけたのだが、その場を立ち去ろうにも足が動かなかった。

 イェンスが僕を気にかけたのか、無言で僕の肩に手を置く。しかし、僕はあっという間に心を苛まされており、すでに答えが出ている状況の中で、わざわざ真実を確認したいという愚考に囚われ始めていた。そこで僕はイェンスに哀願するように目配せをすると、ミアたちに背を向けてうつむいた。それは何とも言えない心苦しさを押し殺してまで、彼らの会話を盗み聞きするためであった。

「あなたから昨日もらった資料、あなたは来週でいいと言っていたけど、私、昨晩事務所に戻ってから少し見ていたの。そしたら家へ帰るのがずいぶん遅くなってしまって……ごめんなさい、だから寝坊しちゃったのね。あなたの言うとおり来週にして、今日あなたに会うことを優先させるべきだったわ」

「いや、僕のほうこそごめん。君は一生懸命だから資料を先に渡せば、君が目を通すのを僕は知っていたはずなんだ。だが、仕事の話はもうよそう。ミア、わざわざまたアウリンコまで来てくれて嬉しいよ」

「私も。ああ、あなたともっと一緒にいられたら……」

 彼女の言葉は最後まで聞き取れなかったのだが、彼女が感じている喜びはその口調にはっきりと表れていた。

 そこから沈黙が流れたのだが、長くは続かなかった。男性がミアに何かを話しかける。その内容がほとんど聞き取れなかったので、下世話な想像だけが脳内を駆けめぐる。

「本当? やっぱりドーオニツはつまらないの、人も街も全部。アウリンコより格下なのに、男はみんな気が利かなくて頼りないしね。洗練されたアウリンコ人の爪の垢でも飲ませてやりたいわ。でも、来年の夏ならあっという間ね」

 反応したミアの声は明らかに喜びで彩られていた。

「あっという間さ。少しずつ物件を探しておくよ。それにこっちなら、もっといい条件の仕事がごまんとあるしね」

 僕は彼らの言葉に、呆然として立ち尽くすしかなかった。

 もう何か月も前の出来事にもかかわらず、ミアのあのはつらつとした笑顔や彼女との甘酸っぱいやり取りが、まるで昨日起こった出来事かのように瑞々しい旋風となって僕に吹き付ける。しかし、彼女はいつの間にか本当に心惹かれる男性と親しくなっていた。そのうえドーオニツのことを見限り、アウリンコに移住することを心待ちするようになっていたのである。

 僕はその事実を淡々と確認しながら心の中でつぶやいた。

『またね』とはどういう意味であったのか。

 とはいうものの、僕も随分前に彼女に対する関心を失っていた。彼女のことを気にかけることさえ忘れていたのである。

 背後から遠ざかっていくミアと男性との話し声がする。どうやら僕はミアに気付かれることなく、彼女を取り巻く風景として処理されたらしかった。仮に気付かれたとしても、彼女の中にドーオニツに対する想いがひとかけらも残っていないのだから、お互いに気まずい思いをするだけであろう。これで良かったのだ。

「クラウス」

 イェンスが控えめに僕の名を呼んだ。僕はその一言で、まるで朽ち果てた杭のようにみじめな姿で立ちすくんでいたことにようやく気が付いた。大切な親友である彼に、ずっと無様な姿を見せ続けていたのである。しかし、イェンスが僕をそう評するとは思えなかった。彼は誰よりも美しい心を持っていた。

 そっと顔を上げてイェンスを見る。すると、やはり彼は全くもって穏やかな表情で僕を見ており、美しくしなやかに輝くあの光を瞳に放っていた。その眼差しに応えたくて散らばった思考を収拾しようとしたのだが、未だ残っている動揺と複雑な感情とが僕を躓かせていた。

「少しだけ、気持ちを落ち着かせる時間が欲しい」

 僕はイェンスにつぶやくように言うと彼の肩に手を置いて目を閉じ、思考の整理と向き合うことにした。今朝、目が覚めてからつい先ほどまで、人生に衝撃を与えるようなことが立て続けに起こった。そこに追い打ちをかけるかのように起こったのが、今しがた僕が目の当たりにした現実なのだ。

 僕はあまりの突然の出来事に、思考と感情が一気にかき乱されたことは理解していた。そのうえで、ミアがこの公園で恋人と待ち合わせている事に対し、何も直感が訪れなかったことに悔しさも感じていた。僕自身が未熟だから仕方が無いのであろう。しかし、そこにもどかしさを感じ、つい自己否定をしたくなる。

 確かに僕はミアの幸せこそ祈っていたものの、彼女に恋人ができるという幸せは想定していなかった。仕事が成功して健康でいるというのが、彼女に対して思い描いていた幸せであり、最良だと考えていた。だが、先ほどのミアの言動からして、僕はずいぶんと見誤っていたではないか。

 僕は彼女からの連絡が全く途絶えたことを、彼女が仕事で忙しいからなのだと勝手に思っていた。いや、事実そのとおりであった。

 彼らの話から推察するに、ミアが新しく担当することとなった仕事が発端であり、相手の男性はそのアウリンコ側の担当者なのであろう。おそらくは仕事を通じて気心の知れた間柄になり、そこからさらに特別な関係へと発展させていったに違いない。

 そもそも僕が彼女に想いを寄せたのは、ほんのひと時にしか過ぎなかった。その想いも元はといえば、イェンスに対する幼稚な対抗心に起因していたことも僕は覚えていた。しばらく連絡を取らないと彼女から伝えられた時は確かに気落ちもしたのだが、彼女は仕事に専念しているのだと思い直してからは、淡い感情は文字通り淡く消えていったのである。だが、現実は彼女を見た途端に動揺し、不適切な行動しか思い浮かばなかった。そのうえ、つい先ほどまで変化に対して強い意欲を感じていたのにもかかわらず、いたずらに感情が刺激されるのを許し、心境に複雑な模様が描き込まれても無抵抗ですらあった。どうして僕はこうも不器用で停滞を好むのか。

 不甲斐ない自分を責めているうちに、ルトサオツィの叡智あふれる言葉とユリウスの力強く純粋な眼差しとが脳裏に浮かぶ。あの素晴らしい体験から、まだ一時間ほどしか経っていないではないか。

