ちあきち。危ないこと、しないでね

 白を基調とした部屋に、仄かに漂う薬品の香り。窓から吹き込む風が、ベージュ色のカーテンを揺らしている。ぼんやりとした意識が、徐々に輪郭を帯びていく。どうやら俺は病室にいるらしい。身体を起こそうとするが、胸に広がる激痛に声を上げてしまう。誰かが置いてくれたのか、枕元には自分のスマートフォンが添えられている。震える指でLINEを立ち上げて、母さんや陽向、みほろに意識を取り戻した旨を送信する。すぐに母さんから返事が届き、数分後には病室に現れた。


「……母さん、陽向は?」


 飛び出たのは、自分でも驚くほど掠れた声だった。

 俺の問い掛けに、母さんは言葉を詰まらせる。表情から滲み出ているのは、不安や絶望。


「大丈夫、生きてる。ちゃんと生きてるから……」 

「生きているなら、なんでそんな顔を」

「千晃。落ち着いてよく聞いてね」


 母さんが瞳を潤ませながら、優しく語りかける。陽向は、陽向はどうなったんだ。生きているなら、なぜそんな顔をするんだ。


「陽向はいま、意識不明の重体に陥ってるの。骨折も酷いんだけどね、頭を強く打って、脳のあちこちから出血したみたいで……」


 話の後半は、頭に入らなかった。


「母さん、陽向に、陽向に会わせてくれ」

「今は無理よ。千晃だって、危なかったんだから」

「頼む、頼むから」

「――お願いだから大人しく寝ていて!」


 母さんの瞳からは、大粒の涙が流れ落ちている。そこでやっと、自分自身も危険な状態だったのを実感した。


「……ごめん」

「いいのよ。デリちゃんも連れてくるから」


 母さんは俯いたまま病室を後にした。陽向の容態は心配だが、俺が取り乱してはいけない。静かになった空間でなんとか頭を冷やしつつ、再び逡巡する。俺達を車で轢いたのは例の運転手だ。偶然で片付けられるものではない。


 もしや、厄災が終わっていないのか。背筋が冷えるような仮説に導かれる。どう考えても、俺と結び付いた御利益が裏返った影響だ。そう判断した瞬間、病室の扉が開く。桃色の髪を揺らしながらデリ子が駆け寄ってきた。涙やら鼻水やらで顔全体がびしょびしょである。


「無事で良かったです、生きでて良かったです」


 飛び込んできたデリ子の頭が、俺の胸部に直撃する。激痛が走り、思わず咳き込んでしまう。


「あ、ずみません。折れてたんですよね」

「次からは、ゆっくり来い」

「善処します」

「約束をしてくれ」


 俺が呆れ気味に言い放つと、デリ子がふにゃりと笑う。


「思ったより、元気そうですね」

「お前の顔を見たら、落ち込んでられんなと。それより、陽向はどんな感じだ」


 デリ子はこほんと咳払いを置いて、陽向の容態を語ってくれた。母さんの言うとおり危険な状態らしい。障害が残る可能性もあるし、長期のリハビリが必要になる。聞けば聞くほど、意識が遠のきそうな話だった。


「でもでも、お顔は綺麗なままですよ。若いから回復力もあるって、お医者さんが言ってましたし……」


 デリ子は俺を元気づけようと、明るい話題を必死に探しているようだ。デリ子とて、立て続けの不幸でショックが大きいはずなのに、こうして気丈に振る舞っている。俺は心配かけまいと、優しい表情を作ってみせた。


「なあ、奇跡を信じてもいいよな?」

「はい。陽向さんは必ず目を覚まします。だって、私がいますからね」


 真っ直ぐな瞳と、溢れ出る自信。


「頼んだぞ。クソデカ御利益」


「ちょっと馬鹿にしてませんか、それ」


 口を尖らせて、ぶうぶうと文句を垂れてくる。俺は宥めるように謝罪を述べて、飲み物のお使いを頼んだ。デリ子は両手で小銭を受け取ると、任せてくださいと小走りで病室を飛び出していく。ぱたぱたと、足音だけが置き去りになる。


「……千晃、無理してるでしょ」

「やっぱりバレるか」

「伊達に何年もお母さんしてないからね」


 俺は込み上げてくる涙を抑えきれず、枕を押し当てながら号泣した。デリ子から告げられた陽向の容態は、とてもじゃないが受け入れられない。陽向を守れなかった。それどころか、陽向の怪我が酷くなったのは俺のせいだ。俺があのとき陽向を歩道側に寄せなければ、重体に陥るのは俺のほうだった。余計な真似をしなければ、陽向は目を覚ましているのだ。


 だが、今のデリ子の前で泣き言を漏らしていられない。あいつもまだ、離別を乗り越えようとしている段階だ。余計な心労を、かけるわけにはいかない。俺は深呼吸を繰り返し鼓動を落ち着かせる。大丈夫だと自分に言い聞かせる。


