夏といえば、山下達郎様に決まってるじゃないですか

 陽向の病室へと続く廊下はなぜか薄暗く、陰鬱な雰囲気が立ち込めていた。


「みなさん、こっちですよー」


 少し前を歩いていたデリ子が、大きく手を振る。声量を抑えているあたり、病院内のマナーも心得ているのだろう。俺達はデリ子の後を追うようにして、陽向の病室に入る。ベッドに横たわる陽向は、呼吸器を取り付けて静かに眠っている。身体には痛々しい包帯が巻かれているが、外傷はほぼ完治しているらしい。


「陽向、みほろとヘルちゃんが来てくれたぞ」


 俺は優しく声を掛ける。もちろん陽向は応答しないが、喜んでいるに違いなかった。


「ママさんは、入れ違いになったみたいですね。あ、ほら千晃さん。みほろさんに椅子を出したらどうですか」


 病室の隅にある丸椅子を持ち上げながら、病室内をせわしなく動き回るデリ子。もはや小さなオカンだ。俺は椅子を受け取り、みほろの前に置いてやる。母さんが居ないのなら、デリ子の件を伝えるにはちょうど良い。


「デリ子、みほろ。折り入って話がある」

「どうしたんです、改まって」


 デリ子が訝しげな視線を浴びせてくる。俺は深呼吸を二度繰り返し、ゆっくりと言葉を選ぶ。


 デリ子の病。ハートとよっちんが提案した作戦。みほろはすでに、デリ子を忘れていること。デリ子には、耐え忍んでもらう必要があること。事実を伝えるたびに、病室内にため息が充満していく。それは相槌のようでもあったし、悲鳴のようでもあった。みほろも、ヘルちゃんも、涙を堪えながら無言を貫いている。ミーさんと福の神を失い、俺と陽向が大事故に遭った。それだけで、未来を絶望するには十分な要素が揃っている。


「じゃあ、すべて、私のせいだったんですか」

 

 デリ子の声が、胸を刺すように響いた。


「いや、全てとは限らない。福の神の祟りが残留している可能性もあるし、そもそもこの事故が御利益とは無関係だった可能性も……」


 気休めの言葉は、虚しく消えていく。あの運転手が繋がっている以上、デリ子の御利益が影響していると認めざるをえない。


「皆様は……私を許してくれるでしょうか」


 デリ子が大粒の涙を零す。俺は慌てて声を掛けたが、デリ子は肩を震わせるばかりだ。神去病を患っている事実より、俺達を危険に晒したことにショックを受けている様子だ。ああ、こいつは何もわかっていない。俺は立ち上がり、デリ子の両肩を掴む。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった丸い顔を、真正面から見つめながら、勢いよく叫んだ。


「俺も陽向も、気にしないに決まってるだろ!」

「ひ、陽向さんはわからないじゃないですか……」

「わかる。こんなもん、笑って許してくれる」

「適当なことを」

「――適当じゃねえよ、俺はお兄ちゃんだぞ」


 陽向は、デリ子を実の妹のように可愛がっていた。期間は短かったが、二人は本当の姉妹に見えたし、確かな絆が芽生えていた。俺は陽向のよき理解者として、お兄ちゃんとして、断言する。


「うちの陽向が、妹であるデリ子を恨むはずがない。そして俺も、妹であるデリ子を恨むはずがない」

「千晃さん……」

「シスコンをナメんじゃねぇ」


 俺はそう宣言し、デリ子の頭を乱暴に撫で回す。陽向に目線を送ると、呼吸器の奥の口元が少しだけ緩んだような気がした。



 京都の夏は終盤に差し掛かり、タイムリミットが静かに迫る。病室での一幕以降、デリ子は自分を責めなくなった。信仰心については、様々な提案を持ちかけた。新興宗教のように教祖として崇めてもらう方法、SNSでアイドルのように崇めてもらう方法。

 だが、どの方法もやおよろズの反応は芳しくなかった。やはり、神として崇められないと意味が無いらしい。まさに八方塞がりともいえる現状のまま、無情にも時は進む。このまま、陽向もデリ子も救えないのだろうか。そんな焦燥感が胸に広がる八月二十九日、異変は突然起きた。


 朝食を摂るべくリビングに降りた俺は、パンをかじるデリ子の姿を見て身構えた。やけにファンキーな髪をした子供が、我が物顔で居座っていると驚いてしまったからだ。すぐにデリ子を思い出したのだが、さきほどの数秒間においては、完全に記憶から抜け落ちていた。


