七夕によせて

西島もこ

第1話

 会いたくて、会いたくて、会えなくて。

 会えると信じて、信じて、会えなくて。

 会いたいのに、願っても、会えなくて。


 どうしてなんだろうと、ふと思う。

 会えるはずなのに、会えないのはどうしてなんだろう。

 おかしいな。

 どうしてなんだろう。


「会いたいよぉ」


 真っ白な部屋の中。

 柔らかい壁に囲まれたそこで、今日は朝から天井を見ている。

 手足は自由に動かなくて、仕方なく天井を見ている。


「会いたいよぉ」


 喉が掠れていても、想いは口から出ていく。

 何度目か忘れたけれど、会いたいと思う気持ちが言葉になった。


「会いたいよぉ」


 ずいぶん前は、涙で前が見えなくなってた。

 溢れる鼻水で咽て意識が飛んだこともある。

 それでも想い続けてる。


 会いたくて、会いたくて、会えないあの人を。

 

 どんなふうに触れてくれたか、どんなことを話したか。

 共有した全部を忘れてない。

 二人だけの時間はもっと続けられるはず。

 それなのに、どうして独りなんだろう。


「会いたいよぉ」




 隔離病棟を有する大学病院は、七夕の日も変わらず慌ただしい。

 研修にきている新人たちは、わけもわからず忙殺されながら鍛え上げられていくのだ。


「姫が息を吹き返したわ」

「そうなの?」

「ホント、どうやって七夕ってわかるのかしら」


 先輩たちのヒソヒソ話を聞いてしまった新人のひとりは、興味本位で「なんの話ですか」と輪に入った。


「隔離病棟の有名人の話よ」

「あらダメよ。ごめんなさいね、男の子には教えてあげられないの」

「そうそう、タブーってヤツ!」

「なんスかそれ」


 先輩の言葉を鼻で笑った新人だったが、研修期間にこなす仕事は山ほどある。

 同じ新人に呼ばれて先輩たちの輪から引っ張り出され、去って行く。


「……あの子、危ないわね」

「そうね」

「でも注意できないからどうしようもないわ」


 もう誰もいなくなったと言うのに、先輩たちはヒソヒソと話して小さく笑った。




「先輩にすり寄ってサボろうとしないでよ」

「してないよ、ちょっとヒソヒソ話してたから気になっただけだって」

「本当? どんな話してたのよ」

「隔離病棟の有名人が息を吹き返したって」

「なによそれ」

「な、そう思うだろ? だから気になったんだよ」

「それで?」

「はぐらかされた。男子にはタブーなんだと」

「は~?」


 二人は同じ高校に通い、別々に医学の道へ進んだ。

 この大学病院の研修で久しぶりに顔を合わせたが、昔の馴染みでたいがい一緒に行動している。


「男子にタブーってなに?」


 彼女は高校時代からサッパリした性格で、男女問わず人気者だった。

 だからこそ今でもたくさんの友人と交流がある。


「姫って言ってたからかもよ?」


 彼は人と接するのが上手いタイプで、年上にも評判がいい。

 人懐っこさだけで人脈を広げてはいるが、おおむね健全な人付き合いだった。


「隔離病棟の姫……なにかあるわね」

「と思うんだけど、深入りしないほうがいいかな」

「どうして?」

「先輩に怒られるの嫌だし」

「そういうトコ~!」


 肘で彼の腕を突き、照れる顔に呆れた笑いを浴びせる。

 彼からの情報だけでもオカルト好きなら飛びつくネタだろう。


 動画配信をやっている友人が、夏だからとその手のネタを集めていたのを思い出した。

 真実と嘘を足したような話がないかと探していた。

 先輩の話はいいネタになるのではないだろうかと、ピンとくる。


 実習に来ている病院の先輩から聞いた話。

