5-6

 深淵の暗黒から、無数の腕が生えていた。

 何対になるのかわからないが、それらは銘々が違うハンドサインを見せている。

 その無数の腕を持つはぐれは、町内の上空を周回しているらしい。あまりに上空にいて、最初は誰も気がつかなかったらしい。ひとりが気がつけば、あとは連綿と悲鳴が続く。うねうねと腕は動き、そこから粉塵めいた瘴気が周囲に降り注いでいた。

「あの手のやつ……仏像で見たことあるかも」

 つぶやいた紅香の袖を、多娥丸が引いてきた。

「紅香、おまえは怪我をしてる。はぐれはおまえに吸い寄せられているようなんだ。だから安全な場所に避難していてくれ」

 周囲に聞こえないように、鼻先をつき合わせるようにした多娥丸は声を落としてくれている。

「わかった。あのさ、多娥丸くん」

 紅香も声を落とした。

「私死んだとき、多娥丸くんあっちにいたでしょ」

 眼前の多娥丸の表情が凍りついた。

「思い出したの、最期の記憶。びっくりした?」

 わあ、と悲鳴がいくつも上がる。

 はぐれが持つ無数の腕が、動きをはやめた。旋回しつつも下降し、蜘蛛の子を散らすように住人たちが逃げ惑っている。

 怪我をしている紅香は、はやく走ることができない。避難するならいまが最後の機会だろう。歯を食いしばって多娥丸たちについてきてしまったが、内心失敗だった、と後悔していた。

 風に乗って、はぐれから音が届く。木が裂けるような音だ。

「なんだあれは、あんな密度ははじめて見た」

 伏丸はどこか嬉しそうだ。

 小森は民家を指差した。

「紅香ちゃん、婆ァさんと一緒に隠れて」

「でもみんな……」

 心配したところで、紅香がいたところで、なんの役にも立たないのはわかっていた。だがもし絵に描くことができて、それが封印までに間に合えば、多娥丸の身体の負担を軽くできる。

 矢立と紙は持参している。紅香ははぐれを凝視した。施徳寺の仏像を思い出す。本堂には二体の仏像があった。どちらも古く、しかし一体は大きな亀裂の入ったものだ。

「伏丸さんがいるから大丈夫だ、紅香ちゃん。あのひとは強いから」

 小森が伏丸を一瞥する。その視線は緊張したものだった。

「知り合いだったの?」

「知り合いじゃないけど、統治官はみんな知ってる。強くて、おっかない」

 兄の多娥丸が高官であるように、もしかしたら伏丸もそうなのかもしれない。

「さあ、いって」

 斤目の手にも背を押されるが、紅香はできるだけはぐれの姿を目に焼きつけようと上空を凝視する。

 背を押すそこに、多娥丸の手が追加された。

「紅香、すまない。俺もおまえがびっくりするようなことを――いわなくてはならない」

「え? いま?」

 彼は耳元にくちびるを押し当てるようにしてきた。

「た、多娥丸く――」

「おまえはまだ死んでいない」

 紅香は心底驚いていた。



 逃げこんだ民家には、近隣住民が何人も避難していた。

 紅香を見るなり、多娥丸さんとこの、と声が上がる。

「ねえ、多娥丸さんたちどうだっていってた?」

 問いかけられても、紅香は返事をしなかった。

 床に紙を広げ、矢立から筆を取り、その場で集中しはじめる。

 目に脳に焼きついたはぐれの姿を、そこに写し取るのだ。

「ちょっとおねえさん、聞こえてる? 怪我もしてるみたいだし、絵なんて描いてないで――」

 背中にかかった声が止まる。

「斤目さん、だってさ、その子いま絵を描かなくったって……」

 間に入ってくれたのは、斤目のようだ。

 ――いまでなければ駄目だ。

 伏丸がはぐれを石にするよりも、書物に封印したほうがいい。石だと解くのに時間がかかると聞いている。それだけ閉じこめられている期間が長いのは不憫だ。落合も智弥子も、惑いたくて惑ったわけではない。誰かを傷つけたくて瘴気を振りまいたわけではない。あの無数の腕の持ち主も、なにかあったはずだ。

 たっぷりと墨を吸った筆で、紅香はアタリもなにもないまっさらな紙片に集中する。なにも描かれていない紙の上、そこにあるべき姿を紅香は見つけた。一筆一筆に気持ちをこめ、それを顕現させる。こもっていくそれは通力と呼んでいいものかもしれない。

 ――三途の川、渡るんだよ。

 はぐれのハンドサインの意味はわからない。だがきっと意味がある。誰も彼もが、たくさんの意味の集大成だ。

「……すごい、上手」

 地響きが聞こえる。はぐれの立てる音なのか、おもてに気持ちが向かいそうになった。歯を食いしばる。絵だけに気持ちを向けていたい。集中できるなら、歯など噛み砕いても構わなかった。

「はぐれの絵? あんなの描いてどうするの」

「いやだ、気味が悪い」

「だけどさ、あの子の絵……おもてのはぐれとそっくりだ」

「そうだねぇ、本物のはぐれみたいだよ」

 真円のはぐれを塗り潰そうとしたが、持ちこんでいた墨では足りなくなっていた。

「墨……ど、どこかに墨は――この家のひと、いますか? 墨、ありませんか?」

 顔を上げ、紅香は叫ぶようにして周囲に問いかけた。住人はどこにもおらず、墨の在処がわからない。

 ――描き上げる。

 紅香は迷わなかった。

 頭の包帯を取り、その下にあった貼り薬に手をかける。

「い……ったい!」

 貼り薬をむしり取ると、そこから新たな出血がおこった。

 傷だけでなく、頭全体がずきずきする。血が頭を流れ、ひたいを落ち、頬に垂れてきた。それを指に取ると、紅香は紙に塗りつける。

 けっこうな怪我をしているのかもしれない。顎先から滴り落ちようとする血も、紅香ははぐれの絵に塗りつける。

 黒と赤とで完成された絵を持ち、紅香は立ち上がった。

「多娥丸くん――描けた!」

 よろめき、絵を突き出すがひざが笑って土間に崩れ落ちる。それを斤目が引き受けた。一瞬で視界から絵が消える。斤目が届けてくれる。もう大丈夫だ。

「あんたなにしてるの、怪我してるのに……!」

 女性が手を貸してくれて、紅香は土間でしゃがみこんでいた。

「絵に……はぐれを」

「なにいって」

 説明する言葉は出てこなかった。

 頭が痛む。戻ってきた斤目の手が、紅香が外した包帯をかき集めていく。また傷に貼り薬を当てようとするとき、目に入ったのはひどい出血を思わせる血糊だった。

 おもてはどうなっているのだろう。

「おばあちゃん……多娥丸くんたちは」

 斤目の手がなにか話しはじめる前に、おもてから歓声が聞こえてきたのだった。

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