第2話

《第一章》

 働き始めて一年九か月が過ぎようとしている、よく晴れた初夏の金曜日のことであった。僕と同じ職種に就いている、イェンスという一つ年上の男から仕事帰りに食事の誘いを受けた。

 彼はドーオニツ建設当時からこの島に関わり、それ以前からもある地方国において、由緒ある家柄として名高く知られたグルンドヴィ家の出身であった。彼の一族は代々優秀で、アウリンコで地位の高い仕事に就くことが一般的であった。そのため、彼もアウリンコで重要な地位に就く将来が生まれつき約束されていたようなものなのだが、僕と同様に貿易に興味を抱くと彼の両親の意向に反し、自らの意思でカスタムブローカーの元で働くことにしたらしい。

 そのイェンスは緑色の澄んだ瞳が印象的な整った顔立ちで、どこか気品の漂う風貌であった。彼は僕の勤め先と異なる事務所で働いているのだが、僕が勤めている事務所の上司であるベテランの女性ローネが、以前彼の仕事を手助けしたことがきっかけで彼と親しくなり、時折昼食をともにする仲にまでなったのだという。

 僕がイェンスと知り合ったきっかけは、そのローネの紹介であった。僕が働き始めて数か月経った頃、彼女の提案でイェンスと三人で昼食を取ろうということになった。イェンスも僕も、好物や好む話題が似たり寄ったりであることに気が付いたローネが、僕たちを引き合わせたら面白い結果になるのではないかと思い付いて計画したらしい。 

 当時の僕は、早く手順に則って仕事をこなすことに精一杯で、精神的に余裕の無い状態であった。新人特有のはつらつとしたやる気もあるにはあったものの、些細な間違いを頻発することによって、自分自身の力量不足と仕事に対する傲慢さを恥じる日々であったため、当初はローネの提案に乗り気ではなかったのである。しかもいざ対面すると、イェンスのその見た目と家柄と経歴に、僕には全く縁の無い上流階級特有の華やかさを感じて圧倒されてしまった。

 僕は子供の頃から自分が好む世界に一人、静かに沈みこみがちであり、また周囲に合わせて気の利いたことを言うのが苦手な性格であった。それは僕の考え方や感性が独特であることを周囲から幾度となく指摘されたことが一因で、不適切な言動で周囲から嘲笑されることを恐れ、あえて距離を置く方を選ぶという非社交的な性格に支配されていたからであった。そのため、その昼食会も臆病な僕にしてみれば非常に努力を要するものであり、そもそも僕のような日陰者が、彼のような目立つ存在にこの先も興味を抱かれるはずがないと思い込んでいた。

 しかし、なぜかはわからないのだが、その後もイェンスは僕に話しかけてくれた。思えば、ローネの思案は的中したのであろう。彼と一緒にいて緊張したのは最初のうちだけで、気詰まりを感じて排他的な自分を責めることもほとんど無かった。

 出会いというものは実に不思議なもので、彼と知り合ってからは街中でも彼を見かけるようになっていった。書店で同じような本を探し求めているところに偶然出くわしたり、スーパーで似たような食材を買い求めているところに遭遇したりと、そういったことが何度か重なったのである。それらがきっかけとなってイェンスと僕は仕事以外でもよく会うようになり、食事だけでなく他愛もない散策にも一緒に出掛けるような間柄へと発展したのであった。

 僕を捉えた宝石のような澄んだ緑色のその瞳は、好奇心にあふれているようであった。

「今、扱っている貨物の貿易船の乗組員とたまたま話す機会があって、ここから少し離れた場所にあるレストランが美味しかったと聞いたんだ。クラウス、どうだろう。もしよかったら、そこに今日行ってみないか」

 イェンスは静かな微笑みを浮かべていた。僕は身長が低い方ではないのだが、イェンスが僕より少しだけ背が高いうえに体格にも恵まれ、そのうえ気品あふれる美しさと魅力をやわらかく解き放っているものだから、その存在感に圧倒されることが度々あった。

「ああ、面白そうだね。行ってみよう」

 今回もイェンスの洗練された佇まいに圧倒されてやや声高に返してしまったのだが、彼は僕の外れた口調を気にかけること無く、さわやかな笑顔でうなずいた。続けて彼が控えめな口調で待ち合わせ時間と場所とを提案し、主張もこだわりもない僕があっさりと同意して返す。このやり取りも、僕たちの仲においてはありふれた光景であった。彼はそれから少しすると、「買い物があるから、また後で」と微笑んで去っていった。

 少し前までまぶしかった日差しが、少しずつ黄昏を含んだ夕日へと変貌していく中、汗ばみながら長く伸びた自分の影を追いかけるように歩く。僕は職場から歩いて三十分ほどのところにある、古い四階建てのアパートの最上階に住んでいた。外観は少しくたびれた灰色の壁に覆われているのだが、内装はある程度現代風に改装されており、部屋の窓から見える外の眺めはそれなりに素晴らしかった。古い建物であるためエレベーターが無く、四階まで上がるのは時折しんどいこともあるのだが、今日はあまり疲れていなかったこともあり、足取りは最後まで軽やかである。

 部屋に入るなり窓を開ける。熱っぽい新しい空気が、青色のカーテンを躍らせる。眼下の道路では、車と通行人が東へ西へと去っていくのが見えた。街路樹がそよ風とともに踊り、その樹の下で熱心にスマートフォンを覗き込んでいる子供たちを見てから何ともなしに空を見上げる。この窓からの風景がいつも僕を優しくなだめ、心地良い充足の時間を与えていた。そのため、疲れて帰ってきた日でも全く何もしない休日でも、窓の外を眺めることは僕のお気に入りの習慣であった。

 不意に車が途切れ、人影さえも消えて静寂が訪れる。アパートの前の道路は幹線道路でないため、夜はさらに交通量が少なく、静寂に包まれる瞬間が度々あった。その一瞬の静けさを僕は非常に気に入っていたのだが、それが思いのほか長く続くと、僕だけが世界から隔離されたのではないかと妙な感覚に陥った。

 ふと我に返ると、イェンスとの待ち合わせ時間が迫っていた。ほほを撫でる熱っぽい風を室内に招き入れたところで窓を閉め、急いで身支度を整えて外へ出る。暑さがあちこちに残る中、どのようなレストランなのかとあれこれ想像をめぐらせながら、彼との待ち合わせ場所である海浜公園へと向かった。

 嗅ぎ慣れた潮風に誘われながら公園の中へと進む。イェンスはすでに到着しており、ドーオニツでの功績を称えた偉人の銅像の下で僕を待っていた。目が合うなり微笑んだ彼が「早速行こうか」と歩き出したその時、彼の赤橙色の髪が少しずつ傾いてきた太陽に照らされ、きらめく炎のようにたなびく。その、独特の美しさを放っている天然の髪色に思わず感嘆して見入ったのだが、彼は僕の視線に気付くことなく先に進んでいった。

 もう何度も顔を合わせているにもかかわらず、イェンスが持つ輝きのある美しさに僕が未だ慣れずにいるのは、彼に何か深い事情による特別な魅力があるからなのだと考えていた。そのうえ彼は知識や見識が豊富で、僕がたまたま目にした言葉でさえ彼に伝えると彼はとっくに知っており、しかもそのほとんどがその概要を説明できるほどであった。そうなると、無知で不器用な僕がますます卑屈になってもおかしくないのだが、こうも彼が完璧なものだから、もはや素直に感心しているほうが僕にとって居心地が良かった。

 今回もまた、イェンスが放つ独特の魅力に感心しているうちに目的のレストランへと到着した。そのレストランの前を何度か通り過ぎたこともあったのだが、訪れたのは互いに今日が初めてであった。店内はどこか年代を感じさせる内装で、木製の床は丁寧に掃除が行き届いているのか磨かれており、大きな窓は店内を明るく照らして開放感あふれる雰囲気を醸し出している。壁にはアウリンコ樹立前から活躍していた画家の絵が何枚も飾られ、さらにはクラシック音楽が控えめに流れていたため、僕は落ち着いて食事を楽しめそうな気分になっていた。

 窓際の眺めの良い席を案内され、着席する。イェンスもこの店を気に入ったようで、またしてもさわやかな笑顔を僕に向けた。

「僕はこれにするよ、今日は魚介類の気分なんだ。クラウス、君も似たような感じだろうか」

 イェンスがメニューを指差した料理は、まさしく僕が候補に挙げている料理のうちの一つであった。

「僕もそれと悩んだんだけど、君がそれを注文するなら僕はこっちにするよ」

「なら決まりだな」

 イェンスが給仕の女性に目配せし、二人分の注文を伝えていく。女性は「かしこまりました」と会釈したのだが、去り際にイェンスの顔をもう一度見つめ、はにかんだ表情を見せた。その一部始終を僕はまたしても目撃してしまった。

 イェンスを好意の眼差しで見つめてくる女性は実に多かった。彼の完璧なまでに整った容姿からすれば、無理もないことであろう。しかしながら、当の本人は好意の視線を向ける女性に対して無関心であり、特に無遠慮にじろじろ見ながら乱雑に話しかけてくる女性に対しては手短に適当な用事を述べ、急いでその場から立ち去ることのほうが多かった。

 今回もイェンスは給仕の女性の視線を気にも留めず、すぐさま視線を外の風景へと移した。その横顔も気品あふれる美しさに満ちているのだが、どこか謎めいており、影があるようにも思われた。

 僕はイェンスに以前、女性にすぐ好意を持たれることについてどう感じているのか、それとなく尋ねてみたことがあった。それは単なる好奇心からではなく、そのような場面に遭遇するたびに僕がどういった態度を取るべきかで悩んでいたからなのだが、彼は控えめな口調で「実に困っている」と返すと、憂いをおびた表情で遠くを見た。そして、彼に好意を寄せる女性のほとんどが理想の男性像を彼に押し付けるばかりで現実の彼の本質を見ようとせず、そのうえで彼の事情お構いなしに彼を所有しようとするものだから疎ましく思っている、と遠慮がちに続けたのであった。

