節分祭が終わってもさ、ここで暮らせよ

 翌日、我が家を訪れたハートとよっちんから、形代への御利益注入について来てほしいと懇願された。何故かと問えば、よっちんから「良くない未来を視たからねえ」と告げられる。


「未来視ができるなんて初耳だぞ」

「あれ、千晃氏にも恩恵があったでしょう? 映像がざっと切り替わる感覚なかった?」


 その言葉は、白い花のイメージへと結びつく。


「陽向が、白い花束になった……」

「ああ、それそれ。私は愛宕神社あたごじんじゃの神様だからね。ま、本体は麻賀多神社まがたじんじゃなんだけど。私には、未来を伝達する能力があるんだ。日月神示ひつきしんじってやつ」


 知らない名称がぽんぽんと飛び出してくる。よくわからないが、よっちんにも神様らしい能力が備わっているのだろう。


「千晃氏の場合は、予知できても回避できなかった。デリ氏の御利益が強烈だったからね。で、今回私が視た未来なんだけど……私もハートも、道中でデリ氏を忘れてしまう未来だったんだ。そうなれば、目的も忘れちゃう。だから千晃氏には、思い出させてほしいんだよねぇ」


 少なからず、衝撃を受けてしまう。俺は頷きながらも、間近に迫るタイムリミットに恐怖を抱いてしまう。


「それじゃ、安井金比羅宮に向かおうか」


 が、ハートの調子はいつも通りで、足を大きく上げやがる。そもそも、こいつの神としての役職や能力をよく知らない。俺の訝しげな視線を察したのか、よっちんが「ハートはハートなりに頑張ってるから」とフォローをねじ込んでくる。この言葉は、ポンコツの烙印をぐりぐりと押し付けたようなものである。まあ、それはどうでもよい。


 俺達は家を後にして、バス停に向かった。デリ子は体調が悪いらしく、朝から寝込んでいる。昨日の疲れが出ただけなら良いが、神去病が悪化している可能性も否めない。焦燥感が胸を荒らす。十月になれば、やおよろズの面々は出雲大社に出向いてしまうので、俺とみほろの人間コンビで解決しなければならない。苛立ちを夏空に溶かしながら、やってきた市バスに乗り込んだ。


 数分ほど乗車していると、目的のバス停がアナウンスで告げられる。俺は降車ボタンを押下し、そそくさと席を立った。


「さてマスター。形代を購入しようじゃないか」

「……何か書いたりしたほうが良いか?」

「そうだね。スペシャルな願い事を頼むよ」


 本殿に向かい形代を購入する。以前訪れた際は、得体の知れない不幸から逃れるためだったが、今回の願い事はハッキリしている。陽向の意識が戻るように、デリ子の命を救えるように、迷いの無い文字で『また心から笑い合えますように』と記入した。


「うん、良いんじゃないかなぁ」


 横から形代を覗き込むように、よっちんが頷いた。


「恥ずかしいから見るな」

「どうせ後で私達の手に渡るんだよぉ?」


 それはそうなのだが、今しがた記入した願い事を覗かれるのと、俺が居ない場所で作業のために凝視されるのとはわけが違う。俺は手の動きで神々を追いやった。白い花と化した陽向の笑顔が、舞い散ってしまうイメージ。いつかの通学路で感じた、もう五人では笑い会えない予感。それらの未来を覆すために、とびきりの念を込めて自分の名を添える。


「さぁマスター、その形代を渡してくれ。僕達が、最大級の御利益を注入して……」

「どうしたんだ」

「いや、その、なんというか」

「ねぇ、ハート。君、まさか、忘れたのかい?」


 俺の嫌な予想を代弁するように、よっちんが質問する。ハートはばつの悪そうな笑顔を貼り付けたまま、ぴたりと固まってしまった。


「誰のために、こんなことをしているのだろうか」

「な、何言ってんのさぁ。これは、これは……」


 よっちんは手を口で覆い、言葉を失う。


「おい、二人とも……デリ子を忘れたのか?」


 俺が絞り出した声は震えていた。神々は弾かれるように、伏せていた顔を上げる。困惑と悲壮感が入り混じったような表情。


「ああ、そうだ。マイリトルエンジェルのためだったね。うん、そうさ。何を言ってるんだ僕は」


 呪文のように、ぶつくさと自身に言い聞かせるハートの姿は、怯えた子供のようでもあった。


「これはマズイねぇ、千晃氏はまだ大丈夫?」

「ああ。ちゃんと、思い出せる」


 俺は乱れた心を宥めるように、デリ子との思い出を脳内で再生する。

 大丈夫、何も忘れていない。顔も、声も、教えてもらったシティポップも、全て覚えている。


「……御利益を注入するのは、時間がかかるのか?」

「最短で二日ってところかな」

「わかった。忘れないように連絡してくれ」

「うん。任せてくれたまえ、マスター」


 自信たっぷりの口調を作ってはいるが、いつものウィンクが飛び出さないあたり、内心で焦っているのだろう。普段から飄々とした態度を見せるよっちんでさえ、ただ押し黙るばかりだ。デリ子が命を落とすのは、十月だと予測していた。本日は八月三十日なので、俺達の記憶からデリ子の存在が抜け落ちていくのも、おおよそ予測していたタイミングではある。それなのに、誰もが衝撃を隠せなかった。


