山下達郎だ
結論から言うと、柵を乗り越える必要はなかった。本来封鎖されているはずの大本宮が開放されていたからだ。まるで、吉田神社が意思を持ち、俺の到来を待ちわびていたようではないか。疑心暗鬼に陥りながら門を潜ると、抜けるような青空が広がる。忘れ去られた空間に足を踏み入れた感覚。八角形の社殿に近づくと、古いラジカセが放置されているのを認めた。いまや朝のラジオ体操でも見かけない古代遺産だろう。ぼんやりと値踏みをしていると、突如視界の端から小さな女の子が駆けてきた。
驚きのあまり、みほろの手を咄嗟に掴んでしまう。
「大丈夫、近所の子だと思うよ」
みほろは微笑みながら、先導するように社殿へと近寄る。クリアな思考を取り戻すと、先刻の女の子がラジカセのスイッチをむにむに押していることに気がついた。曲が流れる。女の子はホッとしたような表情を見せ、ぺこりと頭を下げる。咄嗟に振り返るが、他には誰も居ない。どうやら俺達に頭を下げたようだ。しかし、理由がわからない。呆気に取られていると、耳馴染みのある声が流れた。
「山下達郎だ」
みほろが呟く。確かに、ラジオから山下達郎の声がする。アニメ映画のタイタップで使用されていた、夏を彷彿とさせる曲だ。なぜこの女の子は、山下達郎を流したのだろう。そもそも、誰なんだ。腰まで伸びた長い髪が陰気臭く、前髪の隙間から覗く目は不健康そうである。小学校高学年くらいの年齢に見えるが、徹夜続きの勤め人のような疲労感も窺える。一言でいえば、不気味なのだ。
「サビがいいよね。これ」
みほろの声で山下達郎に意識を戻す。なぜこの状況で、音楽を堪能できるのだ。カフェで流れる有線に耳を傾けるのとはわけが違う。山下達郎と吉田神社。共通点の欠片も無い組み合わせに、未知の恐怖が膨れあがる。頬杖をつく山下達郎の宣材写真が、後光を浴びながら脳内で巨大化していく。特徴的な声と洗練されたメロディが、賛美歌のように頭の中で鳴り響く。熱唱する達郎、開放された大元宮。理解不能の状況が目眩を運ぶ。俺の気が狂う一歩手前で、社殿の扉が勢いよく開いた。
「なんッで一人で来ないんですかぁぁッ!」
劈くような絶叫だった。社殿の中から飛び出てきたのは、桃色の髪をした女の子。胸のあたりまで伸びた毛先は縦横無尽に乱れ、セットしているのか寝癖なのか判別がつかない。
「……まあ、この人なら別に聞かれてもいいか。いや、それよりです。来るのが遅すぎますよ。もう二ヶ月以上経ってるんですよ。何を呑気に生活してるんですか!」
早口でまくし立てながら、俺の前にドスドスと歩み寄ってくる。毛量の多さで誤魔化されていたが、思いの外背が低い。先程の陰気臭い女の子と、同い年くらいだろうか。
「千晃さんの最近の運勢が順調なのは私のお陰なんですよ。お賽銭の一つくらい投げたらどうですか。あ、ヘルちゃん。もう山下達郎様の曲を止めてもらって構いませんよ」
誰なんだ。なぜ俺の名前を知っている。山下達郎は出囃子なのか。
何一つ状況が飲み込めない俺に反して、みほろが「神様かあ」と納得したように頷く。もしや、このちんちくりんが神とでも言いたいのだろうか。確かに、神職が纏うような浅葱色の装束を着ているが、威厳は微塵も感じられない。いや、待て。この装束は、節分祭の妙な集団と同じではないか。衝撃の事実に気づいた瞬間、背中を冷たい汗が伝っていく。頭に浮かぶ可能性を否定したいが、うまく振り払えない。
「はい、そこのピアスガールさん正解です。私達は神です」
嘘だろ、そんなわけがない。
「あ、その顔。まだ半信半疑ですね。これだから人間は」
呆れたように笑いつつ、桃色の髪の女の子は肩を竦める。
「千晃さん。ここ二ヶ月間の運勢、どうでした?」
「……奇妙としか言えない幸運が続いていた」
「そうでしょう。私達が御利益を授けてましたからね」
「な、なんで俺にそんなことを」
「可哀想なくらい、空っぽだったので」
「空っぽ……?」
「参拝するときも、心の中で言ってたじゃないですか。運の良し悪しに悩むほど、人生に波が無かったって」
「なぜ、それを」
「だから、私は神なんですってば。だいたい、波が無いなんておかしいですよ。普通、人間は何かしらの御利益や加護を授かって生きていくものですから。まあ、数百年に一度くらい、千晃さんみたいな空っぽの人間が存在するらしいですけどね」
平然と言ってのける。たしかに、運が良いとか悪いとか、そういった不確定要素に頭を悩ませることは一度も無かった。つまり、俺は御利益や加護がすり抜けていく体質とでも言うのだろうか。そんなことはないと反論したかったが、どの記憶を漁っても否定材料が見当たらない。
