第6話

《第二章》

 月曜日になり、事務所へと出勤する。朝から雨がしとしとと降っていたため、僕は傘を差しながら歩いていた。

 前方にイェンスを見つけたので急いで駆け寄る。彼は僕の気配に気が付いたらしく、僕が声を掛ける前に振り返って朗らかな挨拶をしてきた。

 「おはよう、クラウス」

「おはよう、イェンス」

 「昨日の朝、君のお母様から頂いた料理を食べたんだよ。本当に美味しかった。ぜひ僕の感謝の気持ちを改めて伝えてほしい」

 彼は満面の笑顔でそう言うと、傘を後ろ側に傾けた。

 「僕も昨日の朝食べたよ。母には後で伝えておく。あんな感じだから、きっとかなり喜ぶと思う」

 僕も傘を後ろ側に傾ける。

 「くれぐれもお願いするよ。君のタキアのおばあ様からのお菓子はまだ残してあるんだ。今日明日あたりには食べようかと思っているのだけど、一気にいただくのはなんとなくもったいない気がしてね」

 彼は目を輝かせていた。そのさわやかな笑顔にまたしても圧倒され、美味しさと懐かしさのあまり、昨日のうちに一気に食べてしまった自分を恨めしげに振り返る。

 その時、僕たちに声をかけてくる人がいた。雨の音に混じって聞こえてきたその声に視線を向けると、オールであった。彼は前方の道路の路肩に事務所の車を停め、車から降りて僕たちに手を振っていた。

 「おい、くそがきども! 車だったらすぐそこだ、乗って行けよ」

 オールの屈託のない笑顔に向かって、イェンスも僕も笑顔で駆け寄る。到着するなり、オールが後部座席に乗れと指で合図をしたので、二人とも素早く傘を畳んで滑り込んだ。

 「よし、乗ったな。振り落とされないようしっかり掴まっていろよ!」

 オールはふざけた振りをしてアクセルを踏んだのだが、相変わらず速度は控えめであった。彼は法令遵守のみならず、環境に配慮した運転技術などにも長けているため、優良模範運転手としてアウリンコ上陸許可証の包括認可や路上駐車の優先的取扱いといった優遇を受けていた。彼がそのことを自慢することは無いのだが、それでも心から誇りに思っていることは僕たちもよく知っていることであった。

 「助かったよ、オール」

 イェンスが気さくに話しかける。そこに僕がいたずらっぽく笑いながら続けた。

 「土日はどこで楽しく遊んでいたのさ?」

 横長のミラーの中でオールがにやりと笑う。彼は先日、かなり美人で明るい性格の恋人がついにできたと報告していた。そのあまりの嬉しさに、イェンスにも僕にもその彼女の写真を惜しみなく見せて自慢したほどである。それを踏まえたうえで、彼にわざとふざけて尋ねたのであった。

 「そりゃあ、いろんな場所さ。ただし俺だけの美人と一緒でな。バーで飲んだり、映画見たり、どこって言えないぐらいさ」

 オールの表情はしかと読めなかったのだが、その明るい口調から自慢の恋人と一緒でかなり楽しく過ごしたようである。しかし、彼は何かを思い出したようで、「そうだ」と声を上げた。

「そういやあ、土曜日にあのユリウス将軍がお忍びでドーオニツに、しかもここら辺に来てたってもっぱらの噂だ。おまえら見たか?」

 興奮した声のオールとは裏腹に、僕たちは思わず口をつぐんだ。イェンスとはユリウスと知り合ったことについて示し合わせていなかったのだが、彼も僕も初耳であるかのような表情をオールに見せながら首を横に振った。

 「だよなあ。俺も見たかったぜ。昔はエースパイロットだったんだよな。二十五年ぐらい前の将軍が、戦闘機を自在に空中で操る様子を収めた映像をこないだテレビで観たんだけど、本当にかっこよかったなあ。俺にももう少しパイロットの適性があれば、絶対目指していたのに」

 オールが憧れからくる純粋な眼差しをバックミラーに一瞬映す。僕はその眼差しにある種の美しさを見出した。おそらく、これも例の変化から来ているのであろう。しかし、オールにどう言葉を返せばいいのか悩み、見慣れた車窓の風景に視線をずらす。

 その時、イェンスが適切と思われる感想をオールに伝えた。相変わらず機転が利くイェンスに感謝しながら、追従して感想を言い添える。そのことでオールがさらに話しているうちに、あっという間に車は僕が勤めている事務所の前までやって来た。

 オールに感謝の言葉を伝えて車を降りると、イェンスもすぐそこだからと一緒に車を降りた。

 「じゃあな、お互い今日も頑張ろうぜ! 二人とも、今度こそ歓楽街を連れ回すから覚悟しとけよ」

 彼はそう言い残すと、やはりスピードをあまり出さずに去って行った。

 オールは乱暴なことを言いながらも、実際に僕たちを無理やり歓楽街に連れていくような人柄では無かった。むしろその逆で、僕たちの好みを尊重して合わせてくれるような優しさをもっていた。僕たちは実現しないであろうオールの軽口を軽快に笑い合い、その場で別れた。

 事務所に入ると、ムラトが自席に座りながらローネと何か話しているのが目に飛び込んできた。

 「おはようございます」

 僕が近付いて挨拶するなり、二人とも明るい表情で顔を上げた。

 「おはよう、クラウス。ちょうどいい、話がある」

 ムラトが僕を手招き、その傍らでローネが微笑んで僕を見つめる。

 何かあったのかと不思議に思いながらムラトの近くに立つ。机の上には様々な書類や関税六法、会社法の本などが無造作に置かれていたのだが、その中でも『覚書』と表題がある書類と、全く内容の異なる二件の輸入作業計画書を見て二人は話し合っていたようであった。

 ムラトは「突然の話で驚くかもしれないが」と前置きすると、覚書の中身を見せながら話し始めた。

 「始業時間を迎えたら事務所の全員に話す予定だが、ギオルギの事務所と来年一月を目途に経営統合する予定でいる。大手ブローカーに対抗すべく、一年前から検討を始めていたのだが、入念に統合後のメリットとデメリット、そして予想される利益率やコストなどの数値から算出された結果、今いる事務所や人員の配置は暫くこのままで統合することにしたのだ」