「ごめん母さん、もう大丈夫」

「あんまり気負っちゃ駄目だからね」

「……うん、わかった。ありがとう」

「それじゃ、お母さんは陽向の様子見てくるから。何かあったら、遠慮なくナースコールを押すのよ」


 俺は母さんの背中にゆっくりと手を振りながら、思考を研ぎ澄ませる。もし厄災が消えていないのならば、デリ子だけでなく、みほろにも協力を仰ぐ必要がある。スマートフォンを手繰り寄せ、もう一度みほろにメッセージを送った。


 数十分後。病室に駆け付けたみほろが、勢いよく胸に飛び込んできた。再び胸部を襲う激痛に呻き声を上げると、みほろは「あ、ごめん」と謝罪を述べて離れていく。ロクに眠っていないのか、ただでさえ色素の薄い顔が、輪をかけて白かった。


「死んじゃったかと思った」


 みほろは俺の左手を両手で包み込み、頬に擦り付けた。手の甲にすべすべとした肌の質感が伝わる。ずっと心配してくれていたのだろう。みほろは手の温もりを何度も確かめてから、ゆっくりと顔を上げた。目尻が下がった眠そうな瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。いや、違う。俺の後ろを見ている。


「……怪我人なのに、攻めてるね」


 ぽつりと一言。みほろの視線の先には、大容量のコーラが二本。「気晴らしになるかと思いまして」と、妙な方向に気を利かせたデリ子が、コンビニで買ってきてくれたものだ。その経緯を説明すると、みほろは「あぁ」と、少し間を置いて頷いた。


 形の良い唇を、ぽかんと開けたまま。



 意識を取り戻した俺に待ち受けていたのは、慌ただしい日々だった。何度も刑事が現れて、事情聴取と称して同じ質問を繰り返した。信号は何色だったか、車種はわかるか、ナンバープレートや車体の色を覚えているか。俺は脳味噌を雑巾絞りするように、情報を提供した。


 俺達を轢いた容疑者は、まだ逮捕されていないらしい。陽向のためにも、協力を惜しむつもりはない。しかし、顔や逃亡車両がはっきり割れているコンビニ強盗が、未だに捕まらないのは妙だ。逃げもせずに同じ町でのうのうと生活し、特定済の車を運転していたのもおかしい。普通なら、車を捨ててでも遠くに逃げたいのが人間の心情だろう。


「ちあきち、また難しい顔してるね」


 みほろの声で、はっと意識を目の前に戻す。宝石のような双眸が、相変わらずの至近距離で俺を捉えていた。


「もうすぐ夏だよ」


 みほろが窓の外を見やる。俺が入院してから、二ヶ月近くの時が流れていた。意識を取り戻して以降、みほろは毎日のように足を運んでくれている。もちろん、母さんやデリ子、ヘルちゃんやハートといったやおよろズの面々もだ。


 ――ごめんよマスター、今回の件は僕もわからない。


 一ヶ月ほど前にハートが病室に訪れた際、開口一番こう述べた。福の神の反転した御利益が残っているとは考えにくいが、否定する材料もない。要するに、何が起きているのか神々も判断できないようだった。だが、不自然な要素が揃っている。この見解はハートも同意見らしく、「僕も調べてみるよ」と協力を申し出てくれた。見舞いのたびに真っ赤な花束を置いて帰るのはやめてほしいが、今回は頼りにしても良いのだろう。


「ちあきち。危ないこと、しないでね」


 俺の内心を見透かしたように、みほろが釘を刺してくる。眠たげな瞳が滑らかに動き、俺を真正面に捉えた。


「ヘルちゃんが、情報収集を繰り返してるって言ってたから。ちあきちが何を考えてるのかわからないけれど、ひなたんは復讐なんて望まないよ」


 みほろの言葉が、靄のように胸に広がる。俺の身を案じた上での発言なのは理解できるが、陽向の気持ちを勝手に代弁されるのは少し癪に触る。


「復讐するつもりはない。ただ、解決したいだけだ」

「そうだとしても、ちあきちが首を突っ込む必要はない。ここまできたら、警察に任せるしかないと思う」


 俺はみほろを睨みつけ、身体を起こす。


「その警察が、未だに解決できないんだ。何かの御利益に邪魔されているとしか思えない。ここでケリをつけなきゃ、また陽向が危険な目に遭う」


 陽向は一度も意識を取り戻さずに、今も眠り続けている。ここで厄災を断ち切らなければ、陽向は二度と目覚めないかもしれない。


「危険な目に遭うのは、ちあきちだって同じだよ」


 いつも淡々とした口調で語るみほろが、感情を剥き出しにしている。


「お願いだから、自分をもっと大事にして!」


 みほろの瞳には、涙が溜まっていた。俺は二の句が継げず、ただ視線をぶつけるしかできない。自分の考えは間違っているのだろうか。いや、感情論を抜きにすれば、最善策のはずだ。


