第3話

 ヘルマンと別れてからしばらく経った、初秋を迎えた月曜日は朝からよく晴れており、夏の終わりを名残惜しそうに告げる雲が大きくふくれあがっていた。

 事務所の窓からその雲を眺めながら、僕はイェンスのことを気にかけていた。ここ数週間ほど彼とゆっくり話したことはなく、税関やアパートの近くで見かけることもほとんど無くなっていた。メールや電話で連絡を取ればいいのであろうが、今までしょっちゅう顔を合わせていたため、お互いの近況をスマートフォンで知らせることに妙な抵抗を感じていた。そこで久しぶりに彼を夕飯に誘おうと思い立つと、様子を伺いたいこともあり、仕事帰りに彼が働いている事務所へ向かって歩き出した。

 イェンスが働いている事務所と僕が働いている事務所は歩いて数分ほどの所にあり、信号に捕まることもないほど非常に近かった。湿っぽい風に吹かれながら到着したところで、ちょうどイェンスが事務所から出てくる。僕はまさに好都合な状況が嬉しく、弾む口調でイェンスに話しかけた。

「イェンス、久しぶりだね。仕事終わったんなら、これから夕飯を一緒にどうだろう?」

 しかし、彼は一瞬戸惑った表情を見せ、それから時間を気にするかのように慌ただしく言い放った。

「せっかくだが、約束があるから行けない。すまない」

 彼は言い終えるや否や、軽く会釈をして足早に立ち去ってしまった。僕は断られたうえに彼の少し素っ気ない態度が腑に落ちなかったものの、ひとまず遠回りした帰り道を独りで引き返すことにした。

 その時、電話が鳴っていることに気が付いた。急いでスマートフォンを取り出すと相手はオールであり、夕飯に誘う内容であった。お腹も相当空いており、何より誘われたことが嬉しかった僕はそれ以上イェンスのことを気にかけず、すぐに快諾して待ち合わせの場所へと向かった。

 オールは僕より十一歳年上で、輸入手続きが済んだ荷物をドーオニツやアウリンコに配送する仕事を長年していた。それだけにここD地区だけでなく、他の地区やアウリンコにも多少なりとも詳しかった。また、彼は性格が根っから明るく知り合いが多いうえ、僕やイェンスと違って、人が多い歓楽街にも好んで行くほうであった。歓楽街には様々なお店があり、引っ込み思案な僕には魔境のような近寄り難さがあるのだが、オールの提案もあって久しぶりに歓楽街の中にあるレストランで彼と食事をすることにした。

 オールは僕が知らない世界について、圧倒的な知識と情報を持っていた。そのうえ彼は話術にも長けているので、彼といる時は大人の娯楽に関して学ぶようなものであった。しかし、健全な娯楽にさえ僕は尻込みしていた。その理由は、端的に言えば僕が不器用で、見ず知らずの他人と一緒に盛り上がることに抵抗を感じてしまうことに凝縮されているのだが、オールは僕のそういった臆病なところを寛容的に捉えているらしく、そのおかげでこの僕でもオールとは気兼ねなく話せていた。

 にぎやかな雰囲気のまま食事が始まり、その雰囲気のままで食事が終わる。オールと食事をするといつもそうなのだが、彼は勘定の約七割程度を受け持ってくれた。僕はそれでも毎回折半を提案し、そうでなければ、今までのお礼を兼ねて僕が全額支払うことを申し出たりもするのだが、その度にオールから「ガキに恩を売られてたまるか」と笑い飛ばされて終わるのが普通であった。今回も同じようにオールが多めに支払ったので、本心から感謝の言葉を彼に伝える。それを聞いて彼が「よし、それなら俺に付き合ってもらおう。これから大人向けの店に行くぞ」とおどけて返したのだが、彼は僕がそういう場所を特に苦手としていることをとっくに知っており、わざとからかっているだけであったため、僕が「勘弁してください」と笑いながら謝るのも最近ではよくある食事後の流れであった。

「そう言うと思ったぜ。ガキはそろそろねんねの時間だからな」

「今日は本当にありがとう。そうですね、僕はもう帰ります」

 僕がそう伝えた時、オールのスマートフォンに電話が入った。どうやらオールの知り合いが近くで飲んでいるらしく、彼を誘ってきたらしい。彼はその店の場所を確認すると、相手に「待ってろ」と伝えて電話を切った。

「またな、クラウス。気を付けて帰れよ」

 オールは明るい笑顔を残し、あっという間に歓楽街の奥へと消えていった。

 一人になった途端に不安を覚え、居心地が悪くなる。にぎやかな場所も誰かと一緒ならそれなりに楽しいのだが、一人では疎外感しかない。とにかくこの場から離れ、一刻でも早くアパートに帰らなくては。

 心許ない中、人の流れの多い通りを横断しようと左右を確認する。その時であった。

 イェンスらしい人影が遠くで見えたような気がした。いや、彼は目立つから見間違いようもないはずなのだが、彼は歓楽街のように人がごった返し、気易く女性から声をかけられる場所を特に苦手としていた。そのことを知っていた僕は、勘違いであろうと考え直すと振り返ることも無く歓楽街を足早に抜けた。そしてほほを撫でる風の冷たさに肩をすぼませながらアパートへと戻った。

 次の日、事務所で仕事をしていると、ローネが僕に近寄って来てこっそり話しかけてきた。彼女は結婚しており、時折家事の他愛もない愚痴をこぼすこともあるのだが、家庭は幸せそのもののようで、彼女の家族の話を僕に何度もしてくれていた。そのため、またその話題であろうと思った僕は気楽な気持ちで耳を傾けた。しかし、彼女は怪訝な表情で思いがけないことを口走った。

 「昨日、私見たのよ。その、イェンスが歓楽街で女性と一緒に歩いているのを……。クラウス、あなたそういう女性が彼にいるのを知っていた?」

 僕は驚きのあまり、思わず首を横に強く振って返した。あのイェンスが歓楽街で、しかも女性と一緒だったというのはにわかには信じ難かった。しかし、僕も昨日イェンスらしき人影を歓楽街で見かけていた。やはり彼であったのか? 

