ガンジスの風とか
次の日の朝、一階に降りるとミーさんが死人のような目で水を舐めていた。
「あぁ……千晃くんか。ゆうべはすまんな」
謝罪と共に漂うアルコール臭が、容赦なく鼻に突き刺さる。
「今日はァ、風花と……ヒック」
「とりあえず夕方まで寝てください」
ぴしゃり言い放つと同時に、どこで夜を明かしたのかが気になった。質問してみると、どうやら父さんの部屋で寝袋に包まっていたらしい。そういえば使わなくなったキャンプ用品があったなぁと思い出しながら、食パンを二枚取り出してトースターに放り込む。
「あぁ……頭痛い。今日も、運悪いで。すまん」
二日酔いも御利益に影響するのかと呆れてしまう。しかし、裏返った健康運にも慣れてきた自分がいる。怪獣の如き歩幅で退出するミーさんを見送ると、入れ替わるように陽向がリビングにやってきた。目を眠そうに擦りながら、ゆっくりと椅子に座る。
「おはよ。陽向のぶんも焼いてるぞ」
「ふぁい。ありがと」
陽向の分の皿を用意する。そういえば、母さんとデリ子の姿を見かけない。昨日は早起きだったが、今朝はまだ眠っているのだろうか。そんなことをぼんやり考えていると、廊下からバタバタとした足音が聞こえてきた。
「おはようございます。どうですか、これ!」
リビングに駆け込んできたデリ子が、後頭部を見せるように反転する。うなじ付近で一つ結われた大きなポニーテールが、もっさりと揺れた。書道のパフォーマンスで用いられる、巨大な筆みたいだ。
「おお、デリちゃんポニーテールだ」
「ママさんに整えてもらいました!」
「そっかそっか、かあいいねぇ」
陽向が半開きの瞳をさらに細めて、にっこり微笑む。デリ子はその態度に気を良くしたのか、妙なステップを踏みながら俺のほうに近寄ってくる。青い瞳をキラキラと輝いており、明らかに褒められるのを待っている。
「……いいんじゃない?」
「見せ甲斐がないですね」
どうやら期待していた言葉ではなかったようで、「これだから千晃さんは」と悪態をつかれる。あろうことか、デリ子の言葉に陽向も賛同し、遅れてリビングにやってきた母さんまでもが深く頷く始末である。肩身が狭い。居心地の悪さから逃げるように、トーストを咀嚼して牛乳で流し込む。洗面台へ向かい、顔を洗い、歯を磨き、寝癖を整えたところでインターホンが鳴った。こんな朝っぱらから誰だろうと、覗き穴から外を確認する。扉の前には、制服を着たみほろと、私服姿のヘルちゃんが立っていた。
「おはよ。ちあきち」
「おう……まだ学校に向かうのは早くないか?」
「ヘルちゃんが、見てほしそうにしてたから」
ヘルちゃんが照れ臭そうにくるりと回る。顔を覆い隠すような前髪は目の上で切り揃えられており、丸さを残したミディアムヘアに仕上がっている。オーバーサイズの黒いパーカーも、カジュアルでよく似合っていた。初対面で抱いた陰気臭さは、すっかり霧散している。
「いいな。流行りのモデルみたい。映えそうだ」
さきほどの失敗を踏まえ、ストレートに褒めてみた。しかし、ヘルちゃんはどこか不満そうな目付きで俺を睨んでくる。
「ヘルちゃん、流行に迎合するのは好きじゃないらしいよ。インスタも嫌いだって」
みほろが小声で補足する。知らんがな。乙女心の難しさに頭を抱えていると、俺の背中に何かが飛び乗ってきた。桃色のもさもさした髪が視界の端に映ったので、おそらくデリ子だろう。
「お、ヘルちゃんが格好良くなってるじゃないですか。浜田朱里様みたいですよ」
ヘルちゃんはたいそう喜んだ様子を見せているが、誰なのか全くわからない。気になったので、スマートフォンで検索してみる。どうやら昔のアイドル歌手のようだ。ずっと疑問だったが、山下達郎といい、大貫妙子といい、神々の趣味はいささかレトロすぎやしないか。その点を指摘してみると、予想外の言葉が返ってきた。
