第9話

 室内は落ち着いた装飾で、美しい美術品が何点か壁と床に飾られていた。絵画の中にはおそらく思い入れが深いであろう、ゲーゼの肖像画もあった。家具は年代物なのか味わい深い表情を見せており、室内と調和した状態で配置されている。しかし、目に付いたのはそれぐらいで、過度に存在感を放つような調度品や装飾は見られなかった。

 そんな僕の感想を見抜いたのか、ユリウスが室内を案内しながら言った。

 「部屋を華美に飾り立てるのが苦手なのだ。独り身だから家自体もそんなに大きくは無い。質素で実用的なのが好みなのでね」

 僕はユリウスの実生活をほとんど知らなかったのだが、彼の言葉はまさしく室内に体現されていた。おそらく彼の人柄がそのまま反映されているのであろう。僕は早くも居心地の良さを感じ始めていた。

 ユリウスがリビングルームだと説明した部屋を通り過ぎ、その隣のダイニングキッチンへと入る。すると驚いたことに、そこには出来立ての料理が数皿テーブルの上に並べられていた。イェンスが香ばしい匂いにつられたのか、かすかに感嘆の声を上げ、輝くような笑顔でユリウスと僕を見る。僕も視覚と嗅覚を刺激されて一気に空腹感を覚え、なんとか客人としての品性を保とうと躍起になった。しかしながら、美味しそうな料理を目の前に僕の稚拙な抵抗が敵うわけもなく、僕はあっという間に食欲の支配下へと収められていった。

 「この美味しそうな料理は全部あなたが作ったのですか?」

 お腹の鳴る音が聞こえてしまうのではないかと、やや大きめの声で尋ねる。それを聞いたユリウスが、僕に優しく微笑んでから答えた。

 「美味しそうだと言ってくれてありがとう。そのとおりだ。私が持っている特殊な能力は、こういったところにも役に立ってね。いずれ将来は全く一人になる時が来るだろうから、その時に備えているのだ」

 彼の口調は終始朗らかであった。僕が彼の言葉の背景を推測するより前に、彼は「さあ、並んで座って」と言ってイェンスと僕に着席を促した。そこで改めて観察すると、木目が美しい一枚板でできたテーブルの天板は丁寧に磨かれてやわらかい輝きを放っており、整然と並べられたシンプルな白い皿と鈍く光る銀色の飲食器具が置かれてもなお存在感を放っていた。イスもまた造形が見事で、背もたれに手をかけたまま視線を奪われる。その背もたれから脚の部分まで、木製のフレームが非常に緩やかなカーブを描いており、張られてある生地の表面には、繊細な織模様がつややかな光沢を放っていた。おそらくは目が飛び出るほど値が張るであろうイスの、座り心地を確かめるかのように深々と腰掛ける。すると想像していた以上に座り心地が良いため、僕はついはしゃぐようにイェンスを見た。

 「これはいいイスだね。地方国の中でも特に名高い工房で製造されたものに違いない」

 イェンスは僕と目が合うなりつぶやき、それから興味深そうな表情でユリウスのほうを見た。

 「家を飾り立てる代わりに、家具や内装材には少しばかりこだわったのだ。居心地の良い家にいたいのは、皆同じく思うことだろう?」

 ユリウスが水差しを手に持ちながら言葉を返した。

「おっしゃるとおりです」

 イェンスの返答にユリウスはさらに朗らかな笑顔を見せた。

「あのレストランで君たちは確か、水を飲んでいたように思ったのだが」

 ユリウスはそう言いながらグラスに水を注いでいった。僕は彼の観察力にも心遣いにも感激してお礼の言葉を伝えたのだが、ゲーゼのレストランで彼もまた水を飲んでいたことを僕は覚えていた。それは取るに足らないことなのであろうが、僕にとってドラゴンの血を引くユリウスと少しでも好みが似ていることは嬉しかった。

 「さあ、遠慮なく食べてくれ。まだ十一時で少し早いが、見たところ君たちもお腹が空いていそうだ。それに料理の腕にはそこそこ自信がある。理由はわかるだろう? 君たちがたくさん食べるだろうと思って、特に腕によりをかけて作ったのだ」

 ユリウスの言葉に、イェンスと僕は心を込めて丁寧に感謝の言葉を伝えた。しかし、一方で気になったことがあった。

 ユリウスは大元帥と大臣とを兼務しているため、普段から多忙であることはこの僕でも理解していた。その忙しさの合間を縫って休みを取ってくれたのだ。だが、このように手の込んだ料理を僕たちに振る舞うべく朝から調理をしていたのでは、せっかくの休みもゆっくりできないのではないのか。

「ユリウス、僕たちはあなたの厚意に心から感謝しておりますし、感激さえ覚えております。しかし、せっかくの休日に朝早くからご準備されて、万一お疲れがたまることがあっては心苦しいばかりです。僕たちはお会いできるだけで、充分喜びを感じているのです」

 イェンスがまたしても僕の心を代弁するかのようにユリウスに話しかけた。

「ありがとう。だが、気にしないでほしい。これぐらいたいした手間じゃない」

 ユリウスの表情はどこまでも優しかった。

 「君たちが飢えているのはわかっている。さあ、料理が冷めないうちに食べてほしい」

 彼はそう言うとそっと両手を広げた。そうなると僕はもう無遠慮であった。胃が食欲を刺激的に煽っては、お互いに手を結んで僕を食べ物の下僕へとならしめる。僕は早速大皿から料理を取り分け、感動の挨拶を口内でかわした。するとその料理があまりにも軽やかに僕の口の中で甘美な挨拶をするものだから、僕は思わずユリウスとイェンスを驚いた表情で見た。それを受けてイェンスが別の料理を取り分け、早速食していく。僕は胃のほうに挨拶へと向かった料理に相変わらず感動しており、つい大きな声で感想をもらした。

 「なんて美味しいのだろう!」

 「確かに、本当に美味しい。まるで一流のシェフの料理を食べているようだ!」

 イェンスもまた感嘆した声で感想を伝える。彼があまりにも嬉しそうに料理を口へと運ぶものだから、僕もつられて食事がどんどん進んでいく。そのような僕たちを見て、ユリウスは微笑みながらパンを差し出してきた。

 「これはさすがに私が作ったものではない。この近くで一番美味しいと言われているパンをホレーショに聞いて、朝一番に手配したのだ」

 僕はそれを聞いて慎重にパンをちぎって頬張った。すると、ホレーショがまたしても高い精度で任務を遂行させたことが口内で確認できた。彼の素晴らしい味覚に感謝しながら、さらに食事を続ける。しかし、シモとホレーショが最初からユリウスが僕たちに手料理を振る舞うことを知っていたのだということに気が付くと、彼らが抱いた疑問や困惑が一気に理解できた。

 わざわざ自宅に招いて手料理をご馳走する――。そこに信頼と親愛の意味が込められていることは、ユリウスから私的な用事を頼まれた時点で、シモもホレーショもすぐさま理解したことであろう。ひょっとしたらイェンスも僕も、思っている以上にユリウスから特別な扱いを受けているのではないのか。

 僕には警護する側と警護される側の関係が、通常どのようなものであるのかを今まで考えたことも無かったため、憶測することしかできなかった。ユリウスと一気に距離を縮めて親しくなっていること自体は非常に嬉しいのだが、反面シモとホレーショに対してなぜか後ろめたさを感じる。そこで、僕はユリウスがシモとホレーショにも手料理をふるまったことがあるのかを尋ねてみることにした。

 ユリウスは僕の突拍子もない質問に戸惑うことはなく、非常に優しく微笑みながら「一度だけ、簡単なものだが昼食を振る舞ったことがある」と答えた。僕はシモとホレーショがユリウスの好意を先に受けていたことが嬉しく、安堵して食事を再開させた。胃が僕を少しずつ食欲の支配下から解き放つにつれ、会話に余裕が生まれる。最初は料理の感想を話していたのだが、イェンスが僕の耳元でささやいた。

「クラウス、今朝公園で起こったことを彼に話そう」

 イェンスの言葉に力強くうなずいて返すと、彼は早速「お聞きしたいことがあるのですが」とユリウスに話しかけた。

「どうした?」

 ユリウスが食事を中断させてイェンスを見つめる。そこでイェンスはシモとホレーショが公園前で僕たちの身分照会を済ませるやいなや殴りかかってきたことを、感情を交えることなく淡々とユリウスに説明した。ユリウスはイェンスが話している間中、何かを思案しているかのような表情を浮かべていたのだが、緊張の色は見られなかった。

 「僕たちが彼らの攻撃をかわすと思っていたから、許可をしたのですか?」

 イェンスの控えめな口調にユリウスがどう答えるのか、僕は興味深く彼らを見つめた。するとユリウスは思いがけず微笑んでから話し出した。

 「そうだったな。彼らが急に殴りかかったことで、君たちは相当驚いたことだろう。すまなかった。むろん、君たちならかわせると判断したからだ。あの公園に彼らが着くや否や、連絡が入ってね。彼らは君たちを見て何か釈然としなかったらしく、責任はきちんと取るから試させて欲しいと真剣な口調で願い出てきたのだ。あの彼らに初見でそこまで言わせた君たちの雰囲気に私も少し興味が湧いてね。そこで私が全責任を取るつもりで、特別に許可を与えたのだよ」

 僕は多少驚いたものの、不思議とユリウスを責める気にはなれず、彼の言葉を素直に受け止めていた。

「君たちの高い身体能力を垣間見て、彼らが落胆することも予測していた。だが一方で、君たちなら彼らと険悪になることを選ばず、きっといい関係を築くだろうとも思っていた。裏で画策した私が言うのも差し出がましいのだが、想像していた以上に君たちがいい結果をもたらしたと考えている」

 ユリウスの瞳には力強さと穏やかさとは別に、あの不思議な光が放たれていた。ふとイェンスを見ると、彼もまた穏やかな表情でユリウスを見ている。僕たちがユリウスのその説明だけで充分納得がいったのは、貴重な休日に手間暇かけてこのような美味しい料理をふるまってくれた彼の心遣いが、すでに僕たちの心にしみていたからでもあった。

 食事を再開させ、控えめでありつつも雑談が交わされる。美味しい食事が得られた喜びもあり、たくさんあった料理がそれぞれの胃の中に無事納められた頃にはさらに親密さが増したようであった。

 イェンスと僕は食事を終えると、改めてユリウスに感謝の言葉を伝えた。すると彼は静かに微笑んで「それは良かった。私も嬉しい」とだけ答えた。僕はそれを受けて名案を思い付き、そのことをイェンスに伝えようと小声で彼の名を呼んだ。すると、彼はすぐさま顔を近付けて僕の耳元でささやいた。

 「僕たちで後片付けをしないか、と君は言いたいんだろう?」

 イェンスは微笑みを浮かべていた。彼と息が合ったことを喜びつつ、「そうなんだよ」とうなずいて返す。イェンスは僕に目配せすると、ゆったりとした表情を浮かべてくつろいでいるユリウスに話しかけた。

 「素晴らしい食事と、ご多忙でいらっしゃるあなたが僕たちのために労力をおかけくださったことに、改めて心から感謝を申し上げます。僕たちの謝意がこのような素晴らしいおもてなしの足元に及ばないことは承知しております。ですが、せめてこの食事の後片付けだけでも、僕たちにさせて頂けませんか。僕たちは感謝の気持ちから、ぜひともそうしたいのです」

 それを聞いたユリウスは目を細め、重みのある口調で返した。

 「君たちは本当に素晴らしいな。だが、あいにく食器洗い機を使用しているのでお願いするとすれば、その機械に食器を入れるだけだ。それもたいした手間じゃ無い。ここは一つ、君たちには客人らしく振る舞ってもらうことにしよう」

 彼はそう言うと奥のリビングルームを指し、あちらでゆっくりと待っていてほしいと告げた。そうなるとしつこく食い下がることは彼の好意に水を差すことのように思われたので、僕たちは彼に丁重にお礼を伝えてからその部屋を後にした。

 リビングルームのソファの座り心地も非常に良かった。このソファに座っているだけで贅沢な経験を得ているようである。僕は隣でくつろいだ表情を見せて座っているイェンスに、仕事で何度か取り扱ってきた高級ソファを思い出して話しかけた。すると彼は「君も同じことを考えていたのだな」と目を輝かせ、HSコード上のソファの分類を始めた。そこから僕たちの会話はさらに発展し、敷かれている絨毯や調度品がどこに分類されるかで検討しあった。

 そこにティーポットとティーカップをトレイに乗せて持ったユリウスが現れた。彼は僕たちの会話をあたたかい表情で受け止めると、「仕事熱心だな」と朗らかに言った。僕は彼の言葉に照れて「そんなことはありません」と返したのだが、それさえも彼は微笑みをもって受け止めた。ポットとカップは白地に青い線で模様が描かれており、その繊細な優美さに思わず見入る。しかし、それも長くは続かず、今度はユリウスの優雅で気品あふれる所作に目も心も奪われた。イェンスも完璧なら、ユリウスもまた僕にとって完璧であった。

 「私は紅茶が好きなのだ。これは香りも良く、味わいもすっきりしていて特に好んで飲む。良かったら君たちも飲まないか?」

 ユリウスの言葉にイェンスも僕も笑顔で「ぜひお願いします」と返す。すると彼はソーサーとカップを僕たちの目の前に置いて、ゆっくりとカップに紅茶を注いでいった。白い湯気が品良く立ちあがっていくにつれ、幸運な時間を過ごしていることに改めて感激を覚える。

 紅茶は薄い黄金色にやや橙色がかっており、僕は少し冷めるのを待ってから口に含んだ。その味はやや渋みがあるもののコクがあり、僕はすぐさま気に入った。ふと母も母方の祖母も紅茶が好きでよく飲んでいたことを思い出す。僕は興味が無かったから飲まないでいたのだが、今頃になって美味しさを知ったのだとしても遅すぎるということはないであろう。あっさりと感化された僕は、茶葉を購入してアパートでも飲むことをそっと決めた。

 イェンスが紅茶の銘柄を当て、ユリウスがそれについて嬉しそうに語り出す。僕はイェンスの類まれなる見識と、深い洞察力に改めて感嘆しながら二人の会話に聞き入った。やがて話題は以前僕たちが秋の夜に公園で話したことに移り、ユリウスが僕たちに変化がどれほど起こったのかを尋ねてきた。そこで僕たちは把握している変化をユリウスに報告することにした。身体的なこと、物事に対する見方の変化、僕たちに対する外部からの新しい評価など包み隠すことなく伝える。イェンスがそのことで僕とよく話し合うようになり、変化がどこまで訪れるのかはわからないのだが、向き合って受け止める意志でいるとユリウスに続けると、僕がさらにイェンスとの今朝のやり取りで感じた不安と戸惑いを付け加えて話した。

 ユリウスは僕たちの顔を交互に見つめながら、静かに耳を傾けていた。彼の瞳には美しい輝きがあり、その紫色の瞳はやはりどこか神秘的に見えた。

 「君たちが感じていること、抱えていることは今でも私が考えることだ。だから、君たちの期待と不安はよくわかる。私も実際のところ、自分がどこまでドラゴンの能力を伸ばしていくのかわからないのだ。年齢を重ねるにつれ、ますます物事の本質や自己を支配している思考に戸惑い、その度に新たな気付きや洞察力が私の中で息吹いていくのだからね」

 ユリウスはそう言うと、胸元からあのペンダントを取り出した。相変わらず美しい光を放っているドラゴンの爪に不思議な魅力で惹きつけられ、遠慮もせずに注視する。

 「僕にはクラウスが全く異種族と無縁であったとは思えないのです。ヘルマンのペンダントに彼が触った時も、この間あなたのペンダントに彼が触った時も、どちらも僕が触れた時より光が少し強く発せられていました。きっと単なる偶然ではありません。彼も異種族――おそらくドラゴンと、どこかで関りがあったのだと考えております」

 イェンスの突然の言葉に驚いて彼を見ると、彼は澄んだ緑色の瞳を僕に差しだすかのようにやわらかく僕を見つめていた。そこに紫色の瞳が放つ、静かで強い視線が同時に僕を挟み込むので、たちまちのうちに気後れを感じて視線を床へと落とす。血縁関係がある彼らを前にして、普通の人間から産まれた僕が異種族と関わっていた可能性など、どこに存在するというのか。一介の人間にしか過ぎないことに再び悲観し、自分を信じようという気概がたちまちのうちに失われていく。

 僕は彼らと目を合わせることなく、おずおずと「到底そうは思えません」とだけ伝えた。しかし、ユリウスが試してみようと話したのが聞こえたため、緊張と不安を覚えながら彼のほうに視線を向けた。

 「実は、私もその点が気になっていたのだ。イェンス、さすが君は間近で彼を見ているだけあって、気付きが鋭いな」

 ユリウスはそう言うとペンダントを首から外し、まずはイェンスにペンダントを手渡した。イェンスは両手でペンダントを受け取ると、じっとその様子を観察した。確かにユリウスの手元にある時より、輝きが弱まったようである。しかし、輝きが失われたわけではなく、美しい光が放たれていることに変わりはなかった。そのわずかな変化を深く定義付けることに意味があるとは到底思えなかった。

「クラウス、両手を出してごらん」

 イェンスの言葉にやや緊張しながら僕の両手を差し出す。彼の手からペンダントが僕の手のひらに置かれた次の瞬間、ペンダントがユリウスの手元にあった時と同じような輝きを見せた。

 「やはり」

 そう言うとユリウスもイェンスも僕の顔とペンダントを交互に覗き込み、互いに顔を見合わせた。僕は思いがけない結果に激しく動揺しており、混乱していた。

 なぜだ、なぜこうなったのだ?

