やめてくれ。エンジェルがゲシュタルト崩壊する

 大きな不安を抱えようが、時は平等に流れゆく。七月十八日。梅雨明けが発表された京都の空は青く高い。


 ようやく退院を果たした俺は、自宅のリビングでハートを待っていた。デリ子は母さんと出掛けているので、ハートと言い争いに発展する心配はない。しばらくソファで寝転んでいると、待ち望んでいたインターホンが鳴り響く。玄関の扉を開けば、クソ暑い中でもブレずに白いスーツを着た男の姿。その隣には白衣姿の女性。彼女が五人目のやおよろズらしい。


「はいよー、お初にお目にかかるよ。辛気臭い顔してると思ったけど、思ったより元気そうだねえ」


 なんというか、ゆるい。俺は無難な挨拶を交わしてから二人を迎え入れる。ハートの容姿が目を引くのはいつも通りだが、この女性も中々エッジが利いている。キノコのように膨れた金髪は、マッシュヘアではなくおかっぱと表現したほうが正しい。なによりも気になるのは、部屋の照明を全て反射する勢いの瓶底眼鏡だ。ギャグ漫画でもギリギリの小道具である。


「僕はよっちんだよ、よろしくね」


 ソファに座るやいなや、自己紹介をしてくれた。あだ名かと思いきや本名らしい。


「マスター。このスペシャルエンジェルは、マイリトルエンジェルが神去病を発症してしまった際の対策として用意された神だ。要するに、マイリトルエンジェルを救える唯一のスペシャルエンジェルで――」


 俺はハートを手で静止する。


「待て待て、頭に入らない」

「だから、マイリトルエンジェルが」

「やめてくれ。エンジェルがゲシュタルト崩壊する」

「マスターのマイゲシュタルトエンジェルかい?」

「それをやめろって言ってるんだよ」


 ハート語のせいで、情報量の多さが倍増して目眩を連れてくる。俺は助けを求めるように、よっちんとやらに視線を送る。


「あは、ハートは普通に話せないからね。代わりに僕が説明してしんぜよう。僕はまぁ、科学者みたいな立ち位置かな」


 よっちんはタブレットのような端末をどこからか取り出し、俺の前に突き出してきた。画面にはフローチャートのような図と、毒々しい色のフォントが踊っている。小学生がパソコンの授業で初めて作成した資料に近い。


「なんだ、これは」

「これはねぇ、神去病を患った神を助ける方法だよ」

「……治療できるのか?」

「救うことは可能だよ。僕はそのために、ミー氏とジェイ氏の死を間近で見届けたからね。尊い犠牲を、無駄になんてさせないよ」


 よっちんは胸をどんと叩き、「ゲフッ」と叫びながら勢いよく喀血した。真っ白なテーブルの上に、点々と鮮血が飛び散ってしまう。あまりにも衝撃的な事態に、俺は短く悲鳴を上げた。


「え、え、なんで?」

「ご、ごめんねぇ……僕、身体がめちゃくちゃ弱くて」


 よっちんは口の端から血を垂らし、ニコリと微笑む。まともな神はいないのか。


「……それより、間近で見届けたって言ったな」

「あ、うん。ずっと社殿の中で寝込んでたよお」

「あの落雷で、無事だったのか」

「ギリギリだったけどね。死ぬかと思ったぁ」


 よっちんが身体を揺らしながら笑うと、口からぴゅっと血が飛んでくる。どちらかといえば今がギリギリな気もするが、死には至らないのだろう。俺は内心で呆れながら、タブレットの資料に目を通す。


「……これは、どういうことだ」


 羅列された文字の一つ一つが、脳内に浸透する。

 書かれていた内容は、どう捉えても神去病の治療方法ではない。


「デリ子を、見殺しにするっていうのか?」

「うん、そうなるねぇ」

「おい、治療するんじゃなかったのか」

「しないよ、治療なんて。いや、できないと断言したほうが正しいね。だから、僕は助ける方法って表現してるの。千晃氏、信じられないかもしんないけど他に方法なんて無いんだ。僕が決死の覚悟で見届けたミー氏とジェイ氏の死を、僕なりの角度で推察した泥舟に近い希望論だ。前例が無いぶん成功率は算出できない」

