天命のカトン
森田季節
天命のカトン
これが父様の抱いた女か。後宮でその女を見た最初の感想だった。
「よろしく、皇帝陛下」
高原の訛りがない、きれいな言葉でその女――郁久閭(いくきゅうりょ)皇后は言った。いかにも高慢で気の強そうな顔をしていた。後宮の庭に馬を入れて、乗り回していたとも聞く。皇太后がはしたないと咎めても、自分の故郷では女も馬に乗るのだとうそぶいたという。
「陛下は十三だっけ、私の五つ下ね。ずいぶんと世間は騒がしいみたいだけど、楽しくやりましょう」
「楽しめるわけがないでしょう。滅ぶのが目に見えている国の皇帝など、誰が楽しくてやるのです」
父様は反乱軍を攻めて武威を示す必要があったから、病をおして戦場に出た。そして、今月崩御した。実権を奪われたくない父様の皇后――つまり私が即位して皇太后になった継母――は次の皇帝に自分が生んだわけでもない私を指名した。武功をいくつも立てている父様の弟を皇帝にしたくなかったのだ。彼が皇帝になれば、真っ先に皇太后を処刑しただろう。
この羊の国の王女を私の皇后に選んだのも、父様の権威を少しでも私に移動させるためだ。前皇帝の後宮を引き継ぐことは儒教的には不自然でも二百年前は高原にいた私たちの国ではおかしな習慣ではない。が、あまり楽しいものではない。
「陛下はずいぶんと浮かない顔をしてらっしゃるわね。別に明日にでも殺されるわけではないでしょう? 猖獗(しょうけつ)を極める反乱軍も南の帝国も帝都まで攻めてくるのにひと月はかかるし、私の故郷の国も私が皇后になってる間は攻めてくる理由がないわ。せいぜい今を――」
私が胸元をはだけると、彼女の声も止まった。
「私は女なんです。皇太后は保身のためだけに私を男だと偽って、即位させたんですよ。父様に男子がいないからといって、叔父上を即位させれば自分の命がないから」
臣下の信頼も厚い叔父上が即位すれば、後宮で力を持っている皇太后は真っ先に粛清の対象になる。ただでさえ収まらない反乱を鎮圧するために皇室も廷臣も一丸とならねばならない事態なのだ。
皇帝が女であることを隠しているだなんて前代未聞の椿事だ。五つ上の彼女もさぞかし驚くだろう。
「ええ、とっくの昔に知ってるわ」
彼女は艶めかしく笑って告げた。
知っている……? 私は膝から崩れそうになるのをどうにかこらえた。
「まさか……。私は後宮からも隔離されたところで育てられていたはずです……」
正体が知られているなら、今すぐにでも刺客が後宮まで入ってきてもおかしくない。
「私は事実を言っただけ。そして、このままいけば、あなたはなんらかの理由で殺される。いくつか例を挙げましょうか。一、皇太后がどこかから男の赤子を連れてきて、前皇帝の忘れ形見だと言って、あなたを廃す。二、あなたの叔父の勢力があなたが女子だと気づく。どっちも、早晩あなたは殺される。三、あなたの正体がバレなくても、叔父の勢力が淡々とあなたを暗殺する。四、反乱軍が帝都を占領してあなたを拘束する。五、従軍中に戦死――」
「もういいです。全部、同じことです。滅びかけの王朝というのは、そういうものなのでしょう」
私は胡床(こしかけ)に腰を下ろす。この百五十年、いくつも王朝が勃興したが、頽勢を立て直した例は一度もない。この帝国は奇跡的に百年以上続いたが限界のようだ。中原での暮らしに慣れ過ぎて、草原を疾駆していた頃の強さは失われた。反乱を一つ収めると二つの反乱が起きて、もう手がつけられなくなっている。
「皇后、あなたがどこで話を仕入れたか知りませんが、あなたが知っている時点で、私の噂もすぐに広まるでしょう。首でも吊ってきます」
「待って。死ぬ場合を並べ立てたけど、生きる術がないとは言ってないわ」
羊の国の日に焼けた肌の皇后はいつのまにか私の腕をつかんでいた。まるで刺客のように瞬時に立ちあがっていた。
「私を信じて。私はこの世界でたった一人のあなたの味方なの」
そういえば。
これまで生きてきて、信じられる言葉を聞いたことがなかった。滅びかけの国では、ウソときれいごとと妬みばかりが耳に入ってくる。
「やけに必死ですね。まさか、父様の妻だったから、母親のつもりでいるのですか?」
「今の私はあなたの父親の閨(ねや)に入ったことはないわ。あなたの父親は病魔のせいで淫らなことができる体力すらなかった。だから、気兼ねなくあなたの皇后として振る舞うつもり」
自分の心のわだかまりが少し解けた気がした。私は父親に抱かれた女にどこか不潔なものを感じていたらしい。
「あなたは生きるのを諦めてはいる。けど、死にたいわけじゃない。生きてはいたい。それを私は心から知っている。あなたの叫びがよく聞こえるわ」
まるで見てきたように語るなと思ったが、私はその言葉にウソを感じ取れなかった。
嘆息を同意の代わりとする。
