第7話

 十二月に入る頃には統合後の体制もほぼ細部まで決まり、新体制へと移行すべく、さらに準備が加速していた。その傍らに日々の業務があり、僕はムラトの事務所とギオルギの事務所とを慌ただしく往復していた。イェンスと僕は間もなく始まる外殻政府軍が所有する水処理施設への輸入通関手続きの件で、近々CX‐1地区にある輸入者の営業所に打ち合わせに行くことになっていた。

 家具と雑貨の輸入通関手続きは順調で、すでに安定した流れを見せていた。税関検査に該当して雑貨を検査場に持ち込んだり、X線検査に指定されてコンテナごと大型X線の検査を受けたりもしたのだが、それを含めても滞りなく進んでいた。

 しかし一方で、税関に行くとベアトリスが僕を見つけては話しかけるようになっていた。彼女は遠慮がちながらも僕に仕事以外の話題も振ってくるのだが、僕はいつも忙しい振りをしては簡単な受け答えで済ませ、その場を逃げるように立ち去っていた。彼女は確かに非常に整った顔立ちで、礼儀正しさと聡明さも持ち合わせていた。だが、僕の不器用な性格は相変わらず残っていたため、彼女に対してなんとなく気後れを感じていたのである。

 ある時、僕が思い切ってそのことをイェンスに伝えると、彼は吹き出すように笑った。そして僕に同情するのではなく、僕がそのことに対してどう感じているのかを興味深そうに探る目つきで僕を見た。その彼の様子から、僕はそれまで聞いていた彼の気持ちがようやく掴みかけていた。僕が人目を惹く外見をしているとはどうしても思えないのだが、しかしながら現実問題として、たった一人の女性の対応にさえ四苦八苦しているのである。

「君が思ったとおりにするといいよ。あれこれ思案したって疲れるだけさ」

 イェンスは助言をくれると、すぐさま僕の肩を抱いて「君ならすぐうまく立ち回れるようになるさ」と付け加えた。

 彼のあたたかい助言のおかげで、ようやく前向きに対応しようと決意する。些細なことでも次につなげる変化なのだと半ば言い聞かせると、ベアトリスとのことで無難かつ的確な対応が思い付くことを願った。

 十二月の最初の月曜日は、水処理施設の輸入通関手続きの件で、輸入者であるノルドゥルフ社をイェンスと二人で訪問する予定となっていた。北風が冷たく吹くその日は快晴で朝の冷え込みが一段と厳しく、タキアの祖母が編んでくれたマフラーをしっかりと首元に巻きつける。市販品ではないため、気軽に使用することに最初は抵抗もあったのだが、結局はほぼ毎日愛用していた。

 イェンスの住むアパート近くまで行くと、彼はすでに僕を待っていた。軽く挨拶をして話しながら並んで歩く。澄んだ空気が冷たくほほにささり、息が白く吐き出される。

 寒さで思わず背中が丸くなると、後ろから走って来た車が僕たちの目の前で停まった。その車に見覚えは無かったのだが、僕たちはほぼ同時につぶやいた。

「オールだ」

 案の定、彼であった。助手席には女性が同乗しているのが見えた。以前、写真で見た彼の恋人であろう。オールは運転席から降りるなり、「後ろに乗れよ」と僕たちに声をかけた。僕たちがお礼を言いながらすぐさま車に乗り込むと、オールは笑顔で振り返って彼の恋人を紹介し始めた。

「ソフィアだ、以前話しただろう。ソフィア、彼がイェンス、こっちがクラウスだ」

 ソフィアはオールの言葉どおり美しく、知的な印象を受けた。彼女は目を大きく見開いたかと思うと、弾けるような笑顔を浮かべて僕たちを見た。

「初めまして、ソフィアよ。オールがいつもお世話になっているわね、本当にありがとう。あら、本当ね。彼が言うとおり、あなたたちってハンサムだわ。確かにあなたが言うとおり、天は二物も三物も偏って与えるのね」

 ソフィアの口調は朗らかであり、その間も彼女がオールの手を握っていたのを僕は見ていた。そしてオールの眼差しが彼女へ対する深い愛と喜びで満ちていたので、二人の間に強い信頼関係と愛が育まれているからこそ、あえて和やかな雰囲気を出すために彼女が冗談を言ったのだと考えた。

「だろ? ま、そりゃ、このガキどもよりは劣るかもしれないけど、俺もそんな悪くは無いぜ」

 オールの口調は底抜けに明るかった。ソフィアがそんなオールを見て優しく微笑む。その優しい瞳は、オールに対する信頼と愛情に満ちているようであった。

 ソフィアはオールが運転している時はもちろん手を離すのだが、信号で停車するたびにオールの手を握った。そのソフィアを見るオールの眼差しに、僕は清らかな美しさを見出していた。イェンスが二人の様子を受けて「素敵だな」と嬉しそうにささやく。その言葉に僕はまたしても全力で同意し、笑顔でオールに話しかけた。

「幸せそうじゃないか、オール」

 僕の言葉にオールは一瞬沈黙した。その沈黙の意味を推し量っていると、彼は前を向いたまま、少し緊張した声色で言った。

「俺たち、結婚することにしたんだ」

 その時、ソフィアの手がぎゅっとオールの手を握り締めたのがわかった。表情はしかと見えなかったのだが、彼女が醸し出す雰囲気から幸福感が漂っているようである。イェンスと僕は後部座席で大きな歓声を上げた。

「やったな、オール。おめでとう!」

「二人とも末永くお幸せに」

 オールは珍しく照れているようで、控えめに「ありがとう」とだけ言った。続けてソフィアが振り返って嬉しそうに「ありがとう」と言ったのだが、その視線はすぐさま隣の愛する人の横顔へと向けられた。

「付き合い始めてまだ半年も経ってないけど、彼女と一緒にいると未来がバラ色に見えるんだ。俺、彼女をもっと幸せにしたいんだよ」

 いつものオールらしからぬ、真剣な口調で伝えられた誓いの言葉には初々しい幸せが上乗せされていた。ふとイェンスを見ると、非常に優しい表情でオールとソフィアを見つめている。どうやら僕たちはほんの数分の間に、他人を心から愛するという喜びから祝福を受けた人たちから美しい贈り物を与えられたらしかった。幸せな気持ちというものは、受け手に抵抗が無ければ、こうもあっさりと伝播するのであろう。

 事務所に着いたので車を降りる。ソフィアが「またね」と手を振り、その奥でオールが今までにない凛々しい表情で僕たちに話しかけた。

「おまえらも結婚式には呼ぶから、そん時は来てくれよ」

 傍らでソフィアがはにかんで僕たちを見上げる。僕たちは喜んで出席すると返し、彼らを見送った。車はすぐに見えなくなったのだが、僕たちの心には美しい余韻が残っていた。

「オールが本当に美しかったな」

 イェンスがしみじみと言った言葉に僕は心から同意した。オールとソフィアに会うまでは寒さで丸まっていた背筋がぴんと伸びており、あたたかい心地良さが全身を包み込むようであった。

「エトネとイリーナに会った時に感じた、あの美しさを感じたよ」

 僕はエトネの穏やかな笑顔とイリーナの純粋な眼差しを思い出していた。

「やはり君もそうだったか。僕もあの美しさに迫るものを感じ取ったんだ。きっとオールとソフィアは長く、互いに愛と感謝を贈り続けるのだろう。それがどんな形であれ」

 イェンスはそう言うと空を見上げた。冬の空はどこまでも美しい群青色の輝きを放っており、寒さに震える人間をからかうかのように冷たい空気が風となって動き回っていた。

 イェンスは今もエトネと連絡を取っており、彼女もイリーナも特に大病することなく穏やかに過ごしていることをつい先日話してくれていた。エトネの澄んだ瞳が空の色と重なり、あの色とりどりの花に彩られた彼女たちの家とあの時のやわらかい雰囲気を、あたたかい気持ちで思い返す。穏やかな気持ちというのは、こうも居心地良く優しいものなのであろう。

 僕たちがムラトの事務所前に到着すると、事務所から出てきたギオルギと鉢合わせた。彼は引越しさせる什器を確認しに来ていたようであった。

「おはよう、イェンスにクラウス。今日は例の輸入案件で、午前中からCX‐1地区に行くんだったな。しっかり頼んだぞ、気をつけて行って来い」

 ギオルギはそう言うと朗らかな笑い声を上げて去っていった。慌ただしい中でも、陽気さを失うことなく僕たちを気遣う彼の態度は頼もしかった。このようなささやかな出来事の中にも、統合が成功する布石が散りばめられているのであろう。

