第4話

 ほほにあたたかい何かが優しく触れる感覚があった。僕はそれを夢の中の出来事だと思いながらも心地良く受け止めていた。しかし、その感触はすぐに消え、少ししてから遠くで小さくドアが開いて閉まる音が聞こえる。その瞬間、まどろみから目が覚めた。室内を見渡すとイェンスはすでにおらず、ベッドの上には毛布がきれいに整えられてあった。慌てて玄関ドアに向かおうとした時、テーブルの上に白いメモ用紙が置かれているのが目に入った。

 『クラウス 美味しい食事と寝心地の良いベッドをありがとう。十時にまた迎えに来る。 イェンス』

 それはイェンスの丁寧な筆跡で書かれた、僕宛のメッセージであった。時計を見ると朝の八時を回っており、約束の時間まで二時間も無かった。しかしその時、ふとある考えが閃き、すぐさま窓を開けて眼下を見下ろした。

 朝の新鮮な空気が、穏やかな風とともに僕のほうへと流れる。鳥のさえずりが動き出したばかりのまだ静かな町に美しく響き渡り、新しい一日の始まりを告げていく。そこに朝日が道路や建物を照らしてあちこちに輝きを与え、街路樹にもみずみずしい陽光を届けていたので、道路には濃紺色の木影が早くも表れていた。それはいつもと変わらない朝の荘厳さであったのだが、僕は今までにない美しさを感じ取っていた。

 その美しい舞台にイェンスが現れた。僕には彼が頭上を見上げることがなぜかわかっていたため、あえて声をかけないでおいた。案の定、彼はアパートから数歩進んだところで僕のほうを見上げた。目が合うなり、イェンスが微笑んで手を挙げる。以前もよく見た、それでいて新鮮な彼の行為に、僕も微笑んで手を振って返した。

 彼が今日何を計画しているのかは皆目見当がつかないのだが、彼と一緒なら楽しいものになることは間違いないであろう。久しぶりに感じた心地良さをそっとかみしめる。身支度を整えて朝食を取ると、のんびりと彼の再訪を待つことにした。

 約束の時間になったため、何となしにアパートの外で彼を待つ。日はさらに高く昇っており、午前中らしいみずみずしい日差しがあちこちに降り注がれている。暦上は秋とはいえ、まだまだ暑く感じられるのは例年のことであった。

 イェンスと僕は全くの偶然なのだが、数百メートルほど離れた距離にそれぞれ住んでいた。初めてそのことを知った時は、お互いに驚いたものであった。なぜなら、それまで見かけた記憶が無かったからである。それは今でも不思議に思うことであった。

 少しして、イェンスがこちらに向かってやってくるのが見えた。身なりをきちんと整え、着替えも済ませた彼は疲れ切っていた昨日とは打って変わり、以前の気品と美しさとがあふれる状態へと戻っていた。

 イェンスは僕のところに到着するなり、改めて昨晩のお礼を伝えてきた。僕は「気にするな」と彼を気遣うと、意図的に話題を今日これからの予定へと移した。どこに行くのかという僕の問いに、少し遠いからバスに乗っていくとだけ、彼が答える。そして向かいながら今日これからのことを話していくと言うので、早速僕たちはバス停に向かって歩き始めた。

 バス停はイェンスが住むアパート近くの、通りの角を曲がってすぐの場所にあった。バスがほぼ時刻どおりにやってきたので、そのバスに乗り込む。バスの行き先は今いるDZ‐17地区からDX‐17へと向かう路線、つまり外洋地区から内洋地区へと向かう路線なのだが、それでも行先に皆目見当がつかないでいた。

 二人掛けの座席にイェンスが先に乗り込み、僕も何の気なしに隣に座る。座席は決して狭くは無かったのだが、ふと彼が窮屈なのではないかと考え、僕は空いている座席に移ろうと彼に提案した。しかし、彼が穏やかな表情で窮屈ではないと答えたため、結局はそのまま隣に座ることにした。

 車内を見ると乗客は少なかったのだが、若い女性二人組がやはりイェンスのほうに視線を投げかけていた。以前の僕ならその微妙な雰囲気に気が付かず、遠慮という名の鈍感さで座席を移っていたのかもしれない。だが、隣に誰かいることで彼が視線を気にかける煩わしさから逃れられることに気が付くと、ぼんやりとでも彼の心情が理解できたような気がした。

 そのイェンスの頭の先に、澄んだ美しい青空が広がっていた。その光景に、僕はふとミアとのことを思い出した。そこでイェンスに彼女のことを話そうと、この一週間で起こった出来事を簡潔に彼に説明し始めた。

 彼は僕の拙い説明に静かに耳を傾け続けた。そして一通りの話が終わると微笑み、僕の耳元でささやいた。

「クラウス、君は彼女に恋をしているのだろう?」

 あまりに的確で、かつ遠慮なく僕の気持ちをイェンスが表現したため、僕は気恥かしさから赤面してしまった。それでもイェンスは穏やかな口調で続けた。

「君なら、きっと君自身も彼女をも幸せにすることができる。うまくいくよう願っている」

「ありがとう、イェンス」

 僕は彼の言葉が素直に嬉しかったのだが、恥ずかしさから照れて反対側の窓の外に視線を投げた。窓の向こうには、やはり澄みきった青空がどこまでも続いていた。

 ああ、なんて美しい青色なのであろう。

 感慨深く見つめていたのだが、ふとイェンスが気になって彼に視線を戻した。すると、間髪入れずに彼と目が合った。その緑色の瞳は僕の心を貫くような美しさを放っていたのだが、それと同時に何かしこりのようなものを僕の中に残していくようであった。彼の中の澄みきれない何かが、彼に憂いを持たせているのだ。そのことを僕が直感的に悟ると、「空がきれいなんだ」と伝え、うなずいて返した彼からいったん視線を外してぼんやりと宙を眺めた。