 ムラトの言葉どおり、僕は非常に驚いた。仕事に対する直感は無かったため、経営統合の話はまさしく晴天の霹靂であった。

 確かにここ数か月ほど、ムラトは忙しそうに事務所を出入りしていた。ギオルギとずっと電話で話している姿も何度か目にしていたものの、ありふれた光景であったため僕は気にも留めていなかった。

 イェンスがこのことをすでに知っているようには思えなかった。勘の鋭いイェンスが気付けないのであれば、鈍重な僕が気が付くはずもない。彼も今頃、ギオルギからこの話を聞いているのであろうか。

 「それはこの件と関係している」

 ムラトが今度は作業計画書を見せながら話を続けた。

「この新規案件と、それとは別に既存の大手ブローカーが今まで手掛けていた輸入通関手続きの受注を、ギオルギと手を組んでようやく取ることができたのだ。そのことでローネに今、ある相談していた。先に結論を言おう。それを君に任せたいと考えている」

 ムラトの目付きが鋭くなる。僕は突然のことに再び驚愕し、当惑さえしていた。貨物の内容も輸入状況も全くわからないままに僕に告げた理由はなんであるのか。ひょっとしたら、彼は僕を試しているのではなかろうか。

 その思考が閃くなり気持ちを切り替え、ムラトの目を真っ直ぐに見つめ返す。そして淀みない意欲に任せて力強く答えた。

 「光栄です。やるからにはきちんと成功させます」

 その様子を見てローネが胸を撫で下ろし、ムラトがにんまりと笑った。

 「言ったな、クラウス。だったら頼んだぞ。だが、実はおまえ一人でやる仕事ではないんだ。ギオルギの事務所の一人と一緒にやってもらうことになる」

 彼はそう言うと今度は作業計画書を漫然と眺め始めた。

 僕はその言葉を聞いてすぐに直感が湧き上り、身震いするような興奮を覚えた。脳裏に少し先の未来が鮮明な映像とともに浮かぶ。その人を僕は良く知っており、その輪郭は光に満ちあふれていた。

 間違いない。僕の相手は彼だ。

 「今後も事業拡大を図り、大手を相手取るとなると、信頼できるところと力を合わせたほうがいいと前から考えていた。それで同じように考えていたギオルギと、経営統合の道筋を模索してきたんだ。彼の事務所と統合できるのは心強い。今頃ギオルギがあっちの事務所で、この二つの案件の担当者を一人選んで話している頃だろう。この、大手ブローカーがそれまで手掛けていた仕事を掴む機会が突然訪れてね。そこでギオルギと事務所を統合させる話を急いだのだ。新規案件の輸入は来年の一月を予定している。その頃には一社に統合されているから、相手先にも統合の話をもちろん伝えてある。いずれにせよ、統合まであと二か月も無いから少し慌ただしくなるな」

 ムラトは言い終えると背伸びをしながら少し欠伸をし、席に戻って良いと伝えてきた。彼はこの件で土日も何かと忙しかったのであろう。僕は感謝の言葉を伝えると、冷静さを装って自席に戻った。しかし、僕の心はずっと興奮と期待とではしゃいでいた。

 ローネが僕のところにやって来るなり、顔を近付けてささやいた。

 「おめでとう、クラウス。新規案件でギオルギの事務所と合同で仕事をすると聞いた時、真っ先にあなたが適任者だと思ったからあなたを推薦したの。あなたにはその実力があるわ。しっかりやりなさいよ」

 彼女は片目をつむって微笑むと席に戻っていった。

 ローネが他のベテランより僕の実力を認め、そして祝福してくれたのは嬉しかった。彼女に改めてお礼の言葉を伝え、新鮮な気持ちで仕事に取り掛かる。

 ゲーゼが礎を築いたブローカーの仕事は、優良な従業者には彼にあやかって『Dragon broker』という称号を設けてその地位を確立させるほど、貿易の重要な一端を担っていた。しかし、ほとんどの輸出入は連続的な流れ作業であり、それぞれの専門業者は単なる通過点にしか過ぎなかった。

 ブローカーの前には海貨業者に倉庫業者が、その前には荷役業者・運送業者、さらにその前には船会社に水先案内人、船舶代理店などが関わり、船舶の航行においても船会社のみならず、様々な業種が深く広く関わっていた。

『船で運んで輸入する』という短い文章に、いったいどれだけの職種に資材や機械、そして様々な内容を記した書類が関わってくるのか。それは海上輸入のみならず、輸出や航空による輸出入においても同じであった。

 輸入者は輸入が予定どおりに完了する前提で、配送日や納品日を指定してくる。しかし、船舶の航行遅延のみならず、どこかで手続きや作業に不備が発生すると物流はすぐに滞った。実のところ、税関に対して輸入申告をして輸入許可を得るだけでも、実に様々な法律の下で手続きが行われているのである。

 無事、輸入通関手続きを終わらせて輸入者から感謝されることも多いのだが、膨大な量の件数を扱っていると『輸入許可』という言葉の重みが薄れ、ただの流れ作業のように処理することのほうが多かった。それでもふとした時に、この仕事をしていて良かったと感じることがあり、その度に僕は少しだけ仕事から離れてその感慨に浸った。

 僕は海の向こうの、名も知らない労働者の思いを感じ取ろうとしていた。この商品を作った人はどんな気持ちで製造に携わったのであろう、このインボイスを作成した人はどんな人なのか。

 全員が全員、目の前の仕事に全神経を尖らせて注力してはいないであろう。中には自分の子供が一人、家で留守番をしているのにもかかわらず、生活のために子供を思いながら懸命に働いている人もいるのかもしれない。もっと単純に考えると、昼食を何にしようかと考えながら作業にあたっていたのかもしれないし、中には仕事が終わった後のことを考えていた人もいたであろう。また、ある人は自分がデザインしたものが工場で製造され、世界中に自分が関わった製品が出荷されるのを感慨深く見守っているのかもしれなかった。

 目の前にある何気ない品物の一つ一つの陰に、見えないだけで確かにつながっている誰かの人生が関わっていることを僕は感じていた。それを運ぶ手伝いをしているというのが、僕が感じているやりがいでもあった。