 後ろ向きな感情や考え方は、僕にとって本当に必要なものでは無い。

 その思考が僕を捉えると、僕がユリウスの家で感じていた感情がどのようなものであったのかを思い出そうとした。しかし、すぐには掴まえられず、全てにおいて中途半端な自分自身が悔しくなり、またしても躓く。

 冷たい風が僕たちに強く吹き付ける。このままではイェンスに迷惑をかけるだけである。僕はとうとう前向きな思考を諦め、なかなか成長できない自分自身に虚しさともどかしさを感じながら、イェンスの肩に置いていた手を力無く滑り落とした。泥沼へ落ちていくのは僕一人で充分なのだ。

 しかし次の瞬間、イェンスが僕の手を咄嗟に力強く掴み、耳元でささやいた。

「クラウス。僕は君が美しく愛にあふれ、聡明であり、力強く変化を遂げる者であることを知っている。今、この瞬間もだ。君は君の中の素晴らしいものを認めるだけでいいんだ」

 その言葉は僕の心に優しく響きわたり、僕を泥沼からあっという間に引きずり出した。さらに彼のあたたかい言葉は僕の重く淀んでいた心にさわやかな風を流し込み、新鮮な空気をももたらした。僕はその中で感激に打ち震えながら深呼吸し、その風に誘われるかのようにまぶたを開けた。すると彼の顔は間近にあり、その美しい眼差しには暗がりの中でも認識できるほどのあの光が放たれていた。

 僕はその光に癒される何かを感じ取ると、彼の瞳を覗き込むようかのように無心で見つめ、貪欲にその光を貪った。そうこうしているうちに、僕の中で青白い光が発せられているかのような感覚が湧き上がる。それはユリウスの家でも味わったもので、今の僕を優しく包み込んでいるようであった。そこで僕は再び彼の肩に手を置いて目を閉じると、青白く輝く光に僕が包まれている様子を思い描いた。光が強くなるにつれ、僕の心に刻み込まれていた自己嫌悪の模様が少しずつ薄まり、その形が曖昧にぼかされていくような感覚へと移っていく。

 突然、僕は理解した。僕の望む幸せがもはや、一般的な人間としての幸せとかけ離れていることを。しかも異種族からしてみれば、実に無意味で中途半端さをなぐさめるだけの滑稽な幸せになることを。

 僕の進もうとしている道に、そもそもミアは付き添えなかった。彼女が願う幸せは異種族から与えられた変化を受け止め、高みへと進みたい僕とは全く無縁のところにあった。おおよそ一般的な人間が享受する幸せが、もはや僕の手の届かない位置にあるのである。

 僕はそのことを冷静に受け止め、いよいよ言いようも無いさみしさにひたった。だが、それは彼女に対する思いからでは無かった。僕という存在が儚く、孤独であることに気が付いたからである。僕はふと、エトネのところに向かうバスの中で、イェンスが僕の幸せを願ったことを思い出した。彼は当時、すでに先ほどの思考に辿り着いていたことであろう。だからこそ、あの時に憂いを含んだ眼差しで僕を見ていたのだ。しかし、彼はその孤独の中でも、かつての僕に人間としての幸せを心から祈ってくれていた。彼は真に気高く、愛にあふれた人物なのだ。一方、僕がミアに対して感じた一時の様々な感情もまた、確かに僕に学びと気付きとを与えていた。今となってはなぜ抱いたのか理解できない感情でさえ、経験して良かったと受け止めるようになっていたのである。

『湧き上がる種々の感情や思考を否定せず、ただ愛をもって大切に受け止める』

 ルトサオツィが自分自身と向き合うことを強く勧めたことを思い返す。僕は結局、変化に対して相応しい人物であろうとしながらも、自分自身を否定してしまっていた。自分自身を否定し、ただ変化のみを追い求めることにいったい何の意味があるというのか。僕はルトサオツィの言葉をきちんと理解すべく、僕が何を欲しているのかを初めて僕の心に問いかけた。すると自分自身を否定するのではなく、肯定したいのだという切実な声がかすかに届いた。

 僕自身を肯定したい――。そのことを抵抗せずに受け止めた瞬間、余分な力が抜け、自然と自分の中に青白いあの光が輝いているような感覚に陥る。それはやはり心地良かった。

 僕は心が穏やかに広がっていくのを感じていた。それと同時にミアとやり取りしたあの初夏の思い出が、美化されることなく『遠い過去』へと収められていく。その穏やかな心境に意識を向けた時、おでこの辺りが明るくなる感覚があった。その明るい感覚に導かれるかのように、イェンスの肩にずっと乗せている僕の手を見つめる。僕はこうしていられたからこそ、安心して自分の心と折り合いをつけることができたのだ。

 イェンスは雪にまみれながらもずっと優しく肩を差し出したままであり、あまつさえあたたかい微笑みを僕に向けていた。その優しい眼差しとあたたかさを僕はこらえることができなかった。そう、かつての彼がそうであったように。

 僕は無言でイェンスに抱きついた。すると彼もまた、無言のままで僕を抱き返した。そうなるともはや人目は気にならなくなり、僕は力いっぱい彼を抱きしめてからゆっくりと離れた。

「イェンス、本当にありがとう」

「君の瞳にあふれる美しい光が、力強く君が大丈夫だと僕に知らせている。君は君の力でその光を発しているのだから気にするな」

 彼はどこまでも優しかった。

「いや、違う。君が持つ光が僕を今の境地へと導いてくれた。そして君が肩を貸してくれたおかげで、僕は安心して自分の内側を見つめることができたんだ。彼女のことをこんなに早く、しかもあれ以上取り乱すこと無く折り合いを付けることができたのも、君が側にいて心強かったからだ。イェンス。改めてお礼を言いたい。君には心から感謝している」

 僕は彼を真っ直ぐに見つめ、心を込めて伝えた。

 舞い落ちる雪がイェンスの髪や鼻先に挨拶をしては消えていく。しかし、中には消えることなく、彼の髪やコートに居座るものもいた。彼は僕が立ち直るのを待っている間中、ずっとその状態であったのだ。そのことに気が付けないほど僕は愚鈍ではなかった。

「お礼を言うのは僕のほうだ、クラウス。君のような美しい友人の力になることができた喜びを味わえたのだから」

 彼はそう言うと親愛の眼差しを僕に向けたので、僕は喜びと感謝と少しの照れくささをもってそれを受け取めた。だが直後、彼はその美しい瞳を曇らせながらつぶやくように言った。

