[3] 辺境

 日が沈むにはまだ時間があった。森へと足を踏み入れる。

 探索の基本は観察だ。よく見、よく聞き、よく感じ取る。五感のすべてを使って些細な変化も逃さない。

 そのためにはできれば平素の様子を知っていた方がいい。違和感に気づきやすくなる。

 つまりは経験がものを言う作業だ。自分のような中年冒険者の得意分野だなとひぐらしは思った。


「どのぐらいやってるの」となりを歩く向日葵ひまわりが話しかけてくる。

 一瞬何のことかわからなかったけれど冒険者のことを言っているのだとわかった。「20年ぐらいになるかな」

「長いんだね。冒険者稼業ってすっごく危険だって聞いたけど」

「その通りだよ。他の仕事より死亡率は高い。大ケガして引退したやつもたくさん知ってる」

「やっぱり……なんで冒険者なんてつづけてるの?」

 それに答えず蜩は向日葵に立ち止まるよう手で制した。


 太い木の幹に刻まれた新しい傷跡。中心の深く一番長い線は荒々しく波打つ。

 海鼠なまこの悪い予感が当たった。どうやら状況はまずいことになっているらしい。

「戻って海鼠さんに伝えてくれ。森の浅いところに藍鉄熊あいてつぐまがうろついた形跡がある」

「わかった」賢い娘だと蜩は思う。彼女は詳しい説明なしに自分の指示に従ってくれる。

「俺はもっと深いところに潜ってみる」森の奥へと子供の足跡がずっとつづいていた。

 のんびりしている暇はないようだ。蜩は地面を蹴って走り出した。


 少年の残した痕跡は非常にわかりやすい。そう簡単に見失うことはない。

 足跡は深く深く森へと入っていく。それがつづいていることに安心と不安を覚える。

 つづいている限りその時点での生存は確かだ。一方で深く入るほどに危険度は増大する。

 どこかで折り返してくれればいいのだが。もちろん残念なことに帰りの足跡は見つかっていない。


 遠い記憶がよみがえる。冒険者のまねごとをして森へと入った。

 いつも浅いところで遊んでいるんだ。ちょっと深く入ったところで大丈夫だろう。そんな風に思って。

 自分は運がよかったな。蜩はつくづくそう思った。

 勇気があったわけじゃない。何が危険なのかまるでわかってなかっただけだ。


 森に怒号が響き渡った。重低音が葉っぱをびりびりと震わせる。

 木々をかき分け突き進む。不意に目の前が開けた。

 藍鉄熊はその太い右腕を高々と掲げる。赤黒い目は敵意に満ち満ちている。

 赤毛の少年はしりもちをついていた。あるいは腰を抜かして動けないのかもしれない。

 蜩は腰にさしたナイフを抜き取る。熊に向かって投げつけた。


 狙いは適当。当たればどこでもいい。ダメージは期待していない。

 脇腹に命中。深くは刺さらない。敵意をこちらにむけられればそれで十分。

「立てるか」

「無理だ」今にも泣きそうな少年の声。

 仕方がない。蜩はその首根っこをつかむと藪の中へと放り投げた。

 これで絶対に安全とは言えない。それでも捕食者の前で動けないでいるよりはましだ。


 目をそらさずに正面に立つ敵の姿を観察する。さてどうする?

 何の準備もできていない。無力化するのはまず不可能だと考えていいだろう。

 藍鉄熊は黒い後ろ毛を逆立てている。興奮しているのが見て取れた。

 このままお互い何にもなしで「はいさよなら」とはいきそうにない。

 幸いなことがあるとすればこの辺りはまだ藍鉄熊の生息域ではないということ。

 向こうも深追いしてくることはないはずだ。


 短剣を抜き放つ。その白い輝きに触発されて熊は低くうなり声をあげた。

 集中しろ。すべては一瞬で決まる。

 先に動いたのは藍鉄熊。蜩へと一歩踏み込んだ。その凶悪な右腕を振り下ろす。

 その動きに反応する。対照的に蜩は一歩下がった。下がりながらがら空きの胴を薙ぎ払う。

 体の中心に衝撃が走った。爪が肉をえぐり取っていく。激烈な痛み。声が出ない。

 同時に手ごたえ。確かに切っ先が相手へと触れたという感触があった。


 距離をとって両者再度にらみ合う。動かない。双方傷を負う。痛み分け。

 いや自分の方がひどいかな。蜩は自分の状況を冷静に眺める。集中はまだ切らさない。

 ふと熊の体が弛緩するのが見えた。後ろ毛が和らぐ。目から暗い光が消える。

 そうだそれでいい。このままやりあったって得るものは少ない。お互いこれでよしとしようじゃないか。

 じりじりと後ろに下がって距離を開けていく。背中を見せてはいけない。


 どれだけの時間がかかったのかわからない。藍鉄熊の姿が生い茂る木々の向こうへと完全に消えてしまった頃にはすっかり夕日が差していた。

 森を出る。終始無言。どちらも語るべき言葉を持たない。

 海鼠と向日葵が待っていた。どっと緊張がほどける。野焼のやきは向日葵に駆け寄ると抱きつくなり泣き出した。


「どうだった」海鼠は簡潔に問いかける。

「藍鉄熊と遭遇。交戦するも相打ち、どうにかこうにか退いてもらったよ。当分浅いところに出てくることはないだろうが警戒するに越したことはない」

「よくやってくれた。ありがとう」

 投げかけられたままだった向日葵の質問、案外これがその答えなのかもしれなかった。

 夜の闇に少年の泣き声だけが響く。口の中で声に出さずに笑った。何がおかしいわけでもないのに。

 頭の中につまらない、ありふれた警句が浮かんでいた――人生は長い。

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