古き良き、かな。言い方次第

 翌朝、俺がリビングに降りると、デリ子がもそもそと食パンを齧っていた。自分で焼いたのか、やけに食パンの表面が黒い。トースターを上手く扱えず失敗したのだろう。いや、それよりだ。


「なぜ、ここにいる」

「えっ、いや、朝なので……」

「社殿で寝泊まりするんじゃないのか」


 俺がそう質問すると、デリ子の手がぴたりと止まった。


「千晃さん、その、私を覚えてないのですか」

「デリ子はデリ子だろ? それより、どうやって家に入ってきたんだ」


 台所に立つ母さんに聞くと、「この子、うちの合鍵を持ってるみたいよ」と予想外の返答が繰り出される。俺は席を立ち、デリ子の頬をつねり上げた。


「おい、神とやらは勝手に合鍵を作るのか」

「そ、その。千晃ひゃん……鍵は、鍵は……」

「誰の鍵を拝借しやがったんだ」

「これは、陽向ひゃんと一緒に」


 俺と陽向が入院してから、もう三ヶ月以上が経っている。そんな前から、久美浜家に居座るタイミングを虎視眈々と狙っていたのか。油断もスキもありやしない。


「……まあいい。食ったら吉田神社に帰れよ」

「ここにいちゃ、だめですか」


 デリ子が、ぼろぼろと大粒の涙を流す。俺は慌てて手を離し、「そんなに痛かったのか、悪い」と謝った。


「こら千晃、小さい子をイジメちゃ駄目でしょ」


 俺とデリ子のやり取りを見兼ねたのか、母さんからも叱られる。現にデリ子が泣いてしまっているので、俺に非があるのだが、何かが腑に落ちない。


「大丈夫です。私は大丈夫ですから」


 そう言いつつも、デリ子はなかなか泣き止まない。目を何度も擦ったかと思いきや、ついには机に顔を突っ伏してしまった。俺は桃色の頭を撫でながら、覗き込むようにしてデリ子に「どうしたんだ」と問いかけた。


「本当に、なんでもないんです」


 涙声で紡がれた言葉は、とても弱々しかった。



 小さな違和感を覚えながら、市バスに乗って高校に向かう。エンジン音と共に身体が揺れると、すぐに睡魔が襲い来る。眠気覚ましにスマートフォンを開くと、待ち受け画面に『メモを見るように』と指示が表示されていた。


 なんだ、これは。

 俺が設定したものだろうが、よく覚えていない。恐る恐るメモ帳のアプリを開くと、殴り書きのような日記が綴られていた。しかし、メモの上部に記載された、不可解な文言が気に掛かる。


『神去病で、デリ子にまつわる記憶を俺は失う』

『御利益を注入した形代をデリ子に渡す』

『信仰心を集める方法を、なんとか見つける』


 デリ子にまつわる記憶を失う。そんなわけがないだろうと回顧してみるが、まるで思い出せない。今朝のやり取りは覚えている。だが、数ヶ月間の思い出が不鮮明だ。


「おはよ、ちあきち」


 いつの間にか、隣にみほろの姿。


「ああ、おはようみほろ。なあ、デリ子を覚えているか」

「……惣菜のゆるキャラ?」

「いや、そうじゃなくて。本名は――」


 デリ子の本名は何だったか。ふざけた名前だった気がするが、よく思い出せない。


「……やおよろズって、五人組だよな」

「え、四人だよ。ヘルちゃんと、ミーさんと、ホストの神と、私がまだ会ったことのない神。うん、これで全員」


 冗談を口にしている様子はない。自分の精神がおかしくなったのか、それとも本当に記憶が無くなっているのか。どちらにせよ、異変が起きているのは確かだ。デリ子の存在を確かめる方法は無いものかと目線を落とすと、視界に俺の左手が映し出される。


 ぐるぐると包帯で巻かれた手の甲には、契約の証が刻まれているはずだ。包帯を勢い良く剥がし、顕になった刻印をみほろに見せる。四つの花弁が、薄い輝きを放っているはずだ。


