[4] 少年

 目覚める。一瞬だけ戸惑うがすぐに思い出す。

 自分は辺境にやって来たのだ。

 起き上がる。窓を開いて朝日を眺める。

 眼下には森が広がる。黒紅の森。そのずっと先は山脈が視線を遮る。

 山並の向こう側には魔の領域があるという。

 蜩が自分で確認したわけじゃない。人から聞いただけの話だ。


 実際にそこに足を踏み入れて帰って来た人間は少ない。蜩の知る範囲ではいない。

 魔力の極端に濃密な地域であるらしい。故にその場所に住む動植物は大きく変性している。

 そんな土地で人間が生きていけるのだろうか? わからない。

 自分たちとは隔絶された人種が暮らしているという話はあるが疑わしい。


 階段を降りる。初めて降りる階段。そのうちいやでも馴染むだろう。

 海鼠はすでに起きていて食堂の掃除をしていた。

「何か食べるかい」

「ああ。頼む」

 胸の傷は痛む。けれども食事ができないほどではなかった。


 冒険者は体が資本だ。食える時に食い、眠れる時に眠る。

 できる限り早く回復させておきたいところだ。この村には冒険者が足りない。

 いやもっとはっきり言ってしまおう。この村には冒険者は蜩1人だけだ。

 昨夜、海鼠に

「こんな危険な地域なのに?」

 と聞いたら、

「事件と言えるような事件がここ数十年起きてないからなあ」

 と寂しそうにつぶやかれた。彼自身、何か思うところはあるようだ。


 恐らく海鼠も長らく人員の不備を本部に訴えてきたのだろう。

 けれどもそれは受け入れられることはなかった。

 あるいはその訴えの末にやってきたのが盛りを過ぎたロートル1匹か。

 まあそんな老いぼれでも時間稼ぎぐらいはしてやれるだろう、蜩は自嘲した。

 そのためにもやはり体調の回復は急務と言えた。


 バターつきのパンを食い、お茶を飲む。

 窓の外では木々の上を小鳥たちが滑るように飛んでいく。

 虫追鳥だろうか。街の方ではみかけなかった。久しぶりに見た気がする。

 鍬を担いでよったよったと農夫が歩いていく。

 全員が顔見知りの世界でそれに紛れ込んだよそ者と言えば自分くらいのものだ。

 ここはまったく静かな土地だ。


「おっさん、いるかー!」

 入り口の扉が勢いよく開く。

 現れたのは赤毛の少年。鋭い目つきにその生意気な性格がよく出ている。

 名前は確か野焼。つい昨日、藍鉄熊に殺されかけたというのにまったく元気なものだ。

 若いというのはそういうことなのかもしれない。


 彼はこの店の隣にある孤児院に住んでいるという。何か海鼠にでも用があるんだろうか。

 そんなことを蜩がぼんやり考えていたところ、ばっちりその少年と目が合った。

 野焼はそのまままっすぐにカウンターに向かってくる。まさか用があるのは自分の方か?

 嫌な予感がした。長年危ないところで生きて自然身についたもので特に根拠はない。


 そんな程度の直感で避けられる厄介ごとなんて少ない。大抵気づいた時にはもう避けられない。

 だったらそんな能力が何の役に立つというのか。迫ってくるトラブルに多少の覚悟ができる。

 いきなり殴られるよりは、殴られると分かって殴られる方がまだダメージを減らせる。

 心の防御体制をとることが可能というわけだ。


 野焼はぴったり蜩の目の前までやってきて立ち止まった。

 もうどうとでもしてくれの気分。どんな面倒な頼み事でもとりあえず聞くだけ聞いてやろう。

 少年は何やら緊張しているようですぐには口を開かない。随分とじらしてくれる。

 ようやくのことで意を決して正面から蜩をにらみつけると、少年は腹の底から声を発した。

「おっさん、頼む、俺を弟子にしてくれ!」


 予想していた通りに困ったことになった。

 自分の身の振りすらまだ定まっていないのに、さらに子供の面倒までみろとは。

 ひとまず視線を逸らす。逸らした先の海鼠は食器を拭く手を止めずにやりと笑った。

 笑っている場合じゃないだろうに。お前の所の冒険者が今まさに困っているんだぞ。


 一旦話し始めたとなると野焼の言葉は止まらなかった。

 彼はもともと蜩のやってくる前から冒険者にあこがれていたのだという。

 理由はよくわからないが、ガキの頃というのはそんなもんかもしれない。

 蜩も過去を振り返れば『なんとなく憧れて』がスタート地点だったような気がする。


 自分がいかに冒険者に向いているか、また昨日の蜩がいかにかっこよかったかについて野焼は熱弁する。

 褒められて悪い気はしないが、蜩もいい歳だ、気恥ずかしさがそれを上回る。

 やめてほしい。せめて小さな声にしてくれ。

 はたしてどうしたものだろうか。多分少年は熱に当てられている状態だ、冷静でない。

 こういうときはひとまず機械的に手順にのっとって物事を進めていけばいい。


「保護者を呼んでくれ」

 蜩は海鼠に簡潔に告げた。

 子供を勝手に冒険者にするわけにはいかない。彼が孤児院暮らしといっても責任者ぐらいいるだろう。

 場合によってはその保護者からストップが出る。それだったら話は簡単でそこでおしまいだ。

 熱く語りつづける野焼の言葉を半分聞き流しながら、蜩は救世主の到来を待つことにした。

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