5-2

 酒を買うなら酒屋だ、何度かお使いのときに前を通ったことがある。多娥丸邸から見て、大工の居成組の先にあった。

 夕飯時だ、すでに道を歩くひとの姿は少なくなっている。

 居成組の明かりが見えてきたとき、その戸が開いた。

 知った顔が出てきた――小森だ。

 ばんしゃーくにたのしいおーさけ。おさけおさけ。

 彼が口ずさむ歌を聴き、紅香は驚いてしゃっくりのような声を漏らした。

「お? なんだい紅香ちゃん、ひさしぶりだねぇ」

「こんばんは、あの、その歌って……」

 小森は酒くさく、上機嫌そうだ。

「前にさ、紅香ちゃんとこに羽織見せにいったことあるだろ? あのときどっかから聞こえてきたんだよなぁ。あの声、誰だったんだろ、小耳に挟んだら抜けなくなっちゃって……ぼちぼち口ずさんでたら、ほかの連中も覚えたみたいでさぁ」

 小森が立ち話をはじめたからか、居成組の若い衆がのぞきにやってきて、それから居成が顔を出した。酒盛りの真っ最中だろう、小森だけでなく全員が赤い顔をし機嫌がよさそうだった。

 焼酎のCMソングは、大工――居成組の若い衆を中心に流行ってしまったようだ。耳に残るものだから、これを消すのは難しいかもしれない。

 お酒を買いに、と出かけた用向きを話すと、居成組から酒が差し出された。

「こないだお裾分けをもらってるしな、持ってってくれるかい」

 わらわらと出てこようとする若い衆をしっしと追い払い、居成が大振りの酒徳利を突き出してくる。

「え、いいんですか? みんなで飲んでるのに」

 居成は片手で軽々と持っていたが、受け取った紅香は両手で抱えこまなければ持っていられなさそうだ。重い。

「こういうのはみんなで飲むからいいんだよ。なに、多娥丸さん飲むって?」

「いえ、ええと……お客さんで」

「そうかいそうかい。つまみは斤目さんのがあるの? なんか持ってくかい?」

「いえいえ、大丈夫です!」

「多娥丸さんにお客なんて、閻魔庁の高官かい?」

「へっ」

「ああ、身分はおっしゃらないか。すまねえ、詮索しちまった」

 なかから小森が顔を出してくる。背後から居成の肩にあごを乗せ、楽しそうに顔を緩めた。

「そのお客さんってのも、立派な角を生やして?」

 紅香は小森のひたいの角に目が吸い寄せられた。

「俺も閻魔庁の統治官辞めてから、ずっとふらふらしてるんだよなぁ。また勤められないか当たってみようかなぁ」

「えっ、小森さんって統治官だったんですか?」

 紅香の驚いた声を冗談だと思ったのか、小森も居成も盛大に笑い出した。

「俺はたいしたことできなくってさ、下級文官止まりだよ。あっちにいたら、多娥丸さんと直接口なんてきけねぇや」

 ずり落ちそうになる酒徳利を、するりとのびてきた斤目の手を引き取ってくれる。斤目の手もまた、居成同様に軽々と持ち上げていた。

「長話しちまってすまねぇ。多娥丸さんによろしくどうぞ」

「は、はいっ、お酒ありがとうございます! 小森さん、飲み過ぎないでくださいね」

「おうよ!」

 明るい返事をしていたが、小森が深酒をする姿は目に浮かぶようだった。

 酒徳利を下げた斤目の手をとなりに、歩きはじめた紅香は口を開く。

「多娥丸くんって、統治官だったんだ……知らなかった」

 返事を求めておらず、紅香は斤目の手の動きを確かめようとしなかった。

 帰り道、紅香は足がやけに重く感じられた。

 知らなかった。

 統治官のことを怖がっていたが、多娥丸もそうだったのだ。

 このことを多娥丸にいえば、また訊いてくれたらよかったのに、とそちらに話が転がっていきそうだ。

「まあ、封印した本つくったりしてるんだもん、多娥丸くんが閻魔庁と関係あってもおかしくないかぁ」

 斤目を見れば、落ちこむな、とでもいうように手のひらを動かしている。

「小森さんもそうなんだね……もしかして、統治官ってみんな角生えてるの?」

