怒りの気
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精神的なショックは里美を追い詰めた。
自分たちの今までは全て間違いだったのだろうか。
それでも修二のとある言葉に心は落ち着きを取り戻す。
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診察後、病室に戻ると里美はトイレに直行した。
抱く事のないまま失った小さな生命は体内から消え去り、これはもう悪阻ではない事は明らかであった。
それでも襲う吐き気は、原因が何であれ幾度経験しても慣れる事はなかった。
「ゔぉっ…げほっ、っ…うぇっ…」
嘔吐により涙で歪み、滲む視界。
悪阻ならばまだ耐えられる。
それは我が子のため、自分のため。
だが、そうではなく病的な原因であるのならば必ず回復したいと里美は心に強く抱いていたが、そんな気力も今は消え失せていた。
ここ暫く今となっては悪阻と思われた嘔吐が続いていたが、それも少なからず精神的な影響だったのかもしれない。
「大丈夫か?まだ出そうか?」
「待ってっ…まだ…うっ、う゛、ゔぉぉぉぉっ……」
便器の中の吐瀉物の量的に、やはり食事もそれ程取れていないようだ。
こんな精神状態でも妊娠初期ならではの症状だけは見事に現れ、里美の身体は更にやつれていた。
成長の止まった胎児も流れ、子を失う事も初めての時より悲しみに慣れてしまったような気がした。
修二はその感覚に恐怖さえ感じた。
身体を支えながら立ち上がると、里美はベッドへ倒れ込んだ。
「疲れたか?」
「…色々と疲れちゃった。私たちって、やっぱりあの時別れて、再会しなければ良かったのかもね。」
あの時とは、修二大学卒業の春のことだろう。
今の里美が正常な心ではないとわかっていても、修二はその言葉に心の傷を負った。
「そう思うのか?」
「共依存だって。確かにそうかもね。大学の頃も学年は違うのにいつも一緒にいてさ、遊んでご飯食べていつも楽しかったのにね。カップルで職場まで一緒にしちゃうって、今は思えば引くわよ。」
あの頃の事を思えば、それがベストだったと修二は思っていた。
その時に良いと思ってきた事を決断し、今までやってきた。
ずっと里美が好きだった。
別れても再会しても、修二のその思いは変わらなかった。
「どうしたら良いんだろ。私、消えた方がいいよね?そうしたら共依存じゃなくなるもんね。本当に死ぬ勇気があればいいのに。」
里美は再び自身の存在を否定する言葉を口にした。
周囲の誰がそんな事を思っているのだ。
何故、自分の存在価値を見出せないのか。
家庭でも仕事でも交友関係でも、全く持ってそんなはずはないのに。
寧ろ必要とされ過ぎる程の存在だと修二にはそう見えていた。
これだけ周囲に必要とされ認められ、仕事でも上手くやってきた事を忘れてしまったのだろうか。
修二は悲しみなのか悔しさなのか怒りなのか、自然と涙が溢れ止められなかった。
「お前、いい加減にしろよ。どれだけ心配かけさせて悲しませて、特に子ども達は我慢してるからわかってるのか!」
修二は急激に込み上げてきた怒りの感情を本人にぶつけた。
ベッドで横になる里美の肩を痛みを感じるほど強く押し付け、動きの自由を奪う。
「痛っ、怖いって…」
「そりゃぁ当然だ。痛いだろ?どう死ぬのかは知らねぇが、手首切ったり飛び降りたりするのか?そっちの方が痛いと思うけどな。俺は安易にそんな言葉を出す様な奴に俺は優しくするつもりはねぇからな。」
修二は命を無下にする様な人間が大嫌いだった。
まだ一歳の妹と自分を残し自死を選んだ父の事も未だ許せていなかった。
あの頃の父も今の里美も、心が追い詰められている事には変わりないのだろうが、死を選ぶ事、それを口にする事は理由にならない。
修二はそう思っている。
「…いいか。桃瀬はどれだけ周りに認められて必要とされてきたのか分かってないだろ。
友達にも可愛がられて守ってもらって。仕事でもあの立場まで来て、それを羨ましく思う人はザラにいるんだぞ。」
修二は里美の目を真っ直ぐに伝えたが、その目の奥にあの頃の気力は宿っていなかった。
「もうね、こんなんじゃ仕事は戻れないわよ。諦めてる。それに子どもたちもいるんだし、私はもう家庭に入る運命なのよ。」
「お前は出来るぞ、大丈夫だ。自分を思い出せ。働いてた頃、どんな仕事をしていた?何を研究して何を開発してきた?知らないだろうが今年一気にヨーロッパ支部で広まったやつ、組織のあのプログラムだって桃瀬が日本で先頭に立ってやってきた事だろ。
お前がいなくなったらどうなるか考えろよ。
俺もそうだが、子ども達は残るんだぞ。自分と同じ経験を亮二たちにさせるのか?俺は…」
里美を失い子ども達を残す事、その風景を思い浮かべるだけで、修二は耐えられなかった。
親を失うということ。
それは修二も里美も、子どもの頃に身をもって経験してきたはずなのに。
修二は声を押し殺し泣いた。
生きる気力を失い自身に対する『死』の言葉を目の前で発したこと。
これまでしてきた事は何だったのか、支えてきたはずなのに裏切られたその思いに明け始めていた光は再び閉じられた。
里美の目の前で泣く事など、今まで一度も無かった。
歯を食い縛り、これ以上どうしたら良いのかもう修二も分からず限界が近づいていた。
これが以前忠告を受けた「共倒れ」なのだろう。
…
「修二…」
今まで沢山自分を支え、守ってくれた修二が泣いている。
あんなに強く優しく、ぶれない修二の今まで見た事のない姿。
初めて見るその姿は、夫でも子ども達の父親でもない、一人の男性の姿だった。
普段チャラチャラした様な身だしなみに、気付けばいつも長めの髪。
別に誰に迷惑を掛けているわけでもないし、不潔でも無いし口出しするつもりは特にない。
修二の制服姿が好き。
その制服姿で帰宅し、一気に優しいパパの顔になるのが好き。
優しい所は一番好きだけど、本当は自分にだけ優しくして欲しい。
職場でカッコいいって言われてるのが自慢。
修二の奧さんが私だって知られるのが嬉しい。
子どもだってあんなに可愛くて三人もいるんだ。
修二のことを好きになっても、もう遅いんだよ。
奥さんは私、修二は私の事が大好きだし私も大好きなんだから。
そんな修二が自分のために泣き喚いている。
何かが里美の中で起きていた。
そして里美の両頬にも大粒の涙が滝の様に流れていた。
里美の心の中で点と点、光と光が繋がってゆく。
『これで良いんだ。』
これまで自分が歩んできた人生、間違いでは無かったのだと何かが心に訴えかけ、それをこの瞬間里美は受け入れ腑に落ちた。
そして何かが身体から抜けてゆく。
「修二くん…私の事、これからも好きでいてくれる?」
「当たり前だろ。」
唇を強く噛み締め、顔を歪めながら声を上げ泣いた。
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