第4話「平穏と喧騒」

 7時41分、舞衣まい水衣みい侍女じじょである桐野千秋きりのちあきの運転するセダンに乗り込んだ。

千秋は乗り込んできた舞衣と水衣に木永きなが金鵄きんしゼリーを一つずつわたし、扉を閉めると電源を入れる。

千秋がつけた淡いベルガモットの香りがただよっている。

ゆっくりと加速していく車内で、舞衣が

「どれくらいで着きそう?」

と尋ねると千秋は

「まぁ...待っても30分で着きますよ」と答える。

後部座席で金鵄ゼリーを頬張ほおばる姉妹に千秋は

「それにしても夜間に無断外出なんて、どうしちゃったんです?言って頂ければ私は別に...」と尋ねると舞衣が食い気味に

「まぁ、色々あるの、色々」と返す。

すると水衣が

「千秋には言っといた方が良いんじゃない、お父様よりはよっぽど」と耳打ちする。

 舞衣もまぁ...別に千秋になら言ってもいい気はするけど...、と思いつつ逡巡しゅんじゅんする。

とはいえ侍女じじょなのだから隠したところでいずれバレるであろうことは予想できるので、

そうなるくらいならあらかじめ言っておいた方が得策とくさくかもしれない、舞衣はそうかんがえて

「実は...」と父に話した事と同じことを話した。

すると千秋は舞衣の直観ちょっかんと予想に反して


「へー、神様ですか、それはすごいですね。私もぜひ手合わせ願いたいです」

 などと真に受けているのか、のうみその九割が筋肉で出来ているのかどちらにせよ好感触。

てっきり頭のおかしく人を見るような反応をされると思っていた舞衣は面食らい、思わず

「狂人の戯言ざれごとだとか、思わないの?」

 などと要らない墓穴ぼけつを掘り返してしまう始末、しかしそれに対しても千秋は

「まぁでも、陛下へいかのご先祖も神様ですしそういうこともあるんじゃないですかね」と答えるばかりで、舞衣もまぁ信じてくれてるならいいか、と考えつつ、自身の卑屈ひくつさに現象げんしょうを一番信じられていないのは自分ではないかとさえ思う。

 一方そのころ水衣はといえば舞衣と千秋が話している間、金鵄ゼリーを飲み終えて手持ち無沙汰ぶさたを解消するように長靴下ストッキング越しから足をさするような事をしつつ窓の外を眺めていた。


 8時7分。三人の乗った車は學習館がくしゅうかん正門近くの月極つきぎめ駐車場に駐車。

千秋が扉を開け、舞衣と水衣が車を降りる。

千秋がスカートの裾を軽く持ち上げ、右足を左足の後ろに回して膝を曲げ

「お気を付けていってらっしゃいませ、お嬢様じょうさま方。」

とお辞儀をするのに舞衣と水衣は

「いってきます」

と返して正門方面へ向かう。


 もうすぐ正門というところで、矢倉やぐらさくらが話しかけてきた。

彼女は舞衣と水衣の母である眞紀まきの妹であり東雲しののめ則忠のりただ侯爵こうしゃくの妹でもある早紀さき、その娘であるからして姉妹にとって従姉妹いとこにあたる。

矢倉友正やぐらともまさ海軍中将かいぐんちゅうじょう子爵ししゃくの娘で、桜の祖父である規正のりまさが姉妹の祖父である具能ともよしの部下であった関係から同い年で従姉妹なのに敬語で話しかけて来る。

「おはようございます、水衣さん、舞衣さん。」

水衣は軽く会釈えしゃくし、舞衣は

「おはよう、桜さん」と返す。

 見るたびに花のような人だと舞衣は思った。

自分の子女としてのあるべき姿を求められ重圧を受けた表情、それとは対照的な桜の屈託くったくのない笑顔のまぶしさに思わず顔をそむけてしまいたくなる。

左手に水衣、右手に桜と並んで歩いているとまさしく、といった感じになる。

まぁそんな事を水衣に言ったら怒られてしまいそうではあるけれども。

「それにしても桜は宿題しゅくだいがどうだとか、正直くだらないと思ってしまうような話題わだいばかりだ、私と水衣は朝から大変なことになっているというのに」と舞衣は思った。

