5-3

 おかしなことが起こるようになっていった。

 目に見えて紅香のまわりに、はぐれや亀裂が集まりはじめていた。

 伏丸が多娥丸邸に滞在しているため、対処は楽だった。

 だが周囲の住人たちが怯えるようになっていく。

 多娥丸のもとを訪れ、陳情のようにはぐれへの恐怖と不安を口にする彼らに、紅香は息苦しさを覚えていた。

 その日も近所のものが数人で差し入れを抱え、多娥丸邸を訪れていた。

 赤い外套と角を持つ伏丸が対応し、統治官の自分も詰めているため安心するように、といって住人たちを帰していた。

 離れの窓からそれを見守っていた紅香は、不安が胸で高まっていくのを感じていた。伏丸が詰めていることで安心できるだろうが、それは異常事態だというお墨付きになるのではないだろうか。

「あの方が伏丸さん?」

 落合の囁き声がする。

「うん、多娥丸くんの弟さん」

「見た目じゃわからないものですねぇ、多娥丸さんのほうがどう見ても幼く見えるのに――といってる僕も、しゃべる本なので見た目じゃどうにも、ね」

 ふふ、と落合が笑う。

 紅香もちいさく笑った。

 ここだと見た目はなんら意味を成さない。

 怯えてもいいものを、夢だと思っていたから紅香にはそれがなかった。斤目のどこまでものびる手も、とくに怖いと思うことがなかったのだ。

 廊下をやってくる足音がし、ふすまが急に開かれた。

「な、なに?」

 伏丸だ。

 なにもいわずにそんなことをするなら彼だろうと思ったが、ほんとうに伏丸が立っていて紅香は動揺していた。

「なにかあったの?」

「そいつか」

 伏丸の目が書物に――落合に注がれる。

「ふ、伏丸くん」

「家のなかでなにやら気配がしていて、小娘かと思っていたが……べつのがいたのか、それはなんだ?」

「それは……多娥丸くんに訊いてください」

「兄さんの手を煩わせるのは」

「私だと事情が把握できてないかもしれないから、適当な説明になりかねないの。だから多娥丸くんに訊いて」

 言葉を重ねた紅香に、伏丸は口ごもった。そしてうなずくと、ずかずかと部屋に入ってきた。

 無言で落合の封印された書物を手に取り、廊下に戻りながら紅香を肩越しに一瞥する。

「こい、兄さんに訊く」

 これは断らないほうがよさそうだ――紅香は無言で彼についていった。



 伏丸は書物の絵をしばらく見つめていた。

 時折目を上げると、紙面と紅香を見比べる。

「……これを、ほんとうに小娘が?」

「そうだ」

 それも数度目のおなじ質問と返答だ。

「きょ、恐縮です……」

 伏丸の視線に耐えかねてか、落合が声を上げた。

「兄さん、小娘の絵は……この先使い続ける気?」

「そこはわからん。ただ紅香の絵があったほうが、封印が楽だった。まあ、紅香に頼り切りになるのも……」

「兄さんが楽ならいいじゃないか。どんどん描かせよう」

 書物をめくっていき、伏丸は食い入るように見つめている。伏丸の目には、ただの書物として映っていないのかもしれない。居心地が悪いのか、ときどき落合が唸っていた。

「最近はぐれが増えてるのって、どうしてだかわかった? 相手の姿がわかれば、絵も描けるし」

「それについては俺がいま調査している」

 紅香が口を開こうとすると、伏丸は書物を鼻先に突きつけてきた。

「兄さんも俺も忙しい。おまえはこいつと離れに引きこもっていろ」

 出ていかせろと主張していた伏丸が、今度は紅香に離れにいろという――趣旨替えかと尋ねたくなったが、紅香はおとなしくしたがった。最近ははぐれの現れる頻度が高い。動くならふたりのほうが動きやすいだろう。なにせ兄弟なのだから。

