デリ子大明神……?

 時は進み十月の半ば。


 京の山々は少しずつ紅葉で彩られ、肌を撫でる風もずいぶんと冷たくなった。あれほど煩わしかった夏の太陽も、過ぎ去ると名残惜しくなるのは不思議なものだ。俺は本日も、陽向の病室に訪れている。カーテンの隙間から差す薄い光に照らされながら、陽向は深い眠りに落ちている。先月に一度目を覚ましたきり、意識は戻らない。医師の話によると、段々と脈拍が弱くなっているらしい。奇跡を信じ、神に祈れども、陽向の容態は悪化の一途を辿っているのが現状だ。


「そろそろ時間だ……行ってくるぞ、陽向」


 俺は陽向に笑いかける。「行ってらっしゃい」と微笑みを返してくれるのを願い、少し立ち止まってみるが返事はない。俺はもう一度「行ってきます」と声をかけ、病室を後にする。スマートフォンでみほろにメッセージを飛ばしながら、エレベーターに乗る。無機質な箱がゆっくりと下降するのも、今の心境とぴったりと重なっている気がした。


『じゃ、今から出町柳に向かうね』


 みほろから返信が届く。今日はみほろと服を買いに行く予定だったが、母さんから出町ふたばの豆餅調達任務を言い渡されたので、寄り道をする必要性が生じてしまったのだ。


「ちゃんと、笑わないとな」 


 自分に言い聞かせるように呟く。暗い表情をしていても何も解決しないし、雰囲気が悪くなるだけである。俺は表情筋をぐりぐりと揉みほぐした。


 待ち合わせ場所に現れたみほろは、バーバリーのトレンチコートを羽織っていた。いつものブラックコーデでないのに内心驚きつつも、挨拶を交わす。とりとめのない話を交わしながら歩いていると、みほろが俺のTシャツの袖を引っ張ってきた。


「ちあきち、通り過ぎてるよ」


 はたと意識を周囲に戻す。いつの間にか、出町ふたばを通過しているではないか。俺は苦笑いで雰囲気を濁しつつ、出町ふたばの店先に形成された列に加わった。愛想の良い店員が元気よく客を捌いている。あっという間に、先頭に押し出された。


「ねぇ、テレビ」


 真紅のマニキュアが施された指が、ぴっと出町枡形商店街の入口を差す。そこには、テレビのクルーとおぼしき集団が居た。中心となっているのは、どこかで見た気がする若いアナウンサーの女性。


「蟹座アナだ」


 みほろがぽつりと、正体を言い当てた。俺はあぁと頷きながら、店員から豆餅の袋を受け取る。たしか、春頃に放送された朝の占いで、怒涛の蟹座ラッシュを披露していたアナウンサーだ。そのままあだ名になっているとは。


「ちょっと見てみない?」


 みほろが鼻をふんふんと鳴らし、俺に提案してくる。


「あのアナウンサーが好きなのか?」

「いや、全然。でもレアだから」

「まあ、たしかに。SSRだ」

「でしょ。低いよ、排出率」


 祇園や河原町周辺ならば、テレビの取材はさして珍しいものではない。だが、全国ネットの放送局が、出町柳近辺に出没するのは中々珍しい。急いで済ます用事も無いので、俺たちは野次馬と化す。カメラに映り込まないように、背後から少しずつ距離を詰める。目的地は商店街の中にある小さな映画館らしいが、一度通り過ぎて撮影を続けている。商店街の中を探索するカットも欲しいのだろう。


「すごいね。めちゃくちゃ可愛い」

「ああ、確かに綺麗な人だよな」

「……たまには私にも言ってほしい」


 みほろが不満気に睨んでくる。突然の嫉妬に返答を言い淀んでしまう。てっきり、

今日は絶交でも言い渡されると思い込んでいたので、あまりにも予想外の反応だったからだ。俺は話題を逸らすように、「それより、みほろってテレビの撮影に興味を示すタイプなんだな」と声を発した。


「うん、自分でもびっくり」

「……え?」

「あんまり興味ないから。テレビとか」


 俺はその場でずっこけそうになるのを堪えて、「じゃあなんで」と疑問を呈した。

「なんでだろう。でも、見なきゃいけない気がした」

 謎の義務感である。俺は折れるように「そうか」と納得し、注目をアナウンサーに戻す。華やかな衣装を風に揺らし、カメラの前で天真爛漫に振る舞う姿は、庶民的な空気が漂う商店街とは少しだけミスマッチな気がした。


「あぁ、見て下さい。魚が吊り下がってますね」


 蟹座アナが、カメラの注目を上に向ける。出町枡形商店街のマスコットとも言える鯖のモニュメントは、初見だと間違いなく目が奪われる大きさだ。レポート慣れしたアナウンサーが見過ごすはずがない。俺とみほろが蟹座アナの挙動を食い入るように眺めていると、視界の端で黒い影が揺れた。商店街の中の小さな交差路の奥。見覚えのある男が立っている。心臓を鷲掴みされたような、嫌な感覚が胸に浸透した。


「アイツ……俺たちを轢いた……」


 そこに居たのは、俺と陽向を轢いた上に逃走した男。罪を重ね、俺たちの運命をどん底まで叩き落としたくせに、のうのうと生きている男。見間違えるわけがなかった。俺の憎悪に気がついたのか、みほろが俺の手を握り締め、首を横に振る。