「それにしても君がうらやましいよ。誰かに恋した経験があるのだから。恋をするというのは、いったいどのような状態なのだろう?」

 僕はその言葉に驚き、思わず怪訝な声で彼に言い放った。

「イェンス、まさか君ほどの男が恋愛したことが無いだなんて、冗談だろう?」

 それを聞いた彼が苦笑いを交えて答えた。

「女性に何度か話しかけられたり、誘われたりはしてきたけど、恋愛の対象として気になった生身の女性は今までいなかったんだ。それに子供の頃ですら、僕は嬉しく思うより疎ましく感じていたことは伝えただろう? 僕は昔から女の子から視線を感じたり、知らない女の子から話しかけられることもあった。そのことで男の子から意地悪をされたり、からかわれたりしたんだ。味方になってくれた友だちもいたけど、普段から女の子から離れていれば、不要な争いを避けることができる。だけど正直に言うと、恋愛には今でも憧れがあるんだ。小説やアニメに出てくるような、淡く清らかな恋慕の感情を感じてみたり、愛おしさから相手の女性を抱きしめるということを味わってみたいんだ」

 彼ははにかんだ表情で前を見つめていた。いつもは気品あふれる彼の表情がいじらしく、それでいて素朴な少年のように見える。しかし、またしても彼のつらい過去を知ったことに気が付くと、途端に彼が気の毒に思われた。

 僕にも少しだけ、似たような経験があった。僕が七歳ぐらいの頃の話で、気の合う女の子が実家の近辺にいた。だが、通常コースであるその女の子と二人きりで話をしていると、同年代の通常コースの男の子たちにそのことをからかわれたのである。僕はその子に対して恋愛感情は無かった。ただ、友だちとして話していたつもりであったのだが、からかいの対象となってしまったことで、恥ずかしさと僕の不甲斐なさからその子と距離を置くようになったのである。彼女のほうは友だちも多く、もともとコースが異なることもあって会う機会は自然と減り、そうこうしているうちに彼女は家族とともにA地区へと引っ越していった。

 子供同士の社会では、大人からすればたとえ些細な揉め事でも当事者には強大な影響を与え、個人の自由な意思が小さな世界の支配下に抑え込まれることは僕自身もよく体験していた。僕はとにかく幼い頃から器用では無く、仲間うちでも中心的な存在ではなかった。他の大勢の子供たちが好むことや一般的な考え方が僕と異なることはよくあることであり、そのことで多少の窮屈さを感じたり、陰口を言われたことも度々あったのである。ひねくれている僕のことだ。きっと他の人からしてみれば扱いにくく、どこか風変わりであったのであろう。イェンスが言うように、本当に知らないうちにドラゴンに関わっていて、そのことがどこかで僕という人間に影響を及ぼしていたのかもしれない。

 だが、器用で中心的な存在だと思っていたイェンスも、結局は人知れず孤独と苦悩の中に生きてきていた。僕たちはそれぞれ背景や理由が異なっても、同じような立場を共有していたのである。

 異種族の能力を引き継いだ者は普通の人間として生きるにはやはり浮いており、特に保有している能力とそれによって得られた視点がはるかに普通の人間のそれと乖離しているため、本質的に見ている世界が異なっているらしかった。それならば、僕たちは最初から最後まで全く人間社会に馴染めないではないか。果たして僕がどこまでそのことに該当しているのかは不明瞭であったのだが、変化を起こしている今、僕ももはや普通の人間の視点には戻れないはずであった。

「イェンス。君が子供の頃に誰かから意地悪をされたり、からかわれたりしたことがあると聞いて悲しい気持ちだ。僕も子供の頃に似た経験があったんだ。だから、君が異種族の特徴を受け継いで目立っていたのだとしても、当時の君を思うといたたまれない」

「ありがとう、クラウス。でも、実を言うと、意地悪をする男の子たちの気持ちも頭の中では理解していたんだ。心では悲しかったけどね。だから、誰かを責める気にはならなかった。このことはルトサオツィが魔法をかけてくれたおかげで感性が研ぎ澄まされ、より広い見地から物事を捉えられるようになったからだと思っている」

 イェンスはそう言うと内洋のほうに視線を向けた。

「以前、君の部屋で女性のことで尋ねられたことがあったね。あの時僕は、この話題は非常に繊細だが、いずれまたこの話をするだろうと言った。クラウス、僕の推測だと君はすでに同じ考え方を共有していて、僕たちが持つ特殊性によって抱える懸念や迷いも、当然共有しているはずなんだ」

「君が言うことが今ならよくわかる。僕は視界が晴れた気分だ。さっきのミアとのことで、僕が彼女と仮に付き合うことになったとしても、お互い幸せを感じる方向が違うから最終的にはうまくいかなかったと思う。おそらく僕が注意深く彼女を観察していれば、彼女が何を欲しているかはある程度把握できるかもしれない。僕が持つ特殊な能力を伸ばして駆使すれば、彼女を幸せにすることは可能だと思うんだ。でも、それは僕の願う幸せじゃない。僕はすでに変化を起こしている。ルトサオツィの話でいけば、僕たちが感じる五感は普通の人間よりかなり異なっているようだ。そうであれば、彼女が見ている世界と僕が見ている世界が全く同じとは思えないんだ。それはミアだけではなく、他の女性、いや他の人間全てともだろう。見ている世界が異なるのなら、感覚をある程度調節できる僕たちが折れる一方なんだ。だけどそれは非常に疲れる。僕はこのごろ、普遍的な美しさを持つものを見て過ごしていたいと強く思うようになった。草や花や虫が持つ素朴な可憐さや、空や星、宇宙が持つ神秘的な魅力、人や動物が見せる純粋な眼差し、風や自然の音が運ぶ優しい旋律とかさ。僕が異種族の能力を意識して世界を見ているから、余計それらを彩り鮮やかに、強い感情で受け止めているだけなのかもしれないけど」

 僕が言い終わるとイェンスは深くうなずき、喜びの眼差しを僕に向けた。

「そのとおりなんだ。君からその台詞を聞くことができたのは嬉しい限りだ。実に僕がずっと考えてきたことだ。君が願う美しい世界を、僕も最近はますます強く願うようになってきている。それに人間関係において一方的に僕たちが折れる、というのは実際頻発していると思う。同じ世界を共有できる人など、実のところ君とユリウスぐらいだ」