 その病院には隔離病棟があって、先輩たちなら誰もが知っている有名人がいる。

 あだ名は「姫」。

 彼女は息を吹き返すと言う。


「……待って、ねえ、息を吹き返すって突飛じゃない?」

「でも本当にそう言っていたよ。どうして七夕がわかるんだろうって言ってた」

「なるほど……」


 実習に来ている病院の先輩から聞いた話。

 その病院には隔離病棟があって、先輩たちなら誰もが知っている有名人がいる。

 あだ名は「姫」。

 彼女は七夕を察知して、息を吹き返す。


「え? 死んでるの? でも病棟にいるんだよね?」

「普段は意識がなくて、七夕にだけ意識が戻るとかかも」

「なるほど、そう言うことね。七夕に姫……まさに七夕の話みたい」

「そんな話だったっけ?」

「織姫と彦星、一年に一回、それだけで大体七夕でしょ」

「ザックリしすぎでは」


 とは言え、織姫と彦星という名称だけで大体の人は七夕を連想するだろう。

 しかも姫は七夕にだけ息を吹き返す……意識を取り戻すのだ。


「でも隔離病棟にいたら彦星に会えないわ」

「誰か面会にくるのかもよ?」

「そんなわけないでしょ」


 ここの隔離病棟に入っている患者は、ほぼ人間として崩壊している。

 姥捨て山のように放り込まれ、家族と連絡ができない状態になる人が何人もいる。

 そんなところに面会にくる人間は、事情を嗅ぎつけたどこかのルポライターくらいだろう。


「ねえ、もう少し先輩に聞けないかな」

「え、嫌だよ。怒られるって」

「そこをなんとか、ね?」

「自分で聞きなよ。わざわざタブーって言われてるのに突撃するってバカじゃん」

「可愛い後輩アピ頑張ってさ」

「ええぇ~」

「一週間、院内食堂限定で奢るから!」


 所詮、タダ飯に抗える若者は少ない。

 彼は渋々だったが彼女の依頼を了承し、時間を作っては先輩たちの傍に行きなにを話しているのかに聞き耳を立て、時には話の輪に入った。




「会いたいよぉ」


 もう何度繰り返したかわからない希望の言葉。

 誰かに願えば、叶えてくれるかな。

 叶えてくれると約束してくれた人もいたけど、約束は果たされてない。


 彼は元気だろうか。

 覚えているだろうか。

 二人が共有した時間のこと。


 もっと、ずっと、一緒にいたかったのに。

 恋は夢中って言葉を知らないなんて、化石じゃないかしら。

 あんなにキラキラした気持ち、夢中にならないほうがおかしいわ。


「会いたいよぉ」


 だから、離されてもずっと会いたいと願っている。

 会いたくて、会いたくて、待っている。




「今年は雨じゃないようね」

「あら、それは残念ね」

「梅雨なんだから、降っていてもいいのにねぇ」

「雨の日に通勤とか、面倒じゃないですか?」

「あらそう?」

「それにもうすぐ七夕だし、晴れてたほうがいいですよ」


 休憩中、控室で先輩と話をしていた彼に先輩たちは微妙な顔で笑顔を作った。

 吹き出したくても我慢しているような、不自然な笑顔に違和感を覚えつつも彼は話をなんとか「姫」に持っていきたくて食い下がる。


「ここの病院では七夕祭りしないんですか? 入院患者さんから短冊を募集したり」

「以前はしてたみたいだけど、経費がね……それに、付き添う看護師も足りないから」

「そうなんですね……残念だな」

「七夕好きなの?」

「ロマンチックじゃないですか? 一年に一度だけ会える恋人って」


 本当は全然、そんなこと気にしたこともない。

 だが、現状タダ飯をただ奢ってもらっている状態で成果を出せていない。

 そろそろ彼女からのせっつきも厳しく、今日くらいはネタを引き出さなくては。


「七夕と言えば、前に隔離病棟の姫のこと聞きましたけど、七夕に拘る患者さんなんですか?」