 さらにこの仕事を通じて知ったことがあった。それは表には見えない、地方国同士のつながりであった。簡単な商品一つを作るにも、原材料だけで複数の地方国から供給されていることであろう。商品を包装している資材に印刷を施すプリンターが、商品の原産国のものであるとは限らない。製造ラインの機械も、実際は様々な国で製造された部品や電子機器から構成されている。今着ている服ですら、品質表示にうたわれている原産国は一つの国でも、糸やボタン、生地の原材料や染料、そして製品を製造するミシンにまで遡れば、たちまちのうちに複数の国が関与してくるのである。

 僕が住むこの社会では、多種多様な業種やそこで働く人たちが連携して絡み合い、またそれと同じように原材料や直接・間接的に使用される機械や提供される消耗品も、それぞれ補完し合うように支えていた。そのことを身近に学ぶことができただけでも僕は感謝しており、心に留めておきたいとさえ考えていた。

 しかし一方で、ユリウスが僕にもドラゴンの力の影響が出ている、と言っていたことは僕の中でずっと引っかかっていた。そのことが今後どこまで僕に影響を与えていくのか。不透明な未来をいくら覗いても、憶測でしか答えが見出せないことは理解していた。

 とりあえず、今は目の前にあるこの仕事を楽しみながらこなそう。そしてゲーゼのような名声は得られなくとも、世界や社会にささやかでも僕なりに貢献できたら、ひとまずそれで良しとしよう。

 ほどなくしてムラトが事務所の全員を呼び集め、先ほど僕に話した統合の話を説明し始めた。年が明けた最初の営業日にすぐ、統合後の事業をスタートさせることができるよう、年末の長期休暇の前にこの事務所からギオルギの事務所へと移動する人は少しずつ準備を進め、年末の最終営業日の仕事終わりまでに引越しを完了させるように指示が飛ぶ。驚く人や落ち着いた様子で話を聞く人など反応は様々であったのだが、皆一様に理解を示したようであった。

 続いて新規輸入案件の説明で、僕が担当することをムラトがいつもどおりの口調で伝える。様々な意図を浮かべたあまたの視線が一斉に僕に向けられたため、緊張から心許なさを感じたのだが、ムラトが僕を選んでくれた期待に応えるべく、あえて堂々と振る舞うことにした。

 一通りの話が済むと、ムラトが職場の全員に仕事に戻るよう伝えた。それを受けて皆が自分の持ち場へと戻っていく中、ムラトが力強い足取りで僕のところにやって来た。

「クラウス、ギオルギの事務所へ行くぞ」

 彼はそう言うと戸口へと足早に進んだ。力強く返事をし、すぐさま彼の後を追う。

 事務所の窓から空模様を伺ったムラトは「雨が少し止んだな」と言うと、傘を持たずに事務所を出た。それを受けて僕も傘を置いて戸外へと出る。

 低い灰色の雲が素早く流れていく。そこにムラトが明るい口調で話しかけてきた。

「クラウス。おまえ、最近かなりしっかりしてきたな。働き始めて二年ちょっとで、実力はかなりのもんだぞ」

 思いがけないムラトの高い評価に驚き、困惑から彼を見つめ返す。しかし、ムラトは情けない僕の表情を穏やかに捉えており、その顔は長年の経験から得られた風格と、事務所の責任者としての威厳を漂わせていた。その様子から、先ほどの言葉が僕を発奮させるためだけに発せられたものではないことが理解できた。

「事務所の人たちにいろいろ教えてもらい、また、ずいぶん助けられてきましたから、僕一人の力による成長ではありません」

 僕は照れもあって謙遜して返したのだが、ムラトにも認められたことは正直に嬉しかった。彼は「そうか」と笑って返し、仕事の詳細な説明はギオルギと会ってから話すと付け加えた。

 あっという間に目的地へと到着する。またあの予感が訪れ、僕は胸を高鳴らせていた。ギオルギの事務所の中に入り、周囲に挨拶をする。応接室へと案内されたのだが、その途中でもイェンスの姿は見えなかった。僕はなんとも言えない気持ちを抱えたまま室内に入り、ムラトと並んで座った。すぐにギオルギの話し声が近付き、勢いよくドアが開いたのでドアの奥を注視する。

 恰幅のいいギオルギが先に入室した。緊張とともに目を凝らすと、脳裏に浮かんだ人影が続いて姿を現した。その瞬間、僕の中に穏やかな風が歓喜とともに舞い上がる。

 やはりイェンスであった。

 彼は僕を見るなり微笑みを浮かべた。僕も彼をしっかり見つめ返して微笑み、お互い向かい合って座る。ギオルギの手にはアウリンコでの輸入作業計画書が握られていた。

「やあ、ムラトにクラウス。良く来てくれたね」

 ギオルギが手を差し伸べる。その隣でイェンスが落ち着いた様子で僕を見ていた。しかし、その眼差しには何か訴えるものがあった。その真意を測りかねているうちにギオルギが説明を始めた。

「早速だが、クラウス。ムラトから話は聞いているね? この新規案件二つを、イェンスと手を組んでやってもらいたいんだ。君たちは今いる若手の中で、最も有望で期待も高い。それに話を聞くと、お互い仲がいいそうじゃないか」

 ギオルギの丸い鼻先が彼にやわらかさを付け加えており、さらにどっしりと構えたその体格が実に頼もしそうである。

 「はい。ムラトから担当を任されました。ですが、まだどのような案件なのかを確認しておりません。成果も上げていないうちから高い評価を頂いて恐縮です」

 僕は控えめに答えた。そこにムラトが落ち着いた口調で切り出した。

 「ここに着いてから話そうと考えていたのだ。朝からずっと慌ただしくてな。イェンス、君の噂は聞いている。よろしく頼むよ」

 「ありがとうございます。この案件が無事成功裏に終わり、新たな契機となるよう奮励するつもりです。何よりご一緒にお仕事ができることを大変光栄に思っております。ただ、僕も具体的な話を伺っておりませんので、ぜひお聞かせいただければと思います」

 静かに話を聞いていたイェンスが誠実さあふれる振る舞いで返答をしたため、僕は思わずその物腰に見入った。そもそも彼は最初からずっと落ち着きを払っており、それでいて一朝一夕では身に付かない気品をも醸し出していた。そのためか、ギオルギもムラトも彼を称賛するかのような眼差して見ているようであった。

