だから心配してないよ。アンタは、人間は強いから
吉田神社の大鳥居に到着した頃には、すでにタクシーの姿はなかった。打ち付けた背中が痛むが、泣き言を漏らす暇はない。参道の階段を登りきると、やがて大元宮が視界に飛び込む。これまでと異なり、丹色の柵でしっかりと封鎖されていた。何者の侵入も許さない威圧感を放っている。
「どうする?」
「決まってるじゃん。乗り越えよう」
みほろはさも当然のように言い放ち、ぴょんと柵を乗り越えた。抵抗はあるが今は非常事態。俺は心の中で謝罪しながら柵を乗り越える。
「ちあきち。ここ、空間が歪んでる気がする」
みほろが前方を指差す。蜃気楼のように揺らいでいる。俺は直感で、この中にデリ子達が居るのだと察した。
「行こう」
ゆっくりと揺らぎをくぐると、同じ光景が広がっていた。しかし、空気の質が明らかに違う。さらに異なるのは、大元宮の前に、デリ子とヘルちゃんと茶山さんの姿がある事実。
「アンタ達、どうしてここに……」
茶山さんが、驚くように目を見開く。
「千晃さん、何しにきたんですか」
「止めに来たんだよ。デリ子、考え直せ」
「……考え直すのは、千晃さんのほうですよ」
思わず後退りしてしまうほど、冷たい口調だった。デリ子は俺とみほろに一瞥をくれもせず、茶山さんの手を握ろうとしている。
あれは契約の儀式だ。
瞬時に止めようとしたが、ここからでは間に合わない。諦めかけた瞬間、俺達のすぐ後ろから耳を劈く怒声が発せられた。
「ちょい待てやお前らァ!」
酒焼けしているのか、いつもより嗄れた関西弁。声の主であるミーさんは、俺の肩を手でどかしつつ、のしのしと大元宮へと歩み寄っていく。
「ミーさん、遅いですよ。他のメンバーはどう」
「――おいコラ、何を勝手に先走っとんねん」
ミーさんは弾けるように駆け出し、デリ子を肩で突き飛ばした。体格差もあるせいで、デリ子はぽよんと吹っ飛んでいく。
「な、なにしやがるんですか!」
「こっちの台詞や。死なれたら困るねん」
ミーさんはそう語りながら、茶山さんを一瞥する。
「お父さん……」
「今まで、すまんかったな」
「何を今更!」
「せや、今更や。何もかも遅なった。でもな、最期に父親らしいことをさせてくれ」
突如、空気が振動する。木々がざわざわと揺れ始め、鳥が逃げ惑う。空には瞬く間に雲が広がり、ぽつぽつと雨が降り始めた。ものの数秒の出来事に、俺は呆気にとられてしまう。
「デリ子ちゃん、君は若い。まだまだ神として生きなアカン。おっちゃんが、全部片付けたるから」
デリ子が歩み寄ろうとするが、ミーさんが放つ風圧の影響で近づけない様子だった。俺達は、成り行きを見守るしかできない。
「ミーさん、あなたは何者なんですか」
恐る恐る紡がれたデリ子の問い掛けに、ミーさんは目をぎゅっと瞑り、分厚い唇を開いた。その表情が笑顔だと気づくまで、数秒の時を要した。
「菅原道真。だからミーさんや」
にわかに信じ難い告白。嘘だろ。ミーさんがあの、学問の神と崇められる菅原道真だというのか。ありえない。そう否定したかったが、事実を裏付けるように思い出が構築されていく。茶山さんと遊んだ日の記憶は飛び飛びだが、俺がミーさんの名前を出した際、「そんな呼び方するなんて、仲がいいんだ」と言っていた気がする。たしかに、普通なら道真公をミーさんだなんて呼び方はしない。
そして、ミーさんが最初にお土産として持ち帰ってきたものは、北野天満宮の御守りだった。あれは神が神頼みをしたのではなく、自身を奉る神社に戻っていただけなのではないか。もし、ミーさんが道真公だとすれば、茶山さんとの不仲も頷ける。全国各地の天満宮を飛び回る神様だ。多忙になるのは致し方ないだろう。なにより、俺の入試はスムーズに終わった。
学問の神様の御利益が、働いていたかのように。
「じゃあ、各地の天満宮から御利益が盗まれていたのは」
「盗んだんやなくて、ちょっとずつ回収してただけや。元々おっちゃんのモンやからな。ここ最近、日中おらんかったのはそのせいや。さあ――こんだけ御利益があれば張り合えるやろ」
ミーさんが言葉を放つたびに、肌にぴりぴりとした刺激を感じる。雨脚がさらに強くなり、地を打ち付ける音が大きくなる。
「お父さん、本気なの?」
「娘のケツを拭くんは、父親の義務やろ」
「でも、お父さんが消えたら天界は……」
「心配すんな。後釜として、やおよろズを結成したんや」
ミーさんが、ちらりとデリ子を見やる。
「君の御利益は化物や。今はまだおっちゃんの全力には及ばんけど、近いうちに超えてまう。そんな有望株を監視しながら育てるために結成されたんが、やおよろズや。名前は君にダッサいのをつけられたけどな」
