はい。なので、別の手段を使います

  翌朝。リビングに向かうと、デリ子が神妙な面持ちでパンを頬張っていた。昨日も結局眠れなかったのかと問うてみると、「まあ、ほどほどに」と濁される。ご機嫌が悪いわけではなさそうだが、いつもと様子が異なる。陽向も戸惑っているようで、心配そうな視線をちらちらとデリ子に浴びせていた。


「千晃さん、あとで少しだけお話してもいいですか」


 パンを食べ終えたデリ子が、遠慮がちに聞いてくる。断る理由もないので、俺は「準備を済ませてからな」と頷いた。表情や仕草から、なんとなく良い話ではないと察してしまう。久美浜家の朝に似つかわしくない、重い空気が漂っていた。無言を貫いたたま、パンにジャムを塗っていると、テレビから慌ただしい声が聞こえてくる。件のアナウンサーが、ニュース速報を読み上げていた。


『今朝未明、北白川伊織町きたしらかわいおりちょうのコンビニエンスストアで強盗事件が発生しました。容疑者は未だ逃亡中で、黒の乗用車で北に向かっていった模様です。防犯カメラの映像によると――』


 画面上に、容疑者とおぼしき男の容姿が映し出される。不鮮明な画像だが、なぜか見覚えがあった。


「この人、千晃さんが轢かれかけたときの……」


 デリ子の指摘で、あっと気付く。やおよろズと初めて会った日の帰り道に、危うく衝突しかけた黒塗りの車の運転手ではないか。


「そうだ、間違いない」


 鼓動が加速していく。厄災が牙を向き、運命の歯車が回り始めている。あの日たまたま出会った男が、容疑者として報道されている。単なる偶然では済ませられない。いつもの数倍の早さで準備を終え、俺とデリ子は二階のベランダに向かう。暖かな日差しが差し込むベランダは心地よく、偽りの平和を運んでくる。俺とデリ子は折り畳みの椅子に腰を下ろし、ぼんやりと朝焼けを眺めた。


「もう時間がありません。福の神を、吉田神社に連れてきてください」

「茶山さんは、強制送還には応じないぞ」

「はい。なので、別の手段を使います」


 朝日に照らされたデリ子の表情が、微かに変化する。


「別の手段?」

「えぇ。今朝、ヘルちゃんからメッセージが届きました。福の神は、一瞬で死ぬ方法なら受け入れるんですよね?」


 デリ子の問いかけに、ゆっくりと頷く。たしかに、昨日遊んだ際にそう言っていた。どこで会話を交わしたのかはあまり思い出せないが、やり取りの大半はスマートフォンのメモに書き起こしているので、間違いない。みほろがヘルちゃんに相談したのだろう。


「退治には、福の神と同等の御利益をぶつけないといけません。私では到底足りませんが……やおよろズ全員なら、なんとかなります」


 デリ子の声は、明らかに震えていた。


「私達は新米のポンコツですが、千晃さんとの契約を反故にすれば、他の神と同じように天罰が下ります。その威力も足してしまえば、なんとか退治できるはずなんです」


 声だけじゃない。小さな手が、小さな身体が、小刻みに震えている。この作戦は、希望的観測の上に奇跡を願うような、極めて勝算の低いものなのだろう。デリ子の言葉は、不安に負けそうな自分を鼓舞するようだった。


「その場合、やおよろズは」

「成功しようが、失敗しようが、全員死にます」

「そんなの協力できるわけ」

「――やるしかないんですよ。千晃さん、お願いします。陽向さんやママさんには、役目を終えて帰ったとでも伝えてください」


 デリ子はそう言い残し、ベランダを後にする。古着屋で購入したばかりのTシャツが、物干し竿にぶら下がったまま風に揺れていた。


 重い気持ちを抱えたまま登校すると、いの一番にみほろが声を掛けてくる。なんでも、ヘルちゃんが朝から居ないらしい。デリ子と待ち合わせをしているのかもしれない。俺は今朝の話を噛み砕いて伝える。話し終える前に、みほろが遮ってきた。