 そんなイェンスとこれから一緒に仕事をしていくのだ。彼に何一つ勝るものが無い僕の心に、かすかな興奮が一瞬浮かび上がる。しかし、彼の足を引っ張るのではないかという不安が芽生えると、あっという間に僕の心に覆いかぶさっていった。彼と僕とでは実力に差がありすぎないか。

 その時、ギオルギが二種類の作業計画書をそれぞれに手渡してきた。そこで不安をいったん脇に置いて内容を確認すると、思いがけない言葉が目に飛び込んできた。

 「外殻政府軍で使用する、海水淡水化装置と排水の膜ろ過装置の輸入だ。政府関連の輸入ではあるが、輸入者はこの装置の製造会社ノルドゥルフのドーオニツ営業所だ。特定用途免税に該当しないため、通常の輸入通関手続きとなる。軍が管理する水処理施設に今度新しく納品されることになったらしい。輸入通関手続きと配送手続きだけではあるのだが、事前に輸入者と一緒に軍の処理施設に行って、その担当者と関係者に挨拶することになるかもしれない。もしこの仕事がうまく行けば、この輸入者の他の仕事も今後取り扱うことになるだろう」

 ギオルギは言い終えるともう一つの作業計画書を手に取った。僕は外殻政府軍という単語にこそ反応したものの、不思議とこの仕事でユリウスに直接会うことはない気がしていた。そもそもユリウスの地位を考えれば当然なのだが、それでも偶然見かけるような奇跡が起こることにも興味が湧くことはなかった。

 「もう一つの仕事も君たちに任せたい。これは以前、イェンスが先行して手掛けた仕事がうまく行ってね。先方が本格的に仕事をお願いしたいということで、継続して取り扱うことになったのだ」

 ギオルギがインボイスを指差す。

 「高級志向の家具と雑貨を扱っているのだったな」

 ムラトがギオルギに確認すると、ギオルギが大きな体を揺らしながら答えた。

 「そうだ。前回は秋になるぐらいの頃か。あの時、ひどい体調不良で一名が一週間ほど休むことがあってね。そこにもう一名が家庭の事情で、どうしても同じぐらい仕事を休まざるを得なかった。もともと仕事が立て込んでいたうえに、運悪く人員不足が重なったから、皆が手一杯に仕事を抱えることになったのだ。私はせっかくの機会を逃したと思ったのだが、彼は私の気持ちを汲んで、結局その仕事を一人でやり遂げてくれた。あの時は実にたくさんの種類の家具と雑貨が十数枚にも及ぶインボイスに記載されていたから、本当に大変だったと思う。彼はそれだけでなく休んだ者の分まで動き、無理させている中であちこちへと出掛けてもくれた。彼も私もほんの少ししか家に帰れなかったほど、あの一週間は本当に目まぐるしかったなあ」

 僕はギオルギの遠い眼差しを見ていられないほど、彼の話に衝撃を受けていた。それがいつ頃なのか。間違いない、僕がミアと出会って浮足立ち、イェンスに苛立ちを感じていた時だ。おそらくは僕のアパートに深夜訪ねてきた、あの週であろう。

 当時の僕が取った行動や思考が、突如として心の中で猛烈に吹き荒れた。イェンスはとっくに許してくれてはいたのだが、改めて当時の状況を知らされたことで、愚かで幼稚な対応をした自分自身を責めて苛む。僕はなんて恥知らずな行為をイェンスにしていたのか。

 イェンスに対する途方もない罪悪感から、うなだれるように視線を落とす。ムラトはそんな僕の様子にもちろん気が付くことも無く、驚いた口調で返した。

 「それは本当に大変でしたな! しかし、彼だからこそ無事仕事を完遂させたのでしょう。彼が非常に優秀であることは、税関や他の業者からもかなりもれ聞こえていますからな」

 ムラトの言葉は僕にさらなる追い打ちをかけた。そうだ、非常に優秀なイェンスを中途半端でしかない僕は貶めたのだ。今さらどんな顔をしてイェンスと顔を合わせればいいのか。

 ギオルギは資料を見ながらさらに説明を続けた。僕は聞き洩らすまいと彼の言葉に注意を払っていたのだが、内側での激しい葛藤で言葉が耳に入らず、途切れ途切れに単語だけが頭の中を通り過ぎていく。このままではいけないとさらに悪循環に陥りかけたその時、僕に向けられた強い視線を感じた。その視線の元を辿らなくとも、僕は相手が誰であるかを勘付いていた。

 僕はついに戸惑いを口元に隠し切れないまま、イェンスを見つめた。彼は目が合うなり、口元を動かした。『気にするな』と読み取ると、「今は仕事中だ」とささやいた。

 その言葉で自分自身に渇を入れ、ギオルギの説明に耳をそばだてる。

 「輸入者はドーオニツとアウリンコとで高級家具と雑貨を販売している。顧客は政府機関やホテル、事業所や個人宅など、幅広くに納品しているようだ。地方国の有名ブランドの家具を買いつけて展示販売したり、カタログを見せながら客先から注文を取り、各工場や工房に注文してから輸入することもある。雑貨も高級志向だ。確かテーブルクロスやベッドカバーなども取り扱っているのだったな?」

 ギオルギはそう言うとイェンスを見た。

 「はい。前回と同じような輸入であれば、家具に食器、リネン類、それと部屋を飾るオブジェや装飾品も扱うことになると思います」

 彼は丁寧な口調で答えた。

 「それは細かい作業になりそうですなあ。しかし、このクラウスも実力はかなりのものだ。今や長年働いてきた者よりも知識が豊富で、失敗もほとんどない。とにかく物覚えが良く、仕事や内容の飲みこみが早いのだ。加えて彼は辛抱強く、小回りも利く。きっとこの二人なら、これらの仕事を順調に進めていくことでしょうな」

 ムラトが突然僕を褒めちぎったので、僕は気恥ずかしさから恐縮してしまった。しかし、ギオルギもまた笑顔を浮かべており、ムラトの言葉に大きくうなずいてから「彼もまた、評判がすこぶる良いからな」と言葉を返した。

「ありがとうございます。ご期待に添えますよう、精一杯取り組んでまいります」

 僕は緊張しながらもはっきりと言葉を返した。ムラトの言葉は重圧を感じさせるというよりは僕に感謝と喜びを与え、仕事への情熱を奮い立たせるものであった。そこにイェンスまでもがあたたかい眼差しで僕を見ていたので、僕は贈られた彼の優しさを心地良く受け取ることにした。