「……母さんは?」


 俺は間を誤魔化すように、適当な質問をする。


「さっき出ましたよ。陽向さんのお見舞いです」

「デリ子にパンを出したのは、母さんか」

「ええ。今日も私を忘れていたみたいですが」


 デリ子は平然とした様子で、牛乳に口をつける。母さんは、神を自称する中年男性を疑いもせずに家に上げるほどのお気楽婦人だ。小さな女の子が家にいても、さほど気にせずに受け入れるだろう。


「千晃さん、もうすぐ夏休みも終わりですよね?」

「あぁ。あと三日しか残ってないからな」

「私、お出掛けしたいです」

「……どこか希望はあるか?」


 俺は優しい口調を作り、微笑みかける。


「えっと、その、みほろさん達も誘いたいのですが」


 俺は呻いてしまう。みほろとは、もう一週間くらい連絡を取り合っていない。些細なすれ違いで言い争いになってしまうからだ。御利益が悪い影響を与えているのはお互いに理解の上なので、大事には発展しないのだが、何がきっかけで火が大きくなるかはわからない。


 だが、今日のタイミングを逃せば四人で笑い合えるのは最後になってしまう。そんな確信めいた予感を抱いた俺は、少し迷ってからメッセージを送信した。一度スマートフォンを机に置き、パンを焼こうとトースターの前に立ったタイミングで、通知音が鳴り響く。相変わらず返事が秒速である。


『いいよ、行こう。海』


 届いたメッセージを見て、俺は「海?」と口にしてしまう。その声にデリ子が「いいですねぇ、海」と賛同したものだから、半ば強制的に行き先が決まってしまった。


「海って……めちゃくちゃ遠いぞ」

「いいじゃないですか、明日も休みでしょう」

「それはそうだけど」

「綺麗な写真を、陽向さんに見せたくないですか?」


 俺は唸る。陽向の名前を出してくるあたり卑怯である。


「千晃さん。お願いしますよぉ」


 生意気にも、上目遣いに願いを込めやがる。仕方ない。二人の妹のためを想えば、重い腰を上げるのもやぶさかではないのだ。


「わかったわかった。海に連れてってやるから離れろ」


 俺はデリ子を引き剥がし、みほろにメッセージを返す。海に行くならば、さっさと支度をして待ち合わせなければならない。俺はパンを生のまま頬張り、牛乳で流し込んだ。


「あ、でも私は泳いだりしたくないです」

「はぁ? 海って泳ぐもんだろ」

「わかってないですねぇ。海は風情を楽しむものです。私は堤防に登ったり、潮風を浴びながら夕日を眺めたいだけですから」

「……本当に、泳がなくていいんだな?」

「はい。『さよなら夏の日』をBGMにしたいので」

「誰の曲だ」

「夏といえば、山下達郎様に決まってるじゃないですか」


 なるほど。俺は「そういう海の楽しみ方もたまには良いか」と割り切り、再度スマートフォンを開く。海水浴場ではない海となれば、どこが適しているのだろう。インターネットで検索しようとした瞬間、みほろから返事が届いた。 


『じゃあさ、加太かだに行こ』



 小さな駅舎を出ると、細い道が西側に伸びていた。地図によれば直進するとそのまま海へと抜けられるようだ。左手には木造の家屋が並び、すでに風情が漂っている。青空は高く、直射日光が容赦なくアスファルトに突き刺さる。本日は関西各地で猛暑日を記録しており、すぐに大量の汗が吹き出してしまう。それにしても、まさか和歌山にまで来てしまうとは。


「うん、いいね。夏って感じ」

「……で、なんで加太なの」

「去年も、ここに来た」

「なにゆえに」

「SNSで人気の離島があるから。でも、フェリーの時間を気にしたら観光できなくって」 


 みほろはくるりと回転し、身体をこちらに向けてくる。黒い開襟シャツが風をあつめて膨らんだ。今日のみほろは上機嫌で、表情も柔らかい。


「さすがみほろさん。私が求めていた夏が、ここにあります」


 デリ子が熱い感想を述べると、ヘルちゃんが赤べこのように何度も頷いた。俺は日光を手で遮りながら周囲を見渡す。なんてことのない田舎の町並みだが、ノスタルジックな趣がひしひしと伝わってくる。スマートフォンを構え、何枚も写真を撮った。笑い合うデリ子とヘルちゃん。片足を上げ、謎のポーズを決めるみほろ。民家の壁に取り付けられた琺瑯看板に、役目を終えた自動販売機。この町全体の時が止まり、現実から切り離されたようだった。


「見えてきた」


 いつの間にか隣に居たみほろが、俺の手を取る。


「ちょっと待って、俺、手汗すごいから」

「よきよき」


 いつもの言葉。走り出す。つられるようにして、俺の足が地面を蹴る。果てしなく夏が広がる。デリ子とヘルちゃんの声を置き去りにして、風が吹く方へと駆け抜けた。堤防の向こう側に、きらきらと輝く海が広がっている。こんなにも、しっかりと海を眺めたのはいつぶりだろうか。