 事務所の中にイェンスと一緒に入り、今日の訪問のために用意していた書類を机の引き出しから取り出して鞄に入れる。その時、ローネがちょうど出社してきた。

「おはよう。あなたたち、今日は例の打ち合わせの日だったわね。もう行くの?」

 ここに来るまで寒かったのであろう、彼女の鼻先は少し赤みを帯びていた。

「おはようございます。そうです、この後イェンスも書類を取り行ったら、そのままあちらの社有車で向かう予定なんです」

 僕が言葉を返すと、彼女はかじかんだ手をごしごしこすりながらイェンスを見た。彼はそんな彼女を見て、親しげな表情で話しかけた。

「おはようございます。実に寒そうですね。年の瀬で何かと忙しいうえに引っ越しもある。体調を崩さないといいのですけど」

 その言葉は確実にローネの心を捉えたようであった。

「あらイェンス、相変わらず優しいのね! うちの旦那にも聞かせてやりたいわ。急に寒くなったのに、冬用のコートも私が用意しないと自分からは出さないのよ。そのうえあの人ったら、最近私が忙しそうにしていたから、一緒に話す時間が少ないとかで拗ねているの。彼は家事も育児も良くやってくれるのだけど、それは私と話す時間を作るためなのよ。でも私だって疲れたら、ただ家族とゆっくりしてくつろいでいたいのに、彼ったら気分転換を兼ねて家族旅行に行こう、私の行きたいところに行って好きなものを食べてのんびりしようって言ってくるの」

 ローネは少しうんざりした表情で言ったのだが、僕は実のところ、冬服の件以外に彼女の台詞のどこに苛立ちを感じる要素があるのかがわからなかった。彼女の目に怒りの色は少しも見受けられず、それどころか彼女は夫から深く愛されているようにさえ思われた。

「相変わらず仲睦まじいんですね」

 イェンスが微笑みながら言葉を返す。

「そうかしら。私がいらいらしたものだから、顔色窺うように今朝ドリップコーヒーを淹れてくれてたけど、それだけじゃあやっぱり物足りないわね」

 ローネはそう言うとおどけた表情で僕を見た。言葉とは裏腹に朗らかなローネに僕はますます戸惑い、彼女の本心がどこにあるのかで思い悩む。こういった場合、どのように言葉を返せば適切なのか。

「……やはり物足りないんですよね」

 僕がつぶやいた言葉にローネは何か勘付いたらしく、すまなそうに言葉をかけた。

「クラウス、冗談よ。夫には本当に感謝しているし、深い愛情も感じているわ。コートの件は確かに腹正しかったのだけど、正直に言うと彼が拗ねたり、私の気分を盛り上げようと提案してくれたことが嬉しくて、なんとなく朝から惚気たかったの。でも、はっきり言うのが単に照れくさかったのよ」

 ローネは少女のようなはにかんだ笑顔を浮かべた。しかし、僕は彼女の会話の意図を読めずに困惑したことが申し訳なくて、「気が利かずにすみません」と素直に彼女に謝った。

「いいのよ、もともと大した話じゃないもの。私が変にこじらせて話したから、あなたは混乱したのね」

 ローネはいつものように朗らかな笑顔を浮かべ、「気にしないで」と付け足した。

 イェンスは僕たちのやり取りを微笑んで見ていた。その落ち着きから、彼は先ほどのローネのような、女性の複雑な言い回しや機微も見抜けるほどの思慮深さを持っているのだと考えた。だが、二年間ローネと一緒に働いてきたこの僕も、彼女の言葉が冗談であることぐらい見抜いても良さそうである。きっと僕は人生経験が浅いため、ささいなことも真剣に受け止めて適切な対応を見誤り、そういったことからイェンスほどの直感も磨かれなかったのであろう。僕の変化が思っていた以上に鈍重であることに肩を落としながら入り口に向かうと、ティモが出社してきた。

 ティモはイェンスの同僚で、事務所の統合にあたって輸入通関手続きの仕事を担当することになり、ローネから仕事を教えてもらうためにこの事務所へと通っていた。明るい金髪が特徴的な彼に「行ってらっしゃい」と見送られながら事務所を後にする。

 外に出るなり、イェンスが朗らかな口調で話しかけてきた。

「クラウス、君はローネがわざと言ったことに気付かず、それでいて君が感じていた彼女の矛盾した言動に戸惑って言葉を返せずにいたのだろう?」

 彼は僕の心の動きを的確に捉えていた。僕は黙ってうなずき返すと彼を見た。

「君は本当に純粋で、無垢な子供のような魅力を放つのだね。君はローネの言葉をそのまま真っ直ぐに受け止めようとした。でも、自分の中で直感が湧いて、彼女は言うほど困っていない。むしろ喜んでいるようにさえ思えた。そのことを君はすぐに確信したのだけど、それをどう穏やかに表現するかで悩んでいたように見えたんだ。君の真っ直ぐな眼差しは、変化を通じてますます魅力的になっていくのだね」

 僕は彼の言葉に深い気付きを発見して驚いていた。彼の指摘どおり、僕はどう言葉をかけたら適切であるかがわからずに悩んでいた。ローネの矛盾した言動を軽く流し、穏やかな言葉で会話に馴染みたかったのである。戸惑いの原因が判明して、肩の力が抜けていく。だが、ローネとある程度親しい間柄であったのにもかかわらず、冗談にさえ気付けなかったことは果たして褒められることであろうか。

 僕がそのことを率直にイェンスに打ち明けると、彼は僕の肩に手を回して歩きながら答えた。

「言っただろう、クラウス。君は純粋さがある。素直なんだよ。君は相手に対し、最初から疑ってかかるということがあまり無い。しかし、お人好しという訳でもない。自分にとって好ましくないものから離れ、近付かせない強い意志も持っている。そのことが君を美しく存在させているから、僕は君に憧れを抱いているんだ。だから、君のそういったところは長所だと僕は考えている」

 イェンスの告白は、あっという間に僕を喜びと感激とで満たしていった。この僕の短所にもそれなりの価値があるのだ。僕はひとまず「ありがとう」と返したのだが、絶え間なくあふれだす感激と喜びを放っておくことができなかった。

 僕がたった今感じているこの気持ちを的確にイェンスに伝えるためには、どのような表現が的確なのか。しかし、どうしても貧弱な語彙力だけが席巻し、浅い自分が悔しくてつい無言になる。僕がもがいているのを察したのか、イェンスが立ち止まって僕の名を呼んだ。

「クラウス」

 その声に反応して彼を見ると、あたたかい眼差しが僕に向けられていた。

「君と出会ってから、僕は君のその素直さに幾度となく救われてきた。おかげで僕は疑心や悪知恵で凝り固まった頭をほぐすことができ、心から笑えるようになったんだ。君には本当に感謝している」

 その瞬間、今までにない幸福感が僕の全身を包み込んでいった。

 僕はイェンスと出会ってから、それまで一生無縁だと思っていた言葉を何度も彼から贈られていた。僕こそがイェンスに憧れ、救われてきたのである。彼の存在はもはや親しい友人というものだけに留まらず、僕自身を奮い立たせ、高き方に挑み進もうとする糧にもなっていた。思えば、殻に閉じこもりがちであった以前の僕が、今や未知の世界に挑む勇気を持つようになったのも、イェンスが殻のすぐ外で僕に世界の美しさを教えてくれたからであり、辛抱強く励ましてくれたからではないか。

 しかし、それでも僕は「ありがとう」としか返せず、ただ立ち尽くすだけであった。いったいどんな言葉を返せば、それらの美しい言葉に並ぶことができるのであろう。今まで読んできたいろいろな本にさえ、彼の言葉に敵うような気品あふれる言葉があったであろうか。

 彼は僕が言葉に詰まっているのを理解し、「気にしないでくれ」と微笑んだ。それから書類を鞄に入れたらそのまま事務所の車を取りに行くので、ここで待つよう告げて事務所の中へと入っていった。

 イェンスが見せた気遣いは、またしても僕にあたたかい感激をもたらした。彼との対話で感情の高ぶりから抱擁しあったことも確かにあったのだが、普段は談笑し、一緒に空を見上げて過ごすなど友情の表現は控えめであり、二人とも無言でいる時間も少なくなかった。それは僕が雄弁で無いことも一因なのだが、イェンスがその瞳に実に美しい言葉を静かに浮かべるので、僕が沈黙を破って言葉を飾り立てて話す必要が無かったからである。そのため、不器用な僕は思っていることを表現するにしても、無骨で野暮ったい言葉で済ませていた。お互いに冗談や軽口を言い合っても、常に彼の優しさを感じていたため、僕は語彙力の無さを恥ずることなくいられたのである。だが、自分が本当に感じていることをぼんやりとした表現で彼に伝えることは、今や大切な友情をないがしろにしているように思えてならなかった。イェンスが彼の過去を告白してくれたあの夜ぐらいしか、僕は自分の意見を彼にきちんと伝えようとしなかったのではなかったか。

 僕はようやく、何から何まで彼の好意に甘えていたことに気が付いて愕然とした。なぜ、あの晩にできた努力をあっさりと捨て、稚拙な対応で済ませてしまったのであろう。しかし、そんな僕を彼は評価してくれた。僕がうまく言い表せずにまごついていることを察したあげく、あたたかい言葉を優しい眼差しに添えて返してくれたのだ。矛盾の多い僕を受け入れてくれたことに対し、改めて彼に対して深い感謝と尊敬の念が湧き上がる。