 彼はそう言うと視線をどこへ投げるのではなく、ぼんやりと宙を眺め始めた。その様子を見て、僕は突然イェンスの深いところにある願いに気が付いた。それは突拍子も無いことのようにも思われたのだが、不思議と確信できたため、僕はためらうこと無く彼に尋ねることにした。

「イェンス、ひょっとして君はエルフと恋をしてみたいのではないのか?」

 僕の言葉を聞いた途端、彼は驚いた様子で僕を見たのだが、すぐさまはにかんだ笑顔を浮かべて答えた。

「クラウス、君はすごい直感力を授かったのだな。そのとおりなんだ! 僕はエルフからしたら中途半端であることはわかっている。そして君も言ったとおり、普通の人間の女性だと今の僕が満たされることはないだろう。傲慢かもしれないけど、少なくとも僕自身の経験上ではそうだった。僕は自分の異質さの元となった、高祖父母の出会いや恋愛が幻だと考えるようになってから、うわべだけのやり取りに否定的な見方をするようになったんだ。ルトサオツィは僕の内面がエルフに似ていることを教えてくれた。それでも僕は自分の分を弁えているつもりだから、エルフの村で暮らし、エルフの女性と結ばれることは見当違いだということも理解している。万一、エルフが受け入れてくれたとしても、今度は僕が満たされるばかりで、相手の女性が望む幸せを与えることができないことぐらい理解している。それでも……それでも僕は憧れるんだ」

 イェンスの言葉には切実さと悲哀が入り混じっていたのだが、その表情はやや高揚しているようにも見えた。しかし、彼はすぐさま自嘲気味に付け加えて言った。

「わかっているさ。僕自身、矛盾だらけで都合のいいことを言っているってことをね。傲慢な僕と恋愛したいと考えるエルフの女性がいるとは思えないし、リカヒのように相手を傷付けて不幸にさせるだけだ」

 彼は物憂げな眼差しで灰色の空を見上げた。街灯の灯りに照らされた赤橙色の髪が寒そうに揺れる。僕は彼の言葉の一つ一つを全身に受け止めたうえで、彼の願望がやがて僕の中に現れることもなぜか理解できていた。そして彼が淡々と自己を分析しつつ、それでも淡い願望を僕に自虐気味に吐露したことは、全くもって滑稽でも哀れでも無いように思われた。

「イェンス、正直に話してくれてありがとう。僕は君が素敵だと思う。もしかしたら中途半端な者同士、傷をなめあっているだけのかもしれないけど、それでも君が美しく見えた。ああ、ユリウスもきっと同じだろう」

 僕がイェンスの肩を抱きながらそう伝えると、彼はその美しい眼差しに光をあふれさせながら返した。

「ありがとう、クラウス。君が僕の親友でいてくれて本当に嬉しいし、心強い。この話はいずれまたしよう。そろそろシモとホレーショが戻って来る頃だ。車のそばまで戻ろう」

 彼は言い終えると公園の入り口へ視線を投げた。気になって時計台に目をやると、シモとホレーショがドーナッツを買いに行ってからすでに三十分以上も経っていた。

 およそ三十分前、あの時計台の下でかつて僕が淡い感情を寄せた女性が恋人と愛を育んでいるのを知った。そのことで動揺を覚え、不器用な僕を責めなじったりもした。だが今、僕の中でとっくに決心はついていた。僕は新しい世界を見据えていた。そこでミアとその恋人に心の中で祝福を贈ると、イェンスに続いて階段を駆け上り、急いで車へと戻った。

 ふと通りの奥に目をやると、明るい街灯に照らされた人混みの隙間からシモとホレーショの姿が小さく見え隠れしていた。二人とも大きな箱と袋を抱え、器用に人をかき分けて歩いているようである。僕はイェンスの勘の鋭さに感心しつつ、シモとホレーショの姿がだんだんと近付いてくるのを感慨深く見守った。

 ホレーショがドーナッツとマフィンのイラストが印刷された大きな箱とそれより一回り小さい箱を二つ抱え、シモが紙袋を二袋片手で抱えながらもう片方の手にさらに紙袋を持っていたため、道行く人が興味深そうに振り返っているようである。しかし、当の本人たちは全く気にかけていないようであった。

「お前たち、待たせたな!」

 ホレーショが僕たちを見つけるなり、屈託のない笑顔を見せたのは嬉しかった。シモが先に僕たちの所に到着し、それぞれ腕に抱えている紙袋を取るように指示する。そこで僕たちがお礼を言いながら受け取ると、シモが早速中を開けるよう促した。そこで期待しながら中を覗いてみると、そこには二種類の紅茶の缶が品よく並んでいた。

「俺たちのお勧めの紅茶だ」

 シモが控えめに言ったのを受けて、僕はもしかしたらと思って彼に尋ねた。

「二人とも紅茶が好きなのは、ひょっとしてユリウス将軍が好んで紅茶を飲むからですか?」

 するとシモは当てられたらしく、思いがけずはにかんだ表情を見せてうなずいた。

「そのとおりだ。ユリウス将軍が優雅に紅茶を飲む姿に憧れてね。真似しているうちに俺たちもすっかり虜になったというわけだ」

 彼の告白はどことなくつつましく、それでいて微笑ましく感じられた。

 ホレーショが車のハッチバックを上げ、抱えていたうちの小さめの箱をそこに入れる。その間にシモが僕たちに車に乗り込むよう声をかけてきたので、雪を払ってから車内へと滑り込んだ。

 車内はすっかり冷えきっていたのだが、座ったことで安堵のため息がもれる。ホレーショがシモに大きい箱を渡してから運転席へと乗り込み、僕たちのほうを大きく振り返りながら言った。

「この店はドーナッツだけでなく、マフィンも美味しいんだ。甘さも控えめだし、種類も豊富で選ぶ楽しみもある。お前たちも食えば、すっかりこの味の虜になるさ」

 彼はシモから箱を受け取ると、僕たちにその中を開けて見せた。次の瞬間、イェンスも僕も驚きのあまり言葉を失った。箱の中には様々な種類のドーナッツとマフィンがぎっしりと詰まっており、一つ一つが美味しそうに主張していた。しかもざっと計算しただけで二十個以上もある。彼らにとって、これだけの量を購入することはありふれた行為なのであろうか。