「……成功するかもわからない賭けに乗るしか、方法はないのか?」 


 おそるおそる放った言葉に、よっちんはもう一度頷いた。


「そう。デリ氏には、一度命を落としてもらう必要がある。皆に忘却され、孤独を味わいながらね」


 リビングに漂う重苦しい空気を帳消しにするように、ハートが勢いよく足を組み替える。裾の広がった白いスラックスが、ふわりと膨らんで、元の形に落ち着く。


「……僕がミー氏とジェイ氏を観測したときにね、興味深い現象が起きたんだぁ。千晃氏は、人間が亡くなったときに二十一グラム減るって話は知ってる?」


 俺は首肯する。提言された当初は、二十一グラムは魂の質量だと信じられていた。ところが、数年前の研究で明らかにされたのは、夢もロマンもない事実だった。発汗により、水分が遺体から二十一グラム蒸発しただけらしい。


「人間の魂は実在しない。でも、神の御利益は実在している。現に僕も使ってるからねぇ。で、僕はミー氏とジェイ氏が死ぬ瞬間の体重を観測していたんだけどね、お互いに質量が減っていたんだよ。これは、御利益の質量だと睨んでいるんだぁ」


 放たれる声が、熱を帯び始める。


「僕はね、全ての情報を逃してはならないと、血眼になって観察してたんだ。二人の呼吸、会話、空気、質量、何もかもすべてを。データを収集するべく、天界からあらゆる機器を取り寄せた。間違いはないと断言しても良い。デリ氏が死んだ瞬間に失うのは、神去病で裏返った御利益だよ。神去病は御利益に巣食う。つまり、死んだ後に完治していると捉えられるよね。さらに言えば……君と同じ空っぽの状態だ」


 空っぽ。神からの御利益を、受け入れられる状態。


「いや、まて、デリ子は人間じゃ……」


 口にした瞬間、理解する。デリ子は神ではない存在へ成り果てる。その状態であれば、他の神の御利益が機能するのかもしれない。


「わかったようだね。そ、神去病の末期患者は、神と人間の中間。信仰心が失われて、忘れ去られる状態だからねぇ。だから、ありったけの御利益を注ぎ込める」

「そもそも、新しい御利益を注いでどうなるんだ」

「一時的な生命維持が可能になる。いわば予備電力だね。誰からも認識されないけど、かろうじて生きている状態。御利益は、神にとっては血液のようなものだから。でも、それだけじゃ神としては不十分。人間からの信仰心を集めて、実体を保たなければ話にならない」


 信仰されない神は忘れ去られ、廃神社のように朽ち果ててしまう。これも、デリ子が説明していた通りだ。


「御利益と信仰心。この二つが死の瞬間に作動すれば、デリ氏は神として復活できるはずなんだぁ」


 よっちんは、口角を吊り上げるように笑った。冗談のような話だが、冗談を口にしているようには見えない。死んだ生命が生き返るなど、本来ならば一笑に付す話である。だが相手は神だ。もしかすると、もしかするのかもしれない。


「そんな馬鹿げたことが……可能なのか?」

「理論上はねぇ。実現できるかはわかんないけど」

「じゃあ、信仰心はどうやって集めるんだ」


 誰も覚えていない神を、誰が信仰するのか。俺の疑問は、笑顔と喀血で返される。どうやらよっちんは口を開く気がないようだ。ハートを見やると、外国人のように肩をすくめやがる。まさかと肝を冷やした瞬間、ハートが口を開いた。


「問題はそこなんだよ、マスター。妙案はあるかい?」


 大事な部分を詰め切れていないらしい。よくよく考えば他にも問題点はある。神去病が進行すれば、俺達はデリ子を認識できなくなる。そんな不可視の相手に、御利益を注ぎ込めるものなのか。俺が細部を指摘すると、物憂げにウィンクを返される。


「この流れで言うのは気が引けるけど、さらに問題があるんだよねぇ」


 ようやく口を開いたよっちんが、申し訳なさそうにてへへと笑みを零す。


「千晃氏は、神無月って知ってる?」

「旧暦の十月だっけか」

「正解。その月は私達が居ないから」

「……おいおい、まさか」

「そのまさか。読んで字のごとく、神様が無い月。全国の神々が、出雲大社に向かわなきゃいけないからねぇ。まあ新暦で言えば十一月なんだけど、僕達みたいに権威のある神には準備がある。だから前乗りしなきゃいけないの。よって、十月と十一月は僕達がいません!」

