第5話「ミルクのflavor」

 扉を引き開けて中に入り、教室を見回す。

熱気にあふれた廊下と違い、暖房がいているにもかかわらず涼しく感じる。

生徒はまばらで、廊下側と奥側で3人ずつ固まっているのが目につく程度だ。


 窓際の水衣の席へ向かうと、水衣は机の投影電算機とうえいでんさんきで何やら調べている。

横から画面をのぞき込むと、なにやら外国語らしき文章が並んでいる。

舞衣は外国語どころか勉強全般は出来ないので、思わず首をかしげる。

舞衣が来たことに気が付いた水衣は画面を触ってページを切り替える。

日本語表記に切り替わったそれはどうやら電子百科事典ひゃっかじてんのようで、どうやら「オットー」とかいう人についての記事のようだ。

 どうやら昔の人の様だが舞衣には誰かさっぱり分からなかったので水衣に

「この人だれ?」とたずねる。

 すると水衣は驚いた顔に一瞬なり、直後に

「まぁ...昔のえらい人?」と返す。

 水衣は続けて

「900年くらい昔の人で、今のゲルマニアの大元を作った人かな」と言った。

 ゲルマニアは流石の舞衣でも知っている。ヨーロッパを支配している大帝国だいていこくだ。

そのゲルマニアの大元を作った人物なら凄い人物であることは間違いないだろうが、正直いえば舞衣は歴史に興味が無かったので

「ふーん、それで?」と水衣に返す。

 水衣はうん、と画面の一ヵ所を指差して

「ここ見て」と言った。


 舞衣は水衣の指差した場所を見ると驚愕した。

そこにはオットーの皇帝としての在位期間が書いてあったのだが、それを見ると"1607年8月~1921年2月"と書かれている。

舞衣は目を疑った。当然のことだが人間という生物は長くても100年経てば死ぬものである、それを300年生きるなど人間には到底不可能な事であった。

その下の項目を見ると出生が1572年、死去は1921年と書かれているので、単純計算たんじゅんけいさんで349歳まで生きたことになる。

 何かの間違いかとさらに下の項目を見るとオットーの300余年にわたる統治、外征の記録が事細かに記されていた。

そしてどうやら歴史学者の見解としても、不合理ではあるが襲名制によるものという可能性は低い。

そのため、オットーには「不老帝」の二つ名もあるのだという。

 驚く舞衣を見て、水衣はこう言った。

「今日の朝、あの声が言ってたことを思い出してみて」

 そう言われて舞衣は、今朝あの声に言われたことを思い出す。

「定命を脱した...」

 舞衣がそう呟くと水衣は食い気味に

「そう!」と返し、続けて

「定命、すなわち寿命を脱するということは、何らかの外的要因で死なない限りは永遠に生きることが出来る」と語る。


 そんな興奮気味の水衣を見ながら、水衣の隣の席の椅子を借りて座った途端、舞衣は自分の内心に湧き起こる恐怖を感じた。

老衰によって自然死することが出来ないということは病気、事故、他殺、自殺、いずれにしても安らかに死ぬことが出来ないということである。

たとえ苦しみを得て死ぬことが無かったとしても、自分の知り合いや自分の子供でさえも自分より先に死んでしまう。

その事が舞衣は何よりも恐ろしかったのである。

 舞衣がその不安を口にすると水衣は舞衣の左手を両手でしっかりと握って、舞衣の方をまっすぐ見てこう言った。

「大丈夫、まーちゃんには私がいるから。」


 水衣には時折こういうこすい所がある。

まぁ、舞衣としても孤独になるよりは明らかに良いし、悪い気はしない。

むしろ、あのとき水衣を屋敷に置いて行ったとすれば水衣には先立たれ、永遠の孤独の中に身を置くことになっていたと考えるとそちらの方が余程よほど恐ろしい。

 舞衣が口を開こうとしたその時、水衣の毅然きぜんとした瞳の中に映る自分が面食らった表情をしていることに気が付いた。

確かに、今まで水衣がこんな直接的に自分への感情を言葉にしたことは無かったが、それでも水衣が自分に対して姉妹として以上の感情を持っていることには気が付いているつもりでいた。