 誰かと一緒にいても自分がその相手から理解されていなければ、結局は孤独であるに違いない。それは僕自身の経験からきているのだが、イェンスもきっと同じく感じているのであろう。仮に僕にもそういった状況――僕のうわべだけに親しくない女性が幻想に近い好意を抱いて一人歩きし、現実の僕の本質を直視しないこと――が訪れたら、たまらなく不快に感じるに違いない。しかし、僕には彼のような経験が一切無かった。それゆえ僕の推測が想像でしかないことも理解していたので、彼が物憂げな表情を浮かべている時はそっと見守るだけにしていた。

 僕も外の景色に目を向けていたのだが、ふとしたことがきっかけで他愛もない話が始まった。外は夕闇がますます濃くなっており、車のライトが街灯りに溶けずに去っていく。その時、突然イェンスの目が大きく見開き、店内の反対側へと注意が向けられた。彼が目を凝らしながらじっと奥を見つめているのが気になり、僕もその視線の先を探っていく。すると、店の壁に掛けられているいくつかの絵画の中で、奥の壁に飾ってある一枚の男性の肖像画にひときわ関心が向けられているのがわかった。

 僕もその肖像画が気になって目を凝らしたその時、イェンスがそっと話しかけてきた。

「あれはゲーゼの肖像画のようだ」

「ああ、確かにそのようだね。ここもひょっとしたらゲーゼ縁の場所なのかもしれないね」

「伝説のDragon brokerが過去によく訪れた店かもしれないな。後で店員に尋ねてみよう。それにしても異国の衣装かな、勇ましい風貌だ」

 イェンスの言葉に、僕は学校で学んだことを思い返した。

 ゲーゼは外殻政府が樹立してドーオニツも完成した約百二十年前に、遠い地方国から海路はるばるこの地にやって来た人であった。彼はその前からすでに有能な人物として方々で名声を得ていたのだが、混乱が収まらない外殻政府の要望で着任するやいなや、行政の安定と秩序の回復に非常に尽力したとされていた。特に揉めていた貿易分野を一括して引き受けると、主たる法律や手続きなど必要な枠組みを適正さと安全性、そして迅速さの観点から体系的にまとめ上げ、現在の税関業務やカスタムブローカー業務の礎を築いたことで有名であった。

 ゲーゼがその素晴らしい知性と、優れた行動力とを駆使して複雑であった問題を鮮やかに解決したことから、超難題をドラゴンに見立てて当時から彼を『Dragon breaker』という称号で呼んでいたらしかった。いつしかその称号をもじって優秀なカスタムブローカーのことを『Dragon broker』と指すようになったのだが、ゲーゼの偉業は現在でも色あせることなく広く知れ渡っていた。

 そのゲーゼは謎が多く、生涯を独身で通し、晩年は消息が不明とされていた。しかし、有能かつ身体能力にも優れ、また端正な顔立ちであったことから、当時はゲーゼの肖像画がさびれた僻地でも見られるほど凄まじい人気ぶりであったようである。今でも彼の銅像や肖像画はあちこちに残っており、特にカスタムブローカーに勤めるイェンスと僕は、ゲーゼの偉業に対して敬意を払っていた。

 そのゲーゼの肖像画は憂いを帯びた印象的な眼差しで、道路の向こうにある公園を挟んだその先の、微かに見える海を捉えているようであった。海のはるか向こうには大きな大陸があるため、遠い彼方にある彼の故郷に想いを馳せているのであろうか。

 僕がブローカーの仕事を選んだ理由の一つに、今でも人々の敬愛を受けているゲーゼに対する関心があった。それは非常に強いものではないのだが、僕に分相応の目標を抱かせるほどの影響力を持っていた。

「イェンス。僕らも知識と経験と信用を積み重ね、さらにその地位を政府から正式に認められれば、『Dragon broker』として政府特別案件の輸出入や非常に希少な貨物の輸出入手続きにも関われるようになれるんだよね。道のりは遠いのだろうけど、憧れるなあ」

 僕は『Dragon broker』について思っていたことをなんとなく彼に話してみたくなり、緊張しつつも初めて言葉に表した。しかし、僕の言葉に彼はどこか驚いた表情を見せたため、すぐさま視線を下に向ける。――失言したのだ。優秀な彼に身の程知らずの願望だと思われたのではないか。

「君もか、クラウス」

 その言葉に救われて顔を上げる。イェンスは僕の目を覗きこむように見つめており、その眼差しは優しかった。

「僕も実を言うと憧れているんだ。難しいのだろうけどね」

 彼が僕と同じように憧れの気持ちを持っていることは本当に嬉しかった。ブローカーとして働いているのであれば、ゲーゼにも称号にも憧れることは当然なのかもしれない。それでも彼の反応は実に心地良く、店内の音楽が穏やかに僕たちの周りを取り巻いていくようであった。

「イェンス、君ならゲーゼのようにいつかはなれるだろうね。君は優秀だし、家柄もいいみたいだから」

 僕は優しい旋律を耳にしながら、思ったことを正直に口にした。しかし、彼は意外にも控えめな表情で首をやんわりと横に振り、僕をまっすぐに見つめた。

「家柄は最終的に何の意味も成さない。僕がなれるというなら、クラウス、君にも充分その資質があると僕は思っている」

 彼の眼差しにも口調にも力強さがあった。しかし、彼の思いがけない評価に僕は全く戸惑ってしまい、咄嗟の返答さえ喉の奥から出せずにいた。

 その時、先ほどの給仕の女性が僕たちの料理を運んできた。彼女がとりわけイェンスに向かって熱心な笑顔を見せたため、彼はその好意的な視線を上手にかわしながら、控えめな口調でこのレストランとゲーゼとの関連性について尋ね始めた。

「お客様、よくお気づきになりましたわ。この店はゲーゼお気に入りのレストランでした。ちょうどお客様がお座りのこちらの窓際の席を指定されては、独りで外を眺めていたそうよ」

 その言葉に驚いてイェンスを見る。驚いた表情の彼と目が合うと、彼は窓の景色を一瞥してから再び女性の説明に耳を傾けた。

「彼は当時からかなり有名でしたから、行く先々で歓待を受けていたそうなの。でもこの店の初代が、それでは彼がゆっくりと美味しい食事を取ることができず、ただ気疲れするだけだろうということで特別扱いをしなかったんです。ゲーゼはその初代の心遣いをかなり喜んだようで、この地を去るまで度々ここを訪れてはくつろいだ様子で食事を楽しんだようですわ」

「丁寧な説明をありがとうございました」

 イェンスは落ち着いた口調で彼女に伝えた。それと同時に別の店員が彼女を呼び止めたため、会釈をして彼女が去っていく。そこで会話が終了したのは幸いであった。僕がイェンスに「ありがとう、面白い話が聞けたよ」と伝えると、彼は「たいしたことじゃない」と微笑んで返したので、ようやく僕たちは目の前の料理にありついた。

 その料理は味付け、彩りともに素晴らしかった。少し値が張るだけのことはあり、舌鼓を打ちながら食事を楽しむ。落ち着いた店内の雰囲気にも満たされた僕たちは、いつも以上に会話を弾ませていた。

 ゲーゼの話や他愛もない話をしながら食事を終え、そろそろレストランを出ようかという頃合いである。支払いを済ませようと店員を探したその時、近くの席で一人静かにワインを飲んでいた初老の男性に話しかけられた。

 「やあ、こんばんは。その、聞くつもりは無かったのだが、君たちがゲーゼのことを話していたのが聞こえて嬉しくてね。おそらく貿易に関わる仕事をしているのだろう。ゲーゼと比べなくとも、君たちは未来輝く若者なのだ。どうぞ自分の信じる道を進み、人生を謳歌してほしい。…その、急に酔っ払いが話しかけてすまなかったね」

 「いえ、問題ございません」

 イェンスが物腰穏やかな態度で応じた。

 「見ず知らずの僕たちにあたたかい言葉をおかけくださり、ありがとうございました」

 彼の言葉に続けて僕も簡単に感謝の言葉を続ける。すると男性の顔がほころび、知性を感じさせる丸い銀縁眼鏡の奥で目尻が下がった。

 「いやあ、年寄りの、しかも酔っ払いの戯言に丁寧に対応してくれて嬉しいものだ。今日は特別な夜だったが、おかげでさらに良いものとなったよ。ありがとう」

 男性はそう言うと立ち上がったのだが、その際に手に持っていた帽子を床に落としたので、僕が素早く拾いあげて彼に手渡した。

 「すまないね。この店に来るのも今日でおそらく最後だから、どうも飲みすぎたかな」

 男性はおどけた表情で受け取った帽子をかぶると、僕たちに再び微笑んだ。

「あの、最後というのは、差し支えなければ理由をお教えくださいませんか?」

 普段なら気にかけないのだが、僕はなぜか男性がゲーゼのことを言及したことが妙に気になっていた。男性は僕の唐突な質問にもやわらかい笑顔を崩すことはなく、イスに座り直したかと思うと朗らかに話し出した。

「実を言うと、私は貿易船の船長をしていてね。明日の午前中にここを出港するのだが、その帰りの航海が船長として最後の航海になるのだよ。早い話、もう年齢が年齢だから引退して、後は地方国にある家でのんびり暮らすというわけだ」