 小さな会議は順調に進み、水処理施設に設置される機械の輸入は、今後ノルドゥルフ社と打ち合わせしながら徐々に進められることとなった。また、家具と雑貨の輸入は早速来週に本船が入港予定であり、納品を急いでいることから、僕がギオルギの事務所に出向いてイェンスと一緒に作業を進めることで話がまとまった。

 ムラトがカレンダーに目をやった。

「実は、今週水曜日の午前中、この四人で家具と雑貨の輸入者のところに挨拶に行く予定になっているのだ」

「そうだったな。それならば、その水曜日の午後から早速一緒に仕事を始めてもらおう」

 ギオルギはそう言うと経営統合に関しての連絡事項を数点伝え、そのまま打ち合わせは無事終了した。

 ギオルギとムラトは統合の件でもう少し話し合うため、僕は先にイェンスと一緒に応接室を後にした。イェンスと事務所入り口まで向かって歩いている途中、事務所内にいたほとんどの人が僕たちにちらちらと視線を向ける。そのどこか意味ありげな眼差しに、僕は当惑してイェンスに小声で話しかけた。

「ねえ、君の事務所の人たちも今朝話を聞いたんだろう? きっと誰もが、新規の重要な仕事をこの僕が受け持つことに驚いたんだろうね」

 僕では役不足だと思われているに違いない。イェンスの事務所にも僕より優秀なベテランがいた。そのことを考えているうちに、先ほどまであった小さな情熱が不安の中にかき消されていく。

「新規案件の話は統合の話と絡めて、今朝ギオルギから全員に話があった。反応は様々だったのだけど、君が僕と新規案件を担当することに関して言えば、おおむね理解が得られたように見えたよ。彼らがさっき君を見たのは仕事の件じゃなくて、君が以前にもまして魅力的に見えたからだと思う」

「まさか、君を目の前にしてそれはあり得ない! 並んでいれば、特に君の聡明さや美しさが際立つ」

 僕は小声ながらも、微笑みながら言ったイェンスを全力で否定した。

「クラウス、君は君自身のことに関しては殊に鈍感なのだな。だが実際、君はもともと美しいんだ。ペンダントに関わらなくともね」

 彼が事務所のドアを開けて外に出たので、僕も追いかけるように屋外へと出る。その瞬間、一筋の風が僕のほほを優しく撫でていった。

「その、君がそう言ってくれるのは嬉しいんだけど、僕にはにわかに信じ難い。僕はそういうのに慣れていないんだ」

 僕の言葉は弱々しく、風の中へと消えかけていた。

「そこが君のいいところなのだろう」

 イェンスはそう言うと静かに微笑んだ。僕は彼の優しい眼差しを受け、先ほどのギオルギの話をふと思い出した。

「そうだ、うっかりしていた。君が前回、苦労して家具や雑貨の輸入通関手続きをした話を聞いて、僕は動揺してしまった。済んだ話かもしれないけど、僕はまた自分を責めずにはいられなくなったんだ。イェンス、諭してくれてありがとう」

 空は今朝より雲が薄くなっており、ところどころで日が差し込んでいた。地面も少しずつ乾き始め、さわやかな風がイェンスの赤橙色の髪をなびかせる。彼はやはり優しい眼差しで僕を見つめていた。

「クラウス。僕たちはあの件でとっくに和解している。だが、そもそも僕は君を責めてなどいなかった。むしろ、あの経験からいろいろと学ぶこともあったんだ。だから、もし君がもがいていたのだとすれば、それは君自身の問題だ」

 イェンスの緑色の瞳には確固たる信念が表れているようであった。

 僕は彼の容赦ない言葉に驚いたものの、即座にその意味を理解した。今まで自分自身と向き合うことをほぼ避け、表面的な理解と自己への言い訳だけで済ませてきたのが僕なのである。

 僕はあまりにも幼稚でずさんな対応を、疑問も羞恥心も抱かずに選んできたことにようやく危機感を募らせた。成長を望みながらも安易に自己の内側から離れ、外側の世界における自己の位置付けに気を取られる。それは客観的に自己を顧みる手段として有効のように思えたのだが、体裁ばかりに注力する可能性をはらんでいた。『僕』というものをよく理解しないままで先ばかり見ていては、望んでいるような成長からますます遠のき、それどころかいつしか自分自身を荒廃させて堕ちていくのではないのか?

 イェンスの瞳はなおも美しい光を放ちながら、僕を力強く捉えていた。その瞳に宿っている意志を懸命に探る。その時、ユリウスとイェンスがかつて口にした、『後戻りはできない』という言葉がどこからか僕にささやいた。

 ふと、僕の全身に余分な力が入っていることに気が付く。そこで力を抜いて深呼吸すると、雲の隙間から青空が覗き、遠くでカモメが鳴いていることに気が付いた。そして風が空と地面との間をはしゃぎ回って空気と馴染む中、空が重要な役割を当然のように担い、地面が雄々しく僕たちを支えているという実感が全身を包み込んでいった。

 自然がこうも身近に存在していることを改めて実感したことで、内側からみずみずしい感動があふれ出る。僕はこの感覚をずっと前から何度も味わってきたのだ。あまりにも普遍的で見過ごされがちな感覚から、やがて僕を取り囲む何もかもが美しく、研ぎ澄まされているのだという新たな思考が芽吹く。その中にイェンスがいた。

 僕は彼を真っ直ぐに見つめた。彼は僕の表情に現れた喜びに気が付いたのか、目が合うなり微笑んだ。

「イェンス、ありがとう。君は僕に大切なことをまた気付かせてくれた。答えは常に僕の中にあるんだ。このお礼は……このお礼は仕事で返すことにしよう。君と一緒に仕事ができて嬉しく思うし、正直に言うと光栄に思っている」

 僕は彼に手を差し伸べた。彼は僕の手を力強く握り返すと、優しい表情で言葉を返した。

「君はかつての僕を思い起こさせる。そういった意味では僕は経験者として助言できるだろう。だが、やはり君は君だ。君らしい道を歩めるよう、僕も願っている」

 彼の言葉が僕の心にあたたかく響いていく。届けられたその優しさを僕も身に付けようと決意したその時、彼は僕の肩に手を置いて続けた。

「仕事について言えば、実は僕もかなりわくわくしているんだ。一緒に働けるのは思ってもみなかった幸運だし、今後ますますいい刺激を僕に与えるからね。だから、僕が君の足手まといにならないよう、もっと仕事にも注力していかないといけないね」