「なにも、しないよね?」


 それは質問ではなく、懇願に近い声色。だが、あの男は俺が取り押さえねばならない。


 強い風が、商店街の中を駆け抜ける。前髪が乱れTシャツが膨らんだ。策はない。腕っぷしが強いわけでもない。それでも、体当たりを浴びせれば抑え込むのは可能だろう。俺は右足に力を込め、男と距離を詰めるべく集中する。だが、男の手には予想外の物が握られていた。


「危ない!」


 いちはやく気付いたのか、クルーの中に居た男性が鋭く叫ぶ。周囲の注目が男に集中する。握り締められたのは、鈍色に輝く刃物。


「目撃者は消さなきゃ、目撃者は消さなきゃ」


 呪詛のように、ぷつぷつとした声。刹那、男は俺を探していたのだと理解した。あの凄惨な事故は、地方のニュースやネットの記事でも取り上げられた。男はその記事で俺の無事を知り、目撃者を消すために、刃物を所持して徘徊していたのかもしれない。まともな思考ではない。


「早く逃げてください!」


 蟹座アナが叫ぶ。カメラが俺たちを捉える。クルーの前を通過した男が加速する。刃物が光る。強い風が大砲のように身体を押す。俺はみほろを庇うように、男の前に躍り出る。ばちんという、何かが弾けるような音が鳴り響く。


 それはまるで、ワイヤーが切れるような。


 突如、眼前に巨大な物体が落下する。轟音を唸らせながら飛来したそれは、男をいとも簡単に押しつぶした。


「ぐっ」


 肺から押し出されたような短い悲鳴。からんと、刃物が地面でバウンドする。男の後頭部に直撃したサバのモニュメントは、意識を容易く奪い去ったようだ。怒涛の展開だった。俺も、クルーでさえも、ぽかんと口を開くばかりであった。ただ一人、みほろだけが重力を確かめるように歩を進めた。足元に転がるのは、奇妙な張り子細工の人形。桃色の髪をした、不細工で愛嬌の欠片もない女の子。


「デリ子大明神……?」


 みほろが首を傾げた瞬間、蟹座アナの目に光が宿った。周囲のクルーも絶好のネタに気が付いたようで、スイッチが切り替わったように背筋をぴんと伸ばす。


「えー、さきほどの一部始終ですが。私にも何が起きたのかわかりません。たしかなことは、通り魔の犯行を、落ちてきた魚のモニュメントが防いだという事実です! にわかに信じられませんが、これは仕込みやドッキリ等ではありません。私たちは、とんでもない奇跡の現場に居合わせてしまったようです! そこのカップルの方々に話を聞いてみましょう。お怪我はありませんか?」


 マイクが眼前に添えられる。まさかの展開に、俺は言葉が詰まってしまう。


「大丈夫、です」


 俺がわたわたしている間に、みほろがVサインを繰り出した。さすがはマイペースガールである。


「良かったです。では、彼氏さんにお聞きしたいのですが、私の目には彼女の前に立ち塞がったように見えました。咄嗟の判断だと存じますが、やはり守りたい意思があったのでしょうか?」


 俺の口元に、マイクが突き出された。


「ぜ、全然覚えてないです……」


 なんとか絞り出した声は、情けなく震えている。まさか自分が、ここまで土壇場に弱いとは。顔から火が吹き出そうになる。これは全国ネットで放送されるのだろうか。


「あ、付き合ってないです。私たち」


 しかし、みほろの一声で、場が水を打ったようになる。クルー達は明らかに落胆している。テレビとしては、『彼女を凶刃から庇う彼氏に、奇跡が舞い降りた』展開が欲しかったのだろう。だが、俺たちは付き合っていない。その上、みほろには数万人のファンがいる。仮に俺が彼氏でも、大っぴらに存在を明かせない可能性だってあるのだ。きっぱりと断言されるのは悲しいが、仕方がない。


「あ、でも今言えばいっか。見てて」

「え?」


 みほろが、ぱんと手のひらを叩く。全員が困惑の表情を浮かべる。みほろの一挙手一投足から目が離せない状態になる。


「ちあきち、付き合ってほしい」


 みほろの声が、鈴のように鳴る。俺を真正面から見据える瞳が燦然と輝く。白い肌の下に通う血潮が、ほんのりと紅みを強くした。相変わらずのおバグり召された距離感で。いや、いつもよりさらに近い。そう考えた瞬間、頬に柔らかなものが触れる。


「……大好き」


 吐息がかかるほどの距離で、瞳を少し潤ませたみほろが言う。今の俺に思考能力など残されておらず、本能の赴くままに、返事を告げるしかなかった。


「よ、よろしくおねがいします」


 クルーの歓声が、蟹座アナの祝福が、熱狂と化して商店街を包んだ。胸に飛び込んでくるみほろの体温を確かめながら、俺は僅かに機能した脳で「男のことを忘れていないか」と警鐘を鳴らしたが、遠くから近づくサイレンの音が耳に届いたのを合図にして、思考を放棄した。こんなメロドラマめいたシチュエーションと、まともに向かい合う方が馬鹿らしいと結論付けたからだ。


 まるで、なにかに仕組まれたようではないか。

 たとえば――神様とか。 

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