4-5

 先を、と思ったところで、紅香になにが指定できるというわけではない。

 その場に強く残る感情と、となりにいる智弥子の求めるものが決めるのか、次に広がった光景はひどくやかましいものだった。

「……なにかやってるのかな。にぎやかですね、智弥子さん」

「もしかして……」

 リビングから階下をのぞくと、すぐになにが起きているのかわかる。

 ――カフェがオープンしている。

 そろそろと一階に降り立つ。

 すっかり内装は変えられ、薫芳園のころの面影はまったくなかった。明るい店内の席は利用客で埋まり、おしゃべりの声と店員の声とがよく混ざり合っていた。

 そろそろと店内を見て回った。

 新しい店独特の、なにもかもがぴかぴかの明るさを持っている。

 客が広げたメニューの表紙には、スケッチブックに智弥子が描いていた花がシンボルとして載せられていた。そして肝心のメニューは豊富で、どのテーブルの料理も満足度の高そうなものだ。

 それだけでなく、紅香は店名をメニューの表紙に見つけていた。

「ね、智弥子さん。カフェの名前、アサギだって」

 薫芳園で智弥子が袖を通していた羽織の色だ――しかし智弥子は顔をしかめていた。

「もっとほかにあるでしょうよ、ねぇ。このカフェのどこにそんなコンセプトが……」

「お茶屋さんに思い入れもあったんじゃないですか?」

「思い入ればっかり前に出してどうするのよ、もう」

 深いため息を智弥子はつくものの、あたりを目をやるうちにその表情は穏やかなものになっていく。

「店員さーん、ケーキってテイクアウトできるの?」

 入り口からかけられた声に、紅香は瞬時に身体を強張らせていた。

「はぁい、承れますよ――こちらのケースにあるケーキでしたら大丈夫です」

「繁盛してますね、おめでとうございます」

 紫に染めた髪にパーマを当てた、小柄な老女だ。半袖からのびた腕には、タトゥーシールで推しているジャズシンガーの名前が書かれている。

「お……おばあちゃん……」

 紅香がつぶやくと、智弥子は目を丸くする。

「え……ええっ、あなた美智花みちかさんのお孫さんだったの? やぁだ、ほんとに?」

 興奮しているのは智弥子だけではない。つないだままの斤目の手が、ゆさゆさと紅香の腕を揺すってくる。

「美智花さん、ときどきお茶飲みにきてくれてたのよ! 私と美智花さん、漢字が一文字一緒だから、ってきっかけで話すようになったの。もしかしたら生きてるときに、どこかで私たちすれ違ったりしてたかもしれないわねぇ!」

「そうなんですねぇ……」

 祖母の元気そうな顔を紅香は見つめていた。

 ここで顔を見られると思ってもみなかった。

 小動物のような愛嬌のある目が、店内を忙しなく眺めまわしている。

「今度孫が遊びにくるの、そのときの予習でなにかケーキほしくって……施徳寺さんが大掃除するっていうから、手伝いに駆り出しちゃった」

「あら、お孫さん優しいじゃないですか」

 店員――春美が笑顔になる。以前見たときより、少しばかり細面になっていた。

「あの子、施徳寺さんで絵を習ってたことあって……こっちにいる間に、ご住職にお願いして水墨画描いてるところ見させてもらえたらなぁって。そういう下心もあったりするのよね」

 その言い方は、まるで紅香がそう話していたように聞こえてしまう。思い出せない。施徳寺の大掃除を手伝う約束をしていたのだろうか。思い出せない。

 わかったことはひとつ、ここは――過去だ。

 終わってしまった時間のなかに紅香はいる。

 まだここでの紅香は生きていて、祖母の家にいく約束をし、施徳寺の大掃除を手伝おうとしていたのだ。

「お孫さんって絵を描くんですか?」

「そうなの。誰に似たんだか、とってもきれいな絵描いちゃうのよぉ」

 自慢げな祖母の声が苦しい。祖母が孫の話を楽しそうにする姿が苦しい。

「そうなんですか! よかったら、絵の具を持っていってもらえませんか? あの、母の物だったんですけど……ちょっと私たちだと宝の持ち腐れらしくて。ちょっと待っててくださいね!」

 美智花の返事を待たず、春美は二階へと走っていってしまう。

「あら……いいのかしら」

 つぶやいた美智花に、レジから顔をのぞかせた秋江が笑った。

「なんでも、いい絵の具らしいんですよ。あたしと姉のとこの子だと、そんないい絵の具使うようなことないし……絵を描くひとのところにいくなら、願ったり叶ったりです」

 無言になった紅香の前で、二階から紙袋を下げてきた春美が美智花にそれを渡す。なかを確認しているが、祖母はピンときていないようだった。

 紅香が羨望の眼差しを向けたものが、祖母に渡った。

 ――これはどういうことなのか。

 思い出せないままでいるが、紅香は絵の具を受け取ったのだろうか。

「ケーキもこちらの二点でよろしいですか? ドリンクチケットおつけしますので、次回ぜひお使いください」

「ありがと! どうせなら孫とお邪魔しますねぇ」

 会計を済ませた美智花が、カフェを出ていこうとする。

「ま……待って、おばあちゃん! 待って!」

 紅香は手をのばし、美智花の肩を指がかすめる――つかむことができなかったのは、とっさに斤目が引き戻してくれたからだ。

 ――あちらに、戻っていく。

 眼前が黒いものに飲まれ、そして紅香は瞬きひとつほどの間にそれを見ていた。

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