「マスター、信仰心を集める方法は考えたかい?」

「……まだだ。というより、糸口すら掴めてない」


 俺の語気は、自然と弱くなる。SNSで信仰心を集める方法が頓挫してから、妙案が何も浮かばない。


「デリ子氏が、こっちの世界に来てからの行動にヒントがあると思うよ。彼女は彼女なりに、神として生活していたはずだからさぁ」


 これまでの行動を振り返るが、デリ子が俺と居るときに行った神らしい振る舞いなど、自殺騒動しか思い当たらない。男子生徒が助かったのは、ただの奇跡として片付けられているだろう。信仰心には繋がらないはずだ。


「でもまぁ……信仰心は、一朝一夕で積み上げられるものじゃないからねぇ。仮に作戦が上手くいかなくても、僕達は千晃氏を恨んだりしないよ」


 よっちんの囁きに、ハートが首肯する。神々でさえ、無理難題を承知している作戦を、ただの人間が遂行できるのだろうか。


 境内の鴉が、けぇと鳴いた。


「おかえりなさい、千晃さん」


 帰宅すると、元気よくデリ子が出迎えてくれた。朝の不調は疲れから来るものだったらしい。少しだけ安堵するが、タイムリミットが近いのは変わらない。俺は再度気を引き締めて、デリ子に今日の経緯を告げた。


「なら、私は形代を持ち歩けば良いんですね」

「ああ。なんなら額に縫い付けてほしいくらいだ」

「神にも痛覚ってあるんですよ」


 デリ子の不満気な顔を押し退けて、玄関に上がる。飯はもう済ませたのかと聞けば、用意されていませんでしたと返される。今のデリ子は、久美浜家の生活から完全に切り離された存在なのだと実感してしまう。


「そっか……何か食べに行くか」

「え、でも千晃さんの分はあるはずですよ」

「いいんだよ、変な遠慮してんじゃねえ」


 俺はデリ子を連れ立って、再び外に出る。珍しく、吹き抜ける風が涼しい。夏の終わりを予感させるような、穏やかな夕暮れに包まれていた。


「ラーメンでも食うか」

「あの庶民の食べ物ですか」

「大丈夫、お前も庶民だ」


 桃色の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、脳内のラーメンマップを立ち上げる。一乗寺近辺まで歩いてみようか。


「今日は涼しいですね」

「だな、一気に秋っぽくなってきた」

「人間界の秋って、何があるんですか」

「そうだなぁ。紅葉が色づいたりする」

「その頃には、陽向さんも元気になってますよね」

「当たり前だ。五人で観に行こうな」

「……はい」

「なぁ、デリ子。本当に、久美浜家の一員にならないか?」

「それは――どういう」

「節分祭が終わってもさ、ここで暮らせよ」


 もう神ではないデリ子は、たとえ命を拾っても元には戻れないだろう。それならば、人間として生きてほしかった。


「まぁ、それも悪くないかもしれませんね」

「だろ? じゃあ」

「――でも、それはできないんですよ。私は人間に近い存在ですが、人間ではありません。寿命も違いますし、細胞だって異なります」


 俺を見上げるデリ子の瞳は、橙色を吸収して、大きく潤んでいた。

 その瞬間、俺が描いた展望が、少なからずデリ子を傷付けている事実を痛感してしまう。


「だから、せめて……神として終わらせてください」


 笑顔にも、泣き顔にも見える表情が、俺の胸を突き刺す。優しい言葉は、必ずしも傷薬にはなり得ないのだと知った。



 デリ子との会話を、スマートフォンのメモに残すのが眠る前の日課となった。しかし、今日の会話を綴ろうとしても、指が止まってしまう。心がちくりと傷むのだ。ひとまず後回しにして、過去の会話を確認する。昨日の会話は覚えている。加太へ向かい、みほろやヘルちゃんと共に海を満喫した。港町を散歩して、食堂で丼を食べて、喫茶店でのんびりとケーキを頬張り、夕日が沈む海を眺めた。大丈夫、ちゃんと覚えている。日付を遡り、記憶と結び付けていく。一昨日は何をしていたんだっけか。


 一昨日は、一昨日は。


 目に飛び込んでくる情報に、まるで心当たりが無い。どうやらデリ子と一緒にコンビニへ向かいアイスを購入したらしいが、全くもって覚えていない。


「おい、おい……嘘だろ」


 日付を遡る。羅列された文字は意味を成さず、他人の日記を盗み見しているようだった。身に覚えの無い行動、聞き覚えの無い会話。そして、ぽっかりと空いた穴。

 大丈夫、まだ、デリ子の存在は覚えている。


 荒くなった呼吸を鎮めるように、メモ帳に重要事項を記入する。御利益が注入された形代が完成したら、デリ子に渡さなければいけない。デリ子の存在を忘れてしまっても、認識できなくなっていても、これだけは失敗してはならないのだ。


「頼む、間に合ってくれ」


 フリック入力する指を加速させる。こうしている間にも、デリ子を忘れてしまうかもしれない。大丈夫だ、まだ覚えている。ふざけた名前で、奇天烈な髪の色で、シティポップが大好きな、俺の妹――。


「妹は、陽向しか居ないだろ……?」


 指を止める。俺にとっての妹は陽向だけだ。

 デリ子は神であり、人間と神の間には大きな壁がある。第一、デリ子は人間を見下しているではないか。


 思考が止まる。俺は一体、何を書いているんだ。


「……寝るか」


 スマートフォンをベッドの上に放り投げ、続くように身を投げ出す。ぼふんと身体が沈んだ直後、心地よい眠気が俺を闇へと誘った。


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