 もちろん、答えが見つかるはずもなく、不安定な思考が無鉄砲に頭の中を駆け巡っていく。超常現象という言葉が僕の人生に訪れることなど、それまでならありもしないことであった。ひょっとしたら、僕は思い違いをしていたのではなかろうか?

 僕が思っている以上に異種族から得た変化が僕に訪れたからこそ、ペンダントが強く反応を示したのではないのか。光がなぜ放たれているのか、その理由がわかる由も無いのだが、僕はそう信じることにした。

 そこで僕はペンダントをそっとユリウスに返すと、そのことを控えめに彼らに伝えた。ユリウスはペンダントを身に付けながら、「それもそうなのだが」と言うと、僕を真剣な眼差しで見つめて続けた。

 「だが、それだけでは理由が弱いのだ。仮に君の言うとおりだとすれば、イェンスが触れた時に輝きが弱まることにはならない。君たちがお互いに出会い、ヘルマンとも出会ってゲーゼのペンダントに触れ、この私を惹き引きつけたことにも関わっているように思えるのだが」

 ユリウスの言葉が混乱とともに胸に突き刺さる。ドラゴンと出会う人生など、存在するのであろうか? ウユリノミカ島近くに生まれ育ったわけでもなく、その近くに行ったことも無かった。特殊な能力を生まれながらに身に付けていたわけでもない。僕には取り柄と呼べるものが何一つ無いのである。

 「ただ、君がドラゴンに会っていたとしても、覚えていないことのほうが当然だろう。彼らは魔法を用いて、ドラゴンと会ったという記憶を跡形もなく対象者から消すことができる。その話は父から以前聞いている。真実が何であるのかはわからないのだが、もしそうだとしたら辻褄が合う」

 ユリウスはそう言うと、再び僕を興味深そうに見つめた。イェンスも僕の瞳をしっかりと捉えている。しかしながら、何度考えてもどう記憶を辿っても、僕の人生にドラゴンは全く関りが無かった。いや、そのことはユリウスを除く、全ての人間にとっても同じく言えることではないか。

 僕はほとほと困り果て、見えもしない原因をあれやこれやと推測することを放棄することにした。いや、全てが不明瞭であるため、この浅い見識では諦めざるを得ないのである。

 もやもやとした感情を抱えながらも、気持ちを落ち着かせるべく紅茶を口に含む。優しい味にほっとして一息つけると、ふとあの古い記憶を思い出した。僕はかなり幼い頃、何かに必死に抵抗しながらも草むらで美しい何かを見た。その記憶がいつ、どこであったのかさえ覚えていなかったのだが、僕はその記憶を控えめに彼らに伝えた。

「だけど、それはドラゴンでは無かったと思う。いや、単に記憶違いかもしれない。やはり僕なんかが関りあるとは思えない」

 僕はうつむき、心許ない口調で言い添えた。僕なんかがおこがましい、という気持ちが僕の中にあった。

「ドラゴンだったかもしれないし、本当に記憶違いかもしれない。だが、君はもっと自分を誇りに感じてもいい。君は充分に立派な青年だぞ」

 思いがけないユリウスの言葉に顔を上げる。彼はあたたかい眼差しで僕を見ており、目が合うなり優しく微笑んだ。僕はユリウスから届けられたあたたかい言葉と優しい表情に感激を覚え、またしても言葉に詰まってしまった。

『ありがとう』という言葉以外に、僕の感謝の気持ちを言い表せる言葉が思い浮かばない。数多く届けられた優しい言葉に返す言葉が、あまりにも少ないのである。なぜ、僕は繰り返してしまうのであろう。

 ユリウスは僕の眼差しを優しく受け止めたうえで、イェンスに目配せをした。

 「イェンス、君も彼に同じようなことを伝えてきたのではないか? 君は彼に対して深い友情と優しい眼差しを向けている。君が彼を親友として心から受け止め、その友情に喜びと感謝の気持ちを抱いていることは見ていればすぐにわかる」

 ユリウスが優しくイェンスに微笑んだ。イェンスは少しはにかんだように微笑むと、僕とユリウスを交互に見て噛みしめるように言った。

「はい。クラウスはありのままの自分でいられる友情を、僕に幾度となく見せてくれました。彼は実に素晴らしい友人です。僕には彼と友情を育めたことが誇りであり、僕の強みでもあるのです。そのことだけでも僕は孤独から解放され、自分と向き合う勇気と、前に進む原動力を感じることができる。この美しい感情が彼から与えられるだけで、僕は本当に心強いんだ」

 その言葉を聞いた瞬間、僕は感動に包まれた。その美しい言葉の数々が紛れも無く、僕自身に向かって発せられたのである。全身が喜びで打ち震える中、イェンスをあふれる感情とともに見つめる。僕もまたイェンスに、彼の言葉に勇気づけられていた。

「その気持ちはよくわかる。実を言えば、私も今感じ始めているのだ。長らく私は孤独で、私の血のことはずっと誰にも言えずにいた。ドラゴンの知性が私にささやくのだ。仮にそのことを普通の人間に話せば、埋めがたい溝が生まれる。そして今感じている以上の孤独と悲しみを、生涯にわたって感じることになるのだとね。自分の中の深淵を覗くと、私はいつもそこに住まう孤独という名の魔物に絶望感を持って叩きのめされてきた。君たちもすでに感じているのか、それともこれから否応なしにそれを感じていくのかはわからないが、その傷がなかなか癒え難いのは事実だ」

 ユリウスの言葉は、僕を甘美な世界からあっという間に容赦のない現実へと引き戻した。しかし、当の彼の表情は決して曇っておらず、それどころか希望を抱いているように見えた。

「私は君たちの歴史の中ではごく浅く、君たちの関係に比べれば表面的とも言える。だが、私の中核を成すところが君たちとつながって共有できた今、君たちの友情と信頼関係が私に勇気を与えてくれるのだ。傷を癒し、深淵の奥にある自己への愛を魔物から奪い取ろうと奮起することだって、以前より恐怖ではない」

 ユリウスの言葉が再び僕の心を強く打った。彼が言った、『自己への愛』という言葉がとりわけ僕の心を惹きつける。その時、イェンスが「やはり、自己への愛なんですね」とつぶやくようにユリウスに尋ねた。ユリウスは力強く「そうだ」と返すと、彼をじっと見つめた。

『自己への愛』――それは人生の道筋だけではなく、人生の壮大な目的を理解するための鍵のように思えてならなかった。おそらくは僕たちが受けている変化の向こうの、新たな扉を開く重要な鍵にもなるのであろう。しかし、僕は『自己への愛』がどういったものであるのか、さっぱりわからないままであった。

 その言葉はイェンスからも何度か聞いていた。僕も決して放置していたわけではなく、その意味を深く探ろうと、自分なりに自分自身に対してあたたかい眼差しを向けようとしたこともあった。しかし、不出来な自分を甘やかしていることに抵抗を感じ、なおかつどういった思考と行為が正解であるのかが不明瞭であったため、頻繁に試すことはしてこなかったのである。

 そこで僕はその極意を探るべく、二人に率直な言葉で質問をすることにした。

「ユリウス、あなたはあの公園で以前も同じことをおっしゃいました。イェンスも自分を受け入れろと言う。しかし、僕はいまいちその方法や正解の感覚が掴めないでいます」

 僕の眼差しに紫色の瞳と緑色の瞳が微かな光を放って応えた。

「実を言うと、私もまだもがいているのだ。だからこそ不安を感じ、君たちに勇気を分け与えてもらっているのだからね。ありのままの自分を捉えようとすればするほど、ドラゴンの能力がさらに私に試練を課すかのように、様々な経験をもたらす。私の立場では世界中の裏の事情が否応なしに見えてくるし、場合によっては万全とはいえない対応を選ばざるを得ないこともある。その度に、中途半端にしか能力を持てないこの私に、いったい何ができるのかと自問し、苦悩するのだ。簡単に片付けられない問題が今でも根深く残っているのは、どこの地方国でも同じことだ。ここアウリンコでもだ。世界を見据えながら自分を愛することに苦労するのは、私がこの役職に就いている間中、ずっと続くのだと思っている」

 ユリウスはそう言うと「すまない。この件に関して言えば、具体的な力にはなれない」と瞳に憂いを浮かべながら付け加え、僕を見つめた。それを見守っていたイェンスも、力無く微笑みながら僕に話しかけた。

「僕はユリウスのように世界を動かす立場では無いから、僕が感じている苦悩なんて彼に比べればおもちゃのようなものだ。だけど、感じていることは同じなんだ。君には偉そうなことを言っておいて申し訳なく思う。本質らしきものが見えたとしても、世界が僕に向かって『それで本質を見たと言えるのか?』と嘲笑いながら挑発してくるのだ。その度に、僕にとって大事なことだと理解しながらも、『自己への愛』が何を指すのかを見失ってしまう。このことに関して言えば、お互いこれから気付きや発見があって、それがうまく自分に作用した時に情報を交換し、共有できるようになればいいと願っている」

 彼の表情には少しの悲哀と希望とが織り交ざっているように見えた。ユリウスがイェンスの言葉にうなずいてみせ、「そのことが君から提案されたことに感謝する。ぜひそうしよう」と返す。この僕に彼らほどの気付きが訪れるのか不安に駆られたものの、情報を共有できることは心強かったため、感謝の言葉を添えて僕も彼らに約束した。

 ユリウスは気を取り直したのか、ゆったりとした様子で紅茶を飲み始めた。そして静かにティーカップをソーサーの上に置くと、「話は変わるのだが」と言って僕たちを見た。

「君たちは『Dragon broker』という言葉を知っているね?」

 彼がその話題に触れたことは意外であったのだが、イェンスも僕も「もちろんです」と力強く答えるとユリウスはさらに続けた。

「今は優秀なカスタム・ブローカーの称号のような扱いになっているが、元々の語源はゲーゼに由来する。ゲーゼが外殻政府樹立時に活躍したことは周知の事実で、公然の歴史として取り扱われている。しかし、当時は兄の活躍ぶりがあまりに超人的であったため、一部の人間から異種族――とりわけドラゴンに関係しているのではないかとささやかれていたのだ」

 ユリウスの言葉に驚いて思わず彼を凝視したのだが、彼は意に介することなく話し続けた。

「どうやら兄の風貌や能力に、エルフや妖精ではない異種族の何かを感じ取って噂が広まっていったらしい。兄は当然その噂を知っていた。だが、自分の血を知られたくなかった兄は、たとえ噂の段階でもそれ以上広まることのないよう否定し続けていた。ある時、地方国の有名な画家が政府の閣僚たちが集まる会合で、ゲーゼの功績を称えるためにドラゴンを従える彼の肖像画を贈った。それは明らかにゲーゼがドラゴンと関係していることを匂わせる絵であったそうだ。しかし、兄は喜ぶどころかそれ以上詮索されることを懸念して、あえてその画家の前でその絵画を壊したらしい。むろん、贈った画家や政府の閣僚たちは茫然と立ち尽くした。その眼前で、兄は平然とこう言い放ったそうだ。『私はドラゴンとは無縁だ。そもそも私は何の興味も彼らに抱いていないのだ。彼らと関連があると噂されているのも知っているが、実に根拠がなく、ただただ不愉快だ。実際のドラゴンが何であれ、私には単なるおとぎ話の中の生き物だ』とね。もちろん、兄の本心はドラゴンの血に対する誇りにあふれていたのだが、兄自身がそれ以上人間社会で生きづらくならないよう断腸の思いで伝えたのだという。その逸話が元となって兄に『Dragon breaker』の称号が与えられたのだが、いつの間にかその出来事自体が忘れ去られて単語だけが残ってしまった。そして今から五十年前に地方国のブローカー業界が地位と資質の向上を図るべく、優秀な業者をゲーゼにあやかって『Dragon broker』ともじって権威づけるようになった。そのことを外殻政府も利用するようになり、今や世界中にその言葉が広がっていったのだ」

 イェンスと僕はユリウスの話に驚愕していた。『Dragon broker』という言葉の由来に、思いがけない不思議な巡り合わせが隠されていたのだ。たとえ言葉尻だけだとしても、僕が選んだ職業の背後に実際のドラゴンがうっすらとでも関わっていたことは奇妙なつながりであった。

「この話は兄から直接聞いたのだが、今や事実を知っているのは私たち三人だけだ。兄が言うには、『せっかく寄贈しようとしてくれた画家にはすぐに謝ったが、私があまりに鬼気迫った表情で否定したため、誰もそのことに触れなくなった。史料にも残されなかったようだ』ということらしい。私もヘルマンにそのことは話さなかった」

「もちろん、僕たちも他言しません」

 イェンスが力強く答えた。僕も落ち着きを添えて、「僕もです」と強くユリウスに誓う。ヘルマンの名前が挙がったことでユリウスと彼との関係を気にかけていると、イェンスがユリウスに話しかけた。

「ヘルマンの話題が出たのでお尋ねしたいのですが、彼もドラゴンのペンダントを身に付け、ドラゴンの力に触れています。彼も今現在、変化を体験しているのでしょう? 彼はそのことであなたに何かを話していたのでしょうか?」