 イェンスが感じている憂いは、彼を複雑に捕らえているような気がする。彼はすでに窓の外を見やっていたのだが、彼が奥底で感じている本当の感情を押しとどめて僕に祝福の言葉を贈ったのだという思考も、なぜか浮かび上がった。僕は次々と思い浮かぶ思考にどこか驚きながらも、気になった思考に深く焦点を合わせていくことにした。

 彼が押しとどめたその感情こそが、彼に憂いをもたらしているのではないのか。しかしながら、彼を捕らえているものの正体が今の僕にわかるはずもなかった。

 僕はふと、身内の中でイェンスにだけ、エルフの特徴が現れたことを思い出した。その、独特の髪色も鮮やかな緑色の虹彩も、エルフの特徴なのだという。それらが彼に及ぼしている影響とはいかほどのものなのか。だが、それだけでなく、さらに何かが彼に強く絡んでいるようにも思われた。むろん、憶測にしか過ぎない僕の思考は出口を見つけられず、堂々巡りの中であちこちにぶつかり続けた。しかし、僕はこの美しい友人が太陽のようなあふれる輝きをただただ放ち、それでいて、彼が心から喜びを感じることが常に彼に訪れるよう、願わずにはいられなくなっていた。そこには打算も下心も無かった。

「イェンス」

 僕の呼びかけに、彼は静かに振り返って僕を見つめた。穏やかな表情ではあるのだが、その瞳にはなおも憂いの影が薄く残っているようであった。

「どうしたんだい、クラウス」

「……君だって君自身を幸せにすることができる。君こそがその力を持っている人だ。僕は、君がいつだって心から幸せを感じていてほしいと願っている」

 先ほどの会話から時間が経っているうえ、状況からして少し唐突であった。そもそも彼自身から相談一つすら受けていないのだから、僕はまた先走り過ぎたのかもしれない。

 イェンスは明らかに戸惑っていた。彼を沈めようとする憂いは重く強大で、僕の言葉ぐらいでは慰めにならないのかもしれない。いや、彼は気高い人だから、彼の中で彼を捕らえ、複雑に絡まっているものを周囲に知られたくないのかもしれない。しかし、僕は湧き上がる確信とともに彼を強く見つめ返した。彼に対する僕なりの気持ちを、正直に伝えたのだ。

 イェンスは顔を背け、空を見上げた。それも束の間、すぐに視線を僕に戻す。すると驚いたことに、その緑色の瞳に、今まで見たことも無いような繊細で清らかな光が放たれていた。僕は彼の瞳に突然訪れた変化に戸惑ったものの、それでも彼をじっと見つめ返した。その彼の表情は強い喜びともろい弱さとが互いに反発しながら入り混じり、それでいて彼が隠している気持ちをそれとなく表現しているようであった。それは複雑ながらも繊細な美しさに満ちていた。

 いきなりイェンスが人目もはばからずに僕の肩に彼の頭を寄せた。僕は彼が取った行動にますます驚いたのだが、彼の肩が小刻みに震えていることがわかると、そっと彼の肩を抱いて前方を力強く見据えた。先ほどの女性二人が驚いた顔でこちらを見つめていても、一向に気にならなかった。

 ――彼から感じられた憂いは消えるのであろうか。

 そもそも彼を憂いの中に絡めさせているものの正体さえわからずにいたのだが、僕はただじっと彼を受け入れ続けた。それと同時に、心の中でちくりと痛むものを感じていた。

 僕が彼に働いた欺瞞を無視することはできなかった。彼に対して感じた、種々のどす黒い感情を説明して謝らなければ、僕は彼の友人でいるのに相応しくないのではないのか。

 時間にしてどのほど経ったのであろう。バスが何か所かの停留所を過ぎた頃、うつむいたままイェンスが「ありがとう、クラウス」とつぶやいた。そして彼はそっと顔を上げると僕を見ることはせず、そのまま顔を窓のほうに向けた。

 僕もイェンスの肩から腕をそっとひくと、反対の方向に顔を向けた。お互い視線の先は違っていたにもかかわらず、僕の心は妙にあたたかかった。

 会話もなく、バスに揺られ続ける。相変わらず乗客はまばらのままであり、いつしか中央円地区のDY‐17あたりまで来ていた。イェンスが次の停留所で降りると耳打ちしたため、車内放送を聞いてから僕が降車ボタンを押し、一緒にバスを降りる。

 着いたところは大きな公園が近くにある、どこにでもある普通の住宅街であった。イェンスが公園を散策しようと提案する。なぜ、彼がここに連れてきたのかわからずにいたのだが、散策する以外の選択肢も思い浮かばなかったため、そのとおりにすることにした。

 イェンスを見ると全くいつもどおりに戻っていたのだが、どことなく力強さが増しているようにも見えた。少しでも彼の中で折り合いがついたことを祈りながら、照りつける太陽のもと、日向と日陰を出入りしつつ公園内を歩く。

