第14話「ベルガモット」

 しばらくの沈黙が続いて舞衣まい水衣みいの身体を離した後、デイヴィッドが口を開く。

「事情はよく分かんないけど大丈夫か?」

それに水衣はうるんだ声で

「はい、大丈夫です」と返す。

到底とうてい大丈夫そうではないその声に、アデライードは一抹いちまつの不安を覚えるながら

「まぁ、大丈夫ならいいけど…」と小さく呟く。


 水衣としても舞衣が千秋ちあきに抱きついているわけでない事は分かり切っている。

だがそれでも、そうだとしても心に残った薄汚うすぎたなおりを取り除くことはかなわない。

それは舞衣が自分の心からき出してくれなければならないからだ。

水衣がハンカチを取り出して眼のふちに溜まったなみだを拭う。

その白いハンカチに残った泪のシミを見たとき、自分の心を映しているようで胸がつぶれそうになったが、その情動じょうどうをぐっと飲み込んで水衣は

「ほら、まーちゃん、行こっ」と舞衣の手を引く。


 大丈夫そうな二人を見届けた千秋は、デイヴィッドに

「車回してきましたから、分乗ぶんじょうで大丈夫ですよね」と問う。

 デイヴィッドは小さくうなずきつつ、水衣と舞衣の方を見ながら声をひそめて

「あれってどういう関係性なの?」と尋ねる。

 千秋はそれに声を潜める様子もなく

「ただの姉妹ですよ」と屈託くったくもなく即答する。

 千秋の余りにもさっぱりとした回答に、デイヴィッドは懐疑かいぎの色を顔に浮かべつつも引き下がる他なかった。

明らかに二人が通常の関係性にあるとは思えないデイヴィッドではあったが、二人を一番近くで見ているであろう側付そばつきの言葉を信用せずに、それを断定する根拠を持ち合わせてはいない。