 そうだよ、と斤目の手が動く。

 居成をはじめ、周囲は多娥丸に一目置いている。以前紅香が彼の角をつかんだりしたのは、大変なことをしでかしたのかもしれない。

「帰ったら、私もおばあちゃんの煮物食べよ……」

 つぶやいたとき、妙な音を嗅いだ。

 音を聞いたでもなく、においを嗅いだでもない。

 自分の感覚がおかしくなった――即座に紅香は周囲に首を巡らせる。

「あ……っ」

 木材置き場になっている空き地のなかほどに、したしたと音を立てる泉があった。ただそれはひたすら黒く、粘り、瘴気をまき散らしている。

「亀裂……?」

 空いている斤目の手に背を押され、紅香は足を動かす。着物と草履は全力疾走がしづらい。いっそめくってしまおうかと考えたとき、目の前に赤い外套を着た伏丸が落ちてきた。

「下がれ、小娘!」

 一方、道からは多娥丸がやってくる。

 紅香はそちらに向かって走った。たどり着いた多娥丸に肩を抱き寄せられ、空き地を振り返ったときにはもう亀裂は跡形もなく消えていた。

「あれ? どこに……」

 地面から伏丸がなにか拾っている。

 彼はそれを紅香に向けてきた。

「石……?」

 それは平べったい石で、紅香から離れながら多娥丸がうなずく。

「あいつはああやって封印する」

「……本にするんじゃないんだ」

「俺もあのやり方はできるが、石だとまた解くのに時間がかかる」

 伏丸にも会話は聞こえていたのか、石を紅香に突きつけてくる。

「書物にできるのは兄さんだけだ。兄さんだけの技術なんだ」

「そっか……多娥丸くんすごいんだ」

「その通り、兄さんはすごい」

「でも、伏丸くんもすごいね」

「……伏丸、くん?」

 呼び方が気に入らなかったのか、伏丸は顔を歪める。思い起こすと、直接彼の名を呼ぶのははじめての気がした。

「ありがとう、伏丸くんがきてくれたから助かったんだと思う」

 素直に礼をいうと、伏丸はなんともいいがたい顔つきをした。

「気配を察知して、伏丸が動いたんだ」

「そうなの? すごい」

「まあ……そうだな、まあ、もう帰るぞ、小娘」

 嬉しいなら喜べばいいのに――とは、さすがにいうことはなかった。

 多娥丸がとなりを歩きはじめるので、紅香は彼に向けて下唇を突き出した。

「なんだ? 怪我でもしたか?」

「ううん」

「……怖かったのか?」

「そりゃあね……組のとこ通りがかったら、居成さんと顔合わせたんだけど……お客さんがきてるならどうぞ、ってお酒差し入れてくれたよ」

 下唇を突き出しながらだとしゃべりにくい。

「そうか、あとで礼をしなければな」

「あのさ……多娥丸くんにお客なら、閻魔庁の高官ですかって。詮索してすみませんっていってたけど……」

 弟の伏丸が閻魔庁の統治官だとは知っている。

 ――多娥丸の身分を、紅香は彼から聞きたかった。

 素知らぬ顔をして、自分の身分を明かしもしなかった彼から。

 紅香が下唇を突き出していると、多娥丸は聞こえよがしなため息をつく。

「なにか聞いたか」

「聞きましたけどぉ?」

 下唇を突き出していると、声を出しにくかった。

「ふてくされるな、いったいなにを聞いた」

「小森さんもそうなんだってね」

 あごの先を多娥丸の角に向けてしゃくる。

「ああ――まあ、そうだな。そうか、それも知らないでいたか」

「それってわざと? 多娥丸くん、ほんとに気がついてないの?」

「……どっちだと思う?」

 紅香がため息をつくと、多娥丸が声を上げて笑った。珍しい。いいものを見たような気になって、紅香は下唇を突き出すのをやめた。

 視線を転ずれば、伏丸もまた目を丸くし、多娥丸の笑う声に驚いているようだった。

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