第8話

 カーテンを開けると、天気予報どおり初雪がちらついていた。寒さに震えながら暖房器具の電源を入れ、身支度を済ませる。そして朝食の準備をしながら、ユリウスから教えられた合い言葉と口頭のパスワードを何度も心の中で唱え、車のナンバーも暗唱した。そわそわしたまま朝食を済ませ、後片付けまでをも終える。それでも約束の時間まで時間に余裕があったため、いつものようにソファに座って自己の内面を見つめることにした。

 イェンスが話していた貪欲な直感という言葉に照準を当て、改めて自分の変化を直感的に把握しようと努める。僕自身の身に起こった変化を思い返し、かつての僕と対比させていく。それも長くは持たなかったため、静かに目を閉じると自分の中にまだ何かしらの可能性が残っているのではないかと探りを入れた。しかし、深く掘り下げていく前に、重大なことを見過ごしていたことにようやく気が付いた。

 ユリウスやイェンスのような血縁関係が僕には無いのだ。

 ドラゴンの爪に触れて以来、確かに普通の人よりは筋力や直感が増したところがあった。それでも血縁の無い僕が、普通の人間から大きく逸れた能力を今後も身に付けていくとは思えなかった。僕の変化はとうに最高地点を過ぎており、今後は中途半端な終了を迎えるだけなのではないのか?

 生まれながらにしてエルフの特徴を持っていたイェンスと僕とでは、そもそもの出発点が異なるのだ。しかもイェンスは幸運にも実際に会っており、本物が持つ雰囲気をもその身で感じ取っていた。

 突然、僕はイェンスに対して到底埋まるはずもない格差があることを理解した。愕然として目を開けると、いつもの見慣れた室内の中で独り、孤独のうちに彷徨っていることにも気が付く。そうだ、僕はこの部屋のようにほとんど変わっていなかったのだ。

 なぜ、今になってこんなにも後ろ向きな思考が湧いて出たのか。僕は気楽な気持ちで内面を探ったことを痛烈に後悔し始めていた。もはや変化についても、自分自身のことについてもそれ以上考える気になれず、失意を抱えたままぼんやりと宙を眺める。

『あとには戻れない』

 その言葉が脳裏にふと浮かぶ。しかし、僕は本当に戻れないところにまで来ているのであろうか。

 そのことを考えると失意も長く続かず、変化に対する絶望というよりは可能性という言葉に短い間だけ見出していた希望を、ただ単に喪失しただけなのだと考えるようになった。結局は、元の自分とたいして変わらない場所へと還っていくのだ。そう考えると心残りがあり、素直に受け止めることにも悔しさが残った。いずれにせよ、弱い自分しか見当たらなかった。

 とうとう約束の時間が迫ってきた。このまま部屋でくすぶっていると余計に惨めな思考に溺れそうで、晴れない気持ちのまま部屋を後にする。僕はアパートの前に控えめに立つと、ちらつく雪に鼻先を凍えさせながらイェンスを待った。薄灰色の空から白い花弁のような、儚い雪がひらひらと舞い降りる。地面に触れるとすぐ融ける雪に、何となしに自分自身を重ねる。

 僕の中に感じていた力強いものが幻で、もともと弱く脆いままであったのだと考えてから、あれほどまでに楽しみにしていた今日の約束に気後れを感じ始めていた。一方で、ユリウスと会うことによって僕の中に隠されていた能力が目覚め、開花していくのではないかという安易な期待も頭の片隅にあった。しかし、そこに一縷の望みを託すほど、僕の中の依存心は強欲でもなかった。ずる賢く他人の力を取り入れないと変化が継続できないのであれば、仮に能力が高まったとしても、その先の成長が見込めないのではないのか。

 ふと空を見上げると雪が目に入ったので、思わず目をつむる。再び目を開けて空を見つめているうちに、雪がどこから降ってきているのかわからないほど、空が遠くにあるように思えてならなかった。

 僕の心はその空のようにぼんやりと漂い、すっきりと晴れることはなかった。それでもユリウスと昼食をともにするという幸運な機会を自らの弱さで台無しにすることのないよう、半ば言い聞かせるように割り切ろうとする。ユリウスとイェンスが友好的に関係を深めるためにも、僕は努めて明るく振る舞う必要があるのだ。

「おはよう、クラウス」

 僕は話しかけられるまでイェンスに気付かなかった。「おはよう、イェンス」といつものように挨拶を返し、精一杯の笑顔を取り繕う。

「君、どうしたんだい?」

 彼は僕を真っ直ぐに見つめていた。その力強い眼差しに僕の弱い部分が見透かされそうで、微笑みながら「なんでもないよ」とだけ答えて公園のほうに向かって歩き始める。しかし、覇気のない僕の肩を咄嗟にイェンスが掴んだ。

「いや、そんなことはない。昨日は高揚した様子だったのに、今はどことなく憂いを帯びている」

 その口調は僕を問い詰めているようであった。いや、今の状態だからこそ、そのように聞こえたのであろう。僕は弱さを見透かされていないことを願いなら彼を見た。すると緑色の瞳は一点の曇りなく僕を捉えており、目が合うなり「やっぱり何かあったのだね」と尋ねてきた。

 彼はやはり見抜いていたのだ――。ますます彼との間に差が開いたことより、取り柄の無い自分がさらけ出す弱さがどうしようもないほど不格好で、またしても恥ずかしくなる。それでもこの雰囲気を長く引きずったところで何ら解決にもならないため、「これからという時に、水を差すようで申し訳ないのだけど」と断りを入れると、歩きながら今朝感じたことを全て彼に伝えることにした。

「君は呆れたかもしれないね。今まで感じていた力強さがあっという間に、この雪のように解けて消えてしまったのだから。今まで何度も君と熱っぽく語ったこともあったのに、結局僕は自分を信じきることができず、勝手に陰鬱な気分になった。あげくの果てに、自分で何とかすることを放棄してユリウスの力に期待さえしたんだ」

 不甲斐ない言葉を立て続けに発したことで、ますます心が沈んでいく。雪が頭の上に覆いかぶさり、その重さに耐えきれないかのように視線も地面へと落ちる。イェンスの上品な靴に雪が付いては融けるのを眺めていると、その雪よりも脆い自分がたまらなく惨めに思えた。

 重苦しい雰囲気がイェンスと僕の周りに漂う。やはり言うべきではなかったのだ。僕の悪い癖なのだが、自分を責めることだけは得意であり、そのうえ許しも与えないほどの非情さがあった。沈黙が長く流れるにつれ、視界が少しずつ滲んでいく。せめて顔を上げて顔面を雪まみれにすれば、この醜態を隠せるのであろうか。

「クラウス」

 次の瞬間、イェンスが僕を力強く抱いた。突然のことに対応しきれず、思わずよろめいて彼に寄りかかる。その状態のままで彼を見ると、彼は今まで以上に優しく、優しく僕を見つめていた。そして微笑んでから僕のおでこにそっとキスをしたので、不意に胸が熱くなる。僕のような貧弱な人間に与えられる優しさが、こうもあたたかいのはなぜなのか。

「クラウス、君は本当に純粋で美しいのだな。君が感じた中途半端な自分への無力感は、僕がもう長年も感じて来たことだ。そして今もなお、僕はそのことで自分を見失いそうになる」