 イェンスの質問にユリウスは口角を上げて鋭く彼を見つめ返した。

「いい質問だ。ヘルマンにも当然変化は訪れている。だが、彼はペンダントをゲーゼから譲り受けた際、それが何であるのかを理解していたため、爪の部分を直接手で触れることなく金庫に入れて保管したと話していた。私が彼に初めて会った、その少し前に爪のことが気になり、その時にようやく直接触ったらしい。そもそも私とヘルマンが出会った時のことを話そう。私がとある地方国に配置されている軍艦に赴く用事があった時、お互い使用していたバースこそ異なっていたのだが、彼が船長を務める貿易船も奇しくも同じふ頭内に停泊していた。今思えば奇妙なめぐり合わせなのだが、とにかくヘルマンは不審がられることなく警備網をかいくぐって私に近付くことができたのだ。私は彼の強い意志を宿した視線に気付き、周囲に気を配りながら彼に話しかけることにした。すると、彼は私がゲーゼの身内であることを見抜いており、そのことを曖昧にぼかして伝えてきた。私が驚いて言葉を失っていると、彼はさらに小声で続けた。『船長室の金庫に、ゲーゼから譲り受けたペンダントを大事に保管してある』とね。私はなんとか時間を作ると、もっともらしい口実を考えてこっそりと彼に会いに行き、船長室でそのペンダントを見せてもらった」

 僕は彼の言葉に息を凝らして聞き入った。

 「ヘルマンはペンダントに直接触れたことで観察眼が磨かれ、体力までもが幾分持ち直したことを理解していた。そこで私が理由を説明すると、彼は驚いてペンダントをそのまま保有していて問題無いのかと確認を求めてきた。それを受けて私は、『兄はあなたに託しました。身に付けるかどうかも含め、どう扱おうとあなたの自由です』と返した。すると彼は『やはり普段は保管しておきましょう』と言い、続けて『実を言うと、ここ数日胸騒ぎがしていたのです』と付け加えた。脳裏からドラゴンの爪が離れず、何かあるのかと思っていたらしい。その時、私が同じふ頭にいることを思い出し、船長の立場を利用して会えないかという気持ちに駆られたそうだ。もちろん、彼の立場でも私に近付くとなると、事前に必要な手続きを踏まえて約束を取り付ける必要がある。しかし、彼はふ頭内を歩き回っているうちに、何かに導かれるかのように私に近付くことができたのだと話していた」

 静かな室内にユリウスの声だけが広がる。

「私は当時、ペンダントの様子を気にかけてはいたのだが、忙しさもあって職務のほうを優先していた。だから、ヘルマンが胸騒ぎを気にかけたことが、私たちの出会いにつながったのだと考えている。別れ間際にヘルマンは、胸騒ぎとともにペンダントが脳裏から離れないことが再びあれば、その時はまた金庫から取り出して身に付けようと伝えてきた。おそらく彼は言葉どおりにしていたと思う。それでも彼は着実に変化を受け取ったようだ。なぜなら君たちと出会い、私との出会いにつなげたのだからね」

 ユリウスはそう言うと優しく微笑んで僕たちを見た。

 やはりユリウスとヘルマンも、不思議な巡り合わせで出会っていたのであった。ヘルマンはゲーゼと過去に出会ったことが契機となっていた。そのヘルマンとゲーゼの出会いは、本当にささいな偶然がいくつも重なってもたらされたのであろうが、現在の僕たちにまでつながったことは、ユリウスの父であるドラゴンでさえ思い付かなかったのではなかろうか。ドラゴンの爪に触れたというだけで、これほどまでに惹きあうのだ!

 もしかしたらこの地球上に、ドラゴンの爪に触れた人物が他にもいるのではないのか。それでいけば、いつか僕たちは出会うのだ。それを考えると絶大と言えるほどの強い導きに、感慨深くならずにはいられなかった。

「ヘルマンの話は非常に興味深く思います。やはりドラゴンの力に触れると、お互い引きあうのですね。そのことでお尋ねしたいのですが、僕たち以外でドラゴンの力に触れた者がいる、という直感はあるのですか?」

 僕の無骨な質問を聞いたユリウスは神妙な面持ちを浮かべた。

「その質問もいい質問だ。その可能性は私も何度か考えたことがある。実を言うと、今年の初夏ぐらいの頃、このペンダントが急に熱を帯びたことがあってね。その時、ドラゴンの爪に触れた者がいるというより、ひょっとしたら異種族に関わる者が他にもいて、いずれ出会うのではないかという直感がしたのだ。それまでその予感は私の中には無かった。ヘルマンの時のように見落としていたのかもしれないがね。しかし、今はどうしても他にドラゴンの力に触れた者がいるという感覚が無い。クラウス、君を目の前にして言う言葉ではないが、そもそもドラゴンは人間社会に痕跡さえ残さない。ドラゴンがその姿を人間に見られる可能性もまずあり得ないが、仮に姿を見られたとしても先ほども言ったとおり、記憶も接触の痕跡もドラゴンの魔法によって消されるのだ。そうなると私の能力では捉える事が難しい。だからおそらくいないだろう、としか答えようがない」

 ユリウスは僕をじっと見つめると、続けて言った。

「君も自分の変化をさらに上手に受け止めるようになれば、そういう能力をも開花させると思っている。イェンス、君は生まれつき背負ってきただけあって、クラウスよりは確かに能力を開花させているね。だが、君はドラゴンより、その血の源であるエルフのほうにはるかに強い反応を示すはずだ」

 ユリウスは言い終えるとイェンスを意味ありげに見つめた。イェンスはじっとユリウスを見つめ返していたのだが、突然何かを察知したのか表情がこわばり、それから辺りを探るかのように周囲を見回し始めた。

 僕はその様子を見て、彼にやわらかい光がなだれ込んでいくかのような錯覚に捉われていた。その一方で、僕の内側からどこか懐かしい感覚が湧き上がる。しかし、その感覚も長くは続かず、シャボン玉のようにあっという間に消えてしまった。

 イェンスは目を閉じながら何度か深呼吸を繰り返していた。その様子が気になってそっと見守っていると、ユリウスが落ち着いた口調でイェンスに話しかけた。

「間もなく彼がここにやってくる。私は彼に、今日私が招いた者たちと会ってほしいとずっとお願いをしていた。私も今感じた。まだこの敷地内には来ていないが、彼がここに向かっている気配を感じる」

 僕は驚いて言葉を失った。鈍感な僕にもあっさりと理解できるほど、思いがけない展開がさらに待ち受けていた。今日は何という日なのであろう!

 イェンスは目を開けるなり外のほうに視線を向け、口をきつく結んだまま固まった。彼の肌は力強く彩られ、赤橙色の髪も美しく輝き、緑色の瞳はさらなる光にあふれていくようである。彼は窓の向こうをじっと見つめたまま、独り言のようにユリウスに問いかけた。

「……エルフがここに来るのですね?」

 僕はその言葉を静かに受け取った。ユリウスがそれに対して大きくうなずくと、はっきりとした口調で答えた。

「そのとおりだ。そのエルフは一週間の滞在予定で、極秘にアウリンコを訪問している。政府の特別機で出迎え、招いているのだ。エルフの訪問もその訪問目的も、国家機密だ。今やエルフは外殻政府にとって無くてはならない頭脳であり、救世主なのだ。だが、エルフにとって人間の世界は窮屈そのものだ。それゆえ長居することはなく、外殻政府の中枢部に恩恵をもたらす意見や見解を述べ、不都合を改善させる手だてを整えると、今度は人間が異種族の領域を侵犯しないことを改めて誓約させて帰っていく。彼は明日アウリンコを去る予定だ」

 僕はそれを聞いてたいそう驚いたのだが、同時に疑問も湧き上がった。たった一週間で様々な思惑が入り混じる大勢の人間を懐柔することなど、果たして可能なのであろうか。実際に会えば判明するのかもしれないが、エルフの能力がどの程度のものなのか、僕には想像もつかなかった。

 イェンスは少し緊張した面持ちで手を組み、窓の外を見ながら静かに呼吸していた。その様子から、彼が今日の訪問に対し、何か感慨深い体験をする直感を得ていたことを思い出した。彼はとうに『奇跡』を鋭く感じ取っていたのである。

 僕はイェンスにそっと話しかけた。

「イェンス、君はユリウスから連絡をもらったあの日、直感がすると言っていたね」

「ああ、そうだ。クラウス、正直に言うとあの時、感慨深い体験をすると直感を得た時、エルフのことは一瞬脳裏に浮かんだ。だけど、それは僕の浅はかな願望だと思っていたんだ。本物に会うのはすごく不安を感じる。やはり心を強くしていないと、僕は自分の中途半端さを恥じてしまいそうだ」

 彼はそう言うと不安げな表情でうつむいた。僕はそんな彼の肩にそっと腕を回し、小さく体を丸めた彼に心を込めて話しかけた。

「慰めにもならないかもしれないけど、僕は君なら大丈夫だと信じている」

「クラウスの言うとおりだ。イェンス、君は全く立派で美しく、完成された一つの生命だ。何も恥じることは無い。君なら彼と話す時間を、互いに価値あるものへと導いていくことができる。だからこそ、私は彼にお願いしたのだ」

 ユリウスは力強くイェンスを見つめていた。イェンスは顔を上げるとユリウスを見つめ返し、それから一つ大きく呼吸をしてから目を閉じた。こわばっていた彼の表情がだんだんやわらいでいき、丸まっていた体がゆったりと開いていく。彼は再び目を開けると、強い意思を穏やかな気持ちで迎え入れたかのような表情を見せた。

「ありがとう、本当にありがとう」

 イェンスの口調は全くもって落ち着いていた。僕はそのしなやかな強さに感嘆し、間近に迫った未来に想いを馳せた。

 ユリウスがいったん全てのティーポットとティーカップを下げ、ダイニングキッチンへと向かう。イェンスと僕はその間、少しそわそわしながら過ごした。そこに新しいティーセットを用意したユリウスがリビングルームへと戻ってきた。

 その時、イェンスが飛び上がるように立ち上がり、窓の外を一点に見つめた。それを受けてユリウスが「彼が来ることを警備担当者にも伝えていないのだ。車を出して彼を迎えに行ってくる」と僕たちに言い残し、部屋を出ていく。僕は突っ立っているイェンスを見上げた。彼はやや緊張した面持ちであったのだが、僕の視線に気が付くなり「大丈夫だ」と言って微笑んだ。僕は彼のその姿に、相変わらず美しさと気品を感じ取っていた。

 本物のエルフは格が違うのだと、イェンスは以前話していた。しかし、僕の内側には強い肯定感があった。きっと本物のエルフを見てもなお、イェンスを変わらず美しく感じ、彼が優雅に気品をまとっているのを見つけるに違いないのだ。

 ユリウスが退出してから五分と経っていないのだが、待っている時間は実に長く感じられた。イェンスは再びソファに座り直し、エルフが来るのをじっと待ち構えているようである。僕はイェンスの気分を乱すことのないよう、同じく無言でその瞬間を待ち受けていたのだが、不意にイェンスが僕に寄りかかって耳元でささやくように尋ねた。

「クラウス。あえて尋ねたいのだけど、僕が本物のエルフを見て再び圧倒され、歴然たる差に落胆をしてもなお、彼のようになりたいと憧れたら君は僕を滑稽だと思う?」

 彼の瞳は純粋な美しさと独特の憂いを放っていた。そしてその表情は決意を持とうとしながらも、直視する現実に怯えているようであった。

 僕はイェンスの視線を真っ直ぐに受け止めた。すると彼に対して清らかかつ、心地良い感情が湧き上がってきた。それは彼に対する親愛の気持ちであった。

 僕は彼の肩を抱くと心を込めて彼に伝えた。

「イェンス。僕は君が本物のエルフに会って、君がどんな反応をし、どんな言葉を彼と交わそうとも、それでも君を美しく感じ、親しみを持ち続けていると思う。直感というよりは僕の意志だ。僕はそうでありたいんだ。だから君がどうしようと、どうであろうと、僕は君の……君の親友でありたいと思っている」

 少し拙さがあったものの、僕は正直に自分の気持ちをイェンスに伝えた。すると彼は弾けるような笑顔を見せ、それから僕を力強く抱きしめた。そしてほほにキスをしたかと思うと、あの美しい輝きを瞳中にあふれさせながら言った。

「クラウス、本当にありがとう。すごく嬉しいよ」

 その時、僕は不思議な気配を感じ取った。気配というよりは先ほど一瞬で消えてしまった懐かしい感覚が舞い戻り、体内で共鳴している感じであったのだが、とにかく僕は全身で何かを感じ取った。

「いよいよ到着したようだ」

 イェンスが緊張した声でささやく。僕たちは少し背筋を伸ばして座り直し、部屋の入口へと体を向けた。やがて話し声と足音とが徐々に近付き、それにつれて僕たちの緊張が高まっていく。足音がぴたりと止んだその時、ついに部屋のドアがゆっくりと開かれた。

 イェンスと僕はすっと立ち上がってその対面を待ち受けた。僕の体中に身震いが走り、思わず息をのむ。ユリウスが僕たちに微笑みかけてから、彼の背後にいる人物に話しかける。

 次の瞬間、鮮やかな赤橙色の長い髪と特徴的な耳、叡智と完璧な美しさを現わした顔立ちに、透明感あふれる澄んだ緑色の瞳を持ったエルフの青年が現れた。腰には見事な調金細工が施されている短剣を差しており、滑らかで光沢のある独特の衣装を身にまとっている。僕はそのあまりの美しさに、ため息さえも失って立ち尽くした。

「彼はエルフのルトサオツィだ。ルトサオツィ、彼が先日話した高祖母がエルフで、彼だけが唯一、一族の中でエルフの特徴を受け継いだイェンス、そしてその隣がドラゴンの爪に触れて能力を開花させたクラウスだ」

 ユリウスの紹介が終わるや否や、そのエルフの青年ルトサオツィは清流のような澄んだ眼差しで僕たちを交互に見つめ、それから少し低く張りのある声で僕たちに話しかけてきた。

「やあ、君たちに会えて嬉しいよ。君がイェンス、そして君がクラウスだね」

 ルトサオツィが美しい笑顔を添えて手を差し出してきたので、緊張しながらも彼に挨拶し、握手を返す。しかし、その間もイェンスはずっと固まったまま、一言も発しなかった。気になって彼の様子を伺うと、彼はどこか放心状態でルトサオツィを見つめていた。彼のその様子を受け、突拍子もない直感が僕に舞い降りる。おそらくルトサオツィは――。

 ユリウスが不思議そうにイェンスを見つめ、ルトサオツィもイェンスに視線を向ける。三人からの視線を一身に浴びたイェンスが、かすかに息をもらした。

「あなたは……あなたは、まさか……」

 しかし、彼はまたしても言葉を失ったようであった。ユリウスが何か勘付いたのか、驚いた表情で勢いよくルトサオツィのほうに顔を向ける。ルトサオツィはイェンスに優しく微笑みかけてから、静かに話し出した。

「そうだ、君と以前会っている。君がまだ五歳ぐらいの頃だった。ああ、随分大きくなったのだね」

 ルトサオツィの表情は穏やかなままであった。イェンスはなおも茫然として立ち尽くしていたのだが、ルトサオツィが彼に優しく触れるとようやく我に返ったのか、訥々とルトサオツィに話しかけた。

「まさか、またお会いするとは……。挨拶もせずにすみません。まさかあの時のお方だとは思ってもいなかったのです」

 イェンスはなおも戸惑いの色を隠せずにいたのだが、「そうだろうね」というルトサオツィの言葉に気を取り直したのか、少しずつ落ち着きを取り戻したようであった。

「こちらにどうぞ」

 ユリウスがルトサオツィをソファに座らせる。それからユリウスはお湯をダイニングキッチンであたため直し、僕たちにお茶を振る舞った。ルトサオツィは漂う芳醇な香りを楽しんでいるのか、ゆっくりと瞬きをしてからユリウスに話しかけた。