 「あなたも知らなかったのね、仲が良いから何か知っているかと思ったわ。歓楽街のあのあたりはいつも通らないのだけど、あの先にたまたま用事があって、近道のつもりで通ったら彼を見かけたのよ。ほんの少しだったけど、でも間違いないわ。最初はイェンスがこんなところにいるとは思ってなかったから相手の女性はよく見なかったけど、彼に寄りかかっていたようで……。彼はすごく楽しそうにしていたわ」

 ひそめていた口調も最後のほうは語気が強まっていった。僕は彼女の言葉に驚愕した以上に、イェンスから何も知らされていないことについて狼狽していた。ふと、彼の昨日の様子が脳裏をよぎる。彼は言葉少なめに挨拶して去っていった。今思えば、どこかよそよそしかったかもしれない。

 ヘルマンと出会ったあの夜、僕はイェンスと貴重な体験を共有し、決して他人には言えない彼の秘密も打ち明けられていた。それ以来、僕はイェンスに対して特別な友情を感じていたのだが、そう感じていたのは自分だけであったのではないか。彼にとって重大な出来事が起こった時、彼のほうから話し出してくれるような間柄になれたと考えていたのは僕だけで、実際は軽んじられていたのだ。

 当てずっぽうな考えが芽生え、それと同時に悲しさと悔しさとが込み上がる。もちろん、彼に話せない事情があることは考えていた。きちんとした理由があるからこそ、そうしているに違いない。しかし、そのことを納得して受け入れることはたまらなく切なかった。僕が一方的に感じていた友情なのではないかという思考が離れず、さびしさから裏切られた気分にさえなる。やはり、僕のような地味な人間は、彼のような華やかな人間には不釣り合いなのだ。

 僕の心は陰湿でどす黒い感情にあっという間に埋め尽くされ、不快な思考が絶えず頭の中を闊歩していた。なぜ、なぜ彼は僕に何も話さないのか。なぜ、昨日素っ気なかったのか――。その時、僕は初めてイェンスに腹立たしさを覚えた。

 ローネは「気にしないで、きっと何か理由があるのよ」と言い残すと、仕事にそそくさと戻っていった。僕はそれでも気にしており、頭の隅でイェンスのことを考えるたびに気が散って仕方が無かった。不穏な思考が頭の中をぐるぐると回り続け、なんとか逃れようといつにも増して真剣に仕事に向き合う。暗澹たる気持ちは残っていたのだが、その日の仕事が無事に終わると僕は安どのため息をもらした。どこかぼんやりとした感情を抱えたまま、事務所を出ようとする。その時、ローネが心配げに話しかけてきた。

「クラウス、朝の話気にしてる? なんだか今日、あまり元気が無かったみたい」

「いえ、全然大丈夫ですよ。すみません、お先に失礼します」

 僕は努めて平静さを取り繕い、わざと胸を張って事務所を出た。

 風が湿っぽい。ふと空を見上げると一面が厚く暗い雲に覆われており、今にも雨が降り出しそうである。天候が気になって足早に帰宅する途中、事務所から近い場所で配送途中のオールに出会った。彼は路肩にトレーラーを停めており、誰かと電話で話し終えたところであった。

 「やあ、クラウス。仕事が終わったんだな。今日はこれからイェンスと食事にでも出掛けるのかい?」

 オールが屈託のない笑顔で運転室から尋ねてきた。その様子から、彼はどうやらイェンスが昨晩歓楽街にいたことは知らないようである。僕は相手が気さくなオールとはいえ、イェンスがいろいろな人の噂になるまで好奇の的となっていないことに内心ほっとした。しかし、どこまでもお人好しな自分に気が付くと途端に嫌気がさし、結局はイェンスに苛立ちを募らせてしまった。

 「いや、今日も何も約束していないからね。真っ直ぐ帰るよ」

 僕は苛立ちを隠すかのように、わざと明るく答えた。このまま芝居を演じてオールに挨拶して帰ろうと思ったのだが、ふと心によぎったことが気になったため、エンジンをかけた彼に大きめの声で話しかけた。

 「ねえ、イェンスは歓楽街が昔から苦手だったよね。昨日僕たちが行ったような場所には、彼なら絶対に行かないだろうね」

 僕自身、意地の悪い質問をイェンスがいない場でしていることは理解していた。こういうのを裏切りというのであろうか。

 「いや、あいつも昔は何度か歓楽街に行ってたんだ。自発的に、というよりは誘われてだけどな。いずれにせよあの見た目だから、かなり目立って女性にもてていたぜ」

 オールの信じられない言葉が僕にナイフのように突き刺さった。イェンスはそのような過去を一言も僕に話したことが無かった。僕は再びイェンスに裏切られたような気分になったのだが、今までの彼の態度からにわかには信じ難く、何かが引っかかった。

 「信じられないだろう? まあ、あいつが勤め始めて間もない頃の話だ。年頃の男なら、誰だって女の子に興味が湧くさ」

 オールはそう言うと僕を見てにやけた。

 「で、でも、今は逆に女性を遠ざけているじゃないか……。どうして……」

 僕の顔にぽつぽつと雨粒が当たり始める。

 「あいつが今、女性を遠ざけている理由がなんであれ、あいつが歓楽街の大人向けのバーに何度か行ったことがあるのは事実だ。俺も見たことがあるしな。クラウス、お前のほうがイェンスと仲いいだろう。お前こそ、遠ざけている理由を過去の話とあわせてよく知っているんじゃないのか?」

 何気なしに言ったであろうオールの言葉は、確実に僕を切り刻んだ。むろん、彼はそんなことも露知らず、不安定な空を気にかけながら言葉を続けた。

「それとイェンスのために言っとくが、歓楽街に何度も行っていたのは事実だが、あいつが行けば女性が群がるから、おこぼれに預かりたいプライドの無い奴が口車に乗せて頻繁に誘っていただけだ。俺はそう聞いている。今はいないが同じ事務所だった奴で、新人のイェンスの面倒を見ていた奴が誘っていたらしいんだ。まあ、イェンスもあの性格だからな。断りきれなかったんだろう。普通なら女性にもてりゃ楽しいはずだが、俺が歓楽街であいつを見かけた時はいつも、あいつの表情は暗かった。利用されていたようなもんだしな。実際のところは本人に聞かねえとわかんねえけど」

 オールの言葉はただの単語の羅列として僕の頭に打ち込まれていった。

「おっと、これ以上話していると配送に遅れそうだ。これで最後の仕事なんだ。本当はもう少し早く配送する予定だったんだが、受け側の倉庫から急遽少し時間を遅らせてほしいと頼まれてな。じゃあな、クラウス。気をつけて帰れよ!」

 オールは明るい笑顔を残し、トレーラーを走らせていった。その様子をぼんやりと見送っていたのが、降りだした雨が冷たくあたってきたので、急いでアパートへと向かった。

 僕がイェンスのことをほとんど知らず、上っ面だけの友情であったことに愕然としながら歩く。だが、あえて彼が以前、女性について話していたことを思い返すことにした。彼は表面だけで彼を判断し、熱心に話しかけてくる女性とは距離を置くほうであった。それでいけばオールの言葉どおり、先輩に誘われて仕方なしに行っていたのかもしれないし、当時はそれなりに歓楽街を楽しんでいたのかもしれない。しかし、何かがあって足が遠のいた。当てずっぽうな推測から当然真実が導き出されることは無く、不穏な感情と思考だけがまたしても堂々巡りしていく。

 それでも僕が知っている彼は何度思い返しても、やはり歓楽街にも女性にも関心があるような素振りは一切見せてこなかった。では、イェンスはどうして昨晩、女性と歓楽街をうろついていたのであろう?