 それを聞いたイェンスが驚いた声で尋ね返した。

 「ひょっとして、本船CAMELLIA FORTUNEの船長でいらっしゃいますか?」

「よくわかりましたな。船舶代理店にお勤めか。そのとおり、その船の船長のヘルマン・ハンス・ヘッセだ。ヘルマンと呼んでほしい」

 ヘルマンと名乗ったその男性もまた驚いた表情を浮かべた。

 「お会いできて光栄に存じます。僕はイェンス・イェンセン・グルンドヴィと申します。仕事はカスタムブローカーに勤めており、その本船のばら積み貨物の輸入通関手続きを担当しておりました。僕が別の用事で税関の監視部に伺った際、船舶代理店業者らしき男性が通路で電話しており、たまたまあなたのお名前を話していたのが耳に入ったのです。いつもなら気にかけないのですが、その男性が感慨深い様子で何度かお名前を繰り返していたのが印象的だったので、耳に残っておりました」

 イェンスの言葉に、ヘルマンは「そうだったか」と言って笑顔で握手を求めてきた。それを受けて僕も慌てて自己紹介をしながらヘルマンと握手を交わす。

 ドーオニツに出入りする貿易船の船長ともなれば、幅広い知識と経験を長年にわたって積み上げていることから、政府にも港湾関係者にも厚い信頼を置かれていることであろう。カスタムブローカーと貿易船の乗組員との間に接点はほとんど無かった。船が入出港するために関わる手続きを行うのは船舶代理店の仕事であり、荷下ろしや船積みは荷役業者が行っていた。船用品の積込承認申請も専用のコンピューター回線を通じて行われる現在、カスタムブローカーのほうから積極的に関わらない限り、船員を見かけること自体が稀なのである。よって乗組員の、しかも船長と話したのは今回が初めてのことであった。

 「これも何かのご縁でしょうな。その、もし君たちにこれから予定が無ければどうだろう。不審に思うだろうから無理にとは言わないが、船に寄って行かないかな? 地方国船籍貿易船への執務時間外の往復交通の許可なら、私が手配しよう」

 ヘルマンはそう言うと、ジャケットの内側から貿易船の船長を証明する、彼の顔写真入りのIDカードと政府発行の特別入港許可証を見せた。しかし、イェンスと僕はヘルマンの唐突な申し出にたいそう驚き、無言で顔を見合わせた。

 カスタムブローカーが船長自らの申し出で船の案内を受けるというのは、おそらくかなり稀有な体験になるのであろう。僕たちが長年港に出入りしており、船舶代理店業者などにも知り合いがいれば起こりうることなのかもしれないが、いずれにせよほとんど部外者である僕たちにとって、それまで縁遠かった世界の入り口が開かれたようなものであった。

 僕はヘルマンを見つめた。その穏やかな眼差しに僕は不安よりも信頼を見出し、あまつさえ僕の中には今まで感じたことも無いほどの強い興味と好奇心とが湧き上がっていた。イェンスもまた興奮した表情でヘルマンを見つめており、その瞳はみずみずしく輝いているようである。

 その時、ヘルマンの背後にあるゲーゼの肖像画が目に入った。その瞬間、僕の中にこの誘いを断ると後悔するという直感が鋭く働きかけた。なぜ、僕はそう思ったのであろう?

 僕がイェンスを見るより前に、イェンスが僕にささやいた。

「僕は興味があるけど、君はどうする?」

 その言葉に「実を言うと僕もなんだ。せっかくだ、行ってみよう」と返すと、イェンスは微笑んで「良かった」とつぶやいた。そこで僕たちは笑顔で「ありがとうございます。ぜひ、ご好意に甘えさせてください」とヘルマンに言葉を返した。

 「よし、わかった。では、ここは私が支払おう。いや、ぜひそうさせてほしい」

 ヘルマンはそう言うなり、僕たちの食事の分まで支払おうと店員を呼び止めた。さすがに申し訳なくてイェンスと一緒に慌てて断ったのだが、ヘルマンがやわらかい笑顔で「気にするな。すまないが、少し外で待っていてほしい」とだけ返したので、僕たちは彼に丁寧に感謝の言葉を伝え、レストランの外で彼を待つことにした。

 日が沈み、星がちらちらと輝きながら姿を現していく。街灯に照らされた道路と通りは、車や人の往来で相変わらず忙しなかった。ヘルマンはレストランから出て来るなり、僕たちの往復交通の許可をこれから港湾局にいる知り合いに頼んで手続きするため、身分照会を受ける手順になるまで引き続き待っていてほしいと伝えてきた。僕たちはその話もすんなり了承し、ヘルマンがスマートフォンを操作するのを傍らで見守ることにした。

 「やあ、プラサート。今日は楽しい食事をありがとう。あの後、例の店で一人飲んでいたら若いドーオニツ人たちと気が合ってね。突然だが、これから彼らを船に連れて……そう、指定地外交通の許可をこれから取りたいのだよ。そこで君の部下の……」

 ヘルマンの言葉に僕はイェンスと顔を見合わせて笑顔を浮かべた。普段なら選択肢にも加えることの無い、非常に大胆な行動をしようとしていることはわかっていた。熱っぽい空気が僕たちにも伝播し、向こう見ずになっているだけなのかもしれない。それでもなおも好奇心に誘われるがまま、僕たちはこれから訪れる体験に思いを馳せた。ヘルマンのような大きな貿易船の船長と共有する体験が面白くないはずがない、イェンスとそう話し合っているうちに僕は愉快な気分にさえなっていた。

「あの、すみません」

 背後から突然、若い女性の声がした。イェンスが少し固まった表情で視線を向けたので、僕もまたやや緊張を覚えながら振り返る。

 「私たちCZ‐1地区から来ていて、これから例の交流パーティーに行きたいのだけど、なかなか会場を見つけられずにいるの。この近くなのは間違いないのだけど、あなたたちはその場所を知らないかしら?」

 カールした髪を長く垂らした、少し派手な恰好をした女性がもう一人の女性と一緒に会場名を告げながらイェンスに尋ねてきた。CZ‐1地区は隣の地区であり、『例の交流パーティー』とは、地区に関係なく十八歳以上のドーオニツ居住者同士の交流を目的とした、自由参加型の親睦会を指しており、主に一か月に一回程度何か所かにおいて開催されるものであった。

 僕はその交流パーティーに二度参加したことがあった。初めて参加したのは学生生活を終えてこの地区に引っ越す直前で、僕の引っ込み思案な性格が会場の騒々しいまでのにぎやかさにどうしても馴染めず、せっかく誘ってくれた友人に謝って一人で先に会場を出てしまった。二度目は働き始めて間もない頃、仕事で知り合った人にやはり誘われて断り切れずに一緒に行ったのだが、たった数か月で僕が激変することはなく、開始早々に居心地の悪さから心が折れてしまったのである。しかもそのような状況で突然女性から話しかけられ、返答に困った僕がしどろもどろで言葉を返し、そのあまりの不出来さに身を隠すかのように一人で会場の隅に佇み、時間が過ぎ去るのをひっそりと待ったことは過去の汚点でさえあった。それらの暗い思い出のため、今の僕は交流パーティーに全く興味が無く、それゆえその情報さえも全く持ちあわせていなかった。

 それでも会場名に聞き覚えがあったため、懸命に周辺の地図を思い返す。しかし、その女性が片手に持っているスマートフォンで、なぜ会場の位置を詳しく調べないのかという疑問が湧き上がり、不意に考え込む。すると、その隣に立っている女性がスマートフォンを取り出し、何かを調べ始めたようであった。女性は長いストレートの髪を上部半分で束ねており、どちらかといえば地味な見た目をしていたのだが、いずれにせよ僕自体を気にかけること無く辺りを見回した。

 「それなら、ここからもう少し行った先のレストランでしょう。ここに来る途中、集まっている人たちを見かけましたから」

 イェンスが丁寧な口調で答えたからか、相手の女性二人とも満面の笑顔を浮かべた。

 「ありがとう、助かったわ」

 僕は彼女たちがそのまま立ち去っていくものと考えていた。しかし、その少し派手な女性はイェンスにさらに近付き、微笑みながら言葉を続けた。

 「あの、もしよろしかったらご一緒しませんか。D地区に知り合いを作るのが目的なものですから」

 僕は初対面でも臆すること無く、堂々と誘いの言葉をかけた彼女に驚いてしまった。その一方で、イェンスが気を悪くしたのではないかと心配になり、そっと彼の様子を伺う。

 「あいにくですが、僕たちは今ちょうど人を待っているところなのです。では、どうぞお気をつけて」

 イェンスは穏やかな表情を崩すことなく断った。彼の心境はおそらく穏やかではないのであろうが、それでもおくびにも出さない彼の気高さに僕は感銘を受けた。

 「急な話ですものね。でも、残念だわ。またどこか会えたら嬉しいわ。私はエステラ、彼女はミアよ。では、お互い素敵な夜を」

 エステラと名乗った女性はそう言って微笑むと踵を返し、会場のほうへと向かって行った。彼女が粘ること無くすんなりと会話を終わらせたことに胸を撫で下ろしつつ、ミアと紹介されたもの静かな女性のほうを何気なしに見る。すると意外なことに彼女と目が合い、はにかんだ笑顔が僕に向けられた。しかし、それは束の間であり、彼女はすぐにエステラの後を追って足早に立ち去っていった。

 僕はミアという女性の視線やはにかんだ表情を全く予想していなかったため、全く戸惑ってしまった。イェンスと一緒にいると彼だけを見つめる女性が非常に多く、僕は常に空気のような存在であった。そのことに全く引け目を感じていないわけではなかったのだが、仮に女性からいきなり話しかけられても気の利いた言葉が返せないため、空気のような存在で良かったのだと僕自身をどこかで納得させていたのである。こういうのを卑屈というのであろう。しかし、すぐさまイェンスの様子が気にかかり、そっと彼に視線を戻す。

 イェンスは街灯りでぼんやりと霞んだ星空を見上げていた。その様子を受け、僕も並んで空を見上げる。上弦の月が建物の隙間から西の空に顔を出しており、僕たちにやわらかい光を落としている。彼は見ず知らずの女性からいきなり誘われることを、ことさら疎ましく捉えていた。表情はしかと読めなかったのだが、おそらく今回も快くは思っていないことであろう。