「わかりました。私が生き延びる方法を教えてください」
「まずは馬に乗る練習をはじめて。いますぐに」
確信を持った、強い瞳で皇后は言う。
「誰よりも馬を得意に操れるようになれば、この国を抜け出せる」
◇
わずかな間だが、私は懸命に馬を習った。男子のはずの皇帝が馬に乗れないほうがおかしいのだから、練習自体は変ではない。政務はどうせ継母の皇太后がとるわけだし、ちょうどよいとも言えた。
決行の日は即位して三か月後だった。
その日、私は皇后と側近を引き連れて帝都郊外の祭壇を訪れた。祭壇は天を祀る場所であり、今日も反乱軍の手によってどこかの都市が灰燼に帰しているだろうこの時代に、国家の安寧を神頼みすることは意味があるかは別として間違ってはいない。
私が祈る間、帝室ではない彼女は離れた場所にいる。そこで祭壇を睨んでいた。天は羊の国でも信仰しているだろうに。あるいは過去に羊の国と争った私の先祖を睨んでいるのだろうか。
皇帝として最後の仕事を終え、私は側近の一人にこう告げた。
「すぐに賊の鎮圧で出陣中の叔父上のところに行き、こう伝えなさい。『朕が皇帝では国を治められぬ。そなたが帝位につき、国をまとめよ。皇太后を殺せば朝廷は一つになる。朕はこの国を去る』と」
彼は信じられないという顔をしていたが、信じようが信じまいがどうでもいいことだ。
もう皇后が私の手を引いていた。
「陛下、時間がありません。行きますよ」
私たちは馬に乗って北へ走った。
遊牧民たちとの境目の砦に逃げ込むと、逃げてきた皇帝だと告げて砦の大将を信じさせたうえで、これを殺した。
「もたもたしていれば、あの大将はあなたを監禁して、自立しようとしたわ。もう少し、ゆっくりしたかったけれどね」
迷いなく大将の腹に刃物を突き立てた皇后は無感動に言った。
乗っ取った部隊でさらに北へ逃げ、遊牧民たちの土地に入った。
じわじわと遊牧民の部族を糾合し、あまりに大きくなりすぎると、副将と呼べる相手に部隊を譲り、自分たちはまた少数で逃げる。
「残り三日遅かったら、あの副将はあなたを殺していたわ。私にはわかるの」
この百年、大将が部下に殺されて乗っ取られる事例は日常茶飯事だった。皇后の言葉も私は素直に信じられた。
そんなことを数年続けているうち、いつしか私が陛下と呼ばれることもなくなった。
せいぜい、彼女がふざけて呼ぶだけだ。
◇
私は今、おそらく世界一規律の厳しい部族集団の中にいる。私が国を捨ててからちょうど十年が過ぎていた。兵の統率は可敦(かとん)がやっている。可敦というのは、遊牧民の世界での皇后のことで、皇帝を示す可寒(かがん)の対になる言葉だ。この集団に可寒はいないから、女指導者である彼女のことを指す。
そういえば、彼女を郁久閭(いくきゅうりょ)皇后と呼ぶことは一度もなかった。私は前の国の廃帝と呼ばれているらしい。今の私は可敦の側近ということになっている。
この部族集団は身寄りのないものだけで構成されている。幸い、親族と死に別れた人間なら高原にもいくらでもいた。買っている羊や牛や馬の数よりずっと多い。血はつながっていないから、部族というより流民のほうが実態に近いが、それを可敦はすぐれた指導力で疑似的な部族集団としてまとめ上げた。
箱のような遊牧民の屋敷の中に可敦が入ってきた。側近との会議はまだ続いていると思っていたのに。
「今日の仕事は切り上げたわ。休もう、陛下」
彼女が私のもとに近づいてくる。
そして、私が胡床(こしかけ)の下に隠していた刃物を取り上げて、遠くへ捨てた。
「また、死のうとしていたわね。私に知られないように済ますなんて無理なのよ」
私はせめてもの抵抗で可敦の首を絞めようとする。私はすぐに手を押さえつけられて床(ベッド)に組み伏せられる。
「もう、いいかげんにこりたら? どうして生き残ったのに死のうとするのよ」
「だって……私たちが生きるためだけに何人も何人も死んでしまったから……」
死体の山の上に自分の生活があると思うと、私は唐突に何度も死にたくなった。その都度、彼女に止められた。
「ほかに生きる道がなかった、それだけのことよ。私が手を下さなくても、多くの人は死んだわ。あなたの祖国は滅ぶし、砦の大将も部下に殺されるし、最初に乗っ取った部族集団もふらふらと南下したところを殲滅されるの」
「なんで、こんなにこの世界は人が死ぬのです……?」
私の故国は五年前に完全に滅んだ。叔父上は朝廷をまとめることはできたけれど、反乱軍の規模が大きすぎて防ぎきれなかった。臣下を虐殺した反乱軍の指導者は叔父上を殺してから、その子供を皇帝にして、それから皇帝の地位を禅譲させた。最後の皇帝や一族三百人が三日後に殺された。それで私が生まれた国は消えた。
その反乱軍の指導者は二年もたずに、東に勢力を持つ軍人に滅ぼされた。新しく国を開いた軍人は遷都のために皇都の住人を何万人も強制移住させて、途中で数万人が死んだ。