 ホレーショはあんぐりと口を開けて固まった僕たちににやりと笑いかけたかと思うと、ドーナッツとマフィンの説明を事細かに始めていった。

「これがケーキドーナッツで砂糖がけも無い、一番シンプルなやつだ。これが俺のお勧めだ。次にこれがそのシンプルなやつにチョコレートをかけたもの。その隣はイーストドーナッツで砂糖がかかっていて美味しいんだ。こっちはクルーラーだ。パイ生地のドーナッツもある。マフィンはこれがプレーンで、こっちがフルーツ入り、これがチョコレートを混ぜた生地で……」

 彼は淀みなく、それでいてドーナッツとマフィンに対して卓越した知識を披露していった。一通りの説明が終わる頃にはシモが苦笑いを浮かべており、彼は手に持っていた紙袋からカップ入りの紅茶を取り出して僕たちに手渡してから、ホレーショにやや呆れた口調で話しかけた。

「お前の講釈がいつまで続くのかと思うと気が気じゃなかった。紅茶が冷めるかと思ったぞ」

 紅茶の入っている容器は火傷をすることのないよう、カバーがかけられていた。それでも手に伝わる熱さから、ひとまず備え付けのドリンクホルダーに容器を置く。ホレーショはその様子を見ていないはずなのだが、自信ありげに言った。

「大丈夫だ。俺の推測じゃ、こいつらは熱い飲み物は苦手だ。そういう面構えだ」

 ホレーショの推測は当たっていた。イェンスも僕も猫舌であった。ホレーショもまたシモから紅茶を受け取り、カップに口を付ける。どうやら彼には問題の無い温度であるらしく、一口飲むと安堵のため息をもらし、僕たちに好きなドーナッツとマフィンを選ぶよう勧めてきた。

「残りは全部お前らへのお土産だ」

 彼はそう言うと、どこからともなく包み紙と袋を取り出して見せた。イェンスも僕も彼の言葉に甘え、彼が差し出した中からそれぞれドーナッツを一つずつ取って頬張る。すると、やわらかい食感と優しい甘さとが一気に口の中で広がったため、そのあまりの美味しさに思わず目を見張った。ホレーショがそれを見届けてからドーナッツを一つ頬張る。続けてシモもマフィンを選んで食べ始めるとさながら車内はティーパーティーと化し、くつろぎの空間へと変貌していった。

 控えめな甘さのドーナッツを惹きたてるかのような、ごくわずかな渋みを残した紅茶もまた味わい深かった。ドーナッツと紅茶が舌の上で軽やかな挨拶を交互に繰り返していくうちにドーナッツ一つをあっという間に平らげる。お腹が少し空いていたことと、あたたかい飲み物を飲んだこともあり、何もかもが贅沢であるように思えた。

「ホレーショ、本当に美味しかったです。ありがとうございます。寒い中、僕たちのためにわざわざ並んでまでくれて、あなたはやはり優しいのですね。僕は甘いものが苦手だったのだけど、これならいくらでも食べられそうです。何より、紅茶の美味しさと相まってこんなに美味しいドーナッツを食べたのは初めてです」

 それを聞いたホレーショが少し驚いた表情で僕を見た。

「当然だ。この店のは美味いんだ。ほら、もっと食え。遠慮するな」

 ホレーショはややぶっきらぼうに勧めた。それを受けてお礼の言葉を伝えながら、もう一つのドーナッツを手に取る。イェンスも彼から勧められ、今度はマフィンを食べ始めた。

 人通りの多い歩道に面した駐車場で、大の男四人が車内でドーナッツとマフィンを無心に頬張っている姿は異様なのかもしれない。しかし、幸いながらすっかり夜の帳が降りた冬の街で、人々の関心が駐車している車に向けられるはずも無かった。行き交う人たちをスモークガラス越しに眺めながら紅茶を飲み、ドーナッツを食べる。この経験もまた、僕は心から楽しんでいた。

 一方で、美味しい経験の対価を支払っていないことも決して忘れてはいなかった。そこでお返しとして何かいい案が無いものか、イェンスにささやくように相談した。

「ねえ、イェンス。これだけの量のドーナッツとマフィンに紅茶だ。きっと結構なお金を使ったに違いない。寒い思いまでして並んで買って来てくれたのに、僕は……」

「何を話している?」

 ホレーショが吠えるように僕たちの会話を遮った。街灯と並んでいる店の明かりが彼の眉間に浮かんだしわを微かに照らす。シモも気に掛けたのか、僕たちのほうを振り向いたのだが、その表情は落ち着いていた。

「これだけの量を購入されたあげく、僕たちに紅茶のお土産まで持たせてくださいました。僕たちは感謝の気持ちから、あなたたちに何かお礼をしたくて相談をしていたのです」

 イェンスが丁寧な口調でホレーショに説明した。僕も真意が伝わるよう、シモとホレーショを真摯な眼差しで見つめる。すると思いがけずシモが目を細めて微笑み、その隣でホレーショが呆れた表情で僕たちを見たかと思うと、さらにぶっきらぼうな口調で言い放った。

「お前たちはそんなことを気にしなくていい。美味しいものをただ美味しく食べていればいいんだ」

 彼はドーナッツとマフィンが入った箱を僕たちに突き出した。

「残りは二人で好きなように分けろ。そろそろ車を出すぞ」

 ホレーショは箱を渡すや否や運転席の窓を開け、腕を伸ばして駐車場の料金支払いパネルにICカードをかざして料金の精算を済ませた。

「さてお前たちを届けるとするか」

 シモのつぶやきに反応したホレーショがワイパーを動かし、視界を確保してから車を出す。僕は後部座席で箱を抱えたまま、彼らの優しさを感じ取っていた。箱の隙間からドーナッツの甘い匂いがほのかに漂ってくる。残っている美味しそうなドーナッツとマフィンは、それでいくとイェンスと僕とで半分ずつ分け合うことになるのだ。では、ホレーショがトランクに入れたもう一つの箱は彼らで分け合うのであろうか。しかし、ホレーショのドーナッツに対する深い思いを鑑みるに、彼が自分用に買ったものなのだと思えてならなかった。