 やはり、イェンスにきちんと感謝の気持ちを伝えよう。不器用という薄い言い訳を遠くに放り投げ、あれこれ感謝の言葉を練りながら彼が来るのを待つ。数分の後に、イェンスは車を僕の目の前につけてやってきた。僕が助手席に座るなり、イェンスが「行きは僕が運転するけど、帰りは君が運転したかったらするがいい」と話しかけてきたので、「ありがとう、ぜひお願いしたい」と彼の申し出を喜んで受け取った。そして今がまさに絶好の機会であった。

「イェンス――」

 彼が車を出す前に感謝の言葉を伝えようとしたその時、ギオルギの事務所から女性が出てくるのが見えた。その女性は誰かを探しているのか、しきりに視線をあちこちに向けている。それを見るなり、イェンスが「急ごう」と言って車を走らせた。僕は彼女のことを知っていたので忍ぶように笑い、「君は殿堂入りだからな」と彼を揶揄した。イェンスはわざと困った顔でため息をついたのだが、すぐに「今に君になびくさ」と意地悪っぽく横目で笑った。僕が「君に敵うわけがない」とあっさり彼に勝負を譲ると、とうとうお互いに吹き出すように笑い声を上げた。

 くだんの女性はギオルギの事務所でずいぶん長く働いている、ベテランのオランカであった。奔放な性格で、常に派手な格好をしては色香を漂わせ、自らの私生活を自慢するような人柄であるらしい。彼女はイェンスが事務所で働き始めてすぐに彼に近付き、頻繁に話しかけては食事に誘ってきたのだという。その頃の彼は仕事にも新しい環境にも慣れておらず、戸惑いから精神的にも余裕が無かったそうなのだが、彼と年齢が二回り以上も離れている彼女の申し出が労いからくるものでは無く、何かしらの下心に基づいていることには気が付いたため、適当に理由を並べてはかわしてきたらしかった。

 確かに僕がギオルギの事務所を訪れた際、イェンスがオランカから話しかけられても心のこもっていない空返事をしているのを見たことが幾度となくあった。最初の頃はその光景を目の当たりにしても特に気にも留めなかったのだが、何度か見かけるうちに、いつもの彼らしからぬ態度がどうにも不思議でならなかった。そこで深く考えもせずにローネにそのことを尋ねると、彼女は「この事務所でも有名な話よ」と言ってその背景を教えてくれたのであった。

 オランカはベテランであるために仕事はこなすのだが、仕事に対する慣れと長い在籍年数から勤務態度にまでその奔放さが及んでおり、ギオルギの注意さえも聞き流すらしかった。そのことでとうとう堪忍袋の緒が切れたギオルギから厳しく咎められた際、感情的に反論したのがきっかけで周囲から孤立してしまったらしい。そこにイェンスが入社してきてオランカの関心を一気に引いたようなのだが、イェンスは最初から一貫してオランカにつれない態度を取り続けた。そこでようやく彼女も察して彼に絡む頻度を少なくしていったものの、それでも時折彼に秋波を送っては周囲を呆れさせているらしかった。

 その話を聞いて以来、オランカがイェンスに絡んでいるのを見るたびに僕は彼に同情していた。しかし、彼と親しくなった今となっては、「たまには一緒にご飯を食べたらいいよ」とからかうネタになりつつあった。もっともイェンスも心得たもので、彼女の機嫌を損ねることなく彼女を仕事に戻らせ、それでいて距離を保つ方法をも習得しているらしかった。同じ事務所に居ても彼自身が気持ちよく仕事ができるよう、絶え間なく創意工夫を凝らす彼の熱心さに僕は敬意を覚えるほどであった。

 澄み渡った空が気持ち良いのか、イェンスが楽しげに運転する。車は順調に進んでいたものの、C地区に入るあたりから徐々に通行量が増えていった。時間に余裕を持たせているとはいえ、万が一遅れることがあってはならないと多少遠回りでも比較的空いている裏道へと逸れる。少し走ったところで、見覚えのあるカフェの前を通り過ぎた。そこはミアと何度か昼食をともにした、あのカフェであった。

 懐かしさよりも遠い過去を見ているような不思議な感覚に捉われたのだが、最後に電話をかけた夜以来、ミアとは全く連絡を取り合っていなかった。そういえば、彼女は元気にしているのであろうか。

 僕はそこから物思いにふけりそうになったのだが、大切な何かを忘れていることようやく気が付いた。ああ、そうだ。僕はイェンスに対する僕の感謝の気持ちをまだ伝えていないではないか。僕は彼の運転の邪魔にならないように頃合いを見計りつつ、どのように彼に伝えようかと思案を始めた。

 イェンスは前を向いて運転していたのだが、僕が何度か彼を見ていることに気が付いたらしく、横目でどうしたのかと尋ねてきた。僕は「ずいぶん間が空いてしまったのだけど」と前置きすると、イェンスが事務所に車を取りに行っている間、僕が彼から言われて感じたことを正直に話した。

 彼の言葉が本当に嬉しかったこと、そのことをすぐさま言葉で伝えずに後悔したこと、そしていつも彼に甘えてきたことを感謝の言葉を添えて彼に伝える。

 僕の告白は最後まで取りとめの無い話し方であったのだが、イェンスが前を見ながらも優しくうなずき、微笑んだ横顔を崩すことが無かったので僕の心情を理解してくれたのがわかった。彼は信号で停車すると僕を見てあたたかく微笑み、「間が空いたとしても、君が率直に言ってくれたことを心から嬉しく思う」と言った。その返答がいかにも彼らしかったため、僕は彼との友情に感謝しながら心を込めて伝えた。

「ありがとう」

 僕の言葉にイェンスは微笑んで応えた。その時、信号が青になったので彼は車を走らせたのだが、車内の雰囲気がやわらかかったため、少しだけ訪れた沈黙も僕には心地良かった。

 ノルドゥルフ社の事務所が入っている建物周辺に到着した。前もって指定された駐車場に車を停め、建物の中にある事務所前にたどり着く。受付を済ませるなり、今回のプロジェクトのサブリーダーであるハンスが僕たちを出迎え、応接室へと案内した。そこにやや遅れて、若い男性と眼鏡を掛けた男性二人とが入室してきた。

 若い男性はフランツと紹介され、すでに電話でも何度かやり取りをしていたため軽く挨拶を交わしたのだが、もう一人の眼鏡を掛けた若い男性にイェンスも僕も心当たりがなかった。そこでその男性にも自己紹介をしようとしたその時、ハンスが彼の紹介を始めた。

「彼はスーリャンというのだが、最近地方国からこのドーオニツ営業所に異動で来たばかりでね。今回のプロジェクトには参加していないのだが、ここドーオニツは地方国と比べてかなり特殊だから、ここの雰囲気や不文律に早く慣れてほしいと思って同席させることにしたのだ。私もフランツも政府の就労許可証で働いている地方国の出身で、いずれは国に帰る身だ。ドーオニツにはずいぶん慣れたが、やはりいろんな地元の人と交流して参考にしてもらいたいのだ。事務所内にもちろん生粋のドーオニツ人は数多くいるが、彼らとは少し異なる雰囲気をあなたたちは持っている。ぜひともお願いしたい」

 彼はそう言うとスーリャンという男性に目配せをした。スーリャンはやや緊張した面持ちで僕たちを一瞥してから、おずおずと挨拶を始めた。

「お会いできて光栄です。スーリャンと申します。説明のとおり、ドーオニツには三週間前に来たばかりでして、来る前にいろいろ知識を入れてきたのですが、やはり慣れないことだらけで驚いております」

 彼の首には政府から発行された顔写真入りの長期就労許可証がぶら下がっており、その黄緑色の模様が一見して新規滞在者とわかるようになっていた。ハンスもフランツも同様に許可証を下げているのだが、一年目を超えると緑色の模様へと切り変わる。この就労許可証は永住権を持たない在住者が、ドーオニツとアウリンコにおいて警察官などから求められた際に提示できるよう携帯が義務付けられているものであり、特に新規滞在者はなるべく目に見える位置に付けるよう指示されているものであった。

「慣れないと監視されているようで大変でしょう。常に自分が誰であるかを晒し続けているようなものですから」

 僕は控えめな口調でスーリャンに話しかけたのだが、反応したのはフランツであった。

「ええ。未だに慣れませんね、この許可証を常に携帯するというのは。私はここに来て間もなく二年になろうとしているので、ある程度の勝手がわかるようになりましたが、以前に携帯するのを忘れ、そういった時に限って運悪く身分照会を受ける必要が出て泡を食いました。それ以来、住まいを出る時は必ず首からぶら下げるようにしているのです。ドーオニツの特殊性を考えれば納得するのですけど、地方国にいるとここまですることは無いですからねえ」

 フランツが苦笑いを浮かべたので、僕もつられて苦笑いで応える。

「休日でも息苦しく感じるでしょうね」

 イェンスが彼らに問いかけると、スーリャンが特に大きくうなずいて返したのだが、すぐに青ざめた表情で慌てて否定した。

「それをわかっていてもなお、ここに配属されるのを志願したのですから。最長五年の長期労働許可だって憧れでしたし、ここで働けるのは光栄です。それにしてもドーオニツご出身の方はさすが、落ち着いていて振る舞いも上品ですね。では、打ち合わせの邪魔をいたしませんよう、配慮に努めます」