 イェンスは気分を害するようなことがあった場合、露骨に表情や態度には出さず、ひっそりと自分の中で折り合いをつけるようであった。僕は彼のそういうところに尊敬の念さえ抱いていたのだが、これから貿易船に向かおうとしているところで水を差されたのであれば、やはり彼を慮らずにはいられなかった。

 街灯りがもっと少なければ、今宵光り始めたばかりの星たちが彼の心に癒しの輝きを届けたに違いない。しかし、ここドーオニツにおいて、観測可能な星空などほとんど存在しなかった。

 「やあ。君たち、ドーオニツ居住者身分証明票は持っているだろうか? ああ、良かった。さあ、暗証番号を入力してくれないか」

 ヘルマンがスマートフォンを差し出しながら話しかけてきた。執務時間外の往復交通の手続きは、許可をもらえる段階にまでやってきていた。先にイェンスがドーオニツ居住者身分証明証をスマートフォンで読み取らせ、続けて暗証番号を入力する。無事本人認証完了を知らせるブザー音がもれ聞こえると、僕も同様に行った。普段なら持ち歩かない身分証明証を持ち歩いていたのは、酒類を提供するレストランで稀に身分証明証を求めることがあり、初めて利用するレストランということもあって念のため携帯していたからなのだが、この運の良さを僕は感謝の気持ちで受け止めていた。

 ヘルマンが電話に向かって指定地外交通の許可番号を復唱している。おそらくは彼のスマートフォンにもメールにて許可番号が配信されているのであろうが、いずれにせよ全ての準備は整ったらしく、ヘルマンが満面の笑顔でイェンスと僕に話しかけてきた。

 「意外と早く終わったが、本当に待たせたね。さあ、行こう!」

 ヘルマンは颯爽と歩き始めた。その後ろ姿を受けてイェンスが「楽しみだな」と無邪気な笑顔を僕に見せる。無事彼が気持ちを切り替えたことに心から安堵を覚えると、急いでイェンスと一緒にヘルマンの後を追った。

 タクシーをつかまえて港頭地区へと向かう。目的地に到着するまでの間、僕たちの仕事をゲーゼに対する憧れを絡めてヘルマンに紹介することにした。彼は優しい笑顔を崩すことはなく耳を傾け、そこから彼が今まで訪れた各港の様々な思い出話を簡潔かつユーモアを交えて披露してくれたため、二十分ほどの移動の間に僕たちはあっという間に打ち解けていった。

 港頭地区の入り口に到着した。ヘルマンが一旦タクシーを降り、待ち受けていたゲートの管理者に執務時間外指定地外交通の許可番号と、先ほど電話で話していたプラサートという担当者名を添えて伝える。すると、その管理者は明るい笑顔を見せて「ようこそ。臨時開庁からの現場検査じゃなくて安堵したよ」と冗談を交えながらゲートを開けてくれた。

 ドーオニツでは緊急非常事態以外での夜間の本船荷役を禁止しているため、埠頭一帯は昼間に比べてかなり落ち着いていた。それでもヘルマンの話だと、夜間に知り合いや客を船に上げて特別な夕食を取ることはままあるのだという。そうでなくとも乗組員たちがドーオニツでの夜を楽しみ、仲間との語らいを楽しんでいるのであろう。どこからともなくにぎやかな話し声が波打つ音に乗って聞こえてくる。その雰囲気が僕を囃し立てているのか、夜の帳はとっくに降りていたものの、何か素晴らしい世界が情熱的に幕を開けていくようであった。

 バースに停泊している大きな貿易船を目の前にし、期待で胸が高鳴る。潮風さえもが僕たちを歓迎しているような気がすると、いよいよ足取りが軽やかである。すでに連絡を受けていた乗組員がタラップを降ろし、ドーオニツ最後の思い出となる夜をさりげなく支えているのであろう、にこやかな笑顔で僕たちを出迎える。そこにヘルマンが本船への乗り込みを誘導し始めた。船長自らの案内であるため、相当頼もしい。タラップの脇で僕たちを出迎えてくれたのはこの船の一等航海士らしく、イェンスがそっと教えてくれた。突然の訪問にもかかわらず、笑顔で出迎えてくれたその一等航海士の男性に感謝しながら船内へと入る。かなり特別な経験をしていることから、はしゃぎたくなるほど嬉しかったのだが、努めて冷静に振る舞って薄明るい廊下を静かに進んでいく。少しして、重厚なドアをヘルマンが開けて押さえてくれたので、イェンスに続いて僕も中へと入った。

 「ここが船長室だ」

 ヘルマンの説明に少しの驚きと感激をもって室内を見回す。船長室は壁と床の板目が美しく、それでいて荘厳さと機能美とが調和しており、一見して古風なホテルのような内装が印象的であった。

 ヘルマンはソファに腰掛けると、僕たちにもゆったりくつろぐよう勧めた。そこに先ほどの一等航海士が登場し、飲み物と簡単な料理とをテーブルの上に置いていく。その物腰と眼差しから彼がヘルマンを尊敬しているように見えたので、ヘルマンが船長としてドーオニツで過ごす最後の夜を、先ほど出会ったばかりの僕たちが相手をしていいのかと心苦しくなった。そうこうしているうちに、その一等航海士が一礼をして船長室を出て行こうとしたので、感謝の言葉に続けて何か伝えなくてはと彼を目で追う。イェンスも気にかけていたのか、その一等航海士を控えめに呼び止めようとしたのだが、ほぼ同時にヘルマンが飲み物を勧めてきたため、結局はその機会を逃してしまった。

 「あの方は一等航海士の方だそうですね。ドーオニツ最後の夜はこの船の乗組員と過ごすほうが思い出深いとも思ったのですが、本当に僕たちでいいのでしょうか?」

 僕はおずおずとヘルマンに伝えたのだが、すぐに言ってしまったことを後悔した。ヘルマンはそれを踏まえてなお、好意から僕たちを船長室に招き入れてくれたのではないのか。

「僕も同じことを考えておりました」

 イェンスがヘルマンに話しかける。彼もやはり同じ気持であったのだと思うと心強さが一瞬現れたのだが、どのみち遠慮すべきであったのではないかと自責の念が僕を捉えた。

「君たちは何も気にすることはない」

 ヘルマンの表情は朗らかであった。

 「彼はわかっているからこそ、協力してくれたのだ。そして私も彼を信頼しているからこそ、君たちをここに連れてきたのだよ」

 僕はヘルマンのその言葉に、彼と一等航海士との深い絆を感じ取っていた。信頼しているからこそ、ヘルマンは思うように行動できたのであろう。その時、いつもは控えめに同意を表すイェンスが大きくうなずいて返した。彼はひょっとして、ヘルマンと一等航海士のような信頼関係に憧れと理想を見出しているのであろうか。

 イェンスと僕との間に、彼らのような強固な信頼関係が成立しているとは思えなかった。それでも、もしその可能性があって僕に許されるのであれば、イェンスとそのような友情を築いていくことは光栄なことのように思われた。しかし、彼に対して一方的かつ大胆な思考を押し付けていることに気が付くと途端に気恥ずかしくなり、僕の内面のやり取りにもかかわらず、その思考から逃れるように注意をヘルマンに戻した。

 ヘルマンはその半生を語り始めていた。

 若い頃のヘルマンはドーオニツとは無縁で、主要な地方国と辺境の地方国とを往来する貨物船の乗組員として働いていたようである。最初はばら積み貨物船の乗組員から始まり、徐々に航海士としての階級を上げ、コンテナ船やタンカーでの乗船業務も経験していったらしい。そして船の動力源である機関部分も勉強し、船に精通するようになって様々な国家資格も取得できたのを契機に、完全免許制であるドーオニツへの貿易船の乗組員試験に挑戦し、無事政府から合格の通知を得たのだという。

 ドーオニツで生まれ育つと、幼少時から用意された環境の中でドーオニツやアウリンコで生活していくためのルールを学び、規範意識を繰り返し身に付けていくようになっていた。しかしながら、地方国出身の人がアウリンコやドーオニツに関わるには、必要となる関連法規と行動規範を意図的に学んで身に付け、独特の制度に従う必要があった。そのため、地方国出身者がたとえ一時でもドーオニツに滞在するというのは、大変な努力や苦労を要するらしいのである。そういった体験談を聞くと、父の過去の姿と重なって複雑な気分になることもあるのだが、根性の無い僕にとって基本的にはその弛まない努力に頭が下がる思いであった。

 「どこに行っても素朴に生きる人たちが彼らの人生を楽しみ、住む場所を愛しているのを私は目の当たりにしてきた。ここドーオニツでもそうだ。それぞれ見た目や信条、宗教に人種の違いなどもあるが、基本的なところでは同じなのだよ。みな笑って、楽しんで、泣いて、怒って、時には慰めを求め、笑い合い、また時にはバカバカしいことも全力でやる。相手を受け入れたり、罵ったりすることもあるが、根本ではみな同じなのだ」

 ヘルマンが澄んだ眼差しで僕たちを見つめた。その瞳には優しさがあふれているようであった。

 「誰だって優しくされれば嬉しいし、嫌なことをされれば腹立たしい。お互いに相手の立場を思いやれれば、自分だけが苦労して損しているわけでないことに気付く」

 その言葉は僕の心を強く打った。僕も経験上思い当たるところがあり、人の本質は同じなのだとうすうす勘付いていた。しかし、今までそのことに改めて向き合い、確立した信条として考えたことなかった。自分の中に未整理の思考があるのを見過ごし、日々をぼんやりと送っていたのをヘルマンの言葉で気付かされたのである。