「これは気持ちを穏やかにさせる、実にいい香りのハーブティーだ。ありがとう」

 ルトサオツィがおもむろにカップを持ち上げる。その仕草までもが優雅に思われ、僕はつい見とれた。すると彼と目が合い、気恥ずかしさから顔が赤くなる。ルトサオツィは僕に微笑んでからハーブティーを口にしたのだが、その所作もやわらかで、イェンスが幼いながらもその美しさに感嘆したことを裏付けるものであった。

 僕も振る舞いに気を付けながらカップに口を付ける。ハーブティーは優しい味わいであり、僕の心に思いがけずあたたかさをもたらした。しかし、イェンスだけは出されたハーブティーに口を付けず、彼の左斜めに座っているルトサオツィをじっと見つめていた。ルトサオツィはその視線を落ち着いて受け止めているらしく、その輝く美しい緑色の瞳をイェンスに向けて言った。

「イェンス。初めて君と会ったあの時、私が君に言った言葉を今でも覚えているね?」

「はい、今でも場面を鮮明に思い出せるほどです」

 イェンスは控えめな口調で答えた。

「『君に若干の特徴こそあれど、私たちからすればやはり人間にしかすぎない。君の健やかな成長を願う』と私は言った。だが、正直に言うと今の君を見て驚いた。耳こそ人間の耳だが、それ以外では私たちの特徴が随所に見受けられる。細部まで見るともちろん異なる点もあるが、それでも君が持つ血縁関係からするとかなり奇跡だといえる」

 ルトサオツィはそう言うなりイェンスに微笑んだ。それを聞いたイェンスのほほと耳が紅潮していく。彼はたとえ表面的なものでも、本物のエルフにその血を認められて嬉しかったのであろう。当事者でない僕でさえ、ルトサオツィの思いがけないイェンスへの言葉は嬉しかった。

「あの時、一緒にいた君の父親に、『あなたの息子を生涯人間の好奇の目にさらさないよう、彼の特徴を秘密にしたまえ。世間に知られれば彼だけでなく、あなたたち家族も身を滅ぼしかねない』と助言をしたのだが、それは守られているようだね。私はここアウリンコを、初めて君と出会った最初の訪問を含めて五回ほど訪れているのだが、先日ユリウスに君の話を聞くまで、エルフの特徴を持つ人間のことは政府内でも全く耳にすることがなかった」

 ルトサオツィの言葉に、イェンスがはにかみながらも丁重にお礼の言葉を伝えた。そして彼に対する好奇の眼差しやからかいは多かったものの、血を探るような詮索をされたことは無かったとルトサオツィに返すと、ルトサオツィはまたも優しい微笑みをイェンスに向けた。

 そのやり取りを見守っていたユリウスが、そっとルトサオツィに尋ねた。

「もしや、彼に対して魔法を用いたのではあるまいか?」

 僕は非現実的な言葉に非常に驚いてユリウスを見つめ返した。

「いったいそれはどういう意味なのですか?」

 イェンスは僕以上に戸惑っていた。それでもなお、ルトサオツィは穏やかなままであり、イェンスに優しく微笑んでから説明を始めた。

「確かに私は彼に魔法を用いた。イェンス、君は私たちエルフが把握している中ではたった一人、人間でありながらエルフの特徴を持つ存在だ。君を初めて見たあの時、君が人間社会で目立ち、好奇の視線と苦難にさらされる人生を送るのが容易に想像ついた。そこで私は君が生まれつき持っている特徴を理解し、より良く対応できるよう、そして君の幸せを願うために魔法を用いて祈ることにしたのだ。人間とはいえ、エルフの特徴を部分的に持っている君を見過ごせなかった。私は君の幸せを祈りながら君の手を素早く握った。君の父親は考え事をしていて、私が君に取った行為に気付けなかった。私はさらに君に魔法をかけ、私が最初に言った言葉以外は記憶から消えるようにした」

 ルトサオツィが強い眼差しでイェンスを見つめる。イェンスは困惑した表情のまま、何も言わずに彼を見つめ返していた。

「君の幸せを願った祈りに強い実効性は無い。与える相手の精神状態によるうえ、目に見える幸運を呼ぶような類のものでは無いからだ。特に人間相手だと、気休めに近いかもしれないね。そのことよりも、君が魔力に触れることで君が受け継いだエルフの特徴がさらに濃くなり、能力を高めることになるかもしれないことは考えていた。そのことで、君がよりいっそう普通の人間との差に苦しむことになるのか、それともそれすらも知恵を深めることによって乗り越えていくのか。君がどういうふうになるのかは私も予測がつかなかったのだが、君が持って生まれた強さに委ねることにしたのだ」

 ルトサオツィはそう言うとなぜかユリウスを見つめた。そのユリウスは顎髭に手をやりながら、戸惑った表情でつぶやくように言った。

「まるで賭けだな」

 その言葉にイェンスが視線を落とす。だが、その様子はルトサオツィを拒絶しているのではなく、彼の話を必死に理解しようとしているように思われた。

 僕は当事者でなかったため、ルトサオツィの話を不思議と理解できていた。それでも全くもって冷静であるということも無かった。ルトサオツィがイェンスにしたことは、彼の人生に強い影響を与えたにもかかわらず、どこかおとぎ話の世界の出来事のようであった。そのため、好奇心が驚きとともに僕の中で駆け巡っていたのである。

 エルフやドラゴンにとって、こういったことも含めて魔法を使用することが当然のこととして成立しているのであろう。そのことに思いを馳せただけで、僕の中でさらに強い好奇心が異種族や魔法に対して芽生えていく。しかしその時、冷静な思考が突如として現れた。

 人間にしか過ぎない僕がいくら好奇心を持ったところで、いったい何になるというのか。異種族の世界に興味を持っても、浅はかな好奇心だけで届かない世界を覗こうとするのは、単なる自己満足にしか過ぎないではないか。

 イェンスはようやくルトサオツィの言葉を受け止めることができたのか、ゆっくりと顔を上げた。それでも彼はやはり無言であり、ルトサオツィをただ見つめるだけであった。

「イェンス、君は今も混乱しているのだろう。自分が受けてきた苦難や悲しみが、私に起因しているとわかったからね。だが、君の思考は別の見方も捉えているはずだ。確かに能力としては中途半端なのかもしれないが、それでもごくごく限られた弱い能力のままでいるよりは、はるかに自分の助けになっていたのだと。そしてこのことを私が君に恩着せがましく、威圧的に言っているわけではないことも君は理解している」

 ルトサオツィが静かに微笑む。僕は彼のその言葉の意味も理解でき、それどころか感心さえ覚えていた。僕たちが普通の人間から外れて後戻りできないのであれば、中途半端なりにも目立たせないための知恵と導きは必要であり、そこから自己と他人との違いを客観的に把握し、必要に応じて能力と知恵を使用することが非常に重要であるように思えたからであった。

「私も実は父親であるドラゴンから、そういった意味ではドラゴンの魔力に触れたのだ」

 ユリウスがおもむろに話し始めた。その言葉にただならぬ興奮が芽生え、まるで吸い寄せられるかのように彼を見つめる。そのユリウスの紫色の瞳がかすかに光った。

「父はかつて、あなたが彼に話した説明を私にしてから、その幸せを願う魔法を受けるかどうかを自分で決めるように言った。そこで私はどうせ中途半端なのであれば、何も見えないままでもがき苦しむことより、対象を見てもがき苦しむほうを選んだのだ。父の魔法を浴びたおかげで私の異質さはますます際立ったが、それで得られた見識も経験も、結局は自らを助ける生涯の伴侶となった。今となっては諸刃の剣をこの身に受けたのだと思うがね」

 そう言うとユリウスは微笑んだ。

「だがあの時、諸刃の剣をこの身に受けたことは良かったのだと思っている。そうで無ければ私はとっくに自分を見失い、全く別の人生を歩んでいたことだろう。もしかしたら、自らこの世に別れを告げていたかもしれない」

 僕はユリウスの言葉に衝撃を受けた。彼の人生は華やかに彩られたものではなく、自分自身を見失いかねないほどのつらい経験のほうが圧倒的に多かったのだ。彼のこれまでの発言を鑑みるに、おそらくは周囲の人間関係が彼に苦しみを与えてきたのであろう。その高い能力から、人間のあざとさと傲慢さを嗅ぎとって来たのか、それとも直接的に執拗な嫌がらせを受け続けてきたのか。

 僕が過去に経験した憤りや悲しみは、おそらくユリウスやイェンスのそれに比べたら甘ったるいものであろう。確かに僕は家族との間に禍根を抱えているものの、ユリウスやイェンスのような、特別に重く深い衝撃を受ける体験はしてこなかった。しかし一方で、僕の過去全てがたいしたものでは無かったと否定する気にもなれなかった。むしろ、そうすることにどうしても引っかかりを感じていた。過去に感じた憤りや悲しみを現在の僕が否定することは、変化という名の成長の証なのか、過去の自分への裏切りに値するのか。

 イェンスは僕の変化が続くことを予想していた。そして僕自身も変化が続くことを願っていた。ユリウスが言った、『対象を見てもがき苦しむ』という言葉が僕の心の中で強く響きわたる。その対象とは、人間関係や日々の生活の中にひそむ不安の種ではなく、未知の世界の全容であり、僕たちに変化をもたらした直接の原因の正体のことなのであろう。しかし、僕には全てにおいて不明瞭な世界の入り口のように思われた。

 思い返すと、僕は変化を実感しているのにもかかわらず、世界が美しく彩られ、美しい音を奏で、やわらかく僕たちを包み込んでいることに感動を覚えるだけであった。あまつさえすぐに中途半端な自分を恥じ、イェンスやユリウスの強さに憧れただけで終わらせていることもあった。そもそも変化に対して目標を掲げたのも、つい今朝がたのことではないか。

 僕の脳裏に一本の線がぼんやりと浮かび上がる。それは変化や未知の世界を意識して捉えようとする意志なのだが、うっすらと掠れた、途切れ途切れのか弱いものであった。僕はこの線をどうしたいのか。

 ふと我に返ると、ユリウスとルトサオツィが外殻政府のことについて話しているのが耳に入った。ユリウスが大元帥として軍をまとめているため、異種族は大変助かっているのだという。途端にその会話が気になり、立場もわきまえずに浮かんだ疑問を彼らに尋ねようかと思い立つ。しかしその時、イェンスがルトサオツィのほうに体を向けたので、ひとまず発言を控えて成り行きを見守ることにした。

「ルトサオツィ、あなたの話を聞くことができて良かった。僕は今ようやく、あなたの話を濁らせること無くこの身に受け入れることができました。あなたが私にして下さったこと全てに、心から感謝しています。私は今や喜びを内側から体感するまでに、あなたの厚意を尊く感じているのです」

 ゆっくりと言葉を選ぶかのように伝えたイェンスに、ルトサオツィは優しい微笑みで応えただけであったのだが、おそらくそれだけで彼らは分かち合ったのであろう。イェンスが落ち着いた様子でハーブティーに口を付ける。その様子をユリウスもまた、優しい眼差しで見守っていた。

 ふとルトサオツィと目が合い、微笑まれる。僕は照れながらも会釈を返すと、気になっていたことを思い出してユリウスにおそるおそる尋ねることにした。

「ユリウス。立場上、言えないのであれば無理にはお聞きしませんが、あなたは先ほどルトサオツィと外殻政府軍の話をされていましたね。そのことで少々お聞きしたのですが……」

 それを聞いたユリウスは、かすかに片眉を上げて驚きとも喜びともとれる表情を僕たちに見せたかと思うと、ルトサオツィに目配せした。

「僕も気にはなっていた」

 イェンスが耳元でささやく。

「どこまで話そうか?」

 ユリウスの問いかけにルトサオツィは朗らかな笑顔で応えたのだが、その瞳はすぐに僕たちを捉えた。

「ユリウス、君はわかっているはずだ。私の心の内も、この二人の心のうちも」

 ルトサオツィのその言葉を聞くなり、僕はたちまちのうちに緊張を覚えた。

 ユリウスが外殻政府軍のことについて話すのであれば、内容によっては僕たちが超国家機密を知る可能性もあった。そのことがいったい何を意味するのか。今さらながら大胆な質問をしてしまったことに、またしても後悔にも似た不安を抱く。僕は生唾を飲み込むと神妙な面持ちで彼らを見つめた。しかし、ユリウスもまた朗らかな笑顔を浮かべており、僕たちに穏やかな口調で話しかけた。

「君たち、力を抜いたらどうだ。君たちはすでに直感としてあるだろうが、これから話すことは国家機密の中でも最重要項目だ。外殻政府の中でもほんの一握りの者しか知らない。それがどういう地位の者かは想像がつくだろう。だが、君たちは全てを聞いたところで他言はしないはずだ。私たちが口止めをお願いするのではない。君たちが自ら進んでそうしないのだ。君たちはすでにそういう対応をする側にいると私たちは感じている。そしてこれから話すことは、特別な能力を受け継いだ者にとって重要な情報だ。君たちが知る必要のあるものだと考えている」

 ユリウスは僕たちが緊張しつつも関心を寄せていることをあっさりと見抜いていた。彼の鋭さに感嘆し、さらにはその言葉の意味も噛みしめる。僕たちはやはり、一般人とは異なった道を進んで行くのだ。

 ルトサオツィがユリウスに目配せする。それをユリウスが静かな眼差しで受け止めると、ルトサオツィが僕たちに微笑んでからゆっくりと口を開いた。

「では、あえて私のほうから超国家機密を説明しよう。知ってのとおり、外殻政府は今から約百二十年前に樹立されると、独立国をまとめて一つの大きな政府の管轄下に治めることとなった。それは実を言うと、私たちエルフや妖精、ドワーフからの提案が発端なのだ」

 その時、ユリウスの瞳が鋭く光った。僕は学んだ歴史と異なる背景が隠されていたことにかなり驚いたのだが、ひとまず平静さを保ってルトサオツィの話に耳を傾け続けた。

「エルフの寿命は平均して人間のおよそ五倍だ。持っている魔力の高さによってばらつきがあるがね。だから、今から百五十年以上前の話でも私たちにしてみれば、祖父母の世代の話にあたる。私の祖父は人間が文明と技術を発展させているのを目の当たりにした際、いずれエルフの村に空から侵入すべく、頭上を翼のある機械で無遠慮に飛び回る日が来ることを確信していた。当時、エルフの村辺りも全く平穏では無かった。村へ入ろうとする人間が後を絶たず、祖父母の世代は侵入しようとする人間たちを追い払うことに手を焼いていたのだ。中には平和的な対話を求めてやって来る者もいたのだが、そのほとんどが最新の武器や武力で私たちを脅して服従させようとする野心を持った者の集まりだった。特に後者のほうは一人ひとりの力は弱いのだが、追い払うたびに武器を改良させて進入しようとするのでしつこかったようだ。近くのドワーフの村ではすでに人間が近くまで押し寄せており、度々揉め事を起こしていた。私の祖父はいろいろな国の人間が私たちの住む場所を目指して来ているのを把握していたので、一計を案じることにした。人間社会を一つの大きな組織の管理下に置き、そこに自分たちの融通を利かせるよう、人間に仕向けたのだ。そこで、祖父は数名の仲間とともに人間世界へと向かった。幾つかの主要な国の首脳や王族と会うのは実にたやすかったようだ。エルフのほうから『いい話がある』と秘密裏に尋ねて来たとわかれば、自尊心をくすぐられる。あっという間だったらしい。そして祖父たちは外殻政府の案を説明し、言葉巧みに首脳たちにその案を受け入れさせた。全ての国や首長の元を回ったわけではなかったため、祖父たちは外殻政府樹立にあたって、人間同士で諍いが起こることは最初から予想していた。だが、祖父たちはそこで不要な争いをさせるのではなく、人間たちにも利益が出るような平和的解決策を練ったのだ。その後のことは知っているだろう。祖父たちは外殻政府樹立と同時に外殻政府軍を国家安全省と連動させるよう、当時の首脳たちに働きかけた。それは外殻政府を守るためであり、地方国において外殻政府の力を軍事力と法治の両面で見せるためであり、私たちの生活圏を守らせるためでもあった」