 色とりどりのベゴニアやパンジーといった花が手入れよく花壇に植えられ、公園に可憐な彩を添える中、緑豊かな芝生の所々に大きなケヤキやクスノキが日陰を提供し、歩道の脇から自由に散策できるようになっていた。やわらかい芝生の上を歩いて草木の呼吸に包まれ、再び歩道戻る。木陰の下にあるベンチにイェンスと腰をおろすと、地面に飛び降りてくる小鳥や花壇近くを飛び回る昆虫を眺めた。僕はこの気持ちのいい場所を、時折運ばれてくるそよ風とともに満喫していた。

「最近この公園を知ったんだ」

 イェンスがおもむろに話し出す。一筋の風が彼のほほを優しく撫で、僕にも挨拶をして去っていく。

「クラウス。会わせたい人がいるんだ」

 イェンスが真剣な眼差しで僕をじっと見つめた。僕はいよいよ彼が話してくれるのだと期待したのだが、同時に言い難い不安にも包まれた。そんな僕にイェンスは勘付いたのか、朗らかに笑い出した。

「そんなに身構えないでくれ。どうか最後まで気を楽にして聞いてほしいんだ」

 彼はそう言うと、事のあらましを説明し始めた。

 発端は三週間前のことだという。彼は仕事で事務所の車をDZ‐17地区からDZ‐16地区のほうへと走らせていた。急ぎで輸入者に書類を届けに行く用事であったらしい。

 赤信号で停まった時、彼は交差点を挟んだ歩道上で、二人の年配の女性が何かうろたえているのを見たらしかった。一人は車イスに乗った、かなり高齢の女性で怯えており、もう一人は彼女の娘にあたるのか比較的若かったのだが、それでも年配であることには変わりなかった。港頭地区に近い場所で、なぜ老齢の女性二人がこのような場所にいるのか不思議ではあったものの、彼はどうにも気になり、交差点を渡ると車を路肩に停めて年配の女性二人に声をかけた。その時、ようやく車イスが歩道にあった街路樹の囲いの大きなくぼみにはまっているのに気が付いたそうで、彼が高齢の女性を車イスごとくぼみから持ち上げて歩道の真ん中におろしたのだという。

 高齢の女性は怯えたままであったのだが、もう一人の年配の女性がイェンスに何度もお礼を伝えたらしかった。しかし、彼女をよく見ると様子がおかしい。右足が痛いのか、かばっているようである。そこでさらに事情を尋ねると、彼女はつい先ほど、車イスを押しながら交差点を横断しようとした時に大型のトレーラーが角から出てきたので、死角にいる危険を避けるために急いで横断しようとした際にバランスを崩してしまい、足を少しひねってしまったのだという。トレーラーの運転手はもともと彼女たちに気が付いていたのか、しぐさでゆっくりでよいと伝えてきたため、彼女は痛む足をかばいつつ車いすを押しながら無事渡りきることができた。しかし、そこに突風が吹きつけ、彼女が車イスを押す形でくぼみにはまってしまったとのことであった。

 イェンスはそれを受けて思案したらしかった。急いで書類を届けなければならないのだが、二人の女性は非常に困っている。よしんば二人を無事タクシーやバスに乗せたとしても、その後が大変であり、救急車や行政の無料サービスに報告して実際に到着するのを待ってからでは、彼が遅くなってしまう可能性があった。そこで彼は思い立ち、二人を車に乗せて送り届けることを決意したのである。

 彼は年配の女性に、『どうしてもすぐに届けなくてはならない書類があるから、先にそこに向かわせてほしい。その後、あなた方の家の近くの病院まで送り届けます』と提案したようである。年配の女性は所要時間を聞くと歓喜しながら深々と頭を下げ、『困っているので大変助かります。家の近くの病院だと安心するのと、行政サービスに電話して到着を待つ時間よりずいぶん早いので、お言葉に甘えてぜひお願いします』と返したのだと彼は言った。

「高齢の女性を車イスから直接抱えて後部座席に乗せ、車イスをたたんでトランクにしまった。それからもう一人の年配の女性を支えながら後部座席に座らせると、ひとまず自分の仕事を済ませるべく急いだんだ」

 僕は彼が淡々と話すさまを見つめていた。僕もそういう状況に出くわしたら助けたのかもしれないが、いざとなったら咄嗟に機転が利かず、悩んだあげく見過ごしてしまうかもしれなかった。困っている人に踏み込んで関わることは、経験が無いと尻込みしてしまうのではないのか。それを思うと、僕は彼の勇気と優しさに感嘆し、またその落ち着いた振る舞いに尊敬の念を抱かずにはいられなかった。

「書類を届けてすぐ、彼女たちが住む場所に向かった。彼女たちはDY‐17地区に住んでいたので、僕は事務所に電話を入れ、少し帰社が遅れますとだけ伝えた。そこから車で二十分もしない最寄りの病院に彼女たちを送り届けると、病院が珍しく空いていて、そこに何度か通院したこともあるその女性はすんなり診察まで通されたんだ。その間に僕は病院の外で事務所に電話をかけた。そこでギオルギに改めて経緯を説明したら、彼が『そういうことなら仕方ない、彼女たちを送り届けたら気をつけて戻ってこい』と言ってくれたんだ」