 僕は気付きを得られたことで、どことなく晴れ晴れとした気分でヘルマンを見た。

 「おっしゃることはよくわかります。何より、含蓄のある言葉をご教示くださり感謝しております」

 イェンスが敬意の眼差しでヘルマンに伝える。彼のその言葉がまさしく僕の気持ちを代弁していたため、「僕も同じです」と付け加えた。

 イェンスと同じ考えを共有していたこともまた、素直に嬉しかった。もしかしたら僕たちは思っている以上に気が合うのかもしれない。いや、食べ物の好みのみならず、好む話題が似通っている人など、今まで僕にはいなかったではないか。

 「すまん、すまん。年寄りの悪い癖ですっかり説教じみてしまった。しかし、君たちが同意してくれたのは嬉しいねえ」

 ヘルマンの優しい笑顔につられてイェンスも僕も笑顔で返す。すでに僕たちは和やかな雰囲気の中におり、話し下手な僕でも居心地の良さを感じていた。

 数時間前までは赤の他人であった人と知り合い、特別な場所で深みのある話題を共有している。しかもこの場所を離れたら、少なくともドーオニツで会う可能性はほとんど無かった。出会いとはなんと不思議なものなのであろう。イェンスと僕があの席に案内されなかったら、ヘルマンとはすれ違っただけである。いや、あの席にいても僕たちがゲーゼのことを話さなかったら、おそらくヘルマンは話しかけてこなかったに違いないのだ。

 僕はそのヘルマンの顔を見た。落ち着いた照明が彼の威厳あるしわを微かに照らしており、内面の輝きからくる美しさをにじませていた。円熟の域に達すると、こうも深みのある魅力を放つのであろうか。

「クラウス。君はイェンスと比べると、どちらかというと自分を表現するのが控えめだが、君もイェンスも美しい心を持っている。だからこそお互いめぐり合い、そして私ともあの店でゲーゼの話題をきっかけにめぐり合うことになったのだと思う」

 ヘルマンが唐突に話し始めた。僕は突然褒められたことに驚いたのだが、彼の言葉はまたしても僕の心に大きく響いた。特に今まで内面を褒められたことが少なかったこともあり、僕は全身が喜びで覆われるかのような深い感激の中にいた。

「僕が美しい心を持っているとは驚きですが、褒められたことは素直に嬉しいです。ありがとうございます」

 僕はつたないながらもヘルマンに感謝の言葉を返した。そこにイェンスがなめらかな言葉で感謝の言葉を添えていく。そのどちらもヘルマンは優しい笑顔で受け取り、僕たちをやわらかく見つめていた。

 突然、ヘルマンの表情が硬くなった。それと同時に胸を押さえたので、何か芳しくない体調の変化が起こったのではないかと心配して声をかける。しかし、よくよく観察してみると、彼は何か考え事をしているようであった。

 思いがけず沈黙が訪れる。ヘルマンは目を閉じ、何度か深呼吸を繰り返した。その様子を困惑しながらイェンスと見守っていると、彼は再び目を開けて真剣な表情でイェンスと僕とを見つめた。その、ただならぬ雰囲気に緊張を覚えながらもヘルマンを見つめ返していると、彼の口がゆっくりと開いた。

「突然だが、ゲーゼと私との話をしよう。君たちになら話せそうだ。これからする話をどう扱うかは君たち次第だが、君たちならきっと私が望むような扱いをしてくれると確信している」

 ヘルマンはそう言うと微笑んだのが、徐々に視線を船長室の窓へとずらしていった。僕は彼の言葉の真意がわからず困惑していたものの、なるべく心を落ち着けて彼が話し出すのを待った。

「実を言うと、私はゲーゼと知り合いだったのだ」

 「ええっ!」

 突拍子もないヘルマンの言葉に、僕はつい大声を上げて驚いてしまった。イェンスも非常に驚いた表情でヘルマンを見ているようである。

 「ゲーゼはおよそ百二十年前に活躍された偉人なのに、あなたと年代が被るというのは……」

 「クラウス、君が驚くのももっともだ。さっきのレストランで、私はゲーゼと食事をしたこともある。ますます信じられないだろうがね」

 ヘルマンは真顔のままであった。

 「私がゲーゼに初めて会ったのは、二十五歳の時だった。むろん、ドーオニツではなく地方国ペンロタでね。そこへは仕事ではなく旅行で訪れた。ペンロタはドラゴンが住む神聖な島ウユリノミカに一番近い場所だ。島自体はペンロタの一番近い海岸からでも数百キロは離れているのだが、それでもドラゴンに興味があった私は、目にする機会があるんじゃないかと冒険心で真冬に一人で訪れたのだよ」

 ドラゴンという単語が出た瞬間、僕の体から緊張と興奮とが一気に湧き上がった。かつて抱いていた憧れの気持ちが舞い戻り、そればかりか不思議と体中から力がみなぎるようである。

 ドラゴンは強大な能力と深甚な叡智、神々しいまでの美しさに加え、類まれなる飛行能力を持つと言われていた。しかし、外殻政府の首脳クラスでさえ接触できることは不可能で、具体的な情報もほとんど無く、どちらかといえば伝説に近い存在であった。そのウユリノミカはかなり北の極寒の地にあり、周囲は波が荒くて船ではなかなか近寄れず、空から進入を試みようとしても、上空は乱気流が発生しやすくて到底近付ける場所ではないらしい。そのため、人間でかの島に上陸を果たしたものは誰一人としていなかった。また、ドラゴンのほうから人間に接触することも極めて珍しく、有史以前からほとんど例が無いようであった。そのため、何らかの偶然が重なってドラゴンと接触した人々の体験談だけが、何世紀にもわたって大切に受け継がれてきたのである。これほどまでにドラゴンに関しては不明瞭なことだらけなのだが、それでも何千年にもわたって人々の関心を惹きつけてきたということは事実であった。

 「ペンロタは知っているかもしれないが、遠くて行くまでが本当に難儀でね。その当時住んでいた場所から四回も飛行機を乗り継がないと辿り着けなかった。天気が悪いとなかなか飛行機も飛ばなかったし、足止めも食らったもんさ。なんでわざわざ真冬に行ったのかと思うだろうが、それなりの理由があって、飛行機代が安かったからだ。その頃はお金に余裕が無かったからね。その一番近い海岸もまた空港から遠くて、車を借りて雪道を五時間近くも運転して行ったのだ。若さ特有の勢いが無かったら到底辿り着けなかっただろう」

 ヘルマンがワイングラスを持てあそびながら話を続ける。

 「ようやく辿り着いた、さびれた海岸の村でいろいろドラゴンのことを尋ねてみたのだが、誰一人としてドラゴンを見た者はいなかった。『遠路はるばる来てくれたのに申し訳ないが、数百年以上も見た話を聞いちゃいねえ』って言われてね。そりゃあ、がっかりしたよ。それでも粘って一週間ぐらい滞在したのだが、結局ペンロタの厳しい冬を体験しにきたようなものだった」

 ヘルマンの手の動きが止まる。彼はやや険しい表情を浮かべてさらに話を続けた。

 「諦めて帰ろうと車を運転していたら、空港まであと一時間ほどのところで猛吹雪に遭った。私は悪天候から立ち往生せざるを得なかった。視界が真っ白だったからね。今だって真冬のペンロタを訪れる者はそうそういないが、当時は特に通信機器も発達しておらず、人里離れた道路に私の車しかいない状況だったから、本当に心細かったさ。緯度が高いため、極夜でただでさえ日中でも薄暗いのに、車のガラスは吹き付けてくる雪であっという間に白くなるし、車体も大きく揺らされて無力な自分にはどうすることもできない。神聖なドラゴンに近付こうとしたから天罰でもあたったのだろうかと、孤独と死の恐怖と闘いながらも車内で途方に暮れていた。その時だった」

 ヘルマンの眼が鋭くなった。

 「男が暗がりの猛吹雪の中から、突如として現れたのが見えた。最初はびっくりして怖かったさ。しかし、彼は車に近寄って窓ガラスをたたき始めたんだ。吹き付ける風と雪の音から細切れに、『大丈夫か、生きているか』と聞こえてきた。私は慌てて窓ガラスをたたき返すと、なんとか窓を開けて彼に助けを求めた。私が旅行者であることを見抜いたその男は、吹雪が止むまで一緒にいてくれることを提案してくれた。見知らぬ人だったとはいえ、私はすぐさま同意した。一人でかなり心細かったからね。助手席に彼が乗り込んでフードを外した時、顔を見て心底驚いた。かつて何度も肖像画を見てきた、ゲーゼそのものだったからね」

 僕は驚きのあまり言葉を失った。

 「その男は雪まみれで、よくもまあ、こんな猛吹雪の中を歩いていたのだと思うと不思議なほどだったのだが、とにかく私は人に出会えたことでかなり心強かった。しかもそれがあの伝説のDragon brokerのゲーゼにそっくりだったからね。普通に考えればあり得ないのだが、私はなぜか確信するかのようにおそるおそる彼に尋ねた。『信じられないが、もしや偉人ゲーゼ様ではないか』と。すると彼は『偉人ではないがそのとおり、私はゲーゼ、ゲーゼ・オレ―シャだ』とあっさりとした口調で返した。自分が置かれている状況を忘れて私は熱狂した。あの偉人、英雄ゲーゼが目の前にいる。あちこちで見かけた肖像画よりずいぶん老けてはいたが、それでも今の私ほどでは無かった。髪に白いものが目立っていたものの肌つやは良く、体格もがっしりしており、美しく吸い込まれるような瞳をしていたよ」

 僕の脳裏に今まで何度か見てきたゲーゼの肖像画が浮かぶ。そのほとんどが、ゲーゼの瞳の色を琥珀色に縁取られた紫色で描いていた。誇張して描いているのかと思っていたのだが、もしかしたら本当にその色であったのであろうか。