はるか南では、三十年続いていた王朝がほかの軍人に国を奪われて、滅んだ。元の王朝の一族はやっぱりみんな殺された。新たな国も領内にいくつも軍閥が生まれて、南側の統一すらままならない。
可敦の父親が支配していた羊の国も、その父親が別の部族集団の長に殺されて、吸収された。しかし、父親の親戚だという男が急襲して、また長を殺した。
そんなことばかり、本当にそんなことばかりだ。
「わずかな間でも皇帝だった身として、死んで責任をとりたいわけ? 名前も知らない民に詫びるの?」
「違う……そうじゃない……」
私は手が動かせないから、首を横に振った。
「数えきれないぐらい、あっけなく人が死んでいくなかで、私たちが生きているのが怖いのです。自分は夢の中にいて……本物の私は処刑される寸前なんじゃないかって……」
「数えきれないっていうのは、どれぐらい? ねえ、どれぐらい? 言ってみて」
そんな数字、答えられるわけがないので私は黙り込む。
ただ、彼女がはっきりと腹を立てていることは伝わってきた。
「私は一万回以上、あなたが死ぬのを見てきた。訛りのない都の言葉だって、毎回皇后をしていれば話せるようにもなるわよ」
彼女の青い瞳はまるで故人を悼むようにぬれていた。
「ふざけてなんていない。本当に、本当に、一万回以上。私は自分の人生を呪うあなたを助けるために何度も試してきた!」
彼女は自分は天に見初められた者だと語った。遊牧民のなかで最も強い羊の国も、ほかの遊牧民も、遊牧民から興った私が生まれた国も祀っていたあの天に認められたのだと。
天に認められた者は何があろうと新たな国家を作らないといけない。もし、それを成し遂げられずに死ねば、またやり直しを迫られる。
弱小のものを含めれば三十は超えるだろう国がこの百年だか百五十年だかの範囲で興ったが、彼らはいずれも天から国を作れと命じられたのだという。国を作ったところで、すぐに族滅の危機に遭いそうだと天命を拒否したところで、また同じ人生が待っている。殺戮の歴史から人が学ばずに過ちを繰り返していたのではない。ほかの選択がとれないから、自動的に国の興亡が多発したのだ。
「そんな話は羊の国の可寒である父親からやんわりとは聞いていたけど、まさか女の私が天に見初められるとは思わなかったわ。おかげで男が国を興すよりたくさん苦労してるってわけ」
私は頭を前に思いきり突き出した。
額が彼女に当たり、私は弱々しい猫みたいな悲鳴を聞いた。きっと今回の私の耳としては初めて聞いたものだった。
「だったら、天命に従えばよかったのに! 私を助けたって、あなたは皇帝になれるわけでもなんでもない! また、死ねばやり直しだ!」
彼女が常人とは違うことは、どこかで察してはいた。私が死ぬのをいつも止められるのも、私よりはるかに私を観察してきたからだ。天命の話もこの土地で暮らす中で、小耳にはさんだこともあった。それから、私が天命から切り離されたものであることも知った。滅ぶべき国はただ滅ぶだけなのだ。ほかに役目はない。
「私を生かしたところで何も変わらない! とっとと私を切り捨てて、どこかであなたは女帝として国を興すしかない! でないと、この呪いからは抜け出せない!」
彼女の手が飛んできた。張り倒された私に彼女が体重をかける。
「私の前で、何度、何度、生きたいって言ったと思ってるの!? あなたは知らなくても、私はこの耳で聞き続けてきたんだ!」
可敦、いや私の皇后は私の胸に顔を埋めて泣いた。
「私はあなたを救う! それでまたあなたと逃げることを繰り返すとしても、どうってことない! むしろ、あなたと出会えて都合がいいぐらいだわ!」
そこから先は双方、涙声でまともにしゃべれなかった。あふれる涙は熱いのに、服にしみ込んだ涙は私たちの体を冷やしていく。隙間風がさらに私の体を冷やす。
その時、幕の外側から大きな叫び声が聞こえた。
「可敦陛下、ほかの部族の集団に急襲されました! すでに囲まれています!」
彼女はゆっくりと私から顔を上げた。疲れもない落ち着いた顔になっていた。
「詰めが甘かったようね。今回はこれで終わりみたい」
終わりだとわかれば、彼女はあがこうとしたりはしない。
「悪くはなかった。次はあなたともっと長く一緒にいられる方法を探すわ」
「うん、次の私があなたに迷惑をかけなければいいな」
この世界にはたくさんの敵がいるけれど、本当の敵はきっと天という奴だけなのだ。
私たち二人だけが知っている。
武器をとって、私たちは天幕を切り裂いて、外に飛び出した。
絶命する直前まで私たちは徹底して生きてやる。
◆終わり◆
天命のカトン 森田季節 @moritakisetsu
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