 彼の瞳にはかつて何度も見てきた悲哀が浮かび上がっていた。僕はそれを見てようやく気が付いた。僕がドラゴンの爪に触れてから得た変化について感じた喜びや憂いや悲しみのほとんどを、彼こそがずっと以前から孤独のうちにありありと体験してきたに違いないのだ。

 僕はすぐさま僕の脆弱さをイェンスに詫びた。彼はそれすらも微笑みながら首を横に振って否定すると、僕の肩を抱きながら歩き出した。

「君なら謝るだろうと思っていたよ。だが、僕はちっとも気にかけていない。――ねえ、クラウス。僕たちはもう後戻りはできないと以前話をしたね。変化は微小であれ、僕たちに確実な特異性を与えている。そのことで感じた君の心境も、僕の道化のような憂いももっともなことなのだ。きっとユリウスも、そのことを僕たち以上に感じているに違いない」

 彼は舞い落ちる雪のように静かに言った。僕は彼の言葉から、秋の夜に公園でユリウスと話したことを思い出していた。ユリウスもまた自分の能力に悲観し、孤独にどこかおびえていたのだ。

 僕が感じている憂いも不安も、ユリウスのそれと比べ物にならないくらい、程度が低いもののはずである。そもそも僕には背負っているものが何一つ無かった。それを踏まえたうえで、結局僕は自分自身をどうしたいのであろう?

 この先もずっと、煮え切らない自分を言い訳しながらかばっていくのか。

 その時、何かが心の奥底で芽生えたのを感じた。それはやはり前に進んで結果を受け止めたいと願う、決意にも似た意思であった。僕はその意思を感じながらイェンスを見た。彼は僕の中から何かを感じ取ったようで、歩みを止めると僕の目をじっと覗き込んできた。そして安心した表情を見せたかと思うと、再び前に向かって歩き出した。

「君はものすごい速さで変化をしていくのだな。いや、成長というべきか。もう気持ちを切り替えて前を向いたのだろう? やはり、君といると実にいい刺激を受ける。僕も高みに向かってさらに進みたくなるよ」

「ありがとう、イェンス。でも、僕が変化に対して前向きな決意をたった今持てたのも、全部君のおかげなんだ。血縁関係がない僕が、君やユリウスと並ぶような変化を起こすとは限らない。今だって君がこれまでに味わってきた孤独や悲しみや怒りを、当てずっぽうに推し図っているにしか過ぎないんだ。悔しいけど、今の僕の限界がこれなんだと思う。それでいくと、血縁関係のある君なら、この先も変化を起こしてはるか上に行ける可能性がずっと高いだろうから、僕は下から応援しているよ」

 僕は言い終えてから自然と後ろ向きな発言をしてしまったことに気付き、愕然とした。だが、そのことはそもそも事実であり、どう考えあぐねいても彼を抜きんでる可能性など到底あり得なかった。

 言い訳を頭の中に並べながらイェンスを見る。すると彼は驚いた表情で僕を見つめていた。僕の不甲斐なさで、人のいいイェンスをとうとう失望させたのではないのか。不安が次から次へと押し寄せる中、イェンスは視線を前方にずらしたかと思うとつぶやくように言った。

「君は本当にヘルマンに会うまでドラゴンと無縁だったのだろうか? いずれにせよ、君は見当違いをしていると思う。君はやはり、変化が君に訪れていることをしっかり受け止めていないのでは?」

 僕はあっという間に困惑と自責を覚えた。ドラゴンに会った記憶はもちろん全く無く、その可能性は無いと言えた。何より彼の指摘どおり、僕は変化という特異な出来事を、ドラゴンの爪に触れたことによるおこぼれとしか考えていなかった。

 ドラゴンの爪に触れた者なら誰であろうと、その人の能力を伸ばす変化を起こす。だからこそ、傑出したものが何一つない僕でも能力が向上することができたのだ。しかし、ふらふらと揺れ動く僕の意志は、どうやら変化の対象外のようであった。そうであれば、根本的なところに弱さが存在したままであるということではないか。それゆえ僕は舌の根が乾かぬうちに、結局は軽率な言葉で煮え切らない自分自身をかばっていたのだ。

「イェンス」

 僕は彼に矛盾だらけの胸の内を、深く考えもせずに話したことを心から詫びた。そしてドラゴンに出会った記憶も、その可能性さえ全く無いということも付け加えて伝える。彼は僕が話している間中、ずっと穏やかな表情で僕を見ていた。

「いや、クラウス、君を責めたわけではない。言い方が悪かった。僕が君なら同じように考えたことだろう。だけど、君も人間以外の何か――おそらくはドラゴンに前から縁があったのではないかと思っているんだ。確証は無いけどね。それに正直に言うと、僕も自分に起こっている変化で不安に感じていることはある。僕の血縁関係もたかが知れているし、変化に関しても、どうなっていくのかが全く予測できない。これは僕の推測だが、君に訪れる変化は生涯にわたって続き、僕が感じているような不安を君にもたらすのだと思う。なぜなら、君が今この瞬間にも変化を見せているからだ。それは高い視点から見れば大きく成長しているのだけど、人間の視点から見るとやはり孤独であり、重い足枷だ。僕は君がこの先も不安と対峙した時、いったいどの視点からそれを捉えるのかと思うと複雑な気分になる。偉そうなことを言っているけど、結局は僕も同じ問題を抱えているからね」

 最後のほうは口調が重く、その視線は虚空をさまよっているようであった。

 道路わきの街路樹が寒そうに冬空に向かって腕を伸ばし、石畳の歩道が融けた雪で冷たい光を鈍く放っている。雪は徐々に止みつつあり、待ち合わせ場所の公園に間もなく到着しようとしていた。

「僕がいずれ体験する不安と君の感じている不安とは……ごめん。やはり僕はまだ経験が浅いから、それがどんなものなのか想像もつかない。きっと、今の僕が思い浮かべるような不安では無いんだろうね。ねえ、イェンス。そのことで君に対し、今の僕に何かできることはある? 君はずっと苦しんできたんだろう?」

 自分のことをいったん脇に置き、イェンスに対して何か恩を返せないものかと率直に尋ねる。彼自身も不安を抱えているにもかかわらず、僕にあたたかく前向きな助言を与えてくれていた。そのことに僕は尊い価値を見出していた。

「何もないさ、クラウス! 実を言うと、僕自身がどう向き合っていくかに尽きるんだ。もちろん、君自身もだ。だが、そう言ってくれることは単純に嬉しい。君が親友であることが非常に心強いよ。君とこの話を具体的な解決策を交えながら話し合う日は、きっと近い将来に来ると僕は信じている。そしてその時は苦しい表情ではなく、お互いに穏やかな表情でいられたらと願っているんだ」

 彼は瞳に美しい光を携えながら僕を見つめていた。彼のその眼差しと前向きな言葉を受け、再び僕の中に心強さが芽生える。

 僕がまだ体験していない不安ですら、なんとかやり過ごせるかもしれない。根拠のない自信を抱くと、不安をもたらすであろうその体験や変化こそが、成長へとつながる重要な役割を担っていることに気が付く。

 僕が進みたい方向のはるか彼方を見据える。その道は僕にしか歩むことができないため、踏み固められていない地面に足元を取られて歩きづらいこともままあるのであろう。しかし、イェンスとユリウスが彼らの道を歩みながらも、僕が迷うことの無いよう道しるべとなって助言を僕に与えてくれていた。僕は決して全くの孤独ではないのだ。