 「紫色の瞳だったのでしょうか?」

 イェンスが興奮した様子で尋ねた。

 「そのとおりだ。手元を確認するために持っていた懐中電灯の明かりをつけた時、はっきりと確認した。それまで紫色の虹彩を放つ人間は何度か見てきたが、色合いも濃さも全く異なる。本当に印象的な目だった。しかし、そこでようやく疑念を抱いた。ゲーゼはあの当時ですら百年以上も前の、昔の人だ。彼がここドーオニツで活躍した年齢も彼が五十代頃のはず。目の前にいるのがゲーゼ本人なら、私が時間の流れに逆らって過去にやってきたのか、それともゲーゼが何らかの理由で未来に飛んできたのか……。SF映画のような現象に困惑していると、私の混乱を見透かしたかのようにゲーゼが話し始めた。天候が回復するまでの間、私のことであなたが知らないことを話そう、と」

 船長室に奇妙な静寂が訪れる。それから誰からともなく漏れた深い呼吸音が小さく耳に届いた。

 「ゲーゼは自分のことをドラゴンと人間との間に産まれた子だと言った。私は非常に驚いた。ドラゴンが人間に近付いたうえ、さらに子をもうけるなど完全に私の想像や理解を超えていたからね。君たちも知っているかもしれないが、異種族と交わって産まれた子供には特徴があるそうだ。男子なら異種族である親の特徴を受け継ぐ代わりに繁殖能力が無く、子孫を残すことができない。女子ならば人間の特徴のみ受け継ぐので、通常の女性と同じように人間の子孫を産むことが可能である、といったものだ。かなり数少ない事例だが、異種族との間に産まれた子供全てがその特徴を持っていることだけは、はっきりとしている。ゲーゼはドラゴンの特徴を受け継いだことで能力が全般的に普通の人間より高く、また年齢の進み方が少年期あたりから少しずつ遅くなり、二十歳を過ぎたあたりから明らかに普通の人間と比べて加齢のスピードが遅くなったのだと説明した。その彼自身の見た目は、年老いてきていたとはいえ、完全に近い美しさを持っていた。それで彼がドーオニツで成し遂げた偉業の全ての辻褄が合ったんだ。なぜ、広く人気を博し、あの肖像画でさえ魅力を放っていたのか、なぜ、劇的な解決策をあっさりと提示できたのか。私はゲーゼの言葉を疑うことなく、すんなりと受け入れて納得した」

 ヘルマンは当時の事を思い出し、声をひそめながらもやや興奮しているようであった。

 数時間後に吹雪が収まると、ゲーゼは力強く車のドアを開けて車の周りの雪を払い、運転を買って出てヘルマンを安全な場所まで送り届けたのだという。ゲーゼがペンロタにいたのは地元の人にも知られていなかったのだが、その理由は同じくドラゴン――つまり彼の父親に会うのが目的で訪れていたらしい。ゲーゼは元々ペンロタの出身であり、彼の父親であるドラゴンと秘密裏に会っていたらしかった。

「ドラゴンの血を引いていると聞いて、好奇心からいろいろ尋ねてみたい気持ちに駆られたのだが、不意にそういった詮索や好奇の眼差しこそがゲーゼを人間社会から遠ざけた要因なのだということに気が付いてね。そもそも私に姿を見せることによって彼の秘密が露呈され、ますます生きにくくなるかもしれないという不安もきっとあったはずだ。あの時代、私のような若者が『ゲーゼがまだ生きている』と主張したところで真に受ける者がいたとは思えないが、ゲーゼの驚異の偉業にはいろいろうわさ話もあったから、ゲーゼ生存の事実が発覚したら世界中に広がる可能性は決して無いとは言えなかった。それでもゲーゼとしては、猛吹雪の中で立ち往生して困っている者を見捨てるわけにはいかなかったのだろう」

 ヘルマンは、ゲーゼが彼自身の秘密が露呈されるおそれを顧みずに自分を助ける行動を取ったその勇気と気高さと、その裏に隠されている孤独と苦悩とを感じ取ったらしかった。そのため、浅薄な好奇心だけでゲーゼに質問することは、ヘルマンの誇りを傷つけることに変わってしまったのだという。

「私は別れの際、ゲーゼに約束した。あなたには言葉に言い表せないほどの感謝を感じている。そして一生涯あなたの秘密を誰にも口外しない、と」

 ヘルマンはそう言うと微笑み、ワインに口を付けた。

 僕にはゲーゼがヘルマンに話した秘密を、ヘルマンがもらさず僕たちに伝えていることが不思議でならなかった。しかし、そもそもその内容が到底信じられないことだらけであったため、それ以上に僕は困惑していた。

「なぜ、ゲーゼはあなたに秘密を打ち明けたのでしょう? 人違いだと答えれば、済んだ話だったと思うのです」

 イェンスが控えめな口調ながらも、真剣な眼差しでヘルマンに尋ねた。その質問にヘルマンは遠い眼差しを浮かべ、彼の記憶の中に潜り込んでいくかのような表情で答えた。

「そのことは私も尋ねたのだ。なぜ、秘密を話して下さったのかと。するとゲーゼは静かにこう言った。『ふと、そういう思いに駆られたのだ。きっといい方に転がるはずだ』とね。私が改めて他言はしないことを彼に伝えると、彼は微笑んで応えただけで何も言わなかった」

 そうなると、必然的に心の中で強く渦巻いている疑問が荒々しく僕を打ち付けたので、僕は思い切ってヘルマンにそのことを尋ねることにした。

 「では、なぜ僕たちにそのことを……」

 後に続く言葉を言いかけた時、ヘルマンが最初に話した『この話に対する彼の望む扱い方』が、僕たちがこの突飛なゲーゼの秘密をなおも保持することなのだということに気が付いた。

 ヘルマンは柔和な笑顔の中で鋭い眼差しを放ち、無言で僕たちを見つめていた。この話を他人に話すかどうかはゲーゼがヘルマンに望んだとおり、おそらくは僕たちの判断に委ねているのであろう。しかし、そもそも僕は混乱しかけていたこともあり、第三者に伝えたいとは到底思えなかった。何より、知り合って間もない僕たちに、ゲーゼの重大な秘密をわざわざ船長室に招いて教えてくれた理由も、さっぱり見当がつかないでいた。

 僕は混乱もあり、口からもれ出す言葉さえ失っていた。理由がわからないため、出口の無い思考がぐるぐると頭の中で回る。その時、イェンスが静かな室内に気を遣ったのか、ささやくようにヘルマンに話しかけた。

 「ヘルマン船長、あえてお聞かせください。あなたはなぜ、その非常に重大な話を今日会ったばかりの僕たちに話そうと思ったのですか?」

 イェンスの口調は落ち着いていたのだが、その表情はやはり戸惑っていた。

 「そう思うのはもっともだ。私は家族にも親しい人にも、この話をするつもりは今でも無いのだから。しかし、思うところがあったのだ」

 ヘルマンはそう言うと、首元から金色のチェーンと金具とで取り付けられたペンダントを取り出した。それは円錐の先が曲がっているような形で、緑がかった濃紺の色をしていたものの、内側から微かに光っているようにも見えた。

 「……それは?」

 僕は奇妙な展開にまたも戸惑いを覚えながら、おそるおそるヘルマンに尋ねた。そのペンダントの内部がうっすらと青白く光り始め、神秘的な輝きを放つ。

 「これはドラゴンの爪先だ。ゲーゼの死の間際に彼から譲り受けたのだ」

 「……!」

 イェンスも僕も驚愕のあまり、思わず息を飲み込んだ。伝説に近いドラゴンの話を聞いただけでなく、その存在を確かに示すものが目の前にある――。しかもゲーゼから直接譲り受けたというのだ!

 ヘルマンがペンダントをゆっくりと明かりにかざす。表面が照らされて光を反射するのだが、内側からの青白い輝きが消えることは無かった。

 「ゲーゼが彼の父親であるドラゴンからもらったらしい。そのドラゴン本体の爪の一部だそうだ。彼はこれを肌身離さず身に付けていたようだ。おそらくだが、身に付けることで父親を身近に感じていたのだろう」

 ヘルマンがゆっくりと僕たちにペンダントを差し出したので、イェンスと僕とでおそるおそる手に取る。親指ほどの大きさの爪は強固で滑らかな表面をしており、鋭かったであろう爪先は丸く研がれていた。

 「ゲーゼとペンロタで別れてしばらく経ち、私がドーオニツ行きの貿易船の船長になった十数年前のことだ。ある港で人目を避けるように、ゲーゼが突然私の前に現れた。最初、私は偶然の再会だと喜んだのだが、すぐに彼が意図して私に会いにきたのだということがわかった。聞けば、彼は自分の命がもう長くないことを悟り、それで生きているうちに思い出のドーオニツもう一度訪れたいと願っていたのだという。だが世間では、いや外殻政府においても彼は所在不明のまま、とうの昔に亡くなったことになっている。私はゲーゼが言わんとしていることがわかった。そこで私は世界で一番信頼している男、君たちをさっき案内してくれた彼に『何も聞かずにこの年配の男性を乗組員として紛れ込ませ、ドーオニツへ連れていくことを協力してほしい』と頼んだ。乗組員は事前に外殻政府に登録して照合を受ける必要があるため、もちろんゲーゼとはいえ、存在を隠して乗せることは重大な法令違反だ。発覚したら免許剥奪と事情徴収とが待ち構えている。しかし、彼は『了解しました』とだけ答えるとそれ以上は何も尋ねず、その年配の男性がゲーゼであることを知らないまま、ゲーゼをドーオニツへと連れていくことに協力してくれた」

 イェンスが再びペンダントを僕に手渡す。僕は慎重に受け取ると、ヘルマンの話に少し気になるところがあったので、ヘルマンとイェンスに断りを入れてくだんの一等航海士の男性と彼との関係を尋ねた。するとヘルマンは快く説明を始めた。