「いくつに見える?」

「四つ。やっぱり合ってるよ」

「いや、ミーさんとの契約はもう解除されている」

「そっか。じゃあ……」

「あぁ。ここにはデリ子が含まれている」


 みほろは顎に手をやり、うむむと考える素振りを見せた。


「よくわかんないけど、ヤバいのはわかった」


 そう呟くと、腕を伸ばして降車ボタンを押下した。まだ高校の最寄りのバス停ではない。


「何をする気だ」

「ちあきちの家に行く」

「始業式早々、サボる気か」

「今日はいいじゃん。話聞くだけだし。ほら、はやく」


 みほろは俺の手を取り、席を立つように促してくる。こうなったみほろは、止められないのを知っている。俺は担任に内心で謝りつつ、サボりの意思を固めた。バスを降り、早歩きで俺の家を目指す。九月とはいえ気候は真夏となんら変わりなく、容赦の無い日差しが降り注ぐ。数分と経たないうちに、全身から汗が吹き出てきた。額の汗を手の甲で拭いながら、御蔭通に伸びる日陰を縫うようにして進んでいく。


 しばらく歩いていると、後方から俺を呼ぶ声が轟いた。鼻につく特徴的な声。振り向くと、遠くの方から白いスーツの男がこちらに駆けてくる姿を認めた。こんなに暑いのに長袖のジャケットを羽織っているので、蜃気楼で揺らめく姿が妖術のように異様な雰囲気を醸し出していた。


「マスター、プリンセス、ちょうど良かった!」


 通行人が何事かと注視する。マスターもおかしいが、プリンセスはさらにおかしい。俺はともかく、みほろでさえ、恥ずかしそうに震えながら俯く始末である。


「不眠不休で完成させたよ、形代」


 ハートがジャケットの内側から、一枚の形代を取り出した。たしか、俺のメモ帳にも形代という単語が記入されていた。なぜかはわからないが、デリ子に渡さなければいけないのだろう。


「……でも、僕はこの形代をなぜマスターに渡さなきゃいけないのか、覚えていないんだ。何故、こんなに必死なのかもわからない」


 ハートが吐露した心情に、深く同意する。俺だって覚えていないが、この行動がとても重要なのは本能で理解できてしまう。俺は礼を述べ、形代をスクールバッグに収納する。


「今日はよっちんはいないのか」

「スペシャルエンジェルは、お休みの日だよ」

「ああ、そうか。やおよろズはシフト制だっけ」

「……そんな話、マスターに明かしたかい?」


 しばしの無言。


「なんでだろう、それ、私も知ってる」

「プリンセスもかい?」


 みほろの言葉に、ハートが大袈裟な驚きを見せる。


「たぶん、デリ子って神に聞いたんだと思う」

「デリ子、デリ子……マイ、リトルエンジェル。そうだ、マスター。この形代は僕とスペシャルエンジェルが、マイリトルエンジェルのために御利益を注入したんだ!」


 ハートが弾かれるように駆け出した。


「マスター、時間がない。早く家に!」


 俺は頷き、みほろと共に後を追う。大事な記憶を思い出せないふがいなさに、苛立ちを隠せなくなるが、今はただ走るしかない。まだ足が本調子でないので、上手く力が伝わらない。何度もバランスを崩してしまうが、それでも前を向く。やっとの思いで家に辿り着いた頃には、足が震えていた。ハートに肩を借り、なんとか玄関の扉を開く。母さんの靴が無かったので、おそらく陽向のお見舞いに向かったのだろう。詮索をされないことに安堵しつつ、デリ子の姿を探す。