 スーリャンはそう言うと応接室の隅にあるイスへと移動した。ハンスが「早速だが始めよう」と言ったのを受け、フランツが今回輸入する海水淡水化装置と排水の膜ろ過装置のカタログ、そしてその輸入インボイスを僕たちの目の前に広げる。僕はその内容を注意深く見つめた。

 海水淡水化装置はかなり大型で、実際には前処理機器にあたるろ過処理装置とフィルターも一緒に組み合わせて使用するようである。排水の膜ろ過装置も、前処理機器にあたる凝集機器と膜ろ過設備を組み合わせるようで、一連の流れを正しく把握しようと彼らの説明を熱心に聞き入った。

 本体の一通りの説明が終わると、フランツが今回一緒に輸入される工具と予備交換部品だけのインボイスを取り出し、僕たちに手渡した。

「こちらの工具は、本社のエンジニアたちが設置時に応援として派遣される際に使用するものなのですが、設置終了後はこのままこのドーオニツ営業所で引き取るので、再輸出する予定はございません」

 イェンスと僕はインボイスを交互に手に取って目を通した。幾つか気になった貨物をイェンスと確認し、その場でフランツに質問する。すると、フランツが微笑みながら言葉を返した。

「かしこまりました、確認いたします。ただ、輸入までまだ日にちはありますから、すぐに質問をまとめる必要はありませんよ。後でいいのでご不明な点がありましたら、お気軽に電話でもメールでも良いのでお問い合わせください」

「ありがとうございます。確かにまだ日にちはありますが、なるべく早いうちに質問の有無を差し上げたいと思います」

 僕の言葉にフランツがうなずいて返す。その隣でハンスが壁に掛けられているカレンダーに視線を向けた。

「年末で多忙なのは重々承知ですが、先日もお話したとおり、来週の木曜日にアウリンコへ一緒に行って軍の担当者と産業総括省の担当者に会い、現場の状況を把握していただく件もよろしくお願いします。我が社の設備がアウリンコにある政府機関に初めて納品されるということで、管轄官庁の産業総括省の担当者が、スムーズな輸入通関手続きのためにもブローカー担当者を参加させたらどうかと提案したのです。メインリーダーのヴィルヘルムは今日もこの件でアウリンコに赴いているため不在ですが、すでに官庁の担当者にはブローカーの担当者二名が同行する旨を伝えてあるため、申請さえすればあなた方の交通許可証はすぐに発行されるはずです」

 彼の言葉にイェンスが丁寧な口調で答えた。

「その件も承知しております。正直に申し上げますと、現場を視察できることは今回の輸入をスムーズに進めるためにも、また御社の商品の理解を深めるためにも大変参考になります。改めまして、このような機会を設けていただきましたことに感謝しております」

「いえ、私たちも助かります」

 フランツが笑顔で返した。

「ヴィルヘルムもドーオニツ出身ですが、やはりアウリンコへ行く時にドーオニツ出身の人が多くいると心強いのです」

 それを聞いたハンスが真剣な様子でうなずいた。

「そうなのだよ、アウリンコの雰囲気はまた独特ですからな。アウリンコはアウリンコ人の他に、地方国から派遣された高級官僚や商社のエリートが多くて、なんといいますか……。私のような地方国出身の一般人には少々気後れしましてな」

 彼は照れ笑いを浮かべた。僕も彼の表情につられ、つい口元がほころぶ。

「ドーオニツの人はその点、きちんと教育を受けているから、一緒に行ってもらえると安心するのだよ。アウリンコに行くたびに、あの緊張感あふれる雰囲気に呑まれてしまい、ドーオニツへ戻った時にようやく解放された気分になる。あまり大きい声では言えませんがね」

 ハンスの正直な言葉に僕たちはつい笑ってしまった。ドーオニツ居住者ですら、アウリンコに行き慣れていない者は同じような気分を味わうことが多かった。外殻政府のおひざ元ならではの緊張感を苦手とする人は、決して珍しくはないのである。

「そのとおりなのです。ぜひお願いします」

 フランツの底抜けに明るい笑顔にスーリャンのはにかんだ笑顔が続いたので、イェンスと僕とで朗らかに「もちろんです」と返す。するとハンスが安堵した表情で「これで安心していられる」と言って笑顔を見せたので、僕はこの好ましい状況を喜んで受け取った。

 来週の木曜日に再度ここを訪ねてから、ノルドゥルフ社の三名と一緒にアウリンコへと向かう段取りをつける。打ち合わせも終わると、ハンスがフランツに話しかけた。

「そう言えば、応援のエンジニアたちの短期滞在許可証はいつまでに手配せねばならんのだ? もう申請をしていないと遅いはずなのだが」

 ハンスが言った『短期滞在許可証』とは、旅行者や地方国から仕事などの用件でドーオニツへと訪れる人のための、一か月を上限とした査証のことであり、事前に顔写真を添えて申請をし、審査を受ける必要があるのは言うまでもなかった。その申請が認められると赤い模様が入った許可証が交付されるのだが、短期滞在者はその許可証を絶えず身に付けるばかりでなく、必ずそれが見えるようにしなくてはならない規則となっていた。

 フランツが斜め下を見ながら口ごもってしまったのをイェンスが見かね、代わりにそっと切り出した。

「希望する到着予定日の少なくとも一か月前までに、最寄りの外殻政府の派出機関に申請が必要です。何事も無ければ、二週間ほどで顔写真入りの許可証兼査証が交付されます。もし、お手配がまだだったとしても、来年輸入してからの設置ですので今でしたら充分間に合いますよ」

 それを聞いたフランツが顔を輝かせながら言った。

「思い出しました! その件でしたら、ヴィルヘルムがすでにその手配の指示を十一月の中旬に済ませていました。おそらく今は地方国で政府機関の派出機関にそれぞれ申請を出している頃かと思いますが、席に戻りましたらすぐ確認をいたします」

「さすがドーオニツの方だけありますな! では、来週もお待ちしておりますぞ。本日は本当にありがとう」

 イェンスと僕はハンスとフランツと固く握手を交わした。そこにスーリャンもイスから立ち上がって僕たちに握手を求めてきたので、笑顔で握手を交わす。

「本日はありがとうございました。大変参考になりました。あなた方は実に堂々としていて、物腰が穏やかだ。なるほど、幼い頃からの英才教育の賜物なのでしょう」

 スーリャンは感嘆した様子で言ったのだが、僕にはこそばゆくてつい吹き出してしまった。

「スーリャン、あなたはドーオニツ人を買いかぶりすぎですよ。実際のところ、僕たちも地方国の人となんら変わりが無いのです。ただ、共通の観念のもと、規律に従って暮らすことに理解を示し、遵守しようとしているだけです」

「今はまだ慣れないでしょうが、ドーオニツで暮らすことに利点もありますよ」

 イェンスが穏やかな口調で付け加えた。それを聞いて三人とも興味深そうな顔で僕たちを見たのだが、ハンスが突然大きくうなずいて返した。

「その利点はなんとなくわかるぞ。ここは安全だしな」

「そのとおりです。安全であり、安心なのです。ほとんどの人が規律を守っておりますので、自分の身に起こることが想像しやすい。一方で、規律を守ることに対しての気苦労や、他者に気を遣うことに窮屈さを感じるかもしれません。しかし、長期的にも短期的にも安定した予測を立てられるのは、ここドーオニツならではの大いなる魅力だと思っております」

 僕は普段から思っていることを率直に述べた。するとフランツが「たしかにそうですね。安心して夜道を歩けることも、ドーオニツならではでした。そう考えると、ますます滞在を楽しめそうです」と笑顔を浮かべ、スーリャンがそれを聞いて目から鱗が落ちたような表情で僕たちを見つめた。

「確かにここに慣れたら、却って地方国の無法ぶりに戸惑うかもしれないな」

 ハンスがおどけた口調でスーリャンに話しかける。

「そうかもしれません。私はこの先もめげずに頑張れそうです」

 その言葉にハンスとフランツが再度朗らかな笑い声を上げたので、イェンスも僕もつられて笑う。そのあたたかな雰囲気の中でハンスから感謝の言葉が再度贈られ、僕たちのノルドゥルフ社との打ち合わせは無事終了した。

 ノルドゥルフ社の輸入通関書類とカタログ一式を受け取り、ハンスらに見送られながら事務所を出る。駐車場へと向かう途中、通りを歩く女性数名がこちらを思わせぶりに見つめたことに気が付いたのだが、イェンスも僕も視線を流して真っ直ぐ前を向いて歩いた。日が昇って気温が上がったことで、通り抜ける風の冷たさが幾ばくか和らぐ。訪問が無事終わった安堵感もあり、地面を蹴る足取りはますます軽やかであった。