 雨で路面が濡れ、靴にも容赦なく水しぶきがかかる。僕はとっくにずぶ濡れになっていた。アパートにようやく到着する。部屋に入るなり、僕は求めるように窓を開けて辺りを濡らす雨を漠然と眺めた。風が吹いて室内にも雨が入り込む。頭上に広がる灰色の空はきらめきを放つ星々を背後に隠したまま、あたりを暗く呑み込んでいった。僕はそのどんよりとした空を恨めしそうに見上げると、顔にあたった水滴を拭うことなく窓を閉めた。

 次の日、ローネが再び仕事中に話しかけてきた。僕はイェンスのことだと思ってつい身構えたのだが、彼女は仕事について話し始めた。

 「クラウス、申し訳ないんだけど、この書類を急いでCZ‐1地区にある輸入者に届けてほしいの。あなたの仕事は私が引き受けるわ」

 気分転換をしたかった僕はすぐに快諾し、事務所の車を停めてある場所へ向かうことにした。ローネはまだ何か言いたげであったのだが、おそらくはイェンスのことであろう。僕は気が付かないふりをすると、そそくさと事務所を後にした。

 昨日の雨はすでに止んでおり、清々しい太陽が雲の隙間から顔を覗かせていた。海沿いの道路もほとんど乾いて走りやすかったため、窓を開けて運転していた僕の心にもさわやかな風が流れ込むようである。さらに道もさほど混んでおらず、驚くほど快調に車が進んでいくものだから、僕はいくぶん晴れやかな気持ちになっていた。

 CZ‐1地区に到着した。事務所を探して車を道路脇に停め、輸入者に書類を急いで手渡す。ローネがすでに連絡を入れていたため、すんなりと用件は終了した。時計を見ると少し早いのだが、昼食を取って帰るとなるとちょうどいい頃合いであろう。ローネにそのことを電話で伝えると、近くにあったカフェに向かうべく、再び車を走らせて付近の駐車場に停めた。

 何を食べようかと考えながら足早に歩く。お目当てのカフェに到着しかけたその時、背後から若い女性の声で呼び止められた。

 「すみません。あの、ひょっとしてDZ‐17地区の方じゃありませんか?」

 その言葉に振り返って見ると、おとなしそうな女性が微笑みながら僕を見ていた。その顔にどことなく見覚えがあったため、困惑しつつも記憶を辿る。そのはにかんだ表情から数か月前の記憶が蘇り、僕はようやく彼女が誰であるかを思い出した。

 「ああ、えっと確かあなたは以前、交流パーティーの会場の場所を聞いてきた……」

 「覚えてくださってたんですね。ミアです」

 そう答えた彼女の顔が明るく輝いたのだが、僕は突然の出来事に面食らっていた。あの出会いともいえない短いやり取りを、彼女も覚えていたことは驚きであった。

 「私、この近辺で働いているの。すごい偶然ですね。こんなところでまたお会いするなんて!」

 彼女はおそらく緊張しているのであろう。はにかんだ表情のままで話すので、僕も緊張からつい無造作にうなずいて返す。だが、僕には不思議でならなかった。なぜ彼女は僕を覚えていて、あまつさえ話しかけてきたのであろう?

 そう考えるとますます慣れない状況に戸惑い、気まずさから押し黙る。無難な挨拶さえ思い浮かばないため、ますます言葉に困って視線を泳がせる。

「あの……あの、ご迷惑でなければ、お昼を一緒にいかがですか?」

 その意外な提案に驚いて思わず彼女を見ると、彼女は目を輝かせながら僕を真っ直ぐに見ていた。イェンスの顔が一瞬脳裏をかすめる。僕は思いがけない展開にさらに戸惑い、緊張もあって咄嗟に断ろうとしたのだが、僕の口からもれ出た不明瞭な音を聞いた彼女が弾ける笑顔を見せながら言った。

「良かった! では、早速行きましょ」

 彼女はそう言うとカフェの扉を開けたので、無下にするわけにもいかず、結局一緒に食事を取ることにした。

 ミアと相対して座る。僕は慣れない状況からなんとか気持ちを落ち着けようと、人知れず躍起になっていた。しかし、ローネ以外の女性と二人きりで食事を取ったことの無い僕の緊張がほどけることは無く、結局は言葉に詰まって沈黙が訪れる。そうなるといっそう気まずさを感じ、不器用な自分を心の中で責めた。なぜ、僕はこうも臨機応変に対応できないのであろう?

 その時、ふと思考が芽生えた。カフェの前で以前道を尋ねた人と再会したのだから、僕の中ではあり得ないことでも、一緒に食事を取ることを提案するほうが世間では自然な流れなのかもしれない。僕はそういった経験が皆無であった。そう考えると、彼女が勇気を持って僕を誘ったように思われたので、その勇気に報いようと会話の糸口を必死に考え続けた。

 「今日この地区へはたまたま仕事で来たのです」

 なんとか無難な話題を思いつき、簡単に経緯を話す。ミアがじっと僕を見ながら素直に話を聞くので、照れから時々視線が移ろう。そこに香水なのか、甘ったるい香りが彼女のほうから漂い、さらには彼女が終始明るい笑顔を向けていたものだから、僕の中で何かがくすぐられるのを感じていた。

 僕の仕事の話がきっかけとなり、彼女も仕事について話し始めた。彼女は街並みの景観をデザインする事務所に勤めており、勤め先がアウリンコ内の歩道や公園の整備を扱う契約を得たため、もう間もなくしたらアウリンコにしばらく通うのだという。