「あれ、千晃さん。学校は……げっ」


 リビングからひょっこり顔を出したデリ子から、濃度の高い嫌悪感が放出された。視線がハートを捉えているので、二人の間にはなにやら確執があるのかもしれない。


「なぜそんなに嫌そうな顔をしているんだ」

「私、こいつ嫌いなんですよ」


 過去に何があったのだろうか。ハートの様子を盗み見みるが、その表情からは感情が窺えない。

 というより、ハートの視線はデリ子ではなく、俺に注がれている気がする。


「マスター、ちょっといいかい」

「……どうしたんだ」

「さっきから、誰と話しているんだい?」


 その言葉に、室温が下がったような錯覚を抱く。

 さっきまで思い出していたはずなのに、この短時間で忘れてしまったというのか。


「な、何言ってるんだ。デリ子だよ」


 俺はデリ子の隣に立ち、桃色の頭を撫でたり、頬を引っ張ったりして存在をアピールした。


「ほら、これがデリ子だ。思い出したか?」


 俺は縋るようにして、二人に問い掛ける。

 しかし、二人の表情は変わらず、むしろ不安そうな色を強めている。


「みほろ……みほろは、わかるだろ?」

「ねぇ、ちあきち」


 みほろは首を二度ほど横に振り、俺の前に躍り出た。そして、あろうことか俺の身体を強く抱き締めてくる。咄嗟の出来事に対応できず、間抜けな声を出してしまう。


「ちあきち、大丈夫だよ。私がついてるから」


 みほろは俺の胸元から、ばっと顔を離す。瞳には涙が溜まっており、なにやら様子がおかしかった。デリ子を覚えていないとか、そんな次元の話ではない。


「みほろ、ほら、ここに居るのがデリ子だ」


 絞り出た声は、自分でも驚くほど震えていた。


「ちあきち、さっきから誰と話してるの?」

「誰って、そんなの、決まってるだろ」

「よく見て、そこには誰もいないよ」


 天地が覆されるほどの目眩。俺は立っていられず、みほろを振り解くように床に倒れ込んでしまう。そんなわけがない、ここには、確かに。


 誰が、居るんだ?


 目線を上げ、室内を見回す。俺を心配そうに眺めるみほろと、口を開いたまま微動だにしないハート。そして、俺の隣には、さっきまで。


 誰が居たんだっけ。何度見渡しても、みほろとハートの姿しか映らない。俺は一体、何を必死になっていたのだろうか。


「ちあきち、本当に大丈夫?」

「……ああ、うん。ごめん、俺がどうかしていた」


 俺は立ち上がるため、床に手をついて力を込めるが、つるりと滑ってしまい体勢が崩れた。何事だろうと床を確認すると、水滴が落下したような水溜りが広がっている。


「なんだろね、この水滴」


 みほろの問い掛けに、俺は答えられなかった。思い当たる節が無いからだ。薄気味悪いものを感じつつも、胸の奥底に鈍色の靄が広がるような、自己嫌悪に陥ってしまう。なぜ、俺の胸中は、こんなにも罪悪感で溢れているのだろう。もう一度水溜りを見やる。やはり心当たりは無いが、なんとなく、誰かの涙みたいだと思った。


 どうしてこんなにも、息を切らしながら帰宅したのだろう。俺達は顔を見合わせて、うむむと首を捻るばかりだった。


「学校休んじゃったし、ひなたんの病室に行く?」

「……そうだな。いつもより長く摂取できるし」

「お見舞いを摂取とは言わないよ」


 みほろがじとりと俺を睨む。そんなやり取りを、ハートは微笑ましいと言わんばかりの表情で眺めていた。


「じゃ、僕はここで失礼しようかな」

「もう帰るのか?」

「そうだね。このままだと、お邪魔虫になるからね」


 ハートのウィンクが心なしか、いつもより鈍く映る。恐らく、ハートも俺と同じように、胸の中に違和感が巣食っているのだろう。



 病院に向かうバスの中で、みほろは何度も顎に手を当て、考え込む素振りを見せる。俺も倣うように唸る。


「夢でも見ていたようだ」


 俺がぽつりと呟くと、左側からみほろの手が伸びて、俺の頬をびよんと伸ばす。


「痛い?」

「いひゃい」

「じゃあ、現実」

「古典的すぎる」

「古き良き、かな。言い方次第」


 俺は頬を擦りながら、みほろをじとりと睨む。普段は頬をつねる側なのでわからなかったが、いざ受け身に回ると想像以上に痛いではないか。今後は少し加減しつつ、つねらなければならない。そう考えて、はたと気付く。