「ちあきち、連れ戻そうよ」

「それだけじゃ駄目だ。また同じことを繰り返す」

「だったら、風花に頼んで……」


 そう言いかけたみほろの語気が、次第に弱くなる。茶山さんに頼んだところで、事態が好転しないのを理解しているようだった。むしろ、乗り気になって吉田神社に向かってしまう恐れがある。何か手はないかと考えていると、窓の向こうを大量の鳩が通過した。青空を背に、くるりと旋回する鳩は妙に統制されている。


「ちあきち。あの鳩って」


 デリ子の鳩だ。そう気が付いた瞬間、俺は廊下へ駆け出していた。あの鳩は、恐らく伝書鳩の役割だ。メッセージを受け取ってしまえば、茶山さんは学校を抜け出して吉田神社へと向かうだろう。しかし、教室を一つ横切ったところで、加速する思考が止まってしまう。茶山さんのクラスが、何組なのかわからない。俺は足を止め、追い付いてきたみほろに質問する。


「茶山さんって、何組だった?」

「風花のクラスは、たしか」


 みほろの表情が、徐々に青ざめていく。思い出せないのだ。


「とりあえず、吉田神社に先回りしよう」


 俺の提案にみほろが頷く。何か起きるとしたら、大元宮がある場所に違いない。俺とみほろは担任の静止を振り切り、校舎へと飛び出して北大路通りを東の方向へ走る。勢いそのままにバス停へ辿り着くと、あと一分で目的のバスが到着する絶妙のタイミングだった。だが、息を整えながら待機しても、バスが来る気配がない。市バスが数分遅れるのは珍しくないが、十分以上の遅延は稀だ。SNSで検索してみると、すぐに理由が判明した。下鴨しもがもの交差点で、大規模な事故が発生している。


「駄目だ、走っていくしかない」


 どれだけ急いでも、ここから三十分はかかるだろう。だが、交通機関が使えないのは茶山さんも同じだ。みほろも異論は無いようで、足の筋をぐっぐと伸ばしている。足首をくるくると回し、激走に備えていると、目の前を一台のタクシーが通過した。中に居たのは、見慣れた制服を着た、どこかで見た覚えのある女子生徒。


 茶山風花。


 憂いを帯びた横顔を目にした瞬間、記憶が奔流する。タクシーはすぐに道を折れ南下していく。間違いなく、吉田神社に向かっているはずだ。


「みほろ、お金持ってたりするか」

「……カツアゲ?」

「違う。あのタクシーに茶山さんが乗ってた」

「そっか。財布かぁ。教室に忘れてきたかも」


 みほろはポケットをぱんぱんと叩き、かぶりを振った。タクシーに乗れないとなれば、先着されるのは明白だ。一秒でも早く、吉田神社に辿り着くしかない。俺とみほろはアスファルトを蹴り、勢い良く北大路通りを走り抜ける。みほろは思いの外足が早く、俺の全力疾走にも問題なく付いてくる。それどころか、俺に合わせている様子さえ窺える。不甲斐なさを振り払い、限界を絞り出そうとした瞬間、視界がくるりと反転した。


「ちあきち!」


 背中に衝撃が襲いくる。肺の中の空気が押し出され、呼吸がままならない。何が起きたのか。痛みを堪えながら視線を動かすと、ころころと転がる空き缶が顔に当たった。まさか、こんなものを踏んづけたのか。ありえない。だが、御利益が絡むと話は異なる。


「無事?」

「なんとかな」

「なにかに、邪魔されてる気がする」


 みほろが口にした不安に、そうかもしれんと同意した。ここから先は、日常に潜むすべてのものが凶器と化して襲いくる可能性がある。俺はみほろに肩を借りつつ、ふらふらと立ち上がった。痛みは酷いが足は動く。


「気をつけつつ、急ぐしかない」


 身体のダメージを確認しながら、俺は呟いた。その瞬間、電柱の側に手向けられた白い花束が、風でふわりと起き上がった気がした。


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