 昼食をどうしようかとイェンスと話しながら駐車場に到着した時、僕たちのスマートフォンが一斉にメールの受信音を鳴り響かせた。同時に鳴ったことをお互いに不思議に思っていると、イェンスが突然弾んだ笑顔を浮かべてジャケットの内側からスマートフォンを取り出した。その様子に僕にも直感が訪れ、興奮と期待から急いでスマートフォンの画面を確認する。すると、あのユリウスからメールが届いていた。

「すごいよ、クラウス!」

「今週の土曜日、急だが空いているか、だって!」

「むろん、空いているさ」

 イェンスは僕の隣ですぐさま返信を打ち始めた。僕もイェンスと同じような内容のメールをユリウスに送信する。僕たちはユリウスの思いがけないメールに笑顔が止まらなくなっていた。

 駐車場に停めてあった車の前まで来た時、イェンスがいきなり立ち止まった。どうやら彼に電話がかかって来たらしかった。スマートフォンを取り出すなり彼の顔が明るく輝いたため、相手を咄嗟に把握する。彼は電話に出ながら助手席へと滑り込んできた。

「イェンス、元気かい? クラウスもそこにいるね?」

 やはりユリウスであった。イェンスは通話をスピーカーにしていた。

「はい、おかげさまで元気にしております。クラウスもここにいます」

 イェンスが僕に画面を譲ったので、僕も電話口に向かってユリウスに話しかけた。

「ご無沙汰しております、クラウスです」

「はは、久しぶりだな、元気そうで何よりだ。早速だが、土曜日一緒にお昼ご飯を食べないか? ようやくまとまった時間が取れたのでね。むろん、こちらで車を手配して君たちを送迎するつもりだ」

 ユリウスの言葉に僕の心はますます興奮と歓喜とにあふれていった。イェンスとともに「必ず伺います」と弾んだ声で返す。

「それは良かった、私もまた君たちに会えるのは嬉しい。それで時間が早くてすまないのだが、この間の公園入り口あたりで朝九時頃に待っていてほしい。私の警護を担当している男性二名をそちらへ向かわせる。彼らはシモとホレーショという名で、屈強な体格をしているから見ればわかる。彼らと対面したら、これから伝える合い言葉と口頭パスワードを彼らに伝えるのだ。それからその場で身分照会を受けてほしい」

 彼は合い言葉と口頭パスワードを続けて言った。イェンスも僕も一字一句に集中し、脳裏に焼き付けるように覚える。脳内はどこまでも澄み渡っていたため、僕たちはあっさりと記憶した。ユリウスが続けて車のナンバーも伝える。アウリンコで登録を受けている政府関係者用の特殊ナンバーでは無かったのだが、こちらもすんなりと頭に入った。

「気軽に来るのだぞ。気を遣うな。では、今度の土曜日に会えるのを楽しみにしている」

 ユリウスのその言葉で電話は切れた。

 イェンスはスマートフォンを手に、半ば茫然とした表情を浮かべていた。しかし、彼の胸中は推し量るまでもなく明らかであった。僕も胸が躍っており、期待と興奮の風が猛々しく吹いているのを心地良く感じていた。

「彼が僕たちのために、わざわざ時間を取ってくれただなんて! なんて光栄なことなんだろう」

 僕の言葉にイェンスが目を輝かせながらうなずいた。

「クラウス、僕たちは何かに導かれているのかもしれないし、本当に幸運なのだけなのかもしれない」

 しかし、イェンスは突然はっとした表情を見せた。

「だけど、僕の心はもっと貪欲に感じている。直感が僕の耳元でささやいたのだ。さらに感慨深い何かが起こると」

 その言葉に驚いて彼の顔を見る。彼の瞳は力強く僕を捉えていた。僕は身震いを覚えたのだが、湧き上がる高揚感に再び包まれたので土曜日に対する期待だけが色濃く残った。

 ふと時刻を確認する。その途端に僕は差し迫った現実へと連れ戻された。

「イェンス、間もなくお昼になってしまう。早く戻ろうか」

 エンジンをかけて車を出す。隣でイェンスが事務所に電話を掛け、ギオルギに今日の打ち合わせの報告をし、途中でご飯を食べてから事務所に戻ることを伝える。電話を切るとイェンスはやおら座席を倒し、少し寝そべった状態になった。

「イェンス、君はお腹が空きすぎて座っているのがつらいんだろう」

「それもあるし、君の運転だと安心だからね。僕は優雅に寝そべりながら、昼食をどこで取るべきか考えるよ」

 彼の表情はしかと見えなかったのだが、その口調から彼がゆったりとした気分でいることがわかった。彼は僕の運転を信頼しているのだ。その思考にまたしても満たされ、ささやかな自信を心地良く僕の中に刻み込んでいく

 車の流れに乗って快活にスピードを上げながら、エンジン音をなるべく最適に保つことを楽しむ。車の流れが遅くなると、フットブレーキでは無くエンジンブレーキで徐々にギヤを下げていくのがお気に入りなのだが、後続車との間隔が狭いと減速の合図が不明瞭なため、車間距離を確認しながら実行に移す。

 イェンスが帰り道は一般的なルートで帰り、その途中にあるカフェで昼ご飯を食べないかと提案してきた。案すら練っていなかった僕はすぐさま快諾して車線を変更し、そのカフェへと向かう。昼になってカフェは混んでいたものの、待たされることはなかった。そこで相変わらず似たような料理を食べてお腹を満たし、再び車へと乗り込む。

 イェンスは相変わらず座席を倒したままであった。満腹感と多少の疲れから体を休ませたいのであろうと考えた僕は、「眠たかったら寝てていいよ。着いたら起こすから」と彼に伝えた。しかし、彼が「眠くなんかないさ」と朗らかに返したので、気になって信号で止まった時に彼の様子を伺った。すると満足そうな表情を浮かべている彼と目が合い、「ちゃんと起きてるだろう?」と言葉を返された。

 僕はその言葉でようやく、彼が僕に心を開いているからこそ寝そべっているのだということに気が付いた。僕がうんと小さい頃は友だちとこんな風に馴れ合うこともあったのだが、大きくなるにつれて僕の異質さが目立ったからか、徐々に友情という世界からかけ離れてしまっていた。独りでいることに慣れていたうえ、異質な僕が相手に迷惑をかけないだけでも良しとしていたため、孤独を気にかけないようにしていたのである。しかし今、僕は友人に心を開かれるという、僕一人では決して体験できない感動に心から喜びを感じていた。

 その時、一羽の白い鳥が上空へと羽ばたいていくのが見えた。見慣れた光景の中に幸運が混じっていたような気分になり、運転しながら新鮮な気持ちで僕の友人を想う。その友人は親しみある口調で時折僕に話しかけては、朗らかな笑い声を車内に響かせていた。僕は事務所に到着するまで、大切な友人と今度の土曜日のことで愉快な気持ちを共有しあった。

 事務所に入るなり、すぐにギオルギの所へ向かう。僕たちが戻る時間に合わせていたようで、ムラトも一緒に待ち受けていた。書類を見せて報告を済ませると、早速輸入通関手続きの下準備として書類の中身を確認することにした。インボイスの金額が合っているか計算し、ついで工具の輸入において確認する箇所があったため、質問をまとめてノルドゥルフ社のハンスとフランツにメールにて連絡を入れる。それから家具と雑貨の新規輸入通関の申告準備にも取り掛かった。イェンスも僕も黙々と商品を分類し、申告を済ませては新規書類へと手を伸ばしていく。仕事はずいぶんと順調に捗っていた。

 イェンスからシャーペンの芯をもらおうと顔を上げた時、ふと視線が気になった。気後れを感じたものの、視線の元を探るべく背後を振り返る。次の瞬間、僕は落胆した。視線の元はオランカであった。

「クラウス、ちょっとお願いがあるの。いいかしら?」

 胸元の空いたブラウスに丈の短いスカートから脚をくねらせ、勢いよく彼女が近付いて来る。その瞬間、彼女が付けている甘い香水が洪水のように流れ込み、そのあまりの強烈さにむせてしまった。それを背後で見ていたイェンスが僕の肩に手を掛け、「後ろに下がれ」と耳元で囁いたのだが、下がったところでオランカがさらににじり寄る気配を漂わせていたため、僕はただただ戸惑っていた。

 なぜ、彼女はイェンスではなく僕に話しかけてきたのであろう?