 イェンスはそう言うといたずらっぽく笑った。

「よく言うよ、イェンス。そもそも君は自己研鑽の塊のようなものじゃないか。君の法律や商品に対する知識は相当なものだし、税関職員だって一目を置いていることぐらい、ムラトが言うまでもなく僕だって知っている」

 僕は湧き上がる興奮や喜びをあえて押しとどめて冷静に言った。

「でも、すぐ追い抜いてみせる」

「そうこなくっちゃ、クラウス。よし、お互い『Dragon broker』を目指していい仕事をしよう」

 彼が目を輝かせ、屈託のない笑顔で拳を前に突き出したので、僕もまた笑顔で拳を彼の拳に向き合わせて返す。テレビや漫画などで見て憧れた仕草を、イェンスから先に僕に示してくれたこともまた嬉しかった。僕たちを包む空気が凛として清々しい雰囲気に満ちているのを感じると、お互いに「また後で」と言ってそれぞれの事務所へと戻っていった。

 事務所は統合へと向けて早速準備が始まり、それに伴って今までと異なる活気が出てきたようであった。その初々しい活気に乗って、僕の仕事もおしなべて順調に捗っていく。

 少しだけ手続きが複雑な輸入通関を法令を確認して進めていると、税関から別の輸入申告貨物の検査連絡を受けた。そこで僕は保税蔵置場の担当者と検査専門の開梱業者に連絡を入れ、ローネに一声かけてから税関へと向かった。

 税関は事務所から車で十五分ぐらいの港頭地区にあった。税関のある辺りまで来ると、ブローカーだけでなく、他の港湾関係者までもが忙しなくあちこちを行き交う。近くにある入国管理局や検疫所も相変わらず人の出入りが多く、警察官も方々に目を光らせて不審な行為や不審者を見逃さないよう警戒にあたっているのはありふれた光景であった。

 駐車場に会社の車を停め、入り口に立っている守衛に挨拶をして庁舎内へと入る。その際、税関が発行したブローカーとしての顔写真入りの身分証明書を、強化ガラスでできたドアを開けるICカードキーとしても使用するようになっていた。これを忘れると先に受付で会社名と個人名、そして連絡先を記入して交付された入館用ICカードキーを貸与されることになるのだが、ブローカーならばそのような失態は犯さないはずだという暗黙の圧力がかかっているため、税関などの公的機関に出入りする人は常に携帯を心掛けていた。

 中に入るなり、同業者で知り合いのスヴェンが声をかけてきた。彼はこの業界では最大手のブローカーに勤めており、僕よりかなり年上で経験も豊富である。しかしながら気さくな彼の人柄から徐々に親しくなり、今や会えば必ず挨拶をして立ち話をする間柄となっていた。

 傍らには同じ事務所の人なのであろう、若い女性が親しげな表情でこちらをじっと見つめていた。

「この女性は新人のベアトリスだ。先月から一緒に働いている。ベアトリス、彼はウストゥンイペッキ・トランスポート社のクラウスだ。まだ若いが、かなり仕事ができると税関職員も認めるほどのお墨付きだ」

 僕は彼の言葉に意外性を感じながらもベアトリスと紹介された女性を見た。彼女は目が合うなり、明るい笑顔で自己紹介を始めた。

「初めまして。ベアトリス・ヒメネスと申します。同業者の方ですね。これから税関などでお見かけすると思いますので、今後ともよろしくお願いいたします」

 彼女のほうから先に手を差し出してきたので、軽く握手を返す。その間も彼女が熱心に僕を見つめているものだから、視線の返し方に戸惑って思わず目が泳ぐ。こういった時に堂々と振る舞う精神的な余裕が僕には欠けていた。

「ご紹介のとおり、僕はクラウス・フレデリクセンと申します。スヴェンはかなりのベテランですから、いろいろと勉強になることでしょう。では、急ぎの検査があるので失礼します」

 僕はそう言って彼らに会釈をすると、そそくさとその場を後にした。幼稚さが残る対応であることは理解していたものの、ベアトリスの視線が僕には強すぎ、他の適切な選択肢が思い浮かばなかったからであった。

 税関職員が輸出入申告を審査・許可し、また窓口対応をするラインと呼ばれている広い室内へと入る。いつものように知り合いのブローカーに挨拶をし、提出すべき書類を受付箱に提出していく。その時、今回税関検査となった輸入申告の審査を担当している、五部門の上席審査官マリッカとたまたま目が合った。僕が彼女に呼びかけると先に検査場へ向かってほしいと返答を受けたため、指示どおり先に一人で検査場に向かうことにした。

 途中で顔見知りの税関職員とすれ違い、挨拶をかわす。外に面したやや広い検査場に到着すると、保税蔵置場から運ばれてきた検査対象貨物を開梱業者やブローカーの人たちが取り囲むなどして少し混みあっていた。

 開梱業者の男性に声をかけられる。彼は今回の検査対象貨物のすぐそばに立っていた。そこにマリッカが携帯用情報端末を手に検査場へと現れ、早速検査が始まる。彼女はまず外装を確認し、それから箱を開封するように開梱業者に指示を出した。中の貨物を傷つけないように開梱業者が慎重に開封し、中の袋から貨物を取り出す。マリッカがそれを丹念に手にとって調べ、申告された貨物の原産国が間違いないか、貨物が適正なHSコードで分類されているか、不審な点は無いかなどを確認していく。それから情報端末で写真を撮ると、申告内容を改めて精査しているのか熱心に画面を眺めたのだが、少しして顔を上げたかと思うと僕のほうを見て言った。

「検査は以上で終了です。問題が無かったから、すぐに輸入許可を出すわ。そうそう、追加の返却書類があったから、受け取ってから帰ってね」

 マリッカの言葉に感謝の言葉を返しているうちに、開梱業者が検査を受けた箱に税関検査済みとシールを貼り、再び保税蔵置場に返却すべく再梱包していく。僕は開梱業者の男性にもお礼の言葉を伝えると、マリッカと一緒にラインへと向かった。

