お兄ちゃんが加齢臭に包まれてもいいのか
一乗寺の夕闇を切り裂くように伸びる桃色の糸は、瀟洒な書店の中へと繋がっていた。アルバイトをしているのか、客として訪れているのかわからないが、福の神はここにいるらしい。
「さて、作戦会議や。まあ、おっちゃんが話をするだけで、ある程度は片付くと思うけどな」
そう呟くミーさんの瞳は、小さく揺れている。
「福の神と、知り合いだったりするんですか」
「まあ、そんなとこや」
「じゃあ、顔がさしますよね。俺が行ったほうがいいんじゃ」
「ええねんええねん」
自信が窺える声色ではあるが、何かがおかしい。
妙な居心地の悪さを覚えつつ、ミーさんと距離を取って入店する。桃色の糸を目で辿ると、一人の女の子と繋がっていた。すらりとした体型。背は高いが大人には見えない。俺と同い年くらいだろうか。遠くて顔がよくわからないので、本棚で視線を切りながら近寄ってみる。目鼻立ちが確認できる距離になると、どこかで見た顔だと気が付いた。
確か、隣のクラスの
本の隙間からじっくりと観察する。反対側から迂回するように接近していたミーさんが、茶山さんの前に立った。両者の共通点は二足歩行という点しか存在せず、深窓の令嬢が言語を理解するゴリラと出会ったような趣さえ感じてしまう。
「久しぶりやな、ケミカル・ディー・ジェイ」
え、なんて?
ミーさんの口から飛び出したのは、茶山さんの本名だろうか。いや、なんだその名前。かつて一世を風靡したサビで踊るDJなのか、海賊王がモチーフなのかは知らないが、どちらにせよモンキーである。俺が無言でツッコミを入れていると、茶山さんがぷるぷると震え出す。数秒の間を置いて、薄い唇から言葉が紡がれた。
「なにしに来たの……お父さん」
オトウサン。
衝撃が強すぎて、呼吸さえ忘れてしまう。
「ジェイ。なんで逃げたんや」
「私は、もうそんな名前じゃない」
「ハッ、なにをふざけてるねん」
「ふざけてない、今の私は
「人間の真似事しても、神去病は治らへんぞ」
「――うるさい。何百年も家族をほったらかしたくせに、いまさら父親ぶらないでよ!」
店内に大声が響き渡る。周りの客が、何事かと二人を凝視する。これ以上の接触は無理だろう。ミーさんも同じ結論に至ったのか「また来るわ」と言い残し、踵を返した。茶山さんは、大きな背中を涙目で睨みつけている。
「私が……なにをしたって言うの」
ミーさんを追いかけようとした刹那、か細い言葉が耳に届く。心臓をきゅっと掴まれたような、やり場のない感情が全身を支配した。
書店の斜向かいに建つ、ドラッグストアの駐輪場。ミーさんは煙草を咥えたまま、顔を歪ませて肛門をつくる。
「カッコ悪いとこ見せてもうたな」
「いえ……親子だったんですね」
「ああ、お察しの通りの関係性やけどな」
看板のライトが、ミーさんの横顔を照らしている。辺りはすっかり日が落ちており、夜の
「それより、このままやとマズいな。ジェイ……いや、このさい風花でええか。アイツはただ逃げてるだけやと思ってたけど、人間界に溶け込む準備を整えてたみたいやわ。もっとゆうたら、神去病で間違いない。吹っ掛けただけで、あんだけ怒るんやからな」
煙草の煙が舞う。ミーさんはざらついた声で「デリ子ちゃん達にも隠されへんわなぁ」と、観念したように付け加えた。表情から感情は窺えないが、なにやら思い詰めているようにも見える。
「……ちょっと話を纏めよか、混乱してるやろ?」
「はい、少し」
ミーさんの提案を受け入れ、現状を整理する。
福の神こと茶山風花は、天界で神去病を患っていると自覚した。信仰心を蓄積できずに忘れ去られていく病気であり、治療法は確立されていない。患うと最後、神でも人間でもない、災いをばら撒く存在に成り果てる不治の病。この病を患った神は、反転した御利益が作用しないよう天界の奥地に隔離される。しかし、茶山さんは受け入れずに人間界へと逃亡した。
「御利益が反転する一歩手前で、風花は因果を捻じ曲げて自分の居場所を作り上げたんやろな。ただの高校生として、茶山風花として生活できる隠れ家を人間界に生成した。契約する相手もおらんはずやのにな。ホンマ、バケモンやわ」
神々の御利益は因果を変える。とはいえ、限度がある。
ここまで都合良く人間界に介入できる神は、そうそう存在しないらしい。茶山さんの御利益は、人間の思考や行動パターンまで捻じ曲げてしまうほど強い。百年に一人の逸材と評される天才だからこそ成功したのだと、ミーさんは語った。
「細々と生活するんは可能ちゃうか。風花自身が、不幸をばら撒く罪悪感に耐えられたらの話やけどな」
夜風が吹いて、ミーさんの少ない頭髪を乱す。
「まあ、おっちゃん等にしてみたら好都合やわ。人間として生活しとるなら、まったく認識できんくなるって事態には陥らんと思う。急がなアカンのは同じやけど」
ミーさんは少し安堵したような表情を見せる。だが、不可視の厄災と化す最悪のケースを回避しただけで、危機的状況には変わらない。
「それに……認識できんくなったとはいえ、風花は忘れ去られる存在であることには変わらん」
その言葉に疑問を抱く。俺達の世界で人間として生きているならば、信仰心が薄れて忘れられることもないのではないか。放置された神社ならともかく、学校やバイト先で顔を合わせる相手を忘れたりはしない。
「ミーさん。俺には、覚えていたものを突然忘れてしまうのが理解できないです。本当にそんなことが有り得るのですか?」
「今日、風花と会ってるんやろ? どうや。何を話して、どんな顔してたか、ちゃんと思い出せるか?」
逡巡は、呼吸が止まるほどの衝撃に変わる。
茶山さんとは確かに体育の授業で一緒になった。しかし、何を話したのかわからない。表情などもってのほかだ。数時間前の話なのに、まったく思い出せない。
「たぶん、思い出されへんやろ。しかも――千晃くんは風花と以前出会ってるはずやで」
その言葉は、追い打ちのように襲い掛かる。俺はいつ茶山さんと出会っていたのだろうか。
「これでもまだ、神去病の初期段階やわ。進行すればするほど、忘却が顕著になっていく。つまり、おっちゃん等が得た風花の情報も、いつまで保つかわからん。忘れるたびに調べたらええかもしれんけど、堂々巡りになるから解決は遠のくわな」
物忘れとは異なる、記憶の消失。自分の身に起きた現象を受け入れることができず、言葉を発せなかった。
「今日のところは帰ろか。デリ子ちゃんと作戦会議や。神去病も隠されへんわ。あ、でもデリ子ちゃんには親子とか言わんといてな」
「どうしてですか」
前を歩いていたミーさんが、ねっとりとした笑顔でこちらに振り返る。
「せやなぁ。今明かせることは、やおよろズは新米の寄せ集めではないってことだけやな」
煙草の残り香が舞う。デリ子は、やおよろズを寄せ集めだと言っていた。しかし、ミーさんはポンコツの枠に該当しない気がした。神としての資質を知らないのでなんともいえないが、今日の言動から察すれば優秀な気がする。やおよろズとは一体なんなのだろうか。
空腹を嘆く胃袋を宥めながら玄関ドアを開くと、奥からぱたぱたと陽向が駆けてきた。天使の如き愛らしさに、疲れや心労はすべて吹き飛んだ。
「おかえり、ちあ……」
陽向の言葉が途切れる。目線を辿るとミーさんを捉えていた。母さんがおかしいだけで、これが正しい反応なのだろう。
「え。だれ、でございますか」
「デリ子ちゃんと同じ神様やで。よろしゅうな、お嬢ちゃん」
「さ、さようでございますか」
陽向はぎこちない笑顔で応え、俺を手招きしながら後退する。
「ほ、ホントにあの人は神様なの?」
ミーさんに聞こえないように、小声で囁かれた言葉。あの容姿で神様だと自称されても信じられない気持ちはわかる。だが、残念ながら真実なのだ。
「健康運の神様だとよ」
「へぇ……見かけによらないね」
「たしかに、沼で暮らす化物みたいだけどな」
「そこまで言ってないよ」
陽向が呆れるように息を吐く。
「いや、それより、あの人もうちに泊まるの?」
「そうなるな」
遠ざけていた問題を突きつけられた。むろん陽向の部屋に押し込むわけにもいかず、選択肢は限られてくる。ベランダか物置しかない。俺はその意向を伝えるが、陽向は意外にも異議を唱えた。
「この時期ってまだ寒いし、死んじゃったりしないかな」
陽向の優しさが滲み出る。たしかに、野宿するにはギリギリの気温だ。もしミーさんが凍死してしまえば、久美浜家に中年男性の遺体が転がる結末となる。穏やかでない。
「でも、他に良い場所ないし」
「千晃にいの部屋でいいじゃん」
「お兄ちゃんが加齢臭に包まれてもいいのか」
「大きいクマさんだと思えば大丈夫だよ」
「くまのミーさんだと、割り切れるほど可愛くはない」
同意からか、陽向は口を噤んだ。ミーさんは熊っぽいが、それはデフォルメされた愛らしさではなく素材本来の熊っぽさだ。
「ま、まあ、そんなことは置いといて。捜査の進展はあったの?」
お兄ちゃんが中年男性の腕枕を涙で濡らすのは、どうやら些事らしい。俺は肩を落としつつ今日の結果を報告する。ミーさんと茶山さんが親子なのは伏せなければいけないので、そのあたりは適当に濁して伝える。陽向の口はあまり堅くないのだ。
「そっか。お疲れ様。じゃ、ご飯食べよっか」
「待っててくれたのか」
「お母さんとデリちゃんは先に食べちゃったけどね」
俺はポンコツに呆れながら、陽向と共に一階に降りる。テーブルの上を見やると、二人分の肉じゃががサランラップで保護されていた。
「あ、おかえりなさぁい」
間延びした声。ソファに寝転びながら寛ぐデリ子は、もう何年もこの家に住んでいるかのように馴染んでいる。俺は肉じゃがの皿を電子レンジに突っ込みながら、デリ子に質問する。
「あれ、ミーさんはどこに行ったの」
「パパさんの部屋にいきましたよ。お酒飲むぞって」
意気投合が早すぎる。アルコールを摂取した中年男性の思考能力に期待できやしないので、作戦会議は明日に持ち越しだろう。それにしても、俺の家族の適応能力の高さは、一体どこからくるのか。両親に疑問を抱きつつ、温まった肉じゃがを陽向の前に差し出した。
「それより千晃さん、聞いてくださいよ。私のモニュメントが誕生するらしいです」
「はいはい、すごいすごい」
「あ、信じてませんね。おざなりー!」
デリ子の頭を手で押しやり、自分の肉じゃがを電子レンジに突っ込む。何がどうなれば、こんなポンコツのモニュメントが誕生するのだ。
「嘘だと思うなら、陽向さんに聞いてみてくださいよ」
不満そうに口を尖らせるデリ子。半信半疑で陽向に視線を移すと、咀嚼しながらゆっくりと頷いている。デリ子に賛同しているのか、味が染みたじゃがいもを堪能しているのか判別がつかない。しばらく無言が続いたのち、陽向が「デリちゃんの話、本当だよ」と漏らした。
「ふふ、どうですか。私の威厳に恐れ入りましたか」
「一体、何をやらかしたんだ」