 その時、僕の電話が無遠慮に鳴り響いた。相手はローネからであった。ミアに断って店外に出ると、急いで電話を取った。

「もしもし、どうかしたんですか?」

「クラウス、まだCZ‐1地区にいるわね? お昼直前に連絡があって、そう、新しい仕事なんだけど、四日間ほどあなたに明日からCZ‐1地区に通ってほしいの。輸入者や他の業者と一緒に、私の代わりに打ち合わせをお願いするわ。詳しいことはあなたが事務所に戻ってからだけど、今日みたいな感じで面倒だけど午前中だけ通ってもらうことになるわね」

 ローネはすまなそうに言ったのだが、今の僕には控えめな甘さに満ちた、良い知らせのように思われた。

「わかりました。では、午後事務所に戻ったら再度確認させてください」

 なるべく落ち着いた口調で返答したのだが、僕の心はさらにくすぐられて弾んでいた。店内に戻ると、ミアが僕を見つけるなり明るい笑顔を見せる。その表情に一瞬緊張を覚えたのだが、すでに先ほどまで感じていたものとは異なっていた。そこに料理が運ばれてきたので、食べながら訥々と会話を続けた。

 偶然とはいえ再会した。しかも明日もまたCZ-1地区へと来るのだ。その場所がこことは限らないのだが、僕には何か関連性があるように思われた。ミアにこのことを伝えたらどう感じるのか。少し悩んだのだが、さらに会話が弾むきっかけになればと、思い切ってそのことを伝えることにした。

「あの、僕は明日もまたCZ-1地区に来ることになりました。この近くかはわからないのですが……」

 僕の言葉に彼女は瞳を輝かせた。

「本当? この近くだったらいいわね。そしたらまた一緒に昼食食べられるのに」

 彼女の前向きな言葉に驚いたのだが、僕はあえて大胆な言葉を返した。

「そうですね、またお昼をご一緒できたらいいですね」

 彼女にも聞こえるのではないかと思うぐらい、僕の鼓動が高鳴る。先ほどのミアの発言も僕の返事も、今まで一度も経験に無いものなのだから仕方ないのかもしれない。それにしても、どんな奇跡が起こって今のこの状況につながったというのか。

「もし、この近くだったら、またこのカフェにしましょう。明日のお昼もここに来るわ。いなかったら残念だけど仕方ないわね」

 そう言うと彼女は一瞬悲しそうな表情を見せた。しかし、すぐに明るい笑顔を浮かべたため、短時間のうちにここまで親しい態度を見せてくれた彼女に、淡い何かを感じ始める。このくすぐったさは何であろう。

 ミアと別れて事務所へと戻る。どうやら僕の表情は思っている以上に明るいようであった。ローネが「なんか午前中と雰囲気が違うわね」と訝しがりながらも、新しい仕事の内容を説明し始める。扱う貨物が特殊で運搬に慎重さを要するため、輸入者の事務所に午前中のうちに赴き、荷卸から輸入通関手続き、そして納品の完了までを荷役業者と運送業者と一緒に打ち合わせするのだという。

「今回一番重要なのは船積みと荷降ろし、そして配送だから輸入通関手続きはそんなに面倒では無いの。実を言うと、打ち合わせに参加する必要もほとんどないのだけど、あなたにとって他業種の仕事を学べるいい機会だから、輸入者にお願いしたのよ。そこの部長が私のいとこなのよ。だからクラウス、あなただけは午前中の短い時間の打ち合わせで終了ね」

 ローネはそう言うと今回の仕事の計画書を僕に手渡した。僕は輸入者の住所を確認するなり驚いてしまった。その場所はミアが勤める事務所の、まさに近くであった。

 僕はローネの配慮に感謝しながらも、早速計画書に目を通して仕事の手順を確認することにした。取り扱う貨物の内容も、ローネから説明を受けて理解を深めていく。その後は通常の仕事に戻ったのだが、ミアのはにかんだ表情が脳裏から離れることはなかった。

 その日の仕事帰り、事務所の近くで久しぶりにイェンスとばったり会った。午前中までは僕に隠しごとをしている彼に腹を立てたりもしていたのだが、ミアとのやり取りもあり、僕はどこか冷めた気持ちで彼を見ていた。

「クラウス。この間はせっかく食事に誘ってくれたのに、行けなくてすまなかった。しばらくは忙しくて行けそうにないんだ」

 イェンスが肩をすくめる。彼はやや疲れた顔付きであったのだが、相変わらず美しい眼差しで僕を見つめていた。その視線が受け止め切れず、素っ気なくかわして無機質な地面をいったん見下ろすと、僕のささやかな自尊心から「気にすること無いよ」と彼のほうを曖昧に見ながら返す。それと同時になぜか苛正しさも感じたのだが、この程度のことで彼に僕の心境の変化が伝わるとは思っていなかった。

「何かあったのか?」

 どことなく鋭い口調でイェンスが尋ねてきた。その表情は厳しくも見え、いつもより真剣な眼差しのようにも見える。彼の言葉を受け、今日あったことを彼に伝えようかと考えたのだが、突然彼に対する苛立ちが勢いを増し、大きくふくれあがった。

 彼が何か隠しごとをしているのであれば、僕だって彼に正直に話す必要がない。幼稚で棘のある対抗心がイェンスに対して芽生える。いや、ひょっとしたらイェンスの質問は単なる会話であったのかもしれない。そう思うと胸がちくりと痛んだのだが、それでも僕はあえて取り合わないことにした。

「いや、何もないよ。明日から四日間ほど、午前中に他の地区に出掛けるぐらいかな」

 半分は真実であるため、彼がどんな反応を示すのかと思いながら素知らぬ顔で答えた。しかし、イェンスは「そうか、気をつけて」とだけ言うとその場を立ち去ろうとした。

 そのあっけない言動を受け、実のところさみしさを感じていた。本当は僕に何かを話したかったのではないのか、僕にさらなる質問をしたかったのではないのか。そう思いたかった。しかしながら、彼は振り返ることなく、事務所のある方へと急ぎ足で去っていった。忙しいと話していたから、当然そうなのであろう。だが、わずか数分の会話もままならないほど、彼は忙しいというのか。僕たちはその程度の仲であったというのか。

 その思考がぐるぐると回ると僕の中の幼稚な対抗心がますます剥きだしになり、勢いよく僕の心に棘を振りかざしていく。

 彼が何も言わないのなら僕だって――。

 僕はますます憮然としたまま、彼に背を向けてどんどんと歩き出した。悔しさというよりは悲しさのほうが勝っていたのだが、そこにさびしさまでもが加わっていることには気が付いていた。