 ルトサオツィはそう言うと、美しくも妖しい眼差しで僕たちを見つめた。僕は彼が話している内容に驚きつつ、彼の妖艶な視線に緊張を覚えていた。なぜ、政府の要人をあっという間に懐柔させることができるのか、そのことを今まさに身をもって体感しているようであった。

 圧倒的な魅力がそこにあった。それが魔力によるものなのか、エルフが本来持つものなのか、いずれにせよ彼には興味と羨望をすぐさま抱かせるだけの『何か』が備わっていた。それでいて人間の心を見透かしているのか、相手の好意を引き出すような言葉を巧みに使って対話で心を掴み、あの美しく気品あふれる眼差しで優しく見つめるのだとしたら、その希少性も手伝って普通の人間が彼の魅力に抗うことは難しいであろう。そもそもエルフは人間よりはるかに叡智あふれる存在と認識されていた。そうであれば、人間が何を話しても咄嗟に理解して適切な言葉を返し、その人に寄り添うことでさえ容易にやってのけるに違いなかった。

 国の最高権限者ともなれば、表面上は特権を享受し、もしくは栄華を極めているように見えても、その人以外には見えない孤独の影が付きまとっているのかもしれなかった。そこにエルフが現れ、その人を喜ばせる言葉を耳触りの良い表現で美しく奏でたのであれば、いかほどか彼らの胸を希望と喜びとで満たしたことであろう。

 実際、エルフたちは人間たちに対して危害を加えてはいなかった。いや、不毛で悲惨な争いを回避したからこそ、当時から現在に至るまで信頼が厚いのではないのか。

 僕はそこからすぐさま一つの結論に至った。今の僕なんてエルフの、異種族の足元はるか遠くにも全く及ばないではないか。

「今でも、私たちの中には人間社会を排除しようという者がいないわけではない。だが、私や他の多くの者は人間を疎ましく思っている者たちと対話を重ね、彼らの言い分を聞きながらも争いを避けるようにしている。それは人間側でも同じようなものだ。今の人間社会でも、私たちの能力や土地、資源を狙う者は多い。私たちのほうがはるか昔から存在しているにもかかわらず、偏見から私たちを『悪魔の手先』と決めつけて駆除を考えている人間もいると聞いている。そのうえ地方国において、独立を志す集団が一定の割合で出現していることは事実だ。そこで外殻政府軍の活動目的は設立当初からさらに具体化し、今は国家安全省と協力して人間側の主要な危険因子を抑えることを念頭に組織されているのだ」

 ルトサオツィは話し終えるとユリウスの顔を見て微笑えんだ。

「これでいいだろうか、ユリウス」

「完璧です。いや、あなたが説明してくださったおかげで、彼らはより深く理解できたことでしょう」

 ユリウスがルトサオツィに敬意を表しながら感謝の言葉を述べた。それを見て彼らの中に上下関係があるのかと新たな疑問がわいたのだが、僕がこの中で一番薄い存在であることを思い出して気分がふさぎこむ。それでもルトサオツィの話はなおも僕の心に強く訴えていた。

 外殻政府樹立の話を異種族の観点から眺めると、確かにそれは自然な流れであり、そうすることが妥当のことのように思われた。異種族も人間も傷付かず、人間社会もある程度の自由が保障され、そもそも異種族に関わりさえしなければ、それなりに繫栄も発展も享受していられるのである。

 ただ、人間の観点からすると選択肢と可能性が狭められ、様々な自由が失われているようにも思われた。異種族からも侵略や攻撃を受けないことを約束されてはいるのだが、固有の文化を発展させ、制約の多い地方国からゆくゆくは一国の独立国として覇権を握りたい国――実際には国では無く、その中の個人や団体なのであろうが――が存在するのを全く認めない状況になっていた。それを圧倒的な力で抑制しているのであれば、いたずらに反発を招くのではないのか。だが、樹立当時から今まで、多少の揉め事はあっても大きな出来事、たとえば世界を震撼させるような大規模な反逆事件は起こっていなかった。報道されていないだけなのかもしれないが、各地方国の実情からくる不満が全て消えたとは言えない中、本当に外殻政府は順調に機能しているのであろうか。

 僕が広く思案を巡らせているとルトサオツィが話しかけてきた。

「クラウス、君はいろんな思索にふけっているようだね。イェンス、君もずいぶんと質問したそうな顔をしている。君たちは率直に私やユリウスに尋ねて良いのだぞ」

 彼は澄んだ眼差しで僕たちを交互に見つめていた。ユリウスの紫色の瞳がかすかに光ったものの、彼もまた、表情は穏やかそのものであった。

「遠慮は無用だ。クラウス、君の心が読めたわけではないが、君ならきっと私を楽しませる質問をすると思っている。君のありのままの意見や感想を聞かせてほしい。それが君にとって人間のような質問だと恥じることでもだ」

 ユリウスはそう言うと優しく微笑んだ。しかし、僕はこの中で一番能力が弱く、異種族の視点に触れた機会すら無かった。僕はそのことから気後れと心許なさを感じてイェンスを見たのだが、彼はまるでエルフのような眼差しで僕を見つめ返し、微笑みながら言った。

「君は思ったことを率直に言ったらいい。せっかくの機会だ。それに君の中の好奇心は抑え込んで大人しくなるような、やわなものじゃないんだろう? 僕も聞いてみたいんだ、君が思ったことを」

 その時、ルトサオツィが僕の全てを見透かすかのような、叡智にあふれた眼差しで僕を見つめた。その圧倒的な美しさに、僕は緊張のあまり赤面してしまった。

「なるほど、確かに君はドラゴンの能力を受け継いだようだ。簡単には心を覗かせてくれないね」

 ルトサオツィが微笑みながら言ったことにまたしても非常に驚いたのだが、すぐさまその意味を理解して彼の言葉を強く握りしめる。

 不意に僕はあることに気が付いた。先ほどまで考えていた、『普通の人間がエルフに示すであろう反応』が、今まさに自分に起こっているのではないのか。相対することで緊張し、心を奪われる。僕はエルフの魅力に抗えず、骨抜きにされかけていた。そのことを客観的に捉えた瞬間、余分な力が抜けて思考が澄み渡っていく。

 僕の心に響いたルトサオツィとのやり取りこそが、エルフたちが人間たちを個別に懐柔させてきた方法の証明なのであろう。彼らは高い知能と不思議な力を持っているのだから、人間の心など簡単に読めるに違いない。そうであれば、僕が取った一通りの反応は、あえてルトサオツィがそれを意図して僕に仕向けた成果ともいえるのかもしれない。ひょっとしたらルトサオツィは僕にこのことを気付かせようと、先ほどの言葉を選んだのではなかろうか。

 そう考えた途端、僕の中から喜びが湧き上がった。僕は今も変化を続けているのだ。その視点がさらに気付きを与える。僕は質問することで変化を進めたいのではない。ただ知りたいだけなのだ。

 僕は一呼吸置くと彼らを見つめ、好奇心に身を任せるかのように矢継ぎ早に彼らを質問攻めにした。

「では、お言葉に甘えて質問させてください。羅列で申し訳ないのですが、まず、ルトサオツィとユリウス、あなたたちの間に種としての上下関係があるのかが気になりました。次はエルフにとって人間とはどんな存在なのか。もし、人間とエルフが争ったら、その結果はどうなるのか。そしてその高い知能を活かして、なぜ人間を直接の統治下に置かないのか。それと魔力と魔法のこともお聞きしたいのです。おとぎ話のように火や風を無から起こせるのか。最後に国家安全省と外殻政府軍とで地方国を抑えることによって、固有の歴史と文化を長年育んできた地方国から却って反発を招くのではないのかということも気になっております」

 僕は堰を切ったかのように話したのだが、言い終えると少し乱暴な言い方であったように思え、うっすらと後悔し始めた。その時、ユリウスが声をあげて笑ったので、驚いて彼を見る。彼は目を細めて僕を見ており、目が合っても優しい微笑みを絶やすことはなかった。

「さすがだな。では、最初の質問から答えよう。上下関係だが、ルトサオツィは純血のエルフで、その中でもかなり特別な地位にいる。彼の一族が代々そうなのだ。だが、私はドラゴンと血縁関係にあるだけだ。能力的にもルトサオツィのほうがはるかに上であり、高い魔力がある彼に私が敵う要素など全くない。私がドラゴンの父を持つ、その一点のみで彼とこうやって会って話せているだけだ。ルトサオツィ、あなたが今そんなことは無い、と否定しようとしたのはわかっている。だが、それはあなたが私の役職上の行動を評価してくれているからで、実際の生物としての位置付けには関係が無いのだ」

「もしかしてドラゴンが生物上一番上に立ち、そのすぐ下にエルフが来るのかはわかりませんが、エルフ・ドワーフなどの異種族がその下で、さらにその下が人間ということなのでしょうか」

 イェンスが興味深げな表情でユリウスに尋ねた。ユリウスはうなずいて返すとルトサオツィに視線を向けた。それを受けたルトサオツィが穏やかな口調で答え始めた。

「イェンス、能力に関して言えば、おおむね君の考え方で合っている。平均値を超えた人間とドワーフは近いかもしれないが、それでも差は歴然だ。ドワーフは魔力を持っているからね。ドワーフにどんなイメージを持っているかは知らないが、彼らはそれなりの魔法を扱えるし手先が非常に器用だ。ただ、私たちと同じで、人間のようにまんべんなく産業を発展させることに興味を持っていないだけだ。だが、人型を基準にしたとしても、魔力が無い人間はそもそも私たちと比べられる土台にいないのだ。ドワーフの高魔力者とエルフの低魔力者はほぼ同じぐらいだろう。エルフの高魔力者と妖精が同じ位置付けに当たる。他にも魔力を持つ種族はいるが、私たちよりは平均的に魔力が低いため、だいたいがこんな感じだと考えていい。しかし、どんなに魔力が高くとも、ドラゴンには到底敵わない。ドラゴンは私たちエルフにとっても高貴であり、完璧だ。そのうえ簡単にはお目にかかれない。しかし、その理由は人間と違って、魔力の高い者でないと会う機会がなかなか与えられないというだけだ。そして私たちにとって人間とは、地球上のたくさんの地域をずいぶん長い間占領している割には発展が独善的で、限定的だと思っている。同じ人間同士でも、強い立場にいる者が弱い立場の者から平気で残酷な手口で搾取もしているね。そのうえで自然との調和もムラがあり、極端に自然をないがしろにしている地域も存在するから、全体のバランスが欠けているように見えるのだ。だが、私たちの住む領域を侵さないのであれば、こちらからわざわざ干渉したいと考える者は非常に少ない。なるほど、国家安全省と外殻政府軍とで地方国を監視しているが、その最大の目的は私たちの居住区域に立ち入らせないことだ。だから、それが守られていてなおかつこの惑星を極端に汚染さえしなければ、後は人間たちの自由だと考えている。人間社会にこれ以上直接介入したところで、私たちにメリットが無いからね。それに君たちならわかってもらえると思うが、人間の能力でエルフなどの異種族に勝るところが残念ながら何一つ無い。正直に言うと、その差は圧倒的だ。私たちは体力も筋力も知力も五感も人間より高く鋭いし、容易に加減を調節できる。そして私たちは魔力を持っているし、魔法を扱える。クラウス、君が尋ねたような魔法はもちろん扱える。人間の世界では必要がないうえ、力を見せたくないから使用しないがね。私たちの生活を牧歌的なものと思っているかもしれないが、この衣類や住居・建物などを作るために、ある程度産業は発達させている。鉄を精錬する技術ももちろんあるし、自動織機や縫製機械も元はと言えば私たちが発案したのだ。私たちがその気にさえなれば、人間社会のような高層ビルの建設、コンピューターによる管理システムやそのITセキュリティのシステム構築、大規模な製造工場や流通経路の確保などを作り上げることはたやすい。コンピューターの製造に必要な希少金属もあるし、さらには現在人間が使用しているものよりはるかに高い計算能力を持たせ、より複雑な人工知能を搭載させることも容易だ。だが、必要が無いからそうしないだけなのだ。私たちは人間の高い技術力と工夫をこらした知恵に目を見張ることも確かにあるのだが、それらを必要とするものは魔力や魔法で行っており、そもそもの思考基準が異なるため、人間社会のように複雑な仕組みが必要ではない。そのうえ、私たちは人間より寿命が長く、病気が少ない。人間には読み取れない動植物の思考も、魔力を用いればある程度読み取れるようになる。そして、今挙げたような私たちエルフの特徴をはるかに上回るのがドラゴンだ。その圧倒的な能力と支配力に対し、エルフは人間が考えるよりはるか古くらドラゴンに敬意を払ってきた。それゆえ、限定的でもドラゴンの能力を受け継いだユリウスに、私は敬愛の気持ちを抱いているのだ」

 ルトサオツィは言い終えるとユリウスを美しい眼差しで見つめた。そのユリウスの瞳はますます輝いており、表情にも深い喜びが現れているのがわかった。

「ルトサオツィ、思いがけない言葉をありがとう」

 ユリウスの声は感極まっているように聞こえた。ルトサオツィはそれを優しい微笑みで受け止めたのだが、再びあの妖しい眼差しで僕たちを見た。

「最後の質問の答えは、ユリウスから話したほうがいいだろう」

 ルトサオツィの言葉にユリウスは美しい眼差しでルトサオツィを見つめ返し、それから目を閉じて一呼吸した。しかし、彼の紫色の瞳が再び開かれると同時に表情はこわばり、外殻政府の中でも高地位に与る者としての威厳を漂わせていた。