 男性はアディルといい、ヘルマンの知り合いの子供であった。ヘルマンはアディルが十三歳の頃に彼の孤独な境遇をたまたま知り、仕事の合間を縫ってはお節介だと知りつつ、他愛も無い用事で誘っては気にかけていたのだという。最初はアディルの不信感から衝突もあったようなのだが、それでもヘルマンは彼を見限ることができず、彼の幸せをただ願って彼なりに接したらしい。アディルが心を開くまでの道程は生易しいものでなかったと思うのだが、ヘルマンの人柄がアディルの心をついに動かしたのであろう。いつしかヘルマンが勤務を終えて家へ帰る頃を見計らい、アディルの方から土産話をせがむようになったのだという。そしてヘルマンは『なりたい夢をかなえるように』と何度もアディルに伝えてきたのだが、彼が十六歳になる頃にはヘルマンに船のことについて質問するようになり、商船大学への進学を夢見るようになったらしかった。

 アディルの意欲が一過性のものではないと感じたヘルマンは、彼が商船大学で学ぶ資金を無条件で貸し出すことにした。アディルはそれに応えるかのように勉強して商船大学に入学すると優秀な成績で卒業し、ヘルマンが勤める船会社へと就職したのだという。彼は地道に経験を積んでいき、数年もすると頭角を現してヘルマンからの借金もあっという間に返済したらしかった。

 ヘルマンにはそれだけで充分喜ばしいことであったのだが、アディルはヘルマン以上に感慨深く捉えていたようで、『あなたのおかげで私は自分の足で歩く力を得た。私はあなたを超える船長を目指したい』と感謝の言葉をはっきりと伝えてきたのだという。そしてアディルの言葉どおり、彼は若くしてこの貿易船の新しい船長になることが決まっており、ヘルマンはそのことをことさら嬉しそうに語ったのであった。

 僕はヘルマンの丁寧な説明に、なるべく心を込めて感謝の言葉を伝えた。するとヘルマンは優しく微笑んでからあたたかい口調で答えた。

 「ゲーゼの件も、アディルに無理に頼んだつもりは無かった。彼からゲーゼを不法乗船させることで咎められたら、全ての責任を負う覚悟も決めていた。しかし、彼は嫌な顔一つ見せずに協力してくれたのだ。私は本当に優秀で信頼のおける仲間に恵まれたことに感謝している」

 僕はヘルマンがアディルを仲間と言ったことに感銘を受けた。ヘルマンは終始控えめにアディルとの関係を説明していたのだが、そのアディルの優秀さと優しさは、ヘルマンが持っていた優しさが彼に贈られたことで引き出された結果なのではないかと考えていた。

 その話の間中もペンダントは僕の手のひらで輝いており、どことなく熱を帯びているような感覚すらあった。ずっと手のひらに乗せていたからだろうかとまじまじと眺めていると、イェンスが僕に声をかけ、再びペンダントを手に取って注意深く観察し始めた。

 「そのペンダントだよ、君たちに話しかけようと思ったきっかけは」

「このペンダントがどうかしたのですか?」

 ヘルマンの言葉にイェンスと僕の声とが重なった。イェンスがヘルマンにペンダントを返すと、ヘルマンは再び身に付けてから僕たちを見た。

 「あのレストランで君たちを最初に見た時、なんとなくペンダントが熱く感じられてね。最初は気のせいだと思ったのだが、ゲーゼの話題を君たちがした時にはっきりと熱さを感じたのだ。このペンダントを身に付けること自体ほとんど無いのだが、なんとなく出かける前に思い出してね。いずれにせよ、なぜ熱くなったのか理由はわからないのだが、私はそれで君たちに話しかけようと思ったのだ。むろん、ゲーゼの秘密まで話す気は当初無かったのだが、この船長室に入ってもしばらくペンダントが熱を帯びていてね。火傷するんじゃないかと思うほどだった。ふと君たちにペンダントのことも含めてゲーゼの秘密を話そうと決めたら、不思議とペンダントが冷えて元に戻った。やはり、今日話したことは君たちが聞く運命にあったのかもしれないね」

 「不思議なペンダントで僕たちは引き合わされたのですね。ゲーゼが身に付けていた彼の父親のドラゴンの爪で……」

 僕はそのペンダントを見つめながらつぶやいた。ドラゴンの爪がヘルマンと僕たちを導き、異種族の世界までをも垣間見せたのだと思うと、ますます神秘的な出来事に感慨深くひたった。

 「それでゲーゼは、ドーオニツに着いてからどうしたのですか?」

 イェンスがヘルマンに静かに尋ねた。

 「荷降ろしのどさくさに紛れて下船したゲーゼは、この地区だけらしいが懐かしいところを歩いて回ったらしい。年老いてもかつての面影は残っていたのだが、まさかゲーゼ本人がいるとは誰も思わないし、間近で彼をしげしげと眺める人もいなかったから、彼だと知って話しかけられることはなかったようだ。私はアディルに少し出掛けてくると言い残すと、ゲーゼとともにあのレストランへと向かった。彼の身元がばれないよう気を使いながらもあの席で食事を取ると、彼がたいそう喜んでね。あの表情は忘れまい。刻まれた深いしわが彼の人生の厳しさを物語っていたのだが、目にはそれすら覆すほどの慈愛と優しさが宿っていた。ペンロタで見た美しい瞳のままだった。ゲーゼは『もう充分堪能した。長居しては、ドーオニツに居住していないことがすぐに見破られる。もしかしたら、すでに警備が不審者として気付いているかもしれないから、後は船に戻ってこのままドーオニツを離れる』と言った。船にまた戻るのもかなり緊張したよ。結果は無事うまくいったがね」

 そう言うとヘルマンはおどけてみせた。おそらくはアディルがまたも尽力して無事ゲーゼを乗船させたのであろう。ゲーゼは船長室に隠れ、そのまま無事出港を迎えたようである。そして目的港までの航海最後の晩に、ゲーゼは胸元から大事そうにペンダントをヘルマンに見せ、父親のドラゴンから譲り受けた話をしたのだという。ゲーゼは港に着くと頃合いを見計らって下船し、感謝の言葉だけを残して去って行ったらしかった。

 その後のゲーゼの行方は知らずにいたのだが、そのおよそ一年後に差出人不明でヘルマンのところに荷物が届いた。中を開けると『あの時はありがとう、受け取ってほしい』というメモにゲーゼの署名が添えてあり、ドラゴンの爪のペンダントが同封されていたのだという。それが自分に送られてきた意味をヘルマンは即座に理解したらしく、それ以来彼はゲーゼの形見でもあるペンダントを誰にも見せず、大事に守ってきたらしかった。

 僕はヘルマンの話の内容は理解できていたのだが、いくつもの疑問と困惑を拭えずにいたので思考の整理をつけようと押し黙った。

 ゲーゼはなぜヘルマンにペンダントを託したのか? 

 なぜペンダントが僕たちにだけ反応したのか?

 ペンダントが妖しく導いたヘルマンと僕たちの出会いもさることながら、ゲーゼのこと、その父親のドランゴンのことでも不明瞭なことだらけであった。浅い見識しかない僕には答えが見つかるはずもなく、思考を練れば練るほど疑問が新たに浮かび上がっていくようで、ますます頭の中が混乱から絡まっていく。だが、それも仕方のないことであった。普段の日常生活から到底想像がつかない話が、一気になだれ込んできたのだ!

 今まで全く縁がなかった世界の切りだされた断面はあまりにも霞んでおり、それでいて想像と理解とをはるかに超えていた。おとぎ話と現実との曖昧な境目の、果てしなく広がっている未知の世界に、無防備のままで放り投げられた感覚に陥っていく。

 「クラウス、大丈夫か?」

 イェンスの言葉に反応して彼を見ると、その緑色の美しい瞳にはいくばくかの緊張感が漂っていた。

 「信じられない話を短時間に一気にされたら、そりゃいろいろ考えて混乱もするだろう」

 ヘルマンはそう言うと優しく僕の肩に触れ、飲み物を勧めてきた。僕はお礼を伝えて口をつけたのだが、もはやその美味しさを味わう余裕は無く、呼吸を忘れかけた喉を控えめに潤しただけであった。

 ヘルマンの話を僕はすんなりと全て受け止めることができるのであろうか。興奮と混乱だけが頭に残り、しばらくは眠れない日が続くのではないのか。

 ゲーゼ、ドラゴン、ドラゴンの爪。――異種族と全く無縁であった僕に、突如として現れた現実味の無い言葉が頭の中でぐるぐると回り続ける。頭の良いイェンスなら、すんなりと全ての話を受け入れたのかもしれない。

 僕はそのイェンスの様子をそっと伺った。しかし、彼もやはり動揺は未だ収まっていないらしく、さきほど見えた緊張の色もその瞳に未だ残っていた。一方、その表情は何か迷いがあるようにも見えた。まとまりのない思考が頭の中であちこちに勢いよくぶつかっている中でも、なぜか彼のその様子が気になった。

 その時、ヘルマンが真剣な眼差しでイェンスを見つめ、それから言葉を選ぶかのようにおもむろに話し始めた。

 「イェンス、君は……君はエルフと血縁関係があるんじゃないのかね?」

 その言葉を聞いた瞬間、イェンスは目を大きく見開き、今まで見たことも無い表情を浮かべて固まってしまった。

 僕はヘルマンの言葉にも、イェンスの反応にも仰天していた。特にヘルマンの突拍子もない言葉は僕の理解を軽やかに超え、あっという間にさらなる混乱を招いた。

 異種族と人間が現代において交流を持つことは、不可能のはずではないか!

 僕は不安げにイェンスを見た。彼の表情はこわばっていたのだが、不意に無言でうなずき返した。僕はイェンスが肯定をしたことで、さらに茫然とするしかなかった。まさか、本当に彼の中にエルフの血が流れているというのか?