しかし、いざそんな愛の告白にも似た言葉をかけられると驚いてしまうものである。

とはいえ水衣の気持ちを受け止めてやらねば、と舞衣は半歩ほど踏み込んで水衣の手に自分の右手を重ね合わせて

「そうだね」とうら恥ずかしいようなはにかみ笑いで返す。

 水衣のかたかった顔は一瞬もせずにゆるみきり、恥ずかしいような嬉しいような笑顔に変わる。

その刹那、水衣が身体を引き寄せて来たので舞衣は咄嗟とっさに仰け反って押し退ける。

教室内には少ないとはいえ人がいるし、ここでは流石に出来ない。

水衣は一瞬だけ憮然ぶぜんとした表情を浮かべるが、すぐ時計を見て

「休み時間、あと三十分だしお昼にしようか」と言って千秋を呼んだ。

 天井裏から颯爽と現れた千秋が購買こうばい部に昼食を買いに行く。

千秋が戻ってくるまで、二人の間には長い沈黙が流れる。

他の生徒の話し声も鳴りをひそめて、どこかへ行ってしまったのか声量をおさえているのか舞衣は気にはなったが振り返れる気はしない。


 一方、千秋が購買部へ向かうといつものように注文するより前に商品が出てくる。

森村もりむら屋のあんパン4つに牛乳とほうじ茶、あわせて五えんと四十五せん

千秋は五圓紙幣と一圓紙幣を一枚ずつ出し、お釣りを受け取る。

白銅はくどうの五十銭が照明を反射してまぶしく光る。

教室への帰路を急ぎながら、千秋はふと水衣と舞衣の間に妙な緊張感が流れていたことを思い出した。

朝、車の内で何か話していたことが関係あるのだろうか、だとしてもあの二人ならすぐりを戻してべたべたしていることだろう。などと考える。


 千秋が教室に戻ると、意外にも水衣と舞衣は二人とも黙りこくっていた。

水衣は電算機でんさんきをいじり、舞衣は机に頬杖ほおづえを突いて虚空こくうを眺めている。

千秋は袋からあんぱんを取り出して2つづつ両人りょうにんの机に置き、ほうじ茶を水衣の机に、牛乳は舞衣の机に置く。

そして

「早く仲直りしてくださいね、色々と面倒なので」

と言い置いて天井裏に戻っていった。

 千秋が去ると、水衣はほうじ茶の缶を開けながらねた口調で

「それで、なんはなししてたっけ」と横たわった沈黙を押し退ける。

 舞衣は机上のあんぱんに伸びていた手を止めて

「寿命がどうとか...」と答える。

 水衣はほうじ茶に口をつけた後、電算機の電源を切って前を向いたまま机に伏し

「そう、それで...」と長々と話し始める。

 末端まったん小粒しょうりゅうがどうとか、酵素こうそ活性かっせいがどうとか、舞衣には水衣が何の話をしているか皆目見当もつかない。


水衣がある程度話したところで舞衣は話の腰を折るように

「やっぱり怒ってる?」と尋ねる。

 水衣はバツが悪そうに窓の方を向き

「別に」とだけ答える。

舞衣は即座に

「さっき、私に何しようとしたの?」

たたみ掛ける。

 水衣は泣きそうになる。

てっきり自分の想いが伝わったのだと勘違いして調子に乗りすぎてしまった。

穴があったら入りたい最悪な気分だ、それにもしこの一件でまーちゃんに避けられてしまったら生きていけないかもしれない、などと思考がめぐる。

心の声が騒ぎ立てる、ただでさえ普段はほぼ一日中一緒にいるのにそれ以上を求めるのは我儘わがままだと。


 舞衣は水衣が黙りこくってしまうと廊下の方を振り返る。

どうやら教室には二人以外誰もいないようだ。

舞衣は反射的にとはいえ、水衣が身体を引き寄せてきたのを押し退けてしまったのを内心で悔いる。

水衣がどういうことをしようとしていたかが想像できたからこそ人目を気にして押し退けたけれど、誰も居ないなら水衣を押し退ける理由は特段とくだん無い。

窓際へ向けられた自分の視野からは教室内の様子は殆ど見えないが、水衣の視点からならば教室内に他の生徒が居るかどうかは認識できるだろう。

とにかく、この状況はどうにか解決しなければならない。


 舞衣は椅子から立ち上がって水衣の机に近づいてしゃがむ。

そして机に突っ伏す水衣の頭をツンツンとつつく。

水衣が反射的に顔を上げ、目頭から一滴ひとしずくが流れ落ちるその刹那せつな、舞衣は水衣の頬に口付ける。

 水衣の顔が一瞬にして紅葉を散らしたように染まる。

舞衣も気恥ずかしさに顔を若干赤らめつつも、

「これで...いい?」と水衣に尋ねる。

 水衣は恥ずかしさに顔を真っ赤にしてうつむきながら

「うん...」と呟くように答える。

 舞衣は水衣の前の席の椅子を借りて水衣と向かい合わせに座り、元いた席からあんぱんと牛乳缶を移した。

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