「思い当たる節があるようですね。信じました?」
「認めたくないが――認めざるを得ない」
神様とやらが、満足そうに頷く。
「さて、私達はある問題に直面しています。それは人間の力を借りて、人間界を捜索しないと解決できない問題です。だから、ちょうど良い人材を節分祭で探していたんですよ。それが貴方です」
びしっと俺を指差し宣言する。
「ただ……誤算がありました。千晃さんはマイナス思考すぎます。普通、すぐに感謝の気持ちを伝えに来るのが筋でしょうよ。きっかけは吉田神社だって気づいてましたよね? ならばなぜ来ない、なぜ二ヶ月も放置した。私は悲しいです」
泣き真似をしつつ、ちらちらと俺の様子を窺ってくる。謝れというサインだろうか。不本意ではあるが、仕方なく頭を下げると「わかれば良し」と微笑みやがる。
「それにしても、このタイミングで来るのは千晃さんらしいですね。どうせ、運気の揺り戻しが怖くなったんでしょう」
事実なので、何も言い返せないのが悔しい。
「じゃあ、ちあきちの運が悪いのも貴女のせい?」
「はい、そこのピアスガールさんまたまた正解です」
「なんで――そんなことするの」
みほろが一歩前に出る。なにやら怒っているらしく、凄まじい威圧感を放っている。桃色の髪の神様は視線を泳がせながら、後退りした。
「いや、これは私達の特徴といいますか。仕方ないんですよぉ。へへへ」
両手の指先をつんつんと合わせながら、言い訳を並べる姿はただの小学生にしか見えない。
「ヘルちゃんヘルちゃん、緊急事態です! これは、どこから説明すればいいでしょう」
桃色の髪の神様が、手を上げてぴょんぴょんと跳ねる。それを合図に、陰気臭い女の子がとことこ駆けてきた。
「ああ、そうですね。ええ、そうしましょう」
ヘルちゃんとやらが、耳打ちで何かを伝えている。声は一切漏れてこない。
「お待たせしました。まずは私達の正体から説明します」
こほんと、咳払いを置く。
「私達は、千晃さんの運気を一時的に司っているんですよ。そして私達こそが、八百万の神々の精鋭部隊で結成された組織なのです……その名は」
長い髪が、踊るように揺れる。
「やおよろズ!」
両手を上げ、片足立ちでポーズを決めやがった。それを盛り上げるように、ヘルちゃんがぱちぱちと拍手をする。名前もダサいが、ポーズもダサい。本当に、こんなポンコツが神だというのか。
「ちなみに私は、恋愛運を司る恋の神様なのです」
「で、そっちのヘルちゃんとやらは」
「この子は金運を司ってますね」
ヘルちゃんが照れくさそうに頭を下げるが、伸び切った髪や不摂生そうな見た目から判断すれば、貧乏神だと言われたほうが腑に落ちる。だいたい、神のくせに名前が地獄そのものな点も引っかかる。
「貴女にも名前があるの?」
「よくぞ聞いてくれました、ピアスガールさん」
「笠置みほろ」
「……よくぞ聞いてくれました。みほろさん」
恋の神様の瞳が、ぎらりと輝く。
「私の名は、ラブサイケ・デリ子!」
その自己紹介は、マイペース気味なみほろの言葉さえ奪い去るほどの衝撃だった。嘘みたいな名前だが、嘘をついている雰囲気ではない。それどころか、素敵な名前でしょうと誇らしげな様子さえ窺える。
「……本名なのか?」
「はい。最後の文字だけ漢字です」
本当にその名を背負って生きているのならば、笑う権利など俺達に無い。だが、もう少しこう、他にあっただろう。
「さ、挨拶はこのくらいにして、捜索しましょうか」
「待て待て。手伝うなんて言ってないし、色々と質問がある」
デリ子とやらを手で制止する。今のまま協力を申し出るのは早計だ。俺の運勢が下降している理由はおろか、何を探すのかも教わっていない。
「ああ、千晃さんに拒否権なんてないですよ」
しかし、有無を言わさぬ切り返しが飛んでくる。デリ子の青い瞳が俺を捉える。先ほどまでの緩みきった表情ではなく、真剣な眼差しである。なんだか空気が騒がしくなった気がして、思わず辺りを見渡してしまう。
「見つけられなかったら、終わりますから」
「なにが終わるんだよ」
「京都、です」
「……へ?」
「そうですね。もってあと一ヶ月ですかね。それを過ぎちゃうと、間違いなく京都の町が大変なことになります」
破滅へのカウントダウンが、あっさりと告げられる。
「ぶぇくし」
ふざけた名前の神様は、緊張感を掻き消すように大きなくしゃみを披露する。風が凪いだ大元宮は、真昼とは思えないほど静かだった。
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