今まで伏せられていた、やおよろズの正体が告げられる。予想外の答えに俺は反応できなかった。
「私が、化物ですか?」
「せや。新米同士でチームを組ませたら、明らかに飛び抜けてまうからな。だから、おっちゃんやハートみたいな既存の神と組ませて、君の御利益が突出せえへんように調整した。全員新米の寄せ集めやと嘘をつけば、御利益の平均はこんなもんかと信じてまうやろ」
ミーさんの説明は、すとんと腑に落ちた。既存の神の強力な御利益を、あたかも新米レベルと思い込ませる。さすれば、デリ子の御利益は異常さに気が付かないままだ。ハートが念入りに口止めをしていたのは、このためだったのか。しかし、ここで新たな疑問が浮上する。なぜ、そこまでしてデリ子を監視する必要があるのか。
「君は恋愛運の神やなくて、もっとスゴい神やからな」
俺の思考は、ミーさんの言葉で中断される。
「私は、一体」
ぽかんと口を開くデリ子。交代するように前に出てきたのは、ヘルちゃんだった。
「ミーさん、ちょっと話し過ぎでは?」
「ああ、ええねん。プランBや。後は任せた」
「まあ、デリちゃんは成長しましたからね」
今までの雰囲気とは異なり、はきはきと言葉を紡いでいる。その姿を目にしたみほろが、何度も瞼をぱちぱちさせていた。あからさまな反応だが、気持ちはよくわかる。ミーさんは呆気にとられる俺達に苦笑いしてから、茶山さんと向かい合った。なぜかはわからないが、二人の間に確かな絆が通じ合うのを感じた。
「風花、準備はええか?」
「……うん」
「何を泣いてるねん」
「だって、私のせいで、お父さんが」
「お前の神去病を確かめた瞬間から、決めてたんや」
「お父さんは、私なんてどうでもいいと思ってた」
「――アホか。そんなわけないやろ」
ミーさんの大きな手が、茶山さんの頭をくしゃくしゃと撫で回す。
「ごめんなさい」
「ん?」
「病気に罹ってごめんなさい。健康でいられなくてごめんなさい。お父さんに迷惑をかけて――本当にごめんなさい!」
茶山さんは泣き崩れる。魂の慟哭に、胸をぎゅっと掴まれる。茶山さんは望んで病気を患ったのではない。俺達を道連れにするために、人間界に逃げ込んだわけではない。ただ、そうするしかできなかったのだ。娘が抱える、やるせない心情。しかし、ミーさんの表情は明るいままである。茶山さんの悲しみも、自身の運命も、京都に忍び寄る厄災も、全てを吹き飛ばすように、ミーさんは呵々と笑った。
「なんも迷惑ちゃうわ。娘のためなら、なんぼでも命捧げたる。こんなもん、病と飢えで死んだときと比べたら痛くも痒くもないわ。ただな――お前を生かしてやれんのだけが、心残りや」
ミーさんの発言は、二人の死を意味している。
「私なんか、生きてたって」
「――それ以上言うな。友達の前やろ?」
茶山さんは、目を擦りながら何度も頷く。
「カッコええとこ見せたろやないか」
ミーさんは腹を揺らして笑いながら、茶山さんの手を取る。眩い光が二人を包み込み、やがて輝きが薄まっていく。ミーさんの右手には、桃色の文様が一つ刻まれていた。咄嗟に俺の手を確認すると、文様が一つ消えている。ミーさんとの契約が解消されたのだ。その刹那、雲が一層厚くなり、雷鳴が轟いた。菅原道真には、祟りによる落雷で七人を殺した逸話が存在する。真っ黒な雲が形成された大元宮の上空は、過去を再現するような気配が漂う。雨脚はさらに強くなり、俺達の身体を容赦なく打ち付けた。
「ミーさん、考え直してくれないか!」
雨音をかき消すように、後方から懇願の意が轟く。声の主を察したデリ子は、表情をぐにゃりと歪ませる。大元宮に駆け込んできたのはハートだった。白いスーツを泥々にして、息を切らしながらミーさんの元へ向かっている。が、風圧に吹き飛ばされるように後退した。
「おう、ハート。間に合ってもうたか」
「何を考えてるんだい。天神である貴方が消えたら、損失は計り知れない。相打ちの役目を担うのは、僕だったはずだ!」
金髪を振り乱しながら、ハートが叫ぶ。
「状況が変わってん。予想以上に、神去病の進行が早かったわ。お前は偉大な神やけど、御利益に関してはおっちゃんのほうが上や。だからおっちゃんがやる。お前もお前で、女のケツ追い掛けながら、信仰心を集めてたんは知っとるけどな」
ミーさんが語る真実に、俺達だけでなくデリ子さえも驚きの声を漏らす。ただの女好きかと思っていたが、その行動にさえ理由があったのか。
「ナンパのふりして勧誘のビラ配りでもしてたんやろ」
「せ、宣教といってくれたまえ!」
「ははは、冗談や冗談」
