やっぱりデリちゃんって、恋の神様なんだね
結局、その日は買い物なんてできやしなかった。警察からの事情聴取と、テレビの取材でそれどころではなかったからだ。もはや顔馴染みと化した刑事から「また君か」と苦笑いされたが、こちらとて同じ意見である。
事件については、鯖のモニュメントに助けられたとしか言えなかった。『事実は小説よりも奇なり』とはよく言ったものだ。諸々の作業が終わり、みほろと共に警察署から開放された頃には、夕闇が京の空を彩る時間帯だった。身体を芯から冷やすような風がびゅっと吹き、俺は身を抱くように丸くなる。
「ちあきち、寒そう」
みほろがぴたりと寄り添ってくる。薄着の俺と違い、トレンチコートを着込んだみほろは平気そうな顔をしている。気恥ずかしさはあるが、ここはご厚意にあやかろう。俺が指を絡めると、みほろは小さな声で「よきよき」と満足そうに微笑んだ。しばしの間、無言の時間が流れる。俺は慣れない空気に胸が爆砕しそうだが、みほろはどこかこの空気を堪能している気がする。彼我の余裕に差があるのは明白だ。俺は心臓の鼓動を誤魔化すようにスマートフォンを開き、晩飯にぴったりな店を探す。が、目を疑うほど大量の通知が届いているのに気がつく。
メッセージを確認してみると、どれもこれもが通り魔事件に関する内容である。俺の人脈でもこの騒ぎだ。俺がスマートフォンを確認するように進言すると、素直に応じたみほろは短く悲鳴を上げた。
「すご。バグみたい」
SNSのリプライ欄を、ちらりと見せてくれる。もはや目で追いきれないほど、激流と化したコメントの量。どれもこれも、みほろを気遣う意見だったり、祝福の言葉だったりと、愛されているのが垣間見える内容だった。
「フォロワーもさ、めちゃくちゃ増えてる」
「いま何人くらいなの」
「二十五万人」
「……え?」
「言ったじゃん。私、インフルエンサーだって」
どこか他人事のように告げられる。
俺はてっきり、適当に喋っているだけかと思っていた。
「あれ。誰だろ、これ」
みほろが不思議そうに呟いたので、俺はもう一度画面を覗き込む。そこには、桃色の髪をした女の子の写真があった。みほろのアカウントで投稿された写真のようだが、覚えがないらしい。
「デリ子って書いてある」
「あの大明神と同じ名前だな。それに、加太で撮った写真だよな」
俺の問い掛けに、みほろが頷く。人形の足の裏にも、そのような名前が彫られていた。奇怪な名前なので、妙に頭にこびりついていたのだ。
「この女の子が、そうなのか?」
「わかんない、けど……」
撮影した覚えもなければ、投稿した覚えもない写真。それなのに、心の奥底がぽかぽかと温かくなるような、優しさや愛おしさを感じてしまう。
「――知ってる気がする」
同意を求める色を含んだ言葉。俺は首肯し、なぜ見覚えがあるのだろうと逡巡する。この女の子と出会った経験がある。この女の子と、笑いあった思い出がある。堰き止めていた水が開放されたように、脳内に次々と記憶が奔流する。これはなんだ。未経験の感覚に頭を抱えていると、スマートフォンの着信音が鳴る。母さんからだ。
『――やったよ、千晃。陽向が目を覚ましたの!』
開口一番に告げられた言葉は予想外だったが、俺が何よりも待ち望んでいたものだった。
病室に駆け込むと、上体を起こした陽向の姿が目に飛び込んできた。医師や母さんと談笑していた陽向の瞳が、俺を捉える。すっかり伸び切ってしまった栗色の髪が、ふわりと広がった。
「寝坊しちゃった」
「寝すぎだよ、馬鹿」
ああ、間違いなく生きている。安堵のあまり、その場に崩れるようにして泣いてしまう。
「良かった。本当に、良かった」
胸の中を覆っていた靄の切れ間から、徐々に日が差し込む。荒廃とした大事に緑が芽生え、川が流れるように、眼前に広がる世界が彩られた。そのさなか、薄日に照らされたもう一人の存在にはたと気がついてしまう。
「デリ子……」
自然と漏れ出した声に、陽向が反応した。
「そうだよ千晃にい。デリちゃんはどうしたの? いや、みほろさんとの件とか、色々と聞きたいことはあるけど――まずはデリちゃんにも会いたいな」
陽向の言葉に導かれるように、デリ子なる神様の存在が脳内で輪郭を形作る。節分祭から今に至るまで、様々な思い出が走馬灯のように駆け回り、桃色の髪をした女の子が微笑みかけてきた。久美浜家に我が物顔で居座り、冷凍庫を勝手に開く厚かましい神様。シティポップが大好きで、海水浴より港町を眺めるほうが好きだと言う、渋い趣味の神様。神去病を患い、命を落としたであろう神様。
そうだ。俺は、失敗したんだ。
「陽向、デリ子は、デリ子はもう……」
言葉に詰まる。今の陽向に言えるわけがなかった。だが、陽向は俺の様子を気に留める様子もなく、満面の笑みを見せてくる。
「やっぱりデリちゃんって、恋の神様なんだね」
「いきなり、何を言って……」
その刹那、陽向がまだデリ子を覚えている事実に違和感を抱く。そもそも、デリ子が神去病で命を落としたのなら、俺の記憶が蘇るのはおかしい。信仰心を得られない神は、忘れ去られる存在だ。
「なんかさ、めちゃくちゃ有名になってるじゃん」
陽向の言葉に、殴られたような衝撃を覚える。やはり、デリ子がまだ存在している。なぜ、忘れられていないんだ。なぜ、俺は思い出したんだ。
「ほら、これ見て」
陽向が上体をふらりと揺らして、枕元のスマートフォンを手に取る。指が上手く動かないのか、操作がぎこちない。数十秒の間を開けてから、陽向はスマートフォンの画面をこちらに向けてきた。昼間の件をまとめたネットの記事が表示されている。だが、他のものとは着眼点が異なる。
「二人を結び付けた大明神の謎に迫る」
みほろが、自動音声のような口調でタイトルを読み上げた。記載されていたのは、
デリ子大明神なる謎の女神が、俺とみほろを結び付けたと結論付ける内容だった。かなり拡散されているようで、コメント欄は賑わいを見せている。中でも目立つのは、デリ子大明神に対する好意的な意見だった。
『神様の奇跡としか言いようがない』
『この二人は、強固な縁で結ばれていたんだろうね』
『御利益ありそうだから、グッズ作ればいいのに。私買うよ』
これは紛れもなく信仰心だ。それも、一人や二人ではない。SNSやメディアを通じて、今もデリ子の名前は拡散されているのだ。
だが、どれだけ信仰心を集めようとも、神として存在しないのなら意味はない。デリ子は命を落としているので、信仰心を集める器自体が現世に存在しないはずなのだ。それなのに、それなのに。
「みほろ。記憶、戻ってたりする?」
「うん……完璧に」
俺たちは、デリ子を思い出している。
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