 ギオルギはイェンスの働くブローカー事務所の社長である。病院から離れたのは十五分程度であったそうなのだが、病院に戻ると彼女の診察はほとんど終わっていたらしかった。レントゲン撮影をしても骨に異常が見られず、軽い捻挫とのことで一週間もすれば治るだろうという医者の診断を一緒に聞いたのだという。湿布薬とテーピングを処方され、医療費免除から会計も無かった彼女に、イェンスは自宅まで送るとさらに申し出たらしい。

 女性は当初断っていたものの、高齢の女性がしきりに帰りたがっていたため、結局は彼の厚意を受け取って高齢の女性とともに家まで送られたらしかった。

「正直に言うと、最初は緊張した部分もあったんだ」

 イェンスがそう言ったのは意外であったものの、はにかんだ彼の様子はまぶしく感じられた。不意に鳥のさえずりが背後で響き渡る。公園は少しずつ人が増えてきたのだが、なおも穏やかな空間を提供し、のどかな情景を見せていた。

 イェンスは彼女たちを自宅に送り届けた際、非常に厚くお礼の言葉を伝えられ、連絡先を熱心に聞かれたらしい。彼は何度もたいしたことではないと断ったのだが、ついに根負けし、名前と連絡先をその女性に伝えたのだという。その年配の女性はエトネと名乗り、高齢の女性は実母ではなく、彼女の姑でイリーナだと彼に紹介した。イリーナはずっと怯えた表情を見せていたのだが、家に着くなり安堵の表情を浮かべたらしかった。エトネは夫と離婚していたものの、姑であるイリーナが早くに両親を亡くしたエトネを実の娘のように可愛がり、その恩が忘れられなかったため、離婚後もイリーナと連絡を取り続けていたのだという。そしてイリーナが高齢になって足腰が弱り始めて介護が必要になってきたのをきっかけに、元夫の了解も得て一緒に住むことにしたのだそうだ。

「介護施設に入れることももちろんできたのだが、エトネはそうしなかった。彼女はすっかり年老いたイリーナをなるべく最後まで看取り、寄り添う選択をしたらしいんだ。看取る、と簡単に彼女は言ったけど並大抵のことではない。快適な介護施設で余生を送ることのほうがイリーナにとっても良いのかもしれないけど、それでもエトネは自分が動けるうちはイリーナと一緒に暮らしたいそうなんだ」

 そう言うと彼は真っ直ぐに前を見つめた。その美しい眼差しが向ける先を追いかける。すると公園の歩道の奥から、ゆっくり車イスを押しながらこちらへと向かって来る年配の女性の姿が見えた。その様子をあたたかい眼差しでイェンスが見つめるのを受け、ようやく事態を飲み込む。

「まさか、会わせたい人がいるというのは……」

 僕の驚きを含んだつぶやきに、イェンスが大きくうなずきながら答えた。

「クラウス、君の想像どおりだ。エトネにイリーナだよ」

 彼の顔がなんともいえない優しい笑顔であふれていく。彼はベンチから立ち上がってエトネのほうに手を振った。エトネも気が付いて手を振り返す。その人懐っこい笑顔が僕を見つけると、僕にもあたたかい笑顔が向けられた。痛めた足もすっかり良くなったらしく、快活に歩いている。ほどなくして彼女たちは僕たちのところまでやってきた。

 エトネは僕の母より年齢が上のように見えた。六十代後半ぐらいであろうか。明るい色の服を着ており、親しみやすそうな印象である。イリーナも僕の祖母より年上に見え、高齢からくる白髪と深いしわが、彼女の長い人生の軌跡を静かに物語っているようであった。そのイリーナは一言も発せず、ただ静かに車イスに座りながら僕たちを見つめていた。

「彼が以前話した、僕の親友クラウスです」

 僕はイェンスが親友と紹介したのを聞き逃さなかった。彼はずっと僕に友情を感じてくれていたのである。しかし、当の僕は彼を欺いていた。そのことで彼に後ろめたさを感じたのだが、僕がこの気高く美しい彼の親友なのだという喜びのほうが勝り、少しこわばった笑顔を浮かべならもエトネとイリーナに自己紹介を済ませた。

「あなたがクラウスね、はじめまして。イェンスから気の合う友人だと聞いているわ」

 エトネの青い瞳がきらめく水面のように輝く。彼女は年齢を重ねてはいたのだが、人生に喜びを見出している人が放つ独特の美しさを身にまとっていた。

「さあ、私たちの家へ行きましょう。お昼の準備はできているのよ」

 エトネは僕たちに声をかけると、元来た道とは反対の方向へと車いすを押し始めた。イェンスが代わりに車イスを押そうとしたのだが、すぐそこだからとエトネに笑顔で断られる。その一連の彼女の振る舞いが実に優雅で、僕にはこの美しい公園と調和するような魅力があるように思われた。

 歩いているうちに、僕の頭にずっと残っていた疑問の答えが脳裏をよぎった。しかし、あえて今、その答え合わせをする気にはなれなかった。彼女の自宅で昼食をご馳走になる頃には、それが正しいかどうか判明していることであろう。そしてまた、ちくりと僕の心の中で痛むものを感じていた。その痛みの正体にも僕は気が付いていた。

 彼女たちの自宅は公園から出て少し歩いた先にあった。さほど広くない平屋建ての一軒家で、玄関には彼女が丹念に世話をしているのであろう、花の種類はわからなかったのだが、美しい花々がプランターから僕たちを歓迎するかのように咲き誇っていた。エトネが車イスを押しながら家に入る。イリーナはずっと無言でいたのだが、自宅に戻った途端、嬉しそうな笑顔を見せてエトネに話しかけた。