「ホレーショ、あなたがトランクに入れたものは後から一人で食べようと買ったのですか?」

 僕はおそるおそる尋ねた。次の瞬間、突然シモが笑い出した。その様子に戸惑っていると、ホレーショが前を見ながら吠えるように返した。

「俺だけの分じゃない。俺の家族の分だ。明日はシモも俺も休暇なんだ。俺は家族へのお土産として、ドーナッツとマフィンを買ったってわけさ。シモは紅茶だ」

 彼の口調はどことなく嬉しそうであった。

「お前の奥さん、そんなに食べないだろう。俺たちは仕事柄、体調管理のみならず俊敏性も重んじるため、体重を増やさないように甘いものは控えているんだが、あの量じゃ帳消しだな」

「はん、よく言うぜ。あんただってマフィンがかなり好きだろう。しかも奥さんの手作りのやつな。どうせ、奥さんにマフィンを作るようすでにお願いしてあるんだろ?」

 ホレーショが声を張り上げてシモに返したのだが、二人の会話の内容が屈強な見た目とかけ離れて実に親しみやすかったため、僕は和んでいた。イェンスもやわらかい眼差しで彼らを見つめているようである。そこにシモがやや照れ笑いを浮かべて反論を始めた。

「妻の作るマフィンは本当に美味しいんだ。甘さもカロリーも控えめだしな。だから、あれだけは妻にお願いして作ってもらっている。もちろん、きちんと対価は支払っている」

 僕はシモのその言葉から、彼がいかに妻に対して愛と感謝を感じているかということをしみじみと感じ取っていた。いや、シモもホレーショも人柄にあたたかさがにじみ出ていたのであった。

 僕はすでに彼らの中に美しさを見出していた。ユリウスも彼らの中に美しさとあたたかさを認めたからこそ、彼らを信頼して側に置いているのであろう。僕はそのことを今まさに実感していた。

 アウリンコから離れて橋を渡り終えると、僕は単なる好奇心から彼らにどうして格闘技を習おうとしたのか、今の職業をどう感じているのかを質問した。思えば、ずいぶんと個人的な質問を投げてしまったにもかかわらず、先に答えてくれたのはシモであった。

「俺の両親はアウリンコに縁が深い地方国ミオスの出身で、夫婦でコウラッリネンを合格し、ドーオニツ経由でアウリンコに移住してきた。両親は移住後、たまたま同じミオス出身で格闘技教室を開いている男性と家族ぐるみで親しくなったため、俺と兄の物心が付く頃からそこに通わせたのだ」

 シモの口調は穏やかであった。彼の兄は他のことに興味が移って格闘技教室を辞めたそうなのだが、シモはただ強くなりたいという一心で地道に続けていったようである。一方、ホレーショのほうはテレビで観て憧れたのがきっかけらしかった。どちらも厳しい鍛錬の中で腕を上げていったそうなのだが、さらに己を磨くべく心身を強く鍛えようとした時に壁にぶつかり、そこからなかなか伸びないことに苛まされながら自問する日々が続いたのだという。

「その時、俺は今の妻に出会った。彼女に見合うだけの男になろうと決めた時に道が開けたんだ」

 ホレーショが事もなげに言う。

「そこから誰かのために自分が貢献できる喜びに気付いた。今の職業に就いたのも、それがきっかけだ。だが、人を守るのに生半可な知識ではかえって対象を傷付けかねない。そこで大学で心理学や解剖学、生理学も学んで俺なりに知識を深めてきたつもりだ」

 僕は彼が真面目で純粋な輝きを持っていることに感動しながらも、さらに個人的な質問をあえて投げかけた。

「すると奥さんとはいくつの時に知り合ったのですか?」

「十四歳の時だ」

 ホレーショの表情はむろん見えなかったのだが、そのぶっきらぼうな口調から、彼が照れているのがわかった。愛する女性のために強くなろうと決意した逸話は、おそらく普段は恥ずかしくて言えないことなのかもしれない。

 真っ直ぐな愛を持つ男性が実在する――。僕は純愛小説さながらのホレーショの動機に心から感嘆し、彼と彼の家族の幸せをまたしても願わずにはいられなかった。シモは彼の妻との馴れ初めこそ話さなかったものの、やはり自分自身を高めるその先に人を守る仕事を考えたらしく、ユリウス将軍を警護する仕事に就いていることは本当に光栄で、名誉なことだと考えていると語った。そのシモの横顔が対向車のライトによって一瞬照らされる。かすかに捉えたその瞳には気高さと誇りとがあふれており、僕はその瞳の美しさにも感激していた。

 濃紺の世界が冬らしい寂寥感とともに街並みを包み込む。いや、僕の心境がそこに反映しているのであった。景色がだんだんと見慣れた場所へと近付いて行くにつれ、彼らとの別れにも名残惜しさが募っていく。

 車はドーオニツのあの公園近くまでやって来ていた。歩道には雪がうっすらと積もっていたものの、雪はとっくに止んでいた。車内が再び無言になった時、僕は遠慮することなくシモとホレーショを背後から見つめた。今朝彼らが見せた雰囲気と、今彼らが見せている雰囲気があまりにも違うのは、短時間のうちに大きな奇跡が起こったからではなかったか。

 僕はイェンスを見た。彼は外の風景を眺めていたのだが、僕の視線に気が付くと振り返って優しく微笑んだ。その時、僕に名案が浮かんだ。シモとホレーショにささやかでも夕食をご馳走したら、僕の感謝の気持ちが伝わるのではないのか。僕は意気揚々と早速イェンスにそのことを打ち明けた。すると彼が小声で「僕もそうしたいと考えていたんだ」と返したので、僕は思い切って彼らに提案した。

「あの、時間はありますか? 今日のお礼に、あなたたちに夕飯をご馳走させてください」

「お前たちの気持ちだけありがたく受け取っておく。だが、こいつが奥さんに早く会いたくて仕方が無いんだ」

 シモはホレーショを冷やかして言ったのだが、おそらくは彼の本音でもあり、ひょっとしたら彼の家族が晩御飯を用意して彼の帰りを待っているのかもしれなかった。

「シモ、それはお前のほうだろ。……くそ、何なんだ、こいつらは」

 ホレーショがつぶやいたのと同時に、車が今朝僕たちを拾った公園の前に到着した。僕たちは彼らに何度もお礼を伝えると、紅茶とドーナッツの入った箱を抱えながら車から降りた。するとシモとホレーショも同じく車から降り、僕たちと向かい合った。

