第5話

 月曜日になり、事務所へと出勤する。昨日は雨がぱらぱらと降ったり止んだりの天気であったのだが、今日は雲の隙間から日差しの届く、まずまずの天気であった。

「クラウス、おはよう」

 もう少しで事務所に着こうかというところで、ローネに話しかけられた。彼女に挨拶を返し、一緒に並んで歩き出す。

「今日で打ち合わせも最後ね、しっかり頼んだわよ」

 ローネが明るく激を飛ばした。その様子がいつも以上に茶目っ気に満ちていたため、思わず笑いながら返事をする。それにつられてローネも笑っているうちに僕はイェンスの件を思い出し、彼女に手短に説明することにした。

「そういえば、イェンスから直接話を聞きました。歓楽街で見かけたのは間違いなく彼なのですが、彼の知り合いの年配の女性を道案内していただけだったそうです」

 僕がそう伝えると彼女は安堵した表情を見せた。

 「なんだ、そうなの。彼らしいわね。でも、ちょっと期待もしていたのよ。あのイェンスが見初めた女性だから、どんなにか素敵な女性なのだろうと」

 ローネの言葉はある意味核心をついていた。エトネもイリーナも素敵な女性であることに間違いなかったからである。

 事務所で仕事を少しこなしてから出掛ける準備を始める。事務所を出る際にローネが、「今日で打ち合わせが最後でしょ。お昼を輸入者や他の業者の人と食べてくるなら、気にせずゆっくりしてきなさい」と伝えてきたので、「ありがとうございます。また連絡を入れます」と返して駐車場に向かい、早速CZ‐1地区へと向かった。

 輸入者の事務所に到着し、打ち合わせが始まるのを待つ。荷役業者のフォアマンという監督する立場の人が「いよいよ船積みですね」と話しかけてきた。地方国での船積みは十日後、本船の入港は遅れが無ければ五週間後を予定していた。そこに何度も練り直し、更新された作業計画書を携えた輸入者側の担当者と配送業者とが揃ったので、簡単な挨拶の後に詰めの協議がすぐさま始まった。

 輸入者が主体となって、荷役から配送までの全て手順と流れを綿密に最終確認する。懸念事項も再確認すると、無事打ち合わせは終了した。昼近くまでかかったため、輸入者側の提案により、関係者全員で昼食を一緒に取ることとなる。僕は輸入者の厚意に感謝の言葉を述べ、隙を見てローネに打ち合わせ終了と昼食の件とを報告した。

 ミアと一緒に行ったカフェとは反対側の方向にある、少し高級感あふれるレストランへと入る。皆、僕より年上で面倒見がいいこともあり、終始和やかな雰囲気で食事が終わった。それからお互いに握手を交わしてその場で解散する。ほとんど居合わせただけの僕にもあたたかい言葉がかけられたことは、本当に嬉しかった。

 帰り道、僕はミアのことを思い返していた。彼女は今日の午前中からアウリンコに渡っているはずである。しかし、それ以上の思考が思い浮かばなかったため、見慣れた景色を楽しみながら真っ直ぐに事務所へと戻った。午後は普段どおりに働き、時間はあっという間に過ぎていった。

 仕事が終わってアパートに戻る帰路の途中、ひょっとしたら早速ミアから連絡が来るんじゃないかと浮ついたりもしたのだが、その晩はどこからも連絡が無かった。彼女は仕事で忙しくなるため、そのうち連絡すると話していた。忙しさで余裕が無いのは当然のことであろう。特にこれといった予定が無かったこともあり、夜空を一通り眺めてから本を読むと早々に休むことにした。

 次の日は朝からイェンスを見かけた。彼を呼び止め、一緒に並んで歩く。彼と他愛も無い話をし、いつもどおり僕の勤め先前で別れた。僕は相変わらず輸入通関手続きの仕事をこなし、税関検査の立ち会いに行ったりもした。何もかもが普段どおりで特殊な仕事の案件も無かったため、僕の平日は平凡に過ぎ去っていった。

 木曜日を迎えたのだが、なおもミアから連絡が来ることはなかった。その日の午後、税関でイェンスにばったり会った。彼が「あれからどう?」と尋ねてきたので、僕は正直に状況を伝えた。彼は「彼女は忙しいんだろうな」と僕に気遣って言葉を返し、「ひょっとしたら今週、彼女から連絡が来るかもしれないから、あのレストランに行くのは来週にしよう」と提案してきた。僕は彼の気遣いに感謝すると、そうであったらと願いながらその場でイェンスと別れた。

 僕はいったん気に掛けなくなっていたものの、いつの間にかミアのことが気になって仕方がなくなっていた。彼女のほうから連絡すると言っていたのを自分自身に言い聞かせ、その連絡を待ち焦がれながら過ごす。しかし、金曜日になり、土曜日を迎えても一向に彼女から連絡は来なかった。

 その間、暇を持て余していたため、ぼんやりとアパートの窓から外を眺めたり、気晴らしに散歩に出掛けたりしながらも、今まさに連絡が来るのではないかとスマートフォンを常に肌身離さず持ち歩く。しかし、スマートフォンは結局うんともすんとも反応を示さなかった。僕はどこからも連絡が来なかったことに少しふてくされ、どこか晴れない気持ちで月曜日を迎えた。

 事務所へ向かうもイェンスを見かけることはなく、少しがっかりしながら事務所へ入る。すでに出社していたムラトがそんな僕の様子を見て、「おはよう、クラウス。実に嬉しそうに出社するじゃないか」と茶化した。その言葉に慌てて背筋を伸ばし、彼に大きめの声で挨拶を返す。ムラトは朗らかな笑顔で「今日もよろしく頼むよ」と言って戸口に向かって歩き始めたのだが、急に立ち止まって振り返ったかと思うと、「ギオルギの所に出掛けてくるから皆に伝えてくれ」と言い残して去っていった。

 ムラトが外出しても何かが起こることは無く、平穏のうちに終業の時間を迎えた。このところは残業もほとんど無く、仕事も非常に落ち着いていた。火曜日はローネが扱っている切り花に外来種の虫が発見されたようで、彼女は検査を実施した植物防疫官と電話で慌ただしくやり取りしていた。そこで僕がローネの他の仕事を手伝い、彼女が午後から行こうとしていた税関へも代わりに行って書類を提出し、税関の確認印を受けた返却用の書類を受け取る。しかし、突発的な出来事はそれぐらいであり、その他は順調に仕事が片付いていった。

 水曜日もムラトは打ち合わせのために朝から外出していた。僕は珍しく保税蔵置場に赴いて外国貨物の内容点検を行い、現物とインボイスとを照らし合わせて不審な点が無いかも併せて確認する作業にあたっていた。税関と同様にブローカーもまた、水際で社会悪物品等を阻止する役目を担っているのである。点検中にローネから他の件で電話が入ったのだが、それ以外で僕の電話が鳴ることは今日も無かった。

 僕は気に掛けないようにしていたつもりであったのだが、ふとした瞬間にミアの笑顔が脳裏によぎるものだから、あの甘い香りと相まっていたずらに刺激を受けていた。その度にやるせない気持ちになるのだが、いずれ彼女から連絡は来るのであり、今はどうしようもできないのだと言い聞かせる。その次の日の木曜日も、仕事だけは順調に終わった。

 その帰り道、残業中で事務所に戻る途中のイェンスに会った。彼は僕にミアとのことを尋ねたりはせず、彼の仕事の調子だけを伝えた。そして「まだ仕事が少し残っているから」と言うと、笑顔を残して去って行った。僕は彼の優しい笑顔と心遣いのあたたかさに胸がいっぱいになったのだが、結局は全く反応しない電話を恨めしそうに見つめながら真っ直ぐにアパートへと戻った。

 いつものように窓を開け、ソファにゆったり座って空や街を眺める。しかし、ミアから間もなく連絡が入るであろうという根拠の無い淡い期待と、それを押し込めようとする思いやりの仮面をかぶった現実的な理性とが交互にのしかかり、移ろいゆく風景が無造作に流れるばかりである。最近は仕事が順調であり、イェンスとも仲良くやっていた。僕はそんな自分をどこか過信し、見誤っていたのかもしれない。恋愛経験が少ないこともそれなりの原因であろう。ミアを食事に誘えないかという、一人よがりの大胆な願望が僕の中で渦巻いていたため、彼女からの連絡を待たずに今晩電話することにした。

 適当に夕飯を食べ、シャワーを浴びてゆっくりしながらも、ミアと何を話そうかといろいろ思考を張り巡らす。おそらく彼女は仕事で疲れているだろうから、長くは話せないであろう。それでもなんともなしに夜十時を目標にして窓際のソファに座り、本を読みながら時間が来るのを待つ。やがてその時間になるとかなりの緊張から一度はためらったものの、思い切って彼女に電話をかけることにした。

 数コールを緊張感とともに受け入れる。七回鳴らしても彼女が電話に出なかったら諦めようと思ったその時、彼女が電話に出た。

「ミア!」

 思わず叫ぶように話しかけると、彼女がどうしているのかが気になり、連絡を待たずに電話したことを詫びながら伝えた。

 「……そういえば、連絡して無かったわね。仕事が息つく暇も無いくらいずっと忙しいの。でも、それがしばらく続きそうなのよ」

 声はずいぶん疲れて聞こえた。いや、どこか戸惑っているようでもあった。淡い期待しか抱いていなかった僕は、独断で彼女に電話をかけて迷惑をかけたことに後悔し始めていた。

 「ごめん。君を思いやるのであれば、電話をするべきじゃなかった」

 僕は素直に謝った。窓から吹きつける夜風が身にしみたのだが、窓を閉める余裕も無くなっていた。

 「そうね、でも気にしないで」

 彼女はそう言ったものの、覇気の無いその声はどこか冷たかった。しかし、相変わらず僕は往生際が悪かった。疲れている彼女をさらに捕まえ、おそるおそる尋ねた。

 「その、もし良かったら明日の金曜日、夕食でもどうだろうか?」

 それを聞いた彼女から沈黙が流れる。僕はその無音を痛烈な後悔とともに受け止めた。まだその時期では無かったのだ!

 「ごめんなさい。明日も仕事の打ち合わせで、その政府側の担当者と夕食を一緒にする予定なの」

 ミアはつくづく優しい性格なのであろう。彼女は疲れていながらも、僕を気遣って謝りの言葉を添えて返してくれた。彼女が何一つ悪いわけではないのに。

「それなら週末はゆっくり休めるといいね」

 僕は明るく返した。そしてしばらく連絡を控える、と言い添えようとしたその時、ミアが話し出した。

 「ありがとう。実は週末、その担当者がアウリンコを案内してくれることになっているの。都市整備の手段だけじゃなく、アウリンコの名所とかいろいろ理解していたほうがお互いに仕事がしやすいから、って。彼、日曜日まで私に付き合ってくれるのよ。そこまで私を気にかけてくれるって本当に優しいと思うし、すごく素敵なことよね」

 彼女の口調がどことなく弾んで聞こえたのは、彼女が仕事に対して前向きな姿勢でいるからであろう。だが、彼女にしばらく会えないことがやはりさみしく感じられ、僕はつい黙り込んでしまった。どう彼女に言葉を返せばいいのか、何が適切なのか。

 「……忙しいからもう電話を切るわ。またね」

 「そうだね。仕事の成功を祈るよ」

 僕が何とか言葉を紡ぎ出したと同時に、電話はぷつりと切れてしまった。

 またね、と彼女は言ってくれたのだが、その『また』にあたる未来とはいつなのか。

 すぐに僕は先走った行動をしたという後悔と、彼女に気を遣わせてしまったという罪悪感との袋小路へと迷い込んだ。自分がどうしても至らない人物に思え、沈んだ気分のまま茫然と外を眺める。内側から込み上がってくる喪失感にも似た感情に囚われると、やり切れずに自分を責め始めた。

 僕はもはや、ミアとのことだけで暗澹たる気持ちになっているのではなかった。いったい、どうしてこうも僕は不器用で、優しい言葉一つも他人にかけられないのであろう?

 どうして、自己中心的な行動をすぐ取ってしまうのであろう?

 いくら問いかけても答えが見つかるはずもなかった。自責の念に打ちのめされ、罪悪感に囚われたままでベッドにもぐりこむ。しばらくの間、僕は毛布にくるまりながら悶々としていた。終着点の見えない迷宮のような思考がぐるぐると頭の中でしつこく回り、妙に頭が冴えわたっていく。やがてあれこれ考えるのに疲れ果てて諦めたのだが、今度はなかなか寝付けなくて静かにもがいた。焦燥感に駆られた頭がしぶしぶ眠りへの地へと投降したのは、ベッドに入ってから相当な時間が経った頃であった。

 いつの間にか朝を迎えていた。ほとんど眠れていなかったこともあり、目覚まし時計に起こされた目覚めは最悪である。けだるい眠気に襲われ、しばらくベッドの上で漫然として過ごす。それでもなんとか身支度を整えて朝食を無理やりほおばり、陰鬱な気分でアパートを出てふらふらと歩いていると、ちょうどアパートから出てきたイェンスと鉢合わせた。

 彼は僕の生気の失せた顔を見るやいなや、どうかしたのかと心配そうに尋ねてきた。そこで僕は昨晩のミアとのやり取りを正直に彼に全部伝えた。彼は驚いた表情を見せていたのだが、ミアとのやり取りに触れることはなく、僕の体調を気遣う言葉だけを返した。

「今日は仕事が終わったら、早くアパートに戻って休むといい。君さえ良かったら、明日あのレストランに行こう」

 僕はイェンスのさりげない優しさに感激し、素直にうなずいて返した。

「ありがとう、イェンス」

 僕の短い言葉に彼は「気にするな」と微笑み、それ以上その話題には触れなかった。そして僕の勤め先前に到着すると、イェンスは明るい笑顔で「では、明日また」と言って去っていった。

 イェンスの優しさに触れていくぶん気持ちが明るくなったのだが、それでも自業自得の象徴である虚ろな表情は隠せなかったようであった。すでに出社していたローネが、僕の眠そうな顔を見るなり「たるんでいるわ」と茶化す。僕が反論できずにしょげていると、彼女はどこからともなくあたたかいコーヒーをそっと僕に差し出した。ローネの気遣いに僕は丁寧に感謝の言葉を伝え、彼女から寝不足の理由を尋ねられたらそれなりに答えようと思っていたのだが、ローネは「夜更かししたのね」とだけ言うと他のことをし始めた。それが彼女の気遣いによるものなのかはわからなかったのだが、僕はとっくに彼女のあたたかさにも感激していた。どうして僕の周りにはこうも優しい人が多いのであろう。

 コーヒーを飲み、気持ちを入れ替えて仕事に取り組む。それでも頭の回転がいつもより遅い実感はあった。何度か眠気を感じ、その度に間違いを起こさないよう集中力を保とうとするのだが、結局僕はだらけてしまった。

 昼休みに簡単な食事を取った後、自席に突っ伏して目を閉じた。最初は眠れなかったのだが、ローネに笑いながら「午後の仕事の時間よ」と起こされたので、いつの間にか眠ってしまったようである。少しでも眠れたことでいくぶん持ち直し、午前中の体たらくを挽回すべく仕事を再開させる。これ以上惨めになることだけはどうしても避けたかった。

 ムラトが「ギオルギの事務所に行ってくる」と言い残して出掛けて行った。それを聞いたローネが小声で、「近々何かあるらしいの」と僕に話しかける。その言葉の意味が気にはなったものの、今の僕には仕事以外に関心を向ける余力が無かった。その後も僕は余計なことはなるべく考えないよう努めると、ただただ黙々と働いた。

 金曜日の仕事も無事に終わったので、急くように事務所を出た。僕は今朝の睡眠不足に加え、何ともいえない疲れを感じており、ようやく思いどおりに動けるという解放感だけで歩いていた。イェンスの助言もあって途中で夕ご飯を買う以外はどこにも寄らず、早々にアパートへと戻る。ぼんやりと食事を取り、夜空をそこそこ眺めると、電池の切れた体をゆっくりと休ませることにした。

 次の朝はひとまず充分な睡眠が取れたからか、目覚めは良かった。起きて顔を洗い、それから朝食の準備のためにやかんでお湯を沸かす。

 お湯が沸くまでの間、新鮮な空気を取り込もうと窓を開けることにした。朝日がまたしても、目覚めたばかりの街に生命の息吹を吹き込んでいく。その美しい彩りを眺めていると、早朝だというのに電話がかかってきた。見ると、実家からであった。

 「クラウス、昨日はどうしたの? 何度かかけたのに、電話に出なかったじゃない」

 母がおはようとも言わずに怪訝な口調で尋ねてきた。

 「……昨日は疲れて早く寝てしまったんだよ。何か用?」

 美しい朝の風景で、ようやく気分が前向きになろうとしているのを寸断された気がした僕は、わざとぶっきらぼうに答えた。実のところ、母に落ち度は何一つ無いのだが、機嫌を自分で管理し、愛想よく取り繕う器用さを持ち合わせていなかった。

 「あら、仕事が大変なのね。実はね、一昨日タキアのおばあちゃんからあなた宛てに、手編みのマフラーが届いたのよ。仕事で外にいることもあるだろうから、寒くないようにって。あなた今日取りに来られる?」

 母はいつも唐突であり、それでいてどこかのんびりとしていた。その母が放った言葉がまさしくそれを体現していたため、思わず返す言葉を失った。

 タキアとは父の出身地方国で、ドーオニツからははるか遠く離れた場所にあった。僕は十二歳の頃まで家族と一緒に夏のタキアを毎年訪れ、ドーオニツに無い豊かな自然に囲まれた祖母の家に二週間近く滞在していた。祖母の家の周りにある森や川や畑は、子供の僕には夢のような場所で、素朴な祖母の笑顔とともにかなり気に入っていた。そのため、かなり長旅であったにもかかわらず、タキアの祖母を訪れる時はいつも心を躍らせていたのである。

 最後にタキアの祖母と会ってからしばらく経っていることもあり、僕はつい懐かしさを覚えた。だが、ここから実家までゆうに二時間半はかかる。僕は面倒がって荷物を宅配で送ることを母に提案をしたのだが、近所に住む母方の祖母も僕の様子を気にしているらしかった。

「顔を見せに来なさいよ」

 母が僕をたしなむ。

 「夕方から約束があるんだよ」

 僕は行くとも行かないともはっきりさせずに返答した。ミアとのことでまだ靄がかかった心を完全に切り替えたい理由から、イェンスとどうしてもあのレストランに今日行きたい気持ちが強かった。