とはいえ、桜が軽い話題で話を盛り上げようとしているのは伝わる...。

正直、舞衣自身はこういう時にどういう会話をすればいいのか、分からなかった。

水衣もそうだが、生まれながらに箱入り娘で他人との距離感がどうもつかめない。

と、そんな事は今はどうでもいい。

朝から色々な事が起こりすぎて、思考が上手くまとまらないのを自分でも感じる。


 8時11分、そんなこんなで一行は學習館の正門前に着いた。

官立學習館がくしゅうかんさかのぼること2世紀前に華族かぞく教育の場として開校され、現在でも水衣と舞衣や桜のような華族の子女のみならず、皇室こうしつの子女を教育する機関としても役割を果たす。

中等科と高等科の入る3とう4階建ての校舎は白亜はくあ殿堂でんどうしょうするに相応ふさわしい偉容いようを誇り、幼稚園や初等科も含めたその敷地も東京都区部の学校の中ではぐんを抜いて広大で、緑豊かな環境である。

各生徒は基本的にその門地もんちによる区別をされず、それはある生徒にとっては救いであり、ある生徒にとってはそれは非常に退屈なものであった。

 20分の始業には間に合いそう、一行はそう感じながら昇降口しょうこうぐちまでの鈴懸すずかけ並木を急ぐ。

木葉このは隙間すきまから差し込む朝の光がまぶししくちらつく並木を抜けて長針ちょうしんが14分を指す頃、昇降口にたどり着く。


 始業時間がギリギリということをあって昇降口は生徒でみ合っていた。

三人が属する中等科4年の教室は、昇降口のある第1棟からわた廊下ろうかを渡った第2棟の4階にある。

恐らくこの学校の中では最も昇降口から遠い位置であろう。

一行は急いで第一棟の階段をけ上がり、渡り廊下で第二棟へ渡る。

舞衣は渡り廊下を渡って一番手前の4組、水衣と桜はそれぞれ一番奥の2組と1組なので、廊下で別れてそれぞれの教室に入る。

 舞衣が教室に駆け入り、時計を見ると時間は8時18分、なんとか始業時間には間に合ったと胸を撫で下ろしつつ窓際の席に着く。


二十分にっじゅっぷんになると担任の與謝野よさのが教室に入って来て出席点検を行った後、週初めということで近衛このえ文嘉ふみよし校長の朝礼の講話こうわは10分にもわたり、さっき飲んだ金鵄きんしゼリーのおかげ血糖値けっとうちが上がって眠くなってくる。

 睡魔すいまに襲われた舞衣が現実げんじつ世界から離脱りだつしようとしていたその時、校長の講話は終わり、舞衣は現実世界へと引き戻される。

與謝野よさのは朝礼が終わったのち教室から出て教員室へと戻る。

舞衣は立ち上がり、眠気覚ましついでに露台ベランダに出て風に当たる。

眼前がんぜんにはさっき通った並木、そこから少し湿った冬の南風が吹く。


 1時限じげん目は数学、2時限目は物理、3時限目は漢文、4時限目は地理、どれもつまらないものだった。

授業に出席さえしていれば高等科、ひいては大学への進学が保証されているとはいえ、公家こうけの令嬢として生まれた限りは東雲家からとついできた母の眞紀や鮎川あゆかわ家に嫁いだ叔母おばの京子の様に、同じく華族の家や名家に嫁ぐのは舞衣にとって運命といっても差し支えなかった。

この學習館がくしゅうかんがかつては男女別学べつがくであったものを共学化したのも時代を経るにつれて減少していく華族の命脈めいみゃくを保つための遠大えんだい見合みあいの場であることは周知の事実であったし、舞衣自身もそれを否定するつもりは無い。

ただ...。


 その時、時計の針は12時40分を指し、4時限目の終わりを告げる振鈴チャイムが鳴る。

級長が号令をかけると地理教員の牧野は足早に教室を出て、生徒たちもそれに続くように学生食堂や学年共用部きょうようぶへと向かう。

舞衣は他の生徒たちがあらかた教室から出終わった後、教室から廊下に出て右手に曲がり、水衣のいる2組へと向かった。

 昼休みの廊下は、共用部で談笑だんしょうする生徒と食堂へ向かう生徒で賑やかであった。

舞衣はそういった喧騒けんそうとは縁もなく、好まないどころか嫌ってすらいたので足早に2組への道を急ぐ。

2組の扉の前に立ち、小窓こまどから中を覗くと窓際の水衣は何やらしている。

 舞衣は扉の引手ひきてに手を掛けると、ガラガラと音を立てて引き開けた。

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