 彼女は上席審査官としての立場を踏まえながらも、気さくな性格であった。「朝の雨が止んで良かったわ」と話しかけられたので、「ええ、本当ですね。天気予報どおりでした」と当たり障りない言葉を返す。するとマリッカが思いがけないことを口にした。

「クラウス、あなた最近見違えるほど、すごくかっこよくなったわね。髪型を変えたからなのかしら。最近、若い女性職員の間でもあなたの名前が出るのよ」

 僕は唐突な話題に驚き、まごついてしまった。イェンスが今朝言った言葉が咄嗟に思い浮かんだのだが、見慣れた僕自身の外見が魅力的であるとは到底思えなかった。

「そういう話題はG・Gロジスティクスのイェンスが相応しいと思っています。彼なら皆が納得しますが、僕なんてとんでもない」

 僕は戸惑いと気恥ずかしさから、大袈裟に首を横に振って答えた。それを受けてマリッカが声を上げて笑った。

「あはは、そういうところがいいらしいのよ。まあ、気にしないで聞き流してね。それにイェンスはすでに税関職員や関係する業者の女性の中では殿堂入りよ。彼も自分を鼻にかけないから、それがまたいいのよ。それは許可を与える側としては職務上非常に大切だし、助かることだわ。どのみち税関職員としての責務があるから、外見に関係なく、法律順守で対応しますけどね。だから、この話もこれでおしまいね」

 彼女はそう言いながら税関職員だけが入れるラインのカウンター奥へと進んでいった。僕はカウンター越しに立ち、少しの間マリッカが言った言葉について考えた。

 こんな僕のいったいどこがいいというのか。

 その時、マリッカが返却書類を差し出してきたので、受取台帳にサインをしてお礼を伝える。彼女は言葉どおりそれ以上僕に構うことは無く、再び職務に戻っていった。

 ローネの話だと、最近は税関あてのほとんどの手続きが電子送信で行われるため、書類の受け渡しを直接やり取りするのはかなり少なくなったのだという。それでもほぼ毎日税関に行く用事があるため、経験の浅い僕が率先して税関に行くようにしているのだが、道草を食っていると思われることのないよう、なるべく早く事務所に戻るよう心掛けていた。税関内でも目立つような振る舞いをしたつもりも無いため、なぜマリッカからそのようなことを突然伝えられたのかが全く不明瞭なのである。

 いや、彼女は『気にしないで聞き流して』と言っていたではないか。ひょっとしたら単なる社交辞令であったのを、僕だけが真剣に受け止めてしまったに違いない。

 税関の駐車場に停めてあった事務所の車に乗り込もうとした際、道端でスヴェンとベアトリスが何やら話し合っていたのが見えた。彼女が僕を見ていた件も、僕が過剰に反応しただけに過ぎないのだ。しかし、それ以上思考を掘り下げることは気が進まなかったため、あっさりと税関を離れて事務所へと戻った。

 自席に座るなりパソコンで申告状況を確認すると、先ほど検査を受けた貨物はすでに輸入許可となっていた。そこにローネがやって来た。

「お客様が先ほど事務所に挨拶に来ていて、手土産として地方国のチョコレートを置いていったの。すぐに無くなっちゃう量だったから、あなたの分を寄せといたわ」

 ローネはそう言うと二粒のチョコレートを置いていった。僕はお礼の言葉を伝え、早速個包装を開けて食べた。甘さが控えめで、僕の小腹をほんのりと満たす。このチョコレートに関わった人たちをそっと思い描くと、再び仕事に向き合った。

 水曜日になり、ムラトと一緒にギオルギの事務所へと向かう。ギオルギとイェンスは僕たちに簡単に挨拶を済ませるや否や、早速駐車場を案内し始めた。

 輸入者の元へは、イェンスが社有車を運転して向かうことになっていた。僕が助手席に座り、ギオルギとムラトが後部座席へと座る。順調に輸入者の事務所がある地区に到着して駐車場に車を停め、四人ともしっかりとした足取りで大きな建物の内部へと入っていった。

 その輸入者の事務所の受付室は、高級家具を取り扱っているだけあって洗練されているように思われた。担当者に内線電話を掛けて待っていると、若い男性が現れて僕たちを応接室へと案内する。そこに小柄な年配の女性と体格の良い男性とが、先ほどの若い男性と一緒に入室してきた。挨拶を交わして名刺を交換し、それから今後の輸入スケジュールや取扱い貨物の商品説明、会社の経歴などについて説明を受ける。通関手続きの参考にと商品カタログを受け取ったところで訪問が滞りなく終了し、僕たちは輸入者のところをすんなりと後にした。

 帰り道は僕が運転することになっていた。僕は車こそ所有していないものの、車を運転することが好きであるため、ギオルギとムラトの許しをもらったうえでイェンスに運転を代わってもらったのである。その車は古いマニュアル車であり、僕は操縦しているという実感を味わいながらハンドルを握った。エンジン音が上がるのに合わせて、ギヤを上げていく。この手間が僕にとっては快感であった。

 その様子をイェンスが助手席から明るい表情で見ていた。

「クラウス、実に楽しそうだな」

 イェンスもまたマニュアル車の運転を好むことを僕は知っていた。つまり、僕は彼から喜びを半ば奪い取ったようなものなのだが、彼は快く僕に譲ってくれたのであった。僕は安全運転を心掛けつつ、しばし心地良い経験を楽しみながら帰路へと着いた。

 午後になった。入手した六件分の家具と雑貨の輸入通関を進めるべく、いよいよイェンスの隣に座って一緒に仕事を始める。いずれは他の人たちもこなせるよう、まずは僕たちで商品を把握して仕事手順を確立させるのが目的なのだが、イェンスが非常に優秀であるため、時間に余裕さえあれば彼一人でも捌ける仕事量であった。だが、僕は優秀で名高い彼の仕事ぶりを間近で観察できることに興奮しており、そうでなくとも一緒に働けるのを喜んでいた。そこで彼を落胆させることの無いよう、二人で効果的な手順を模索しながら作業にあたることにした。

 最初はそれなりに順調であったのだが、徐々に分類で躓くようになった。いろいろな地方国から様々な商品を輸入しているという輸入者の説明どおり、見慣れないものや使用方法が想像もつかない商品が多かったからである。