 「お腹がすいたねえ」

 イリーナの瞳は宝石のように輝いていた。どうやら彼女はエトネのことをかなり信頼しているようであった。

 「すぐご飯食べられますから、ここで待っていてくださいな」

 エトネは優しくイリーナの耳元でささやくと、すでにテーブルに準備してあった飲み物やナイフとフォークの間に、キッチンから持ち運んだ料理を並べていった。

 食欲をそそる、美味しそうな匂いが辺りに漂う。彼女の得意料理らしいシチューに手作りのパン、そして彼女がプランターで少しだけ育てているという野菜を使ったサラダが僕たちを出迎えた。イリーナを車イスから肘掛イスへとエトネが移乗させ、全員が揃ったところでエトネがグラスにワインを注ぎ始めた。

 エトネはワインを片手に持つと、「乾杯をしましょう」と言った。そこで僕たちはグラスを手に持ち、エトネを見つめた。

「ここにいる全ての人たちに、絶え間なく幸福が訪れることを祈って」

 彼女は続けて「乾杯」と声と上げ、グラスを少しだけ上に掲げた。それに合わせて僕たちも「乾杯」とグラスを掲げてからワインを飲む。ワインは飲み慣れたことの無い僕にも口当たりが軽やかで、かなり美味しかった。

 イェンスも僕も、普段はお酒を飲むことがほとんどなかった。二人きりで酒場に行ったことも無かった。特に僕はもろもろの事情で自主的にお酒を遠ざけていた。しかし、今だけは特別であった。目の前の美味しそうな料理に僕の胃袋が貪欲に反応し、最後まで味わって食べ尽くせという指令を下し続ける。そこにエトネが「さあ、遠慮しないで」と優しく声をかけてくれたこともあり、僕は感謝の言葉を返すとゆっくりと料理を口に運んだ。

 次の瞬間、口の中に喜びが走った。素材を活かしたその料理はどこか懐かしく、それでいて新鮮な感激を僕にもたらした。その僕の喜びに呼応するかのように、朗らかな笑い声が方々から軽やかに室内を駆け巡る。その室内は感じのよい装飾が施されており、公園やエトネの家の庭先で見た美しい花々のように、楽しい空間にいっそうの彩りを添えていた。

 だが、僕の心は全てにおいて晴れやかであるとは決して言い難かった。先ほどからちくりと痛むもの――その正体は罪悪感なのだが、この雰囲気を壊すことの無いよう楽しもうとしても、それが完全に頭から離れることがないのである。

 その時、イリーナと目が合った。彼女は興味深そうに僕を見つめていた。実のところ、イリーナはイェンスのことも僕のこともきちんと理解していないように思われた。それは彼女がエトネに何度も僕たちが誰なのかを確認し、その度に新鮮な驚きを見せたからなのだが、それでも僕たちはその度に喜んで自己紹介をし、彼女の記憶に僕たちが留まるよう、あれこれ工夫して話しかけたりした。それを不思議そうに聞いているイリーナの隣で、エトネがあたたかい眼差しを皆に向ける。この空間は、どうやら僕以外のあたたかい心で満ちているらしかった。

 「そういえば、イェンス。この間一緒に行って買ったお惣菜、本当に美味しかった。あんな美味しい豆の煮込みが歓楽街で売られているなんて、思いもしなかったわ」

 エトネの言葉にイェンスがはにかんだ笑顔で応える。僕はそれを聞いて後ろめたさも感じたのだが、一方で胸を撫で下ろしていた。しかし、僕は知らないふりをしなくてはならず、そのうえ掘り下げて聞きたいことがあったため、あえてイェンスに驚いたふりをして尋ねることにした。

 「歓楽街だって! イェンス、君がそこに行くなんて珍しい。何でまたそんなところを通ったのさ?」

 それを聞いたエトネとイェンスが顔を見合わせて笑顔を浮かべた。つられてイリーナも微笑みを浮かべる。

 「クラウス、ひょっとしたら君、僕たちが歓楽街を近道として利用したその日、あの近辺にいなかったかい?」

 彼は質問に答えず、逆に尋ねてきた。そこで僕はオールと二人で、今週の月曜日に夕食をあの辺りで食べたことを正直に話した。だが、彼を見かけたことはやはり言えなかった。

 「やはりそうだったのか。君らしい人をちらっと見かけた気がしたんだ。でも、僕はすっかり帰りが遅くなってしまったエトネを、歓楽街を抜けた先にある短期介護施設に送り届けなくてはと急いでいたから、確認する余裕が無かったんだよ」

 イェンスはそう言うとイリーナを見た。エトネはその日用事があったのだが、他の事情も重なってこの家の近くではなく、そこの短期介護施設にイリーナを預けていったようである。彼女の用事を済ませた頃にはすっかり遅くなり、帰り道を急いでいるところにイェンスから連絡を受けたのだという。

 イェンスはエトネが用事で港頭地区近辺まで来ることをあらかじめ知っていたため、もともと仕事を早く終わらせて彼女と合流し、一緒にイリーナを迎えてそのまま送り届けるつもりであったらしい。だが、慣れない場所でエトネは道に迷ったらしく、イェンスはその場にいるよう連絡を入れると彼女を急いで探し出し、あえて歓楽街の外れを近道にしたのだという。その途中、夕飯の準備が楽になれるよう豆の煮込み料理を惣菜店で買い、彼女にお土産として持たせたのだと彼は語った。

