5-4
紅香は数日の間、斤目の手伝いと、硯をすることだけに時間を費やしていた。
ほかにやることが思いつかない。
お使いがないかと斤目に尋ねるが、どうやら紅香の身の安全を気にかけてくれているようで、すべて断られている。
はぐれとして異質だったからかもしれないが、多娥丸は紅香を助けてくれた。面倒見がいいのは確かだ。そうでなければ身体が悪いのに、はぐれの封印を町のためにおこなったりしないだろう。
――多娥丸の手助けをしたい。
絵を描くことならできる。
紅香はたっぷりでき上がっている墨を見下ろした。
●
紅香は矢立と厚紙に挟んだ紙を持ち、そっと多娥丸邸を出た。
軽く巡回してみよう、と思い立ってのことだ。
もしこのあたりにはぐれが出ていて、見つけることができたら姿を確認し――逃げ出す。
どこかでひとまずスケッチできるならそれでいい。無理そうなら、多娥丸邸に戻ってから描き出せばいいのだ。
多娥丸邸の周囲をぐるりとまわるが、とくになにもない。
紅香が多娥丸のもとで暮らしていると知る近所の住人が、道の先から手を振ってくる。
挨拶してくれているのではなく、こっちにおいで、と呼ぶ気配もあったが、紅香は会釈だけして離れた。
世間話をするならいいが、彼らはなにかいいたげな顔をしているからだ。話を聞くのはいいのだ、その最中に紅香はボロを出してしまうかもしれない。
目の前の紅香がはぐれだと知ったら、みんなどんな顔をするだろう。
「あら、多娥丸さんとこの……」
通りかかった軒先から声がかかり、こんにちは、と手を振り返して紅香はそそくさとそこを離れる。
――なんで私、ここにいるんだろう。
多娥丸に助けられなかったら、瘴気をまき散らすはぐれに変じていたかもしれない。
「あんまり、家から離れたくないんだよなぁ」
想定よりも多娥丸邸から離れてしまっている。戻ったほうがよさそうだ。
はぐれのスケッチはできていないが、出没していないならそれに越したことはないのだから。
「居成さんとこ、寄ろうかな」
画板の作成にどのくらい費用がかかるか、尋ねてみようか――居成組に向かうため道を折れると、紅香は上空に黒いものが飛来するのを見つけた。
「あ……っ」
それは足だった。
くるぶしから下だけの、巨大な一対の黒い足だ。
それはあちらへこちらへ、高いところを自由気ままに動き回る。スキップをしているような動きで飛び回る。それが動いた後には、軌跡のように黒々とした瘴気がまき散らされていた。
「はぐれ……!」
紅香の悲鳴に、周囲の通行人や民家から悲鳴が続いた。
混乱が起こるなか、逃げろ、という声を拾った紅香は走り出していた。
――あれのスケッチができれば。
――多娥丸の役に立ちたい。
「も、もうちょっと近くに……」
動きがはやい。あと少しだけでいいから、姿を克明に目に焼きつけたかった。
ふっとそれがどこかに消え、紅香は姿を求めあたりをきょろきょろと見回す。
「お、お姉さん、こっちこっち、危ないから……!」
避難しようという住人に反して、はぐれを追いかけるわけにもいかない。紅香が呼ばれたそちらに向かおうとしたとき、また現れたはぐれが屋根の上で地団駄をはじめた。
「きゃああ!」
いくつもの悲鳴が重なり、屋根からは踏み荒らされた瓦が大量に落ちてくる。
「や……っ!」
そのひとつに肩を打たれ、紅香は声も出せないほどの痛みでその場に倒れこんだ。視界には無数の瓦が振ってきている。下敷きになったら、きっと痛いどころの騒ぎではないだろう。
「紅香ちゃん、あぶねぇ!」
小森の声を聞いた気がした――目を閉じ頭を庇った紅香はいくつもの衝撃を感じ、意識が暗転していった。
●
これも納戸といっていいものなのか。
実家や祖母の家の納戸と比べものにならないくらい、施徳寺のそれは広いものだった。
「これをどう片づけろっていうんだろ」
完全に他人の家の物置だ。迂闊に動かせない右の物を左に移す。それだけでも家主に許可を取りたいくらいだ。
納戸の一角、古い箪笥があった。
紅香は近づくと、そっとその引き出しを開ける。
「ああ……やっぱりきれい」
そこにしまわれているのは水墨画だった。
猫住職こと井戸端住職は趣味の会を主催し、水墨画と書道を教えてくれる。
参加費は一回二百円。
画材や道具は別料金での貸し出しで、できれば持ちこんでほしい、と。
徴収される二百円があるていど貯まったところで、駅前の市民ホールの一室を借りて展示会をする。
引き出しのものは、すべて住職の描いた作品だ。そこにしまわれていることは、昔から変わっていなかった。
それは紅香が絵を描きはじめたきっかけだ。
おさないころには凄まじい名画に見え、井戸端住職の書画は紅香の憧れだった。いまでも素人作品と思えないほどの魅力に溢れている。
こんな絵を描けたら、と思っていた。
いまは変わり、こんな絵は描けないと痛感している。だがこの絵が好きで、好きになれたことを大きな幸運だと感じる。
「描きたいなぁ……いまも趣味の会やってるのかな」
そのとき、ぐらり、と一瞬視界が揺れた気がした。
「え……地震?」
警戒し、かたわらの壁に手をついた。
じっとあたりをうかがうが、揺れている様子はない。
「気のせい、かな」
地震が起きていないなら、とほっとしてまた歩き出そうとした紅香は、視界に青いものを見つけて動きを止めた。
「あ、どこの子?」
口から言葉が出ていた。
かたわらの木の上に、子供がいた。
「よくのぼれたね、自力?」
あたりを見回すが、はしごなどは見当たらなかった。
子供――少年は紅香に背を向け、さっと反対側に飛び降りてしまった。すばやく走り去り、どこかにいってしまう。
用心深いのはいいことだ。いきなり知らない相手に話しかけられたのだ、距離を取られても文句はいえない。
「のぼると、いい眺めなんだよね」
紅香は周囲を見回す。
誰もいない。
のぼってみよう、と決めるには、格好のタイミングだった。
捻れ曲がった太さがある木で、登る取っかかりは十分あるといっていい。
なのに、紅香はなかなか登れなかった。腕や背中に力をこめ続け、暑くて汗が噴き出してきている。
「む……昔はのぼれたんだけどな……」
せめてあそこの枝までは、と目指すゴールを設定する。あるていど登ってしまったからか、いまさら納戸からはしごを持ってくるのはいやだった。
「あ……れ?」
揺れた――目眩かもしれない。
だがそう思ったときには、紅香は地面に落ち、身体は叩きつけられていた。
痛みを感じず、そのことが恐ろしい。
空が青い。
まばらな雲の白とコントラストが美しかった。
これまでいくらでも目にしてきたように思うが、格別に美しいものだった。
それもこれもきっと、と紅香は薄れていく意識のなかで考える。
――きっと私、死ぬんだ。
すべてが一瞬の間のことだった。
誰かがのぞきこんできて、紅香は自分が地面に仰臥していることを知った。
――あ、角。
のぞきんでくる顔、そのひたいの左右には、一対の角が生えていた。
そして目を閉じた覚えもないのに、紅香の視界は真っ暗になっていった。
意識が暗転し、次に目を開いたときには――様々なことを忘却した紅香は、常世に立っていたのだった。
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