 「なら、ちょっと顔を出してすぐ帰りなさい。夕方までには充分間に合うでしょう?」

 母は熱心に勧めた。『ちょっと』のために往復五時間強もかけるのかと思うと気が滅入ったのだが、思えば働き始めて最初の正月に一度帰省して以来、ずっと戻っていなかった。おそらく母も気にかけていたのであろう。僕はしぶしぶ了解し、近くまで来たらまた連絡すると言って電話を切った。ふと気が付くとやかんがずいぶん唸っていたため、慌てて火を消し、一つ大きなため息をもらした。

 簡単に朝食を済ませ、身支度を整えて早々にアパートを出る。イェンスには後で連絡しようと、最寄りの地下鉄の駅まで急いだ。ドーオニツには山が無く、海上からの風に常に吹きさらされるため、早くから地下鉄が整備されていた。その地下鉄は高速特急や各駅停車など種類や本数が多いことから、遠くに移動する時は地下鉄を利用するのが一般的であった。

 イェンスの住むアパートあたりまで来た時、ちょうどアパートから出て来た彼とばったり会った。

 「おはよう、クラウス。休日だというのにずいぶん早いじゃないか! ひょっとして朝ご飯を食べに行くのか?」

 朝の澄んだ空気がまだ残っていたので、イェンスが少し肌寒そうに肩をすくめながら話しかけてきた。どうやら彼は朝食を買いに出掛けようとしているらしかった。

 「おはよう、イェンス。そういう君も早いじゃないか。ねえ、多分夕方にあのレストランに行くんだよね? それまでには戻るよ。少し出掛けてくる予定なんだ」

 それを聞くなり、彼は驚いた様子で尋ねてきた。

 「こんな早い時間に?」

 「母がさっき、電話をよこしてさ。タキアの祖母から僕宛てに荷物が届いたから、取りに来いって。急だけど顔を出したらすぐ戻る約束で、これからBZ‐7地区の実家に行くんだよ」

 僕の言葉にイェンスは「そうだったのか」と言葉を返したのだが、その表情は気のせいか、羨んでいるように見えた。その様子にふと思い付いた僕は、「一緒に来る?」と軽い気持ちで彼を誘った。

 その途端、イェンスの表情がぱっと明るくなった。瞳までもが輝いているように見えたものだから、僕は思わず愉快な気分になった。

 「本当にいいのか、クラウス。いや、やっぱりよそう。きっと久しぶりに会うだろうから、君も実家でゆっくりしたいだろう。レストランはいつだっていいさ」

 彼は遠慮がちに断ったのだが、僕は最初に見せた反応こそが彼の本意なのだと考えていた。なぜなら彼の表情が少し憂いがかったからであった。

 僕は本意を隠して気を遣ったイェンスに心を込めて伝えた。

 「僕と僕の家族は気にしないよ。僕の両親に気を遣う必要もない。それに本当に顔を出すだけのつもりでいるから、仮に長居するとしたら荷物が足りなすぎる。君さえ良ければ、イェンス……」

 ここまで言う頃には彼の瞳にありありと歓喜の色が浮かんでいた。

「本当にいいのか?」

 はにかんだ笑顔で尋ねてきたイェンスに「もちろんだよ!」と笑って返すと、彼は一息で「すぐにきちんと着替えてくるから待っていて」と言い残し、急いでアパートの中へと舞い戻っていった。

 彼が見せた無邪気な笑顔に僕はあたたかい喜びを感じていた。あまり気乗りがしなかった帰省が待ち遠しくさえ感じられると、思い切って彼を誘って良かったと一人で感慨に浸る。思えば、僕たちはお互いに家族の話をほとんどしてこなかった。それぞれの家族の、最低限の情報しか僕たちは持ち合わせていなかったのである。

 イェンスの実家はAX‐1地区にある、高級住宅街の一角にあるらしかった。外殻政府にも長年貢献してきたとささやかれるほど彼の実家がかなり由緒ある家柄のため、そもそも彼は僕のような庶民とは縁遠いはずなのだ。

 僕は今まで気にも留めていなかったのだが、イェンスは両親の反対を強く押し切った形で家を出てブローカーの仕事に就いていた。しかも世界を股に掛ける大手の会社では無く、僕の勤め先と同じような、規模の小さい会社であった。そういったところにも彼は人知れず、何かしらの悩みを抱えてきたのであろうか。

 ふと空を見上げると、うすい水色と濃い青色の濃淡をまとった空に、白く光り輝く朝日がたなびく雲のふちを白金色に輝かせていた。僕は空が織りなす、あまりに優雅で甘美な芸術にしばし心を奪われることがあった。今頃イェンスも身支度をしながら、きっとこの美しい空に視線を送っているに違いない。

 果たして彼は思っていたとおりであった。彼は幻想的ともいえる、この美しい空を見上げながらやってきた。僕たちの心を惹きつける、天上に広がる完璧な世界をお互いに無言で眺める。やがてどちらともなく顔を見合わせると、思い出したように地下鉄へと急いだ。

 特急の停車する大きな主要駅まで各駅停車で移動する。主要駅に到着すると、特急の乗り換えまで少し時間が余った。運行本数も多く、乗り遅れてもたいした時間のロスにはならないであろうと考えた僕は、イェンスと改めて駅構内にあるカフェで朝食を取ることにした。

 食事を終えてホームで特急電車を待つ間、イェンスが一緒に行くことを伝えるべく、母に電話をかける。母に彼のことを伝えたことが無かったため、彼を連れていくことを知らされた母はたいそう驚いたようであった。

 「友だちを連れてくるって、あなたが? なんて珍しいのかしら。あらまあ大変!」

 電話越しに大きな声がもれ聞こえ、思わず赤面する。すぐに帰るからと念押ししたのだが、聞く耳も持たずに母は慌てて電話を切った。唐突な僕が原因とはいえ、あわてふためく母の姿を容易に思い浮かべた僕は、苦笑いとともにイェンスを見た。

「急だったから、やはりお母さまにはご迷惑をかけるようだね」

 申し訳なさそうにイェンスが僕を見た。

「顔を出すだけなのに大げさなんだよ」

 僕がため息をついたからか、彼はゆっくりと口を開いて何かを言おうとした。その時、母から電話がかかってきた。

 「クラウス。あなた、お友だちとお家で昼ごはん食べていきなさい。せっかく来てくれるのに、何もしてあげないで帰らせたら申し訳ないわ! ね、お友だちにもそう言うのよ」

 母はそう言うやいなや、僕の返事も聞かないまま電話を切った。むろん、このやり取りもイェンスには筒抜けであったため、僕はまたも気恥かしさを感じながら彼を見た。しかし、彼は屈託のない笑顔を浮かべており、その瞳にはあの不思議な光があった。

 「君のお母さまは実に素敵な方じゃないか」

 彼の言葉に僕はなんともいえないこそばゆさを感じたので、照れ笑いでごまかした。

「そう捉えてくれるのであればありがたい」

 控えめな口調で返した言葉に彼はただ優しく微笑んで応え、それ以上は何も言わなかった。

 少しして特急電車がホームに到着した。空いている車両に乗り込み、イェンスと並んで座る。目的の駅まで時間がたっぷりあることもあり、僕は実家の表向きの情報をイェンスに説明しようと内容をまとめ、おもむろに彼に話し始めた。

 父がタキア出身であること、タキアの祖母の家に子供の頃はよく遊びに行っていたこと、母は電話のとおりのんびりかつ唐突な性格であるため、多少のことは気にしないでほしいことと母方の祖母が実家の近くに住んでいるため、おそらく母方の祖母も一緒に昼食を取るであろうことも伝えていく。

 イェンスはずっと興味深そうに耳を傾けていた。特に僕がタキアの森や川で日が暮れるまで駆け回り、祖母からは田舎で生活を楽しむ知恵や工夫を学んだことを話すと、彼は新鮮な驚きをもって受け止め、それどころか羨むような表情さえ見せたのであった。僕はイェンスにひとまず肯定的に受け止められたことが嬉しく、ほっと胸を撫で下ろした。そして彼と表面的な話題のみならず、少し立ち入った話もできたことにじんわりとした喜びをも感じていた。

「話してくれてありがとう」

 イェンスは朗らかに言ったのだが、その後は押し黙ってしまった。その様子から僕が彼に何か不快な思いをさせたのではないかと不安になったのだが、ふと彼が心の中で何かと折り合いをつけようとしているのではないかと考えた。思えば『家族』という、僕にとっても彼にとっても繊細な話題を取り扱っていたのである。

 彼に僕の家や生い立ちがどう映ったかはわからないのだが、もちろん、全てを事細かに伝えたわけではなかった。どの家庭にも事情があるように、僕の家族にもそれなりの事情はあった。それは僕が家族について考える時、その事情を切り離して考えるのが難しいほど、僕に複雑な思いを抱かせていた。

 僕の父はそのタキアの、小さな農家の出身であった。父は土を観察し、空を観察し、自然と共生し、その地域独特の風習が四季を表現するところで育ってきた。しかしながら、その循環した生活の一部分でも、都会ではそれほど重要視されないことであろう。田舎の農家出身であることは、ドーオニツ以外の都会でも価値観や生活様式がそれまでと異質過ぎ、打ちのめされるのかもしれない。父も人生経験から、おそらくはそのことに気が付いたであろう。それでも父は何とか乗り越えてドーオニツに移住することができた。しかし、喜びも束の間、まず対面した問題は言葉の訛りらしかった。きつい訛りのせいで、移住したての頃は相手の聞き間違いから起こる勘違いが多かったようである。だが、それ以上に父にとって大変であったのは、在来の者と外来の者との間を隔てている見えない壁であった。

 生まれ育った時からドーオニツ人としての教育を受けて自分たちの役割と立場を理解している者と、長き年月を経て形成された固有の生活習慣が根付いている地方国からやって来た者とでは、やはり全てにおいて同じように感じるのは不可能なことなのであろう。新参の居住者が、ドーオニツのしきたりに馴染めずに浮いていることはままあることであった。地方国での振る舞いがひょんな時に露呈してしまい、その程度によっては古参者から冷たい視線を浴びるのである。中には注意してくれる親切な人もいるであろう。しかし、ほとんどの人はどうやってコウラッリネンを突破したのかと首をかしげるほどの振る舞いを見せる新参者に対して無関心であり、それどころか距離を置こうとするきらいさえあった。それには理由があり、ドーオニツの規定から大きく外れた行動を繰り返す人は、そもそもドーオニツに馴染む努力を放棄しているので不要であると考えるからなのだが、それはどの地方国のどの共同体でも同じことが言えよう。しかしながら、ことさら順法意識が問われるここドーオニツでは、うわべだけの愛嬌で問題が解決することはなかった。

 憧れであった地が自分に冷たくあしらうかのような素振りを見せたなら、どんな人であれ落胆し、怒りや失意を覚えるに違いない。父が体験した悲劇もまた、そこに起因していた。事前にドーオニツについて学んでいても見えない壁にぶつかり、躓き続けた父は、その絶望にも似た苛立ちや不安と悲しみを酒で解決するようになった。だが、飲酒が問題の根本的な解決策であった試しがないのは火を見るより明らかで、とうとう父は不都合な現実の奴隷へとなり下がっていったのである。

 僕が酒に距離を置いているのはそれが理由であった。僕は幼い頃から、父が母に抱えきれない負の感情を暴言とともに押しつけてきたのを見てきた。時には皿やグラスが割れたりもした。そのことは僕が大きくなってからも起こり、僕は度々良き仲裁者になろうと努めたものの、結局は上手く行かず、ついに父を敗者として侮蔑するまでになっていた。

 僕はなぜ母が父と離婚しないのか、なぜ父がドーオニツ居住違反から強制送還されないのか、それらのことを考えると幼い頃からやるせない気持ちでいっぱいであった。一方で、その逆の感情も、心の片すみにはっきりと存在していた。小さい頃に家族でタキアを訪れた楽しい思い出は僕の心に喜びをもたらしたし、酒を飲まない普段の父は穏やかで順法を尊び、人前ではそれなりの愛想もあった。僕が幼少時の頃、父も一緒に遊んでくれた記憶も少なからずあった。喧嘩も嘆きも無い夜が続き、母も笑って一家団欒を迎えた思い出もそれなりにあったからこそ、家族に対して僕なりの特別な連帯感と嫌悪感を持てたはずなのである。

 僕にとって未だ決着のついていない家族に対するこの複雑な思いは、たとえ相手がイェンスといえども簡単に吐露するわけにはいかなかった。僕は自分の中の基礎となる部分に、悲しみと怒りとそれを感じる自分自身を責める気持ちがあることを、誰であろうと知られたくなかったのである。

 僕よりつらい状況の子供が大勢いることも知っていた。家族から得たのが深い悲しみと憎しみ、そして一生癒えぬ傷だけの人も世の中にはいるのだ。だが、渦中にいる時は自分がいかに無力で、愛を受けるに値しない無意味な存在であるかということをひしひしと感じていた。

 もしかしたら僕は感受性が強かったのかもしれない。いずれにせよ、家族間の軋轢は僕には充分すぎるほど暗く纏わりつき、抑圧感をもたらした。しかし、一方で衣食住には不自由してこなかったため、僕が思っているより恵まれた家庭だということも理解していた。そういう客観的な比較ができるほど、僕の感じてきた負の感情が甘ったるいものであることも把握していた。それゆえ僕が不幸だというレッテルを、簡単に自ら名乗ることは今まで一度もしてこなかった。悲しい経験があるかと尋ねられても、当たり障りのない経験を伝えて嘘をついていたため、知り合いからは苦労知らずと思われていたのである。

 思えば、誰とも分かち合わなかったことで、僕におもちゃのような孤独感と劣等感を招いたのであろう。それでも僕は解決策を図ろうとはしなかった。未熟なままで苦しんでいるほうが、解決策を求めて向き合う苦悩より楽なのだ。

 ――いや、ヘルマンに会ったあの晩、それまでに感じたことの無い感覚や、埋もれていた思考に直接触れたのではなかったか。そのことがきっかけとなり、僕は少しずつイェンスの立派な行いや優雅な立ち振る舞いに啓発されるようになっていた。しかも先日知らされたエトネたちとの一連の出来事で、イェンスや彼女の見返りを求めない思いやりと親切が、結局は彼ら自身の心に良い影響を与えたことまで目の当たりにしていた。この小さな気付きこそが、僕の根底に居座っている孤独で未熟な性質を動かす何かになるのではないのか。思えば、そのエトネの家に招待された帰り道、自分に起こる出来事にしっかりと向かいあっていくと自分自身に誓っていた。未熟な殻の件もイェンスに啓発されている件も、帰りのバスに揺られながらとっくに考えていたのだ。

 やはり、僕は前に進んで行こう。父のことも含めて僕は全てを許容できるほど達観もしておらず、人生の意味においても何一つわかっていないのだが、後戻りだけはしたくなかった。そしていつか、イェンスとこういった内面に関する話題も共有できたらと願った。独特の事情を抱えている彼には彼なりの考えと知見があり、もしかしたら僕と相反する意見を持っているのかもしれない。それでも僕にとってただ一人、彼だけがこういう話をできる間柄のように思われた。

 僕は隣に座っているイェンスを見つめた。彼は殺風景な暗闇を漠然と眺めていた。その魅惑的で物憂げな彼の眼差しから、彼もまた思索にふけっているのだと推察した。

 イェンスが僕の視線に気が付いたのか、ゆっくりと振り向いた。僕は彼をじっと見つめていたことに気恥ずかしさを感じ、咄嗟に「まだまだ遠いな」と話しかけた。彼は微笑むと「それすらも楽しく感じられるよ」とささやくように返し、視線を辺りに向けた。

 僕たちが乗っている車両は、居眠りする老人や中年の女性、若い男性が数人乗っている程度であったため、乗り慣れた地下鉄の車両が広々と感じられた。どこまでも続く単調な景色と物静かな車内に心地良く揺られているうちに、今朝少しだけ早起きをした僕たちのまぶたが重くなっていく。

 いつの間にか転寝をしていたらしく、はっと目が覚めて慌てて現在地を確認する。特急電車は次の乗り換えの駅近くまでやって来ていた。イェンスも転寝から目が覚めたのか、やおら上体を起こしてドアの上部にある運行案内のモニターを注視する。車内はいつの間にか乗客が増え、座席も埋まっていた。

 目的の駅に到着し、ホームの反対側で待ち合わせをしていた各駅停車に乗り換える。電車内は混雑しており、実家最寄りの駅まで僕たちは立ったまま揺られ続けた。四駅目でようやく到着し、イェンスを案内しながら見慣れた駅構内を歩く。どこにでもある特徴のない駅なのだが、イェンスは初めて訪れる場所であるからか、どことなく楽しそうであった。

 晴れた空に白い雲がたなびく。実家へは駅から十五分ほど歩くのだが、僕には歩き慣れた、数年前からほとんど変わっていないいつもの道であった。しかし、この道さえもイェンスにとっては興味深く新鮮であるらしかった。彼が子供のように輝く瞳であちこち見るものだから、僕は普段の落ち着きと打って変わった彼の様子が面白おかしくて仕方なかった。もう少しで実家に到着する頃合いになっても僕の心が軽快さを保っていたので、家族に対するそれまでの複雑な心境をいったんわきに置き、単純に滞在を楽しもうという気概さえ抱き始めていた。

 三階建ての一軒家である実家は、以前とさして変わった様子は特に見られなかった。玄関先で、父が手入れをしているベゴニアとパンジーが鉢の中から愛らしく僕たちを出迎える。それさえも数年前と全く同じであった。

「ただいま」

 開いていた玄関ドアから遠慮がちに声をかける。その瞬間、待っていましたと言わんばかりに、奥から母が急ぎ足で出迎えた。

「おかえり、クラウス」

 母がドア口から離れると、父と母方の祖母もリビングルームの前で僕たちを歓迎しているのが見えた。家族にイェンスを紹介しながら家の中へと入っていく。

 おおよそ一年九か月ぶりに見た家族は相応に年を取っており、見慣れたはずの顔にはしわが少し増え、頭には白髪がさらに目立つようになっていた。会わないでいた時間が長ければ長いほど、経った年数に何ともいえない哀愁が漂うのであろう。年老いた家族の姿はそれだけで僕の心に訴えるものがあった。だが、それ以外で特に変わった様子はなく、何もかもが過去の記憶どおりである。そうなると、僕の中の感傷的な気分は泡のように消え、本来の生意気な性格があっという間に席巻していった。

「あなたがイェンスなのね」

 母が興味津々に話しかけた。

「いつも息子がお世話になっているみたいで」

「とんでもありません、僕がいつも彼に助けられているのです」

 イェンスが気品あふれる笑顔で答えたため、母は彼の落ち着いた振る舞いに感激しているようであった。しかし、母は「ゆっくりしていってね」と言い残すと、それ以上話しかけることなくキッチンへと去って行った。父が言葉少なめながらも笑顔でイェンスを歓迎し、祖母がイェンスと僕を席に案内して飲み物を勧める。お昼の時間にはまだ早いのだが、食卓には母の得意な煮込み料理と父の出身国であるタキアの郷土料理がすでに並べられていた。

 思いがけないご馳走を目の前にして食欲が唸り声を上げる。やはり僕は単純なのだと思いながらイスに手を掛けたその時、母が僕を呼んだ。しぶしぶ返事をしてキッチンへと向かうと、母が一人で食事作りに奮闘していた。

「手が離せないから、代わりに冷蔵庫から食材を取りだして」

 どうやら食卓の上にあった料理だけでは足りないらしかった。

「それを洗って切って、今から大皿に盛る料理にうまく飾り付けて」

 忙しそうにあれこれと動いている母から続けざまに指令が飛ぶ。否応なしに戦場に駆り出された僕は上官の命令を実行すべく、一息付ける間もなく任務に取り掛かった。

 食材を洗って水気を切り、包丁を入れる。だが、切れ味が鈍い。そこで僕が文句を言うと、「切れ味があまりにもいいとこわいでしょ」と母はあっさり言葉を返した。僕は長年調理をしているにもかかわらず、未だに切れ味の良さをこわがっている母に驚きながらも別の包丁を探すことにした。

 父も郷土料理を作るためによく調理をしていた。おそらく父なら普通の研ぎ味の包丁を保有しているであろう。案の定、切れ味の良さそうな包丁が見つかり、緩慢な動作ながらも食材を切っていく。

 その時、父がイェンスにお酒を勧める声がリビングルームから聞こえてきた。その瞬間、相変わらず酒から離れられない父に対し、いいようもない怒りが込み上がる。そこで包丁をまな板の上に置くと、父をたしなめるべくリビングルームへと近寄った。

「クラウス、ちょっとこれ見てて」

 任務終盤間際でなおも母から指令が飛んできた。僕は邪魔されたことで母にも怒りを覚えたのだが、いらいらしているところをイェンスに見せたくない気持ちも少なからずあり、結局は行き場を失った苛立ちを抱えたまま母を手伝うことにする。果たして父がイェンスに失言したり、かつての失態を見せたりしないであろうか。そのようなことを気にかけながら作業にあたっていると、今度は父の軽快な笑い声が耳に入ってきた。その途端にとうとう我慢できなくなり、ついに僕は母に向かって声を小さく荒げた。

 「なんだって父さんはイェンスに酒なんか勧めたんだ! しかも真っ昼間だというのに!」

 それを聞いた母は戸惑った様子で僕に言葉を返した。

 「そりゃ、お客様だし、あなたが友人を連れてくるなんて本当に珍しいからね。きっと嬉しいんだと思うわ。それと、お酒は口をつける程度でほとんど飲まなくなったわ。最近もずっと飲んでいなかったし」

 僕は母の言葉にたいそう驚き、本当なのかと尋ね返した。

「本当よ。今日みたいなことでもない限り、外でも飲まなくなったわ」

 母はそう言うと朗らかに笑った。リビングルームからまたしても笑い声が流れてくる。どうやらイェンスと父と祖母とで会話を楽しんでいるらしかった。

 僕は母の言葉を受け、ふと母に昔のことを尋ねたくなった。父が酒に溺れていた当時、母はどう感じていたのか。そこで簡潔かつ核心をつく質問を母に投げるべく、一呼吸置いてから母を真っ直ぐに見つめた。

 「ねえ。母さんはどうして昔、父さんがもっと酒でひどかった時に離婚しなかったの?」

 母の手がぴたりと止まった。僕は驚いた表情で僕を見つめ返した母をじっと見据え続けた。この会話を長くするわけにもいかないのだが、どうしても今その理由を知りたかった。

 母は少し悩んだ素振りを見せたのだが、意を決したのか、口を開くとあっけらかんと答えた。

 「そりゃあ、別れたらお前の父さんは独りになるからね。当時は私もずいぶん悩んだし、もちろん離婚を考えたことも何度かあったわ。暴言を吐かれた時は悔しかったし、悲しかった。物が壊された時は、私がこれ以上我慢する必要なんかない、と何度も腹立たしく思っていたの。でもある時、あの人の立場になって考えたら、共感する部分が確かにあったのよ。それに私まであっさり離れたら、あの人は他人を恨んでばかりの気の毒な人になってしまう。孤独になったらますます自暴自棄になる。だから、あの時は確かに大変だったし、あなたも嫌な思いをしただろうけど、私は夫婦という言葉の意味を考え直して離婚を押しとどめ、なんとかやってきたのよ」

 母は言い終えるとはにかんだ表情を見せたのだが、すぐさま何事も無かったかのように作業を再開させた。しかし、僕は母の言葉にひどく驚き、困惑さえ感じ始めていた。

 母はつらい過去も含めて父を受け入れているのだ。今でも多少のいざこざはあるであろうに、僕はのんびりしていると思っていた母の思いがけない強さと、父への深い想いを知って愕然としていた。あの時、一番嫌な思いをしていたのは間違いなく母であった。その母の言葉がやはり信じ難くて茫然と立ち尽くしていたのだが、イェンスの笑い声でふと我に返る。

 そのことについて考えるのは、これ以上はやめよう。ひとまずはイェンスに家族の失態を見せることなく、くつろいでもらうのが一番重要なのだ。

 最後の料理ができ上がり、リビングルームへと運んで食卓の上に並べる。僕たちは早速ささやかな昼食会を始めた。イェンスは少し酒を飲んでおり、笑顔で父の話に耳を傾けていた。父のグラスを見ると、確かに酒を飲んでいる形跡は見られなかった。それでも上機嫌な様子でイェンスにタキアを語り、その様子を祖母が朗らかな笑顔で見守る。

 祖母の母親、つまり僕の母方の曾祖母の故郷は東のはるか遠くの地方国であった。父と同じくコウラッリネンに合格してドーオニツへ移住してきたのだが、歩んできた人生も父とほぼ同じようなものであったらしい。

 祖母は自分の母親を見るように父の体験してきた苦しさを受け止め、それだけでなく父に一定の理解をも示してきたようである。そのため、娘である僕の母へは父からの風当たりの強さを心配しつつも助言を与え、幾度となく僕の両親を陰ながら支えていたらしかった。

 実を言うと、僕は大きくなってからそのことに気が付いた。それは、父がいないところで祖母が母に移住の苦労からくる精神的負担と孤独について話していたのを、たまたま目撃したのである。母にとって祖母は良き理解者で、精神的な拠り所でもあったのだが、当時の僕は父をかばうような祖母のその行為が理解できなかったうえ、見えない事情を理解しようとする気概すら持ち合わせていなかった。

 だが、今の僕は先ほどの母の言葉で、思いがけない変化を起こし始めていた。それは過去をあるがままに受け入れようとするよりは、一つの出来事に対し、僕と異なる視点があることを理解できたことに近かった。しかし、仮にそうだとしても結局は新たな視点に否定的であり、過去に感じた苦悩を手放すことなど到底考えられなかった。父も苦しんでいたのかもしれないが、その陰で僕たちもまた苦しみ、被害を被ってきたのだ。

 それでも僕は心の中で風が吹くのを感じていた。その風は決して荒ぶるものではなく、ただ優しくそよぐものであった。僕は一方的な視点からの見解に対してひとまず距離を置くと、多角的な視点で捉えるということをぼんやりと受け入れることにした。

 久しぶりに食べた母の優しい手料理と父の無骨で素朴な郷土料理は美味しく、少年の日の思い出を鮮やかに蘇らせた。イェンスが母の味に感嘆し、父の料理に驚きを持って舌鼓を打つ。僕は穏やかで落ち着いた展開に胸を撫で下ろしていた。終始和やかな雰囲気で昼食が終わったので、僕は今回の訪問の目的である、タキアの祖母からの贈り物について母に尋ねた。

 「それならあなたの部屋に置いてあるわ。大変、あなたの部屋まで片付けなかったわ。ちょっと散らかっているけど気にしないでね」

 母が僕の部屋がある方を見ながら言った。そこで早速取りに行こうとした時、イェンスが一緒に行っていいかと僕に尋ねてきた。僕は母が散らかっているという言葉が気にはなったものの、快く応じると彼を僕の部屋へと案内することにした。

 階段を上り、三階の突き当りの手前の部屋が僕の部屋であった。久しぶりに中に入ると懐かしさがこみ上がったのだが、母の言うとおり半ば物置と化した部屋の扱いに憮然とする。それでも時折掃除はされていたらしく、部屋自体はそれなりに清潔に保たれていた。

 かつて使用していた机の上に箱が置かれてあり、中には紺地に白い一筋の縦線が入ったマフラーが丁寧に収められていた。縦長の分厚い封筒に入った手紙も添えてあったので中を開封する。するとそこにはタキアの祖母の大胆な字で、『いつも応援してるよ。体を大切に』と書かれていた。その短い手紙だけで僕は充分胸が熱くなり、優しいタキアの祖母の笑顔を思い浮かべた。

 イェンスは傍らで部屋を興味深そうに見回していたのだが、机の上に飾ってあった写真に気が付くと興味を持ったのか、その写真を食い入るように見つめた。熱心に視線を送る彼に、僕はそっと写真の説明を始めた。

 「それはずっと昔、タキアのおばあちゃん家に行った時の写真だよ。おばあちゃんと兄と僕の三人で、家の横の畑で写真を撮ったんだ」

 そこには五歳頃の僕と十歳年上の兄と祖母が並んで立っており、背後には遠くにある山も写っていた。写真は多少色褪せていたのだが、田舎の新鮮な空気や虫たちや鳥の鳴き声、幻想的な夜の雰囲気や小川のせせらぎなど、幼い頃に体験した美しい思い出をまたも鮮明に脳裏に蘇らせた。

 「これはいい写真だね。君にお兄さまがいるとは聞いていたけど、確かに君に少し似ているな。お兄さまは今、外殻政府にお勤めらしいね。君のお兄さまだからお会いしてみたかったな」

 イェンスが写真を見ながら言った。僕ははつらつとした笑顔を見せている彼にためらいがちに話しかけた。

 「兄は今、タキアにいるんだよ」

 それを聞いてイェンスが少し驚いた表情を浮かべた。僕は隠匿してきた事情を彼に言おうか言うまいか悩んだのだが、親しい彼には知ってもらいたいという気持ちもあった。一方で、彼に実家の暗黒部分を押しつけることに心苦しさも感じていた。

 少し間が空いてしまったのだが、僕は意を決すると彼をしっかりと見つめて言った。

 「父はタキアからドーオニツに来た時、田舎と都会における構造の違いというか、風習の違いとドーオニツ独特の雰囲気になかなか馴染めず、ずいぶん苦労したらしいんだ。それでその……」

 僕ははっきりとした言葉を意図的に避け、少し濁しながら慎重に背景を伝えることにした。

 「父はその苦悩を酒の力を借りて周囲にぶつけた。兄は特にそのことを快く思っていなかった。そのこと以外でも、父と兄は衝突することが度々あった。その後、兄がアウリンコで働くことになった時、父はすごく喜んでいたのだけど、兄はタキアの風景や思い出が忘れられなかったらしい。もともと僕と違って優秀だった兄はメキメキと頭角を現し、出世していった。そして五年前に自ら志願して、今はタキアの出先機関で働いているんだ。はは、おかしいもんだろう? 父が一生懸命、苦労してドーオニツへと移住してきたのに、兄があっさりとタキアに行ったのだから」

 少し喋りすぎたと思いながらも後半は自嘲気味であった。本当はこの話だけでも長く重い悲劇の脚本ができ上がるほど、当時の父と兄は揉めていた。その陰で母は泣き、僕もなす術が無く、不安げに過ごすだけの日々であった。

 イェンスはためらいがちに僕を見るとぽつりと言った。

 「そうだったのか。君も大変だったのだね」

 彼はすぐに写真に視線を移したのだが、再び僕に視線を向けたかと思うと、僕の心の内を見透かすかのように僕を見つめた。

 僕は先ほどの簡単な説明で、イェンスが僕の根幹部分に複雑な心境と思い出があることを、その鋭い洞察力を持って推し量ったのだと考えた。だが、彼も彼なりの事情を抱えているであろうに、このような暗い話題を押し付けたのは果たして良かったのか。

 イェンスはなおもあの独特の憂いをもって僕を見ていた。しかし、僕を憐れんでいるというよりは、僕にかける適切な言葉を懸命に模索しているように思われた。その優しさは僕に多少の後悔をもたらした。彼に余計な気遣いをさせたのであれば、僕が彼に伝えたことは身勝手で単なる自己満足であったのではないのか。しかし、もう話してしまったことはどうにも取り繕うことができないため、僕は自分の取った行動に責任を持とうと思い直すことにした。

 彼が僕の話をどう捉えるかは彼の自由だ。僕も決心して伝えたのだから、くよくよするのはよそう。そう考えると心に余裕が出てきたので、イェンスがその件に関してそれ以上気に掛けなくとも済むよう、僕は会話の流れを少しだけ変えて彼に明るく話しかけた。

 「兄とはほとんど連絡は取り合っていないのだけど、兄はよくタキアの祖母を訪ねているらしい。兄は結婚して家庭を持ってからは何かと忙しいみたいなんだ。いずれはアウリンコかドーオニツには戻るだろうけど、定年近くまではあっちにいたいようなことを言っていたから、なかなか気軽には会えないだろうな」

 その時、階下から母が僕たちを呼ぶ声が聞こえた。ふと時刻を確認すると、そろそろアパートに戻る時間であった。僕は母の能天気な呼び声に苦笑いを浮かべてイェンスに戻ろうと声をかけ、マフラーと手紙を片手に部屋を後にした。

 リビングルームへ戻ると、母が手に何かを持ちながら僕たちを待ち構えていた

 「あなたたちそろそろ帰る頃よね。夕飯は一緒に出掛けて食べるんでしょ? これ、お土産だから明日の朝ご飯にでも食べなさい」

 母はそう言うと、使い捨て容器に昼食とは別に調理した煮込み料理と肉料理、そしてタキアの祖母から送られてきたタキアのお菓子とをイェンスと僕に渡してきた。

「保冷剤をたくさん入れてあるからアパートまでもつと思うし、傷みやすい料理じゃないから、帰ってすぐに冷蔵庫に入れれば大丈夫よ。持っていて恥ずかしくないよう、適当な紙袋に入れてあげるわね。クラウス、たまには栄養のあるものをきちんと食べるのよ」

 母は僕の言葉を予想していたらしく、的確に反論の場を奪っていた。

「僕はもう二十歳だ。栄養バランスぐらい、それなりに考えているよ」

 僕が独り言のようにつぶやいたのを、イェンスが拾って微笑む。

 母はイェンスにも「良かったら食べてね」と言いながら渡した。彼はそれを丁重に受け取ると、みずみずしい笑顔を浮かべながら母にお礼の言葉を伝えた。父も母方の祖母も「またいらっしゃい」と僕たちに優しく声をかける。料理の入った紙袋に適当な袋に入れたマフラーと手紙も一緒に入れると、僕はぶっきらぼうながらも両親と祖母に感謝の言葉を伝えた。

「体に気をつけるんだよ」

 祖母が優しい笑顔で話しかけ、その隣で父が無言のままでうなずく。

 イェンスも挨拶を済ませたところで僕たちは実家を後にした。母と祖母は玄関先で見送っていたのだが、僕が恥ずかしいからと頼んだこともあり、母も祖母もすんなり家の中へと戻っていった。その姿が完全に見えなくなると、僕はなんともいえないわびしさと解放感とに包まれた。

 歩き始めてすぐにイェンスが、「楽しかった、本当にありがとう」と僕に伝えてきた。僕は「君が楽しい時間を持てたのならそれでいいよ」と明るく返事をしたのだが、僕の家族の濃厚な人間模様を彼に見せつけてしまったのではないかと、内心気にしていないわけでもなかった。

 しかし、僕の気掛かりをあっさりと打ち消すほど、イェンスは本当に気立てが良く聡明であった。彼が僕の過去の軋轢を聞いて少なからず感じたであろう疑問や意見を、僕にぶつけるようなことは一切しなかった。彼はそのうえ、『君はいい家族を持って幸せだ、君は両親に感謝しないといけない』と、僕に強要するようなことも一切言わなかった。そのことは本当に僕の心を優しく喜ばせた。

 僕は家族に対して感謝というものを全く感じてこなかった訳ではないのだが、家族という社会の最小単位で起こってきた様々な出来事は、そのほとんどが僕にしこりをもたらした悲劇として扱われていた。今回の帰省で変化の兆しが見えたかのように思われても、結局は心から感謝と喜びを感じるほどではなかったのである。おそらく僕は人間として未熟であり、幼稚だからなのであろう。そうであれば、僕のこの幼稚な頑固さはいったい誰譲りだというのか。

 地下鉄に乗り込むと車内が混んでいたので、僕たちはまたしても立ったまま乗り換えの駅へと向かうことにした。電車が動き出して間もなく、イェンスが両親の料理の腕――とりわけ母を褒めてきたため、気恥かしさを感じながらも彼にお礼の言葉を返す。今まで気にもしていなかったのだが、思い返すと確かに子供のころから一度も飽きたことのない味付けであった。華やかな料理こそ少なかったものの、母なりに栄養を考えて食事を作ってきたことにも気が付く。のんびりしていると思っていた母であったが、僕が知らないでいただけで家族のことを考えてくれていたのだ。

 僕はふと、母が僕に打ち明けた父に対する言葉も思い返した。父が独りになる、とは確かにそのとおりであろう。父はタキアに二度と戻らない覚悟でドーオニツへ出てきたと聞いていた。父から直接聞いたことは無いのだが、故郷の村で当時ドーオニツに渡る父を応援する者はほとんどいなかったらしい。そのような状況の中、独りで旅立っていった父が新天地で迎える苦労に思いを馳せたタキアの祖母にも、さぞかし心労が絶えなかったに違いない。

 ドーオニツから地方国を訪れるのは容易なのだが、その逆は実に難しく、身内といえども事前に外殻政府の派出機関に査証の申請をし、そこで入国審査を受けてその発給を受ける必要があった。審査自体は家族ということで簡略されている箇所もあるのだが、手続き自体は省略されていないのである。しかも滞在中は常に身分証明証を提示していなくてはならず、またその旅費も高額なため、タキアの祖母は一度もドーオニツを訪れたことが無かった。

 僕は母の言葉を噛みしめながら若き日の父を想像した。父の受けた衝撃と辛酸とがぼんやりと脳裏に輪郭を描き出す。しかし、頑固で意固地な僕は、それでも抵抗を捨てきれずにいた。家族を歴史のしこり無しに受け入れる日は、いつか僕に訪れるのであろうか。

 電車が乗り換えの大きな駅に到着したので、僕たちは後から入線してきた特急へと乗り込み、運良く空いていた座席に並んで座った。何となく一息付けた気になった僕は、イェンスに彼の家族のことをそれとなく尋ねてみることにした。それは彼がどういった家庭環境の下で育ったのか、単純に興味があったからであった。

 少し前置きしてから率直に彼に尋ねる。彼は覚悟していたのか、僕をまっすぐに見つめ返すなり一呼吸した。そして視線をぼんやりと宙へ投げたかと思うと、淡々と小声で説明を始めた。

「両親はそれなりに良い人たちだ。姉は結婚しており、高い能力を活かして外殻政府ですでに重要な地位に就いている。弟も昨年、大学を卒業して政府で働いている。僕たち姉弟は仲良くもあったのだが、僕だけ『例の』特徴が現れたため、やはりぎくしゃくしているとは思う」

『例の特徴』のところだけイェンスは怪訝な表情を浮かべ、ほとんど聞き取れないほどの声量でささやいた。そして実家にはたまに連絡を入れるのだが、滅多なことが無い限り顔を出すことはないであろうと付け加えると押し黙ってしまった。いつもの落ち着いた様子と打って変わって表情が硬く、時折僕を見ながらも終始目線を下に向けていたイェンスのその様子から彼の複雑な背景が垣間見える。それでも彼がうわべだけの関係を取り繕って答えたのではなく、きちんと事情があることを教えてくれたことに僕は感謝していた。

「話してくれてありがとう」

 ひとまずお礼の言葉を伝えたのだが、それに続く気の利いた言葉は相変わらず咄嗟には思い付かなかった。それでも浅い語彙数の中からなんとか言葉をひねり出し、正直に思ったことを彼に伝えることにした。

「なんであれ、僕は君の友人でいられることが嬉しいよ。イェンス」

 考えたことで間が空いてしまったことを気にかけながらも、僕はまっすぐに彼を見つめた。僕の言葉に彼はやや驚いた表情で応え、それから無言のまま下を向いた。その様子に不安を感じてつい緊張を覚える。ひょっとしたら重い友情を彼に押し付けてしまったのではないのか。

 その時、イェンスが深く息を吐き出してから僕を再び見つめた。その瞳にはあの不思議で美しい光が放たれており、僕の中の何かに力強く訴えていった。

「僕も全く同じ気持ちだ、クラウス。本当にありがとう」

 彼の緑色の瞳は力強く僕を捉えていた。その眼差しと放たれた言葉に安堵してつい笑顔になる。

 僕たちが未だ言い出せない秘密をお互いに抱えているのは事実であろう。それはおそらくお互いに不用意な発言をして、相手に心配や気遣いをさせることに抵抗を感じていることも一因であるに違いない。しかし、何事も包み隠さず言えるような間柄で無くても、僕はたった今も彼に対して友情を感じていた。そしてその友情に感謝と喜びとを充分感じていたのである。

 今はこれ以上家族の話をするのはよそう。

 僕はあたたかい感情を胸に抱きながらあえて話題を変え、イェンスに今晩のことについて話しかけた。するとイェンスももはや家族について言及することはなく、明るい表情で新しい話題に乗ってきた。

「お互いいったんアパートに戻り、冷蔵庫にこのお土産を置いてこなくてはいけないね。どうだろう、午後六時頃に君を迎えに行くよ」

 彼の提案に僕はまたしてもあっさりと同意した。そしてあのレストランに行くのは二度目ながらも久しぶりであったため、食べたい料理について話が盛り上がる。それも少しして落ち着くと単調な暗闇の景色もあいまって、僕たちは行きと同じようについ居眠りをしたらしかった。

 目が覚めると、乗り換えの駅に到着する寸前であった。急ぎながらも紙袋をしっかりと手に持ち、各駅停車へと乗り替える。ようやくアパートのある最寄り駅に到着して地上に出る頃には日が傾き始めており、少し冷たさを含んだ秋風は僕をさわやかな気持ちにさせた。

 イェンスといったん別れてアパートへと戻る。部屋に入るなり窓を開けて冷蔵庫にお土産を入れると、タキアの祖母からもらったマフラーと手紙が入っていた封筒を改めて眺めた。農作業で節くれだった大きな手で、一生懸命僕のために編んでくれたのだと思うと胸が熱くなる。懐かしい祖母の声を無性に聞きたくなったのだが、タキアとは時差が七時間あり、しかも今の時期の祖母は朝から農作業などで戸外に出ていることが多かった。電話をかけてお礼の言葉を直接伝えるのであれば、昼過ぎが最適な時間帯のように思われたので、僕は夕食を取った後に祖母へ電話をかけることにした。

 その時、肌寒い風が室内へと流れ込み、カーテンを小さく舞い上がらせた。冬には雪も降るドーオニツで防寒具は必須であり、祖母が編んでくれたマフラーは間違いなく重宝するものである。去年まで使用していたマフラーと交互に使えば、くたびれることなく長く使用できるに違いないと考えながら封筒の中を何ともなしに覗くと、一枚の古い写真が入っていることに気が付いた。実家にいた時はうっかり見落としていたのであろう。手に取ると、祖母の家から数キロメートルほど離れた山間にある川のそばで、僕が一人であどけない笑顔をカメラに向けていた。

 子供の頃、兄も含めた僕たち家族がタキアの祖母を訪ねると、時折祖母の家からそう遠く離れておらず大きな野生動物もいない自然の中を、祖母と母とが手作りしたお弁当を持ってピクニックを楽しむことがあった。ピクニックといっても一日中いるのではなく、昼食を取って少し休むぐらいの時間を楽しんでいたのである。

 写真の日付からして、僕が一歳半ぐらいの頃に撮った一枚である。懐かしさが込み上がってきたものの、なぜ祖母が写真を送ってきたのかが不思議に思われた。しかし、手紙にも写真の裏にも手がかりが無かったため、僕は今晩電話した時に一緒に尋ねることにした。

 約束の時間が迫って来たので、イェンスが来る頃合いを見計らってアパートの前で待つ。やがて颯爽と現れた彼と合流すると、僕たちはお腹が空いていたこともあって急くように歩き始めた。

 相変わらず大通りは活気にあふれていた。いつもどおりに様々な見た目の人々が通りを往来していく。通りすがりの人が、地方国の有名女優と俳優がお忍びで来ているようだと話しているのが耳に入った。それでもそのうわさ話を詮索することなく、ただひたすらレストランを目指す。

 地方国の有名人にとってアウリンコで観光旅行を楽しむことは、その人の品性を証明し、格を上げる行為らしかった。そのためにはドーオニツを経由する必要があるのだが、世界的に有名な地方国の名だたる人たちがドーオニツにも立ち寄り、観光を楽しんでいくことは決して珍しいことではなかった。もちろん、ドーオニツ人はその気質から、有名人を見てもおおっぴらに騒ぐことは少ないのだが、学校や職場で話題に上ることはよくあることであった。

 今なら歓楽街のほうが空いているかもしれない。そう思えるほど大通りが混雑しており、平日はおとなしいとされているドーオニツ人の陽気さがあふれる。週末であればよく見かける光景ともいえたのだが、結局イェンスと僕は人通りが比較的少ない裏通りを歩くことにした。

 裏通りも普段より人通りが多かったものの、大通りほどではなかった。少しくらい夜風が冷たくても、カフェのテラス席で皆思い思いの時間を楽しんでいるのを脇目で見ながら足早に通り過ぎる。その時、テラス席で男性と談笑していた女性がイェンスを見つけ、彼に向かって微笑んだのがわかった。イェンスがどう反応したのかはわからなかったのだが、僕が彼を見るといつもどおりで、気に留めているふうには見えなかった。

 明るい音楽がどこからともなく流れ、人々の笑い声と街の騒音とがそこに重なっていく。あるレストランの脇を通り過ぎようとした時、僕はミアと友人のエステラを思い出した。初夏のあの熱っぽい夜、このレストランは交流パーティーの会場であったのだ。

 ミアは今日一日アウリンコに滞在し、明日もあちこち見て回ると話していた。それならばわざわざドーオニツには戻らず、そのままアウリンコにあるホテルに泊まることであろう。仕事熱心な彼女のことだ、きっと今も疲れをものともせずにアウリンコの街並みを張り切って観察しているに違いない。

 そのような根拠も無いことを考えていると、ミアのことを思い出しても今朝ほど気持ちがふさぎこんでいないことに気が付いた。ようやく前向きになれたことに安堵し、思わず口元が緩む。

「どうかしたの?」

 イェンスが朗らかな口調で尋ねてきた。僕は怪しい振る舞いが見られていたことで思わず赤面したのだが、まとまりのない無造作な思考を正直に話すことにした。そしてつい笑ってしまったのは、僕の中に前向きさがあって安心したからなのだと付け加えると、彼は微笑みながら「君と一緒にいると本当に飽きないな」と言って僕の肩に手を置いた。

 彼の真意は図りかねたのだが、彼の言葉自体は素直に嬉しかった。それでも僕は気恥ずかしさから、つい生意気な口調で彼に言葉を返した。

「僕は変わり者だし、つまらないほうさ」

 その瞬間、イェンスが何とも言えない優しい眼差しで僕を見つめた。

「クラウス、君は決してつまらなくないよ。それだったら僕のほうが変わり者だ」

「まさか! 君が変わり者だなんて、君を知っている人なら誰だってそう思わないよ」

「君はそう言ってくれるんだね、ありがとう。それなら、ここはひとつ似た者同士ということにしておこう」

 彼はそう言うと朗らかな笑い声を上げた。

「似た者同士か、ずいぶんでこぼこなコンビだな」

 僕は控えめに反論したのだが、彼に認められたのが嬉しくて内心は愉快であった。

 路地裏のほのかな明かりと落ち着いた雰囲気の中を、無邪気な笑顔を見せるイェンスと心地良く歩く。時折潮風の匂いがかすかに鼻先をかすめると、僕はヘルマンの話を不意に思い出した。ゲーゼもこの通りを歩いたのかもしれない、そのようなことをイェンスと話し合うと静かな興奮までもが湧き上がる。その後も僕たちは軽口をたたき合いながらあのレストランへと到着した。

 来る途中がにぎやかであったため、僕たちはレストランが混んでいるのではないかと心配もしたのだが、幸いすぐに中へと通された。前回とは別の、奥の壁際のテーブルへと案内を受ける。ゲーゼがよく座っていたという席には、年配の夫婦らしき一組がすでに座っていた。僕は少し残念に思ったものの、この席からは店内のほとんどが見渡せたため、気を取り直して食事を楽しむことにした。

 前回いた女性店員はおらず、別の男性店員が丁寧に応対する。僕たちはメニューを見ながら、また似たような料理を選び、それさえもおかしくて笑いあった。注文を済ませると、僕は背後にあるゲーゼの肖像画がかけられている壁のほうを振り返った。僕からは斜めに見えるため多少見づらかったものの、そこには相変わらず憂いを帯びた眼差しの彼の絵が飾られていた。

 イェンスが絵をじっと見つめたまま、そっとつぶやくように言った。

「あの晩以来、僕たちにはいろんなことがあったな」

「そうだね。実はイェンス、君に聞こうと思っていたんだ。エトネのことなんだ」

 彼の視線が僕に向けられる。表情は穏やかであった。

 「君、もしかしたらゲーゼの振る舞いに感銘を受けて、彼女を助けたの?」

 それを聞いたイェンスがはにかんだ様子でうなずいた。

 「そうなんだよ、クラウス。ヘルマンの話を聞いてから、ゲーゼのような立派な行いに憧れてね。彼ほどではないけど、僕も少し特異だから何かに活かせたらと思ったんだ。単なる自己満足かもしれないけどね」

 彼の口調は控えめであった。

 「エトネの件に関して言えば、君が彼女にしたことは実に素晴らしかったし、僕は今でも思い返すと感銘を受けるんだ。君のしたことはただの自己満足なんかじゃないさ」

 僕ははっきりとした口調で言葉を返した。イェンスが取った行動は称賛に値するものである。――僕はそう信じていたし、言葉どおりに感銘を受けていた。

 「ありがとう。実は今日話したいことがあって……それで食事に誘ったのだ」

 イェンスが突然、真剣な表情で僕を見つめた。その美しい眼差しには、あの不思議な光が力強く現れていた。彼の様子から真面目な内容の話だということはわかったのだが、彼が何を話そうとしているのかが皆目見当がつかなかったため、緊張した面持ちで彼を見つめ返した。

 「クラウス。君は気付いているかと思うんだ。僕だけじゃない、君にも訪れた変化についてだ」

 僕は彼の突飛な発言に驚いて固まった。変化が訪れているとはどういうことなのか。いったい、イェンスは何について話しているのか。

 当惑している僕を見かねたイェンスがすまなそうに言葉を続けた。

 「その様子だと、まだはっきりと気付いていなかったようだね。僕には君の変化もはっきり目に見えていたのだ。でも、案外自分自身の変化には疎いのかもしれない。僕自身、確信を持てたのもつい最近だからね」

 イェンスが目配せをする。その視線を追うと、注文した料理がちょうど運ばれてきたところであった。

 「話は食事の後だな」

 彼はそう言うと、「腹ペコだろう」と付け加えて僕に食事を勧めた。しかし、僕はどうしても気になったので、美味しそうな料理を口に運ぶ前に彼に尋ねることにした。

 「待って、それは内面の変化のこと?」

 「そうとも。いや、やはり君は全体を把握していないな。身体的なこともある。さあ、ひとまず食べようじゃないか。実は僕が腹ペコなんだよ」

 彼が朗らかに笑ったのを受け、僕もひとまず質疑を取り下げて飢えている胃に忠実になることにした。

 魚介類をトマトピューレと香辛料で味付けした料理は、僕をあっという間に至福の世界へと誘った。パンのお替わりをもらい、僕の実家で起こった出来事などを話しているうちに食事が進む。イェンスが言った『変化』の話題に触れずとも会話が弾んだこともあり、イェンスも僕も好んで注文した水をあっという間に飲み干した。

 その美味しい水をさらに追加注文しようと店員を探す。すると、僕は近くの席に一人で座っている見知らぬ男性の視線に気が付いた。その男性の雰囲気に気になる何かを感じながらも、男性店員がやって来たので水を追加で注文する。店員が去ってから再びその見知らぬ男性をそっと見たのだが、彼は依然としてこちらを見つめていたうえ、目が合うと軽く微笑んできた。僕はその視線に何らかの意志を感じ取ったので、同じように軽く会釈して返すことにした。

 イェンスは僕の行動に気が付いており、背後を気にかけるように僕に顔を寄せると小声で言った。

 「やはり、僕たちを見ている人がいたのだね。視線を感じていたんだ。しかも君の様子を見て確信した。その相手から嫌な感じがしないんだ」

 僕はイェンスの鋭い感覚に感嘆しながら小声で返した。

 「後ろからでも視線を感じることも、さっき君が言っていた変化と関わりがあるようだね。その話はまた後で話すとして、そうなんだよ。嫌な感じが全くしないんだ。君もそうだったのか。あの男性をどこかで見たことがあるような気がしないでもないのだけど、直接は知らない。ただ、彼の雰囲気はまるで……」

 僕はそう言いかけて頭に閃くものがあった。それはドラゴンの爪のペンダントであった。僕が思わず店内のあの肖像画を振り返って見ると、イェンスがすぐさま言葉を足した。

 「ゲーゼのようだ、か?」

 「そうだ、その雰囲気だ! もちろんヘルマンの話と、見聞きした彼の伝承だけからの判断なんだけど、まさしくそのとおりなんだよ」

 僕は声量を抑えながらも興奮していた。

 「彼が僕たちを見ているということは、彼もきっと何かと縁があるのだろう」

 イェンスはゲーゼの肖像画に目をやりながら言った。僕たちが食事を終えてレストランを出た時、おそらくあの男性もレストランを出ることであろう。そしてお互いに話しかけてあの男性が何者であるかが判明した時、運命の車輪が回るかの如く、また新しい世界が展開していくのだ。

 なぜか僕にはそのことが理解できた。それどころかその近い未来に、期待に胸を弾ませてさえいた。そこで僕はそのことをより確信するため、見知らぬ男性と話す前にイェンスと話し合って確認を取ることにした。

 「イェンス、きっと君も彼に対して僕たちのほうから話しかけるか、彼のほうから話しかけられるか、どちらかを意図しているだろう。彼が何者であれ、僕たちがこういう状況を迎えるようになったのは、全てヘルマンと出会った夜が起因していると思うんだ。だけど、直接の原因はヘルマンじゃ無い。あのペンダントだ。今思えば、あのペンダント自体に何か不思議な力が宿っていたのだと思う」

 「クラウス。君と同じ考えを共有できて嬉しいよ。だけど、ペンダントの影響はそれだけじゃないんだ。僕はあのペンダントに触れてから、少しずつではあるけど変化を感じるようになった。以前より洞察力が鋭くなったと思うし、体力や腕力も向上している。だが、変化は能力だけじゃなく、もっと違うところにも起こった。クラウス、君は本当に君にも起こっている変化に気が付いていないのかい?」

 僕はイェンスの問いかけにまたしても当惑し、おずおずと答えた。

「ごめん、君がそういうことを話すこと自体に驚いているんだ」

 僕の言葉にイェンスは真剣な眼差しで返した。

「君は本当に気付いていなかったんだね。僕がさっき挙げた変化は君にも訪れている。僕にはそう見受けられる。僕は変化を実感するようになって、少しずつだけど僕自身の変化に向き合うようにしてきたんだ」

 僕はイェンスの言葉に驚愕していた。彼は身に起こった変化を敏感に捉えるばかりではなく、観察して向き合うようにもなっていた。彼は僕にも前向きな変化が訪れたと言ってくれたが、その研ぎ澄まされた知覚と高い自己研鑽性を持つ彼と、ぼんやりと日常を過ごしていた僕とでは、到底縮まることの無い能力と人間性の差があるではないか。しかも、その変化が彼の瞳に現れるようになったあの不思議な光をも含むのだとしたら、彼が指摘している変化が本当にこの鈍重な僕に訪れているとは言いがたかった。

 僕はますます戸惑い、能力的にははるか高い位置から僕を見下ろしているであろうイェンスと目を合わせた。しかし、その瞬間にイェンスが優しく微笑んだので、僕の中の戸惑いがたじろぎ始めた。

「君もすぐに変化を実感するさ。そうでなくとも君が心身ともに美しく、聡明で素晴らしい人間であることには間違いない。変化が僕にしか起こっていないのかと最初は考えたりもしたけど、君にも訪れていることがわかった時は嬉しかったんだ。君との友情が続くことにつながるからね」

 イェンスの清らかな緑色の瞳が、虚飾のない言葉とともに僕の心にすっと飛び込む。彼が僕のどの部分を変化と認識しているかは不明であったものの、ヘルマン以上に今まで誰からも言われたことの無い言葉を彼が言ってくれたことに対し、僕は感激であっという間に胸がいっぱいになっていった。

 「君と出会えて良かったよ、クラウス。これは先ほどまで話していた変化と関係なく、今まで僕が思っていたことだ。突拍子もないけど、友人関係とは互いに押し付け合うこと無く、相手の幸せを願うことだと思っている。そういう友が自分にいると思うだけで、僕自身が強くなれる気がするんだ。そしてクラウス、君がまさにその存在なんだよ」

 僕はまたしてもイェンスからの思いがけない告白に驚き、感激のあまり言葉を失う。まさか、イェンスが僕にそのような友情を感じていてくれたとは!