「外殻政府は、抑え込むと思われるような態度にならないよう細心の注意を払っている。そもそも、政府の在り方や私を含めたいわゆる政治家に対しての批判や非難も、言論の自由の観点から認めている。それはここアウリンコにおいても、政府や政治家のやり方がおかしいと思えば声を上げることは自由だし、実際にそういった場面を目にすることもある。それが地方国である場合は、エルフが発案した対地方国用の対処プログラムを適用し、外郭政府が掲げる理念を再認識してもらえるよう働きかけているのだ。これは詳しい方法が言えないが、とにかくよくできた仕組みなのだ。一方、それとは全く一線を画した、例えば不正な手段で儲けようとする、もしくは特定の人間の人権を踏みにじり、強い立場の者が弱い立場の者から金銭的・身体的に搾取するなどのような、個人や団体の私利私欲のみが追及された不穏な行動の感知・予見も、エルフの叡智を借りて作成された人為的非常事態の予防・抑制プログラムに基き、国家安全省の管理下で秘密裏に行われている。知ってのとおり、一般人は武器の所有を禁止されており、武器の製造方法も政府によって厳重に管理されている。それが装飾品としてでも、生活に必要な化学品であっても、製造するには政府の許可が必要だ。だが、身近なもので武器の代用品が作れ、それらを用いて人々の不安を煽ることは非常に簡単だ。私たちは独自に網の目を張り、ある一定の条件を満たせば、個人や団体が不穏な動きをしていると判定する。そして実際に不穏な兆候が現れた場合にそのプログラムを実行するのだ。たいがいはここで改善されて終わる。それでもうまくいかなかった場合は、その個人や団体は外殻政府に『危険扱い』として彼らの個人情報を政府のコンピューターに登録され、共有されることになる。そして彼らの通信記録の全てが監視・傍受の対象になり、行動も全て監視下に置かれ、場合によっては彼らの住居に気付かれないよう監視カメラや盗聴器なども設置することになるだろう。そのうえで修正プログラムを適用するのだ。それを人権侵害だ、政府が民衆の自由や権利を弾圧していると、嫌悪する人々が多いことももちろん把握している。だが、個々のあまりに過激な思想に基づく人権や自由を優先させると、その他大勢の人権や自由を侵害しかねない。そのバランスを取るのが本当に大変なのだ。これは以前、ルトサオツィと話していたことなのだが、人間も含め、生物が求めるのは無秩序な自由ではない。統率された秩序だ。誰だって急に他人から攻撃されたり、差別や不当な扱いを受けたくはないだろう。決められたルールや制約の中で守られながら、最大限に自由と幸福を追求しようとするのは、エルフも人間も、その他の動植物も同じことなのだ。そのために政府はそもそもの策として、広く人々に無償で通常コースを基本とした教育を共通の言語で受けさせ、外殻政府の理念に加え、お互いの自由と権利を尊重し、道徳を守り、他人を思いやれるような教育に力を入れている。そのためには貧しい家庭の子供や閉鎖的な場所に住む子供、かつて教育を受けるに値しないとされてきた身分の子供の教育にも、政府が積極的に介入している。もちろん、可能な限り教師の質にも注意を払っている。その全ての過程において、やはり政府はエルフなどの異種族の知恵を借りているのだ。ただ、個人個人の能力に差があり、一人ひとりの個性も豊かであるため、全員が全く犯罪者にならないかといえば人それぞれの事情があるだけに厳しいのが実情だが、それでも高いレベルで一定の効果を得ていると判断している」

 ユリウスは言い終わると静かに僕を見つめた。僕は彼の表情に、その地位にいる者にしか見えない展望を見据え、さらには自己の行動に全責任を負っているのだという覚悟を感じ取っていた。

「どうだい、クラウス。君が知りたいと思っていた情報だ」

 傍らで聞いていたルトサオツィが真っ直ぐに僕を見て話しかけてきた。

「とても、とても興味深かった。外殻政府が教育に力を入れていることは実感していましたし、そこにそのような理由もあったのも、確かに自然なことであると思います。あなたが話した内容は想像していた以上のもので驚いていますが、人間が異種族の手のひらに住んでいるのだということがよくわかりました。確かに高い知能と技術力を持っていれば、人間が作れるものはあなたたちも当然作れる。それをあえてしないことも、なんとなく推測ができます。五感が優れ、魔力があって魔法を操り、人間と異なる思考なのであれば、異種族の暮らしは想像もつかないのですが、きっとあなたたちにとって一番居心地のいい状態なのでしょう。そしてわざわざ人間を相手にしないことも。その……その、きっとあなたたちから見れば、人間は意思の疎通ができて道具を作る非力な猿に近いのですね」

 僕はしみじみとルトサオツィに言った。すると彼は思いがけず笑い出し、朗らかな口調で返した。

「君、面白いたとえをするね。意思の疎通ができて、道具を作る非力な猿とは! それを肯定するつもりはもちろん無いのだが、エルフを人間に置き換えると、総合的にはそう判断するのが妥当となってしまうのだ。だからといって人間を見下すわけではない。見た目は似ているところもあるが、魔力が無い時点で全く種族が異なるから、そもそも同じ高さで捉えるほうが難しいのだ。人間にももちろん他の人間を慈しみ、その人以外の生命や自然を大切にする思考がある。そしてエルフの中でも揉め事や争いはもちろん存在する。種族が異なるのに、愛にあふれる人間が問題を起こすエルフより優れていると一方的には言えまい。私たちと人間は独立した種であり、固有のものだ。だが、それでも私たちは人間と長きにわたって対話をしようと努力してきた歴史がある。それは数千年前までは当たり前のことだったのだが、人間のほうではすっかり忘れ去られてしまった。私たちエルフはこの能力や魔力を、人間に分け与えられないかと画策したこともあったのだ」

 僕は驚きのあまり言葉を失ったのだが、イェンスが気になってすぐさま彼の様子を伺った。彼は真剣な表情でルトサオツィを見ていた。

「エルフもドワーフも、そして妖精や他の種族も、今では同じ結論に至っている。自分たちの生活を脅かさなければ、あえてこちら側から人間には関わらない。それぞれ生物学的に共通点が散見されるのにもかかわらず、やはりそもそもの土台が異なるのが理由だ。だから、お互いに固有の文化と生活様式を楽しみ、ある程度距離を保っていられればそれが一番良い、という結論に至ったのだ。それに人間が仮に大きな力を持つようなことがあっても、それは武器を発達させたということにしか過ぎない。その武器を取り上げ、破壊するのは私たちからすれば実にたやすい。だが、それはあり得ない。私たちはそうなる前に、お互い穏やかに暮らせる考え方を送り続けると決めているのだ」

 ルトサオツィはそう言うと妖しげに微笑んだ。僕はまたしてもその瞳にどぎまぎさせられたのだが、慣れてきたのか最初の頃より落ち着きを取り戻すのが早くなっていた。

「さすがだ、クラウス。君は今も驚くべき速さで変化している」

 ルトサオツィの言葉に彼の鋭い洞察力を感じて驚いたのだが、やはり余裕があったため、微笑んで応える。それに対して彼も微笑んで返したのだが、彼はそのままイェンスに視線を向けた。イェンスはどこか物憂げで、何か考え事をしているらしかった。その様子を受け、僕は今頃になって非力な猿のたとえが失言であったことに気が付き、痛烈に後悔し始めた。

 思えば、イェンスとユリウスがいくら普通の人間と異なるとはいえ、中途半端さで思い悩んでいる彼らに対して最大の侮辱となりうるではないか。僕よりはるかに優れた彼らに、思慮の足りない言葉を吐いてしまったのだ。浅はかな自分自身に苛立ちながらも、彼らにどのような言葉をかけて謝罪すべきかと思案する。その糸口が掴みかけたところで、イェンスがルトサオツィに向かって「ルトサオツィ、お聞きしたいのですが」とためらいがちに話しかけたのが聞こえた。そこで僕は自己の軽率さと思慮の無さをいったん脇に置くと、またしても彼らのやり取りを見守ることにした。

「さっき、あなたのおっしゃった、エルフの能力を人間に分け与えたというところです」

「いいだろう、イェンス。君の質問はもっともだ。君の高祖母にあたるリカヒは同じ村の者ではないが、エルフの社会ではみなが知っている有名人だ」

 ルトサオツィが少し挑発的な眼差しでイェンスを見つめた。しかし、イェンスは動ずることなく、静かに言葉を返した。

「やはりリカヒは有名でしたか。実は、僕はうすうす感じていたのです。リカヒと高祖父が愛し合って子供を産んだのではないことを。僕は中途半端でありながらも、一般的な人間の能力を辛うじて上回っています。日常生活においては人間として育てられたため、不自由を感じることは少ないのですが、それでも時折窮屈さを感じることがあります。それはドーオニツが特殊な場所だから、というのもあるでしょう。僕が言いたいのは、エルフの身体能力のことです。人間社会にいるエルフ、つまりあなたも今は馴染んでいるように見えますが、長期間だと窮屈さを覚え、しまいには体調を崩すようになるのではないかと思っています」

「根拠は君がすでに多少の窮屈さを感じているからだね?」

 ルトサオツィは穏やかな口調でイェンスに尋ねた。

「はい。僕ですら感じるのであれば、あなたや高祖母ならなおさらのはず。それは思うに、エルフからすると常に膝をついて移動するような状態なのではないかと考えています。その状態では飛びあがれず、階段の上り下りも難儀する。エルフが持つ高い身体能力を活かした生活をすべきなのにもかかわらず、能力の低い人間に合わせるため、あえて自分の能力を封じなくてはならないのです。しかし、本来の運動能力を制限してしまえば、実際に衰えてしまうことになる。それで僕は気付いたのです。僕が幼い頃に何度か聞かされた、一族以外には機密である高祖父母の恋愛話は以前から非常に嘘くさいと考えておりました。そして今日あなたにお会いし、その話が全くの誇張だったのだと確信できたのです」

「誇張だと?」

 ユリウスが身を乗り出した。

「はい。高祖父は普通の人間だったと聞いております。おそらくリカヒはエルフの魔法を使ったか、その高い知能を駆使して高祖父に求愛させるまで好意を抱かせたのでしょう。そうでなくとも、リカヒが非常に美しい女性であったことは代々伝わっておりますから、いずれにせよ高祖父を魅了するのは容易であったはずです。僕は幼い頃にリカヒが高祖父に一目惚れをし、高祖父が断ったにもかかわらず押しかけて住み着いたと聞かされていました。ですが、当時の使用人の孫と偶然会った際に聞いた話ですと、事実はその逆で、高祖父がリカヒに猛烈なアピールをし、彼女が根負けしたというのが実際らしいのです。その後結婚して子供を授かるにしても、品の無い言葉で恐縮なのですが、リカヒが高祖父に愛を感じて体を重ねたとは思えません。……ああ、僕はずっと疑問の海に溺れていたのに、真実に救助されつつあるかのようだ」

 イェンスはそう言うと少し目を閉じ、一つ呼吸を置いてから話を再開した。

「ユリウス、あなたを目の前にして言うことではないことは理解しております。僕の無礼をお許しください」

 イェンスが真剣な面持ちでユリウスを見る。しかし、ユリウスは穏やかな表情を保ったままであった。

「構わない。君が持っている考えは私の中にもあるだろう。私のことは気にせず、君が話したいことを述べるべきだ」

 ユリウスの口調はやわらかかった。イェンスは彼に目礼してから言葉を続けた。

「種族が異なるのであれば、どうやってリカヒは人間の子供を自分の体に宿すことができたのでしょう? 僕はおそらく、魔法か何かを使ってエルフの卵子を人間のそれに近付け、人間の精子と合うように調整を施したのだと考えています。そしてリカヒはただの作業として、受精が行われるよう高祖父を操った。その根拠は種族間の圧倒的な能力の差です。高い能力を持つエルフが、限定的な能力しか持てない人間と長きにわたって密接に相対することは、非常に骨の折れることのはずです。それに種族が異なるにもかかわらず、人間の赤ん坊を身ごもることは、非常に強い魔法を継続的に必要としたのではないのでしょうか。僕はさっき、エルフにとって人間の世界は窮屈だろうと言いました。それをさらに妊婦の状態にさせて行動を制約し、魔法で本来の体の機能を締め付けるのだとすれば、もはや狂気の沙汰のように思えるのです。リカヒは娘が五歳になるまで僕の実家にいたと聞いています。もはやとっくに限界を超えていたことでしょう。彼女は高祖父に娘を託すと、二度とドーオニツには戻りませんでした。そして高祖父がリカヒを引き止めることはなく、リカヒが去った後、高祖父の前では彼女の名前すら禁句になったようです。その娘である曾祖母だけは一度だけリカヒに会いに行ったようですが、曾祖母は彼女の曽祖父にあたる人のひ孫を婿養子に迎えて二十二歳の時に男の子、つまり僕の祖父を産み、その後間もなくこの世を去りました。彼女は体が弱かったと聞いています。エルフの特徴を受け継がない人間の女性は、生殖能力はあっても他の人間より体が弱いのだと僕は考えています。おそらく魔法だけで上手に人間の細胞に合わせるのが、やはり難しいからでしょう。特に扱う対象が染色体という繊細な生体物質になる。そもそもエルフが持つ染色体の数も性質も人間と異なるはずなので、中には人間が全くもって持つことができないものもあると思うのです。そういったことも踏まえて、エルフと人間との間に設けられた子の遺伝子の複製が、魔法を使用したとはいえいったいどのように絡み合ったのかは謎ですが、産まれた子供に男女かかわらず不安定さが散見しているのは種としてやはり完璧では無いからなのでしょう。僕の考えは直感から来るものです。しかし、それに対して強い肯定感があるのです」

 イェンスは全てを淡々とした口調で話しており、顔色一つ変えずにルトサオツィを見つめていた。おそらく彼はただ単に真相を欲しているだけなのであろう。しかし、僕はイェンスが彼の身内の繊細な話題ですら包み隠さなかったことに、かなり驚いていた。思えば、彼はルトサオツィと再会してから様々な真実を知らされ、かなりの情報の波にもまれているはずである。それでも冷静に自分の思考と感情を分析し、自己を秩序だって管理しようとする彼の驚異的な精神力に、感嘆を覚えずにはいられなかった。

 ルトサオツィも最初は真剣な表情でイェンスの説明に耳を傾けていたのだが、徐々に驚嘆した表情を見せ、後半のほとんどは感心した様子で彼を見つめていた。

「イェンス、君は実に素晴らしい洞察力を備えたようだ。概ね、君の言うとおりだ。リカヒが有名なのは、エルフ初の人間の子供を身ごもった女性だからだ。もともと複数の村のエルフの長老たちが、人間と向き合う最終的な案として結果こそ見えていたものの、実際のところの成果を確かめるべくリカヒにお願いをして人間に近付かせたのだ。彼女のことを思うと私たちはいたたまれない。彼女の心身を削ってまで人間の子を身ごもり、その子が五歳になるまで人間社会に残って育てたことは偉業といえば聞こえがいいのかもしれないが、やはり想像を絶するような苦痛を伴っていた。それを妊娠期間も含めておよそ六年も継続できたことはただただ驚きであり、いかにエルフといえども正気の沙汰ではない。特に妊娠中の彼女はずっと正座をしたうえで片手を後ろに回しながら生活をし、寝る時だけ体を縮ませながら横になっていたようなものだ。そう説明すると、彼女の想像を絶するつらさを慮ることができるだろう。彼女は人間である娘への愛だけで彼女自身を支えていた。だがそれですら、彼女を心から救い、慰めることにはならなかったのだ。彼女は疲弊しきって、最終的には子供への愛より、エルフであることを取り戻すことを選んだ。他にもやむを得ない理由はあったのだがね。ミグメの村に戻ってきた彼女はずいぶんとやつれ、心身ともに擦り切れていた。その後、リカヒはしばらく静養したのだが、なかなか元の状態に戻れなかったようだ。私が母から聞いたのは、リカヒの娘が二十歳の時に彼女に会いにやってきたという話だ。知ってのとおり、人間はエルフの村に近付くことすらできないが、リカヒはわざわざ探しに来た娘を感じ取り、あえて人間の住む場所まで娘を出迎えてそのまま人間の世界で数日間共に過ごしたのだという。リカヒは娘と会うのがこれで最後だと感じたらしい。その理由もはっきりしているが、今は話さないでおこう。いずれ君たちも理解する日が来る。そのリカヒは結局、人間の世界で無理をしたのが祟り、エルフの中ではずいぶん若い年齢で亡くなってしまった。リカヒのことを知らないエルフはいない。私の住むウボキ村でもみな知っている。そしてその経験があったからこそ、エルフや他の種族までもが人間と直接的に関わることを完全にやめたのだ。村は異なっても、エルフ全体が彼女に対する深い哀悼を今でも忘れずに行っている。何より結果が見えていたにもかかわらず、あの計画を実行させたことを非常に悔んでいるのだ」

 ルトサオツィは終始落ち着いた表情であった。イェンスもユリウスも、ルトサオツィをじっと見つめたまま静聴している。しかし、僕はそのあまりの悲しい結末に衝撃を受けていた。

 種族が違うというのは悲劇しか生まないのであろう。しかし、僕以上に複雑な心境に陥っているのは、当事者のイェンスであることは間違いなかった。彼にエルフの特徴を残すきっかけとなった高祖母のエルフが、人間と融和する可能性を模索する計画の犠牲になったようなものなのである。その彼の胸中を思うと、察するに余りあるものがあった。

 イェンスはしばらく押し黙っていたのだが、ルトサオツィに顔を向けるとはっきりとした口調で言った。

「正直に教えて下さってありがとうございました。リカヒの最後を聞いて確かに動揺を覚えたのですが、あらかた想像はついておりました。高祖父は体の弱かった曾祖母にそこまで愛情を注がず、その代わりに孫にあたる僕の祖父を六十二歳で生涯を終えるまで大切に育てたと聞いています。おそらくリカヒを思い出させる曾祖母に対し、複雑な思いがあったからでしょう。彼女の最後を思うと一族の者として心苦しさと謝罪の気持ちに駆られますが、それでもリカヒが僕の実家に関わり、根気強く人間と向き合おうとしてくださったことに心から感謝と敬意を表したいと思います。これからはリカヒの思いも汲みながら、僕に現れた特徴と向き合っていきます」

 ルトサオツィはそれを聞いて力強い眼差しでイェンスを見つめ、「さすがだな、それであればリカヒも報われるだろう」と言って口元に優しい笑みを浮かべた。イェンスはそれ以上リカヒについて言及することはなく、何事も無かったかのようにハーブティーを口にした。僕は彼の驚異的な強さと冷静さにただただ驚いており、彼にだけ現れたリカヒの特徴が彼に幸せをもたらすことを願わずにはいられなかった。

 穏やかな雰囲気が再びもたらされ、ユリウスがルトサオツィと雑談を始める。しかし、僕は異種族の能力と僕にもたらされた変化のことで、どうにも腑に落ちない点を思い返していた。僕の身体能力は知らぬ間に、格闘技の経験があるホレーショの急襲をかわせるぐらいにまで高まっていた。だが、日常生活において能力を持て余し、窮屈さを感じたことなど一度も無かった。

 僕はたまたま身体能力の変化を都合よく吸収してきたのであろうか?

