4-7
――花は美しかった。
伏丸がなにやら念じると、羽織の染みの上に花が現れた。
以前は黒々とした淀みだったが、いまは違っている。
薄桃の花弁を持った、大きく美しい花。
それは以前とおなじく、ゆっくりと開いていった。
「よ、っこいしょ」
中央からにゅっと手が飛び出てきた。驚いた紅香だが、すぐに手を貸す。
「智弥子さん」
「あらぁ、ここはどこかしら」
「ええと……なんというか、三途の川の手前あたりというか」
「そうなのね」
智弥子は窓の外を気にかけている。
「あっちのほう? そんな気がする」
「その通りです。のちほど案内いたしましょう」
返事をしたのは伏丸だ。
「あら……よろしいんですか? お世話になります……」
智弥子は伏丸と多娥丸の顔を交互にまじまじと見つめた。そういえばふたりとも、やけに整った顔立ちをしているのだ。それこそ智弥子が見蕩れるような。
「紅香ちゃんに会えてよかったわ。お礼をいいたくて」
「いやぁそんな、なんていうかおばあちゃんの知り合いだったとか……びっくりしました……」
「美智花さん、楽しいひとですよねぇ。私が知り合ったの、旦那さんを……紅香さんのおじいちゃんが亡くなった後だったの。もっとお話ししたかったわ」
それならば、紅香たち一家が引っ越しをした直後だ。
土蔵の二階に広げられている羽織に目をやり、智弥子は口元に手を当てた。
「この羽織……あれって夢じゃなかったのね」
暗い記憶をたぐる声だった。
「……なにか覚えてるんですか?」
羽織は小森が持ちこんだ。
陰干しをしていたら、何者かに汚されていた。
「ふらーっとこっちにきた覚えがあって、てっきり夢とか幻覚とか、そんなのだと思ってたんだけど……」
はぐれとして、智弥子はひと知れずにあたりを徘徊していたらしい。
「きれいな羽織が干してあって、ああお店の羽織とおなじだなって思っちゃったの。私みたいに……なにもいえずに黙ってるひとがいるのかなって」
背面には黒々とした染みができている。そこを智弥子はそっと撫でた。
「なにかで汚れたら、もう羽織は着られないだろうな、って考えたりもしたのよ。汚したら持ち主の誰かはもう羽織を着られないし、そうしたら……そのひとは好きなことをやっていけるんじゃないかなって」
自分の両手でお椀をつくり、智弥子は紅香に顔を向けた。
「こういうふうにしたらね、手のなかにコーヒーが出てきたの。いまだとそんな馬鹿なって思うんだけど、あのときはそれをぶちまけて……この羽織の持ち主の方に、迷惑かけちゃったわよね。事情なんて私がちゃんと知ってるわけじゃないし、そんなの思いこみじゃない?」
伏丸が外套の身なりを整えはじめた。
彼は智弥子と目が合うと、にっこりと微笑む。
「いきましょうか。ここではなく、いくべき場所があります」
「……はい」
多娥丸がうなずいた。
「伏丸、出られるようにしておいてくれ。すぐいく」
オートロックのようで紅香にはなかから開けられないものだったが、見下ろしていると伏丸は簡単に開けていた。土蔵の扉が左右に開かれると、強い風が吹き抜けていく。紅香の手元にあった書物のページがばさばさと鳴った。
紅香は短い時間、智弥子と落合に話をする時間をつくれないか、と考えた。もしそうするなら、いまは最後の機会だろう。
書物を見つめてみたが、落合はしゃべらない。
しかし落合ではなく、智弥子が口を開いた。
「思い出したんだけどね……私、お客さんの喜んでくれる顔は好きだったの」
「あれですか、生きがいっていうやつ」
「そうねぇ。うん……そうかも。私は絵の道にいけなかったけど、だからって……全部が失敗ってわけじゃなかったんじゃないかな」
おもてから顔をのぞかせた伏丸が手招いている。そうしている間にも、斤目が持ちこんだ荷物を風呂敷包みにまとめてくれていた。
閉めた二階の窓からは竹林が壁のようになっていたものの、扉から出ていくとどこにも竹は生えていなかった。
紅香は深く考えるのはやめた――が、目の合った多娥丸が、土蔵の鍵を閉めながら口を動かす。
「ここはなかと外で違う場所につながるようにしてある。ここにある本は全員眠っているものばかりだ」
「起きたらどうなるの?」
「起きたところで、それはそれだ。封印されているのは変わらないからな、時々は俺も様子を見にきてる」
「土蔵から出られなくなって、ちょっとびっくりしたよ」
「……伏丸がなにか
智弥子と並んだ伏丸が、紅香に冷たい視線を送ってくる。
「気取られたその後は?」
「……さすがにあいつは統治官だし、隠し切れなかった」
「だよねぇ、迎えにきてくれたとき、弟くんも一緒に来てたもんね」
ふたりのもとに向かい、紅香は智弥子と最後の挨拶を交わした。
おそらく今後は、二度と会うことはない。
「紅香さん、お世話になりました……元気でね」
「ありがとうございます。智弥子さんもお気をつけて」
智弥子は頭を下げる姿が――誰かに感謝をしめす姿が美しかった。
きれいなお辞儀ができる智弥子の、店で来客をもてなす姿勢がうかがえるようだった。
彼女は自分にはなにもない、と訴えていたが、そうなのだろうか。
薫芳園で彼女はずっと羽織に腕を通し、感謝を伝えてきたのだ。そうと気がつかないうちに、身についているものがあるのではないか。
春美と秋江姉妹がカフェで働く姿を紅香は思い起こす。
姉妹の浮かべていたような笑顔で、智弥子はお茶のかおりとともに働いていたのだろう。
●
封印の必要はなかったが、離れに戻った紅香は、羽織の背に花の絵を描いてみた。
スケッチブックにあった智弥子のそれとの出来映えを、比べるそうになったが紅香は頭から追い出した。
そのときコーヒーのかおりが鼻先に漂った気がし、自然と微笑んでいた。
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