第12話 エレベーター②

「んぷうっ・・うむむっ」

 それは突然だった。花田課長が手で自分の口を覆った。

 まるで吐くのを堪えているようだ。課長は次に喉を抑え、「何かおかしいな」と苦しそうな声を出した。

「大丈夫ですか?」と言おうとしたが、課長の目を見た瞬間、声が止まった。

 眼球が反転している。目を剥いているのだ。よほど苦しいのか、それとも何か別の力でそうなっているのか、分からないが、その異様さに声をかけることが躊躇われた。

 それに・・臭い。

 加齢臭に混ざって、別の匂いがする。湿気た空気の匂いだ。

 例えて言うなら、何年も滞留して動かない腐った水の匂いだ。


 更にもう一つ、おかしなことに気づいた。

 エレベーターが動いていない。

 ←の点滅が続いているのに、表示は四階のままだ。五階に行かず、じっと止まっている。こんなのは初めて見る。

 もっとおかしいのは、エレベーターは動いている感覚がある。それなのに停止している。

 これは只の故障ではない。


「うんげええっ」

 課長は大きくえずいたかと思うとガクッと跪いた。そして、何度か「んおっ」と呻いたかと思うと、何かが決壊したように胃の中のものを吐き始めた。

 思わず私は「きゃっ」と言って退いた。課長が吐き出した物が狭い床に広がったからだ。

 だが、私は足元を見て思った。

 ・・これは吐瀉物の匂いではないし、胃の中のものではない。全く違う。

 これは泥水だ。それも、何年もかけて古くなった泥水だ。


 課長はようやく顔を上げて、「白井くん、助けてくれ。わしを早く医務室に」と言った。

 そんなことを言われてもどうしていいのか分からない。

 課長の眼球は元に戻っているが、様子がおかしい。口に何か入ったまま頬をもごもご動かしている。自分でそうしているのではないように見える。誰かが課長の顔をいたぶっているのだ。

「エレベーターが止まっているんです」私は言った。

「非常ボタンを押すんだ。それくらい分からないのか!」課長は蹲ったまま怒鳴った。

 最悪の上司だ。セクハラの上にパワハラときている。

 

 私は言われる通り、非常ボタンを押した。けれど鳴っているのか鳴っていないのか、反応がない。

 私が、「非常ボタン、押しましたよ。もうすぐ誰か来るはずです」と言うと、

「押しただけじゃダメだ。長押しした上でマイクで通話するんだ」と怒鳴った。

 課長が怒鳴ると、更に顔がおかしくなった。頬がブルブルと痙攣したかと思うと、おでこにぶつぶつと出来物が現れ出した。課長はそのことに気づいていない。

 顔の事もそうだし、自分がどんな醜い心の持ち主だということにも、気づいてはいない。

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