 それともこれから否応なしに窮屈さを体感し、不便や苛立ちを感じていくのだろうか? 

 イェンスはすでに窮屈さを感じ始めていると話していた。そうであれば、ユリウスもまたそのことに長年向き合ってきたはずなのだ。

 僕は頃合いを見計らい、おそるおそるユリウスに尋ねた。

「ユリウス、会話の流れを遮ってすみません。あなたも窮屈さや息苦しさを感じてきたのでしょうか? 僕は感じたことがまだ一度も無いのです」

「そうだ。私も長いこと、人間社会において窮屈さを感じている。息苦しいほどではないが、時折全力を出して心地良い疲れに浸りたい時があるのだ。そういう時は今でもごく一部の者にだけ知らせて、戦闘機に乗って空を自由に駆け巡ることもあるし、そうでなくとも暇さえあれば家で気ままに体を動かしている」

 彼はそう言うと少年のようなあどけない笑顔を浮かべ、続けざまに言った。

「クラウス、君はたまたま気付いてこなかっただけで、身体能力はかなり向上しているはずだ。そうでなければ、至近距離からいきなり殴られそうになっても、咄嗟に受け止めることはできない。いずれはっきりと気付くだろうが、その様子ならうまく乗り切るだろう」

 僕はユリウスに感謝の言葉を述べたのだが、彼の台詞には僕の好奇心を掴む言葉が並べられていた。いったんは遠慮しようかと思案したものの、聞くのであれば今しかないと思い直して率直に尋ねることにした。

「ありがとうございます。続けざまの質問ですみません。さきほどの会話で、あなたは今でも戦闘機に乗るとおっしゃいましたね。不躾な質問ですが、それはやはり空への憧れからですか?」

 それを聞いた途端、ユリウスは瞳を輝かせ、少年のようなはつらつとした表情を見せた。

「それはそうだ! クラウス、君も思ったことがあるだろう。自由に空を飛べたらとね。しかも私の父親はドラゴンだ。私はかつて、父が美しく空を舞うのを一度だけ見せてもらった。その時かなり幸運なことに、その背にほんのひと時だが乗せてもらったのだ。あの時の空の広さや、澄みきった青の美しさを体全体で感じながら、眼下に広がる木々のてっぺんを見下ろして風景を一望した時の高揚感ときたら……筆舌に尽くしがたい。そして優しくほほを撫でる風のなんと気持ち良かったことか! 私はドラゴンになりたいと父に願い出たほど、人間であることを本当に恨めしく思ったのだ。むろん、不可能なお願いだったのだが、あのたった一度きりの体験が今でも思い返すと、私を甘美で完璧な世界へと誘ってくれるのだよ。それに近いものを感じたかった私は、特別コースであったことを活かし、学生の頃からパイロットとなるべく専門の学科へと進み、大学院に在籍している時に自家用飛行機の免許を取得した。そこから空中を飛びまわる戦闘機を操縦してみようと、私の特殊性を存分に活かして卒業後は空軍に志願して入隊し、周囲から驚異の早さだと言われるほどの短期間のうちに操縦桿を握ったのだ」

 彼の顔は紅潮しており、純粋な喜びで満ちていた。一方で、僕はユリウスがドラゴンの背に乗ったことがあることに対して激しく羨望しており、感嘆の表情で彼を見つめるしかなかった。実の父親であるからこそ可能なのであり、普通の人間には木星への往復旅行並みにあり得ないものなのである。

 僕の悶えるような表情に気付いたイェンスが、僕に微笑んでからユリウスに尋ねた。

「それで実際に初めて戦闘機に乗った時は、どういうお気持ちだったのでしょう?」

「正直に言うと複雑だった。私は学生の頃から、決して期待に胸を膨らませていたわけではない。流体力学や航空力学、電子理論など関連する学問を学び、シミュレーターで模擬飛行や減圧訓練などを重ねていくにつれ、人間が自由に空を飛ぶということが実に不自由であることを沈痛な思いで受け止めていたのだ。わかりきっていたことを再確認したというところか。それでも実物の戦闘機を目の当たりにし、コクピットに乗り込んだ時は、目の前の複数ある計器や独立した数多くのスイッチを感慨深く見つめた。これはあらゆる飛行機について言えることだが、無数のスイッチは誤操作やエラーが起こっても墜落することのないよう、危険回避させるためにそれぞれ独立している。人間が無事空へと飛び立ち、また戻って来られるようになっているのだ。今ではLCDを使って集約表示するなどずいぶん様変わりもしてきているが、それでも土台が根本的に変わったというわけでもない。飛行機の設計・製造や整備に関わっている全ての人たちが誠心誠意で作業に当たっているからこそ私も飛べるのだということを実感すると、関わる全ての人たちに心から敬愛の念を送った。そして私は人間として、いよいよ空へと飛び立つことをやや緊張しながら噛みしめていたのだが、私の中のドラゴンの血はざわめき立っていた。勢いよく飛び立つと、果たして空は美しかった。体へかかる重力や負担も予想どおり、いや思っていた以上に極めて優しく感じられた。だが、甘美で完璧な世界が再び私を包み込むことは無かった。やはり父の背に一度だけ乗ったあの時の飛行が、疾走感が、比べものにならないほど私の中で最高であり、完璧な飛行だったのだ。それを理解した時、私は操縦桿を握りながら涙を流した。私は父に頼らなければ、あの快感を味わうことができないのだ。全ての頭上に延々と広がる、あの空に私が永遠に受け入れられないまま、中途半端な存在として生を全うするのだからね。それでも中途半端なりに器用な私は操縦をこなすと、地上からの交信にも的確に答え、また地上へと降り立った。その時、私は全ての涙をあの時見た空へと置いて来たつもりだ。私にとって戦闘機とは、物言わぬ機械のドラゴンだ。たとえ空気の粘度を直接体で感じることができなくとも、機体に受ける抵抗や機器の数値が鮮明に物語る。だから、今でも空に受け入れてもらえるよう、無性に飛びたくなることがあるのだ。翻弄されていると思うかもしれないが、ドラゴンの力のおかげで私は同年代の人間より若く、能力も保っていられる。空は永遠に私を惹きつけ、永遠に拒絶するのかもしれないが、それでも私はあの時見た空を心から愛している。そしてこれからもその気持ちは変わらない」

 ユリウスの言葉は美しく、僕の心に清らかに響いた。彼はすでに穏やかな表情へと変わっており、その輝く瞳はもはや憂いを忘れ、見果てることのない空への深い愛情に満ちているようにさえ見えた。

「ユリウス、君は空のことを考えると幸せなのだな。今の君は自分を心から愛しているように見える」

 ルトサオツィがユリウスに優しく話しかけた。

「そのとおりだ。私は中途半端な自分に失望もするが、あの美しい空を考えると自分自身を愛せる気がするのだ。空が私を受け入れてくれるから私自信を愛せるのではない。空を愛している私を、非常に心地良く感じるのだよ」

 ユリウスはそう言うと清廉な眼差しで僕を見て微笑んだ。その瞳が放つ清らかな光に思わず魅了され、紫色の瞳を食い入るように見つめる。その一方で、僕は彼の話に感動しながらも、その背後にある孤独を感じ取っていた。

 あのユリウスが中途半端というなら、いったいこの僕はどれほどまでに矮小な存在になるのであろう?

 それは改めて問うような内容になりえないほど、答えがわかりきっていることであった。中途半端にもなれない存在とは、いったいどういった存在意義をその生命に負わせているというのか。

 僕の感情が孤独と不安とでざわめきだっていく。

「クラウス。君は太陽や星、特に青白く輝く天体の写真が好きだろう?」

 不意にユリウスが僕に尋ねてきた。僕は話が全く思いがけない方向に展開した以上に言い当てられたことに驚き、大きくうなずきながらも青白く輝く星の写真に子供の頃から心を奪われていると返した。

「君はさっき、幼い頃に美しい何かを見たと話したね。そして君は青白く輝く星が好きだ。おそらくだが、君は美しい光の球を見たのだと思う。それでいくと、やはり君はドラゴンと関りがあったことになる。ルトサオツィ、確かドラゴンは人目にその姿をさらさないよう、青白く輝く光に姿を変えることもあるのだったな?」

 彼の言葉に困惑して動きが止まる。いったいそれはどういう意味なのか。

「そのとおりだ。以前ドラゴンから直接聞いたから間違いない。私たちはドラゴンの姿を見る機会があるが、人間にはとうの昔に姿を見せなくなっているはずだ。理由は昔からドラゴンを利用しようとする人間が非常に多く、そのわずらわしさから距離を置くようになったと聞いている。特に最近は人間が鮮明な画像を写し、またそれらを世界中に同時配信させることにも長けているから、ますます姿を見られるのが疎ましいようだ。それは私たちも同じだがね。いずれにせよ、クラウス、君は何らかの理由でドラゴンに偶然遭遇した。しかし、ドラゴンによってそのことは記憶から消されてしまった。それでも何らかの理由で、君が青白い光に対して強い関心と美しさを感じる感覚だけは守られた。そもそも君は輝きを放つ光に興味があるはずだ。イェンスもそのはずだが、君たちは私や君たちの瞳にかすかな光をよく見るのではないか? その光には主に二つ意味があり、一つは心が全く清らかな状態だと、どんな生物でもその光を放つのだが一般的な人間には見えない。もう一つは説明が難しく、私たち魔力を持つ種族にとっては当然のこととしか言えない」

 僕はまたしても言い当てられたことに驚き、言葉を失ったままルトサオツィを見つめ返した。彼の澄んだ眼差しにはまさしく、その光がかすかに放たれていた。それはイェンスやユリウスの瞳にも放たれていた美しい光であり、幾度となくその輝きに魅せられたものであった。

 その時、イェンスが僕の瞳を覗き込んできた。そこで僕も彼の瞳を覗き込むように見つめ返す。そこには確かに美しいあの光があった。思い返せば、その光を最初に瞳に見つけたのも彼であった。

 ひょっとしたらイェンスは以前から瞳に光を放っていて、僕が変化を遂げたからその光を捉えられるようになったに違いない。彼の心の美しさを僕は充分知っていた。しかし、その光が常にイェンスの瞳から放たれているわけではなかった。特に、ルトサオツィが指摘した『心が全く清らかな状態』に関して言えば、僕など当てはまるはずもなかった。

 僕はイェンスにおそるおそる尋ねた。

「イェンス、君も自発的に輝くかすかな光を僕に感じていたのだろうか?」

 イェンスは優しくうなずいてから落ち着いた口調で答えた。

「そのとおりだ。実を言うと、僕は最初から君の瞳にかすかな光を見つけていた。だけど、僕は人の瞳に光を見たのはそれが初めてだったから、それが何であるのかずっと疑問だったんだ。君はそれからも時々瞳に光を宿していたのだけど、ヘルマンと出会ってからより強く君に現れるようになった。君が気付いていないようだったから、指摘してこなかったのだけどね。実を言うと、僕自身も瞳に光を宿していることに気付かないでいたんだ。自分の顔をまじまじと眺めることはあまりしてこなかったし、長く見つめたところでその光を自分自身で捉えることはできなかっただろうからね」

 イェンスは澄んだ瞳を僕に投げかけたかと思うと、突如として興奮した表情を浮かべた。

「ああ、クラウス。僕は今わくわくしているんだ! 君はあのドラゴンに間違いなく関わっている。ヘルマンと会う以前から、君がその能力を深く眠らせてきたのだと思うと、実に感慨深い。君が見たという美しい何かがはっきりと判明する日が来ることを、僕は心から願っている」

 彼はそう言うと僕の肩に手を置いた。するとユリウスにルトサオツィまでもが僕を興味深そうにじっと見つめるものだから、僕は嬉しい反面どことなく気恥かしくなり、「ありがとうございます」とだけ言うと思わず視線を床に落とした。僕の心が全く清らかであった瞬間が存在したとは思えないが、それでも光が発せられていたのだ。仕組みもわからないのであれば、今はその事実だけで充分なのだと思うことにした。

 少しして、ルトサオツィがあたたかい口調でイェンスに話しかけた。どういった時に人間社会で窮屈さを感じ、どの種族にも属せず、中途半端であると感じている時はどうしているのか。イェンスは言葉を選んでいるのか、時折押し黙りながらも落ち着いた口調でルトサオツィに答えていった。

 イェンスの感じる窮屈さとは、日々の生活の中において些細なことでも、連続して起こると彼自身が異質であることを改めて自覚させるため、そのことと一生向き合っていくことが憂鬱なのだという。打ちひしがれたままでは何も解決にならないことを頭では理解していても、自分という存在を地球全体の中に落とした時に孤独を感ずるのだと彼は語った。

 イェンスがルトサオツィを見つめたまま、さらに言葉を続けた。

「僕の人生の大半は孤独と苦悩であり、僕はその中に身を委ねてきました。しかしある時、僕は直観を得ました。それまで読み漁った本や、目にしてきた言葉が絶対的な肯定感を伴って僕の心にささやいてきたのです。それは『中途半端な自分を愛する』ということでした。しかし、僕は激しく拒絶しました。僕は自分を完成へと導こうとあがいていました。いえ、今もドラゴンの爪に触れたことで変化が加速し、僕がさらなる高みへと進むことに大きな喜びと強い意志を抱いています。だけど、変化が続いたとしても、結局はエルフの足元にすら及ばない。どこかで折り合いをつけ、その時の自分を受け入れる必要がある。その方法を僕はやはり完璧に身に付けたい。一瞬では無く、永遠に深い喜びをもたらす方法で僕自身を受け入れてみたいのです」