「いったいなんでしょう、今は手が離せないのですが」

 僕が断ると今度はイェンスに矛先が向けられることは容易に想像がついたため、それだけは避けたいと口調を曖昧にぼかす。それを受けてオランカがにんまり笑ってさらに顔を近付けたものだから、とうとう僕は耐え切れなくなってのけぞってしまった。僕はあのドラゴンの影響を受け、わずかでも変化を起こしているはずではなかったのか。

 オランカはムラトの事務所に移動する対象者であった。そこで引っ越しにあたり、使用頻度の少ないファイルをまとめているのだが、書庫の上にあるファイルに手が届かず困っているのだという。

「脚立があったと思ったのですが」

 僕は気後れしたせいで、うっかり小声で返してしまった。すると彼女は聞き取れなかったらしく、胸元を強調して上半身を屈め、いっそう顔を僕に近付けた。その瞬間、僕は圧迫感から反射的にさっとイスを立って彼女から離れた。

「ぎゃっ!」

 僕の急な動作に驚いたオランカが声を上げてバランスを崩し、そのまま床へとつんのめる。床にうずくまったままの彼女をどう扱ったらいいのかと思い悩んでいると、イェンスが僕の隣に立って「気をつけろ」と忠告した。

「クラウス。私、立てない。手を貸してちょうだい」

 オランカは猫なで声でそう言うと悩ましげな眼差しで僕を見上げ、手を差しのばしてきた。スカートからは太ももが見えすぎて目のやり場に困り、何よりそのあまりの迫力に茫然として立ち尽くす。

「あの……その……すみません……」

 僕は完全に怯えていた。

「オランカ!」

 見かねたイェンスが咎めるように彼女の名を呼ぶ。しかしその時、ローネがどこからともなく割って入り、僕たちの前に立ちはだかった。

「ちょっと、オランカ! 痛いって、あの程度のよろめきじゃどうってことないでしょ。ほら、手を貸すから立ち上がりなさいよ!」

 ローネはオランカの手を掴むなり、ぐいっと上へ引っ張った。僕はあっけにとられつつもイェンスと一緒に後方へと下がる。ローネはオランカよりも小柄であったのだが、僕たちに背を向けて立つ彼女の後姿は実に頼もしかった。

「何するの、痛いじゃない! 私は彼にお願いしていたのよ!」

 オランカはローネをきつく睨みつけたまま、自力で立ち上がった。先ほどまでの甘えた仕草から一転して豹変したオランカの態度に唖然とする。

「あら、クラウスもイェンスも仕事が立て込んでいて忙しいのよ。あなたに手を貸す人なら、私が見つくろってあげる。遠慮しないで」

 ローネは声高にそう言うと僕のほうを振り返り、目で合図をした。その意味が咄嗟には理解できなかったものの、彼女に対する信頼からどこか安心感があった。

「ギオルギ! 今ちょうど手が空いていないかしら? オランカからお願いがあるらしいの!」

 ローネは大きな声で、事務所の奥で他の社員と話していたギオルギを呼んだ。ギオルギはこのやり取りに気が付いていなかったため、呼ばれたことで何事かと話を切り上げて駆けつけてきた。

「なんだい、オランカ。いったいどうしたというのだ?」

 ギオルギがややうんざりした表情でオランカを問いただす。一瞬で事態を察したギオルギの洞察力に感嘆して見守っていると、オランカは笑顔を取り繕って「たいしたことじゃないのに、彼女が騒ぎを大きくしたの」と言うなりローネをきつく睨んだ。しかし、ローネはそれに臆することなく、ギオルギに対して状況を手短に説明し始めた。

「オランカがクラウスにお願い事を頼んでいたのよ。でも、彼もイェンスも忙しくて彼女を手伝えそうにないから、ギオルギ、あなたにお願いしたの」

 ローネはそう言うとオランカのほうに顔を向けたのだが、オランカは腕組しながらそっぽを向いており、「もう結構です」と言い放ってその場を立ち去ろうとした。

「……オランカ」

 ギオルギが深いため息とともに彼女を呼び止め、奥の部屋に彼女を連れて行く。その様子を見届けることなく、僕はひとまずローネにお礼の言葉を伝えた。彼女が割って入ってくれたおかげで、イェンスも僕もあれ以上オランカに絡まれずに済んだのである。彼女はまさにヒーローであった。

「ローネ、あなたが本当に頼もしく見えました。改めてありがとうございます」

 僕の言葉に、ローネは少しはにかんだ表情で首を横に振って応えた。

「あなたの登場はさながら英雄のようでした。本当にかっこよかった。僕からも感謝の言葉を伝えたいのです」

 イェンスもローネに感謝の言葉を伝える。ローネはよほど照れているのか、僕たちの言葉に顔を赤らめていた。

「なんてことないわ、だからあなたたちも気にしないでね。ほら、二人とも早く仕事に戻って。仕事は溜まっているんだから」

 彼女はあっさりと気持ちを切り替えたのか、手に持っていた新規の書類が入ったファイルを僕たちに手渡すなり去っていった。確かに仕事は立て込んでいた。事務所の奥からギオルギがオランカを厳重に注意している声が微かに聞こえてきたのだが、もはやそのことにかまけるだけの余裕は無かった。

 慌ただしく仕事を再開させるうちに、時間があっという間に流れ去っていく。書類が多かったため、二時間残業してその日の仕事が終わった。イェンスと別れてムラトの事務所に立ち寄るとムラトがまだ残っていたため、手短に仕事の状況を報告してから事務所を出る。吹き付ける木枯らしに逆らうかのように歩き出すと、驚いたことにイェンスが僕を待っていた。

 イェンスに先に帰っていいと伝えてあったため、帰りは一人であろうと僕は考えていた。だが、思いがけない彼の行為に感激し、自然と笑顔をこぼしながら彼と並んで歩く。心強さと跳ね上がっていた喜びも落ち着いてくると、僕はふと疑問が湧き上がったので、身を切るような木枯らしに肩をすぼませながらイェンスに尋ねた。

「イェンス。今さらなのだけど、どうしてオランカは君じゃなくて僕のところに来たのだろう?」

 それを聞いた彼はあっさりと答えた。

「クラウス、簡単だよ。君が魅力的だからだ」

「それならイェンス、君のほうがはるかに僕より勝る」

 僕は彼の答えが的を射てないように思え、口を尖らせた。

「そうかな、君は僕を過大評価しているし、君自身を過小評価していると思うが」

 彼はそう言うと澄んだ瞳で僕を見つめ返した。その瞳と彼の言葉がまたしても僕の心を貫いたのだが、どうしても腑に落ちず困惑する。

 僕が混乱しているのを見越したのか、イェンスは優しく言葉を足して続けた。

「クラウス、君は前も言ったけど優しいんだよ。その優しさは君の持つ魅力でもある。それがオランカには好意的に見え、隙があると思われたのだろう。だけど、僕はその君らしい優しさを好ましく考えている。今日みたいに戸惑うことがあったとしても、君ならすぐに上手に対処する方法を身に付けるさ」

 彼は穏やかな表情のままであった。その優しい眼差しが彼の言葉の力強さと相って僕を勇気づけていく。しかし、同時に素直に喜んでいいものかと悩み、どこかこそばゆくもあった。

「ありがとう、イェンス」

 僕は照れくささからマフラーに顔をうずめながら彼に伝えた。タキアの祖母が編んだマフラーの肌触りが僕をあたたかく包み込む。冷たい夜風も、このマフラーの前では遠慮がちに流れていく気がした。

「そのマフラー、実に良く君に似合っている」

 イェンスがさりげなく話題を変えた。そこから晩御飯のことで会話が盛り上がる。夕食をカフェでイェンスと一緒に取り、彼の住むアパート前で別れる。僕は今日起こった出来事をしみじみと思い返しながらアパートの階段を駆け上がっていった。

 部屋に入るなり、窓を開けて外の景色を眺める。冬の空にはいくつか星が瞬いており、本来の濃紺の美しい夜の世界は、街灯りに照らされた都会の夜空へと変貌を遂げていた。それでもその街灯りでかすんだ夜空でさえ、広大な宇宙の片鱗を見せて清らかさに満ちていたため、見上げる星の一つ一つが織り成す壮大な一生の、ほんの一瞬を僕が生きているのだという実感が湧く。

 このことは僕が十代半ばの頃、たまたま思考を掘り下げていくうちに閃いたものであった。だが、あれから幾ばくか成長した現在の視点でその世界を改めて覗き見ると、ほんの一瞬というにはあまりに刹那すぎ、僕の痕跡を求めること自体が不可能であるように思われた。とりわけ宇宙というとてつもなく大きな視点からすれば、地球の歴史さえ矮小で薄い影にしかなり得ないであろう。それを思うと自分が存在するということが実に不思議に思えたのだが、僕もたった今、宇宙の一部分に組み込まれているのだと考えるだけで、得も言われぬ感動と喜びとが内側からあふれ出した。

『在る』というのは、ひょっとしたらかなりの奇跡ではないのか。

 僕は少しの間、感動に浸りながら外をぼんやりと眺めていたのだが、凍てつく風がカーテンをはじきながら室内に吹きつけてきたため、窓を閉めてゆったりと体を休めた。

 次の日は朝からすこぶる順調に仕事が運んだ。ギオルギの事務所へ行ってもオランカは遠目にこちらを見るだけで、話しかけてくることはなかった。経営統合に向けて僕も仕事の合間に引越作業を進めていたのだが、大掛かりな仕訳を要するほど荷物を抱えていなかった。そこで空いた時間に周囲の人を手伝うべく、僕にでもできそうな作業を探すことにした。

「クラウス、早速お願いしていいかしら」

 ちょうどローネに声をかけられた。彼女の話によると、同僚のフェイが窓口を担当している輸入者の貨物を保税地区から引き取るべく、そのために必要な手続きであるD/O交換という仕事が一件だけ急ぎであるらしかった。フェイは結婚しており、幼稚園に通う子供が一人いた。その子供の体調が芳しくないと幼稚園から連絡を受け、ローネに後を頼んで早退したのである。僕は快諾すると、早速地図を片手に港頭地区へと繰り出し、用事を済ませた。D/O交換は今やインターネット上で簡単に手続きが済ませられるはずなのだが、このようにわざわざ赴いて昔ながらの手続きをすることはかえって新鮮であり、興味深いものであった。