「サバが落ちてきたので、人間を避難させました」
「本当に何をやらかしたんだ」
想像力の限界を超えている。どういうことかと白旗を上げると、陽向から助け舟が出された。なんでも、アーケード商店街の屋根に吊り下げられたモニュメントのことらしい。俺はようやく、
「お母さん、午前中にデリちゃんと出町柳まで出掛けてたみたい。サバを吊り下げているワイヤーが外れるのにいち早く気がついて、ヒーローみたいな立ち回りをしていたらしいよ」
「それで、デリ子を奉ってモニュメントを作ろうって話になったのか。景気の良い話だな」
陽向の正面に座り、ホカホカに湯気を放つ肉じゃがを口に放り込む。危機を察知したというより、大きなモニュメントをぼけっと眺めていたら、たまたま気が付いたに違いない。
「お母さんが『うちの神は凄いわ』って騒いでたみたい」
「待て。デリ子の正体をバラして回ったのか?」
「らしいよ。やばいよね」
「ふっふっふ。あの商店街の皆様は、話がわかる人間でしたよ」
じとりと動く眼球が「誰かさんと違って」と言葉を放っている。デコピンの刑に処す。それにしても、デリ子の正体を言いふらす母さんもおかしいが、鵜呑みにする商店街の人々もおかしい。なんというか、こいつを中心に世界が回っているようではないか。
「すごいでしょう。褒めてくださいよ」
デリ子がぴょんぴょんと跳ね回るので、適当に頭を撫でてやる。
「……それより、ミーさんから詳細は聞いたのか」
「はい。ご苦労さまでした」
「次の一手はどうするんだ」
デリ子は「そうですねぇ」と言いながら、冷凍庫の扉を開いて棒アイスを取り出した。いくらなんでも、馴染みすぎている。
「とりあえず、仲良くなってください。最終的には吉田神社におびき寄せる必要があるのですが、力づくで連行したら誘拐になりますからね」
たしかに、茶山風花が人間として存在しているならば、れっきとした犯罪にあたる。
「ただ――神去病を患っているのが非常に厄介です。私達がいつ福の神を忘れるかわかりませんし、どのタイミングで不幸に見舞われるかもわかりません。できる限り、短期決着に持ち込みたいところですね」
俺はデリ子の話に頷きながら、じゃがいもを口に放り込む。予想以上の熱さが口内を襲い、思わず吐き出してしまう。確実に、火傷してしまった。慌ててお茶を含みながら、そういえばまだ健康運が悪いんだっけと思い出した。
「――なので、明日にしましょう」
「え、なにが?」
「だから、福の神との決着ですよ。明日の夕方までに交流を深めて、吉田神社の社殿に連れてきてください。私とヘルちゃんは準備があるので、ミーさんと一緒に」
平然と無茶を言いやがる。ミーさんとの確執を察する限り、彼には期待できない。俺が単独で吉田神社に連行するのも難しい。ろくに話したことのない相手を、あの場所まで誘導する口実が見当たらない。
「いくら俺がイケメンとはいえ厳しいぞ」
「否定できないギリギリのラインで反応に困りますね」
「うわ、久々に出た。千晃にいのナルシ発言」
陽向が顔をしかめると、デリ子も同じ表情を作る。
「……こんなことを、頻繁に言ってたのですか」
「うん。千晃にいって実はめちゃくちゃ残念だから」
「外ではそんな素振りを見せてないですよ」
「たぶん、内弁慶なんだと思うよ」
ぎゃあぎゃあと悪口で盛り上がっているが、せめて本人が居ないところでやってほしい。俺はわざとらしく音を立てて茶を啜る。やかんの底の部分を注いでしまったせいか、苦味がじんわりと浸透した。
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