 井部はこのよどみきった空気感から逃れるように、一人トラックに乗り扉を閉める。

 デイヴィッドもSUVの扉を開けて運転席に乗り込む。

助手席に飛び乗ったアデライードが中央のドアを開けると、奥からアレクセイとイヴァンが乗り込む。

 デイヴィッドは運転席右手のふたを開けて、ボタンを押し込んだ。

それを見たアレクセイは自分の右手にある窓を開ける。

デイヴィッドが左のポケットから紙巻き煙草たばこを1本取り出して右手に持ち替えると、ポン、と音が鳴りボタンが押し戻る。

デイヴィッドは運転席のそばの窓を開け、ボタンを引き出すと赤熱せきねつした電熱線に煙草を押し当てて火をける。


 千秋も水衣と舞衣を連れてセダンのドアを開けた。

 舞衣もいくら内燃車がロマンとはいっても座り慣れたシート、ぎ慣れた淡いベルガモットの香りに安心感を覚えるようでゆったりと背をもたれる。

「安全ベルト、着けてくださいよ」

 運転席から千秋の声が飛ぶと、水衣はベルトを引っ張り出して着ける。

ふと舞衣の方を見ると、とろんとした眠たそうな目をしながらうつらうつらしていた。

まぶたの間からわずかにのぞく甘い瞳の誘惑が、水衣の心を刺激する。

とはいえ、このまま舞衣が眠ったままだとさっきのように背もたれに叩きつけられてしまうだろう。

 水衣は舞衣の方の安全ベルトを引っ張りだそうと金具に手を伸ばし、限界まで引っ張り出された安全ベルトが水衣の身体を抑えつけようときつく締め付ける。

伸ばした指が舞衣の右肩にある金具をつまんだ刹那せつな、水衣はそれをぐいと引っ張り出した。

しかし、水衣の体幹と重力が拮抗きっこうし、水衣の身体は舞衣の膝上ひざうえに滑り落ちる。

水衣はうつ伏せのままに邪魔な膨らみを舞衣の細い太腿ふとももの上で引きずりながらも、金具をシート中央の差込口に装着する。

 「カチッ」と音がすると千秋が運転席から後部座席を振り返り、装着を確認する。

舞衣は安らかな寝顔を浮かべたままだった。


 デイヴィッドは煙草をくわえたままエンジンをかけアクセルを踏み込む。

鼻から紫煙しえんを吐き出すデイヴィッドを見て、アデライードは助手席でニマニマする。

井上姉妹の前では気をつかって煙草を吸わなかったのに、彼女たちのいない場所ではを見せる、そんな所に妙な愛しさを感じてしまうからだ。

井部の運転するトラックや、千秋の運転するセダンもそれに続いて地下駐車場を出る。

駐車場を出てすぐの駅前広場は駅ビルに入った19時半よりも人通りは少なかったが、それでもまだターミナル駅と呼ぶにふさわしいにぎやかさは見せていた。


 来る時とは逆の経路で内務省へと向かう黒塗りのセダンの中で、左ドアに寄りかかっている水衣の視線は後部座席の反対側で眠りこけている舞衣に注がれていた。

舞衣の無防備で安心しきったような顔と、少しだけ丈詰たけつめされた紺のスカートから覗いた膝の裏が水衣の精神を余計に亢奮こうふんさせる。

流し目にも似たその視線は寝ている舞衣に気づかれることはもちろん無かったが、運転席にいる千秋からは振り返らずとも気配を感じ取れていた。

 しばらく水衣は舞衣に視線を向けていたが、ついに我慢しきれずに右手を伸ばす。

何もそれは官能かんのう的な欲望にもとづいたものではないし、どちらかといえばこの寂静じゃくじょうから逃れるためにすがっているかのような心持こころもちであった。

「別に」

千秋の声であった、水衣はビクッとして千秋の方に顔を向ける。

「私は止めもしませんし背中を押しもしませんが、

 旦那様と駆け引きするおつもりならご自分でしてくださいね」

 日比谷交差点で一時停車しているというのに、振り向きもせずに千秋は続ける。

水衣は伸ばしていた手を引き戻して、自分の太腿の上に置く。

「何のこと?」

 水衣は平気な顔と声でうそぶいた。

「"何のこと?"じゃないですよ、何をたくらんでいるかくらいお見通しです、

 眠っているとはいえ舞衣さまが居られる場で話すのは気が引けますが」

 千秋としても今まで水衣が舞衣にただならぬ感情を寄せていることは感づいていたが、今日は昨日までより大胆に感じる。

さっきの駐車場での出来事もそうだ、舞衣が自分に抱きついてくるのは何も初めての事ではないのに今日だけは舞衣の腕をつかんだ。

それに少数とはいえ、家族や使用人以外の他人がいる前で泪を見せる事も初めてだ。

舞衣にしてみれば水衣の行動で事がより重大であることは否応いやなしに認識させられるし、舞衣としても水衣の事が大切だろうから罪悪感も感じるだろう。

だが、むしろ水衣がそれを利用しているのだとしたら。

その底無しの執心しゅうしんには末恐ろしさすら感じる。


 まるで見透かすかのような千秋の言葉に、水衣のこめかみから首筋に冷や汗がツーッと伝った。

水衣としても気が大きくなって痴態ちたいさらしてしまった事は確かではあるが、そこまで見抜かれていると流石に恐ろしくなる。

千秋は止める気はないと言っていたから特段の障害にはなり得ないだろうが、それでも分かる人には分かってしまうという事実こそが水衣の心を不安で満たす。

「お父様には?」

 平静を保つことはやめ、やや不安を混ぜたような声で水衣は問う。

「いえ、何も言っておりませんが」

 千秋はあえて短く、冷たくあしらう。

知恵比べをしているわけでもないのに、急に泣き出したいような気持ちになった。

「千秋は、応援してくれる...?」

 寸刻すんこくの沈黙の後、か細い声が出た。

「それがの幸せなら出来る限りの事はしますよ」

 今しがたの冷たい声とは裏腹に、温かく優しい声色こわいろで千秋は言う。

その言葉に、水衣は胸が詰まって言葉が出なかった。

嬉しいような悲しいような、または罪悪感のような感情が胸には満ちて、左手の手の平にまで疼痛とうつうみる。

ようやく言葉が喉を通りかけた瞬間、ガクンとした衝撃と共に車が止まる。

前傾姿勢であった水衣は座席に叩きつけられ、喉を通るはずだった言葉も引っ込んだ。

舞衣も停車の衝撃で上体を前のめりに倒し、目を覚ましてしまう。

「ほら、着きましたよ」

 千秋は両側のドアを開け、後部座席を振り向いて言う。

水衣は千秋の運転のあらさをうらみながらも、やや充血した目で車を降りた。

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