第37話 飯田一星★いつか君を超えるヒーローに・・・
和重は、にわかに立ち上がり、ポケットに手を突っ込むと何やら取り出した。
小型のナイフだ。
ゴツゴツとした鞘から刃を露出させ、何のためらいも見せず零子に近付いた。
零子が殺される?!
「や、やめろー!」
飯田は、ナイフを再び水木に突きつけて叫んだ。
和重は表情を変える事なく、零子に向かってナイフの刃を向けた。
「い、いや」
零子が小さく悲鳴をあげる。
その直後。
ズサっと音がして――。
零子の腹の縄が切られた。続けて、手足を拘束しているガムテープを切り裂いた。
同じく佐倉の拘束も解き放ち、こう言った。
「人手がいる。手伝え」
怯え、ふらつきながら立ち上がった二人は体を支え合うように寄り添った。
「何を手伝えっていうのよ」
零子は涙声だ。
「しげ子。消毒液とありったけのタオルを持ってこい。包帯の代わりになるような物も。シーツか何か」
水木は絶望の色を湛えた表情で、体を左右に振った。
「兄さん、どうして?」
半ば狂ったように、悲鳴じみた声をあげる水木。
「この子達を殺しても、双葉はもう救えない。俺たちも、もう終わりだ。この子達を殺す意味はなくなった」
「宇佐美を、助けてくれるの?」
零子の問いに、和重はうなづき、横たわる宇佐美の横に膝をついた。
「医師免許を持つ者として当然だ」
言いながら宇佐美の手首を取り、脈を計る。
水木は青白い顔のままふらふらと立ち上がり、キッチンの横の部屋に向かった。
和重は、宇佐美のシャツをまくり上げ、傷の具合を確かめる。
「傷はさほど深くない。神経を傷つけてなければいいが……」
「宇佐美ー、死なないで。お願い……」
零子は、血だまりに膝間づいた。いつも強気な零子はまるでか弱い女の子のように、涙で頬を濡らしている。
「救急車を呼んでもいいですか?」
飯田が訪ねると、和重はうなづいた。
「ああ、頼む」
飯田は急いで、ポケットからスマホを取り出した。
「もしもし、相沢さん。聞こえますか?」
『ああ、全て記録済みだ。今、急いでそちらに向かっている。救急車も手配しているから安心したまえ。よく頑張ったな。見事な立ち回りだった。宇佐美君は心配だが、全員無事で本当によかった』
その声にヘナヘナと全身の力が抜ける。
震える指で通話を終了した。
「もうすぐ、警察と救急車が到着します」
飯田は、ガソリンを埋めた後、スマホに登録していた相沢のメールアドレスに、位置情報と共に、以下のお願いを送っておいたのだ。
双葉と水木は姉弟関係にある事。
もしかしたら、部員たちが危険に晒されるかもしれない事。
そのために、常に電話に出られる状態にしておいてほしい事。
スピーカーの音声を記録して、危険と判断したら警察に通報してほしい事。
通話を繋げたら、相沢側の声がこちらにもれないように、スマホを消音モードにしてほしい事。
そして、拘束から解放されたタイミングで、ポケットの中でこっそり相沢に電話をかけたのだ。
作戦は全て上手く行った。
深く息を吐いた、その時だった。
濃い血の匂いを覆いかぶせるような、灯油の匂いが鼻を突いた。
安堵から一転して、不安が押し寄せる。
この家には数台の石油ストーブがあった。
中身が空だとは限らない。
水木が正気を失う可能性もゼロとは限らないのだ。
足元にダラダラと流れてくる液体は、紛れもなく灯油の匂いを放っている。
「危ない!」
そう声をあげたのは和重だ。
「逃げろ!」
目線の先には、正気を失って、虚ろな目をした水木。
手にはライターを持っている。
「双葉を救えないのなら、生きていたって仕方ないわ。双葉の秘密を暴いたあなた達が憎い! 全て燃やして、跡形もなく消えるのよ。みんな……一緒に……」
水木はそう言って、自分の服に火を点けた。
「うううううーーーー、んあああああーーーーー」
叫び声は静寂を切り裂く。
自ら灯油をかぶったのだ。
小さな火種は水木の服を這うようにして膨れ上がっていく。
ジリジリ、パチパチと音を放ちながら異様な匂いをまき散らす。
「逃げろーーーー!!」
和重が宇佐美を背負った。
「早く!! 外に出ろ!!」
「んんんんああああああーーーーーーーーーー」
炎に包まれながら、水木が迫って来る。
こんなショッキングな場面があるだろうか。
つい先ほどまで一縷の希望があった。これまで水木と共に過ごして来た時間の中で培った関係性が自分たちを救ってくれるはずだと。
出来る事なら、改心して罪を償ってほしかった。
昨日まで紛れもなく、水木は担任であり顧問だったのだから。
それが、正気を失い火だるまになって、自分の命を奪いに来る。
パチパチと炎は音を立てて、更に成長していく。
床に燃え移り、瞬く間に火の海を作った。
テラスに続く大きなガラス戸を開けて、和重が先陣を切る。
それに佐倉と零子が続く。
宇佐美はどうにか、和重によって外に運び出された。
飯田の足元には、メラメラと炎が立ち上っている。
顔を、目を、体を熱しながら迫って来る。
よかった。みんなが無事に助かって、本当によかった、と飯田は思う。
もはや、足元から立ち上る炎と背後でのたうち回る水木に、勝てる気はしなかった。
強烈な匂いと熱が喉を焼き、意識を遠ざける。
咳き込みながら、床に沈んだ。
ああ、もう死ぬんだな。これで終わり……。
そう思った瞬間だった。
パトカーのサイレンが鳴り響き、にわかに世界が色めきだった。
炎の向こうの世界は楽園だ。
飯田は地獄に堕ちる覚悟を決めた。
元々、そのつもりだったのだ。
自分が犠牲になってでも、みんなを守りたかった。
宇佐美を超えるヒーローに、いつかなりたいと思っていた。
胸が苦しくなり、意識が朦朧とし始めた。
視界に靄がかかり、歪みだす。
その時、急に真っ暗になり、視界は閉ざされた。
その直後――。
脱力した体が、ふわりと浮いた。
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