 ちゃんと秘密だとわかっている。

 態度で示すように小声で先輩たちに話すと、先輩たちは互いに目配せをしてから一斉に彼のほうを見た。

 その目が電灯の具合で光のない黒点に見えて、背中がひんやりする。

 薄い笑いで誤魔化し、顔を寄せてきた先輩たちに同じように顔を寄せる。


「私たちから聞いたって、誰にも言わないでよ?」

「本当は男の子には言っちゃダメなの」

「それって、どうしてですか?」

「怖い目に遭うからよ」

「え、オバケ?」

「そういうのじゃないわよ。でも、七夕の日に怖い目に遭って辞めちゃうの」

「怖い目って……やっぱオバケ?」

「もーっ、違うわよ。いい? 七夕当日は絶対に隔離病棟に行っちゃダメだからね」

「先輩からの忠告よ。この話を聞いたからには、絶対行かないこと」

「辞めないでほしいから言ってるんだからね? いい?」

「はいっ、りょーかいです」


 ヒソヒソと話を終わらせ、休憩は終了した。


「三日分がチャラにできるかって言うと、ちょっとパンチが弱いなぁ」

「そう言わないでよ。バレないように聞き出すのも大変なんだから」


 早速報告を受けた彼女は、先輩たちがそこまで言い含める理由にこのネタのカギがあるように思えた。


 七夕の日に姫に近づいた男は怖い目に遭って病院を辞める。


「あと一息だわ……あと一息で、このネタが完成する!」

「ネタって……確かにネタではあるけど、本当だったらどうするのさ」

「本当なわけないでしょ? 七夕に意識を取り戻す患者なんて聞いたことないし、七夕を境に男子が辞めるなんてことも聞いたことないもの」

「それは秘密にしてるからだと思うけど」

「その「秘密」って言う曖昧なヴェールを毟り取って中身を確認したいのよ」

「そこまでする意味あるかな……」

「証言者として、配信デビューとかしちゃったりして!」


 この数日、様々な憶測を立ててきた。

 忙しい合間にそれっぽい怪談がないかと検索してみたり、他のスタッフにもそれとなく探りを入れたりと、彼女も奔走している。

 なにもそんなに必死にならなくてもとふと思うが、七夕という季節限定のイベントに関するネタだから「今しかない」と駆り立てられるのだ。

 七夕を過ぎれば七夕は来年の話になる。

 それまでにネタを集めて友人に渡せば、夏の怪談配信に間に合うのだ。

 多満端をメインにした怪談はあまり聞かない。

 そういう意味でも、しっかりとネタの終わりを知っておきたい。


 欲が出ていると自分でも思うが、止まらないのだから仕方がない。

 激務続きで気分転換の刺激を無意識に求めているのだろう。


「七夕の日になにが起きるのか、実証しなくちゃ」

「どうするつもりだよ」

「あんたと一緒に見回りに行く」

「嫌だけど」

「まあそう言わず!」


 どうせハッタリだってわかってるでしょ、そう言われて否定もできず、根回しのいい彼女と連れ添って七夕当日に隔離病棟へ見回りに行くことになってしまった。

 先輩たちの口調はさほど厳しくもなく、切羽詰まったような鬼気迫る風でもなく、本当に七夕に怖い目に遭って辞めた男性職員がいるのかもわからない。

 夏だし、新人を怖がらせようとしているだけかもしれないから、そんなに怖い気分でもないのだ。


 ただ、あの時に見た先輩たちの昏い洞のような視線だけは、胸に冷たい針をずっと刺し続けていた。




「それじゃ、あとよろしく」

「はい。任されました」


 彼女と一緒に見回り予定だった一つ上の先輩と入れ替わり、手に懐中電灯を持つ。

 彼女は見回り日誌に本来見回りをする二人の名前を記入して、彼がその場にいる事実を抹消した。