「……つまり、どういうことだ」

「デリ氏が、命を落とすであろう時期とモロ被り!」

「マスターとプリンセスに、全て任せる流れになるね」


 後頭部を、鈍器でかち割られたような衝撃。


「人間だけで、不可視のデリ子が死んだ瞬間に御利益を注入して、どうにかして信仰心を掻き集めろっていうのか」


 口にするだけで、理解してしまう。とてつもない机上の空論だ。


「そうなるね、マスター」


 そうなるね、ではない。


「まあ、注入する御利益についてはアテがあるよ。形代に御利益を注ぎ、デリ氏に常備させればいい」


 形代。安井金比羅宮で、俺が縁切り碑に貼り付けたものだ。


「だからマスターは、信仰心を集める方法をお願いしてもいいかな。あと、マイリトルエンジェルに伝えるタイミングは任せたいんだ。彼女にも、心の準備が必要な作戦だ。僕達が伝えるより、マスターが言葉にするほうが響くだろうからね」


 その言葉に首を傾げる。ハートはともかく、やおよろズの面々のほうが、信頼関係を築けているのではないか。あらぬ方向に視線を外し、思考する俺の様子を察したのか、よっちんが真っ赤な歯を零した。


「デリ氏はねぇ、人間なんて格下の存在だと蔑んでたんだよ。そんな神が、毎日人間のお見舞いに足を運ぶなんて、ちょっと僕には考えられない。それくらい、千晃氏と陽向氏が大事なんだよ」

「なんだそれ。本当に、久美浜家の妹みたいじゃないか」


 自然と漏れた呟きに、神々はにっこりと微笑んだ。


 いや、待て。ただ単に色々と丸投げされているだけではないか。

 良い話みたいに終わらせるな。


 ハートとよっちんは、「案が固まり次第また来るよ」と言い残し去っていった。俺は血痕が飛び散った床やテーブルを拭きながら、今後について思案する。デリ子に打ち明けるなら、早いほうがいい。心の準備が必要だろうし、直前に伝えられるより幾分か楽なはずだ。しかし、どう説明したものか。神去病がもたらす死は、他の病気とはまるで違う。周囲から忘れられ、孤独を味わい、誰にも看取られずに息を引き取る。そんな地獄をデリ子に背負わせるなんて、考えただけで胸が痛くなってしまう。


「しかも、助かる保証もないときた」


 ため息混じりに呟く。こればかりは、絶対に助けてやると断言できない。もちろん予行演習など存在せず、チャンスは一回こっきりである。


「誰が助かる保証もないんですか?」


 突如、背後から届いた声に、俺は絶叫してしまう。


「な、なんだ。帰ってたのか」

「ただいまって、ちゃんと言いましたよ」


 デリ子は不思議そうに俺を見つめながら、ぱんぱんに膨らんだスーパーの袋を、背伸びしてテーブルの上に置いた。


「母さんは?」

「そのまま陽向さんのお見舞いに行きました。あ、アイス買ってきましたよ。千晃さんの好きなやつ」


 伸びてきた手には、チョコレート味のアイスの袋がぶら下がっていた。俺はお礼を述べて受け取り、封を剥がして齧りつく。冷気と甘味が、頭をクールダウンさせてくれる。


「千晃さんもあとで病院いきますよね?」

「うん。そのつもりだけど」

「じゃ、みほろさんも誘いましょうよ」


 その提案に、少し固まってしまう。みほろはすでに、デリ子を忘れている。だが、どのみちデリ子に打ち明けねばならない話だし、みほろに協力を仰ぐ必要もある。

 これはむしろ良い機会かもしれない。俺はみほろにメッセージを送り、待ち合わせ場所と時間を指定した。


 それから一時間後、市立病院前行きの市バスに乗り込むと、すでにみほろとヘルちゃんが座席についていた。俺とデリ子は一つ後ろの席に座り、挨拶を交わす。窓の外を眺めると、濃い緑色の葉を茂らせた街路樹が、長い影を落としている。


「涼しい場所から、汗だくになる人々を見るのは気持ちが良いですね」

「相変わらず捻くれてるな」

「ふっふっふ。まあ、悪くないもんです。人間界の夏も」


 振り返ったデリ子の笑顔は、向日葵のようだ。理由はともかく、夏をいたく気に入った様子である。


「夏だけじゃなく、秋も冬も良いもんだぞ」

「それは楽しみです。期待してあげましょう」


 上から目線で、どこまでも純粋で。俺はなんだか泣きそうになってしまったが、必死に我慢して、確固たる決意を胸の中で轟かせる。


 この夏を、デリ子の最期の思い出にはさせやしない。

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