 それを聞いたルトサオツィは少し物悲し気に首を横に振り、それから僕たちを静かに見つめて言った。

「私たちエルフはその答えを確かに知っている。自分を愛することは非常に重要で基本的なことだ。しかし、その先にある答えもまた、大切なのだ。だが、そのことを今の君たちに説明したとしても、心から理解してもらえるとは思えない。まだその準備が整っていないように思えるのだ。それを聞いて君たちは焦るかもしれないが、もう少し内面を見つめ返し、自分が具体的に何を欲しているのかを見極めることが必要だ。それを踏まえたうえで、自分自身を愛したらいい。ユリウス、君はうすうす勘付いているが、立場上やはり答えを見つけるのに苦労し、よしんば見つけたとしても抵抗があるだろう。しかし、それは仕方のないことだ。人間として育てられれば、その答えを知ることができても完璧に理解することは難しい。ある程度の知識が無ければ、不可能に近いかもしれない。だが君たちなら、いずれそれほど時間をかけずにそこに到達することができるだろう。そうなるためには、私はやはり君たちが深く自分自身と向き合うことを強く勧める。そして湧き上がる種々の感情や思考を否定せず、ただ愛をもって大切に受け止めるのだ」

 ルトサオツィは言い終えるとユリウスを見た。ユリウスは感慨深げな表情でルトサオツィを見ており、清らかなあの光をかすかに放っていた。

「ルトサオツィ、あなたがはっきり言ってくれたおかげで、私も今自分がどの地点にいるかが把握できた。感謝している」

 僕はユリウスから自分の手元に視線を移すと、ルトサオツィの言葉を何度も何度も噛みしめた。もっと内面と向き合い、感情や思考を受け止める必要がある。それは数時間前に僕の脳裏に浮かんだ、意志の線にすっと結び付いた。つまり僕の目指すべき道筋が、今やルトサオツィによって確実なものとなったのである。そのことだけでも僕にとって充分幸運なことであった。僕は新たな意志をしっかりと心に留めると、ルトサオツィに対して敬愛の眼差しで感謝の言葉を伝えた。

「ルトサオツィ、貴重なお話をありがとうございました。すごく勉強になりました」

 ルトサオツィが優しく微笑んで応える。そのささやかな動きに、彼の長い赤橙色の髪が揺れる。

「僕は今、力にあふれているようだ」

 同じようにルトサオツィに感謝の言葉を述べたイェンスが、僕の耳元でやわらかく微笑んだ。その美しい眼差しに触発されるかのように、僕の意思もますます強くなっていくようである。

 僕はその後も、ルトサオツィの含蓄ある話とユリウスの貴重な情報とに耳を傾け続けた。アウリンコとドーオニツの建設工事に異種族、とりわけドワーフの知恵と経験が活きており、中には人間の姿に近付けて工事を手伝った異種族も数多くいたのだという。僕はその事実に驚いたものの、一方で大工事が無事完成できた理由が判明したため、ルトサオツィの説明をすんなりと受け止めて当時に思いを馳せた。

『内側にある直径五十キロメートルの円形状の島を取り囲むように作られた、深さもある幅二キロメートルの堀と外側の幅四十キロメートルの円形状の島』

 現在においてもなお、それだけの面積をほぼ均一に整備をするというのは想像を超えた偉業であった。特に空から見た時に美しい円が三重に広がっている様は、人工物の最大にして最高傑作と言われるほどであり、人間と当時の重機の力だけでは技術力と時間が圧倒的に足りないと試算する専門家の指摘も多かったのである。

 ルトサオツィがさらに話を続けた。人間でも、異種族からして感心に値する人物は少なからずおり、たとえその功績が限定的だとしても、彼らを簡単に侮辱し否定することは異種族の中では稀なことらしい。簡単にその人を侮辱し、蹴落とそうとするのはやはり同じ人間なのだという。

 僕はその話を聞いて感銘を受けていた。それは、高い知能を持つ彼らが人間を優しく見守っており、なおかつ人間の功績を肯定的に捉えていることが理解できた今、この世界が異なる相手を認めようとする思いやりに基づいているのだと思えたからであった。

 ルトサオツィはその他にも、異種族の能力を受け継いだ僕たちの五感が過敏に反応しないよう、過剰な情報を都合よく取捨選択する方法も教えてくれた。ユリウスが興味深げに見守る中、とりわけイェンスが熱心にルトサオツィの講釈に耳を傾ける。彼はすでに子供の頃に自己流でそのやり方を身に付けていたようなのだが、ルトサオツィから聞いた方法を早速実行に移すやいなや、その効果を実感して感嘆の声を上げた。

 僕はもはや貴重な情報や今後に役立つ知見のみならず、美しい精神の在り方さえをも彼ら三人から貪欲に吸収しようとしていた。ルトサオツィもユリウスもイェンスも、それぞれ頭脳明晰であるばかりでなく、他人から信頼と敬愛を集めるほど素晴らしい人柄であった。そのためか、冬の短い午後が終わりを告げる頃には、今まで僕が得てきたものをはるかに超える経験と気付きとがこの数時間のうちに与えられたのだと思えるまでになっていた。

 ルトサオツィは明日、アウリンコにあるヘリポートにユリウスと一緒に向かい、そのままドーオニツの空港まで見送られた後は政府特別機で帰村するらしかった。彼自身が慣れていることもあり、ユリウスが現地まで同行せずとも問題ないのだという。

 そのルトサオツィが僕たちを優しく見つめながら言った。

「もともと今日は夜にここを訪ねる予定だった。彼から話を聞いたかもしれないが、君たちに会ってほしいという彼の提案と、私の興味もあって午後の予定を取り止めてここに来たのだ。今日はこのまま彼の家に泊まらせてもらうのだが、イェンス、君が指摘したとおり、人間社会にずっといて例の窮屈さを感じ始めている。君たちには申し訳ないが、私にはエルフとしての休息と気分転換が必要だ。そのために今日はこれで失礼する」

 その言葉を受けてユリウスが彼に目配せした。ユリウスの話だと、ルトサオツィはアウリンコを訪れてから今日僕たちに会うまで、実に忙しなく外殻政府の大統領や閣僚たちと会談をし続けきたらしい。それでいて政府が用意したホテルは人間の生活様式が前面に出ているうえに常に視線を感じるため、疲れをすっかり癒すほどくつろげなかったのだという。

「最後の晩は親交のあるユリウスの家でゆっくり過ごすと、前から大統領にも伝えてある。明日ユリウスが私を見送る話も彼は把握している」

 ルトサオツィはそう言うと立ち上がった。僕たちも帰る頃合いであろう。ユリウスにその旨を伝えると彼は優しい笑顔でうなずき、早速シモに連絡を取り始めた。

 ルトサオツィが笑顔で僕たちに手を差し伸べる。僕たちは感激しながら握手を交わしていたのだが、さらにあたたかい抱擁までもが贈られたものだからすっかり舞い上がってしまった。

「イェンス、クラウス。君たちをエルフの村に招待しよう。今すぐでなくともいい。だが、その経験はきっと君たちに大きな恵みと希望をもたらすはずだ」

 思いがけない提案に驚いてルトサオツィを見つめる。その緑色の美しい瞳はあの光を携えており、僕たちをあたたかく見つめていた。

 「ありがとうございます。必ず伺います。ミグメ村では無く、ウボキ村でしたね」

 イェンスが力強く返した。

 「そうだ。おそらく君たちは来年の夏頃に、二人揃って私のところを訪ねる機会を得ることになるだろう。君たちが私たちの所へ来る際、強い意志を持って私に問いかけるように祈れば、私は君たちが来ることに気が付く。君たちとまた会えるのを心から楽しみにしている」

 彼はそう言うとエルフのウボキ村がある場所を口頭で伝え、大まかな経路を説明した。

 「本当に僕も行って構わないんですよね?」

 僕は夢のような招待に心を躍らせ、思わず弾んだ声で尋ねた。

 「もちろんだ。クラウス、君がドラゴンと関わりがあることも、エルフの村を訪ねることで何か手掛かりが得られるかもしれない。気後れすることなく、必ず君も来るのだぞ」

 ルトサオツィの言葉に希望を感じ、心から感謝の言葉を伝える。彼は僕の言葉に優しく微笑んで返すとイェンスにを視線を移した。

 「イェンス、君は内面においても私たちエルフの特徴を受け継いだ。君はまだまだ伸びる。私はそう感じている。いずれにせよ君が私の所へ来たら、エルフの特徴を持つ者として心から歓迎しよう。エルフの村で私たちの生活を目の当たりにすることは、今後の君にとって重要な意味を持つはずだ。君はクラウスという良き友人を得た。ユリウスも君の良き力になる。君がもはや孤独で無いことは私が保証しよう」

 彼はそう言うとイェンスのおでこに優しくキスをした。すでにルトサオツィの言葉に感激していたイェンスは、その美しい瞳から清らかな一筋の涙を落としてルトサオツィをじっと見つめ返していた。

 その光景は、僕には二人のエルフに思えるほど完璧で美しいように思われた。何よりイェンスの憧れであったエルフに直接認められたことは、僕にとっても感慨深く、心が打たれるものであった。ユリウスもまた優しく見守っていたのだが、頃合いを見計らって「もう十五分もすれば、シモとホレーショが玄関前まで迎えに来るだろう」と僕たちに告げてきた。それは別れを意味していたのだが、僕は不思議と落ち着いた気分で受け止めていた。

 ルトサオツィが「君たちを玄関まで見送ることはしない」と言って立ち上がったので、イェンスも僕もこの部屋で彼を見送る。ルトサオツィは最後まで僕たちに笑顔を残したまま、ユリウスと一緒に退出していった。

 一気に静まり返った室内でソファに座り直す。一瞬の沈黙の後、非常に興奮した表情でイェンスも僕もお互いに見つめあった。

「夢のようだ!」

 イェンスが強い喜びを露にしながら、叫ぶように言った。

 ああ、全くそのとおりなのだ。僕は彼の言葉に心から同意していた。

 僕たちが今しがたまで体験した出来事は、本当に夢のようなひと時であった。だが、さらに続きがあるのだ!

 「夏になれば、おのずと二人で一緒に休みが取れるような状況になるのかもしれないね」

 僕は期待を込めてイェンスに言った。イェンスがそれに対して顔を輝かせながらうなずいて返す。

 窓の外に目をやるといつの間にか雪がちらついていた。しかし、灰色の空の隙間からは、青空がこちらを見つめるかのように顔を覗かせていた。それはユリウスが愛してやまないあの空であり、僕の憧れでもあり、イェンスを度々癒したあの空でもあった。

 あの空はエルフの村へと続いている。そして同じ空のどこかでドラゴンが力強く雄大に翼をはためかせ、その姿を空に映しているのだ。

 そのことを考えた瞬間、体の中に一筋の光が走ったかのような爽快感が僕を貫いていった。それは僕自身が持つドラゴンとの関わりに対するはっきりとした調べであり、変化に対する前向きな希望のようにも感じられた。すると青白く輝く光が僕の中に存在し、力強く発光しているかのような感覚が僕を捉えた。僕は確証も無いその感覚に身を委ね、ただ心地良さを味わった。するとイェンスが僕から何かを感じ取ったのか、「君はいよいよドラゴンの力を増大させていくのだな」と思わしげに僕を見て言った。

 「君のほうこそ変化の真っ只中じゃないか。ルトサオツィに会う前と比べて、君の瞳はますます美しい光を放っているし、自信と力強さにあふれ、聡明さがより増しているように見える。この僕でもそう思うのだから、シモとホレーショが見たらまた変に思うかもしれない」

 そう言い終えると、シモの困惑した表情とホレーショの驚いた表情とが咄嗟に脳裏に浮かんだので、僕は思わず笑ってしまった。

 イェンスは勘付いのか、つられて笑い出した。そして「お互い表情や振る舞いに気をつけよう」と言ったのだが、その眼差しに彼らに対する拒絶の色は見られなかった。

 ほどなくユリウスが戻って来た。僕たちも帰路へと就くべく、玄関前まで彼と一緒に向かう。そのユリウスが歩きながら優しい笑顔を浮かべて言った。

 「今日は君たちと話せて本当に良かった。ルトサオツィを君たちに紹介でき、彼と私たちが深い体験を共有できたことも非常に嬉しい。君たちは来年の夏頃にルトサオツィを訪ねるのだったな。その時が来たら、エルフの村で経験することは彼が言ったとおり、素晴らしい気付きを君たちにもたらすだろう。いずれにせよ、また君たちと近いうちに会えることを心から楽しみにしている」

 ユリウスの屈託ない笑顔は、すでに僕たちと打ち解けた関係であることを示しているようであった。

 玄関のドアの前まで来た時、ユリウスがイェンスと僕を優しく抱擁した。そのあたたかさに胸が熱くなり、心から感謝の言葉を伝える。このドアを開ければ、僕たちは再びいつもの日常へと戻って行く。その日常の入り口でシモとホレーショが僕たちを送り届けるべく、雪がちらつく中をユリウスへの敬愛の気持ちだけでじっと待機しているはずなのだ。

 「ユリウス、改めてありがとうございます。あなたが僕たちにしてくれた全てのことに感謝し、あなたが僕たちに話した全ての尊い言葉に感謝しています。次に再会するまでの間、あなたに流れるドラゴンの血があなたを優しく祝福し、美しい光があなたに常に届けられ、その光があたたかくあなたを包むよう願っています」

 僕は彼に思っていることをそのまま率直に伝えた。イェンスも僕の言葉に同意を添えながら、ユリウスをしっかりと見つめる。ユリウスの瞳は美しい光であふれ、僕はその純粋な輝きから彼の心情をしっかりと感じ取っていた。彼は短く感謝の言葉を返すと、僕たちの前に出て玄関のドアを静かに開けた。

 雲の隙間から晴れ間も覗いているとはいえ、冷たい風が小さな雪の結晶を伴いながら室内へとなだれ込んできた途端、そのあまりの寒さから思わず身震いした。庭先の広い場所にはあの車が見え、その前にはやはりシモとホレーショが並んで立っている。ほほを突き刺すような冷たい風が舞う中でじっと待機していた彼らのことを思うと、深い感謝と尊敬を抱かずにはいられなかった。

 ユリウスがシモとホレーショにあたたかい口調で声をかける。それに応じて彼らが返事をしたのだが、僕たちに気が付くとシモもホレーショも一様に驚いた表情を浮かべた。

「彼らと会話でもしながら、気をつけて帰るのだぞ」

 ユリウスの言葉に、シモとホレーショが車に乗り込む。僕たちも改めてユリウスに別れを告げて車に乗り込もうとしたその時、イェンスが僕の耳元でささやいた。

 「クラウス、車の中の彼らに気付かれないよう、こっそりと二階の右手一番奥の部屋を見上げるんだ」

 僕はその言葉の意味に気が付き、そっとその方向に視線を向けた。するとルトサオツィがカーテンの隙間から僕たちを見ており、目が合うなり微笑みかけたのだが、すぐさまカーテンの向こうへと姿を消してしまった。

 ユリウスが車内のシモとホレーショに声をかけている。きっとユリウスはルトサオツィの行動に気が付いていたのであろう。イェンスと僕が車内に乗り込むと、ユリウスは僕たち全員にあたたかい笑顔を残したまま、颯爽と家の中へと戻って行った。

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