 僕に訪れる変化が何であれ、この目で未知のものを見、この肌で全体を包む雰囲気を感じ、耳を澄ませて奏でられている音を聴き、新しい世界の空気を味わい、心から感じた感嘆の言葉を新しい世界に解き放とう。僕は今こそ僕自身に誓おう。新しい景色も新しい自分も、常に弛まず道を進んだ先にあるのだ。

 待ち合わせ場所である公園の入り口に到着した。約束の時間には早かったこともあり、それらしい車はどこにも見当たらなかった。

 初冬の公園は海風が冷たく吹きすさび、午前中の早い時間であるからか、人影もまばらでどことなくさびしい雰囲気が漂っている。この公園の少し先に、あのゲーゼ縁のレストランがあった。そのことを思い出しながらふと道路の先を見ると、黒い大型のオフロード車がこちらへと向かって来るのが見えた。車のナンバーが読み取れたところで、イェンスがあれだ、と耳元でささやく。その途端に僕は妙な緊張を覚えた。

 運転席と助手席には強面の男性二人がインターカムを付けて乗っており、僕たちに鋭い視線を投げつけながら目と鼻の先に車を停めた。彼らは少しの間、車内で会話をしていたのだが、表情はずっと険しかった。少しして二人とも車から降りると、僕たちを見下ろすかのような姿勢で立ち並んだ。

 彼らはイェンスよりやや身長が高く、スーツ姿でもかなり鍛えた体つきであるのがわかった。そこに凄まじいまでの威圧感を出しながら僕たちを鋭く見据えていたので、何ともいえない緊張感が辺りに漂う。僕たちを睨みつけている彼らに、イェンスが先に話しかけて合言葉を伝えた。それを受けて一人が合い言葉を返したので、続けてユリウスから聞かされていた口頭パスワードを僕のほうから伝える。しかし、彼らはそれでも相変わらず凄むように僕たちを睨み続けていた。

「僕がイェンスで、彼がクラウスです。あなた方がシモとホレーショですね?」

 イェンスが落ち着いた口調で彼らに話しかけた。

「そうだ、俺がシモだ」

 低く重みのある声でシモと名乗った男性は、ほどよく日焼けした肌以外はどことなくユリウスを思い出させる髪型と髭であり、僕たちよりも年齢がひと回りほど上に見えた。それでいくと、無言のまま僕たちをずっと睨みつけているもう一人の男性がホレーショとなるはずなのだが、彼は一向に口を閉ざしたままであった。

 ホレーショらしき男性が視線を逸らすことなく、ジャケットの内側のポケットから口頭式身分照会用の端末を取り出し、僕たちに身分照会を受けるよう命令する。

 個人が事前に登録しておいた文字や情報などを組み合わせた、その人独自の口頭用身分照会パスワードは状況が変わるたびにパスワードもその個人個人の法則に則って変わるため、他人には容易に組み合わせが見破られないようになっていた。また、それを認証する機器も、照会者の声紋を過去から現在までに採取された音声データから照合し、そのうえで個人固有の組み合わせのパスワードの整合性をほぼ100%の高精度で計算し認識するため、組み合わせさえ完璧に覚えてしまえば居住者身分証明証を提示して生体認証を受ける方法より安全性があると言われていた。しかし、最大の難点があり、組み合わせを覚えられない人には向いておらず、それだけで誰もが気軽に利用できるとは言い難かった。

 彼らがその特殊な方法で身分照会を実施することに一瞬驚いたのだが、僕が先に端末を受取って名前とパスワードを端末に吹き込んでいく。ほんの数秒後に照合認証完了のブザー音が鳴り、続いてイェンスが同じように身分照会を進め、無事認証完了のブザー音を鳴り響かせる。シモがそれを確認してようやく納得したのか、僕たちに車に乗れと合図をした。そこでイェンスと僕が緊張しつつも左右に別れ、車へ乗り込もうとする。

 ――突然、シモがイェンスに殴りかかったのが見えた。イェンスはそれを間一髪でかわしたようである。僕が劇的な展開に非常に驚いていると、後ろから肩を掴まれた。

 その瞬間、背後から並々ならぬ気配を察知し、振り返ると同時に反射的に右手が顔の前に出る。すると間髪入れずに衝撃と痛みが手のひらに走った。何が何だかわからずに視線をゆっくりと右手に移すと、ホレーショと思われる男性が僕に放った、重く鋭い拳が手のひらの中に収まっていた。

 予想外の展開にもかかわらず、一連の流れからさらなる攻撃を警戒し、冷静に相手を見据える。しかし、ホレーショらしき男性は両手を挙げたかと思うと、僕を腑に落ちないといった表情で見ながら言った。

「突然殴りかかってすまなかった。ユリウス将軍にお前たちを試させて欲しいと願い出て、許可は得ていた。まさかこれほどであったとはな。だが、これでわかった。お前たちはいったい何者だ? 俺たちの攻撃を至近距離で防ぐとは――」

 彼は怪訝な表情を解くことはなく、「俺がホレーショだ」と名乗りながら彼の身分証を見せた。それから手を差し出してきたので彼と握手を交わしたのだが、その鋭い視線は一瞬たりとも僕たちから離れることはなかった。

「いや、俺たちは仕事をするだけだ。さっきの行為で充分、俺たちは職務違反を犯している。これ以上のことをしては法令違反だけではなく、許可をあえて与えて下さったユリウス将軍にも背くことになる。彼らは若いが、そのユリウス将軍にどことなく似た雰囲気を持っているし、知能も身体能力もかなり高い。それがわかっただけでも、彼らを送迎することに意味があると思えるじゃないか」

 シモがホレーショを諌めるように言った。しかし、ホレーショはなおも合点がいかないのか、相変わらず僕たちを睥睨していた。今度はシモが手を差し出してきたので、イェンスと僕とで握手を交わす。イェンスは彼らの意図に気が付いていたのか、終始落ち着いた様子であり、彼らを責め、疑うような素振りは一切見せていなかった。

 改めて車に乗るよう、ホレーショが指示を出す。僕たちが今度こそ車に乗り込むと、そこでようやくお互いに顔を見合わせた。イェンスが僕を見るなりいつものように微笑みを浮かべたので、彼のその態度からようやくシモとホレーショを受け入れ、そのうえで車内が安全なのだと理解する。右手の痛みはいつの間にか引いており、機能にもなんら異常は無かった。僕は右手を固く握りしめると、やおら前方に視線を移した。

 ホレーショが運転席に座り、シモが助手席へと座る。シモはスマートフォンを取り出すと電話を掛け始めた。どうやら相手はユリウスのようであった。彼が非常に小さな声で報告を済ませていく間中、またしても独特の緊張感が漂う。シモの電話が終わるなり、ホレーショが僕たちのほうを振り返ってぶっきらぼうに言った。

「身長はあるし、まあまあ体格もいいが、顔は青白いし隙だらけだった。弱いガキだと思っていたのだが、やはり信じられん」

 シモがそれを聞いて同意するようにうなずきつつも、彼に目配せをする。するとホレーショはあっという間に無表情へと変わり、運転を始めた。

 ホレーショが言った『青白い』という言葉は、僕の胸にちくりと刺さった。確かに最近は進んで太陽を浴びることもせず、また思いっきり体を動かすこともしていなかった。僕は日に焼けても赤くなるだけで、すぐ元の肌色に戻る体質であった。そもそも青白いと昔から言われていたうえ、毎日顔を合わせているイェンスが透き通るような肌であったため、最近は青白さを気にも留めていなかったのである。だが、僕の健康のためにも、もう少し日の光にあたったほうがいいのかもしれない。