 交代した先輩には上手く言ってある。


「ジャーン、新兵器投入~」

「新しいメガネ?」

「そ、カメラついてるの。盗撮用ってヤツ」

「どこで手に入れんのそんなの」

「知らないなら知らないままでよろしい」


 見慣れないメガネをかけていると思ったら、録画用だったらしい。

 彼女はノリノリで姫の正体を暴こうとしている。

 本当にいるのかもわからないのに、いると信じ切っているようにも見えた。


「いつもよりテンション高くね?」

「テンション高くならないわけないでしょ」


 不可解現象の実証なのだ。

 先輩三人から聞いただけの噂だとしても、こうして事実確認をするために準備をしてきたのだから興奮もする。

 ドラマや漫画の探偵にでもなったみたいな気分で、ネットでメガネを購入し、見回りの先輩へ根回しをした。

 姫の正体が患者だとして、そんな噂が立つ理由が絶対にある。

 仮に先輩たちの嘘だったとしても、それはそれで実証にはなるはずだ。

 そのために、こうして盗撮用のメガネで録画をしているのだから。


「さ、見回りに行くわよ」


 隔離病棟と言っても、刑務所のような鉄格子がはまっているわけではない。

 隔離病棟へ向かう用の廊下に幅十センチの分厚いアクリル板が壁として使われ、細かく分けられたIDカードにより入出が管理されている。

 二人が使うのは見回り用IDカードで、看護部共用のカードだ。

 入ってすぐに姫の部屋を見つけようとするが、二人とも姫の本名を知らない上に、個人情報保護の観点からかネームプレートは外されている。


「一つずつ、見て回ろう」

「それが仕事でしょ」

「それもそうね」


 姫の情報は極端に少ない。

 見回りがてらそれっぽい患者を探してみるが、外は昼間なのに夜間のように密閉された病棟の古い電灯しか点らない室内の患者は性別すら判別が難しい。

 殆どが暴れないようにレベルの違う拘束具によってベッドに括られている。

 たまに部屋の中を動物のように唸りながら歩き回る患者や、部屋の隅で呻く患者、中央で大の字になって放心している患者などもいた。


「それっぽい患者さん、見つからないな」

「まだ先があるんだから諦めるようなこと言わないで」

「仕事だからちゃんと全部見回るよ」

「そうそう、それでいいのよ」


 外は昼だと言う安心感はある。

 そんなに晴れていはいないが、雨でもなく曇りでもない。

 なにか起きて逃げたとして、病棟を抜ければすぐに自然光で明るい場所に出る。

 どこを逃げ惑っても真っ暗な夜中ではない分、気持ち的にも楽だった。


 だが、じわじわと寄ってくるなにかを感じる。

 少し不安になって彼女を見ると、彼女も似たような表情で彼を見た。


「なんかさ、空気違くない?」

「同じこと考えてた」

「やっば……ガチかしら」

「ガチなんだったら、ここで離脱するけど」

「仕事でしょ、し・ご・と」


 反論を許さない視線に肩を落とし、彼は懐中電灯を薄暗い廊下の奥に向ける。

 どこまでも続いていそうな暗がりに視認範囲も狭くなりそうだ。

 夜勤の見回りは、比でないくらいに怖いことがある。

 夜間は理由もわからず、ただ「行きたくない」と思う場所もある。


 そんな場所のない分、まだ歩調は変わらずゆっくりと前に進んでいる。

 廊下の突き当りまで言ったら、折り返して反対側にある部屋を見ながら戻るだけだ。


「会いたいよぉ」


 こもった小さな声が聞こえた。

 気のせいかと思ったが、どちらもが緊張した表情で見合った。

 ごくり、と喉を上下させたのはどちらだったか。


「会いたいよぉ」


 確かにそれは女性の声だ。

 掠れていて弱くて、寝言のようにも聞こえる。