 その時、若い女性の笑い声が聞こえ、途端にミアを思い出す。彼女はほとんど初対面であるにもかかわらず、笑顔で僕を受け入れてくれた。それを思い返しているうちに苛立ちも馬鹿らしくなり、浮ついた感覚が舞い戻る。僕は明日、また彼女と再会するのだ。

 CZ‐1地区に行くのは一週間だけの予定なのだが、その間に彼女ともっと親しくなれるかもしれないという邪な期待がうっすらと芽生える。不器用な僕にも優しかったことが単純に嬉しかったからなのだが、どうにも僕は浅はかであった。しかし、イェンスのやや疲れた顔が脳裏をかすめると、僕の心は再び揺らいだ。いや、そもそもは彼の素っ気のなさが発端ではないか。僕はずっと普段どおりであったのだ。そう考えると、彼の事情は僕に全く関係の無いことのように思え、しばらく彼を僕の思考から完全に締め出すことにした。

 次の日も晴れていい天気であった。何件か輸入申告書を作成してからローネに引継ぎをお願いする。初めて訪問する輸入者であったため、少し早めに事務所を出ることにした。そわそわしていることに気付きながら、時間に遅れることなくCZ‐1地区にある輸入者の事務所に到着する。すぐ荷役業者・配送業者とも合流し、輸入者とともに今回の計画と手順について話し合いが始まった。

 重量物で長さもある貨物を慎重に船から降ろすべく、荷役機械と作業員をどう配置するかで計画が立てられていく。そして配送するときもなるべく振動を与えず、かつ周囲に配慮した運搬方法を確立させるべく、四日間でその方法を詰めていく。

 聞き慣れない言葉がどんどんと飛び交い、その度に僕は後で調べようとメモを忙しなく取り続けた。普段は接することの無い業種の人たちの、豊富な経験からくる最適な作業方法の打ち合わせは確かに興味深く、僕は誇り高く仕事をしている彼らに尊敬の念を抱いた。一方で、輸入通関手続きはローネの説明どおり複雑さが無かったため、ブローカーとしての説明はあっという間に終わってしまった。

 輸入者や荷役業者・配送業者に「明日またよろしくお願いします」と伝え、早速事務所を後にする。例のカフェの近くに車を停めるとちょうどお昼休みの時間となったため、急いでカフェへと向かった。額から流れる汗を拭う余裕はとっくになくなっていた。

 ミアはカフェの前で待っており、僕を見つけるなり笑顔を見せた。

「信じられないわ。この近くだったのね、嬉しい」

「そうなんです。すみません、暑い中を待たせていたのでしょうか?」

「いいえ、私もさっき来たばかりなの」

 優しい笑顔に乗せてふんわりと甘ったるい香りが漂ってくる。僕の顔が赤いのはもはや暑さだけではなかった。

 汗をハンカチで拭いながら、早速カフェの中へと入る。彼女は仕事の話を少ししてから彼女の趣味の話を始めた。お菓子作りが好きなのだという。僕は甘いものが得意では無かったのだが、あまりにも彼女が勧めるものだから、彼女の好意に甘えることにした。

「じゃあ、今日作って明日早速持ってくるわね」

 ミアは嬉しそうに言った。わずか短期間のうちにこんなにも親しくしてくれる彼女に、僕はただただ不器用にうなずいて応えるしかできないでいた。そこからさらに彼女の提案で、僕がCZ‐1地区を訪れている間は一緒にお昼を食べることとなった。僕はそれさえも無骨な言葉で承諾したのだが、それは立て続けに訪れた夢のような出来事に、これ以上顔がだらしなくなることをおそれ、なるべく控えめに表現したからであった。

 食事を終えてカフェを出る。少し歩いたところでミアが立ち止まり、彼女の連絡先を手渡してきた。またしても、彼女からそうしてくれたのは本当に嬉しかった。すぐさま持っていたメモ用紙に僕の連絡先を書き記し、急いで彼女に手渡す。しかし、慣れないことだらけで緊張していた僕は、うっかり彼女の手に僕の手をぶつけてしまった。

 一瞬のやわらかい感触が僕の心に届く。しかし、すぐさま気恥ずかしさから「すみません」とつぶやいて下を向いた。――あまりに不器用すぎる。僕はメモを渡すことさえも満足にできないのだ。

 突然、彼女が僕の右手をそっと彼女の両手で包み込んだ。彼女の予想だにしなかった行動に驚き、顔が赤くなるのを感じながら彼女を見る。すると彼女は微笑んでおり、「気にしないで」と言ってくれたのだが、その手はすぐに離れていった。

「またね」

 ミアが笑顔で去っていく。それでも僕の鼓動は鳴りやまず、浮ついた心だけがいつまでも残っていた。もしかしたら、ミアと僕はもっと親しくなれるのかもしれない。そんな邪な期待が心地良くさえ感じられたので、僕は軽やかな足取りで事務所へと戻った。

 次の日の僕は平静という言葉を忘れるほど、舞い上がっていたようである。ローネが勘付いて僕がそわそわしている理由を聞こうとするのだが、僕は気恥かしさから何事も無いとしか答えられなかった。やがて時間が来るとローネを巻くように慌てて事務所を飛び出し、弾む気持ちのままでC地区へと向かった。

 輸入者の事務所で、昨日より進展した作業計画について細部を煮詰めていく。昨日より専門用語が理解できたため、僕は直接仕事に関係の無い部分も熱心に耳を傾けた。お昼近くになり、僕だけ帰りの挨拶を済ませ、早速例のカフェへと向かう。今日は僕のほうが早かったらしく、カフェの前にミアの姿は見えなかった。そこにミアから『先に着いたのであれば、中に入って席を確保してほしい』と連絡があったため、店内で彼女を待つことにした。

 にぎやかな店内で一人、彼女を待つ。思えば、このように女性と待ち合わせることもミアが初めてであった。僕はいつもその他大勢の中に埋もれており、女性の関心を引くことがまずなかった。そのため、気になる女の子がいたとしても、話しかけること自体が臆病な僕にはかなり勇気のいることであり、無気力さもあって最初から諦めていたのである。イェンスと出会ってからもその点は変わらなかった。そればかりか、女性たちが彼にのみ関心を寄せていたため、僕に時折向けられる視線はおこぼれなのだとさえ捉えていた。