 友人がのびのびと、彼が求める喜びの中に生きていることを知っているだけで、自分までもが力強くなれる。

 僕はそのような深い信頼で結ばれた友情を、心のどこかで理想として追い求めていた。それは親友と呼べる存在がいない僕にとって、永遠に手が届かないあこがれのようなものでもあった。しかし、そのあこがれが、理想を共有したいと願っていた相手から今まさに贈られていた。そのことがどれほどまでに深い喜びを僕にもたらし、とめどない感謝の気持ちをももたらすのか。

 イェンスが目の淵を拭ったので、僕も目の淵を軽く拭う。緑色の美しい瞳が僕を真っ直ぐに捉えると、彼に対するあふれる思いをきちんと言葉で伝えるため、僕はその眼差しをしっかりと受け止めた。

「ありがとう、イェンス。僕も全く同じ気持ちだ。君にそう言ってもらえて本当に嬉しいよ。本当にありがとう」

 僕の言葉が決して洗練されていないことは自覚していた。それでも彼に力強く伝えたことで、内側から喜びがまたしても湧き上がる。僕の言葉にイェンスは清らかな笑顔を返し、「こちらこそありがとう、クラウス」とささやいた。

 僕は友情がここまで感激をもたらすものであることを知らなかったので、初めて味わうあたたかい感情を噛みしめた。ただ仲が良いだけではなく、同じ感情を共有しているということが実に心地良いのである。僕はイェンスとの友情にひたすら感謝し、少し落ち着くまでその感激に何度も静かに浸った。

 それから少しして僕たちは食事を再開した。落ち着いた店内の雰囲気が心地良く、お互いに無言でも気まずさは全く無かった。あの男性は時折こちらに視線を向けながら、デザートのようなものを食べていた。僕たちの食事はほぼ終わっており、後は頃合いを見て会計を済ませるだけである。

 「クラウス、変化の話はあの男性と話した後でしよう。食事もほとんど終わった。店を出たらおそらく、僕たちはまた岐路に立つようなことを体験する。それが終わってからでも充分、僕たちは語り合えるさ」

 イェンスは穏やかな表情であった。僕も同意してうなずいたのだが、ふとタキアの祖母にお礼の電話をしていないことを思い出した。祖母への電話は後日でもいいのであろうが、僕はなるべくなら今日電話したいと考えていたので、率直にイェンスにそのことを伝えた。

 「イェンス、その、後でタキアの祖母に電話を入れていいだろうか? できれば今日のうちにお礼の電話を入れておきたいんだ」

「むろん、そうだ。そのお礼の電話とあの見知らぬ男性と、変化の話はまた別物だ。気にせず君のしたいように電話を掛けてほしい」

 彼は優しい微笑みを浮かべながら言った。僕は彼のあたたかい言葉に感謝の言葉を返すと、「それならあの男性と話した後に電話をかけるよ」と添えた。

 ふとその男性を見ると、彼はすでに食事を終えて会計も済ませており、席を立とうとしていた。その際も男性と目が合い、意思のある眼差しが向けられる。その瞬間、僕の脳裏にドラゴンの爪が浮かんだ。

 その男性の雰囲気はまさしく、肖像画のゲーゼのようであった。どこか人を惹きつける外見であるその男性とイェンスが横に並べば、相当目立つことであろう。事実、彼が立ち上がっただけでも周囲の人から注目を集めていた。

 僕たちも急いで会計を済ませる。それは胸躍る予感に急かされたからだけでは無く、自然と目立ってしまうその男性をそっと周囲の視線から離すべく、早く自由にさせたいと考えたからでもあった。

 男性のほうが先に店内を出た。僕たちも少し遅れて店を出る。辺りを見回すより先に、僕たちを呼び止める低い声がした。

 声の主はやはりあの男性であった。彼はレストランから少し離れた、比較的暗がりの場所に立っていたため、僕たちはそこへ向かって歩き始めた。最初は薄暗さから彼の顔がよく見えなかったのだが、彼が手に持っていたスマートフォンの画面を確認した時、胸部から上が少しだけ明るく照らし出されたので彼の顔が浮かび上がった。

 「クラウス、彼の瞳の色を見たかい?」

 僕はしっかりと見えたわけでは無かったのだが、イェンスがなぜそう尋ねてきたのかはわかっていた。

 その男性はイェンスよりさらに身長が少し高く、鍛えた体をしていた。顔立ちは非常に整っていて顎鬚を蓄えており、また精悍さと知性と気品のみならず、堂々とした美しさまでをも漂わせていた。年齢はその落ち着いた雰囲気とやわらかな物腰から、僕たちより年上であることは推測できたのだが、それでもイェンスのような透明感ある肌はみずみずしい生気に満ちていた。

 彼は僕たちに歩み寄ったかと思うと、微笑みながら話しかけてきた。

 「やはり気付いてくれたか。自己紹介させてほしい。私の名はユリウス、ユリウス・ヅァイドソンだ」

 そのユリウスと名乗った男性が僕たちに手を差し伸べる。イェンスが先に自己紹介して彼と握手を交わし、僕も自己紹介をして握手を交わす。

 間近で相対すると、薄暗くとも彼の瞳の色がはっきりと確認できた。それは美しいすみれ色であり、まるで自発的に輝いているかのようであった。その神秘なまでの美しい色に、ゲーゼの肖像画に描かれていたあの紫色の瞳を思い起こす。彼はひょっとしたら――。

 イェンスと僕がユリウスの瞳を見つめたまま固まっていると、彼は察したのか静かに尋ねてきた。

 「その様子だと君たちは私の瞳の色を見て、私が何と縁があるのかをわかっているのだろう?」

 ユリウスの質問は短いながらも、鋭く核心をついていた。僕たちは無言でうなずき返し、続けてイェンスがささやくように言葉を続けた。

 「肖像画でしか知りませんが、ゲーゼと同じ雰囲気が感じられます。もしかしたら同じ――」

 彼が最後まで言い終える前にユリウスが小声で遮った。

 「そうだ、父親は同じだ」

 ユリウスは僕たちを静かに見つめていた。

 僕は彼の突然の告白に驚いたのだが、瞬時に思考を張り巡らした。

 ドラゴンのほうが人間よりはるかに寿命が長いとされていた。そのような定説の中でユリウスとゲーゼの父親が同じドラゴンであるということは、ドラゴンと人間が全く無縁ではないという意味なのであろう。ドラゴンの目的がどうであれ、ゲーゼより後にも人間と関わる機会を作ってドラゴンの血を半分与えたことも、何かしらの理由があって選択したに違いあるまい。

 不思議とそのような思考に辿り着くと、ユリウスの言葉はかつて無いほどの興奮を僕にもたらした。またしても伝説の存在であるドラゴンに関わるのである!

 しかも相手は直接の血縁関係があるのだという。到底信じられないような展開に、僕は浮き足立ってそわそわしたのだが、涼しい風に吹かれた瞬間にふと冷静になった。いつの間に僕はこのような世界に身を置くようになったのであろう?

 街灯が控えめの場所にいるとはいえ、ユリウスはやはり少し目立っているようであった。いったいここまでどうやって来たのかと疑問に思うほど、通り過ぎる人が彼に視線を向けていく。

 ユリウスは視線を気にしたのか、手に持っていた帽子をやおら目深にかぶった。そして僕たちに「少し歩こう」と提案すると、おもむろに歩き出した。

 三人で歩くとユリウスに対しての視線が減った半面、いつものようにイェンスがその矢面に立った。しかし、彼は気にしていないのか、颯爽と歩いていた。そうなると、この三人の中で一番目立たない容姿である僕の存在がいたたまれなくなったのだが、諦めにも似た心境から開き直って一緒に歩く。ユリウスが公園に行きたいというので、以前イェンスとの待ち合わせにも利用した、ゲーゼの銅像がある海沿いの公園に三人で向かうことにした。

 横断歩道を渡っている途中、向こうから歩いて来た人たちがユリウスを見るなり驚いた表情を浮かべた。彼らは一様に興奮した様子でユリウスに何度か視線を向け、すれ違いざまに「まさか、本物の将軍じゃないだろうな」とつぶやいた。僕はその言葉を聞くなり、愕然としてイェンスのほうを見た。

「まさかとは思っていたんだ」

 彼もまた驚いた表情で僕を見ていた。そこで僕はようやくユリウスの正体に気が付いた。

 彼は十数年前から外殻政府軍の大元帥と国家安全省の大臣とを兼任し、その素晴らしい手腕から、多くの地方国民から『ユリウス将軍』の愛称で広く慕われている、その人であった。人気こそ往年のゲーゼに及ばないものの、ゲーゼの再来と称されるほどの能力と魅力を持っているとされ、外殻政府大統領に次ぐ、重要な人物として知られていたのである。

 ドーオニツでアウリンコの要人や著名人に会うことはほとんど無かった。ドーオニツは独立国とはいえ、あくまでもアウリンコに労働力を提供する要塞であり、さらには巨大な倉庫として忠実なるしもべの役割を担う立場であった。そのため、アウリンコとドーオニツにおいてはっきりとした格差があり、見えない壁が存在していた。そのアウリンコ内でも至る所に見えない巨大な壁が存在しており、壁の向こうは異種族の住む特別管理地域同様、全く伺い知ることができなかった。ユリウスはまさしく、その幾重にも重なった壁の向こう側の存在なのであった。

 僕はそのことを思い出すと、なぜ雲の上のような存在であるユリウスがわざわざドーオニツを訪れ、僕たちに声をかけてきたのかが不思議でならなかった。ユリウスのほうが僕たちに気が付いて意図的に視線を向けたとはいえ、そもそも一般人があの『ユリウス将軍』と話す機会など、異種族と接触する機会と同様に不可能に近いことなのである。

 ユリウスは道行く人の会話と視線に気が付いていたらしく、「少し急ごう」と言って歩く速度を上げた。そうなると、もともとレストランと公園がさほど離れていないこともあり、僕たちはあっという間に公園へと到着した。

 美しい音色を響かせる虫の音が草の根あたりから流れてくる。公園内は恋人同士の他には若者たちがたむろしていたのだが、それぞれが彼らのことに夢中で、僕たちを気にかける者は誰一人としていなかった。

 公園の噴水近くにあるゲーゼの銅像から少し離れた、周囲からやや目立たないベンチを見つけてそこに向かう。レンガで積まれた花壇に沿うように据え付けられていたL字型ベンチの短辺にユリウスが一人で座ったので、イェンスと僕は長辺に並んで座った。ふと空を見上げると紺色の舞台に半月が浮かんでおり、流れる雲の隙間からその高貴な姿を見え隠れさせている。僕はその光景に一瞬心を奪われたのだが、なぜかタキアの祖母に電話をかけていないことをふと思い出した。時刻は夜八時を回っており、今が電話をかけるのにちょうどいい頃合いなのであろう。しかし、僕はこれから経験する出来事に胸を躍らせていた。タキアの祖母には申し訳なく思ったものの、電話は明日以降にかけようと思い直し、ユリウスが話し出すのを待つことにした。

 ユリウスは僕の熱心な視線に気が付いたのか、僕を見て微笑みながら静かに言った。

 「クラウス、君はどこかに連絡を入れたいのではないのかね? 私の話はその後でいくらでもできる。どうぞ遠慮なく連絡を入れてほしい」

 僕は心内を見透かされたかのような彼の言動に驚き、思わず固まってしまった。

 「なぜ……なぜわかったんです?」

 困惑している僕とは裏腹に、ユリウスが穏やかな表情で話し始めた。

 「君の疑問はもっともだ。少し順を追って手短に説明しよう。あのレストランは昔からたまに利用している。私の名が広く知れ渡るようになってからは、ほとんど行かなくなったのだがね。だが、今日は多少目立つのを覚悟で来た。確信があったのだ。今日あそこに行けば、何かが起こるだろうと」

 彼の言葉に、イェンスも僕も驚きのあまり言葉を失ってしまった。僕がこれから体験することは、想像している以上に重大な内容をはらんでいるのではないのか。

 「私はドラゴンの能力を少しだが受け継いだ。だから、ドラゴンに関わった者はなんとなくわかるのだ。おそらく君たちはヘルマンとすでに出会っており、彼からこれと同じものを見せてもらったうえに触らせてもらったのだろう?」

 ユリウスは小声で話すと、かつてのヘルマンと同じように胸元から何かを取り出そうとした。僕はそれが何であるかを勘付きながらも注視していると、やはりドラゴンの爪先であった。

 僕はユリウスがヘルマンを知っていることにも驚いた。彼らはもともと知り合いであったのだ。ますます不思議な縁を感じていると、ユリウスがペンダントを首から外して僕たちに手渡してきた。僕が先に受け取ると、イェンスと代わる代わるペンダントに触れた。それはヘルマンの所有していたものと全く同じであり、青白くうっすらと光りながら少し熱を帯びていた。

 「ペンダントがまたあなたの胸元で熱くなって僕たちを引き合わせたのですね」

 イェンスがユリウスにそっと尋ねる。ペンダントは僕の手の中で繊細な輝きを放っていた。

 「ペンダントも確かにそうなのだが、そもそも君たちがあのレストランに入って来るなり、一目でわかったのだ。君たちが運命の相手なのだと。そこで全てにおいてではないが、君たちの会話に意識を向けることにした。耳に神経を集中させていると、店の音楽や人の会話、食器がこすれ合う音に混じって埋もれていた君たちの会話が聞こえてきた。するとクラウス、君は彼とヘルマン、ゲーゼの話をした後、機会を見つけてタキアの祖母に電話をかけたいと、そう話していたじゃないか」

 彼はそう言うと微笑み、電話をかけるように促した。

 僕はペンダントを所有しているユリウスの話に、不信も疑いも全く抱いていなかった。彼はヘルマンを知っており、何より僕は彼のその超越した能力と心遣いに感嘆していた。ユリウスがドラゴンの血筋を引くというのはやはり本当なのだ。

 イェンスが微笑みながら僕に言った。

 「そうしたらいい。クラウス。きっと今が君のタキアのおばあさまに電話を掛ける頃合いなのだろう」

 そこで僕は二人にお礼の言葉を伝えてペンダントをユリウスに返すと、離れた場所に移動しようと立ち上がった。しかし、ユリウスがこの場で電話して構わないと伝えてきたため、気恥かしさもあったものの、その言葉に甘えてこの場でタキアの祖母に電話をかけることにした。

 スマートフォンを取り出し、タキアの祖母へ電話をかける。コール音を聞いているうちに、妙な緊張感に押しつぶされかけていく。

 「もしもし」

 おっとりとした祖母の口調の中に快活さを感じ取った僕は、あっという間に緊張を解きほぐして感激とともに祖母に話しかけた。

 「おばあちゃん、クラウスだよ。元気にしていた? マフラーをありがとう。今日受け取ったんだ」

 ふと左を見ると、ユリウスの顔がほころんでいるのが見えた。

 「久しぶりだな、クラウス! マフラーを受け取ったのがい、それは良がった、良がった! たいしたものは送れないけどな、これから寒ぐなったら、それ首さ巻いて、あたたかぐするんだよ。体さ気をつけれ、クラウス」

 訛りの強い、少ししゃがれた優しい声が電話口で響く。それと同時に、電話の向こうで祖母がくしゃくしゃの笑顔で話しかけているのが目に浮かぶようであり、僕の顔も自然とくしゃくしゃになる。祖母の声が大きいのか会話が聞こえるらしく、右側にいるイェンスもまた優しい表情で僕を見ていた。

 和やかな雰囲気に包まれて心に余裕ができたからか、僕はふと写真のことを思い出した。二人を待たせている中で電話を長引かせることに心苦しさを感じたものの、気になっていたこともあって祖母に尋ねることにした。

 「おばあちゃん、そう言えば写真が一緒に入っていたのだけど、あれは?」

 「ああ、あれはこないだ古いアルバムがら見つけだものだ。同じようなものが二枚あったがら、一枚おまえさ、あげたんだ。覚えでないべ、おまえはあの写真を撮った後、ちょっとだげ姿見えなぐなってな。まだよちよちと歩いている年齢だし、そごまで遠くさ行ってないど思ったども、川が近くにあるがら家族みんなで必死に探していだら、いつの間にか林からにこにこって笑いながらおまえがひょっこり出て来たんだ。見えなぐなってから確か数十分も無がった出来事であったども、皆たいそう心配したもんだった。ああ、クラウスのあの小さい頃の姿が懐がしいねえ」