「アレかしら」

「かもしれないな」


 声を潜め、身を屈めて靴音が響かないように静かに移動する。

 声が漏れている部屋に近づくにつれ、全身を静電気のようなぼんやりした刺激が包み込んだ。


「会いたいよぉ」


 伺い窓から中を覗いたのは彼女が先だった。

 しっかりとメガネを正面に向け、そこに映し出されている映像を確実に残そうとする。

 他の部屋と構造が同じなら、窓から覗く場所にはベッドがあり患者の顔が見えるはずだ。


「どう?」


 伺い窓を占拠するように中を見ている彼女に、彼は後ろから声をかけた。

 ここまできたのなら、顔くらいは見ておきたい。


「会いたいよぉ」


 彼女の肩を叩いた。

 急かすわけではないが、見回りの帰りが遅くなるのもよくない。

 チラッと見るだけで満足だからと、軽い気持ちだった。

 鼓膜を震わせる声音を聞いて「実際に存在している人間」だと、内心ではホッとしていた。


「おい、聞いてるか」


 まったく動かない彼女の肩をもう一度叩いて、今度は軽く揺すってみた。


「会いたいよぉ」


 不意に、懐かしさを感じた。

 次に、側頭部に衝撃を受け受け身も取れずに昏倒した。

 なにが起きたのか脳が判断する前に、馬乗りになる彼女が薄ら笑って拳を固めている姿が視界に映った。


 あとは衝撃だけだった。

 繰り返し、鼻から上を中心に拳を当てられている。


 どういうことだと痛みに混乱する意識の最奥で、冷静な部分が理解しようとしている。


「……いた……よぉ」


 衝撃の向こう側から、あの声が聞こえる。




 会いたくて、会いたくて、会えなくて。

 会えると信じて、信じて、会えなくて。

 会いたいのに、願っても、会えなくて。


 どうしてなんだろうと、ふと思う。

 会えるはずなのに、会えないのはどうしてなんだろう。

 おかしいな。

 どうしてなんだろう。


「お……ひ、め……」




 隔離病棟で起きる事故は、表立ったニュースになり難い。

 特殊な場所での事故だから、色々と気にする人たちがいる。

 だから職員同士でなにかがあっても、表には出難い。


 ましてや、元からに関わる事故であればなおさらだ。

 なんだかんだで、処理すら早い。


「やっぱりダメだったわね」

「だから男の子にこの話はしちゃダメよね」

「七夕近くなると、余計にね」


 ヒソヒソ話す先輩の声がやけに大きく聞こえる。

 病院から連絡を受けやってきた警察官は困り果てた顔で彼女を見ている。

 彼は一体、どうしたのだろう。

 どうして両手が動かないほど痛いのだろう。


「キミ、覚えてない? 困ったな……なにか言うことはある?」

「…………渡らせない」

「え、なに?」

「…………会わせてなんか、やらないのよ」

「誰に会わせないの?」

「織姫よ」

「確かに今日は七夕だけど、そういう冗談で同僚殴っちゃダメでしょ」


 殴った?

 同僚って、彼のこと?

 違う、彼は同僚じゃなかったのよ。

 あたしを騙して、会うつもりだったんだから。


「とにかく、動けるなら同行お願いしますよ」

「……」

「聞こえてますか?」

「アイツが騙したのよ。誑かして、ダメにして、その上まだ会いたいなんて贅沢すぎるわ。会ったら逃げるつもりだってあたしは知ってるの。逃げ出されたら困るのよ。どんだけ苦労してると思ってんのよ」

「はいはい、事情は署で聞きますからね」

「わかってないわね、会わせちゃいけないの! 会せたら逃げちゃうでしょ! 逃げたら困るのよ! 知らないから平和ボケした顔してるんでしょ!」

「わかったわかった」

「わかってないわよ!」


 コイツはなんで笑っているの?