 そのシモとホレーショは、僕にはない精悍さと逞しさとがあった。少しだけ見えるシモの手には傷跡が見え、彼らの職務の厳しさを物語っているようである。

 僕はこの二人がユリウスの高い信頼を受けていることは、ユリウスが僕たちの送迎を頼んでいる時点で理解していた。しかもユリウスは、彼らに僕たちを試すことについての許可も与えていた。そのようなやり取りが可能なほど、おそらく彼らは長年にわたってユリウスの警護を担当し、そこから深い信頼を築き上げてきたのであろう。そして彼らのユリウスに対する敬愛の気持ちを、僕は先ほどの短いやり取りからでもひしひしと感じ取っていた。

 彼らが敬愛するユリウスが、ドーオニツに住む人物と会うためにわざわざ送迎の指示を彼らに与えた時、その相手がいったいいかほどの者なのかと疑問を抱いたのは当然のことであろう。疑問というよりはむしろ困惑に近かったのかもしれない。そしていざその相手と対面してみると彼らよりただ若いだけであり、わざわざ時間を作って会うだけの特別な理由を持っているようには見えなかった。ひょっとしたら彼らにとって、僕たちはユリウスに近付こうとする不審者に見えたのかもしれない。外殻政府の中でもかなり重要な役職を兼務し、その地位から日々多忙を極めるユリウスが、なぜドーオニツの一般男性のために貴重な休日を割こうとしているのか。彼らにしてみれば不明瞭なことだらけであろう。そのことを規約違反を犯してまでも把握しようとした彼らの気持ちを慮る。

 続けて、僕はホレーショのパンチを咄嗟に受け止めたことを改めて思い返した。通常ならあり得ない行動をやってのけたのは、僕が身体能力にも変化を起こしていたからであろう。だが、どうやって防いだのか、言葉で説明するのは難しかった。ただあの瞬間、全てにおいて適切な行動がものすごい速さで閃き、その直感に促されるがまま体を動かしていただけなのである。

 そのことをホレーショが不審がっていた。勘付く人は勘付くのであろう。そうであれば、この先も同じことがまた起こる可能性もあった。不用意にこの特異性をひけらかすことの無いよう、いっそう注意を払わなくては。

 ふと我に返ると、車内の誰もが無言であった。車はアウリンコへと続く道路をひたすら真っ直ぐに進んでいた。ユリウスとどこで会うのかは知らされていないのだが、政府要人である彼と会うのであれば、人目に付かない場所になるに違いない。いや、ひょっとしたらアウリンコ中心部まで行くのではないか。そうなると交通事情にもよるが、少なくともあと一時間はかかることであろう。この車は公用車ではないものの、橋で検問を受ける際にID確認か何らかの方法で政府関係者専用レーンに入る可能性があった。そうであれば、さほど時間を取られずに目的地に辿り着くのかもしれない。

 思えば、あのユリウスの要請とはいえ、政府要人の警護を受け持つ屈強な男性二人とイェンスと一緒にアウリンコへと向かっていた。それは数か月前までの僕なら到底あり得ないことであった。やはり、ユリウスと知り合ったということはただ事ならぬ契機なのだ。そうでなければ、僕がシモとホレーショという人たちを知ることはなく、何らかの用事で上陸する以外はアウリンコから縁遠い生活を続けていったはずなのだ。

 いや、僕も望めばアウリンコで働くことができた。だが、僕はアウリンコに多少の疎外感を持っていた。それはドーオニツとの見えない壁であり、支える側と支えられる側との隔たりというよりは、主従の格差に近いものであった。そのため、ハンスが話していたアウリンコ独特の雰囲気を、僕は意図的に避けてきたのである。

 ドーオニツの在校生たちは十三歳になると、どのコースであっても必ずアウリンコにある主要施設への見学が義務付けられていた。そこでアウリンコとドーオニツという関係について理解を深め、その人自身がどの方向を目指して行くのか、おおよその道筋を思い描くのである。十三歳の僕はアウリンコに対するあこがれを追いかけることはせず、ドーオニツに留まる自分を選んだ。

 シモとホレーショがアウリンコ出身なのかドーオニツ出身なのか、はたまた地方国出身なのかは知る由も無いのだが、彼らがどのような来歴であれ、いずれにせよ変化を起こす前までなら出会うこともなかった人たちに出会い、同じ空間を共有していることは何度考えても興味深かった。彼らから殴られそうになったにもかかわらず、僕のこういったところがそもそも普通の人と変わっているところなのであろう。僕は心が徐々に落ち着きを取り戻すにつれ、この不思議な巡り合わせを前向きに受け止めようという気概を抱き始めていた。

 改めてホレーショをそっと観察する。彼は二十代後半くらいであろうか。後ろ姿からでも威圧感が放たれているようであり、その体格も警護という職業も、長い間軟弱を自負してきた僕にとっては尊敬を抱かせるほどのかっこよさにあふれていた。

 いったい彼はどのような人生を歩み、今の職業を選んだのであろう。おそらく彼が確固たる信念を曲げずに来たからこそ、今のこの状況が生まれたに違いあるまい。

 信号で停車する。それと同時に、ホレーショが僕を睨みつけながら大きく振り向いた。そのあまりの気迫に、思わず身をすくませたのがますます彼の癇に障ったらしかった。

「クラウス、と言ったな。お前、何でさっきから俺をじろじろ見てんだ?」

 彼は凄みを利かせた声でぴしゃりと言った。僕は気付かれていたことに気が付かず、無遠慮に視線を投げつけたことが恥ずかしくなって下を向いた。しかし、このままではますます誤解を与えかねない。僕は深呼吸すると、背筋を正してホレーショを真摯に見つめた。

「失礼をお許しください。鍛えた体に職業も政府要人の警護なので、単純にかっこいいと思って見ていたのです」

 相変わらず貧相な語彙力でしか表現できない自分に、愛想を尽かしそうになる。なぜ、重要な場面に限って僕の不器用さがいかんなく発揮されるのか。

「お前、俺を馬鹿にしてんのか?」

 その時、信号が青に変わった。シモに促されてホレーショが腹立たし気に前を向く。

 僕は彼がなぜそう言ったのかがわからないでいた。それでも悪化した状況をいくばくかでも改善させようと、冷静に運転を再開した彼におそるおそる話しかけた。

「とんでもありません。本心から言っているのです。自分の体を張って他人を護るということは、なかなか簡単にできることではありません。それを職業にしたということは、ご自身に対する誇りと強い意思がおありなのだと思います。そのうえで、他人のために日々の鍛錬で鍛え上げた自分自身をためらいもなく差し出せる人に、単純に美しさと魅力を感じたのです」

 どうしても僕の言葉には重みが無く、おべっかのようにしか聞こえなかった。軽々しい性格だと思われたのではないかと、痛烈に自責の念に駆られていく。イェンスなら、おそらくこのような失態は犯さなかったであろう。

 その時、シモが振り返って僕を見た。その表情は驚いてこそいたものの、どこかあたたかみを感じさせるものであった。その根拠の無い思考に困惑し、不安げにイェンスを見る。彼が僕に呆れているのではないかと考えていたのだが、彼は目が合うなりあたたかい眼差しで僕を見つめ返した。