「神はシティポップや昭和歌謡しか聴けませんよ」
「なんのこだわりだよ」
「こだわりではなく、体質かもしれません。音楽は心音ですから。特に私にとっての山下達郎様は神ですね」
「神が神認定すんな、ややこしい」
「それほど凄いってことですよ! 山下達郎様のトラックは数少ない人間の遺産ですから」
評論家かぶれのような言葉である。そこで終われば良かったのだが、デリ子の音楽談義はヒートアップしてしまい、よせばいいのに他ジャンルの音楽を貶しはじめた。
これはマズイとみほろに視線を移した瞬間、燃料が投下される。
「――UKロックの良さがわからないのは可哀想」
この発言により、デリ子とみほろの音楽戦争の火蓋が切って落とされた。飛び交う知識の弾丸に、俺はいよいよ恐怖を覚えてしまう。振り落とすようにデリ子を引き剥がし、家の中へと逃亡した。どうやら、今日はどこにいようとも、肩身が狭い一日らしい。ひいひいと息を切らしながら二階へ上がると、準備を終えたであろう陽向とすれ違う。
「外うるさくない? 誰かきてるの?」
「ああ、みほろとヘルちゃん……で伝わるかな」
「千晃にいの彼女さんと、デリちゃんのお友達だ」
訂正する間もなく、陽向は階段を駆け下りる。少し時間を置いてから、「めちゃくちゃ美人さんだ!」と大きな声が轟いた。なんというか、デリ子達が来てからの久美浜家は、平穏とは程遠い環境になってしまった。制服を纏い、左手の甲の刻印を包帯で隠し、戦争の様子を窺いつつ、恐る恐る玄関まで向かう。流れ弾を覚悟していたが、予想に反して和やかなムードが漂っていた。
「ほら、千晃にい。皆で学校にいこ」
四人が笑顔をこちらに向ける。しかし、陽向の呼びかけに、聞き捨てならない単語が含まれているのを俺は逃さなかった。
「……皆で?」
「はい。今日は私達も学校に向かいます」
耳を疑った。デリ子は「敵情視察ですよ」と意気込んでいるが、こんなちんちくりんを校内に連れ込むのは不可能だ。冷静に考えろと諭してみるが、商店街の一件ですっかり有頂天になっている様子で、聞く耳をもちやしない。
「私のような素晴らしい神が、わざわざ足を運ぶのですよ。レッドカーペットで出迎えて然るべきです。当初はミーさんに行ってもらう予定だったんですけど、二日酔いで死んでますからね」
あまりにも無謀な作戦に目眩がした。ミーさんが校舎に忍びこめば、大騒動に発展してしまうのは想像に難くない。人里に下りてきた熊よろしく、猟銃で射殺されても文句は言えないだろう。猟友会に思いを馳せていると、いつの間にやら女子陣は三条にオープンしたカフェの話題で盛り上がっていた。華やかな話題についていけず後ろで黙りこくっていると、デリ子がくるりと振り返る。
「あ、千晃さん。今日はもう一人合流しますよ。体調が回復したらしいので」
「……今度はどんな神だ」
「女好きの、クソみてぇな神ですよ。本当は朝から合流するはずだったのですが――たぶん、どこかで尻を追い掛け回してると思います」
デリ子の口ぶりから察するに、合流するのは便器ホストのようだ。陽向やみほろに一切近づけまいと、固く誓った。
「あ、お尻で思い出したけど昨日デリちゃんがさ」
「ちょっと、それは言わない約束でしょう」
「ひなたん。気になるから続けて」
「駄目です、絶対に駄目です!」
デリ子と陽向が軽口を言い合い、みほろが微笑む。ヘルちゃんが、ジェスチャーを用いて感情を豊かに表現している。ありふれた日常の一頁なのに、眺めていると涙が抑えられなくなった。明るい声が、車の音に掻き消されていく。白い花束。誰かの涙。無機質な病室。予知夢の如く、脳内に流れ込む灰色の景色。
「え、千晃にい。なんで泣いてるの?」
俺の泣き顔を目ざとく捉えた陽向が、半笑いで覗き込んでくる。
「ああ、なんでもない」
まただ。以前より鮮明で、より具体的なワンシーン。
「千晃にい、大丈夫?」
俺は笑って誤魔化す。この五人で笑い合えるのが最後の気がしたなんて、言えやしなかった。
◆
「ちあきち、おなかすいた」
昼休みを告げるチャイムと共に、みほろが席にやってきた。互いに学食を利用するタイプの生徒なので、いつの間にやら昼食を共にするのが当たり前となった。抑圧から開放された生徒の声で賑わう廊下を抜け、一階の学食を目指す。
「みほろは今日もカレーか?」
「うん。感じるから」
「なにを」
「ガンジスの風とか」
きりっとした目付きで言い放つが、どうせ適当に喋っているのだろう。学食のカレーは甘口で、どちらかといえば和風の味付けだ。星型にくり抜かれた人参から、ガンジスの風を感じるのは難しい。
「それよりさ、今なにしてるんだろうね」
「……デリ子とヘルちゃんか?」
「うん。心配ないとは思うけど」
――じゃ、私達は別ルートで潜入しますので。
バスを降りたところで、デリ子はこう宣言した。問題を起こすなよと釘を刺しておいたが、へらへらとした笑みを寄越すだけであった。まあ、騒動を起こさなければなんでもいい。問題は福の神だ。茶山風花は、一年B組の生徒である。それは間違いないのだが、すでに顔を思い出せない。
「ムズカシイ顔してるね」
「無理難題を突き付けられているからなあ」
みほろには、すでに現状を伝えている。できるだけ協力するよと申し出てくれたが、ことコミュニケーションにおいてはアテにならない。短期間で女子を籠絡できるような人物が、どこかにいないものだろうか。そんなご都合主義な考えを遊ばせながら、男子トイレの前を通過する。すっきりした表情で飛び出してくる男子生徒を避けたところで、みほろが「あ」と大きな声を出した。
「そうだ、ホストの神様にナンパさせてみようよ」
口角を上げ、にたりと悪い顔。
ナンパか。デリ子はたしか、年がら年中尻を追い掛け回してるクソみてぇな野郎だと評していた。尻の確保率はさておき、異性との会話に慣れているのは間違いないだろう。しかし、少なからず問題がある。
「その神が、茶山さんの好みとは限らない」
タイプでない男に言い寄られたとて、鬱陶しいだけに違いない。そもそも、神の立場を放棄した身で色恋にうつつを抜かすだろうか。
「大丈夫だよ。ちあきちがいる」
「――俺?」
どういうことかと、深堀りしてみる。みほろ曰く、ナンパにおいてトーク担当とビジュアル担当が分かれているのは、戦略的かつポピュラーな配置らしい。
「私はインフルエンサーだから、よく声を掛けられるの」
みほろは真顔で言い放つ。また適当なことを言っているのだろう。俺は雑に聞き流し、続きを目で促す。
「ちあきちはイケメン……に見えなくもないし」
なるほど、俺がビジュアル担当らしい。イケメンだと断言してほしいところだが、悪い印象でないのは純粋に喜んでよいだろう。みほろが俺の顔を凝視しながら首を何度も傾げているが、気にしないようにする。
「人間のナンパ術が、神に通用するかな」
「御利益がある。デリ子ちゃんのやつ」
「ああ、そうか。引き寄せられるのか」
茶山さんが人間に近い存在である以上、デリ子の御利益は作用する。それならば、慣れないナンパでも成功するかもしれない。気は進まないが、なりふり構っていられない段階なのは確かだ。俺は「やるだけやってみるか」と、みほろの案に乗る決意を固めた。
「……でも、本気で口説いたらいやかも」
みほろが歩幅を合わせながら、ぽつり呟いた。破壊力が強すぎて、心臓が口から飛び出そうになるが、なんとか飲み下して元の位置に戻す。そういえば、みほろともデリ子の御利益で繋がっていたなと思い出し、途端に恥ずかしくなった。
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