「あのぅ……外まで聞こえてましたよ」


 静寂に包まれる病室に、おずおずとデリ子が入ってくる。


「夫婦喧嘩は犬も食わねぇって言うじゃないですか。ほらほら、仲直り仲直り」


 デリ子がみほろと俺の手を取り、にぎにぎと引き合わせる。慌ただしい神の乱入により、感情は行き場を失った。


「それより千晃さん。明日クソホストが来るみたいですよ。なんか報告があるそうで」


 デリ子は神トークと呼称していた丸い電子機器を扱いながら、気怠げに報告する。未だに目の下の隈が酷く、疲れが窺える。


「まだ、寝不足が続いているのか」

「毎日のお見舞いに、久美浜家の家事。やることが多いですか……へっくちん」

「ああ、また垂らしやがった」


 俺は枕元のティッシュを剥ぎ取り、デリ子に手渡す。


「いつもすみませんねぇ」

「幼児じゃあるまいし、鼻水を垂らすのはやめろ」


 デリ子が、気恥しそうにでへへと笑う。


「あ、そろそろ私は失礼しますね。ママさんとお買い物なので!」


 そう言い残し、デリ子は嵐のように去っていく。


「あの女の子、ちあきちの知り合いだったんだ」

「……え?」


 みほろの言葉。いつものように淡々とした口調。

 しかし、鋭利な刃で胸を突き刺されたような衝撃。


「……お、おい。何を言ってるんだ」

「いや、下でよく話し掛られるから。友好的な女の子だなって思ってたの」


 みほろの瞳は真剣そのもので、何度確かめようとも発言は覆りそうにない。なぜ、デリ子が忘れられているんだ。浮上した疑問は、たった一つの答えを連れてくる。それはあまりにも残酷で、受け入れがたい事実だった。


 デリ子が、神去病を発症している。



 翌日、病室に飛び込んできたハートは、額に汗を浮かべていた。


「マスター、大変な事態が発生したよ」

「デリ子が、神去病を発症してるよな」

「なぜ……わかったんだい?」

「すでに、みほろがデリ子を忘れていた」

「……困ったな。予想より遥かに早いじゃないか」


 みほろは話を飲み込めないのか、俺とハートを交互に見比べている。だが、説明はあとだ。


「ハート、なんでデリ子が神去病を患うんだ。あれはたしか、神としての能力が……」


 俺はそこまで言ってから、ミーさんから教わった説明を思い出してしまう。


 ――神去病は若者特有の病気や。神の能力が、身体の成長を遥かに追い越してしまうのが発症の原因になるらしいわ。


 ああ、デリ子にも当てはまる。茶山さんに気を取られ、盲点となっていた。


「気がついたようだね。僕たちは、最初からマイリトルエンジェルの発症を恐れていた。だから、やおよろズとして監視していたんだよ。ある一つの嘘をついて、彼女の御利益を抑えながらね。マスターも察しているとおり彼女の御利益は恋愛じゃない。縁結びだ。それも、洛中最強と名高い安井金比羅宮に配属予定の神さ」


 俺がやおよろズと出会う前に足を運んだ、縁切り神社ではないか。デリ子が縁結びの神様だとしたら、俺がみほろと出会ったのも頷ける。サバのモニュメントの落下を防いだのも、商店街の人々との縁が結ばれるよう御利益が働いた結果だろう。自殺騒動もそうだ。あつらえたように用意されたウレタンマットは、飛び降りた男子生徒と教師達が何かしらの縁で結ばれた結果に違いない。


「僕たちは彼女に、恋愛運の神様だと嘘をついた。縁結びは恋愛や仕事、あらゆる出会いと通ずるからね。恋愛だけを取り扱えば――自ずと能力は抑えられる。そうして成長を見守りつつ、段階的に解除していく予定だった」


 鼓動が加速し、呼吸が乱れる。


「マスター。最近のマイリトルエンジェルは、顔色が悪かっただろう。僕も最初は過労だと思っていたが、違ったんだよ。神去病が、本人すら自覚できない違和感を与えていたんだろうね」


 あの運転手と巡り合ったのも。俺と陽向が事故に遭ったのも。


「縁結びの御利益が、裏返っていたから……」

「ああ。マイリトルエンジェルの御利益は浮き沈みを繰り返していたようだけど、マスターにはさして影響はなかったはずだよ。本格的に進行しはじめたのは、二ヶ月前――マスターが事故に遭ったあたりかもしれない」   


 真っ黒なピースが、音を立ててぴたりとはまる。


「マスター、すまない。僕達がついていながら」


 今のデリ子は良縁を断ち切り、悪縁を結んでしまう厄災なのか。それも、洛中最強と謳われるほど強力に。

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