 タキアの祖母はそう答えると電話の向こうで朗らかな笑い声を上げた。

 そういうことがあったのを僕は全く覚えていなかった。ただかなり古い記憶で、草むらの向こうで何か美しいものを見た記憶があった。それがいつで、場所がどこで、周りに誰がいたのか、そして何を見たのかはさっぱり覚えていないのだが、何かに非常に抵抗してから気分が高揚するような美しいものを見た――それだけは強烈に覚えていたのである。それがタキアの祖母が話した時と一致するかどうかがわからなかったので、僕はそのことには触れずに「そんなことがあったのか」とだけ祖母に返した。

 「またタキアに遊びにおいで。待っているがら。アクスルは少し遠いども、それでも新幹線で四時間ぐらいのどころに住んでいるがら、時々遊びに来るんだ。たまにはおまえもお兄ちゃんとも会いたいべ。だがら仕事が落ち着いだら、タキアさゆっくりしに来たらいい」

 祖母は優しく控えめに言ったのだが、それが本心であることはひしひしと感じ取っていた。

 「きっとまた遊びに行くよ。来年以降になるだろうけど。それまでおばあちゃん、体に気をつけてね」

 僕は心を込めて言葉を返した。後ろの花壇から虫の音が美しい演奏を奏で、辺りに余情を含ませる。ほほを撫でる風が電話越しに祖母に伝わるのではないかと思うほど、周囲の雰囲気は穏やかでやわらかさに満ちていた。

 「ありがどう、クラウス。また電話してけれな」

 「ありがとう、おばあちゃん。じゃあ、また」

 電話は時間にして数分程度であったのだが、祖母との素朴であたたかいやり取りは確実に穏やかな喜びを僕に与えていた。

 スマートフォンをジャケットのポケットに入れ、両隣に座っているユリウスとイェンスに改めてお礼を伝える。二人とも終始やわらかい表情で祖母との電話を見守ってくれていたので、それが本当に嬉しかったことも付け加えると、ユリウスが「気にするな」と朗らかに返した。そのあたたかい笑顔に感激し、僕の電話で中断させていたユリウスの話の続きが途端に待ち遠しく感じられる。そこで僕は礼儀正しい態度を心掛けながらも、彼の持つドラゴンの能力について確認したいところを尋ねることにした。

 「ユリウス将軍」

 僕が恭しく言うと彼はおもむろに首を振り、親しみを込めた口調で返した。

 「クラウス、よしてくれ。ユリウスと呼んでくれて一向に構わないのだ」

 ユリウスは僕たちを穏やかな表情で見ていたのだが、彼が非常に地位の高い人であることから、僕は逆に恐縮してしまった。それでも一呼吸置くと、なるべく心を込めて彼に呼びかけた。

 「ユリウス」

 彼は笑顔のまま、言葉を続けるよう手で促した。

 「その、あなたはドラゴンに関わった者はわかるとおっしゃいました。ヘルマンとも知り合いのようですし、僕たちが彼のペンダントに触れたことも知っていらっしゃる。質問ばかりで不躾なのは重々承知していますが、なぜおわかりになったのか、非常に興味があるのです」

 僕は真剣な眼差しでユリウスを見つめた。おそらくはイェンスも真剣な眼差しでユリウスを見つめているのであろう、澄み切った空気が僕たちの間を漂う。その静かな空間に虫の音が風情を添え、波打ち際の控えめな音が潮風とともに微かに流れ込む。

 ユリウスは力強い眼差しでイェンスと僕を交互に見たかと思うと、渋みのある深い声で話し始めた。

 「君たちは多少の話にも驚かず、受け止めて聞くことができるようだ。その準備もすでにヘルマンと会った時に整ったらしい」

 イェンスも僕も力強くうなずいた後はユリウスをじっと見つめた。

 「その前にまず、ドラゴンの能力と私のことについて少し説明しよう。おそらくその説明がなければ、なぜ私がわかったのか、君たちも理解しづらいだろう。そして私の能力に対して過度な期待もしなくなるはずだ。ドラゴンは五感が全てにおいて人間よりはるかに優れており、想像以上に深い洞察力と高い知能を持っている。速く高く飛べる飛行能力もあるうえ、人間には無い魔力も持ち合わせている。それゆえ神秘の言葉を用いて魔法を使うこともできるのだ。ドラゴンはあらゆる生物の頂点に立っており、その気になれば魔力を用いて一時的に他の生物に姿を変えることもできる。人間なら人間に、犬なら犬、カエルに虫といった具合にだ。また、言葉を交わさずとも直接相手と連絡を取り合うこともできる。私がドラゴンの能力について知っているのは以上だ。彼らは人間に対しては距離を置いているが、それは単に興味が無いからだ。私の父にあたるドラゴンはその中でも例外だが、それは父が人間に興味を持っていたからではなく、人間も含めた全ての生命と世界との均衡に興味があったからであり、その延長線上で人間と関わったに過ぎないのだ」

 暗くて彼の紫色の瞳は見えないのだが、その鋭い眼力に圧倒され、吸い込まれそうな感覚に陥っていく。

 「父が人間である母に、具体的にどう接触したかは今は話さないでおこう。ゲーゼは私の異母兄にあたる。その事実も自分の父親のことも、私は初めて兄に会った十二歳の時に知った。私はあのゲーゼがまだ生きていたことに、まず驚いた。もちろん、父のことに関してもだ。母は普通の人間であり、父親のことは私が生まれる前に病死したと聞かされていたからね。最初のうちは、兄の話をにわかに信じることができなかった。しかし、私が周囲の人間とどこか異なり、浮いていることにずいぶん戸惑い続けてきたから、兄の話を理解した時にようやく目の前の視界が晴れた気分になったのだ。全ての謎が解け、自分の宿命を知ることができたと言ったほうが適切かもしれないね。今思えば、兄と出会うのはやはり必然だったのだろう。私たちはお互いにその存在すら知らなかったのだが、結局は偶然が重なって引き合わせられている。そして兄と出会ったことがきっかけで、父であるドラゴンと秘密裏に会うことができ、その父から今話したドラゴンの特徴や私の出自、そして私が受け継いだ能力についても聞くことができた。その時に、父から直接このペンダントを譲り受けたのだ。ヘルマンは兄が以前父から渡されたものを受け継いでいる」

 ユリウスはそう言うと、先ほど僕から戻されて身に付けたペンダントを再度見せた。ドラゴンの爪がヘルマンの胸元で見た時より強く魅力を輝かせているように見えるのは、きっとユリウスがドラゴンの性質を確実に受け継いでいるからなのであろう。

 ユリウスはペンダントを服の中に落とすと、さらに続けて話した。

「兄とは十五歳の頃にまた会えたのだが、その後は兄が晩年の時に一度会ったきりだ。兄が亡くなったことを知ったのは、実を言うとヘルマンがペンダントを受け継いだのを見たからなのだ」

 彼は淡々と話しており、落ち着いているように見えた。しかし、僕にはその落ち着きが、かえって彼の境遇に暗い影が付きまとっているのを表しているように思われた。

「話を私の能力のことに移そう。私は確かにドラゴンの能力を限定的に受け継いでいる。しかし、本物には到底及ばない。私は一般的な人間より五感や筋力、そして直感力や記憶力が優れていることは確かに実感しているが、そもそも魔力が無い。ドラゴンからしてみれば、普通の人間とほとんど変わらないのだ。よって私は姿を変えることも当然できないし、言葉を使わないやり取りも空を飛ぶこともできない。私はあくまでも人間であり、そもそもドラゴンとは種が異なるため、何度も言うがそれは当たり前のことなのだ」

 そう言った彼の表情はどことなく憂いを帯び、その瞳には独特の哀愁さが漂っていた。僕は彼の言葉を聞きながら、すぐ隣にいるイェンスを慮った。彼は以前、エルフの特徴があると話していたのだが、変化はそこにも現れたのであろうか。

 ふと、僕の中で思考が湧き上がる。僕が推測しているイェンスの憂いをユリウスも同じように所有しており、それが彼らに深く絡まって、あの独特の哀愁を漂わせているのではないのか。

 そのイェンスがユリウスに尋ねた。

 「ユリウス。あなたは聡明な方ですから、僕の特徴にもすぐに気付いたことでしょう。しかし、そのことを脇に置いて伺いたいのです。あなたはご自分の能力が限定的だとおっしゃいましたが、それでも僕たちのことを見抜きました。最初に僕たちを見た時に感じたものとは、いったいどういった感覚だったのでしょうか?」

 イェンスを見ると彼の顔がすぐ近くにあったので少し驚いたのだが、その眼差しはやはり真剣であり、力強くユリウスを捉えていた。

 「その質問の回答はクラウス、君が最初に質問した内容に対する回答でもある。それは直感だ。しかも鋭く強く、その考えに対して絶対的な肯定感がある。私は父から譲り受けたこの爪先の影響で、少しずつだが能力が洗練されていったらしい。ドラゴンの力は非常に強大で、爪先というわずかなものでさえ影響を及ぼす。長時間触れた者は自身の五感や洞察力といった能力を高めることになり、そのことによって普通の人間では得られない気付きを徐々に得ていくことになるのだ。父の話だとそれが繰り返されることによって感性が研ぎ澄まされ、直感力が強く鋭くなるのだという。それゆえ、私は君たちが何者であるかを全く知らなかったのだが、君たちが私と似たような境遇を持っていることを強い直感で感じ取ったのだ。それにドラゴン含め、異種族に関わりのある者はお互い意識せずとも引き合うらしい。その理由は不明瞭なのだが、異種族の持つ不思議な力が、わずかでも関わりのある者にも作用するらしいのだ。普通の人間ならなかなか理解しがたいだろうが、君たちはすでにその体験をしてきたはずだ。だからこそ私たちは出会い、今ここにいるのだからね」

 ユリウスは静かな眼差しで力強く言い放った。

 僕はヘルマンからゲーゼの話を聞いた時のことを思い出していた。あの晩はそれまでの僕の人生と全くもってかけ離れた話の連続に、ただ困惑してヘルマンの言葉を鵜呑みにするしかできなかった。その後もしばらくは僕の身に起こった出来事の真意を図ることもできずに悩んだりもしたのだが、いつしか気にも留めなくなると、話の内容だけを都合よく理解できるようになっていったのである。

 特に興味深いのが、あの船長室で起こった出来事を細部にわたってはっきりと覚えていることであった。あの体験以来、ドラゴンやエルフに関する数少ない本を読み、感動が色褪せることのないように画策したのだが、ありふれた日常に埋もれていくにつれ、あの晩のことをじっくり思い出すことはほとんど無くなっていた。それでもいざ思い返すと、あの時感じた熱気、嗅いだ潮風の匂いのみならず、ヘルマンの話の細部までもが鮮明に蘇って僕を包み込んだのである。そういったことも踏まえてユリウスの言葉を思い返すと、僕に点と点がつながったような導きが訪れたように思えてならなかった。

 イェンスの言っていた変化とは、おそらくこのことも含まれているのであろう。思い起こせば、確かに以前と比べて洞察力が鋭くなった気がする。イェンスに対して思ったこともおおよそは当たっていた。そういったことが仕事に良い影響を与えていたのであれば、最近順調であったのも理由があったのだ。

 僕の内面のやり取りを読み取ったかのように、ユリウスが僕たちを力強く見据えながら話しかけた。

 「君たちも同じように平均を超える能力を持っているようだ。その様子だと、おそらくヘルマンに会う前から能力を開花させていたのだろう。どのみち開花させてしまった以上はもう後戻りはできない」

 この僕にも平均を超える能力がある、という彼の言葉は僕の心を捉えた。もしそうであれば、ヘルマンに会う前とはいつにあたるのか。

 僕はイェンスを感じていた。彼と出会った時点で、僕はこうなる運命にあったのかもしれない。彼と出会ってからはそれまで知っていた世界が徐々に遠のき、今までに体験したこともない感覚とともに、僕を取り巻く世界が変わっていったからである。

 では、イェンスと出会う運命とは、いったいどこで定まっていたのか。

 ユリウスは僕たちを見つめたまま、続けて話した。

 「イェンス、君はエルフの特徴があるね。なぜかは不明だが、直接の子供では無いようだ。そのエルフの特徴は見た目だけではなく、私と同様に特殊な能力をも、生まれつき君にもたらした。だが人間には無い能力は、自らを助けるのと同時に苦しめることにもなる。私と同様にな。むろん、ドラゴンやエルフから見たら同等ではない。はるかに劣る。そして人間からすれば、どこか相容れない存在となるのだ。なおかつ見た目にも目立つ特徴があるとなると、さらに人目を引いてずっと好奇の的となってきたはずだ。君は長年、相当つらい思いをしてきたと思う」

 ユリウスはイェンスを非常に優しい眼差しで見つめていた。ユリウスも同じく、孤独と悲哀の経験を積み重ねてきたのであろう。いや、ドラゴンと直接の関係があるのであれば、イェンスが感じてきた以上の悲しみを、不本意ながらも味わってきたかもしれないのだ。そのことを匂わせるほど、ユリウスの言葉には重みとあたたかみが含まれていた。

 イェンスは僕のすぐ隣でユリウスを困惑した表情で見つめていたのだが、突然張り詰めていた糸が切れたかのような表情を浮かべた。それはイェンスが長年感じてきた孤独や悲しみを、もはや包み隠すことなくさらけ出したのだと僕は捉えていた。

 突然、イェンスがむせび泣いた。僕はそんな彼の肩をそっと抱いた。イェンスの広くたくましい背中が幼児のように小さく丸まり、弱々しく震える。この光景は以前、エトネの家に向かう途中でもあった。

 あの時の彼がなぜ肩を震わせていたのか、今ならより深い推測ができるような気がした。僕は彼が抱えている事情に無知でありながらも、彼の幸せを心から願って言葉をかけた。ひょっとしたら、そのことが稚拙ながらも彼に寄り添ったことになり、束の間でも彼を孤独から隔離していたのではなかったのか。

 その一方で、僕はまだ本質を全く掴んでいないことも理解していた。僕が向き合おうとしている見えない世界の全容は、僕が覗こうとしたところで、果たして全てをさらけ出してくれるというのか。もしかしたら、僕は『塵が世界を知ろうとしているような存在』ではないのか。

 見えない世界が逆に僕を覗いているとは到底思えないほど、僕がちっぽけな存在であることは間違いないであろう。しかし、僕はまだほとんどのことを把握していなかった。その無知さが今の僕にとって幸いであったらしく、不思議と今後を不安に思う気持ちは起こらなかった。

 少しして落ち着きを取り戻したイェンスが、涙を一筋残したままユリウスを見つめた。ユリウスがその眼差しを、あたたかさと優しさとに満ちた表情で見つめ返す。僕は詩的なほどまでに美しいこの光景をしっかりと受け止めていた。異種族と何ら関わりもない僕の目にもあふれるものがあったのは、彼らが対面してきた苦難と孤独を、この身でひしひしと感じ取れたからなのかもしれない。

 頭上では見え隠れしていた半月がその優美な姿を神々しいまでにさらけ出しており、虫の音も優しく僕たちに寄り添っていた。吹く風も波の音も穏やかで、控えめに僕たちに挨拶をしていく。僕は周りの静かな美しさの中にユリウスとイェンスが調和して溶け込んでいるのを感慨深く捉えており、その自然的な美しさに感謝さえ抱いていた。

 遠くから人の話し声が聞こえる。どうやら、恋人同士が愛を語り合いながら向かって来ているようであった。その物音を気にかけることなく、ユリウスが時計に目をやる。すると彼は一瞬驚いた表情を見せ、僕たちを見るなり「残念だが」と切り出した。

 「もうアウリンコに戻らないといけない。時間はまだ遅くは無いのだが、明日は朝早くから約束があるのだ。だが、いずれまた近いうちに会おう」

 ユリウスはそう言うと、彼の個人的な連絡先が書かれたメモを僕たちに手渡した。僕たちは感謝の言葉を添えて受け取ったのだが、僕たちの連絡先を書き記すためのものをあいにく持ち合わせていなかった。そのことを僕たちがおずおずとユリウスに伝えると、彼は朗らかな笑顔を浮かべて言葉を返した。

 「気にするな。メモにして渡してあるが、深い意味は無い。君たちの連絡先は口頭で聞こう。私にとって大切な情報は全神経を傾けて一度聞くだけで充分だ。二度と忘れない。だから、安心して口頭で伝えてほしい」

 彼がそう言ったのを受けて、先にイェンスが連絡先をユリウスに口頭で伝える。続けて僕も口頭で連絡先を伝えたのだが、驚いたことにユリウスは彼の言葉どおり、僕たちの連絡先をあっという間に記憶したのであった。

 虫の音は相変わらず涼やかに鳴っていたものの、先ほどよりにぎやかさは薄くなっていた。人々の話し声が遠くから聞こえる中、足元では風が落ち葉を少しだけ身にまとっては脱ぎ捨てていく。このしっとりとした雰囲気が、僕の中で目覚めた情緒に静かな挨拶を送っているようであった。

 「今日は非常に素晴らしい夜だった。多くは語れなかったが、真実の部分は話せた。またすぐ会えるさ」

 ユリウスはそう言うと僕のほほにキスをし、優しく抱きしめた。それから親しい眼差しで僕を見つめて微笑みを浮かべた。僕は思いがけない彼の行動に感激し、「ありがとうございます」と言葉を返すのがやっとであった。

 ユリウスはイェンスにも同じようにした。しかし、イェンスはユリウスと抱き合うと、なかなか離れようとはしなかった。僕はそれを受けて、イェンスがユリウスの肩を借りながら彼の悲しみを洗い流しているのだと考えた。そんなイェンスをユリウスが優しく撫で、彼の頭にキスをする。

 「イェンス、君が持っているエルフの特徴が、変化を受けてこの先どうなっていくのかはわからない。いずれにせよ、君は宇宙の祝福を受けてこの世に生を受けたのだ。君は苦しみながらもそのことをうっすらと理解していて、君が君であることに誇りも抱いているはずだ。だから、いついかなる時でも自分自身を愛することを忘れるな」