「誰を……?」

「どしたの、ちあきち」

「いや、なんでもない」


 俺は視線を窓の外に移す。太陽が照り付ける京都市内は、殺人的な蒸し暑さで行き交う人々に食らいつく。アスファルトも、街路樹も、もがき苦しむように蜃気楼で揺らいで見えた。少し前にも、同じ景色を誰かと共有した。そこには、たしか。


『次は市立病院前、市立病院前です』


 車掌のアナウンスで、我に返る。俺達はバスを降車し、目と鼻の先の距離にある病院へと歩を進めた。顔なじみの看護師に来院の旨を伝え、陽向の病室を目指す。清潔感が漂う院内は、外界から切り離されたように涼しかった。



「陽向、来たぞー」


 扉を開き、眠る陽向に声を掛ける。呼吸の度に上下する胸と、心電図の音が陽向の生命を証明している。俺はほっと胸を撫でおろし、ベッドの横にある丸椅子に座った。母さんはどうやら来ていないようで、病室内には蝉の声だけが反響していた。


「ひなたん、眠ってるね」

「ああ。ねぼすけなのは、変わってない」


 陽向は朝が弱い。いつも瞼を擦りながら、遅刻ギリギリの時間にリビングへと降り立つのが常だ。それなのに、今年の春はやけに早起きの日が多かった。まるで、誰かに起こされたかのように。


「なぁ、みほろ」

「うん。私達、何かを忘れてるよね。いや、どちらかといえば――切り取られてる」


 俺が言いたいことを察したのか、先回りで回答される。みほろも同じ心境だったようで、歯がゆそうな表情を覗かせていた。


 切り取られている、か。言い得て妙だと感じた。不自然さを加味した上で形容するならば、忘れていると表現するのは正しくない。忘却であれば、きっかけがあれば思い出せる。仮にそこまで至らなくても、取っ掛かりがあれば前進はするはずだ。しかし、俺の記憶は、もともと存在しないかのように途切れている。


「俺達は、たしかに三人で加太に行ったよな?」

「うん。間違いないよ」


 俺は頷きつつ、スマートフォンの写真を漁る。加太へ行った際に、町並みを何枚か撮影したのを思い出したからだ。笑顔を見せながら、変なポーズを構えるみほろと、なにやら興奮気味のヘルちゃん。そして、桃色の髪をした小学生くらいの女の子。


「これは、誰だ……?」


 俺の呟きに反応したみほろが、スマートフォンを覗き込んでくる。だが、みほろにも見覚えがない様子で、ふるふると首を横に振った。


「現地の子供ってわけでもないよな」


 カメラロールを遡るが、やはり、この女の子と共に行動しているようだ。写真の中の笑顔は、知り合ったばかりの相手に向ける類の笑顔ではない気がした。


「私のほうにも、この子の写真がある。しかも、SNSにも投稿してる」


 これは誰なんだ。俺達は記憶を整理する。この年頃の親戚は居ない。だとすれば、この女の子も神である可能性が高いだろう。ヘルちゃんと仲が良さそうな雰囲気が、写真の収められているのも仮説の後押しとなる。


「ちょっと、ヘルちゃんを呼んでもいいかな」

「むしろ来てほしい。できればハート達も」


 どうやら、みほろはヘルちゃんにスマートフォンを買い与えているようで、連絡を取り合えるらしい。


「すぐに向かうってさ」

「ありがとう」


 礼を述べ、違和感の正体を突き止めるべく逡巡を再開する。桃色の髪の女の子は、一体何者なのだろう。何かヒントはないものかと、今までのメッセージを漁る。文言を目で追い続けていると、陽向とのやり取りの中で、「デリちゃん」なる人物の名前が飛び出してきた。陽向のテンションや、会話の流れから察するに、どうやらこの女の子は俺の家にも訪れているらしい。


「ねえ、ちあきち。鞄の中が光ってるよ」


 みほろに指摘され、視線を鞄に移す。しかし、発光する物など持ち歩いていない。では何が光っているのか。恐る恐るジッパーを開く。眩い光を放っていたのは、どこかで見た紙。俺の筆跡で綴られた願い事。


「また心から、笑い合えますように……」


 安井金比羅宮の形代が、蛍みたいに明滅を繰り返す。

 まるで、何かと呼応するように。

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