 イェンスは間違いなく、普通の男性には無い魅力を備えていた。そのことは僕自身も間近で彼を見ることで、何度も実感していた。一方、僕自身の魅力の無さと不器用さから、彼に対して引け目を感じているのも事実であった。完璧という言葉がイェンスをまさしく形容しているのであれば、平凡や中途半端という言葉ですら、僕には分不相応かもしれなかった。僕の幼稚な対抗心はここにも一因しており、ミアと会うことによってそれらを直視する恐ろしさから解放された気になった僕は、根拠の無い自信さえ抱き始めていた。

 ほどなくミアがやってきた。いつも長くおろしていた髪を束ねてまとめていたため、その新たな一面に緊張を覚える。彼女は遅れてきたことを詫びながらも、恥ずかしそうに小袋を僕に手渡してきた。彼女の説明によると、昨日仕事が終わってから僕のために家でクッキーを焼いたのだという。そんな彼女の行為が僕にはただただ嬉しく、ありきたりの言葉でお礼を言うことしかできなかった。

「ねえ、後で味の感想を聞かせてくれない? 甘さは控えめにしたの」

 思いがけない彼女の言葉に、再び戸惑う。しかし、その時脳裏に浮かんだ邪な期待からの指令は、かつてないほど大胆なものであった。

「あの…あの、それでしたら今夜電話をしても構いませんか?」

 僕は緊張しつつも彼女に提案した。さすがに下心が丸見えなのではないかと、おそるおそる彼女の様子を伺う。しかし、彼女は微笑みながら言葉を返した。

「嬉しい! そのつもりでいたのよ。それなら夜十時頃に電話して。待っているわ」

 断られるであろうと考えていた僕の心は、あっという間に喜びと彼女への好意とで満たされていった。何もかもが今までにない展開であり、その全てが心地良いのである。そうこうしているうちに限られた時間があっという間に過ぎていく。一時間もないので短いのも当然なのだが、僕たちは名残惜しみながらそれぞれの職場へと戻っていった。

 事務所に戻ると、この社長のムラトが何か重要な案件で忙しなく電話をしているのが目に飛び込んできた。目が合った彼に会釈を返し、席に戻るなり輸入通関手続きの仕事を再開させる。ローネが「あと二回行けば終わるわね」と労ってくれたのだが、今の僕にはそのことが非常に惜しいことのように思われた。

 仕事を終えると真っ直ぐにアパートへと戻った。帰る途中で雨に当たったのだが、僕の心は街路樹の葉っぱの上で無邪気に踊る雨粒のように弾んでいた。

 窓際のソファに座り、ミアが焼いてくれたクッキーを一枚ほおばる。ほんのりとした甘さが口の中に広がり、今まで食べてきたどのクッキーよりも美味しく思われた。そうなると一気に食べてしまうのはもったいないように思え、残りは缶に入れて保存することにした。

 夜になった。ミアが提示した時間になったため、緊張しつつも彼女に電話をかける。彼女は両親と一緒に住んでいた。彼女個人のスマートフォンに電話をかけるので、そのことはなんら不都合も無いはずなのだが、僕は妙に緊張していた。

 数コールしてから彼女が電話に出る。昼に聞いた時と同じように、彼女は可憐な声で僕の名を呼んでくれた。明日も仕事とあってそう長くは話せなかったのだが、クッキーの美味しさを報告して少し話すと、また明日と言って僕たちは電話を切った。

 彼女の声や甘ったるい匂いを思い浮かべ、余韻に浸る。そのどこか甘美な気持ちのまま、いつもの窓を開けて夜風に当たった。雨はしとしとと降り続いていたのだが、その光景が今の僕には優しく、心地良かった。しかし、何か大切なことを忘れていると思った瞬間に雨の匂いが鼻につき、彼女の匂いが消されていく。慌てて窓を閉めて記憶の中の匂いを辿ろうとしたのだが、すでにその記憶は途絶えてしまい、どこか漠然とした喪失感と高揚感の中に僕は放り出されてしまった。

 その相反する複雑な感情を抱えたまま、ベッドにもぐりこむ。最後にミアが「また明日」と僕に言った。今の僕にはそれで充分なのだ。そう言い聞かせると、いつもの疲労と慣れない余韻の中で眠りについた。

 朝になると雨は止んでいたのだが、曇り空が辺り一面に広がっていた。天気予報だと午後には晴れるという。僕はミアと再会できる今日の昼が待ち切れず、いつもより早く起きて事務所に向かった。足取りは実に軽やかであった。

「クラウス」

 馴染みのある声が僕を呼んだ。声のほうを振り返るとイェンスであった。しかし、彼の姿を見るなり僕は驚いた。いつもきちんと身なりを整えているはずの彼が無精ひげを生やし、目の下にはくまも見られた。何よりその顔には生気が無かった。そこまでひどく疲れた様子の彼を見るのは初めてであったため、僕は一気に彼のことが心配になった。

「イェンス、大丈夫? 朝だというのに、君はひどく疲れているようだ」

 僕の問いかけにイェンスは弱々しく微笑み、ささやくように返した。

「ありがとう、最近かなり忙しかったからね。明日の休みが待ち遠しいけど、まずは今日一日乗り越えないとね」

 彼にしては珍しいほど弱気な発言であった。僕は歓楽街で彼を見かけたことを思い出していた。そのことを思い切って尋ねようかと思案していると、彼から不意打ちを食らった。

「クラウス、君は昨日CZ‐1地区で女性と一緒だったね。たまたまそのカフェの前を車で通って、二人で立ち話をしているところを見かけたんだ」

 その言葉に僕は思わず動きが止まった。

 なんて言おう、なんと言えばよいのか。イェンスは動揺を隠しきれない僕を見て察したのか、力無く微笑むと続けて言った。

「気にしないでくれ。ただ君を見たという話さ。じゃあ」

 彼は疲れた様子のまま去って行った。それでもどことなく気品を漂わせる彼の後ろ姿を見送りながら、僕は心の中で何かが後ろめたく引っかかるのを感じていた。

 事務所に着いて通常の仕事をこなし、それからC地区へと向かう。最初は今日ミアと何を話そう、何を食べようかと思いながら運転していたのだが、雲の隙間から青空が顔を覗かせているのを見つけた時、イェンスのことが脳裏をよぎった。それは今朝の疲れ果てた彼の姿であった。