 ユリウスはそう言うとすぐさま僕を見つめ、「クラウス、君もだ」と付け加えた。僕はユリウスの言葉にまたしても驚いたのだが、神妙な顔でうなずいて返した。

『自分自身を愛する』――その言葉の意味に戸惑ったものの、なぜか彼に質問をする気にはなれなかった。ユリウスがそれ以上何も言わずに空を仰いだので、僕もただじっとその様子を見守る。

 その時、イェンスが落ち着きを取り戻したのか、顔上げてユリウスに感謝の言葉を伝えた。そして彼から離れ、僕に向かって軽く微笑む。そのイェンスの表情に、僕は今までにない強さと輝きとを見出していた。きっと彼は驚異的な速さで内面と折り合いをつけたのであろう。全てが解決したわけでは無いのだが、イェンスの清々しい笑顔を僕は安堵の気持ちで受け止めていた。

 ユリウスは帽子を目深にかぶると、スマートフォンで誰かに連絡を取り始めた。会話の内容からして、どうやら警護を担当している人たちと話しているようである。その電話が終わると、イェンスと僕は公園の入り口までユリウスを見送ることにした。

 歩きながら僕はユリウスに硬い口調で話しかけた。

 「改めて申し上げることではないのでしょうが、僕たちはあなたのことも今日のことも、決して誰にも口外はしません」

 それを聞いてユリウスは朗らかな笑い声を上げた。

 「はっはっは、君はそんなことまで気にかけていたのか」

 彼は美しい紫色の瞳を輝かせた。

 「では、あえて言おう。私の秘密を知っている人間は、君たち以外ではヘルマン以外に他はいない。大統領にだって知らせていないのだ。いずれにせよ、私は君たちに何の心配もしていないよ」

 ユリウスが身近な人たちに彼の秘密を伝えていないことは意外であったのだが、イェンスの話を思い出したので素直に受け止める。やはり異種族と関りがあることは繊細な話題であり、相手の地位が自分より上でも避けたい秘密事項であるのだ。

 公園の入り口までやって来た。公園を出て少し歩くと、テレビでしか見たことが無い頑丈な高級車が、奥の道路わきに何台も駐車しているのが見えた。その近くには屈強な体格の、警護担当らしき男性数名がゆっくりと周囲を見回している。彼らは遠目からでもわかるような派手な動作をしていないため、人々が立ち止まって何事かと見守る騒々しさはなかったのだが、それでも物々しい雰囲気が辺りに漂っており、道行く人たちが関心を払っているようであった。

 「君たちとはここで別れよう。気をつけて帰るのだぞ。では、必ずまた会おう」

 ユリウスはイェンスと僕に笑顔で別れを告げると、振り返ることなく去って行った。やがて彼が僕たちから離れて数十メートルも歩いたところで、警護担当の男性二人がユリウスに気が付き、駆け寄ってユリウスを取り巻く。彼らは辺りを警戒しながらユリウスを車へと誘導したかと思うと、誰かと連絡を取り合ってから車へと乗り込んだ。

 その様子を注視していた周囲の人たちが、ユリウスに気が付いたらしかった。通行人こそ少なかったものの、僕たちのところにまで「ユリウス将軍がいらっしゃるようだ」という声が届くと、瞬く間に広範囲から小さな歓声が湧き上がった。

 偶然居合わせた幸運な人たちの歓声の中、重厚な車列が動き始める。運行を妨害するような人たちはもちろんおらず、ドーオニツらしい秩序だった興奮にイェンスも僕も身を隠すように便乗する。一台の車が僕たちの目の前を通り過ぎた時、車の中からユリウスがこちらを見て微笑みを浮かべたのが見えた。車列はあっという間に走り去っていき、それにつれて人々の興奮も収まると、すぐに普段の落ち着いたドーオニツの夜へと戻っていった。

 「さて、僕たちはどうしようか。イェンス、僕はまだ君の口から変化について聞いていない。実を言うと、そのことでもう少し君と話してみたいんだ」

 僕はイェンスに率直な自分の気持ちを伝えた。公園の入り口の明かりに照らされた彼は、朗らかな笑顔で力強く答えた。

 「実を言うと僕もさ、クラウス。今夜はとことん語り明かしてみたいんだ」

 「ここからだと僕のアパートのほうが幾分近い。どうだろう、四階まで階段を昇るのは大変かもしれないけど、周りを気にせず話せる。なんならあたたかいミルクも出すよ」

 僕は少しおどけた口調でイェンスに提案した。

 「素晴らしい提案じゃないか! よし、決まりだ。君の部屋へ向かおう。急いで歩けば二十分もかからないはずだ」

 彼もおどけた口調で返したので、お互いに朗らかな笑い声を上げて歩き出した。

 帰りも僕たちは人通りが少ない路地裏を選んだ。行き交う人は少なくなっていたのだが、それでも営業しているバーやカフェにはまだまだたくさんの客が残っているようである。週末に夜を徹して盛り上がる若者は、ドーオニツでは決して珍しい部類ではなかった。制限や規則の多いドーオニツでの生活に慣れているとはいえ、最大限の自由を求める若者にとって合法的に余暇を満喫することは大きな魅力であった。早々に自室にこもろうとする僕たちのほうが少数派なのである。

 人々の愉快な表情を眺めているうちに、僕は今日のゲーゼのレストランに行く時のやり取りを思い出していた。そのためか、ふと愉快な計画を思い付いたので、その愉快な気分に乗せて早速実行に移すことにした。

 「イェンス、競争だ!」

 そう言うや否や、僕はアパートのほうへ向かって全力で走り出した。後ろで「ずるいぞ、クラウス」と叫ぶイェンスの声が遠のいていく。僕は少しの間、無邪気な子供のように爽快な気分で走っていたのだが、長くは続かなかった。イェンスの声が背後から聞こえてきたかと思うと彼はあっという間に並び、僕の肩を力強く掴んだ。

 「つかまえた!」

「まいったよ、イェンス」

 僕が笑いながら彼に謝ると、彼も笑いながら言った。

 「クラウス、僕の勝ちということにしておこう」

 彼はいたずらっぽく笑いながら僕の顔を覗きこんだ。僕は無心で走った心地良さと、加えて彼と子供じみたことをしていることが面白くて笑いが止まらなかった。僕たちがそれ以上無意味な競争することは無かったのだが、行きと同様にふざけ合いながら帰ったため、周囲のやや冷めた視線とお決まりの色めいた視線は風景として溶け込んでいった。

 アパートに戻ってきたのは夜十時頃であった。イェンスを丁重に室内へと招き入れる。すると彼は僕がいつもするように窓を開け、歩いたことで汗ばんだ体を外の涼しい風にあて始めた。僕はその様子を見て「冷たい飲み物があるよ」とイェンスに伝えたのだが、彼は「いや、あたためた牛乳がいいんだ」と明るく返した。

 そこで沸騰しない程度にあたためたミルクを二個のマグカップに注ぎ、テーブルの上に置く。イェンスがその様子を眺めてから部屋を見回し、しみじみと言った。

 「本当にこの部屋は居心地が良いな」

 僕は褒められたことに少し照れながらも感謝の言葉を返し、「あたたかいうちにどうぞ」と付け加えてミルクを勧めた。

 部屋の二脚のイスが満席になるのは、僕の母が一人暮らしを始めて間もない頃に偵察しにやって来たのを除いて、いつもイェンスがいる時だけであった。

 以前は女性との交際に漠然と憧れ、ここに腰掛けながらゆったり二人で過ごすことを淡い虚像とともに思い描いたりもした。ミアに対しても、その儚く邪な願望は微かではあったものの、存在していたのである。しかし、いろいろな出来事に刺激された今となっては、その願望は僕の関心事からほぼ消えかかっていた。その代わり、僕は新たな願望を興味と好奇心を持って握りしめていた。それは今まで僕が見てきた世界には無いものであった。

 僕は心から興味を持っていることを、落ち着いた表情でミルクを飲んでいるイェンスに飾らない言葉で真っ直ぐにぶつけることにした。

 「イェンス。唐突だけど早速教えてほしい。変化の話だ。君は何を感じ、その変化を変化として認めたの?」

 僕は彼をじっと見つめた。その緑色の瞳が妖しく光っているように見えるのは気のせいであろうか。

 「もちろん、そのつもりでいた。その変化の説明のために、僕が最初から持っていたエルフの特徴を昔話と交えながら話したいと思う」

「わかった。喜んで聞こう。興味があるから、君さえよければ長くなっても構わない。ぜひとも詳しく教えてほしい」

 僕は彼に力強く言葉を返した。今までほとんど聞いたことがなかった彼の昔話を聞くことは、言葉どおりに興味も大いにあったのだが、僕が今後参考すべき重要な何かをはらんでいるように思われたからであった。

 その時、風が強く吹きつけ、少しだけ開けておいた窓の隙間からカーテンを壁に打ちつけた。その様子を一瞥してからイェンスがおもむろに話し始めた。

 「ありがとう。では、そうしよう。僕は幼い頃から人より……大人よりも洞察力と記憶力に優れていたらしい。他の人が気付かないことにも気付き、本質を見抜くのが早かったと思う。腕力や脚力、そして体力も同じ年代と比べて飛びぬけていることは感じていた。体格に差はそんなに無かったのだけどね。周囲の大人の言葉を借りて言うなら、僕は神童だったらしい。なおかつ、僕の見た目はエルフの特徴を引き継いで目立つ。両耳に奇跡的にあの特徴が現れなかったのは良かったよ。実は僕が五歳の頃、父と一緒にアウリンコに出掛けた時、本物のエルフに一度だけ会ったことがあるんだ。それは、ああ、偶然ではない、必然だったのだろう。いずれにせよ彼は僕に気付き、この特徴を瞬時に見抜いた。そして『君に若干の特徴こそあれど、私たちからすればやはり人間にしかすぎない。君の健やかな成長を願う』とだけ言った。当時の僕はその言葉の意味がわからなかったのだけど、なぜかその言葉がそっくり記憶に残った。その後、そのエルフが父に何かを話しかけたのは見ている。それ以来、僕がエルフの特徴を持っていることは、家族内の秘密となった。両親は僕の能力を活かし、なおかつ僕が好奇の目にさらされるのを少しでも緩和されることを思案して、特別な手続きを取って僕をドーオニツの学校からアウリンコにある学校へと編入させた。ずっと前に君にも話したことがあるけど、そこは男子と女子の校舎と寮とがきっちり分けられているんだ。その点は今でも両親に感謝している。ドーオニツにいた時より、気が楽になったからね。学校での成績や素行は、両親を喜ばせるぐらいのことはできていた。だが、僕にとって授業は退屈以外の何物でも無かった。友だちはできたのだけど、僕は興味が無いことに対して自分を偽ることに飽きていたので、数は多くなかった。そのうえ、ドーオニツからの生徒は校内ヒエラルキーの下位に存在すると考える生徒も一定数いたから、表面上は仲良くても疎外感を抱くことは度々あった」

 イェンスの顔が徐々に伏せていく。彼は自分の異質さを、高い知能と鋭い観察力とで長年にわたって受け止め続けてきたのであろう。特に最後のほうは聞いているだけでもやるせなくなったため、僕は両手を太ももの上でぐっと握り締めた。

「僕に好意を抱いた男子生徒もいたけど、なんとか上手にやり過ごしてきた。それより、校内外の女性から受ける好奇の眼差しのほうが大変だった。それが男子だけの場所でどういう意味をもたらすのかは、想像に難くないだろう。僕は周囲の嫉妬と羨望、そして意味も無く僕に取り巻こうとする奴らの間を漂うようになっていた。あの時は本当にうんざりしていたし、居心地も悪かった」

 彼の表情はずっと険しかった。思い返すのもつらいような体験であったのであろう。僕は彼にかける良い言葉を探していたのだが、こういう時に限って陳腐な言葉しか思い浮かばなかった。いや、そもそも洗練された言葉がすらすらと口をついて出たことなど、今まで一度も無かったではないか。そこで、僕は思ったことをそのまま彼に伝えることにした。

「イェンス。その時の君の心境を思うと、僕はいたたまれない」

 果たして僕は適切な言葉を発しているのかと、不安に駆られながら彼を見る。彼は「ありがとう」と言うなり、穏やかに微笑んで僕を見た。僕は彼が微笑んだことでひとまず安心し、ぬるくなってきたミルクを一口飲んでから彼の話に再び耳を傾けた。

 「そういったこともあって、僕は次第に学校でも一人でいることを好むようになった。周囲の級友のように、友だちと談笑できないさびしさはあったのだけど、それでも話しかけてくれる人は時々いたし、学校の行事などではなるべく協力的にしていたから、僕が変わり者であるという烙印で僕への扱いが落ち着いたんだ。居心地が悪い状況は残っていたのだけどね。大きくなるにつれ、僕はますます普通の人間と自分との差に愕然とするようになった。その時、確信したんだ。僕が見ている世界と、彼らが見ている世界が違うのだと。それからは、優秀な成績をまんべんなく修めることは両親の期待であったのだけど、理解が良すぎるのは目立つことに気付き、わざと間違えたり、わからないふりも時々するようになった。好奇の視線からとにかく離れたかったんだ。だから、孤立も僕にとってある意味救いだった。だけど、もっと身近なところに衝突があった。僕の姉や弟は才能にあふれ、頭脳明晰ではあるけど、エルフの特徴が全く無い。僕は――僕はどちらかといえば気楽に進級していった。姉と弟はそれが僕だけが受け継いだエルフの特徴によるものであることを見抜き、大きくなるにつれ、僕に強くあたることが多くなっていった。『なぜ、あなただけに現れたのか』と言われることが度々あったからね」

 彼はそう言った時、僕を見てさびしそうに微笑んだ。その瞳にはまたも悲哀と孤独とが漂っており、そしてあの美しい光が放たれていた。僕は彼に寄り添うかのように見つめ返したのだが、相変わらず言葉に詰まって思考が乱れる。彼はさびしげな表情のまま話を続けた。

「だが、彼らの反応は至極当然だと思っている。同じ姉弟で、全く特徴が異なるのだからね。だから、そのことについては何も言い返さなかった。両親はそんな僕をアウリンコで、特に政府機関で働かせたがっていた。それは一族の当主代々の伝統であり、一家の名誉に関わることでもあったから、当然の流れだった。だけど、僕はどうしても気が向かなかったから、それからも逃げた。僕は家族の中でさえ、全くの異端児なんだ」

 僕はイェンスの言葉を一言ずつ噛みしめるように、頭の中へと刻んでいた。彼の過去は想像していたより重く、孤独と悲しみとが深く絡んでいた。いったい、彼に対してこの僕に何ができるというのであろう。

 しかし、イェンスは何か良いことを思い出したのか、ほほを少し紅潮させると明るい表情を浮かべて話し出した。

「子供の頃に会ったエルフは今でも鮮明に覚えている。彼は確かに僕が幼かった点を抜きにしても僕とは全く別格で、何もかもが美しくてたくましく、人智を超えた存在感を放っていた。僕にエルフの特徴があるというぐらいのことでは接点になりえないほど、そもそもが根本から異なりすぎていたんだよ。僕はたったの五歳だったのにもかかわらず、そのことをはっきりと理解したんだ」

 彼はやや恍惚とした表情を浮かべていた。彼の脳裏には完璧なエルフの姿がありありと映し出されているのであろう。だが、それは彼の深いため息とともに儚く流れ去っていったようであった。

「だから僕はどうあがいても、彼が言ったとおり、ただの人間にしか過ぎないんだ」

 イェンスは悲しげにそう言うと、そのまま押し黙ってしまった。

 僕はユリウスが言った言葉を強く思い返していた。彼は幼い頃から自分の異質さに翻弄されていた。そしてイェンスもまた、ずっと異質さを彼自身の中に感じ、その原因にも気が付いていた。人間からはその突出した能力が原因となって、良くも悪くも浮いた存在として人目を寄せつける。だが、ドラゴンやエルフの視点からすれば、普通の人間と彼との差は僅少であり、能力も目を見張るほどではないのである。

 どこにも属することができない中途半端な『種』は、その受け継いだ元のたくましい生命力の影響で、人間よりは能力が高い。しかもその高い知性で『自分』という存在の意味を――その多くは深い悲しみと孤独を噛みしめながらではあるのだが――見出そうともがき、かたや一方でその人自身に命と能力とを分け与えた、はるか高くに存在する生命に淡い憧れを抱くのは当然のことのように思われた。

 それを踏まえて僕自身のことについて考える。ドラゴンの爪に触れたことが、この僕にどの程度の影響を与えていくのであろう。イェンスに訪れたことがこの僕にも多少なりとも訪れるのであろうか。そう考えると平凡で、取り柄がほとんど無かった今までの自分が、風の前の塵のように翻弄される存在のようにしか思えなかった。

 僕はようやく、僕が置かれた状況を理解し始めていた。僕にしか見えない『孤独』という名の『魔物』に一生まとわりつかれ、仮に能力を伸ばしたとしても、果てしなく続く不毛な戦いに僕が敗北したまま、ひっそりと世間から消え去ることになるかもしれないのである。

 その恐るべき未来像を、正面からまともに捉える勇気は今の僕に全くもって無かった。しかし、遅かれ早かれ僕もその問題に直面する可能性があった。そう考えた途端に得も言われぬ不安に襲われ、抵抗する術なく押しつぶされていく。

 いったい、僕はこの先どれくらい孤独と不安とに対面していくのであろう?