 エトネがさらに話を続ける。イリーナは自分の身の回りのことは何とか一人でできるものの、基本的に介護が必要な状態であるため、エトネの足が良くなるまで家の近くにある短期介護施設に、一時的に入所させようと手続きを進めたらしかった。しかし、いつもならすんなり受け入れるイリーナが不安げな表情を浮かべ、家から出たくないと言い張ったので諦めたのだという。そこで訪問介護を申請してそのサービスを受けることにしたのだが、不運というものは重なるらしく、ほぼ同時期にこの家の冷蔵庫が故障したらしかった。晩夏の暑さの中で食料を買い置きできず、保存もできない状態が不便であることは明白であろう。そのことをたまたま様子を見に行ったイェンスが知ると、驚いたことに彼は彼女の要望を聞いて冷蔵庫の代理購入手配を引き受けたのであった。そしてエトネが安静にしなくてはならない間、イェンスは仕事が終わってから毎日バスを乗り継いでは彼女を見舞い、せっかくだからと家事や簡単な力仕事を引き受けていたのだという。

 僕は彼女の話を聞いている間、ただただ驚くしかなかった。イェンスは仕事をなるべく早く終わらせてからここにやって来て、また彼の住むアパートへと帰っていくことを一週間以上も続けたのである。僕は重い衝撃を受けると、彼への賞賛よりも再び暴れ始めた自分自身への罪悪感に苛まされた。僕が抱いたあの幼稚でどす黒い苛立ちは、なんと恥知らずで傲慢な感情であったのであろう!

 やはり、理由があったのだ。僕は何度も僕自身を恥じ、責めていた。なぜあの時、一歩踏み込んで彼を思いやれず、安易に疑うと欺くかのように黒い感情を抱いたのか――。

 「歓楽街でお惣菜をお土産でもらった時はあなたの厚意が嬉しくてつい抱きついてしまったけど、あんな場所だから、あなたの知り合いがもし見ていたら変な誤解を生んだかもしれないわね」

 彼女はそう言うと申し訳なさそうにイェンスを見つめた。彼女のその言葉は、ローネと僕がすでに抱いてしまった誤解を完全に取り除くものであった。そうなると僕はますます重くのしかかってきた心苦しさに苛まされ、ぼんやりとエトネの話を聞くしかなかった。

 「イェンス、あなたは美しい顔立ちをしているわ。でも、それ以上に美しい心を持っている。あなたが私たちにしてくれた数々のことは、非常に貴く愛にあふれています。誤解が仮にどこかで発生していたとしても、あなた自身が持つ優しさと美しい人柄が、全てを良い方向へと変えていくことでしょう」

 エトネの表情は凛とした美しさに満ちていた。そして彼女の言葉はまさにそのとおりであった。イェンスが彼女たちに取った行動全てが、見返りを求めない彼の優しさと思いやりの心に発端していて、彼の美しい内面そのものを表現していたのである。

「とんでもない、僕はそうしたかっただけなのです」

 イェンスが控えめな口調でエトネに言葉を返す。しかし、その美しい緑色の瞳は明らかに喜びに満ちており、彼が内側で感じている感激をこの僕でも理解できるほどであった。

 この一週間イェンスが特に忙しかったのは、先々週から先週前半とエトネを見舞うべくギオルギの了解を得て出勤時間を前倒しにして退社時間を早く切り上げていたものの、もともと優秀である彼はそもそもたくさんの仕事を抱えており、その仕事が溜まっていったこと、さらに先週後半から今週にかけて次々と仕事が立て込み、輸入者との打ち合わせや政府機関の出先機関への申請であちこち飛び回っていたのが理由であったらしかった。

 イェンスはエトネにここ一週間の様子を尋ねられた時、当初ははぐらかして答えていた。しかし、勘の鋭いエトネが「正直におっしゃって。あなたは優秀で思いやりにあふれているから、きっと仕事をたくさん抱えているはずだわ」と優しく返したのを受け、訥々とそのことを伝えたのである。僕はイェンスの話を聞いている間中、ますます自己嫌悪と彼への罪悪感の気持ちからじっと押し黙っていた。彼の疲れ果てた顔を見たのも、つい昨日のことなのだ。多忙を極めたイェンスを労うエトナに便乗し、僕の上っ面だけの同情を彼に押し付ける気には到底なれなかった。

「本当にありがとう。あなたが二週間近くも自分自身を犠牲にしてまでも私たちに手を差し伸べてくれたおかげで、イリーナもここのところずいぶん調子がいいのよ。いくら感謝しても感謝し足りないわ」

 エトネはそう言うとイェンスの手を優しく取った。その彼女の目には涙が浮かんでおり、あふれ出た涙がほほをつたっていく。イェンスはその手を優しく上に持ち上げると、「どうぞお気になさらないでください。僕は……僕は自己満足でしただけなのです」と敬愛の眼差しでエトネを見つめ返した。その表情のあまりの美しさを、この汚れた眼差しで見つめる。彼が美しいのは、彼が生来から持っている愛が清らかで輝いているからなのだと感じていた。

 少ししてエトネとイリーナにお礼といとまの挨拶を伝え、帰路に就くことにした。別れ際、エトネが「必ずまた来るのよ」と言って僕たちをそれぞれ優しく抱擁していく。イリーナは困惑した表情で僕たちを見ていたのだが、イェンスが彼女に抱擁を送ると優しい笑顔を見せたため、僕も戸惑いながらもイリーナに抱擁を送った。すると、彼女の弱々しい見た目とは裏腹に、力強くあたたかい抱擁を返されたので思わず感涙しそうになった。

