第13話「Jealousy」

 渡りに船と、水衣はデイヴィッドのげんに賛同した。

舞衣は甘味の残りを慌てて口に詰め込んでせている。

水衣はそんな舞衣の背を撫で、ハンガー掛けから二人分の外套がいとうを手に取る。

アデライードも自らの肩掛け鞄を手に取って、帰り支度をする。

井部はこんないい鮨を食べたのに酒の一杯も無いのか、と未だに文句を垂れている。


デイヴィッドは伝票を手に取り会計へ。

五六〇えん奉仕ほうし料を1割足して六一六圓を支払う。

店員はやはりその不揃いな連中に怪訝けげんそうな顔をしつつも、領収書の宛名に"内務省警保局保安課"と書き記した。


 店を出るころには、フロアの客足きゃくあしは見違えるほどに減っていた。

10時に閉じるビルにギリギリまで残っている人もそこまで多くは無いようだ。

舞衣はデイヴィッドに話しかける。

「井部さんが課長なのにデイヴィッドさんが支払いするんですね、普通はそういうのって上司の人がするもんだと思いますけど」

すると井部がこれにぴくりと反応して返す。

「課長っつってもただの飾りだ。こいつが10年前に内務省や陸軍省のお偉方えらがたき伏せて神人課を設立した時、課長が外国人じゃ体裁ていさいが悪いってんで満州からわざわざ引っ張って来られたのさ。

それに仕事が少ないのは有り難いがその分、普通の人間の俺の給料はそこらの軍参謀ぐんさんぼうよりはるかに少ねえ、窓際まどぎわとそう変わらん」

 井部のそうした反応にアデライードは

「昼間っからお酒飲んでますもんね、それも結構お金かかるんじゃないですか?」と突っ込む。

井部は少したじろいだが

「それだけじゃねぇ、東京に住むんじゃ家賃だけでも月に七五〇圓はかかるし、お袋を施設に入れるにも月に七百圓はかかる、手取りで月に千九百圓もらってもカツカツだ」と言い返す。

 井部のその言葉に一団は気まずい雰囲気に包まれる。


 駐車場へと下るエレベーターの扉が開く、一団の他に客はいない。

そこで舞衣が口を開く。

「でも井部さん、優秀だったんじゃないんですか?