 次の日、フェイが明るい笑顔で出社してきた。彼女はローネのところに来るなり、子供の体調が一時的なもので今朝は元気に登園したと報告してきたので、近くで聞いていた僕も一安心する。フェイは始業して少しすると、数少ないD/O交換の仕事を先に済ませるべく、颯爽と事務所を出ていった。その僕も今日は港頭地区に朝から用事があった。

 今日は余裕のあった昨日と打って変わり、午前中に二件の税関検査が行われる予定であった。どちらも税関の検査班による検査であり、審査担当官が行う貨物の分類や申告内容との整合性を調べる検査とは意味合いが異なり、社会に害悪をもたらす貨物が輸入されないよう水際で防止するのが目的である。その他にも税関での用事が多く、イェンスが同行して手伝おうかとも提案してくれていたのだが、彼が誰よりも忙しいため、僕の仕事を少し頼んだだけで税関へは一人で向かった。

 天候はまずまずで雲が広がっていた分、昨日よりは気温が高く感じられる。税関へ到着するなり、検査班のある部署へと向かう。検査のうち一件は茶葉の輸入であり、麻薬を染み込ませて輸入しようとしていないかを調べるべく、幾つか採取して試薬試験を行うと事前に連絡があったものである。もう一件は石材や木材の調度品の輸入であり、こちらも内部に社会悪を隠匿していないか、麻薬探知犬の検査を受ける連絡を受けていた。

 麻薬探知犬が来る税関検査に立ち会うのは、僕にとって初めてのことであった。税関にいても麻薬探知犬を見ることはまず無い。そういったことから僕は不謹慎ながらも、麻薬探知犬による検査に胸躍らせていた。どちらの検査も午前中ではあったのだが、麻薬探知犬が来る時間より先に、茶葉の検査の時間が指定されていたため、税関の検査班に声をかけてからいつもとは異なる税関検査場へと赴く。

 検査が始まった。既に保税蔵置場から全量運び込まれた貨物を、検査班が何箱かX線検査装置に流して不審物が隠匿されていないかチェックしていく。そして貨物を開けて中から茶葉を取り出し、容器に入れたところで試薬と混ぜ合わせて反応を見る。その瞬間、検査班の人たちの視線が一斉に容器に向けられた。

 僕は固唾を飲んで見守っていたのだが、不穏な反応が出ることは無く、ほっと胸を撫で下ろした。検査対象貨物が検査班の人たちの手で再梱包されていく。その様子を何の気なしに見守っていると、そのうちの一人から声をかけられた。

「あとは麻薬探知犬の検査だけですね。しかし、連絡したとおり、検査まで時間が空いているので、また後でお願いいたします」

 彼は明るく言ったのだが、検査班の人たちは水際を守っているという気持ちが強いからか、柔和な表情の中にも眼力に鋭さがあった。それでも僕は臆することなく彼にお礼の言葉を伝え、時間になったらまた声をかけますと添えてその場を後にした。

 僕は再び庁舎内へと戻り、頼まれていた用事をこなすべく動き出した。ラインのそれぞれの部門に書類を提出し、返却書類を受け取る。それから同じ輸入通関手続きの仕事をしている、事務所の先輩であるトニオから頼まれていた輸入貨物の分類に関わる口頭での事前教示を受けるため、預かってきた商品を関税鑑査官に見せて分類に関わる意見を述べながらHSコードを書面にて教示してもらう。

 さらに関税評価に関しても、イェンスの先輩であるケンから評価加算の考え方について税関の見解を確認するよう頼まれていた。

 貨物を製造する際に無償で提供された資材や、買付手数料以外の手数料などは課税価格に算入しなければならないため、税関様式に基づいた評価申告という書類を作成し、その輸入申告時に一緒に申告しなくてはならなかった。ケンが言うには、彼が電話で直接問い合わせても良いのだが、僕が税関に行くのであれば書類を見せて確認したほうがわかりやすいとのことであった。

 評価申告の内容自体は複雑では無かったのだが、輸入者は税関の判断を確実に得たいようである。僕が関税評価専門の部署で関連する書類を広げて説明し、質問に回答した担当官の名前を書き止め、お礼を言ってその場を後にする頃には麻薬探知犬検査の予約時間が差し迫っていた。

 急いで駐車場に戻り、検査に関係の無い書類や預かった貨物を車に置く。それから検査班の元へと急いで向かうと、先ほどの検査班の男性が「慌てなくても時間は大丈夫ですよ」と笑顔で出迎えた。

 麻薬探知犬の検査は予定時間より少し遅れて開始された。僕は初見ということもあり、実に興味深く観察していた。ハンドラーと呼ばれる税関の職員が、犬に声をかけながら検査を進める。二匹の麻薬探知犬は遊びの延長で麻薬が無いかを嗅ぎ回って探しているそうなのだが、ハンドラーが犬を上手に褒めながら貨物の周りを探らせていくので手際が良い。その様子を検査班の人たちも静かに見守る。

 尻尾を振りながらハンドラーと無邪気に戯れる麻薬探知犬に愛らしさを感じながらも、ハンドラーも検査班も、そして何より麻薬探知犬こそが職務の真っただ中にいるため、僕は無事に検査が終わることを願っていた。僕の隣に立っていた検査班の一人が、「麻薬探知犬はすごいな」とぽつりとつぶやく。その言葉どおり、麻薬探知犬は無くてはならない水際の番犬なのであった。

 その麻薬探知犬二匹は全ての貨物の周りを動き回ったのだが、結果としてどの貨物にも反応を示さなかったようである。二名のハンドラーが検査班に声をかけて何やら話し合う。しかし、それも長くは続かず、ハンドラーと麻薬探知犬はすぐさま検査場から去っていった。

 僕はあっという間に検査が終了したのであっけに取られていた。そこに、先ほどの検査班の男性が僕の所にやって来た。

「麻薬探知犬は忙しいんだ。俺たちよりも働いているかもしれん。まあ、あいつらのほうが俺よりも優秀だな」

 彼の言葉は冗談であったのだが、眼力の鋭さの奥に見せたユーモラスな一面に、僕は思わず笑顔になった。初めて見た麻薬探知犬の検査はやはり印象深く、僕は検査立ち合いに感謝さえ抱いていた。

 検査場を離れてギオルギの事務所に連絡を入れる。するとイェンスが電話に出て僕を労った。僕は麻薬探知犬による検査を間近で見た興奮を彼に伝え、それから頼まれていた用件が全て完了したことを報告した。

「他に何か用事はある?」

 念のためにイェンスに確認してもらうと、他の人も税関に対して今のところは用事が無いため、事務所に戻って来て大丈夫だという。僕は彼に「じゃあ、すぐに戻るよ」と返すと電話を切った。

 無事検査も終了し、頼まれていた用事も全て完了した。短い時間でたくさんの用件を済ませたことで、僕は満足げに税関の駐車場へと向かって歩いていた。雲の隙間から青空が見える。その淡い水色に注意を向けていたため、僕は足元さえ見ていなかった。

「クラウス!」

 背後から聞こえた女性の声に反応して振り返ったのだが、すぐに後悔した。声の主はベアトリスであった。彼女は思わし気な目付きで僕を見ながら歩み寄ってきた。

「今日もこちらに来ていたんですね」

 彼女は屈託のない笑顔を見せていたのだが、その裏に隠れている何かに押し迫られ、僕はまたも物怖じを感じていた。彼女に曖昧に挨拶を返しながら、急いで事務所に戻らないといけないのだと伝える。しかし、彼女は聞き流したのか、そもそも聞いていなかったのか、そのまま会話を続けた。

「実はお願いがあるの。その、私は大学生の時にコウラッリネンを受けて卒業後にここへ移り住み、半年前に思い切って転職したのだけど、港近辺は未だに慣れなくて困ることがあって…。あなたには他の人には無い誠実さがあるから、もしよかったら道案内をお願いできないかしら。変に思うかもしれないけど、実を言うと、こんな風に気兼ねなく話せる人ってなかなかいなくて……。それにあなたは穏やかで紳士的だから、とても安心できるわ。私にとって気が合う感じなの」

 最後の台詞を聞いた途端に僕は返答に困り、彼女を見る勇気が全く無くなってしまった。褒め言葉もあった中で、いったいなぜ気後れを感じるのか自分でもわからないのだが、ただ彼女といると息苦しさを感じてしまうのである。彼女に申し訳ないと思いつつも、この息苦しさから解放されるべく、イェンスが僕を励ましてくれたことを思い返す。僕は意を決し彼女のほうを見ると、なるべく落ち着いた表情で言った。

「そういうことなら、なおさら同じ会社の人に頼んだほうがいい。面倒見のいいスヴェンもいるし、女性の方も多くいるでしょうから、男性の僕に頼むよりはるかに確実なことでしょう。お力添えになれなくてすみません。では、急いで事務所に戻らないといけないので失礼します」

