第38話 飯田一星★ボロボロのヒーロー
視界が閉ざされた瞬間、体が宙に浮いた感覚を覚えた。
薄れそうな意識。
確かな血の匂い……。
その奥に、洗いざらしたシャツの匂いを感じた。
宇佐美……?
細身ながらがっちりとした筋肉質な背中は汗でべっとりと生ぬるい。その奥底からはドクドクと病的な熱を感じる。
その背中に飯田は乗せられていた。
頭からは何やらシートのような物を被せられている。
一瞬、視界が閉ざされたのはこのせいだったのだ。
僅かに炎の熱が和らいでいる。
「うっ、う……。ゲホッ、ゲボッ……」
宇佐美君! と声を出そうとして、激しく咳き込んだ。
宇佐美もまた、ふらつきながら口元をタオルのようなもので抑えて、こちらを振り返った。その表情は苦しそうだった。怒っているようにも見える。
「飯田! 無事か?」
その声に、かぶりをふり、ジェスチャーで応える。
宇佐美はさっきまで意識を失っていた。
回復してよかったという安堵と共に、深い傷の上に自分が乗せられいる事に罪悪感を抱く。
宇佐美は、まだ火の手が回らない柱を伝うように、逃げ道を探している。
大きな口を開けているテラス側の出口は、炎に塞がれている。
頭を振って、退路を探す事を諦めない宇佐美。
「あっちだ!」
キッチンの横の勝手口はまだ火の手が回っていなかった。
宇佐美は、ふらつきながらも確かな足取りで、まっすぐドアに向かって歩いた。
そうしている間にも、通せんぼするかの如く、炎が広がり始める。
「まずい、急ぐぞ。しっかり掴まれ」
わずかな奥底の力をふり絞るように、宇佐美は力強く脚を踏み出した。
しかし、火だるまになった水木が、のたうち回りながらすぐ背後に迫っている。
もう、唸り声は止まっているが、最後の力を振り絞るように、仁王立ちになり炎の中からこちらを睨みつけている。
小柄な体は炎を纏って、倍以上の危険なバケモノに変わり果てていた。
飯田を背負った宇佐美の足取りでは、到底逃れる事は不可能に思えた。
「宇佐美君、ゲホッ、下ろして……ください。ゲホッ……。宇佐美君だけ、逃げてゲホッゲホッ……」
「喋るな! できるだけ静かに呼吸をするんだ。服で口元を覆え! そして……振り返るな! あれはもう、先生じゃない」
飯田を背中に乗せたまま、柱を伝うように、一歩一歩、力強く扉に近付く宇佐美。
伸ばした手が寸でのところでドアノブに届きそうだった。
――その時。
すぐ背後で、バリバリバリバリーーーという音が耳をつんざいた。
天井が焼け、水木の上に崩れ落ちたのだ。
その瞬間――。
宇佐美は、弾かれたようにドアに体当たりした。
不意に空いたドアから、二人同時に地面に投げ出された。
脱出成功!
うううーーーっと、蹲っているところ、ガシっと腕を掴まれた。
「早く離れよう。こっち側もそのうち火の手が回る。急ぐぞ、ケホッ」
「宇佐美君……」
引っ張られるまま、ふらふらと立ち上がった。
宇佐美は飯田の腕を、首の後ろに回した。
「歩けるか?」
「はい、ゲホッ、大丈夫です」
「宇佐美君ゲホッ、僕は……もう、死んでもいいと、ゲホッ……思ってました」
焼けるように脈打つ喉から必死で声を絞り出した。
「わかってたよ。お前がいつでも死を覚悟してたの。けど、あの時……お前、死にたくないって言っただろ! 俺はその言葉を信じたかった。絶対に死なせないって自分に誓ったんだ」
「やっぱり、ゲホッ、どうしたって……ゲホッ、宇佐美にはゲホッゲホッ、敵わないですねゲホッ」
背中はまるで戦いに敗れた兵士のように血みどろで、すすだらけ。
こんなにボロボロになってもなお、自分なんかを助けに来てくれるなんて。
「何いってるんだ。俺は、後悔したくないだけだ」
二人で支え合いながら、表に向かって歩く。
まともに歩く事ができないのは、ゴロゴロと小石が転がる道を、素足で歩いているせいばかりではない。
酸欠に、火傷。宇佐美は背中に深い傷を負っているのだ。
中腰で、一歩一歩、賑やかにサイレンが轟く方へと歩みを進める。
ゴーゴー、バチバチ、バリバリと音を鳴らしながら、炎はバケモノのように大きくなっていく。
遠くで消防のサイレンが鳴り響いていた。
ようやく、表側に回ると、赤々としたパトランプがずらりと並んでいて、まるでお祭り騒ぎだ。
救急隊員が声をあげた。
「いたぞー! こっちだー!」
零子、佐倉。相沢専務……。
あれは、みんなの両親だろうか。数人の大人たちが目を赤く腫らしている。
子供たちの危機を知り、みんなの両親が駆け付けたんだな。
「瑛太ーー!」
初めて見る宇佐美の父親。無茶をした息子に文句の一つも言ってやりたいだろうな。
飯田の祖父母もいる。
「一星……」
いつもは幻覚な祖父が、涙を流しながらこちらに向かって両手を広げ、駆けてくる。
―――ああ、僕も……愛されていたんだ。
誰もが驚きと安堵。歓喜。不安。いろんな物が入り交ざった表情でこちらに手を伸ばす。
みんなが喜んでくれている。
命を歓迎してくれている。
その光景を視界に収めながら、飯田は多幸感の中、意識を手放した。
遠くで「飯田ーーー、飯田――――――」と叫ぶ、宇佐美の声だけが、脳内でこだましていた。
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