 「ヘルマン船長、あなたのおっしゃるとおりです。僕の高祖母がエルフでした」

 イェンスはゆっくりと落ち着いた口調で話し出した。僕は初めて聞いた事実にまたしても動揺したのだが、僕たちを取り巻いている重々しい雰囲気を壊さまいと必死に平静さを装った。

 「高祖母はエルフの村ミグメの出身で、リカヒと言いました。彼女は人間の男性である高祖父と訳合って恋に落ち、女の子を産みました。無論、女の子ですからエルフの特徴は受け継ぎません。見た目も人間であったと代々伝わっています。しかし、なぜか僕の時だけ、エルフの特徴が現われたようなのです」

 僕はとうとう驚きを隠すことなくイェンスを見つめた。その緑の瞳はあやしい魅力を放っていた。

 イェンスの独特の魅力や美しさの由縁が家族の中でただ一人にだけ現れたものなのであれば、時折見せるどこか物憂げな表情は、ゲーゼが感じた孤独から来るのかもしれない。もちろん、そのことは僕の憶測にしか過ぎないのだが、イェンスの口調がどこか重苦しかったため、僕は彼の複雑な胸中を察した。

 イェンスは視線を落とし、ぼんやりと床を眺めていた。

 「そうだったか。やはりな。以前エルフを偶然見かけたことがあって、君が実に似た特徴を備えていることが気になっていたのだ。君が彼にも話さないでいたのだと思うと、私の無遠慮を詫びろう。今の君の心情を察するに余りある」

 ヘルマンはそう言うとすまなそうにイェンスを見た。

 「いえ、どのみち近いうちに彼――クラウスには話そうと決めていました。今日がその時だったのでしょう。ヘルマン船長、あなたが僕の目と髪色を意味ありげに見ていましたから、僕のことで勘付いたのだと思っていました。それにゲーゼの話の流れもありましたしね」

 イェンスはおもむろに顔を上げると、はっきりとした口調で言った。それから僕を見たかと思うと、目が合うなり優しく微笑んだ。それを見ていたヘルマンが安堵の表情を浮かべ、感激した口調で言った。

「そうか、そう言ってくれてありがとう」

 そのヘルマンの言葉に、僕はイェンスの思いやりに触れたことに気が付いた。彼にとって非常に重大な秘密を、せめてやわらかい雰囲気の中で伝え直そうと僕たちに気遣ったに違いないのだ。大きく息を吸って吐く。少しずつ体が軽くなっていくのを感じると、イェンスがエルフと血縁関係があったことを僕に言えなかった理由を推測した。気楽に打ち明けられる話でないことは、ゲーゼの逸話だけで充分であろう。異種族と関りがあるというだけで、見ず知らずの人からもひっきりなしに詮索を受けることは明白であった。

 案の定、僕はかなり驚き、狼狽してしまった。いや、そもそも平凡な人間であるこの僕が、幸運が絶妙に重なったことでここにいるからこそ、ヘルマンもイェンスも気遣いを交えてその話をせざるを得なかったに違いないのだ。思えばイェンスもヘルマンもずっと落ち着きを払っており、大人げない動揺を見せたのは僕しかいなかった。そう考えると、平凡なうえに鈍感で幼稚な自分自身に、苛立ちと自責の念さえ覚える。

 気が付けば三人とも押し黙っており、重い時間が流れていた。その雰囲気を作ったのは、間違いなく僕が示した反応が原因であった。そう考えると、とことん問題だらけの自分が悔しくてたまらなくなる。――この淀んだ雰囲気のままで終わらせていいのか。せっかくの貴重な体験をぎこちなく終わらせては、きっとまた後悔するのではないのか。

 せめて少しでも責任を取りたいと考えると、結論が出るのは案外に早かった。僕に原因がある以上、やはり少しでも良い雰囲気になるように努力すべきなのだ。

 ヘルマンの話もイェンスの告白も、思い返せばあっという間に混乱を招くのだが、そのことで僕ができることといえば、ただ内容を受け止めることしかなかった。それ以外のことはさらなる混乱を招くだけで、今の僕には到底処理し切れるものではないのだ。ようやくそのことが理解できると、徐々に心が落ち着きを取り戻していく。僕はヘルマンとイェンスを見つめた。彼らは僕の視線に気が付くと、微笑んで応えた。

 初めて行ったレストランで、初めて会った人から非現実的な話を初めて聞き、初めて体験することが立て続けに起こった。イェンスの重大な秘密も知った。そのイェンスから今日の仕事帰りに誘われた際、まさかこういった展開になるとは露にも思っていなかった。このわずか数時間の間に起こった全ての出来事が、今までの僕にとって奇跡そのものではないか。

 僕は一呼吸置くと彼らをしっかりと見つめ、「その、貴重で重大な話を教えてくれてありがとうございます」とだけ言った。その言葉に二人とも静かに微笑み、ヘルマンが「どこにでもある話でないことは確かだ」と茶目っ気たっぷりに付け加えた。

 突然、船体に風が強く吹きつけて窓がガタガタと鳴った。ふと時刻を確認すると夜十一時を回っている。そろそろ帰る頃合いだと考えていると、イェンスも同じことを思っていたのか耳打ちしてきたため、ヘルマンに暇を告げて下船することにした。

 そのヘルマンの案内で船長室を静かに出てタラップのところまで来ると、あの一等航海士のアディルが僕たちを下船させるために準備して待っていた。おそらく彼は、急遽僕たちの対応にあたることになったのであろう。それでも足場の安全を確保しようと、笑顔で明かりを手に持つ彼に、僕は丁寧な感謝の言葉を伝えるべく、敬意をもって話しかけた。

「あなたの厚意と心配りに心から感謝します、お帰りも良い航海を」

 僕の言葉にアディルはヘルマンのように優しく微笑み、「ありがとうございます。どうぞお気をつけて」とあたたかみのある返事をして僕たちを見送った。

 にぎやかさが薄れ、港頭地域はすっかり夜の静寂さに包まれていた。波打つ音と潮の匂いの中で、ヘルマンに感謝の言葉を何度も送る。ヘルマンは感慨深そうにイェンスと僕を交互に抱擁していった。

「またどこかで会おう」

 ヘルマンはそう言うと呼び寄せたタクシーのところまで僕たちを見送り、静かに本船へと戻っていった。

 僕たちはお互いの連絡先を交換することはしなかったのだが、思いがけない経験を共有したからか、不思議と名残惜しさは無かった。いつかまた、ヘルマンの言葉どおりに、この広い世界のどこかで再会するのかもしれない。そしてそのことが実現しうることがあれば、まさしく奇跡と呼ぶにふさわしい出来事に違いないのだ。

 帰りの車中、イェンスとはほとんど会話がなかった。それは疲れのみならず、自己の感想の整理をしないままで彼と話すことに、ためらいを感じていたからであった。しかし、長く沈黙が続いても気まずさは感じられず、僕はイェンスとの自然な雰囲気に身を委ねるかのように夜の街を眺め続けた。

 タクシーがイェンスの住むアパートの前に到着し、僕も一緒に降りる。そこでようやくイェンスと相対した。彼はやや緊張した様子で「おやすみ、クラウス。気を付けて帰って」と言って手を差し伸べてきた。彼の行為は意外であったのだが、僕がしっかりと握り返すと彼は美しい眼差しで見つめ返し、優しく微笑んだ。

 ひょっとしたら、イェンスは僕に秘密を打ち明けたことで、不安を感じるより安堵したのではあるまいか。そんな突飛な憶測がふと脳裏に浮かぶと、この先も彼の良き友人でありたいという大胆な願いが心に浮かぶ。しかし、やはり彼に対して一方的であることが気恥ずかしく、その願望をわざわざ彼に伝える気にはなれなかった。

 イェンスと別れて一人静かに歩き始める。頭上を見上げると、輝く星たちが僕をそっとあたたかく見守っているかのような気分になった。その安心感に包まれながらアパートに到着し、窓を開けて夜空を眺める。それからソファにゆったりと座わってぼんやりと視線を外に投げ出し、今晩聞いた話や体験したことを改めてじっくりと思い返した。ゲーゼのこともイェンスのことも、考えれば考えるほど不思議であり、未解決の疑問だけが数多く残されていた。ただはっきりといえることは、それまで遠い存在であった異種族が伝説から確証された現実世界の住人として、僕の中で認識が変更になったことであった。

 一日の疲れがどっと押し寄せ、まぶたに重みをかけていく。果てしない疑問を整理しようかとも考えたのだが、どんなに思考を練ったところで結論が出るわけではないため、真実をあれこれ推理することはあきらめて眠気に全てを委ねた。

 次の日、ヘルマンが船長を務める本船は無事出航していったらしかった。イェンスとはその後も普通に会話し、何事も無く日々が過ぎていった。彼がエルフの血をひいている話はあの夜以来一度も会話にのぼらなかったし、僕もあえてその話題には触れなかった。ゲーゼの話もヘルマンの話も、特にイェンスに持ちかけることもしなかった。しかし、あの経験は僕の深いところで力強く影響を及ぼしていた。

 僕はあの貴重な経験を色褪せないようにするため、異種族に関する数少ない古い書物を読むようになっていた。もちろん、その本に異種族の秘密が詳しく書かれていることは無いのだが、ドラゴンの爪が僕たちに反応した理由や、ゲーゼの当時の心境などをあれこれ推察しているだけで楽しかったため、結論に至ることが無くとも悲観することはなかった。

 その他に思いがけない変化があった。それまで何気なしに見ていた風景が活き活きと生命力にあふれて存在しているように感じられ、そのことに感動を覚えることが増えたのである。僕は仕事の合間に見た空でさえ感慨深く捉え、一瞬の変化に心を奪われるようになっていた。

 あのレストランはあの日以来訪れていなかった。しかし、なぜかまだ時期ではないのだと考え、いずれまたイェンスと訪れる機会が来るのだと考えていた。次にレストランを訪れる時は、また導かれるように何かが起こるに違いない。僕は何となしにそう感じながら暑い夏を過ごしたのであった。

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