「おまえ、それ本当かよ!」

 ホレーショが苛立ちを隠すことなく、叫ぶように言い放った。彼はすぐさま車を路肩に停めたかと思うと、再び僕のほうを振り返った。彼の眉間には複雑なしわが寄っており、困惑とも憤慨とも読める表情で僕を見つめていた。

 僕はいよいよ彼を不愉快にさせたのだと意気消沈し、「あなたに不快な思いをさせたようで申し訳なく思います」と力無く伝えた。それを聞いたシモが口の端で笑ったので、失笑を買ったのだと心苦しさからイェンスを見る。すると彼は口元を手で抑えたままこちらを見ており、その目元は笑っていた。彼のその様子から、彼もまた僕の失態に失笑しているのだと考え、ますます落ち込んでいく。

 もはや、僕の弁明が届くことはあるまい。不要な発言で人を容易に傷つけることしか、僕には取り柄が無いのだ。

 ホレーショは僕を見て「なるほどな」とつぶやき、眉間の複雑なしわを少し和げた。そしてすぐさま前方を向いたかと思うと、それ以上は何も言わずに運転を再開させた。

 またしても沈黙が車内に訪れる。そうなると僕は一人だけ異端であることが心細く、消え入りたい気持ちを抱えたまま視線を車窓へと移した。それでも僕が招いた事態に責任を持とうと、腹をくくって適切な謝罪の言葉を考え続ける。

「君は最高だな」

 突然、イェンスが僕の耳元でささやいた。その言葉に驚いて彼を見ると、彼は優しく微笑みながら僕を見ていた。彼の一連の言動が理解できず、懸命にその真意を探る。

 その時、ホレーショが素早くラジオのスイッチを入れたのが見えた。彼は信号で停車した時にチューナーを操作し始めたのだが、最後に音量を上げた瞬間、激しいメタル音楽が一気に車内へと飛び込んできた。

 低音のメロディにドラムが激しく鳴り、エレキギターが哀愁漂う音色を奏でる。僕は突然の大音量にかなり驚いたのだが、ホレーショはメタルの低音にリズムを合わせることなく、しっかりとハンドルを握って運転を再開させた。その隣でシモが苦笑いを浮かべつつも、指でリズムをとっているようである。僕は耳から全身を突き抜ける豊かな音の種類に感動し、脈打つような重いリズムを全身に感じながらイェンスを見た。すると彼は目を輝かせており、この状況を楽しんでいるようであった。

「これはなんという曲なのですか?」

 イェンスが身を乗り出してホレーショに尋ねる。ホレーショはバックミラー越しに僕たちを一瞥すると、叫ぶように答えた。

「知らないのか? これは地方国でかなり有名で、アウリンコでもそこそこ人気だぞ」

 彼はそう言うと、バンド名と曲名を僕たちに告げた。初めて聞いた名前であったものの、イェンスも僕も控えめながらもメタル音楽を楽しむ。重低音の迫力ある音が僕たちを響かせているからか、車内の雰囲気に変化が生じつつあるのがわかった。その曲が終わるなり、シモが「さっきは特別だ」と言って音量を下げたのだが、ラジオが切られることはなかった。

 無言であった空間に音楽が彩られる。たったそれだけのことでも、僕たちを取り囲む空間が少しずつやわらかみを増していく。僕は偶然もたらされた穏やかな雰囲気を、感謝して受け取ることにした。

 いつしか僕たちはアウリンコへと続く橋の袂までやって来ていた。検問があるため道路は混雑してきたのだが、僕たちが乗っている車はやはり政府関係者専用レーンへと進入していった。前方から検問ゲートが近付いてくる。シモが政府関係者を証明するカードがきちんと送信機器に差し込まれているかを確認するも、検問ゲートの手前から電光掲示板に『通行可』と表示され、一般車両レーンの混雑を尻目にあっさりとゲートを通過して橋へと向かう。

 僕は七年ぶりのアウリンコ上陸にやや興奮を覚えていた。その目的がユリウスに会うことであることを思い返し、どこからか舞い戻ってきた高揚感と喜びとに包まれる。

 シモが後ろを振り返って僕たちに尋ねてきた。

「お前たちはよくアウリンコへ来るのか?」

「いいえ、今はほとんど来る機会がありません」

 イェンスの返答に僕もうなずいて返す。それを聞いたホレーショが怪訝そうに尋ねてきた。

「ほとんどアウリンコに来ないんなら、どうやってユリウス将軍と知り合ったんだ?」

 僕は思わず戸惑って口ごもったのだが、幸いイェンスが咄嗟に答えてくれた。

「偶然が重なったのです」

 事実そのとおりであるため、僕は一言付け加えた。

「僕たちは本当に幸運でした」

 それを聞いたシモは無表情のまま「そうか」とだけ言って前を向き、それ以上は何も尋ねてこなかった。そのことで消えかけていた重苦しい雰囲気がまたしても車内に漂い、僕の心にもさざ波が立っていく。

 ひょっとして、彼らは僕が考えている以上に、ユリウスの身辺を把握しているのではなかろうか。ユリウスの交友関係にはおそらく、僕たちのように知り合った経緯が不明瞭な一般人はいないに違いない。相手が誰であれ、知り合うまでには過程と背景が存在する。僕たちはその全てが不明のはずなのだ。

 イェンスと僕はユリウスの核となる深い部分を知っているのだが、それ以外のことについては一般的に公表されている情報しか知らなかった。一方で、シモとホレーショはその職務上、ユリウスの核となる部分以外をよく知っており、仕事を通じて深く関わってきたことであろう。彼らはもしかしたら、僕たちがユリウスの重要な何かを共有していることにうっすらと気が付いたのかもしれない。シモは僕たちの雰囲気がどことなくユリウスに似ていることを見抜いていた。あのわずかなやり取りで接点を見出したということは、彼が本当に優秀な人材であることを裏付けるものであり、それはホレーショも同様であった。

 僕は彼らの振る舞いに、洗練された信念を感じ取っていた。それゆえ、沈黙が続く重い雰囲気の中でも、彼らに対して不信感や不快感を抱くことは決してなかった。その彼らが、一回しか会ったことの無い僕たちが敬称を付けることなく『ユリウス』と気軽に呼び、彼の秘密を共有していることを知ろうものなら、どんなにか衝撃を受けるであろう。

 やはりイェンスも僕も、シモとホレーショにとっては正体不明の不審者なのだ。それゆえ、彼らにはわからないことだらけで、僕たち以上に混乱しているに違いない。しかし、彼らはそのような中でも努めて冷静さを保っていた。その強い自制心に尊敬の念を抱き、前方にいる彼らをそっと見つめる。僕の不用意な発言で彼らをこれ以上混乱させることのないよう、僕は改めて自らを戒めることにした。

 ほとんどの政府機関が閉庁している土曜日であるにもかかわらず、橋を往来する一般車両は多かった。僕たちが乗っている車は、一般道と並行して設置されている政府関係者専用道路を順調に進んでおり、橋を渡り終えていよいよアウリンコへと上陸した。

 高層ビルが立ち並び、街並みもドーオニツと比べて格段に整備されている中、街のいたるところに設置されている監視カメラに挨拶していくかのように車が走る。

 僕は見慣れないアウリンコの街を、スモークガラス越しに興味深く車中から伺っていた。ドーオニツ以上にいろいろな人種が行き交い、さすが世界の中心を担うだけのことはあると今さらながら感心する。ホレーショは大通りを避け、比較的空いている裏道を通って目的地へと向かっているようであった。いったいどこへ向かっているのであろうと思案していると、シモが後ろを振り返って話しかけてきた。