 それでも見えない不安にさらされながらも、つらい過去を告白してくれたイェンスにかける最上の言葉を必死に探し続けていた。

 イェンスは長年、孤独の中で悲しい思いをする度に、彼自身を守るべく優秀さをかなぐり捨て、普通の人間の振りをしてきたようである。その彼が、ヘルマンに出会う前の僕を気に入り、食事や散歩に何度か誘ってくれたのも事実であった。しかし、当の僕もまた変わり者と言われ続け、さらには力量も低かった。全てにおいて洗練されているイェンスの後ろ姿を、のらりくらりと眺めていた程度なのである。

 ただでさえ乱れがちな思考をあちこちに取りこぼしながら、不器用なだけの僕が気の利いた言葉を探し出すことは滑稽なのであろう。この機転の利かない僕が彼に対し、どんな言葉を与えられるというのか。

 あれこれと思案を重ねているうちに、イェンスが静かに話を再開した。

「今となってはドーオニツのギオルギの事務所で働いたのは正解だった。全く問題が無かったと言えば嘘になるが、僕は仲間や周囲の人たちにかなり恵まれた。そしてクラウス、君に出会った。君には他の人に無い魅力と独特の雰囲気があって惹かれたんだ。紹介してくれたローネには感謝しないとね」

 彼はそう言うと微笑んだ。

「そう言ってくれてありがとう。確かにローネのおかげだね。僕も君との友情に感謝している」

 彼の言葉があまりに嬉しかったため、僕はそれまで考えていたことをいったん脇に寄せて喜びにひたった。かなり好意的な言葉が僕に与えられたのだ。全身があたたかい感情に包まれると、優しい眼差しで僕を見ている彼に対して自然と笑顔がこぼれた。

「そして君と一緒にヘルマンと出会い、あのペンダントに触れた。その時に僕の中で光があふれる感覚がしたんだ。だけど、そのことは言えなかった。どうなるかわからなかったからね。その後、徐々に感性が研ぎ澄まされ、今まで感じていた特異な点がさらに強化されていくのを感じた。ユリウスの言っていた直感は、すでに何度か僕に訪れていた。レストランでも話したとおり、筋力や体力が以前より上がっていることにも気付いてからは、力のさじ加減に一時期苦労したくらいだ。その点、君は上手に吸収しているみたいだな」

 僕はイェンスが最後に言った言葉に絶句してしまった。

 彼のような経験に心当たりが無かったうえ、体格にも特段の変化は無かった。だが、そのことを意識して手に力を込めると、体中からたくましい躍動感があふれるようである。いや、そういえば、以前眠りこけたイェンスをものともせずに抱え上げ、彼を起こすことなくベッドに寝かせたではないか。どうやら僕も身体に対する力強い変化を知らず知らずのうちに迎え、驚いたことに制御までできていたらしかった。

 僕は何一つ気付けないでいた自身の鈍感さに呆れたのだが、それでも淡々と告白したイェンスにかける適切な言葉をずっと模索していた。しかしながら、思い浮かぶ言葉はどこか陳腐で、心が伝わらないような単語ばかりであった。こうも不器用なのであれば、いよいよ決断すべきなのであろう。これ以上、鈍重な自分に甘えて何も言葉をかけないでいては、いくら優しい彼でも失望するかもしれない。たとえ稚拙でも、思考がまとまるのを待ってずるずると先延ばしにし、適切な機会を失うよりははるかにましではないか。

 僕は決意すると、勇気を持って悲しみに彩られた過去を告白してくれたイェンスに対し、僕なりの感謝の気持ちを伝えることにした。

「イェンス、改めて君が辛い過去を包み隠さず僕に教えてくれたことに感謝している。君のことを知ることができて本当に嬉しいよ。僕は正直に言うと、君が受けた過去のつらい経験を思うと心が痛む。そのことで君に何か気の利いたことを言えたらいいのだけど、僕は最上の言葉をまだ模索しているところなんだ。単なる軽い言葉をかけて終わらせたくない。だから今は伝えてくれてありがとう、とだけ言いたい」

 そう言うとイェンスの表情が輝いたのがわかった。それから彼はじっと僕を見つめていたのだが、今にも泣きだしそうな顔になったかと思うといきなり僕を強く抱きしめた。

 僕は彼が取った行動に非常に驚いていたものの、深く息をしている彼を優しく抱き返した。彼は僕の肩越しに「本当にありがとう、クラウス」と震える声でささやくと、それっきりおとなしくなった。

 少しの間、静かな時間が優しい温もりとともに訪れる。僕は抱擁にさえ慣れていなかったので、イェンスとこのように友情から抱き合うというのが率直に嬉しかった。親しい友人を受け止めるということは、こうも光栄な気持ちにさせるのだ。

 やがて彼が僕からおもむろに離れると美しい眼差しで僕を捉えたので、僕は彼のしなやかな心の強さにただただ驚嘆して見つめ返した。思えば、僕が最近感じていた心の機微もイェンスが発端ではなかったか。僕は以前から空や自然の風景を眺めるのが好きであったのだが、イェンスはそれらにことさら優しい眼差しを向けていた。僕はそんな彼の姿を見て、あの美しい緑色の瞳で見る景色とは、いったいどのような色彩で表現されているのかと考えたりもしたのである。

 イェンスは僕にない強さと穏やかさを持ち、そのうえ謙虚で控えめであった。僕と違って頭が良く、深い視点と広い視野から物事を捉えることができる彼が見ている世界と、僕が今まで見てきた世界は、彼が感じてきたようにやはり異なっているのであろう。

 それでも僕は、最近よく感じるようになった心の機微をイェンスに話したいと考えていた。ひょっとしたら、彼にとっては些細なことにあたるのかもしれない。しかし、僕は今や傲慢な欲望を従えていた。僕が好むことに、彼の共感を得られたらと思うようになっていたのである。

 そこで優しい表情を浮かべているイェンスを見つめ返すと、思い付くままに彼に話しかけることにした。

「イェンス、君から変化の話を聞いて思ったことがあるから言わせてほしい。君が指摘した内容は気付いていなかったところがほとんどだけど、多分確かめれば実感するのだろう。君が言うくらいだから、間違いないと思っている。だけど、それ以外にも僕が感じた、それらしいものがあることに気付いたんだ。それは今までは見過ごしてきた、人や動物や自然が本来持つ純粋な美しさに対する感動やあたたかい感情なんだ。その純粋な美しさが存在している、というだけで嬉しい気持ちになるんだよ。君もこのことを感じているのだろうか?」

 「そうだ、僕も同じだ。以前の僕はそのことを頭では理解していたが、心で実感することはできないでいた。僕が一番感じている変化はまさにこの内面のことで、僕はかなり好ましく思っている。そして君とこのことを共有できて、素直に嬉しいんだ。その君の瞳が美しく、知性と愛にあふれているのを見て取れるのも、やはり変化のおかげなんだ」

 彼の瞳は澄みきり、僕を真っ直ぐに捉えていた。そのうえ彼が放った美しい言葉がまたしても僕の心に深い喜びをもたらしたので、僕は感激のあまり無言のまま彼を見つめ返した。

「クラウス、君が僕と同じような経験をこれからしていくことには、確かに悲しみを覚えている。その半面、僕は孤独を分かち合える友を得た喜びにもあざとく浸っているんだ。しかし、僕が伝えたいのはそのことではない。僕は以前から、たとえ君が普通の人間としての人生を送り、僕と全く関わらなくなったとしても、君の幸せを心から願っていた。レストランで帰り際に君に伝えたのはそういう意味もあったんだ」

 彼の言葉は僕の心に優しく響き続けた。微笑んでいる彼の姿にまたも美しさを見出す。いや、僕は彼の全てから尊い輝きを見出し、感激していたのであった。

 僕は僕自身の内面と真剣に向き合ったことなど、ほとんどしてこなかった。僕自身のことは面と向かわなくとも、わかっているつもりでいたのである。だが、改めて考えてみると、僕は僕の思考を咄嗟にまとめ上げることができないほど、僕自身のことに無知でいた。それでいて、イェンスの幸せも不器用ながら願っていたのだが、そんな僕にイェンスが贈ってくれた言葉のほとんどが、僕が彼に贈りたいと願った気持ちを言葉に表したものであった。

「ありがとう、イェンス。その、君は後出しだと思うだろうけど、君にまさに贈りたいと思う言葉を言われたよ。君はずっと、僕が形を作れずにいた言葉を先に口に出して、僕に気付かせてくれた。そして僕が漠然と君に伝えたい、と思っていたことを全部先に言ってくれているんだ」

 僕の言葉に彼ははにかんだ様子を見せたのだが、ふとした拍子にあの憂いを帯びた表情へと変わった。しかし、僕は彼の表情の変化に不思議と戸惑うことなく、彼に訪れた心の機微を受け止めていた。それは単純な理由からで、イェンスのことを大切な友人だと強く感じていたからであった。

 僕には深いことまで話せる友人がいなかった。そうでなくとも、数少ない友人に、実家のことや僕自身が根本的に抱えている不安を話そうと思ったことも無かった。そもそも腹を割って話し合える友情など、僕には永遠に訪れないとさえ考えていた。しかし、それはイェンスも同じであったのではないのか。

 僕も真面目な顔で彼を見つめ返した。窓から流れ込む風が無く、空気の流れが止まったかのようである。さらには街の喧騒も届かず、部屋の明かりだけが僕たちを静かに照らしている。

 僕の言葉が洗練されていなくても、僕が感じている気持ちや考えを率直に彼に伝えよう。言葉が美しく修飾されているかを気にすることは、本当の友情において全く無意味ではないか。

 一つ大きく息を吸い、それから改めてイェンスを見る。彼の表情がやや強張ったように見えたので、僕は彼の緊張をほぐしたくて自然と微笑んだ。

 「イェンス、改めて君に感謝している。君が僕にしてくれたこと、伝えてくれたこと全てに感謝している。君が存在するということにも、もちろん感謝している。君は本当に素晴らしい人だからね。それに本当に不思議なんだ。僕が考えていることを君も考えている。これがどんなに僕にとって心強いか……! その……僕が思っていることを率直に言おうと思う。だけど、これを君に恩着せがましく押し付けたりはしない。それでも聞いてほしいんだ。君が今まで感じてきた過去の孤独、怒りや悲しみが再び君を襲うことがあっても、これから先、もし君がまた孤独を感じ、苦しむことがあったとしても……」

 僕は心を込めていっそう力強く言った。

 「僕はいつだって君の力になろう。イェンス、君のそばにいよう。具体的な解決策にはなれなくても、それでも奴らの戦意をくじかせるぐらいのことはできるかもしれない。君はもう決して一人じゃないんだ。君には僕が……僕がいる」

 言い終えると今頃になって緊張してきたのだが、それでも僕はイェンスをまっすぐに見つめた。そして少しの不安と期待とともに、そっと彼に手を差し出す。

 彼は驚いた顔で僕を見つめていたのだが、僕の手に気が付くとがっちりと握り返した。それは今までに無いほど力強いものであった。彼はそのまま僕の目をまっすぐに見つめ、僕の顔に手を置いたかと思うと、僕のほほに軽くキスをしてから再び僕を固く抱きしめた。そして耳元で何度も「ありがとう、ありがとう」とささやくと、またしても僕の肩に顔をうずめて鼻をすすった。

 彼の感謝が純粋で混じりけの無いことを僕は全身で感じ取っていた。それは心地良い感激と安らかな喜びが僕を覆っていたからなのだが、感極まって涙が一筋あふれだしたのでそっと指で拭った。こんな僕でもきっと今の彼に対して精一杯のことができたのだ。そう考えるとこの抱擁がなおいっそう感慨深く思えたので、彼の広い背中をただただ優しくさすった。

 しばらくするとイェンスは落ち着きを取り戻したらしく、僕から静かに離れていった。目が合い、優しい微笑みが届けられる。その表情はやわらかく澄んでおり、彼の気品と美しさとがますます高まったようであった。そのうえ、彼の眼差しが清らかさに満ちているような透明感にあふれていたため、僕は見入るように彼をじっと見つめ返した。

 ひょっとしたら彼の目にも僕が同じように見えているのであろうか。その考えは直感的に得たのだが、やはり傲慢で突拍子も無いことのように思え、気恥ずかしさからその思考を破り捨てた。イェンスが僕をどう見ているかなど、あの眼差しだけで充分ではないか。僕はまだ始まったばかりなのだ。

 突然、窓がガタガタと鳴り、カーテンが激しく踊った。急に強い風が吹き荒れたらしく、慌てて窓を閉めにいく。

 イェンスは時計を見ると、「遅くまで邪魔したね」と言って帰ろうとした。僕は「気にしていないよ」と返したのだが、なぜか意地悪な質問がふと思い浮かんだ。

「帰る前に、率直に尋ねたいことがあるのだが」

 僕はわざともったいぶってイェンスに話しかけた。彼は直感が働いたのか、「いいだろう」と返すと落ち着いた表情で僕を見た。

 「君は歓楽街で遊ぶことや下心を持って接してくる女の子のことは、もう全く興味が無いの?」

 彼は思惑どおりであったのか、口の端で微笑んでから答えた。

 「いい質問だ。正直に言うと、そのとおりだ。僕はオールから、僕が以前よく歓楽街に行っていたことを君に伝えたと言われた。だから、君はひょっとしたら僕が好んでそこに行っていたと思っているかもしれない。だけど、もう退職していない事務所の先輩に誘われて行っていただけで、歓楽街で楽しかったことなど一度も無いんだ。そういった意味では、当時が一番性格がひどかったと思う」

 そう言った途端に彼の表情が険しくなった。その暗い表情を受け、僕は彼に下品な質問をぶつけたことを心底悔やんだ。

「クラウス、違うんだ。君を責めているわけではない。実はその……そうは言うけど、僕はそれより前に女性と『経験』を済ませている。そのことは確かに僕の中に禍根を残したのだけど、そのことで僕の願っていることが体の欲求を満たすことではなく、自分の心を自らの愛で満たすことであることに気付くことにもなったんだ。この話は少し繊細だし、生々しさを伴う。だから、今はこれ以上話さないでおくが、近いうちにまた話すことになるだろう。今後の僕たちに深く関わる話題だからね。どのみち、僕たちは普通の人間より異質だ。そして僕たちはより変化を望んでいる。もう後には戻れないのさ」

 彼はそう言うと僕をじっと見つめた。

 僕は普段の彼から全く想像もつかない、彼の思いがけない過去の告白に驚愕したのだが、不思議と体験に対する興味はさほど湧かなかった。それより彼の言葉が実に深い意味を含んでおり、今後の指針となることがはっきりと提示されたため、彼の言葉の背後に隠れている本質のほうが僕の関心を強く捉えて離さなかった。

『自分の心を自らの愛で満たす』

 ユリウスも同じようなことを話していた。だが、僕には意図がつかめず、そもそも今までそのような言葉を目にしたことも聞いたことも無かった。

 他者への愛ならともかく、自分への愛とはいったいどういったものなのか。

 イェンスにはユリウスの言葉がその身に痛くしみるほど、深く共感できていたのは間違いないであろう。だからこそ、内側から込み上がる感情をこらえることなく、同じ孤独を味わってきたユリウスに彼の脆さをあっさりとさらけ出したのだ。

 しかし、今の僕にはそれ以上の発見や気付きは得られなかった。その言葉の表面的なことすら理解できていないのだから、仕方がないのかもしれない。僕が内面と向き合っていくこともまた、始まったばかりなのだ。

 イェンスは穏やかな眼差しで僕を見て言った。

「今日はもう帰る、本当にありがとう。明日はゆっくり休んで月曜日にまた会おう」

 彼の言葉で気持ちを切り替えた僕は、「こちらこそありがとう。では、また月曜日に」と返し、帰っていく彼をあたたかく見送った。

 シャワーを浴び、寝る準備を整える。ベッドに寝転がると、早速とりとめのない思考が僕の頭の中を駆け巡っていった。

 僕の人生において重要な意味を持つ出来事が、今日という日に立て続けに起こった。母の父に対する新たな視点、ユリウスとの出会い。僕にドラゴンの能力が息づいていることも判明し、その能力がどうやら高まる可能性もあるらしいことも理解できた。何より、僕はイェンスの告白を噛みしめていた。

 彼の過去の体験はどれも深くて重く、悲しみと苦しみを長い間彼に与えてきたように思われた。しかし、彼がその中で翻弄されてもなお、自暴自棄に陥らなかったのはなぜなのか。

 僕は当初、彼が家族からの愛に恵まれたからではないかと思ったりもしたのだが、話を聞くにつれ、彼の高祖母から受け継いだ高い知性が彼を誇り高く律したからこそ、向こう見ずになることなく自己を冷静に処理できていたのだと考えるようになっていた。それを踏まえたうえで、彼がどういった心境で僕に話したのかということに想いを馳せると、彼に対して再びあたたかい感謝の気持ちが湧き上がる。その感謝の気持ちとともに彼に喜びと幸せが降り注ぐよう願っているうちに、僕の心までもが優しくほぐされた。

 思い起こすと、あのレストランでイェンスと深く重みのある会話をしたいと願ったのが、数時間後には実現していた。これは単なる偶然なのであろうか、それとも変化が起こした必然と考えるべきなのであろうか。

 それにしても自分を愛するということは、わがままで自堕落な自分を棚に上げ、ただ単に甘やかすことになるのではないのか。本当にその言葉どおりに動いてしまえば、他人を踏みにじってまで自己愛だけを追い求める人になってしまわないのか。

 思考の悪循環に陥り、彼らの言葉の真意を見失ってしまった僕の中に、あさましい疑念だけが渦巻いて残る。だが、長年孤独と苦悩を抱えながら辿り着いた彼らの言葉が、今ようやく自分自身の足元を見始めたばかりの僕にやすやすと理解できるようなものではないのだ。

 そして僕は彼らが長年感じてきた孤独が、僕が感じた孤独とは全く異質であることもぼんやりと理解し始めていた。僕が今まで感じてきた孤独など、彼らの前では単なる甘えにしか過ぎないのではないか。それゆえ、彼らの言葉の奥深くを推測はできても、心からの共感ができないため、これ以上思考が発展していかないのではないのか。

 やはり僕には扱いきれない話題であり、何もかもがかすんで見える世界の出来事をただ覗いているだけなのだ。

『後には戻れない』

 果たして僕も後に戻れないほどの変化を進めていくのであろうか?

 しかも、その過程は喜びにあふれているのか、それともやはり苦悩と本当の孤独とが待ち受けているのか。

 そのことを考えているうちに、再びあの孤独の名を騙った魔物が僕の脳裏だけに姿をちらつかせる。魔物は嘲笑し、どす黒い底なし沼から僕を虎視眈々と狙っていた。しかし、僕はユリウスと出会い、イェンスと話したことで感じた、あたたかく前向きな気持ちをも思い出していた。あの感激も心強さも、一過性のものとなるかは僕自身にかかっているのだ。そのことに気が付けただけでも、今は良しとしよう。今の力量でこれ以上思索にふけったところで、明確な指針やさらなる気づきが得られるはずもないのだから。

 道行く人の笑い声がかすかに上ってくる。どうやら秋の夜長を存分に堪能しているらしい。しかし、僕は窓を閉めると、疲れから全身をベッドに投げ出した。そして町全体に静寂が訪れたのを肌で感じているうちに、いつしか深い眠りへと落ちていったらしかった。

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