さっき42歳で大佐になるのってだいぶ早い方だと聞きましたけど」

 舞衣のその言葉に井部は

「いやまぁそうかもしれんが、特に優秀だったって事もない、現にこうして窓際に追いやられている訳だし」

と返すが、間髪入れずに水衣が

「でも帝国陸軍が満州に大佐をわざわざ派遣するなんて駐在武官ちゅうざいぶかんくらいなものじゃ無いですか、それこそ相当なエリートだと思うんですけど」

核心かくしんを突くような言葉を放つと、井部は若干声を荒げて

「いいんだよ昔の事は、どうせ俺は陸軍省に見捨てられたんだ、今はただのどこにでもいるすけさ」と自嘲じちょうする。


そうこうしている内にエレベーターは地下2階に到着し、チン、とベルが鳴る。

薄いライトの光で照らされた地下駐車場は、先ほどの混み具合とは一転して夜の寂寞せきばくに包まれている。

無機質なコンクリートの床を、革靴かわぐつがコツコツと小気味こきみよい音で打つ。

誰も何も言わず、その地下駐車場を奥へと進んでいく。


 嫌になるほど目立つ赤いスポーツカーが奥に見える頃、斜向かいに停めたセダンの中で千秋も一団に気がついた。

内務省の駐車場に停めていた井上家の車をわざわざ駅ビルまで回していたのだ。

ドアを開けて一団の方へと向かう千秋に舞衣も気が付き、一瞬だけほおがほころんで駆け出そうとする。

 そんな舞衣の左手を水衣はその右手でギュッとつかんだ。

駆けだそうとしていた舞衣は急に掴まれたことで体勢を崩し、転びそうになる。

 舞衣は水衣の方を振り返ったが、水衣は舞衣の左手を包んだまま離さず俯いたままだ。

舞衣は水衣がなぜそんな事をしたのか見当もつかなかったし、水衣もなぜ自分がそんな事をしたのか分からなかった。

それを見て取った舞衣は、掴まれたままの左手をそのままに右手で水衣の左手を掴む。

水衣はてっきりほどかれるものと思っていたから舞衣の行動に驚き、ふと顔を上げた。

舞衣はこの時を待っていたかのように水衣の顔をのぞき込み

「ほら、一緒に行こ?」と語りかける。

 水衣は涙が出るのを堪えるように上を向いて深呼吸ををひとつ、舞衣の方へ向き直ってかすれかけの声で「うん」と答える。


 千秋は50mも離れていないそこで何を話しているかまでは聞き取れなかったが、だいたい何が起こったか察しはついた。

談笑だんしょうしている雰囲気でも無し、先に別れた時の舞衣の反応を見れば空気感からの脱出という意味で当然の行動だろう。

とはいえ千秋の心の中に、自分を原因とした一抹いちまつの不安があったのは間違いない。

 そうこう考えている内に舞衣とそれに引っ張られるように水衣がこちらにやって来る。

「お帰りなさいませ、お嬢様じょうさま方」と千秋がお辞儀じぎをする。

それに舞衣は「ただいまーっ」と千秋のエプロンに抱きつこうとする。

ここで舞衣が自分に抱き着くとまた水衣が機嫌をそこねると考えた千秋は、少しだけ後ろに下がり舞衣の抱きつきを回避しようとする。

すると舞衣の両手はくうを切り、前傾姿勢のままで倒れそうになった。

流石にあるじ怪我けがさせる訳にもいかない千秋は、すかさずかがんで舞衣を抱えあげる。

舞衣の後ろで棒立ちになっている水衣に千秋が責めるような眼差まなざしを向けると、水衣は目を伏せた。

どうせなら水衣が後ろから抱えあげてやればいいのに、と千秋は思った。

何も知らない舞衣は

「ちょっと、なんで逃げるの」と再び千秋のエプロンに抱きつく。


 いくら千秋が水衣のジェラシーに気圧けおされていたとて、舞衣をエプロンから引きがすことはできない。

水衣が自分で引き剥がすほか無いのである。

その一歩が踏み出せない事には同情はすれど、当人以外がどうにかできる問題でもない。

千秋にとって二人の関係がギクシャクしているのは良い事では決して無いが、だからといっておもいをんで二人を結び付けても舞衣と水衣は満足するだろうか。

それでは結局のところ親同士で縁談えんだんが進んでいく事と変わりないのではないか。


 そんなことを考えていると、水衣が舞衣に後ろから抱きつく。

舞衣のお腹の辺りに手を回して肩に顔をうずめている。

「みーちゃん、どうしたの?」

舞衣が左側に振り返って尋ねる。

水衣は舞衣の肩に顔をうずめたまま、むんむんと声にならない声を上げている。

その行動が水衣なりのジェラシーの表現であることは確かであったが、舞衣は背中に少しくすぐったさを覚えて水衣の腕を解こうとする。


 水衣としても相互不理解そうごふりかいの現状を把握はしていても、それを打開だかいするような言葉を舞衣に投げかけることはできない。

それは均衡きんこう状態にある今の関係をくずしてしまうものであるし、失敗した時の損失は成功した時の利益をはるかに上回っている。

とはいえ機をいっすれば絶望的な結果をていすることは目に見えていた。

千秋やデイヴィッドが居る所で何をしたところで成果を生み出すわけでもないし、現に今も舞衣に拒絶されようとしているのだ。

 水衣の腕は自ずと舞衣の身体から離れていた。

舞衣は水衣の腕の感触がなくなったことに気がつくと、千秋から手を離して水衣の方を見る。


 舞衣は水衣の顔を見た途端、はっとして自らの行いをやまずにはいられなかった。

水衣のビー玉のような眼のふちには大粒のなみだが溜まり、今にも流れ出しそうなほどであったからだ。

舞衣はさっき感じた背中のくすぐったさが水衣の泪であったことにも気がついた。

何もそんな泣くことは無いのに、と思いつつもまるで幼子おさなごのように泣く水衣を優しく抱きしめて背中をさする。


 井部を始めとした神人課の面々には、この短い時間で二人に何があったのか把握はあくする事が出来なかった。

アデライードだけは水衣にささやかな憐憫れんびんと共感の情を覚えつつも、何も言うことが出来ずに押しだまっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る