 彼らは身を切るような寒さの中でイェンスと僕を少しの間見つめたかと思うと、控えめな笑顔を見せながら手を差し出してきた。イェンスが先に彼らと握手を交わし、それから僕が持っていたドーナッツの箱を受け取る。そこで今度は僕も彼らをしっかり見つめ返して固く握手を交わした。

「お前たちは今後もユリウス将軍と親交を深めていくんだろう?」

 ホレーショがおもむろに口を開いた。その表情はやわらかく、僕は表情で見せた彼の優しさを感じ取っていた。イェンスが「そうありたいと願っています」と返すと、彼は白い息をもらしながら言った。

「その時も俺たちがお前たちを喜んで送迎しよう。気を遣うな。これぐらいのことならたいしたことじゃない」

 ホレーショはあたたかい笑顔を絶やさなかった。

「将軍のご様子だと、また近いうちに再会することになるだろう。お前たちに再び会えるのを楽しみにしている。気をつけて帰れよ」

 シモもまた優しい笑顔を見せながら言った。それを受けて、イェンスと僕とで再度感謝の言葉を伝える。彼らは笑顔で応えたかと思うと颯爽と車に乗り込み、僕たちを一瞥してからアウリンコへと戻って行った。

 風が僕の肌に凍てつく冷気を浴びせる。それでもなお、僕の心は屈することなくあたたかさを感じていた。その優しい余韻を感じたまま、イェンスを見る。彼もまた穏やかな表情を浮かべており、目が合うなり微笑んだ。

「さて、僕たちはどうしようか」

 僕はイェンスに持たせているドーナッツの箱を受け取ろうと手を差し出した。

「気にするな。これを持つのはたいしたことじゃない」

 彼は微笑みながら首を横に振って断った。しかし突然、彼は何か妙案が浮かんだのか、緑色の瞳を輝かせながら息を白く弾ませた。

「クラウス、このドーナッツを仕分けして、公園のごみ箱に大きな空箱を捨てていこう。それからご飯を食べに行かないか?」

 彼の提案は僕の心をさらにあたたかくした。早速、公園の入り口近くにあるベンチへと向かう。公園に到着すると、雪でベンチが少し濡れていたため、立ったまま箱からドーナッツとマフィンを取り出すことにした。それぞれの分を小袋に取り分け、紅茶の入っている紙袋に入れる。ホレーショが両手で抱えていた空箱を注意深く解体している間も、彼らが僕たちに見せた厚意と労力に感謝の念が絶えることはなかった。

 公園を出るなり、僕たちは自然とあのレストランのほうへと足を向けた。アパートからさらに離れるのは確実なのだが、今行くとしたらあのレストラン以外に考えられなかった。寒さに肩をすぼませながらも、イェンスも僕も愉快な気分を歩調に乗せて歩く。寒い日でも人通りが多く、すれ違う人から視線も感じてはいたのだが、ほとんど気にならなかった。

 今日あった出来事を回想しながらレストランの中へと入る。時刻を見ると夜八時を回っていた。僕たちはゲーゼの肖像画が掛けられている真下の席に案内された。まるで引き寄せられたかのような出来事に、思わずイェンスと顔を見合せて笑い合う。イェンスが僕とゲーゼを見比べたいからと、壁側に僕を座らせた。そこで座る際に注意深く店内を見回したのだが、今日は気になる人影は見当たらなかった。思えばこのレストランに来る度に新しい出会いがあり、その度に僕たちは奇跡を体験していった。よくよく考えると、それは運命と言えるほどの奇妙な巡り合わせではないか。

 ドーナッツを二個食べていたのだが、いつもどおりの量を注文する。提供された料理は相変わらず美味しかった。

 料理をすっかり平らげたイェンスが、ゲーゼの肖像画をまじまじと眺め始めた。どうやら彼は思索にふけっているらしかった。少しして彼は興味深げな表情を浮かべ、ささやくように僕に話しかけた。

「やはりユリウスは彼に似ているな。それにしても、いったいどうやって父親は受精を成功させたのだろう?」

 イェンスの言葉が、彼の専攻分野であった生物の遺伝子に対する知的探求心から来ていることは理解していた。しかし、一方で知識でしか得ていない行為が咄嗟に浮かんで思わず赤面する。このだらしのない僕の体たらくに彼は即座に気が付き、申し訳なさそうに続けた。

「すまない。僕は種を全く超越しているのにもかかわらず、細胞同士の結合が果たしてどのようにして成功したのかということを言いたかったのだ。だが、実に誤解を招く言い方をしたと思う。食事の場で下品な話題を出したことに、心から詫びたい」

 僕は慌てて彼に謝った。

「いや、僕が勝手に良からぬ反応をしただけさ。ごめん。僕の思考もたかが知れているな。だけど、君の疑問はもっともだ」

 僕は声をひそめて続けた。

「エルフとでも充分相違点と格差があるのに、相手はドラゴンだ。よほど高度な魔法を使用して細胞を変化させたに違いない。しかも染色体の、その内部に至るたんぱく質までをも正確に再現し、さらに構造も同じ配置を真似ることでその役割を与えているのだとしたら、もはや人間の考え得る叡智をとっくに凌駕した神の世界だ。いったいどんな知能がそんなことを可能にさせるというのか。だけど、僕が言いたいのはそこじゃない。そうまでして彼らは人間と関わり、より良い世界を目指していたのだと考えている」

 僕が言い終えた途端、イェンスが表情を輝かせた。

「ああ、クラウス。君は専攻でなかったのに、もうそこまで思考が及んだのか。さすがだな。今日ルトサオツィの前でもその話を少ししたけど、生物学的観点だけでなく社会学的観点からでも、僕もずっと同じことを考えていた。いや、まだ到達できていない観点があるのも確かだが、いずれにせよ、そうでなければ人間と関わる理由が見当たらないんだ。彼らは人間を直接の支配下に置くこともできるほどの高い知能と能力を持ち、高度な魔法をも操れる。それでも有史以来そうしないで来たのは、高い見地からすれば、人間が独自の社会を築いてその中で発展することが一番妥当だと認めているからなのだと思う。しかし、それを認めるとお互いの思考形態が異なるため、どうしても人間との間に軋轢が生じてしまう。それでも彼らは、人間社会と友好的に棲み分けできる方法を長年模索してきた。融合や共存は厳しくとも、お互いの特徴を併せ持った存在が歴史の要所要所で人間社会と異種族の社会を橋渡しできないか、画策してきたのだと考えているんだ。ルトサオツィの言葉がまさしくそれを裏付けるものだっただろう?」