 輸入者に商品内容を確認したり、インターネットで同種のものを調べたりしているうちに時間が流れ去っていく。ようやく一件の書類の税額計算を終える頃には、予定していた作業時間を大幅に超えてしまっていた。そこでイェンスに相談して作業手順を見直し、改善案を書き出して新たな気持ちで次の輸入申告準備へと移った。

 効率を意識しながら商品を分類していくうちにだんだんと商品内容を掴めるようになり、輸入申告書の内容をおおまかに描きながら税額の計算を終わらせていく。そして次の日の午前中に全ての輸入申告書作成を終えて金曜日に六件とも無事輸入許可になると、ブローカーが担当するところは終了したため、イェンスと共に胸を撫で下ろした。

 事務所は統合へ向かってさらに準備が加速し、そこで働く人たちの出入りも活発になっていった。新しい会社の名称も正式に決まり、仕事の内容で勤務場所を振り分けることで話がまとまったらしく、僕やローネなどの業務担当者や営業担当者などはギオルギの事務所へ、ギオルギの事務所で総務や人事などを担当していた人たちはムラトの事務所へと移ることとなった。ゆくゆくは同じ建物内に収まるように移転も検討しているらしいのだが、近くに適切な空き事務所が無いらしく、今のところはその体制でいくようである。僕たちは引っ越しの準備に加え、迫って来た年の瀬の繁忙期と重なり、慌ただしく過ごすようになっていった。

 そのような中でも少しずつではあるのだが、僕自身の内面と向き合う時間を意図的に作っては関心を払うことを心掛けていた。正しいやり方かどうかはわからないのだが、自室の窓際のソファにゆったりと座ってはその日に感じたことをあえて思い返し、あるいは興味の湧いたものや関心のある出来事を積極的に調べるようにしたのである。

 イェンスが指摘した変化に対して疎いところもあったのだが、体力や筋力が向上し、力強くなってきたことはふとした拍子に実感するようになっていた。また、相手の表情や視線から、ぼんやりとではあるのだが、その人の考えや感情が読めることも度々起こった。そうなると、その相手の心情に沿った言動を取ったりもしたのだが、そのほとんどが僕自身の本意で無いことから、イェンスと話す時以外は気疲れを感じることも多くなっていた。

 最終的には他人の気持ちを推察して対応するのではなく、人がふとした時に見せる純粋な眼差しを追うようになった。それは母親が自分の子供に向ける時のような、あのあたたかい眼差しなのだが、年老いた人が過去から現在を回顧した際に満ち足りていると感じた時に見せる眼差しや、胸躍らせる内容の本を熱心に読んでいる子供、自分の仕事に誇りを持って取り組んでいる職人が見せる力強い眼差しなどにもよく見られるものであった。

 このことをイェンスに打ち明けると、彼は微笑んで「そうなんだよ、クラウス。あの純粋な眼差しがあるから、僕はここに居られるのだ」と言葉を返した。僕はその言葉に心から共感し、彼と共有できた喜びをも分かち合った。

 それでも人々の心に深く突き刺さるような悲しい出来事は、世界中から毎日のように報道されてはいずこかに流れていった。残虐な事件も憎悪に渦巻いた争いも、この地上から全く消えることは無いのかもしれない。その度に人々が声を荒げて怒り、弱者に対してあたたかい眼差しが向けられるように意見を述べることは、もっともなことなのであろう。そして行き場のない負の感情に翻弄されて打ちひしがれていた人々が、自ら希望や喜びを見出そうとひたむきに前を向くその様に、僕は心を打たれるようにもなっていた。自発的に輝こうとするその強さとたくましさに、独特の美を見出すようになったのである。

 ユリウスとはあの晩以来連絡が途絶えていたのだが、イェンスも僕も彼との間に特殊なつながりを感じていたため、この空白の期間を前向きに捉えていた。

 そのイェンスとはさらに親しく付き合うようになり、お互いのアパートに行き来しては変化を語り合い、そうでなくともただのんびりと一緒に過ごすようになっていた。それは僕にとって大切な確認作業であり、慰めともなっていた。思考が未熟な状態で独り、考え事をしていると、あの魔物がのっそりと現れ、不安の底なし沼へと引きずり込もうとするからである。同じ境遇にイェンスが人生の先輩として、そして何より友としていることは非常に心強かった。

 しかしながら彼が以前話した、自分を愛することに関して僕は未だ要領を得ないでいた。その言葉の意味がそもそも掴めていなかったのである。そのことでいくつか彼に質問を投げたのだが、彼は僕に静かな微笑みを向けてこう答えた。

「焦るな、クラウス。僕だってまだ道半ばだし、はっきりとした答えを得たわけではない。ただ少しだけ、君の前を歩いているだけなんだ。だが、君の気持はわかる。確かに僕は直観を得ている。それはあるがままの自分を受け入れるということだ」

 あるがままに自分を受け入れる。これが実に難解で、僕自身に対する『嫌悪感』をももたらした。僕は欠点が多かった。そのことを自覚しているため、なぜそのことが必要なのかも含め、なかなか理解できない自分自身に軽蔑にも似た感情さえ抱いたのである。

 ある時、僕が内面の未熟さで思い悩んでいると、イェンスが焦らずに軽い気持ちで自分自身を向き合えと助言をくれた。そこで僕は気分転換にその話題から意図的に離れ、本を読んでみたり、窓の外を眺めるなどして心を落ち着けた。それを受けてイェンスが「自分を責めるより、ずっと生産的だ」と微笑みながら言ったのは意外であった。一歩も前に進んでいない状況のどこに、生産性があるというのか。彼の言葉にはなはだ疑問を感じてはいたものの、安心感から彼の美しい眼差しを素直に受け止める。やはり僕が歩む道程は一筋縄ではいかないのだ。

 外では木枯らしが吹き始め、日がどんどん短くなり、朝晩はめっきり冷え込むようになった。街路樹の足元には落ち葉がたまり、人々が背中を丸めながら通りを歩く。美しく紅葉していた木々があっという間に冬支度を迎えると、僕はタキアの祖母からもらったマフラーを巻いて出掛けるようになった。そして一年の最後を締めくくる月は、仕事上の忙しさと移ろいゆく季節を感じながら迎えたのであった。


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