 今までにない強い口調でベアトリスに伝えたことで、僕はますます心苦しくなった。気になって彼女の様子を伺うと、彼女は驚いた表情で僕を見ていた。おそらく僕に断られたことできっと悲しい思いをしているに違いない、そう考えるとこれ以上僕にはどうすることもできず、あまりの居心地の悪さから逃れるように車へと駆け寄る。彼女はそれでも背後から何かを話しかけてきたのだが、僕はわざと聞こえなかったふりをして急いで車を走らせた。

 帰り道、僕は運転しつつも非常に気分を害していた。

 なぜ、僕が自分の気持ちに正直に従って断っただけで、ベアトリスに対して心苦しく思ってしまうのであろう。そもそも僕に構わずにそっとしておいてくれれば、自分に対しても彼女に対しても嫌な気分になることは無かった。それはオランカの件でも同じことが言えた。なぜ、彼女たちは戸惑っている僕に対して一方的に親しくなろうと詰め寄り、しかも先を急ごうとするのであろう。僕は募る苛立たしさにすっかり囚われていた。

 車を車庫に入れてムラトの事務所に書類を置きに行くと、ちょうどお昼休みに入ったらしかった。ローネが僕を労らいつつ、フェイと外食すべく出掛けていく。

 書類をトニオに返却し、それからイェンスのスマートフォンに電話を入れる。イェンスが電話に出るなり昼食に誘ってくれたので、僕は嬉々として彼の元へと向かった。

 イェンスと歩いているうちに先ほどの苛立たしさが再び募り、気が合うというのは彼と僕のような間柄のことなのだと立腹していた。そんな僕のしかめ面にイェンスが気が付き、どうかしたのかと尋ねられる。僕はもちろん彼に件の出来事を話すつもりでいたのだが、事務所近くのカフェはあいにくどこも満席であった。そこで僕が持ち帰りのお店で昼食を買い、適当な場所で食べようと提案をするとイェンスがあっさりと同意したので、僕たちは近くのファストフードの店を目指した。

 具沢山のサンドイッチにフライドポテトとあたたかい飲み物を購入し、事務所から少し離れた場所にある小さな公園のベンチにイェンスと腰をおろす。

 冬の公園はじっと座っているとやはり寒く、僕はイェンスに寒い思いをさせて申し訳ないと謝ったのだが、彼は笑顔で「気にしていないさ、それよりどうしたんだい?」と一蹴し、しかめ面の理由を話すよう促した。そこで僕はまずベアトリスとのやり取りを話し、そこにオランカの先日の振る舞いを関連付けながら、僕の大人気ない苛立たしさを彼にぶつけるかのように説明した。

 イェンスは僕を見ながらずっと静かに話を聞いていた。一通り話し終えると空腹感もあり、ようやくサンドイッチをほお張る。そのままむしゃむしゃと食べていると、僕はイェンスが彼に好意を寄せる女性について話していた言葉を思い出した。

 彼はそういった女性の多くが、表面的な情報だけで彼女の持つ理想の男性像を彼に重ねて押し付けてくることにうんざりしていた。それは今でも変わらないことであろう。事実、彼は今でもたくさんの女性から視線を受け、話しかけられることもそれなりにあった。

 僕は当時の彼の言葉にようやく共感すると、彼が言葉を発する前に愕然としながら言い放った。

「こういうことか! 君が言っていた、うんざりするというのは」

 彼はそれを聞くなり笑い転げた。その笑いは数分もの間止まる気配が全く無く、彼が昼食を食べる時間が無くなってしまうのではないかと僕が心配になるほどであった。

「クラウス、君とは本当に気が合うな」

 イェンスは笑いすぎて苦しいといった表情であった。そのうえ、彼なりに懸命に笑いをこらえようとしているのだが、どうやら彼の中で笑いのスイッチが切れないらしかった。僕は彼があんまりにも大笑いするものだから、それまでの苛立たしさが急にバカバカしくなり、ついには一緒に笑い合った。

 人通りが少ない冬の公園に、僕たちの笑い声が細い煙のように響く。しかし、すぐさま街の喧騒にかき消され、僕たちは食事を取りながらそのことで語り合った。

「いいかい、クラウス。そういう女性に対しては最初が肝心なのだと思っている。ローネやエトネ、ソフィアといった素晴らしい女性ももちろん数多くいるし、僕に興味を全く抱かない女性も同じくらいいる。そういった場合はもちろん、相手に失礼の無いよう丁寧に対応している。けどその丁寧さが、ベアトリスやオランカのような女性には誤解を与えかねないのだ。なぜかはわからないが、彼女たちはそれを好意的に、そして一方的に解釈して受け止めるからね。それでもベアトリスとオランカは根本が異なるから、一緒に並べるのは不適切だろう。ベアトリスはそんなに悪い人ではないと思う。おそらくだけど、君の気持ちも理解できるから、自分の好意を押し付けないようにそう言ったんじゃないかな。いずれにせよ僕の経験上、初対面にもかかわらず視線を外さずに好奇の眼差しを持って僕を見てくる女性とは、彼女の内面がどうであれ距離を置くようにしている。冷たいかもしれないが、自分の居心地を守るためにそうせざるを得ないのだ。結果として、そのことは僕にとって良い選択だったと思う。周囲の男性の嫉妬も受けずに済むからね」

 イェンスは言い終えると静かに微笑み、それからすっかり冷めた紅茶に口を付けた。僕は彼にお礼を伝えるとしっかりと彼の助言を受け止め、今まで他人事であったこの問題について考察することにした。

 彼は僕が自分自身を過小評価している、と先日話していた。しかし、どうしても客観的に自分自身を捉えることは難しかった。目の前にいるイェンスは完璧の塊のような人物であった。そんな彼と何かしら不甲斐ない僕自身とを、どうしても比べてしまうのである。

 イェンスは僕より見識が深く知識も豊富で、優しさも身のこなしも全て素晴らしい状態で備わっていた。彼の肌は透き通るような輝きがあり、宝石のように輝く彼の緑色の瞳は、英知と慈愛にあふれているようであった。聡明なおでこも整った鼻先も広い肩も、しなやかに伸びた手足についた筋肉さえも見事に全体と調和しており、エルフの特徴がさらに独特の気品と優雅さとを彼に与えたことで、見る者を魅了させる美しさを醸し出していると評価していたのである。

 それでいくと、どうしても僕自身を過小に評価し、彼に対して過大評価をしているとは思えなかった。いや、この観念に方程式のような絶対性があるようにさえ考えていた。ほぼ毎日彼を間近で見ていても、飽きることなく彼に感嘆しているのである。僕でさえこうなのだから、他の人ならなおいっそうイェンスに魅力を感じるに違いない。そしてこの思考が僕から拭われることもまた、有りえないことに違いないのだ。

 会話も落ち着き、事務所へ戻るべく公園を後にする。すっかり冷えた体を丸めながら足早に事務所へと向かう途中で、僕に付き合って寒い思いをさせたイェンスが風邪を引くことの無いよう、コンビニに寄ってホットレモンジンジャーの飲み物を買って彼に渡した。すると彼があたたかい微笑みとともに受け取ったので、僕の心も思いがけずあたたまる。このようなお金の使い方は非常に贅沢であるように思え、僕は弾んだ気持ちのまま事務所へと戻った。

 午後も順調に仕事が進んだ。ハンスとフランツから質問の返事がメールで返され、水処理施設の輸入も下準備を進めていく。木曜日も忙しくはあったのだが万事順調であり、金曜日も同じように過ぎ去ろうとしていた。

 引越しのため、双方の事務所には書類や備品を詰めた段ボール箱が少しずつ積み上げられるようになっていた。雑談でさえ、新体制の話題で持ちきりである。しかし、イェンスも僕もユリウスと再会する明日のことで胸がいっぱいであった。

 その仕事帰り、イェンスが「明日が待ちきれないよ」と言って目を輝かせた。僕も同じ気持ちでいたため、弾む声で「本当だ」と言葉を返す。天気予報では明日は冷え込みが厳しいらしく、初雪が降る可能性があるという。しかし、寒さを吹き飛ばすほど、僕たちは熱っぽく明日に期待を寄せていた。

 途中のスーパーで晩御飯を買い、イェンスと待ち合わせの公園まで一緒に行く約束を取り付けて彼と別れる。僕は晩御飯を片手に、うずくような興奮を胸に抱きながら足早に帰路へと就いた。

 ベッドに入っても明日を待ち構えるかのように高揚感が続き、寝不足になるのではないかと心配もしたのだが、一週間の疲れもあっていつの間にか眠りにつく。夢か現か、見たことも無い美しい生物の影を捉えたところで、カーテンの隙間からやわらかく差し込んだ朝日の明るさで自然と目が覚める。その光は本棚に飾ってあった、タキアの祖母がくれた思い出の写真を照らしていた。僕は何か運命的な意図を感じながらも、いよいよ訪れたユリウスとの再会の日を喜んで迎えた。

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