 エトネとイリーナの姿が見えなくなるまで振り返りつつ歩く。手を振る彼女たちが視界から消えても、ずっとあたたかい余韻が僕たちを取り巻いていた。その何もかもがイェンスのおかげであった。

 公園の中を通りながらバス停へと向かう。歩きながらイェンスが僕に話しかけてきた。

 「僕はエトネがイリーナに対してしていることが、本当に美しいと思っている。すごく純粋な愛の形であると思うんだ」

 彼の言うとおり、来るときのバスの中で見かけた若い女性とは全く種類が異なる美しさを、二人の年老いた女性たちが持っていた。しかもそれは輝きのある美しさであった。そのイェンスの瞳も、純粋な美しさで輝いている。しかし、そのあふれる輝きに僕の浅い人間性を見透かされそうで、そうなると自分がますます卑怯で恥ずべき存在であるように思われて仕方が無かった。

 やはり、僕は彼に謝罪しなければならない。僕はその輝きに促されるかのように意を決すると、自分の中で彼に対して行った裏切りと無礼な態度を正直に彼に伝えることにした。僕なりの罪滅ぼしであり、罪悪感から小賢しく逃れるためでもあったのだが、いずれにせよ、どう判断を下すかは彼の自由である。

 僕は深呼吸をしてから「イェンス」と彼を呼びとめた。彼は「どうしたんだい」といつもの穏やかな表情のままで歩みを止め、僕をじっと見つめた。

 歓楽街で実は彼を見かけたにもかかわらず、そのことについて僕のほうから話さなかったこと。また、彼が当初一切事情を教えてくれなかったことに対して一方的に怒り、裏切られた気分でオールに不満をぶつけ、彼をぞんざいに扱ったことも正直に伝えた。そしてそのことを詫びることなく彼の友情を利用し、先ほどまでエトネの家で楽しい時間を過ごしたことも僕にとっては謝罪の対象であった。

 せっかく与えられた彼との友情を失う不安から目を背けたくなったのだが、なおも禊は終わっていないと考え、驚いた顔を見せながらもじっと僕の話を聞いていた彼に、辛うじて残っていた勇気と誠意を振り絞って言葉を続けた。

 「イェンス、君はきっと僕のことを軽蔑もしたし、怒りも覚えただろう。だが、それはもっともだ。僕は今しがたまで自己の保身のみを気にかけ、君に欺瞞を働いたのだからね。君がこの件で僕を卑怯だと感じたのであれば、そのことを僕は素直に受け止めるし、君が僕を殴りたいほど腹立たしく感じたのであれば、それも甘んじて受け止める。僕は……僕は自分の薄っぺらな友情を君に押しつけたくない。もし、君が僕との付き合いをやめると言うのであれば、それも僕は……僕は君の判断に従う」

 最後のほうは自分でも心が張り裂けそうに苦しく、かなりか細い声であった。しかし、イェンスはなおも一言も発しないまま、ただ僕をじっと見つめていた。その彼の表情から彼の意図を読み取る余裕など、とっくに僕の中から消え失せていた。

 いよいよ僕はさっきまで享受していた美しいものを、自らの幼稚な過ちのせいで失ってしまったらしい。彼との友情に、愚かな行為を選び続けたことで自らひびを入れてしまったのだ。

 イェンスと一緒にいた時間は確かに心地良く、僕にとって唯一自慢できるといってもいいほどの素晴らしいものであった。だが、もう僕には与えられないのだ――その資格を自らの愚行で捨ててしまったのだから。しかし、背徳のまま彼と接し、うわべだけの友情を彼に押し付けるより、どんなにか僕の心は救われるであろう。

 「クラウス」

 イェンスがおもむろに口を開いた。

 「それなら君、目をつむって歯を食いしばり、お腹に力を入れるんだな」

 その言葉に僕はうなだれ、ひとまず彼に言われたとおりにした。

 日差しがじりじりと照って暑く、汗がじんわりとにじんでいく。イェンスの気配がわからず、目をぎゅっとつむったまま力を入れ続ける。一見痩せているようで体格の良い彼から殴られたなら、どんなにか痛いに違いないと考えていると、近くで鳥が羽ばたく音が聞こえた。

 次の瞬間、僕はひざ裏を同時に押され、バランスを崩して地面に倒れこんでしまった。唐突な出来事にあっけに取られてイェンスを見上げる。すると、彼は大笑いしながら僕に手を差し伸べていた。

 彼が大笑いしているのを見るのは初めてのことであった。その様子に一瞬困惑したものの、それ以上に状況が飲み込めずに混乱していたため、その差し出された手に手を伸ばす。すると彼は僕の手をしっかり掴んだかと思うと、笑いをこらえながら僕を見て言った。

 「クラウス! 実に君はいい奴だな」

 結局、彼はこらえきれなかったようで、またすぐに笑い出した。思いがけない彼の反応に困惑し、ぽかんと口を開けてその様子を眺める。しかし、徐々に彼に褒められたことが理解できると、突如として反骨心が芽生えて僕を席巻していった。