 アイツが逃げ出したら、滅ぶのよ。

 彦星は誰でもいいのよ、逃げるための道具だもの。


「アイツは来年も同じ事を繰り返すわよ!」

「織姫は彦星と七夕の日にしか会えないんだよ。そりゃ来年も同じ事を繰り返すよ」

「ダメよ、繰り返しちゃダメなのよ! もうアイツの希望は聞いちゃダメなの! 二度とダメよ、絶対に!」


 本人には理解できている。

 他人には伝わらない。

 どうしたってもどかしさしか残らないが、彼女は「ダメだ」と叫ぶことしかできなかった。


「ここから出せば、滅んじゃうわ!」


 必死の形相で叫び、殆どの指を骨折するまで彼を殴り続けた拳を振り回す。

 そうまでして吐き出す警告に、耳を貸す者はいなかった。




「で、これが問題の録画データ」

「マジか」

「録画しながら同時にコピー取ってたんだよ。俺んとこに転送してくれてさ」

「すげえ」

「二人も犠牲になったんだ、いわくつき待ったなしの飛び切り案件ってヤツだな」


 彼女が送ったデータには、「会いたいよぉ」と掠れた声で呟く女性が映っていた。

 薄暗い部屋の灯りで見る限り、灰色っぽい服を着ていて、手足はガッチリ拘束されている。

 髪の毛は伸び放題、それでも目鼻立ちがくっきりしていることが伺える陰影。


「会いたいよぉ」


 数秒おきにそう呟いている。

 ただそれだけだ。

 なのにそれを録画していた彼女は突然、後ろの彼に殴りかかった。


 馬乗りになって、めちゃくちゃに両手拳で頭を狙って打ち続ける。


「げ……さすがにこれってモザイクだな」

「ヤバいよな」


 拳で滅多打ちされる彼の片目が衝撃で飛び出し、耳からも鼻からも大量の血を流し始めると片方の目は拳で叩き潰された。

 その間、彼女は無言で暴力の限りを頭部に集中させ、後ろからは「会いたいよぉ」と弱い声が響いている。


「お……ひ、め……」


 絞り出すような声が彼の口から零れ、画像データを見ていた彼らは背筋を寒くした。

 ゆっくりと視線を合わせ、ごくりと喉を上下させる。


「お、お蔵入りにしないか」

「だな、さすがに、ちょっと……素人の手に余る」

「警察に持ってく、か?」

「……そんなことしたら、俺らも疑われるぞ」


 彼女がなにか言っていたが、最後まで聞かずに再生を停止した。

 そしてデータ受信記録を消し、受け取ったパソコンを入念にバラして廃棄する。

 足がつかないよう工作して、心のどこかではそれでもきっと警察はくると予感している。


 でも、その前に。


「来年、織姫に会えば全部終わるっしょ」




 織姫は、神へ捧げる衣を作っていた。

 糸を縒り機織りし、丁寧に祈りを込め作られた衣を神は毎年心待ちにしていた。

 ダメにしたのはひとりの人間。


 織姫は、神へ捧げる衣を作ることで自らを捧げていた。

 そうすることで神は人々を厄災から護り、恩恵を与えていた。

 神の寵愛を無にした織姫だが、神は彼女が傍にいるだけでいいと寛容に赦してくれたのだ。

 だが欲望を覚えた織姫はどうしても男といたかった。

 故に引き裂かれ、二度と会えなくされたのだ。


 人間は実話を逸話に変え、人々の記憶を時間をかけて改ざんした。

 織姫と彦星は年に一度会えるのだと、嘘を刷り込んだ。


 そうすることで織姫は自由になる。

 一度でも会えれば、手に手を取り逃げることができる。

 織姫を失った世界が神の手により滅んでしまったとしても、彦星と言う人間にとってそれは別の話だ。


 二人が出会い、再会できればそれでめでたしめでたしなのだから。




「会せたら逃げちゃうでしょ! 逃げたら困るのよ! アンタたちだって困るのよ! わからないのっ?」


 事実を知るは、悠久の年月彼らの傍にいる存在のみ。

 無意識化の記憶は、一年に一度、織姫の声を聞いて覚醒する。


「滅んじゃうのよ、この世界が!」


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七夕によせて 西島もこ @moko2ccma

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