「ユリウス将軍のご邸宅はアウリンコの中心部にあるため、もう少し時間がかかる」

 彼の言葉に驚いたのだが、咄嗟に冷静な表情へと切り替えて「わかりました」と返す。

 確かにユリウスの家であれば、周囲に気を遣うことなく僕たちの秘密を話すことが可能である。しかし、個人宅に招かれているとすれば、かなり親しいか、私的な関係と考えるのが通常であろう。だからこそ、シモもホレーショも僕たちの扱いに戸惑ったに違いないのだ。

 その時、シモとホレーショが視線を方々に注意深く向けていることに気が付いた。どうやらアウリンコに入ったことで、緊張の度合いを高めているようである。僕は首を突っ込むことなく、そのままのんきに座っていれば良かったのであろう。しかし、彼らがドーオニツでは見せなかった緊迫感を漂わせていることがどうしても不思議に思えてならなかったので、とうとう「どうかしたのですか」と遠慮がちに尋ねてしまった。

 「そりゃ、アウリンコだからな。ここは世界中から優秀な人材を集めているが、今となっては人格にも特に優れているという人ばかりがやってくるわけでもない。ずっとここで暮らし、ここの教育を受けている人たちと、地方国から短期在留で任命されてきた政府高官や関連する団体の要人とでは、行動や振る舞いがまるで違うんだ。お前たちもドーオニツで似たような経験はしているだろうがね。いずれにせよ、地方国から来たばかりで浮ついている奴は、ここのルールをきちんと守ろうとしない。アウリンコが厳しい制約や規則を設けているのには理由があるのに、彼らはそれを課す立場にいながら自分には甘いのだ。早い話が、面倒なトラブルを避けるために注意を払っているってこった」

 ホレーショは僕の質問に苛ついた素振りも見せず、前を向いたままあっさりと答えた。そこにシモがさらに付け加えた。

 「特にその本人より、その者に帯同する家族のほとんどが、アウリンコに住むという自覚が薄くてやっかいなのだ。地方国ではそれなりの地位にいるからなのか、地方国での振る舞いを持ち込もうとする。そのことで、生粋のアウリンコ人と揉め事を起こすことも珍しいことじゃない。ここはアウリンコでも内洋に近いから、特にそういった新参者たちが住まう場所だ。建物だってどんどん変わる。だから念のため警戒をしているのだ」

 彼らは話している間中も視線を休めることは無かった。おそらく以前トラブルにでも巻き込まれたのであろう。イェンスと僕は後部座席からそっとその様子を見守ると、彼らの言葉の意味を深く考えながら街並みに視線を移した。

 再び賑やかな大通りへと進入する。僕はイェンスに関する、ある情報を思い出したので彼を見た。彼は感慨深げに街並みを見入っており、僕が見ていることには気付いていなかった。

 その時、シモがイェンスの機微を敏感に捉えたのか、彼に穏やかな口調で話しかけてきた。

 「イェンス、お前はここに来たことがありそうだな」

 どうやら彼は車内用監視カメラの映像を見ているらしかった。

 「はい。以前この近くに用があり、ここを通っていました」

 「そういえば、昔は来ていたふうなことを言っていたな」

 「……はい」

 僕は二人の会話を黙って聞いていた。ホレーショは運転のため前方を向いているのだが、間違いなく会話は耳に届いていた。

 「おまえ、ひょっとして国立北アウリンコ校の出身だとか言うんじゃないだろうな? 東西南北の国立校には、ドーオニツ出身者もそれなりにいるからな」

 シモは怪訝な口調でイェンスに尋ねた。僕はイェンスの出身校を知っていたのだが、会話に口をはさむことはせず、ただ彼らのやり取りを見守った。

 「いいえ、違います」

 イェンスはためらいがちに答えた。それを聞いたホレーショが控えめな口調で話し出した。

 「北校出身者なら、この辺はあまり縁が無いだろう。俺の出身校である東アウリンコ校にもドーオニツ出身者はそれなりにいたが、ドーオニツのC1からC5地区、D13地区から17地区出身が圧倒的に多かったぜ。ちなみにシモは国立西アウリンコ校の出身だ」

 それを聞くなり、僕は驚いて彼らを見た。彼らの出身校を含むアウリンコ国立の東西南北校はどれも名門で、ドーオニツでも志望者がかなり多いほどの人気であった。

 僕は気になってイェンスの様子をそっと伺った。彼は少し固い表情であったのだが、僕の視線に気が付くと微笑んで返した。それを見ていたのか、シモがまたも何かに勘付いたかのようにイェンスに話しかけた。

 「イェンス、何かを隠しているようだが、正直に言ったらどうだ? これはただの雑談だ、出身校の話なんてたいした話題じゃないはずだ」

 彼の声は低く、問い詰めているように聞こえた。そこに信号が赤になったので、車がゆっくりと停まる。するとイェンスは観念したのか、遠慮がちに答えた。

 「僕は国立中央アウリンコ校の出身です」

 その瞬間、車内にシモとホレーショの雷鳴のように轟いたうめき声がもれた。

 「本当かよ、国立中央アウリンコ校って、名門中の名門だぞ! 学業に専念させるため、他と違って大学まで男女を分けた校舎で、アウリンコ出身だろうと限られた奴しか行けないのに、お前ドーオニツ出身だろう?」

 ホレーショが後ろを振り返るなり、驚愕した様子で叫んだ。イェンスは彼の言葉に答えず、無言で彼らを見つめ返している。その様子を受けてか、シモまでもが疑いの眼差しで僕を見つめた。

 「クラウス、お前ももしや国立中央アウリンコ校の出身なのか?」

 それを聞いたホレーショの目が大きく見開く。僕は前方の信号を気にかけながら、慌てて否定した。

 「とんでもない、僕はドーオニツの学校に通っていました。彼のように優秀じゃない」

 そしてなおも疑いの目で見ているホレーショをしっかり見つめると、深呼吸をしてから言葉を続けた。

 「信号が変わりそうです」

 僕の言葉でホレーショがすぐさま前を向き、青信号に備える。その隣でシモが興味深そうに話し出した。

 「なるほど、曰くありげだな。国立中央アウリンコ校を卒業して、ドーオニツでカスタムブローカーとして働くとはね。お前たちの職業はユリウス将軍から事前に伺っている」

 「どの職業に就こうが、お前たち個人の自由だからな。だが、国立中央アウリンコ校を出て政府関連の仕事や研究職、世界的な大企業に就かない奴の話は初めて聞いたぜ」

 ホレーショの言葉にイェンスは苦笑いを浮かべたものの、言い返すことはしなかった。

 おそらくイェンスも同じことを考えているのであろう。僕がイェンスを横目で見ると、やはり彼と目が合った。その瞳には緊張の色がうっすらと色づいており、彼の意図が読めるようである。僕たちは示し合わせたかのように、不必要な発言を避けるべく押し黙った。しかし、そのおとなしさがかえって彼ら――とりわけシモに疑念を抱かせたらしかった。

 「この期に及んで、まだ何かありそうだな」

 彼はそう言うと外の景色を見やっていたのだが、突然、何か閃いたかのように勢いよく後方を振り返り、早口でイェンスにまくし立てた。

 「イェンス、お前まさか特別コースだったというんじゃないだろうな? いや、そうでなければ辻褄が合わない!」

 それを聞いたイェンスの表情が固まった。車内に沈黙が訪れたことで、ラジオの音楽がすっと耳に届く。優しいメロディに乗せて抒情的に『自分を信じて、ありのままの自分を信じて』と歌ったその曲に促されたのか、イェンスはとうとう控えめな口調で答えた。