 「まさか! 僕がいい奴なもんか! 僕がどんなに卑怯か、君が一番よく知っているだろう!」

 僕は懺悔する者から闘争者へと変貌しており、立ち上がりながら彼に大きな声で反論した。

 不意にイェンスが僕のほほを優しく撫でた。その予想だにしていなかった彼の行動にさらに動転し、言葉を失う。彼はそのような僕を静かに見つめながら、はっきりとした口調で言った。

 「クラウス、君は本当にいい奴だ」

 イェンスの美しい瞳は澄みきっており、そこには力強さとあの不思議な光とが宿っていた。それは彼の内面を象徴するかのような、美しい光であった。

 僕は彼の優しさと気高さを、今まさに与えられていることに気が付いた。僕を責めるのではなく、あっさりと許して受け入れてくれたのである。この僕の至らない面々をあたたかく受け止められる、彼のような広い心と深い優しさを僕も持ちたい――。感激と感謝からくる素直な気持ちを認めると、僕は彼を真っ直ぐに見つめ返した。

「ありがとう、イェンス」

 本当はもっと何か立派な言葉で感謝の言葉を伝えたかったのだが、今の情けない僕にはそれでも精一杯の言葉であった。

 イェンスはなおも僕を優しく見つめ返していた。そして「僕にも原因がある。簡単にでも君に知らせておけばよかったのに、僕の配慮が欠けていたんだ」と言って微笑んだ。その言葉は僕をますますあたたかく包み込んでいったのだが、今回のことでイェンスが責められることなど何一つ無いように思われた。そうなると往生際の悪い僕は、彼に僕の思慮の足りなさを弁証し、いかに彼の『僕の配慮が足りなかった』という発言を取り消させるかで躍起になり始めた。

「バスが来たぞ」

 イェンスが突然、バス停に向かって走り出す。何事も無かったかのようにバスに乗り込む彼に続いて僕も乗り込んでいく。それでも諦めきれずに弁証の機会を伺ったのだが、車内が非常に混んでいたため、計画はあっという間に頓挫してしまった。

 しばらくして奥の座席が空いたので、行きと同じように並んで座る。イェンスも僕も口数は少なかったのだが、やはり穏やかな雰囲気の中にいた。

 僕は先ほどのイェンスとのやり取りを思い返していた。彼はどういうわけか未熟な僕を笑って許し、しかも『いい奴だ』とまで言ってくれた。そのことは何度考えてもやはり嬉しく、その感激は一過性のものから徐々に脱しつつあった。

 僕に固く覆いかぶさっているこの未熟な殻を破りたい。そもそも彼と出会い、親しくなってからというもの、僕はいろいろと彼から学ぶことが多かった。僕の未熟な殻も、その存在に気付けるようになったことでさえ、僕にとっては大きな一歩なのだ。以前の僕なら、きっと殻に覆われていることに気が付いただけで呆気なく絶望し、もしくは自分が未熟であることすら、頭でっかちに認めようとさえしなかったことであろう。

 イェンスに出会う以前の僕は、そのほとんどにおいて自分自身を高く評価してこなかった。僕のほんのわずかな良いところが、怠惰で傲慢な性格にかき消されていることを理解していたからである。さりとて、そのことを恥じていながらも、前向きに自分を変えようと奮い立たせることもしなかった。それは、この僕が何かを成就させるとは到底思えなかったからであった。

 脳裏にドラゴンの爪がよぎる。なぜ、それを急に思い出したのか不思議であったものの、あの形を思い返すだけで力が湧いてくるようである。

 僕はそっとイェンスの様子を伺った。彼は窓の外を眺めていたのだが、僕の視線に気が付くと振り返って微笑み、「もう少しだね」とささやいた。

 イェンスとの友情がこの先どのように僕自身に影響を与えていくのか、何もかも不確かではあるのだが、たとえこの先に何が起ころうともしっかりと彼とも自分自身とも向きあっていこう。それは今の僕が思い付く中で、最良の決意であるように思われた。

 アパート最寄りのバス停へと到着した。日はずいぶんと傾いてきており、空気がいくぶん涼しく感じられる。イェンスの住むアパート近くまでやって来ると、彼は親しみのある眼差しで僕を見て言った。

 「クラウス、来週か再来週、君の都合の良い時に久しぶりにあのゲーゼ縁のレストランに行ってみないか?」

 彼の誘いは本当に嬉しかった。

「ありがとう、ぜひそうしよう。僕もそろそろまた行きたいと考えていたんだ」

 さわやかに吹く秋風をほほに受けながら快諾する。彼は「では、また後で決めることにしよう」と言ってアパートの中へと消えて行った。

 僕もアパートへと戻り、一息付けることなく窓を開ける。ソファに座りながらうす水色の空が徐々にあたたかみのある黄色へと変容していくのを眺めているうちに、イェンスが僕の都合を気にかけてくれた理由に気が付いた。彼はミアと僕との仲を思いやり、優先させてくれたに違いないのだ。そして行きのバスの中で彼にミアのことを話してから今の際まで、ずっと彼女のことが頭から離れていたことにも気が付いた。それほどまでに今日は感慨深く、素晴らしい一日であった。

 缶にしまってあった彼女の手作りクッキーを思い出してほおばる。最初に味わった時の感動は薄れてしまったものの、それでも控えめな美味しさを僕は感じていた。ミアに今度会ったらイェンスのことを話そう。そう思いながら、残っていたクッキーを全て食べ尽くす。僕は窓際に座り直すと、今日あった出来事を再び思い出して感慨にふけった。


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