 イェンスが僕に話さないでいることがある。それは確実であった。その内容がどういったことで、なぜ話さないのかは全く不明なのだが、ブローカーは仕事上で知り得た情報に対し、法律上で定められた守秘義務を課せられていた。イェンスを疲れさせている原因が仕事なのであれば、彼はなおいっそう事細かに事情を説明しないであろう。一方、歓楽街でのことも思い出していた。それらが複雑に絡んでいるから話せないでいるのか、それとも僕には単に話したくないから言わないでいるのか。そう考えるとまたあの幼稚な対抗心が荒々しくうずき、容赦なく棘を僕の心に突き立てていく。

 しかしその時、なぜかドラゴンの爪が脳裏に浮かんだ。青白く、それでいてかすかに黄金色の光を放つ爪が、眼の奥で美しくちらつく。ちょうど前方が赤信号で停車したため、僕はいったん目を閉じて思考を練ることにした。そこにイェンスのひどく疲れた顔が再度浮かび上がる。今まで見たことも無かった、彼のやつれた様子――いや、今朝の彼の言動も今までに無いものではなかったか。

 何かが彼に起こっているのは間違いない。そのことで、確かに僕はさびしさから来る苛立ちを彼に感じていた。だが、本当は彼にどう接したいのであろう。僕は何を彼に求めているのか?

 イェンスにだって、僕には言えない特別な事情がまだ残っているのは当然のことではないか。僕だって、彼に僕自身の全てを知らせたわけではない――。

 その思考に呼び起こされたのか、答えは意外と早くに見つかった。それは答えというより、僕の正直な気持ちであった。

 僕はイェンスの良き友人であり続けたいのだ。

 彼が歓楽街の件でも、何かにすごく疲れていることでも、僕に話そうと話さまいと、ヘルマンと出会ったあの夜に感じた彼への友情は僕自身にとってかけがえのないものであり、これからも大切にしていきたいと考えていたではないか。

 やはり、イェンスとの友情を僕は信じよう。

 目を開けるとちょうど信号が変わり、徐々に前方の車が進み始めていくところであった。僕はハンドルをしっかりと握りながら、僕の中に新たに芽吹いた気持ちをもしっかりと握りしめた。たとえ、彼が僕に同じように感じていなくとも、それは彼の自由であり、僕の自由でもあるのだ。いや、彼の本心がどうであれ、彼の幸せを願うのが真の友人なのではないのか。

 そう考えた瞬間、あれほど苛立ちを煽りたてていた僕の幼稚な対抗心が、あっけなく消えいくのを感じた。さびしさを感じていた心に突き刺さっていた氷の棘が溶けると、イェンスに対して穏やかな気持ちだけが残る。決心がついた僕の心は棘の傷跡が癒えるのも早かったようで、あたたかささえ感じていた。何となく肩の荷が下りたような、清々しさが僕を取り巻く。僕はそのすっきりした気分まま、輸入者の元へと向かった。

 納品までの運搬行程で輸入者と納品先とが微調整している時、僕の個人用のスマートフォンにメッセージが届いた。休憩の合間に確認するとミアからであり、外殻政府の人と一緒にプロジェクトを進めるにあたって、これから政府担当者と急きょ打ち合わせに入るため、今日は一緒に食事できないという連絡であった。

 僕はひどく落胆したのだが、最初に会った時から、彼女はアウリンコで近々仕事があることを話していた。そこで僕はさみしさをこらえると、気にしないで仕事を成功させてほしい、とだけ彼女にメッセージを送った。気持ちを切り替えるべく、休憩を早めに切り上げて打ち合わせ場所へと戻る。すっかり顔馴染みとなった他業者と談笑し、そのまま打ち合わせの再開を待つ。作業計画の打ち合わせも順調で、午前中の僕の業務も滞りなく終了した。

 カフェへはそれでも一人で行った。当然の如くミアと食事をしたことが思い出され、彼女に対する気持ちが募っていく。やがて料理が運ばれて来ても音が無く、色あせた空間で味気のない食事を食べているような気がしたので、淡々と昼食を済ませて早々に駐車場へと向かった。

 風が珍しく止み、蒸し暑さを感じる。駐車料金の清算を済ませ、さっさと車に乗り込もうとしたその時、誰かが走ってくるのが見えた。気になって目をこらすと、なんとミアであった。

「良かった、間に合ったわ!」

 彼女は空気をお腹いっぱいに貯め込むかのように深呼吸をし、それから満面の笑顔で僕を見つめた。その笑顔と、彼女が走って会いに来てくれた感激に思わず彼女に触れたくなったのだが、下品かもしれないと考え直してぐっとこらえた。

 「今日はごめんなさい」

 「気にしないでいいんだ」

 僕は彼女の顔を見つめ、気持ちを込めて伝えた。すでに何度か僕に喜びをもたらした彼女の笑顔は、僕を色があふれて美しい音色が響く世界へと連れ戻していった。

「今日はね、アウリンコ側の担当者と早めの昼食を取っていたの。事務所に戻る前にカフェのほうを見たらあなたが見えたから、担当者に断って急いで来たのよ。彼を待たせているから長居はできないのだけど、伝えたいことがあるの」

 ミアの言葉は非常に嬉しかった。僕にまたしても希望の明かりが灯されたのである。

「それなら、明日の土曜日にゆっくり話せないだろうか?」

 僕は思い付きから、今までにない大胆な提案をした。彼女ともっと親しくなりたい、もっと長く話したいという気持ちが僕を囃したてていたからなのだが、ミアは一瞬驚いた表情を見せると申し訳なさそうに首を振って答えた。

 「エステラを覚えている? 交流パーティーの時に一緒にいた友だち。彼女と明日、明後日と出掛ける約束を以前からしていたの」

 突然の提案だから仕方がない。それでも往生際の悪い僕は食い下がった。

 「それなら今晩、電話でゆっくり聞くよ。政府側の担当者を待たせているんだよね?」

 それを聞くなり、ミアは申し訳なさそうに目を伏せて小声で返した。

 「ごめんなさい。実は、これからその担当者とドーオニツの別の地区へ一緒に出掛けるの。だから今日は仕事が遅く終わりそうで、何時に家に戻れるかわからないのよ。それで」

 彼女はさらに続けた。

 「あなたがここに来るのは月曜日が最後よね。あなたと最後にお昼を食べたかったのはやまやまなんだけど、その日から責任者としてアウリンコに直行し、彼と一緒にプロジェクトを推し進めていくことになっているの。だから、しばらくあなたとは連絡を取れそうにないわ……」

