第五回「私は進化したのか?」

 昨日、私は25歳になった。


 これを「衰えた」と呼ぶのか、あるいは「進化した」と呼ぶのか。未だ、私には分からない。現在のところ“変わった”という実感があまりにも無さすぎて、判断がしづらいのだ。


 前者はおそらく退化である。今まで出来ていたことが出来なくなったり、億劫になったり。生物たるもの永遠なる若さなど有り得ないのだろうが、願わくば常に脳力に磨きをかけ、進化を続けていきたいものだ。


 しかし、ふと考えてみると「進化」とは実に奥深い概念だ。まず、狭義では生命の持つ驚くべき特性を象徴するワードであろう。生命は絶え間なく変化しており、それゆえに地球上の生物には多様性があって複雑さを抱えている。進化は一度始まると、決して止まることのない不可逆的なプロセスだ。


 生物は地球上において、数十億年にわたって進化してきた。最初の微生物から、脊椎動物、哺乳類、そして現代の人類まで、進化の道程はまさに壮大な旅路と形容しても良い。進化の主目的は環境の変化に対応し、適応力を高めることで種の保存を目指すことにある。自然選択のメカニズムにより、遺伝子の有利な変異が生き残り、その遺伝情報が次の世代に受け継がれてゆく。


 進化の中でも特に興味深いのは、多様性の増大だ。環境の多様化に伴い、生物は異なる特性を発展させ、新たな生態系に適応する。長い歴史の中で無数に繰り返されてきたプロセスだ。これにより、地球上の生命は豊かな多様性を持つに至った。生物のパターンはねずみ算式に増え続け、今では地球上に棲む生物は870万種を超えるから驚きだ。


 人類もまた、途方もない進化の過程を辿ってきた。遺伝子レベルでの変化はゆっくりとしたものであり、数千年というスパンでは大きな変化は見られない。しかし、有史以来、文化や技術の進化は急速に進んで人間社会を変革している。知識の共有、言語の発達、科学技術の進歩、これらの要素が人間の進化を加速させているのだ。


 進化はまた、個人や社会の成長にも関連している。個人は経験と学習を通じて成長し、自らを進化させることができる。


 社会もまた、歴史の中で進化を遂げ、文化や制度が変化してきました。進化は一つの形態に固執するのではなく、常に新たな可能性を模索し、前進する力なのである。


 ――と、ここまで書いてきたが、わたし個人のことだけを論ずればお世辞にも進化したとは言えない。進化した、成長したと胸を張って言えるだけの実績を挙げていない。ひとつ歳にとって1日目、私はまだまだ未熟なままだ。


 けれども5年前と比べれば、少しくらいは大人になったのかなとも思う。直情的に動いて痛い目に遭う、ミスをやらかす機会は格段に減っている。特に仕事では皆無といって良いかもしれない。


 これを「成長した」と言っても問題はあるまいか? まあ、敢えてここは謙遜し、19歳の頃の手痛いエピソードを書いておく。


 正社員に上がって10か月後、初めて1人で仕事を任されるようになった頃、取引先へ送る物品の宛名を「郡上八幡市」と書いた。


 無論、そんな街など存在しない。“郡上八幡”とはあくまでも郡上市内の中心部の名称であって、自治体を表す名ではない。にもかかわらず私は“八幡”の二文字を冠していることを理由に近江八幡市と混同し、ありもしない名前を記載してしまったのだ。


 当時、私は郡上市はおろか岐阜県へ訪れたことはまったく無く、当該地域における知識量はほぼゼロに等しかった。ゆえに「郡上市」と出てきた時点で聞き慣れないワードであり、そこできちんと調べるなり、上司や同僚に確認するなりすれば良かったと思う。だが、すっかり慢心しきっていたハタチの頃の私に誰かに聞くという選択肢など無い。


 結果、私の誤記載はいざ発送する段階になって他部署の担当者が間違いに気付き、大いに嘲笑を買ってしまった。


 それだけならば未だ良かったのだが、関連書類の修正に手間取ったせいで取引先が「期限が過ぎているのに品物が届かない。どうなっているんだ?」と立腹し、会社にクレームを入れる事態に発展。後日、菓子折りを持参し、直属の上司と共に謝罪に赴く羽目になってしまった。


 思い出すのも恥ずかしい、私の青二才エピソードだ。オフィスへと戻る新幹線の車内で、その上司から懇々と説教を受けたのは言うまでもない。


「おい、雨宮。今回のミスはどうして起きたと思う?」


「すみません。“代々木”と“代々木上原”が別地域であるように、郡上市の他に“郡上八幡市”が存在すると思い込んでいました」


「アホかよ。そもそもお前、岐阜に行ったことはあったのか?」


「いいえ」


「知ってるつもりになっていたのか。業務で聞き慣れない地名が出てきたら即座に調べろよ。そのためにお前はスマホを持ってるんだから。猿でも出来ることを何故やらなかったんだ」


 スマートフォンを起動して検索エンジンに特定の単語を入力、結果を閲覧するという行為が果たしてサルに出来るかは別として、上司の叱責は研修期間を終えて奢り高ぶっていた私の目を覚まさせるのにとてもちょうど良かった。


 自分はサル以下なのかと当時は本気で己を責めたものだ。良い薬になったので、とても感謝している。今ではすっかり立場が同格になってしまったが、私はその人に未だに頭が上がらない。


 猿でも出来るという言い回しは、おそらくは人間が大昔には猿人(アウストラロピテクス)であったことに由来していると思う。当たり前の話だが、人間は昔にはサルだったのだ。要するに「お前は進化するより前の存在にも等しい無能なんだよ」と言われてしまったわけだ。


 ただし、一概にサルを蔑んではいけない。本来ならばサルは人類が敬うべき祖先であり、人類よりも早く宇宙に行った高等な生物である。


 人類が宇宙への探査を始めた頃、その先駆けとなったのは人間ではなく、チンパンジーだった。1961年1月31日、アメリカのNASAは、宇宙に初めて生物を搭乗させる試みとして、一匹の若いチンパンジー「ハム」をメルクリー・レッドストーン2号というロケットに乗せて宇宙へと送り出す。この歴史的な出来事は、人類の宇宙探査の道程における重要な節目であると同時に、人類と類人猿が広義では共通した存在だと改めて教えてくれる。


 ハムは、アメリカの空軍基地から宇宙船に乗せられ、約16分間の宇宙飛行を経て地球に帰還した。この宇宙飛行によって、人類は初めて宇宙空間で生物が生き延びることが可能であることを証明した。そんな大冒険を繰り広げたハムは、宇宙船に揺られている最中に何を思ったのだろうか。


 元は自分と同じ存在だったのに地球の外にまで活動範囲を拡げゆくところまで進化したヒトを「凄いな」と称賛したか、あるいは「宇宙に行こうとするなんて、馬鹿馬鹿しい」と嘆いたか。それは誰にも知る由も無いことであるが、きっと前者であってほしい。


 太古の地球で暮らしていたサルたちの中で、高度な文明を築き上げたのはたぶん人間だけだ。かつては同族だった類人猿たちに「おいおい、進化した結果がこれかよ!」と笑われぬよう、知性を養って思考力を研ぎ澄まして日々を生きていきたいものだ。

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