 「……はい、特別コースでした」

「やはり……」

 シモは後に続く言葉を失ったようであった。間髪入れずにホレーショが「なんてこった!」と叫ぶ。僕がおそるおそるイェンスを見ると、彼はすっきりしたのか、穏やかに微笑んで僕を見つめ返した。そのどことなく清々しい彼の表情に、ますます緊張を覚えて僕の呼吸が乱れていく。

 僕はイェンスのように全てにおいて優秀ではなかった。これといって秀でているところも、もちろんなかった。それを隠すために目で彼に哀願したのだが、彼は「今さらだろう」と耳元でささやいた。それを受けてシモが驚いた顔で僕を見たのと同時に、イェンスが口を開いた。

 「クラウスも特別コースで、ドーオニツでは最難関の学校の出身です」

 イェンスが口を閉じる前に僕は勢いよく首を横に振って否定し、気恥かしさに埋もれかけながらも必死になって反論した。

 「僕が特別コースに入れたのは全くの幸運でした。苦手な項目がいくつもあったにもかかわらず、進学を決める試験の時に運良くそれが出題されなかっただけなんです。それに勉強も熱心にしてこなかったため、修士課程では大変苦労をしました。僕よりずっと優秀な人材がたくさんいるのを目の当たりにしてきただけなんです」

 しかし、シモには僕の言葉が届いていないのか、彼は天井を見上げたままつぶやいた。

 「特別コースの奴らがいるとは……。しかも一人は国立中央アウリンコ校だと……? くそ、なんでその情報を見落としていたんだ!」

 「お前たち特別コースの奴らは、十八歳までに大学院の修士課程までを終えるんだろう? 俺たちは高等コースの出身だが、それでも相当きつかったんだぜ」

 赤信号で車を停止させたホレーショが、当惑した表情で僕たちを交互に見つめた。

 高等コースとは、十八歳までに大学の学士課程を修了するコースである。さらに通常コースといって、十八歳までに高等学校教育を修了するコースがあるのだが、それがもっとも一般的であり、もちろん国立の大学や私立の大学に進学することができた。

 どのコースの生徒も高校までは学費が無料であり、高等コースが大学のみ学費免除、特別コースはさらに大学院の修士課程までが学費免除される規定となっていた。つまりイェンスと僕は、受けられた教育全ての学費が免除されていたのである。

 シモが前を向いたまま、独り言のようにつぶやいた。

 「頭脳明晰で身体能力も高い。そして今のところ、お前たちに嫌なところが見受けられない。ユリウス将軍はお前たちの中に何かを感じ取ったのだな」

 それを聞いたホレーショが僕たちを一瞥すると、シモに顔を近付けてささやいた。

 「でも、わざわざ用立てて彼らと会うには理由が足りなさすぎる。貴族や大臣のご子息、著名人ならまだしもだ。そこがわからず不思議なんだ」

 その言葉にシモが僕たちを見つめた。イェンスも僕も彼らにかける言葉が見つけられず、ただ無言で彼らを見つめ返す。信号が変わって周りの車が動き出すと、シモとホレーショは何も言わずに前を向いた。

 僕たちが異種族と関わりがあり、そのことで能力に変化が起こったことは、ユリウスとの約束が無くとも普通の人間に打ち明ける気にはなれなかった。それは不測の事態を避けたいからなのだが、それが周囲との軋轢を生むのであれば、結局はどちらでも同じことなのであろう。現に、狭い車内は見えないカーテンで仕切られているかのように静まり返っていた。またしても振り出しに戻ったのだ。

 車は旧市街にまで来ており、内洋側の近代的なビル群から建設当時の街並みへと景色が移ろいでいた。どっしりとした重厚感あふれる建物が立ち並んでいるのだが、よくよく見ると外観は建設当時のデザインであっても外壁に最新の工法と建材とを使用したものもあり、現代の技術が歴史ある古い建物を力強く支えているようである。しかし、車内は空間が区切られたかのように交わりが無いままであり、沈黙というよりは気まずさが場を支配していた。

 おそらく、もう少しでユリウスのところに到着するのであろう。しかし、このままの状態で到着することに、僕は抵抗を感じていた。彼らと僕たちは異なるのだから、隔たりも仕方ないと簡単に結論付けるのは、ただ単に考え抜くことを放棄しているだけではないか。

 僕は目的地に着くまでに、車内の雰囲気を少しでも和やかにできないものかと思案していた。しかし、ここでも相変わらず不器用さが際立ち、陳腐な発想しか思い浮かばずに焦りばかりが募る。

 懸命に会話の糸口を探っていたその時、不意に聞き覚えのあるイントロが耳に入った。すぐさま懐かしさが込み上がり、ラジオに耳を澄ませる。それは僕が子供の頃によく観ていた、好きなアニメ番組の主題歌であった。

 アニメは祖母のいるタキアで製作されていたものなのだが、当時ドーオニツでも放映され、絶大な人気を誇っていた。それに影響された僕は主人公の強さにあこがれ、よくその真似をしては当時の兄にちょっかいを出していた。兄は勉強やら何やらで忙しかったのだが、僕にわざわざ合わせるため、暇を見つけては一緒にアニメを観てくれたのである。

 「この歌、懐かしいなあ。子供の頃大好きでよく観ていたんだ」

 僕はイェンスに話しかけると、サビの部分を口ずさんだ。それを聞いたイェンスが朗らかな笑顔を添えて言葉を返した。

 「僕も好きだったよ。両親が厳しくてなかなかアニメ番組を見せてくれなかったのだけど、僕は学校の寮に寄宿していたからね。その、僕は特別コースだったから個室だったんだ。だから小遣いを貯めてパソコンからテレビが見られるようにチューナーを買い、こっそり部屋で観ていたんだよ」

 イェンスはそう言うと同じように小声で口ずさんだ。

 彼もこのアニメを観ていたのは意外であったのだが、また一つ彼と共有できる話題ができたことは嬉しかった。しかしもう一人、意外な人物が僕たちに話しかけてきた。

 「お前たちもか。実を言うと、俺も当時大好きでよく観ていたんだ。コミックスも全巻揃えている。まあ、学校の授業やら稽古やらで忙しかったのだが、いい息抜きだったさ。シモはさすがに知らないだろう?」

 「……それぐらい知ってる。かなり人気だったからな。俺は学生の頃に友だちとその原作が載っているマンガ雑誌を貸し借りしていたんだ。アニメのほうはよく知らないが、そもそも俺は学業に時間を割いていたから、テレビなんてニュースと教養番組以外ほとんど観てなかったぞ」

 シモの口調は内容とは裏腹に朗らかであった。

「アニメなんて一週間の中の、たった三十分じゃないか。それぐらいの時間でロスしたと悔やむほど俺はさぼっていなかったぜ」

 ホレーショがやや拗ねた口調で返す。僕は思いがけずもたらされた好ましい雰囲気を、貪欲につかまえようとした。

「あの、僕が子供の頃、そのアニメに出てくるキャラで……」

 僕の他愛もない思い出話にイェンスが花を添えた。

「それなら、その後に登場する……」

 彼もまた、当時気に入っていたそのアニメのキャラクターについて話し出した。するとホレーショがどこで得たのか、一般的にはあまり知られていないそのキャラクターの設定を説明し、さらにはアニメの世界観を手短に語り始めた。僕はすっかり忘れていたこともあり、新鮮な気持ちで彼の説明に聞き入っていたのだが、そこにシモまでもが知識を披露して会話を膨らませたものだから、車内の雰囲気は急に盛り上がっていった。