 彼女の声は消え入りそうであった。しかし、彼女に悪いところなど何一つ無かった。僕は『最後』という言葉が気にはなったものの、優しい彼女をそれ以上困らせたくなかったため、意を決して彼女に伝えた。

 「それなら、君の仕事がひと段落してからでいいよ。君がこれから新しい仕事でかなり忙しくなるのはわかっている。だから僕は……」

『僕は待っている』と言うと、始まったばかりのプロジェクトに、責任者として重圧を感じている彼女の重荷になりそうで、到底言えなかった。

 「僕は全く気にしていないよ」

 僕は精一杯の笑顔とともに彼女に伝えた。すると沈んだ表情を見せていた彼女が明るさを取り戻し、にっこりと僕に笑いかけて早口で言った。

 「ありがとう。それなら、こちらからまた連絡するわね。彼をずいぶんと待たせているから、私、もう行かなきゃ」

 彼女は慌てて走り去っていった。去り際に彼女の甘ったるい匂いがほのかに漂ってきたので、さらに胸が締め付けられる。束の間でも彼女に会えた喜びはあったのだが、やはり彼女と少しの間、連絡を取り合えないさみしさは拭えなかった。その重い気持ちを引きずったまま車に乗る。運転には注意しようと気を取り直したものの、何ともいえない気持ちが消えることはなかった。

 天気予報のとおり、午後から晴れて暑くなった。午前中と打って変わって、僕はただ黙々と仕事をこなした。その日の仕事帰り、オールがまた夕飯に誘ってくれた。しかし、僕は朝のイェンスの様子やミアのことも重なって疲れを感じていた。せっかくの誘いであったにもかかわらず丁重にオールに断わりを入れると、なるべく考え事をしないように急いでアパートへと帰った。

 適当に食事を取り、人影もまばらな夜の街を窓からぼんやりと眺める。窓を開けていたため、秋風が冷たくほほに突き刺さっていく。読みかけの本をパラパラとめくりながら遠くを見ていると、不意に潮風が鼻についた。海からは遠いため、全くの気のせいのはずなのだが、匂いがきっかけとなり、あの特別な夜が鮮やかに脳裏に浮かんだ。

 あの熱気を帯びた夜は本当に楽しく、美しかった。ヘルマンの話の何もかもが感慨深く、僕の心に深い気付きまでをも贈った。そのヘルマンのあたたかな笑顔が脳裏に浮かぶ。彼は今頃どうしているのであろう。あのペンダントは彼の胸元で今も静かに光り輝いているのであろうか。イェンスとはまた以前の関係のようになれるのであろうか。

 僕は一気に物悲しくなり、そっと窓を閉めた。心にぽっかりと穴が空いたような喪失感に襲われる。だが、それはミアに対してではなかった。僕は大切な何かと、ずいぶん長い間、離れているではないか。

 ふさぎ込んだ心を抱えながらぼんやりと過ごす。そうこうしているうちに夜十一時も過ぎようかという頃であった。

 「クラウス」

 ドアの向こうから控えめに僕を呼ぶ声が聞こえた。僕はこの声を聞きたいとずっと願っていたのかもしれない。走り寄ってドアを開ける。イェンスがそこに立っていた。

 彼は本当にくたびれた顔をしており、疲れからか、少しふらふらとしていた。それでも残された最後の気力をふりしぼるかのように僕に弱々しく微笑みかけたので、僕は胸が熱くなった。

 「イェンス! どうしたの、こんな時間に。さあ、中に入って」

 彼をすぐに室内へと通す。疲れた体で四階まで階段を上るのはしんどかったであろう。ソファにひとまず彼を休ませ、食事を取るかと尋ねる。すると彼が腹ペコだと答えたため、急いで簡単なサンドイッチを作り、あたためたミルクとコップ一杯の水とを一緒に差し出した。

 「ありがとう」

 イェンスは少しよろめきながらテーブルへと向かい、おもむろに食べ始めた。

 その様子を見て僕は安堵を覚えたのだが、疑問もあった。彼が僕の部屋を訪ねることは何度かあったのだが、こんな夜更けに来るのは初めてのことであった。ひょっとしたら彼に何かあったのではないのか。あれこれと心配が募ったのだが、ひとまずは疲れている彼が落ち着いて食事を取れるよう、そっと見守ることにした。

 「クラウス、明日は何か予定がある?」

 不意にイェンスが尋ねてきた。

 「いや、何も」

 そう返答すると僕もミルクが飲みたくなり、ゆっくりとコップに注いだ。

 イェンスは僕の言葉ににっこり微笑んだだけで、そのまま食事を続けた。彼の言葉から、明日は僕を誘って何かを予定しているのであろう。しかし、無心にサンドイッチをほおばっている彼を見ていると、質問をいくつも投げることは不適切であるように思われた。「ゆっくり食べていて」と彼に伝え、窓辺のソファに座って読みかけの本を手に取る。カーテンの隙間からいつもの夜景が見えたのだが、僕はあえて体を室内に向けて本を眺めた。

 さっきまで感傷気味であった心に、あたたかさが戻ってきている。こんなふうに一瞬で僕の心に灯りをともし、中から優しく照らす人がいて、それがイェンスであることが僕にはやはり嬉しかった。ふとミアのことを話そうかとも思ったのだが、彼がひどく疲れていることから、今は彼をゆっくりと休ませることが何より先決だと思い直す。

 いつの間にか室内が静かになった。イェンスを見ると彼は食べ終わっており、そのままテーブルに伏せて眠ってしまったらしかった。こんなにも無防備で疲れ果てた彼の姿もまた、今まで見たことの無いものであった。彼の言葉どおり、ずっと忙しかったのであろう。

 部屋の明かりが、組んだ腕に半分隠れたイェンスの聡明なおでこをほんのりと照らす。無垢な子供のように美しい彼の寝顔を、僕は静かに見つめた。ようやく休息を得た喜びのうちに眠ってしまったのかと思うと、穏やかな気持ちだけが湧き上がる。ミアとしばらく会えないことさえ、静かに受け入れられる気がした。

 イェンスがすっかり寝入ってしまったのを確認すると、僕は彼を起こさぬよう細心の注意を払いながら彼をベッドに寝かしつけることにした。彼の靴を脱がし、シャツも首元を緩めて毛布をかける。それでも彼はすやすやと寝息を立てたままであった。よっぽど疲れがたまっていたのであろう。僕はその後もソファに座って本を読んでいたのだが、いつの間にか眠ってしまったらしかった。

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