軽口を叩きながらも、ミーさんは真剣な表情を崩さない。落雷のタイミングを測っているのだろうか。どうやらハートは折れたようで、口を閉ざしている。
「風花。千晃くん達に最後の挨拶しとけ」
「うん……わかった」
茶山さんが、伏し目がちに首を動かす。稲光に照らされた横顔には、安堵や懺悔といった相反する念が、複雑に入り混じっているように見えた。
「笠置、私はさ。和風イタリアンカレー嫌いじゃなかったよ」
その言葉に、みほろは少しだけ戸惑う様子を覗かせた。一緒にカレーを食べた記憶が、すでに消えているのだろう。しかし、揺らいだのは一瞬で、すぐにいつもの表情に戻る。
「まだまだ、オススメあるから」
「そっか、楽しみにしてるね」
「うん、風花もお店を出してね」
「なんでよ」
茶山さんが吹き出す。つられるように、みほろも破顔した。お互いに次なんて無いのは理解している。それでも、明日があるように笑い合っている。まるで続きが存在するかのように、言葉を交わしていた。痛ましい光景だが、当事者が気丈に振る舞っているのだ。俺に落ち込む権利なんて無い。そう言い聞かせ、むりやり笑顔を作る。ひとしきり笑い終えたあとに、茶山さんは視線を俺に寄越した。
「久美浜にはねぇ、取り立てて話すこともないかな」
「……なんかあるだろ」
「嘘だよ。アンタはそろそろ勇気を出したら?」
みほろとの関係性について言及されているのだろう。俺が逃げるように視線を外すと、「まだまだ道のりは長いかもね」と付け加えやがる。
「でもさ、アンタはここぞってときに行動力があるのを知ってるから。音楽室に飛び込んできた日なんて、何も考えずに行動してたでしょ」
図星をつかれ、変な汗が吹き出てしまう。行動しないより、したほうがマシだと決めつけて音楽室へ向かっただけだ。未知の相手を前にするのに、作戦は何もなかった。今振り返っても無鉄砲だ。
「だから心配してないよ。アンタは、人間は強いから」
「――そっか。ありがとな」
「ねえ久美浜。いまスマホ出せる?」
突然の提案に、俺は首を傾げる。
「大音量で音楽を流してほしい」
「ああ、なるほどな。なにがいい?」
「大貫妙子の『雨の夜明け』かなぁ」
俺は言われるがまま、サブスクリプションのアプリで再生する。知らない曲ではあるが、イントロが流れた瞬間にはっとする。耳に届く、伸びやかで綺麗な声。哀愁を誘うメロディ。
「うん、これこれ。やっぱりいいなぁ」
雨粒を浴びながら、茶山さんが恍惚の表情を浮かべる。空に歌うように、天を仰ぐように。楽曲は余韻を残しながら、四分三十秒の世界に幕を下ろす。濡れた前髪をかき上げながら、茶山さんは儚く微笑んだ。
「お父さん、もう大丈夫だよ」
「そうか。こっちももうすぐやわ」
ミーさんが煙草に火をつける。度重なる稲光で、空が白く明滅した。今にも眼前に落ちるのではないかと、本能的な恐怖を抱いてしまう。
「千晃くん、おっちゃんからの最後の言葉や」
雨音に負けないほどの大声。
「勉強にしろ、仕事にしろ、誠心誠意の努力をしたら、祈らんでも神様は守ってくれる。やおよろズとの契約が切れても、それだけは覚えときや」
ミーさんが、びしりとサムズアップを決める。格好悪いはずなのに、とても格好良かった。俺はミーさんに負けないほどの大声で返事をし、サムズアップを返す。涙が込み上げてしまい、不格好であったが、想いは伝わっただろう。細い目をさらに細めて頷くミーさんの表情が、すべてを物語っていた。
「よっしゃ、
鋭い声と、雷音。身体が浮き上がるほどの暴風。
「デリ子、早く行くぞ!」
しかし、デリ子に動く気配がない。
「ミーさん、嫌です。私。これから、どうしたら」
「アホぬかすな、後のことは他のモンに従え!」
「まだ、これからも、私は……!」
デリ子が叫ぶ。最初にデリ子と会った際、ヘルちゃんとよく三人で行動していると述べていた。デリ子にとって、ミーさんは父親のような存在なのかもしれない。だが、デリ子が巻き込まれてしまえば、茶山さんとミーさんの覚悟は無駄になってしまう。俺はデリ子の腰を掴み、力づくで持ち上げる。
「離してください!」
俺は無言を貫く。どんな言葉も、今は響かないからだ。
「千晃くん、ありがとうな」
「……ミーさん。こちらこそ!」
俺は振り返らずに走った。空間の揺らぎを潜り、がむしゃらに駆け抜ける。いつの間にか雨は上がっており、雲の隙間から薄い光が差し込んでいた。並走していたみほろ達が、何度も何度も振り返る。
刹那、爆音だけが鳴り響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます