5-5
目を開けたときに誰もいなかった部屋で、紅香は痛みに呻いた。
「瓦って、痛いんだなぁ」
屋根から蹴落とされた瓦が降ってきたことを覚えている。
肩、背中、首、腕、頭。
あちこちが痛い。
寝かされている場所は、多娥丸邸の離れの部屋だ。
それだけで事態は無事終息し、救助されたのだと安心できる。
安心し、それから怪我をしたことで叱られるかもしれない、と不安になった。
痛みを堪えながら身を起こす。頭から身体から、あちこちに包帯が巻かれている。頭の包帯など、表面がなんだか湿っている。鏡をのぞくと、赤いものが滲んでいた。
痛みのなか、紅香は離れから出ていく。
空は赤く、その光景を見慣れているものの、夢を見たからか青い空が恋しくなっていた。
のどの渇きを覚え、紅香は台所に足を向ける。
利き手である右手は無事だ。どこも痛くない。いまの状況で、紅香はそれが嬉しかった。絵を描くのに支障はないだろう。
勝手口をのぞくと、そこには小森がいた。
「あ、紅香ちゃん。起きていいの?」
「そうだ……瓦が落ちてくるとき、小森さんの声がした気が……」
「そうそう、俺俺。紅香ちゃんが逃げようとしないから、びっくりしちゃったよ」
台所のなかをするすると斤目の手が動きまわり、よく冷やしてあるお茶とゆで卵を出してくれた。
ゆで卵を目にした途端に、紅香は空腹を覚える。
「小森さんが助けてくれたんですか? ありがとうございます」
「うーん、正確には多娥丸さんと伏丸さんが駆けつけたから……」
小森の前にもゆで卵が出され、ふたりとも口にする。口のなかの水分が持っていかれ、揃って無言になっていた。
黙りこくっていたからだろう、足音が近づいてくるのがよくわかる。
「……ん、伏丸くんの」
「おい、小娘がいなく――なんだ、ここか」
紅香が部屋から消えたため、斤目のもとに駆けつけたようだ。
「呑気によく卵なんぞ食っていられるな」
横から斤目がゆで卵を載せた小皿を差し出す。
ぷるんとした卵をつかみ、伏丸もそれにかぶりついた。
やはり口のなかの水分を持っていかれたのか、言葉もなく彼は身振りでこっちにこい、と指示してきた。
口をもごつかせ、伏丸について歩きはじめる。小森もついてきており、角の生えた上背のある男性に前後を挟まれ、なんだか連行されているような気分になってきていた。
「紅香、無事か」
居間に入ると、多娥丸が腰を上げようとする。
「うん、すわってて、多娥丸くん」
卓袱台を囲み、元も現役も休職中も合わせ三人の統治官と顔をつき合わせる。
すぐに斤目がお茶を人数分運んできてくれた。
「婆ァさんにぐらいなにかいっていけ、無断で出かけては駄目だ。もし小森がいなければ、おまえは重症を負っていたかもしれない」
湯飲みの湯気を見ていた紅香は、視線を正面の多娥丸に移すと、ぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい。先にはぐれの絵を描けたら、多娥丸くんが楽かなって思って……」
「……さては伏丸がなにか入れ知恵をしたな」
そのとおりだが、紅香は否定も肯定もしなかった。
「あるていど調査したんだが」
伏丸が大きな声を出す。入れ知恵について、彼はふれられたくないようだ。
「……なにかわかったって顔してる」
「わからないわけがないだろう」
「自信あるやつ?」
「そのとおりだ。ここ最近のはぐれの出没傾向を兄さんが図にしてくれたから、わかりやすかった――原因はおそらくおまえだ、小娘」
卓袱台の脇から、伏丸が大きな紙を取り出す。開示されたそれは、矢印などでそれぞれの項目が連結された相関図だった。字はともかく、図の部分がぐねぐねとしていてよくわからない。
「おまえの近くにはぐれが出ている」
「紅香ちゃんは……俺たちと違いますね」
きっぱりとした伏丸の声に、小森のつぶやきが被さった。
「さっき怪我した紅香ちゃんにさわったとき……頭から出てた血にさわったとき、わかりました。紅香ちゃんは違うって」
「血? ああ、それなら婆ァさんが片づけていたが……まだありそうなら、俺もためしておきたいな」
「それなら兄さん、ここで小娘の傷を開けば」
伏丸が物騒なことをいい、血相を変えた小森が大きく手を振った。
「やめてください、そういうの! これだから
「俺たちのものはひとつも無駄な戦いではないぞ、小童」
「俺はもう統治官じゃない、そんないわれようを受ける義理はないよ」
ぱん! と多娥丸が大きく手を打つ。
「……それで? 血にさわって、どうだった」
「その……通力が湧き出してました。流れたそばから消えるけど、紅香ちゃんそのものには満ち溢れてる」
「通力って……多娥丸くんから消えてるやつ?」
紅香が伏丸を見ると、多娥丸もおなじく弟を見た――ただし、そちらはひどくにらみつけるものだったが。
「余計なことはしゃべるな、伏丸」
「小娘が兄さんに迷惑をかけるのを止めさせたいんだ」
「多娥丸くん、私もそう思ってる……できることはしておきたいの」
だから、と紅香は言葉をつないでいく。
「どうして多娥丸くんは……」
現世にいたの。
――紅香はそれを口にできなかった。
あれはただの夢ではない。
紅香の記憶だ。
木にのぼっていたのは、最期にのぞきこんできたのは、間違いなく多娥丸だった。
現世にいた――理由はなんだろう。
「紅香?」
尋ねなければ、先に進まない。
知らなければ。
紅香が息を吸いこんだとき、多娥丸邸に来訪者があった。
「――多娥丸さん! 多娥丸さん! 助けてください!」
悲痛な声に、紅香の頭から考えていたことがすべて抜け落ちていった。
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