 俺が呆気に取られていると、みほろが俺の手を振りほどき、堤防の上にぴょんと飛び乗った。俺は「危ないぞ」と声を掛けるが、みほろは「大丈夫だよ」と白い歯をこぼした。


「それよりさ、私のこと避けてたでしょ」


 ずばり言い当てられ、俺は固まってしまう。


「……私、ちあきちが嫌がるまで離れない」


 潮風が、みほろの赤い髪を泳がせる。


「だから、一緒にいて」


 逆光に隠れたみほろの表情が、紅く染まっている気がして、なんだか無性に恥ずかしくなる。まるで告白みたいじゃないか。


「ほら」


 みほろの手が差し出される。俺は握り返そうと手を伸ばしたが、心に迷いが生じてしまう。デリ子が命を落とすと、裏返った御利益は祟りとして残る。良縁を切られてしまえば、どれだけ絆を結ぼうが、想いを重ねようが、全て無駄になるのだ。


「……みほろ」

「どしたの?」

「俺さ、デリ子のこと、ほぼほぼ諦めてた。もしかしたら、陽向もこのまま目を覚まさないかもって、思ってしまうときがある」


 感情が、堰を切るように溢れ出す。何もかもが上手くいかない気がして、どうしようもなかった。全て失いそうで、たまらなく怖かった。


「ちあきち、大丈夫だよ。高校生は無敵だから」

「……なんの根拠も無いじゃねえか」

「うん。でも、信じたくない?」

「なにを」

「奇跡とか、願いを叶える七つの玉とか」


 なんだ、その適当さは。思わず吹き出してしまう。みほろは「真面目な話してるの」と不機嫌そうに漏らすが、なんだか笑いが止まらなくなった。


「ちあきち。二人で変えちゃおうよ」

「なにを」

「運命」


 みほろは俺の手を取り、ぐっと引き寄せる。半ば強制的に堤防の上に飛び乗ると、みほろの表情がぱっと明るくなる。思い返せば、初めて吉田神社に行くときも、ラジカセが置かれた怪しい社殿に向かうときも、こうして手を引いてくれたっけ。


 みほろとなら、本当に変えられるかもしれない。



 喫茶店で休憩を挟むと、時刻は十八時を過ぎていた。加太の町には橙色の日が差して、帰路を急ぐ子供の姿が目立ってくる。すれ違うように海へと向かった俺達は堤防に座り、海水浴場をぼんやりと眺める。何かを話すわけでもなく、思い思いに海を見つめていると、デリ子がちょいちょいと指で催促をしてきた。音楽を流せと言いたいのだろう。俺はデリ子が好きそうな音楽を流す。スピーカーから再生された山下達郎の歌声が、港町の夕暮れに溶け込んでいく。


 俺が「ホント好きだな、山下達郎」とデリ子に声をかけると、呆れたような口調で「当然じゃないですか」と返される。


「シティポップがある限り、私は不滅です」


 俺は「そうかい」と相づちをうち、再び砂浜に視線をやる。 


「はぁ。夏も終わりそうですね」

「実際、まだまだ暑い日が続くけどな」


 俺がそう返すと、デリ子は「風情がないですねぇ」と馬鹿にしてくる。SNSに夢中のみほろや、普段は物静かなヘルちゃんまでもが頷いているので、よくわからないが俺が悪いのだろう。雑な返事で会話を切り上げた。


 波音と車のエンジン音が、気まずい空気をさらっていく。


 陽向の容態と神去病への対処法。

 大きな問題を二つも棚上げにしているのに、海を眺めるだけで心が落ち着くのは驚いた。


「千晃さん」

「ん?」

「私、信じて待ってますから」


 夕日に照らされたデリ子の横顔が、いつもより大人びて見えた。

 自らを犠牲にして、福の神を退治すると決めたときの表情とよく似ていた。俺は相槌を返すのが精一杯で、逃げるようにして水面に視線を移す。自分はただの人間であり、特別なことなど何もできやしない。ずっとデリ子と一緒にいるのに、こんな短期間で二度も死を覚悟させている始末だ。「絶対に助けてやる」なんて言えやしない。だが、諦めるわけにもいかない。


「最後まで、足掻いてみる」

「はい。頼りにしてますよ」

「……お兄ちゃんだからな」

「シスコンも、度が過ぎると清々しいですね」


 俺はデリ子の後頭部にチョップを入れ、立ち上がる。水平線に沈む夕日と、山下達郎の歌声が、いつまでも脳裏に焼き付いていた。

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