 とはいえ、離れでじっとしているのも気が滅入る。

 紅香は斤目からいらない紙をもらい、ばらばらになっている大きさを切り揃えはじめた。絵を描きやすい大きさにし、厚紙を折って間に挟む。

「画板でもあったら、楽かもしれませんね」

「そうですね。今度居成さんに頼んでみようかな……私、無一文なんですけども」

「僕もです」

 落合とふたりでふふ、と笑っていると、廊下をやってくる足音がして急にふすまが開かれた。

「ふ、伏丸くん!?」

 こんなことをするのは彼だろう。姿を確かめる前に紅香は声を上げ、案の定そこにいたのは伏丸だ。

「な、なんか忘れ物?」

「いや――釘を刺しにきた」

「私刺されるの!?」

「馬鹿か。あまり兄さんのまわりで騒ぎ立てるな、兄さんは療養中なんだ」

「え」

 思いがけない言葉で、紅香は反応が遅れたほどだ。

「……まさか、そんなことも知らなかったのか?」

「ここで……はぐれの封印しながら暮らしてる、閻魔庁の下請けのひとだと思ってるんだけど……違うんだ?」

 伏丸の顔にあからさまな侮蔑が浮かんだ。

「兄さんは休職中なだけで、滅法院めっぽういんの長官だ」

「……長官のところしかわからないけど、もしかして上の……えらいひと?」

 伏丸の侮蔑は崩れない。

 彼は部屋に入ってきて、紅香の前に腰を下ろした。

「様々な部門がある。簡単にいえば、兄さんは道理を外れたものを正す部門を治めてる」

「休職中っていうのはともかくさ、それだけ上のひとなんだったら、ほかの統治官に頼れないの? 無理なのかな。はぐれが出てるのって、よくないことなんでしょう? そういう状況をなんとかしといたほうが、多娥丸くんだって身体を休めやすいよね?」

「はぐれが現れるのはよくはないことだ。だが基本的に閻魔庁は、やってくる死者をさばいていく場所だと思っていい。橋を渡ってからがその管轄なんだ」

 すっと血の気が引く感覚がした。

 ここは橋の手前だ。

「なにが起きても……ここだと閻魔庁には助けてもらえない……?」

 伏丸は無言だった。

 それは肯定であり、多娥丸が一目置かれ、頼られている理由を悟ることができた。

 ――助けてくれる統治官は、多娥丸のみ。

 いまは伏丸も手を貸してくれているが、通常は多娥丸ひとり。

「管轄外なのに、どうして多娥丸くんは……」

「兄さんがここで暮らしはじめたのが先だ。平野に小屋だけ建てさせて、そこで療養をはじめたんだ――何百年も前に」

「何百年……」

「徐々に暮らすものが増え、町になっていった。閻魔庁のあたりに大きな町がある。その先には里も。そういった場所に合わず、あぶれた奴がここに流れ着きはじめた」

「そんなに前から……多娥丸くんは身体を悪くしてるの?」

「そうだ。なぜだか通力が……俺たちが様々なことを成すために必要な力が、兄さんは損なわれていく。だから子供の姿になって、できるだけ楽に暮らせるようにしているんだ。身体に悪いところは見つからないが、閻魔庁に復帰させるわけにもいかない。まあ、おまえにこんな事情を話すわけがなかったな」

 紅香が事情をまったく知らなかったことに、伏丸は気をよくしているようだった。

「多娥丸くん、ここのこと……常世の自治区っていってた。統治官は明かりみたいなものだけど、ここだと遠すぎて暗いって。実際は明かりじゃなくて、加護の話だって」

「兄さんらしいな。いまは兄さんがここで明かりになり、住人たちを照らしている」

 自治区として成立させているのは、多娥丸本人だ。

「身体が、治るまで?」

「……おそらくは」

 その後のことを尋ねるのが怖い。

 なにより、多娥丸の身体のことが心配だった。

「静かに暮らしてほしいんだが、封印の技に兄さんは秀でてる。閻魔庁はここに町が発展したことに目をつぶるかわりに、兄さんにここのはぐれ対策をさせている。できなくても、そこには閻魔庁は関与しない」

 紅香は初耳だが、町の住人にそれは周知されている気がした。

 ――だからこそ、はぐれが現れると多娥丸を頼るのだ。

「もしかして、私のこと……私がはぐれだってわかっても伏丸くんが放置してるのって、自治区内のことだから?」

「放置というわけじゃない。統治官でありながら、この事態を放置するわけにはいかない。はぐれとしておまえは異常だ。即座に閻魔庁に連行し、調査すべきなのだろうが……おまえを兄さんが離れに住まわせているのは、問題になりかねん」

「……問題?」

「問題になる前に揉み消す方法がないか、いま俺が探してるところだ」

「揉み消すんだ……」

「とにかく、おまえは自分の立場を理解しろ。今後兄さんがいいといっても、移住を俺が提案したらしたがうんだ。兄さんは面倒見がいいが、いい加減町だのおまえだの、自分以外のことに目を向けてほしくない」

 多娥丸の回復の妨げになっている――足音も荒く伏丸が離れを出ていき、紅香は畳に仰臥しため息をついていた。

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