 雲の隙間から太陽の光が差し込み、路面が徐々に乾き始める。中心部に入り、ますます警察官や建物を警備する人たちの姿が多く目に付く。外の緊張感はさすが世界の中心部の、さらに中心に近付いているだけのことはあり、非常に物々しい雰囲気であった。しかし、車内は打ち解けた雰囲気を保っており、僕たちはアニメの話題から流れて日常生活について雑談を交わすまでになっていた。

 シモもホレーショも、万一の事態に備えて休日でもなるべく飲酒は避けているのだという。

「俺はさらに健康と体形を維持するため、食生活にはかなり気を使っている」

 シモはそう言うとホレーショをわざとらしく一瞥してから付け加えた。

 「こいつは違うがな」

「たまにはいいだろう?」

 ホレーショの言葉を聞いてイェンスが事情を尋ねると、どうやら彼は甘党のようであった。特にドーナッツやマフィンなどに目が無いのだという。僕は彼が美味しそうに甘いものを食べている姿をつい想像してしまい、思わず口元をにやけさせた。

 「お前たちは本当の美味しさを知らないんだ」

 ホレーショは運転しながらも強い口調できっぱりと言い放った。彼はさらにアウリンコのどこそこのお店のマフィンが美味しいだのと講義を始めたので、イェンスも僕も熱心に耳を傾ける。そこにシモが笑いながら「もうすぐ着くぞ」と言ってホレーショの話を打ち切ろうとしたのだが、ホレーショは「これだけは言っておきたい」と前を見ながら力強く話し始めた。

 「今日渡った橋から少し離れた場所にあるお店のドーナッツは、あの味を知らないでいると人生を損していると言っていいほど美味いんだ」

 僕は鍛え抜かれた彼の体に、ドーナッツの成分がいったいどれほど含まれているのかを想像しただけで愉快な気分になった。ほんの一時間ほど前まで、彼がこのような一面を持っていることなど想像さえできなかったではないか。

 車が信号で止まった。その途端、ホレーショが神妙な面持ちで僕たちのほうを見て言った。

 「美味い物が多かったら、俄然人生が楽しいだろう?」

 彼の言葉に大きくうなずいて同意を示す。ホレーショの瞳は澄んでおり、僕はその眼差しに彼が本来持っている無垢さを見つけたような気がした。

「あなたのおっしゃっていることはもっともです」

 イェンスの言葉にホレーショは「当然だ」と凄んで返した。シモはその様子を見て笑っていたのだが、信号が変わるなり落ち着いた口調で僕たちに話しかけた。

 「奥に見える、あの信号を過ぎて二つ目の道路を左折して少し走れば、ユリウス将軍のご邸宅だ」

 彼はそう言うとインターカムで誰かと連絡を取り始めた。まず、車のナンバーと彼の名前を伝え、それから間もなく車が到着するため、ゲートを開ける準備をしておいてほしいと続ける。やがて彼の言葉どおりに車が道路を左折すると、歩道の途中から左手に高い塀が続くようになり、遠くで警備員数名がこちらに体を向けながら立っている様子が飛び込んできた。

 車は警備員の前で一旦停車してからゲート前へと進んだ。ホレーショが一人の警備員から口頭式身分照会を受け、続けてシモも身分照会を受ける。シモが警備員の男性と話している間、ホレーショが僕たちに小声で「お前たちの身分照会は、俺たちが身分を保証していることになるから不要だ」と伝えてきたので、僕たちは後部座席でおとなしく一連の流れを見守ることにした。

 ゲートがゆっくりと開かれていく。車内にあった時計を確認すると十時四十四分と表示されており、公園でのやり取りを差し引いても一時間半以上かかったことに僕は驚いた。しかし、ユリウスと再会する喜びから、僕の心はあっという間に浮き足立っていった。その夢のような瞬間は目前であった。

 ゆるやかにカーブを描いた道を車がかなりの低速度で進んでいく。二階建ての白い建物が徐々に姿を見せる。道の両側には手入れの行き届いた庭園があり、東屋らしき小さな建物もあった。空に晴れ間が広がっていく中、僕たちはとうとうユリウスの家へと到着した。

「着いたから降りろ」

 シモの言葉で車を降りる。イェンスと僕は並んで立つと、目の前に威風堂々と立ちそびえて白い外壁が美しい、それでいて少し古風な作りの外観を見回した。

 二階の正面にはバルコニーがあり、目に見える全ての窓が広く取られ、その窓枠には美しい装飾が施されている。玄関前は広く、そこから五段ほどの階段があるのだが、僕たちが立っているところを含めて白色の敷石が広く敷き詰められていた。汚れの目立つ色をこうも神々しく輝かせているのだから、普段から手入れと清掃に気を配っているのであろう。その整然さとした美しさにため息がもれる。ホレーショが車を停めた場所もかなり広く、車数台がゆうに停められるほどの余裕があったため、ドーオニツの中でもつつましい家庭で育った僕にとって目の前の光景はまさに別世界であった。

 シモがスマートフォンでユリウスと連絡を取る。ホレーショがその様子を横目で見ながら僕たちに話しかけてきた。

 「間もなくユリウス将軍がいらっしゃる。お前たち、楽しんで来るんだぞ。帰りも俺たちが送るから、また会おう」

 彼は僕たちに手を差し出していた。その表情は自然な笑顔であり、イェンスと僕は彼の優しさに触れたことに感激しながら彼と握手を交わした。

「ありがとうございます。お手数ですが帰りもお願いします」

 僕たちを冷たい風が取り囲んでもなお、ほのかなあたたかさが僕から離れることはなかった。電話を終えたシモが実にいい天気になった、とつぶやきながら空を見上げる。僕も誘われるかのように澄んだ青空を見渡したその時、玄関の扉が開く音が聞こえた。

 イェンスと僕が素早くその方向に体を向けたのと同時に、シモとホレーショが無言で僕たちの背後へと回る。ゆっくりと開かれていく扉の奥に目を凝らしていると、ユリウスが出て来て僕たちをあっさりと見つけ、優しい笑顔で出迎えてくれた。

 「クラウス、イェンス。君たち、よく来てくれたね。シモ、ホレーショ、彼らを届けてくれてありがとう。すまないが帰りも頼む」

 ユリウスは階段を下りて僕たちの前に立った。シモとホレーショの様子が気になったので振り返ると、彼ら後方で整列しながら深々と頭を下げていた。

 「さあ、遠慮せずに中へ入るがいい」

 ユリウスの言葉にイェンスが先に階段を上がっていく。続けて僕も中に入ろうとしたのだが、シモとホレーショがどうしても気になり、再度振り返って彼らの様子を伺った。すると彼らは顔を上げており、僕と目が合うなり口元に笑みを浮かべ、軽くうなずいてみせた。それを受けて僕もまた笑顔で応え、イェンスも僕の隣で彼らに微笑みかける。冷たい風が止んで澄んだ空気だけが漂う中、僕たちは彼らに見送られながら静かに中へと入っていった。

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