 彼の声は、僕が聴力を少し開放して耳を傾けないと聞きとれないほどの小声であった。それでも彼の言葉にまたしても僕の思考が研ぎ澄まされ、気付きを得ていく。あれほどまで遠い存在であった異種族に、実は見守られながら人間社会が発展を遂げてきたことは興味深い事実であった。そしてそれは今現在も続いていた。

 僕たちは店を出てなおもそれらのことについて話し合った。寒さで自然と早足になると体があたたまり、会話がますます弾んでいく。イェンスは僕の部屋に寄り、ルトサオツィやユリウスと会って話したことで気付いたことや思ったこと、シモやホレーショのことなどもひっきりなしに話し続けた。僕も次から次へと話題が尽きることはなく、イェンスとの対話を思う存分満喫した。

 一休みして冬の夜空をいつものように窓から眺める。すると、イェンスが僕に寄りかかり、たった今も変化を感じていると告白してきた。僕は彼が手の届かない位置に行ってしまうのではないかと一瞬不安に思ったものの、やはり彼がより高みへと昇っていくことは嬉しく、素直にそのことを喜んでいると彼を祝福した。すると彼は突然笑い出し、「クラウス、君もさ。君も今この瞬間に変化を続けているんだ」と弾む声で僕を見て言った。しかし、彼は急に真面目な表情になったかと思うと、僕の瞳をじっと覗き込んで言葉を続けた。

「ねえ、クラウス。僕はいずれ君の灰色の瞳がユリウスやゲーゼのように紫色に変色し、より鮮やかに輝くのではないかと思っている」

 彼の口調は確信に満ちているのか、落ち着いていた。僕はまさかそこまでは変化しないであろうと考えて咄嗟に否定したのだが、一抹の不安を覚えて黙り込んだ。確かにイェンスの瞳が以前と比べてより鮮やかになり、髪の色も今日見たルトサオツィの髪色である、赤橙色へと近付いているような気がする。

 生まれ持った虹彩が異質さを放っている希少な虹彩へと変わることがあれば、僕の家族や周囲の人間はきっと非常に驚き、なぜそうなったのかと問い詰めるに違いない。それだけではない。珍しい色であるため、人の目に留まる機会が増えるかもしれなかった。まだそうなると決まったわけでは無いのだが、今の僕には変化の理由を上手に説明し、質問を回避させる自信も全くもって無かった。このまま変化を続けていけば、イェンスの言うとおり、いつかは僕の虹彩の色が変わってしまうのであろうか――。

 僕はイェンスに、僕の変化が外見にまでわかりやすく現れた時はすぐさま教えてほしいと頼み込んだ。すると彼は「もちろんだ、お互いにそうしよう」と快諾し、やわらかく微笑んだ。

 さらに夜が更けてイェンスが別れを告げる。僕は冷たい風が入って来るのも厭わずに窓を開け、眼下を見下ろした。そこにアパートから出たイェンスが僕を見上げて手を振り、紙袋をしっかりと手に持って去って行く。僕はその様子を優しい気持ちで見送った。

 多少の肌寒さがあったものの、風に誘われたこともあってそのまま夜空を眺めることにした。雲の隙間から澄んだ星空が覗いている。深い紺色の空の奥に輝く青白い星の美しさはずいぶん長い間僕を魅了しており、憧れと畏怖の念を抱かせていた。宇宙を捉えた写真集は僕のお気に入りで、似たような本を何冊も所有しているのだが、僕が心を奪われるのは赤色の星や星雲では無く決まって青白い星や星雲であった。

 僕はあの古い記憶の中でうっすらと把握していた、『何か美しいもの』を思い出そうとしたのだが、やはり具体的な内容が思い出されることはなかった。そこで手掛かりを掴むべく本棚から宇宙の写真集を取り出し、青白い星を眺めてはページをめくり続ける。その時、脳裏に背丈ほどの草が生えた光景が一瞬浮かび、何かに近付こうとしている記憶が浮かびあがった。僕は湧き上がる興奮とともにその先を思い出そうとしたのだが、結局それ以上何かが得られることはなかった。

 失意を感じて空を見上げる。先ほどまで見えていたあの青白い星は雲の背後に隠れ、その高貴な姿を消していた。永遠に手が届くことの無いその美しい光に、いつか僕は辿り着けるのであろうか。

 その後もしばし思索にふけったのだが、それ以上思考がまとまることは無かった。僕の浅い見識ではこれが限界なのであろう。悔しさからくじけそうになったものの、イェンスやルトサオツィやユリウスの言葉を思い返して自分を奮い立たせる。嘆いているだけでは何も解決しないはずなのだ。

 シャワーを浴び、ベッドに横たわって目を閉じる。もう一度、あの時感じた青白い光を感じたくなり、今度はゆったりとした気分で体内に探りを入れた。すると、かすかではあったものの、あの光が僕の中に留まっているような感覚が僕を包み込んだ。その些細な体感ですっかり安心し、全身をベッドに委ねる。ほどなく睡魔から猛烈な誘いを受けると、あっさりと受け入れて眠りの世界へと落ちていった。

 日曜日はホレーショからもらったドーナッツとマフィンをあたため直し、シモからもらったティーバッグの紅茶とともに朝食を取った。窓の外では雪がしんしんと降っており、地面や屋根に白い絨毯を敷き詰めていく。僕は昨日の出来事がいかに楽しく、充実と喜びを与えたものであったのかを感じながら、その幻想的なまでに美しい雪景色を眺めた。ルトサオツィはもうドーオニツを離れたのであろうか。ここよりもっと北の、緯度の高い地域に帰るのであれば、白夜が彼の帰りを待っているのであろうか。

 残っていたドーナッツもマフィンも、ホレーショのお眼鏡に叶っただけのことはあり、最後まで美味しかった。あたたかい紅茶を飲んだことで、心までもがあたたまったようである。街の喧騒もこの部屋までは届かず、静謐な空気が僕を包み込む。僕はそのゆったりとした気分のままで休日を過ごした。

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