第8話 夢から醒めた夢を見た
なにか、大事なことを忘れている気がする。
わたしはりん。小学六年生の、普通の女の子。
そんな基本情報を自分で思い出しつつ、股間にまとわりついた湿り気に少し憂鬱な気分になる。
――やっぱり普通じゃないかも。
綿のパジャマは上だけ。フリルのついたピンクの少し幼いデザインの上着の下、もっと幼い下着。
夜中の失敗を存分に吸収した、ピンクの使い捨てパンツ。オヤスミマン。
やっぱり普通じゃないや、わたし。だって、こんな――おねしょ、そしておもらしなんて悪癖、“普通”じゃないもん。
微かな臭気を伴った朝の空気を吸って、大きなため息を吐いて。
ベッドの近くのタンスから、新しいおむつを取り出した。
なにか、大事なことを忘れている気がする。
「おはよー」
「おはよー」
――午前八時。そこまで仲のよくない友達とあいさつ。
アスファルト。照り返す熱が暑い。
「夏だね」
「そだねー」
他愛もない会話。
もうすぐ夏休み。そんな日のこと。
「そーいえばさ、この前おにーちゃんがさー……」
名前も覚えてない友達が口にした言葉の始まりが、妙に耳に残った。
お兄ちゃん……お兄ちゃん、か。
一人っ子のわたしは、兄妹のいるあの子が少し羨ましかったり……どうせ、隣の芝は青いってやつなんだろーな、とあきれてみたり。
なにか、大事なことを忘れている気がする。
給食を食べて午後の授業は体育。
周りの子たちは「せいり」ってのを口実に休む子がたまにいたり。……たいへんそうだな、とまだ初潮を迎えてないわたしは遠い目でグラウンドをゆっくり走る。
夏バテ。ぼうっとする頭。
もしも、ある日、お兄ちゃんかお姉ちゃんが出来たりしたらな。
そんなことを一瞬考えた。
なにか、大事なことを忘れている気がする。
望郷のような、懐かしい気持ちが頭をよぎった。
なにか、大事なことを忘れている気がする。
夢のような非現実感。
なにか、大事なことを忘れている気がする。
なにか、大事なことを忘れている気がする。
なにか、大事なことを――――――――――。
*
ミーンミンミンミンミン。
蝉の音が聞こえた。
遠くなった意識。
熱中症。
冷房。
ベッド。
ばっと起き上がった。――ああ、そうか。熱中症で倒れちゃって、保健室に運ばれたんだ。
ぼうっとする頭。ある一種の催眠状態。トリップ。
夢を見た。
わたしと、同い年で活発なお姉ちゃん、そして黒髪の女の子。三人の少女が楽しく遊んでる。そんな夢。
奇妙だけど、なんだかあまりにも自然で。
ぼろぼろ、涙を流していた。
ああ、おむつ湿っちゃってるや。かえないと。
未だぼうっとした頭。懸命な思考はしかしなにもつかめずに空を切り――
「お姉さんを、助けたいですか」
目を、見開いた。
幻聴。幻覚。脳内に響く声。鼓膜から伝わる音じゃない。
額を押さえる。
「ああ――ようやく繋がった」
「なに。あなたはなにもの」
「あなたのためのデウスエクスマキナです☆ ――名前や役割なんてどうでもいいですね」
ベッド脇に置かれたランドセル。赤い石のキーホルダー。鈍く光る歪なそれが、妙に目につく。
次の瞬間、わたしは宇宙にいた。
「……ここはどこ?」
「心象世界、といいますか。夢ですよ夢。二度は説明しません」
くどいですからね☆ と口にする少女。銀髪ロングで変な髪飾りをつけた彼女は、真っ黒の空間に立つ私を見据えて告げた。
「あなたは、どこか日常に空虚を感じている。違いますか?」
どういうことだろう――わたしは目を見開く。
「なんてことない日常。淡々と続いていく毎日。しかし、そのどこかが色あせているように見えてたまらない。――まるで、日常にぽっかり穴が開いたように」
荒くなる息。首に縄が巻かれたように――。
「まるで、パズルの一ピースが足りないように。まるで、漫画の重要な一コマが抜けているように」
――苦しい。苦しい。
「まるで、本の一ページが抜けているかのように」
苦しい!!
言語化された違和感の正体。喉を押さえて息を荒くするわたしに、銀髪のデウスエクスマキナは告げた。
「――その空虚、埋めて差し上げましょう」
「とはいってもやることは簡単です。記憶のカギを解き放っちゃうだけです。どこが『だけ』だって――まあ、そこらへんはご都合主義です☆ ――泣いてます?」
べらべらとまくしたてる、銀髪の何か。目の前が滲んでいた。
「泣いて、ないよ。……うん。ないてないもん」
「そうですか。そういうことにしときましょう☆」
銀髪の少女は微笑んだ、ように見えた。
「続けますよ」
少女はわたしを見据えて説明を始める。
「まあ、ここからはお決まりの展開ですが――記憶のカギを解き放っちゃうと、あなたはあなたじゃいられなくなります」
色々話してたけど。
「一言で言っちゃうと――記憶を取り戻せば、いまのあなたの人格はどうなっちゃうかわかりません☆」
とのことで。
「それでも、いいですか」
わたしは少しためらいつつ――でも。
「きっと、忘れちゃいけないことだから――思い出したい」
「ふふ、面白くなってきましたね」
最後に見たのは、笑った銀髪の少女の顔。
――そして、記憶は巡りだした。
*
長い長い、夢を見ていた。
ボコボコと溺れる意識。能面が、取り立てる。取り立てる。なにもかもを。
無言で僕からすべてを奪っていく化け物に、僕はなすすべなくただ怯えるだけ。
ついに僕の存在をも取り立てようとしたそれに、しかし待ったをかける存在がいた。
「――おにいちゃん」
「きみは――」
混濁する意識の中、僕とよく似た少女の幻覚。
「わたし、思い出したんだ。思い出しちゃったんだ。わたしの身体はあなたのもので、わたしは所詮『おねえちゃん』の妄想」
「待って――」
「でもね、それがわかって、すごく満たされたような感じなんだ。……パズルのさいごの一ピースが埋まったような感じ。……すこし、しあわせ」
微笑む少女。――その正体を、僕は「感じ」ていた。
がぼがぼ、溺れるような苦しみの中で、僕は彼女を呼ぶ。
「――待って! 待ってよ――まって」
「すべて思い出して、でも心残りができた。……わたしはあなただから、安心して託せる」
「やだよ――いかないでよ――」
「アヤちゃんと、らんおねえちゃんを――どうか、助け出して」
「――りん、ちゃん」
長い長い、夢を見ていた。
「おはよう。……泣いてるの、あなた」
ベッドの上、保健室の先生がかけた言葉に、僕は涙が流れていたことにはじめて気づく。
「はい。……とっても、いやな夢でした――」
僕は、大倉 京介。十八歳、高卒、男。
女子小学生だ。
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